何に関心を持つのか

人は様々なものや事柄に、関心を持ちます。
しかし、全ての人が同じものに、関心を持つわけではありません。
たとえば、本を読むのが好きな人もいれば、ゲームが好きな人もいます。
映画が好きな人もいれば、アウトドアでのいろんな体験が好きという人もいます。
スポーツが好き、絵を描くのが好き、音楽が好き、食べることが好き。
他にも好きなことは、いっぱいあるでしょう。
それらは全て別々のことのように見えますが、そうではないかもしれません。

本が好きな人も、映画が好きな人も、物語に入り込むのが好きという点で、共通しています。
本と言っても、小説ではなく、料理本が好きだとか、コンピューター関連の本が好きだとか、営業のノウハウ本が好きだとか、いろいろでしょう。
でも、どの本にしても、自分が関心を持って選んだ本を読む時には、それを書いた人の思考の中に、入り込んでいるはずです。
どんな本でも、著者の思考の物語であり、本を読むということは、思考の物語に自分の意識を、投入することなのです。
ゲームにしても同じで、ゲームを楽しむことで、対決や体験という物語を経験しています。
では、アウトドアでの体験はどうでしょうか。
これはまさに冒険であり、まさに物語と言えるでしょう。

スポーツにしても、単に勝ち負けではなく、そこには自分や他の人たちのドラマがあるわけです。
それを感じて、スポーツは素晴らしいと思えるのであれば、その人はスポーツを通して、物語を楽しんでいるのです。
美味しい物を食べる時も、その食材や料理をする人に、思いを馳せるでしょう。
食材がどのようにして作られたのか、その食材をどんな工夫をして料理にするのか。
そこには、どんな人々のどんな思いが込められているのか。
そんな所に目を向けると、自分が調理するにしても、食べるにしても、そこに物語を見ることができるでしょう。
そして、それは食事の醍醐味なのです。
絵や音楽などの芸術でも、人の想いが込められています。
何をきっかけに、その作品が生まれたのか。
それも物語です。

結局、私たちは物語を求めているのでしょう。
いろんな興味や関心を通して、様々な形で物語を堪能しようとしているのです。
ただ、自分でそのことに気づいていない人は、少なくないと思います。
自分が物語を求めていると、わかるようになったなら、きっと、いろんなことに深みがあると、感じられるようになるでしょう。
そして、自分自身もまた、物語を作っているのだと知るのです。
その物語の名前は、「人生」です。
いつもと違うことをしよう その2

いつもと違うことって、どんなことでしょうか。
普段は通らない道を通ってみる。
いつもは車に乗るところを、歩いてみる。
気に食わない相手に、挨拶をする。
知らない外国の文化に触れる。
遠い所を旅してみる。
足下の草花や虫を観察する。
山や海、雲に話しかけてみる。
スマホやコンピューターに触れないで過ごす。
亡くなっている人たちに、声をかけてみる。
瞑想をする。
お金と関係のない仕事をしてみる。
子供やお年寄りと、触れ合う機会を作る。
漢字検定に挑戦する。
サークルに参加する。
音楽を楽しむ。
どうでしょうか。
考えれば、いくらでもあるでしょう。
とても全部は書ききれません。
いつもと違うことをすることで、自分が自分を動かしていると、実感できます。
また、それまでにはなかった刺激を受けますので、そこに新たな感覚や感情、価値観が生まれます。
それは、心の成長として感じられると思います。

人は心としての存在です。
その心が成長しないのは、一種の病気のようなものと言えるでしょう。
自分だけが成長できないのであれば、おかしいぞと、わかるのですが、周囲の人たちみんなが同じ状態だと、誰も気がつきません。
突発的な出来事によって、強制的に生活パターンを崩され、嫌でも思考を求められた時に、初めて自分が人生を傍観していたことに、気づかされるのです。
でも、そんな形で気づかされるのもつらいですから、自分から日頃のちょっとした変化を楽しむことで、自発的に気づくようにするのが、いいでしょう。
自分が人生を動かしている、という実感を得ることができたなら、普段の暮らしに戻っても、それはもう、それまでの暮らしとは全然異なります。
同じ事をしていても、それは組み込まれたパターンではありません。
いつでもそれを変更できるという、自覚があるからです。
同じ作業や、同じ動きをする時も、そこに自分なりの工夫や考えを、練り込もうとするでしょう。
見た目は同じでも、中身は全然違います。
また、自分の心の中に蓄積される経験も、それまでとは全く違うものになるのです。
自分で人生を歩んでいる感覚がわかった人は、それまでとは別の仕事や暮らしを、求めるようになるかもしれません。
それは、その人にとっては自然なことであり、そういう人が増えるほど、世の中は楽しく過ごしやすいものになるでしょう。

何故、多くの人が人生を傍観してしまうのか。
それは、世の中が楽しくないからです。
生活の中心にあるのは、楽しむことではなく、義務的なことばかりだからです。
そんな暮らしにどっぷりつかるなんて、やってられませんから、自動運転に任せて傍観してしまうのです。
でも、楽しむ暮らしを覚えたら、傍観なんてしてられません。
これがしたくて生まれて来たんだと、思い出すことでしょう。
本当かなぁと思う人は、ぜひ変わったことを、やってみて下さい。
きっと人生に目覚めると思います。
いつもと違うことをしよう その1

私たちの暮らしは、パターンにはまりがちです。
いつも同じ時間に起きて、同じように仕事を始め、仕事を終えたあとも、いつもと同じように食事をして、テレビを見たり、お風呂に入ったり、ゲームをしたり。
疲れたら適当なところで蒲団に入り、翌日になると、また同じことを繰り返します。
いつ食事を摂るのかは、日によって違うとか、出張であちこちに向かうことが多いから、自分はパターンにはまっていない、と考える人もいるでしょう。
でも、そのでたらめそうな暮らし方も、長い目で見れば、やはり一つのパターンです。
でたらめな動きを、同じように繰り返しているだけです。
同じことをしていると、同じような状況が続くので、その時にどう応ずるのかが、頭と体にすりこまれています。
どうしようと考える必要がないのですね。
だから、突発的なことが起こった時、どうすればいいのかが、わからなくなります。
本当に考えないといけない時に、頭が動かないのです。

多くの人の暮らしは機械的で、コンピュータープログラムが自動的に動かしている、ゲームの中のキャラクターのようです。
でも、ゲームの主人公として、ゲームに参加した人は、自分が選んだキャラクターを、自分の意思に従って動かします。
そのキャラクターは、コンピュータープログラムの制御を外れて、その人と一体化するのです。
今の私たちは、プログラムによって自動化された自分の暮らしを、黙ってじっと眺めているようなものです。
自分で考えて行動しているつもりかもしれませんが、ほとんど考えてはいません。
思考能力は持っているのに、それを活用できていないのです。
では、どうすればいいのでしょうか。
答えは簡単です。
ゲームに参加すればいいのです。
自分というキャラクターの動きを、ただ傍観しているのではなく、自分というキャラクターを、自分で好きなように動かせばいいのです。

と言っても、よくわからないかもしれませんね。
そういう方は、まずいつもと違うことを、やってみて下さい。
どんな小さなことでも構いません。
いつもと違うことをすることで、プログラムのパターンから抜け出すのです。
そうすれば、自分が考えているということが、どういうことかがわかるでしょう。
美しさに隠された罠

看護士さんは天使のような人ですね。
こう言われると、嬉しく思う反面、天使のようでなくてはならないと思い、ちょっとつらいでしょう。
お国のために命を捧げる人は英雄だ。
戦争の時に使われる言葉ですが、権力に逆らうことができない立場では、この言葉を受け入れるしかないでしょう。
この子は物分かりがいい、よくできた子だ。
こう褒められた子供は、本当の気持ちを押し殺して、いい子を演じようとします。
人を褒めるのはいいことですが、褒め言葉に何等かの期待を込めるのは、よくないことです。
相手を褒めることで、今後もその相手に、自分に都合よく動いてもらおうと考えるのは、相手を支配しようとするのと同じです。
褒めることで、支配する。
巧妙な支配ですね。
権力者は、強引に相手を支配しようとしますが、自らを正当化するために、美しい言葉や美談を使って、体裁を整えようとするものです。
今話題のオリンピックもそうでしょう。
平和の祭典だとか、四年間がんばった選手の夢だとか、きれいごとを並べますが、その実体はお金と名誉でしょう。
選手の純粋な夢を利用して、多くの権力者や資産家が、さらなる冨を手に入れようとしているだけです。

純粋にオリンピックをするのであれば、各国持ち回りなどと言わず、オリンピック発祥のギリシャで開催すればいいのです。
その方が、環境は一定に保たれますし、造られた施設にも無駄がありません。
観光以外に産業がないギリシャにとっても、経済を助ける大きな力になるはずです。
開催時間もスポンサーの都合などで決めるのではなく、選手が最も活動しやすい時間帯を選ぶべきでしょう。
本当はいけないことをしたのに、それを美談にして済ませようとするのは、権力者がよくやることです。
ブラック企業が、自らに従う従業員を賛美するのも、これと同じです。
きれいな言葉や美しい話を聞かされた時、それが純粋な思いから出ているものかを、見極める必要があります。
そういうもので、人の心を支配しようという企みが、隠されていないかを確かめなければなりません。
また、純粋な思いから出たものだとしても、その人がどの視点から、物事を見ているのかも、知っておく必要があるでしょう。

戦争の英雄は、相手側から見れば、非道な極悪人に過ぎません。
オリンピック選手の夢が強調されますが、夢があるのは、オリンピック選手だけではないのです。
看護士さんも人間ですし、いい子供も悪戯をしたい気持ちはあるのです。
美しい言葉や美談に酔って、権力者の企みに乗せられたり、涙を流している人たちのことを、忘れてはいけません。
UFO報告書

先週の6月25日に、米政府がUFOの目撃情報に関する報告書を公表しました。
どんな報告なのかと、多くの人が期待していたと思います。
しかし、その内容は発表前から言われていたことと同じで、説明できない飛行物体の存在を認めた、というだけのものでした。
前には3例の動画が公開されましたが、今回は新たな動画の公開はされていないようです。
やはり国防総省は、できるだけUFOについて触れたくない、という姿勢のようですね。
報告しろと言われたから、必要最小限の部分だけ報告した、というもののようです。
それで、できれば国民の関心が、早く他の方へ向くことを望んでいるのでしょう。
逆に言えば、この姿勢は明らかに怪しいですね。
事実がどうかは別にしても、UFOを国家への脅威と見なしているのであれば、国防総省の方から積極的に情報を出して、政府機関や国民に注意喚起をするはずです。
それなのに、こんな感じなのは、何か知られたくないUFO情報、あるいはUFOとの関係が、隠されているのかもしれませんね。
今のところ、コロナや経済、オリンピックなどで、人々の目を逸らしているようですが、アメリカ政府がUFOの存在を認めているという事実を、重視している人も少なくないと思います。
世界中の人々が、UFOを直接目撃する機会が増えたなら、自然にUFOへの関心と、煮え切らない態度を見せるアメリカ政府への不信感が、募って行くでしょう。
また、イギリスやフランスなどヨーロッパの国での、UFO調査が活発化するのではないかと思います。
UFOの存在が事実であると認められているのに、それが意味することを知ろうとしない人たちは、目を開けたまま眠っているようなものです。
でも、いずれ目を覚まさざるを得ない出来事が、近い将来に起こるような気がします。
もし、あなたがUFOについて真剣に考えたことがないのであれば、一度考えてみて下さい。
それは異星人が怖いとか怖くないという話ではなく、新しい世界、新たな次元に足を踏み入れるということなのですから。
変わる世の中

今、日本はオリンピックとコロナの問題で、大混乱と言えるでしょう。
混乱の原因は、国民の意思が統一されていないことにあります。
大変な状況が差し迫っていても、それを受け止める覚悟が、国民全体にあれば、不安はあったとしても、今のような混乱にはならないでしょう。
では何故、意思統一がなされないのでしょうか。
一人一人が何をどう考えても自由ですから、基本的には、それぞれの意思はバラバラです。
また今の日本は、政府が国民に思想を、強要することはできません。
普段から政府に反発を覚えている人は、状況に関係なく、常に逆らおうとするでしょう。
別に反発しているわけでなくても、いろんなことに無関心であれば、やはり周囲の状況にかかわらず、自分の好きなようにすると思います。
そういう人々を強制的ではなく、一つの気持ちになってもらうためには、どうすればいいのでしょうか。

今回のように、コロナが広がったからとか、オリンピックがあるからとか、というような、特別な事情があった時に、慌てて意思統一をしようとしても、それは無理でしょう。
自由意志に基づいて、みんなが同じ気持ちを持つためには、それぞれが他の人たちを思いやる気持ちを、持つような教育と環境を、整えておく必要があります。
いわゆるお勉強ではなく、全ての基本として、他の人を思いやることを、様々な場で教えるようにしないといけません。
そのためには、大人が常にお手本となるよう、心掛けねばならないでしょう。
そうすることで、多くの人が自然な気持ちで、他の人のことを考えるようになります。
そんな下地があれば、今回のような状況が起こった時にも、誰もが慌てることなく、冷静に正しい行動を取ることができます。
もちろん、政府の人たちも、自分たちの立場を守るだけの動きは、見せなくなります。
都合の悪いことを隠したり、人の意見に耳を貸さなかったり、ということはありません。
政府は国民の意思を代表したものとなり、常にみんなが納得するような、動きを見せるでしょう。
でも、現実にはそうはなりません。
それは、今述べたような教育がなされないからです。
何故、教育しないのか。
それは、そんな教育をすると、困る人たちがいるからです。
しかも、そういう人たちは、世の中を動かす力を持っています。
つまり、自分の都合のいいように、世の中を動かしたい人たちが、今の状況を生み出したと言えるのです。

これまで国民は沈黙を貫いて、あきらめ気分でそういう人たちの指示に、従って来ました。
でも、今の状況では、もう黙っていられないと思う人が、増えていると思います。
また、誰かの指示を待つのではなく、自らの考えで動き出す人も、増えています。
一度失われた信頼を、政府が取り戻すことは、むずかしいでしょう。
人生の主権を取り戻した人たちが、再びそれを他人に委ねることもありません。
この世の中の動きは、もはや後戻りができない動きです。

同様の動きが、世界中で起こっているのが、テレビやインターネットの情報を調べると、わかると思います。
以前の世の中に戻したいと願う人もいるでしょうが、それは有り得ないでしょう。
世の中が、どの方向へ向かっているのかを見極めて、それに従った暮らしを求めることが、今の不安な状況を、解決する唯一の方策です。
自らが世の中の変化の一部になるわけです。
大波に翻弄されるのではなく、大波の上でサーフィンをするような感じですね。
大波が運んでくれる所には、これまでとは全く違う世界が、広がっているでしょう。
それは確実なことですから、安心してサーフィンを楽しめばいいと思います。

領土問題 その2
他国と争う領土について、そこは古来より我が国固有の領土である、と言いますが、これは全く勝手で傲慢な言い草です。
古来とは、一体いつのことを言っているのでしょうか。
そもそも領土という発想が、愚かです。
領土というものは、人間が勝手に線引きをして、想定したエリアに過ぎません。
地球が誕生した時から、人間が存在していて、その時から、ここはどこの国だと、地球から割り当てられたのなら、話は別ですが、実際はそうではありません。
どこの地域にも、人間は存在しませんでした。
長い地球の歴史の中で、人類が登場したのは、つい先日のことなのです。
それなのに何を勝手なことばかり、言うのでしょうか。
力の強いものが縄張りを取るというのであれば、それは獣と同じです。
人間で言えば、やくざですね。
自分たちは獣であり、やくざなのだと、自覚をした上で、ここは自分たちのものだと、主張するのなら、まだわかります。
知性を備えた人類であると言いながら、そのようなことをするのは、知性が張りぼてということでしょう。
どこの地域も、誰のものでもありません。
全て、地球の一部であり、所有権を言うのであれば、それは地球にあるのです。
今の人間がしていることと言えば、人間の体で有毒な菌たちが、ここはオレたちの縄張りだと、互いに毒を吐きながら、争っているのと同じでしょう。
自分の体で、そのような争いが起こっていたら、あなたはどう思うでしょうか。
今の人間は、地球にとって、有害な菌であり、寄生虫です。
宿主である地球が滅びれば、自分たちも滅亡するのに、そんなことにはお構いなしに、毒を吐き続けています。
どうですか?
違いますか?
本当の知性があるのであれば、ただ流されて生きるのではなく、自分たちの存在について考えるでしょう。
そして、みんな地球に生かしてもらっている仲間なのだと、理解ができるはずです。
こんなことは大人よりも、子どもの方が簡単に理解ができそうですね。
権利という言葉も、人間が作ったまやかしの言葉です。
権利なんて存在しません。
人間が言う権利があるのだとすれば、それは人間以外の、全ての存在にも認めなくてはなりません。
自然を破壊し、動物を追いやる人間に、権利を口にする資格はないと思います。
ある地域に長く暮らす人たちが、自分たちの権利を主張します。
でも、権利を主張するのではなく、他の人たちが、その人たちを尊重すればいいのです。
自分で権利を口にする必要はありません。
また、他の地域の人が困っているのであれば、その人たちにできる限り、手を差し伸べてあげればいいのです。
世界中の人々が、こうした姿勢を持つならば、領土問題はおろか、あらゆる国同士の問題はなくなるでしょう。
領土問題 その1

二つあるいは三つ以上の国が、ある地域の主権を主張し合うことがあります。
日本も北方領土問題や、尖閣諸島問題などを抱えています。
領土問題は、下手をすれば戦争につながることもあり、解決すべき問題です。
しかし、どの国も自国の領土を広げる、あるいは確保することを重視していますので、お互いに引くことはありません。
そのため、それぞれの国は、自分たちの主張を正当化すべく、様々な証拠と呼ぶものを並べ立てます。
でも、どんなに証拠を出したところで、その証拠が絶対的に正しいという証拠は、ないわけですね。
となると、その証拠が正しいという証拠を探さねばなりませんが、その証拠の証拠が見つかったとしても、それがまた正しいという証拠はありません。
きりがありませんね。
そもそも、何故領土問題が存在するのでしょうか。
それは、そのエリアに利権が絡んで来るからです。
たとえば、すでにそこで暮らしている人がいる場合、外から別の人間がやって来て、そこで好き放題をされると困るわけです。
人が住んでいない場所でも、そこにある資源や、そこを通行あるいは利用する権利を、奪い合おうとするのです。

でも、何故そんなことをするのでしょう?
それは、全ての富を手中に入れたいという欲望と、富を手に入れておかなければ、何かが起こった時に、生き残れないという不安が原因でしょう。
その根底には、自分たち以外は信頼できる仲間ではないという、考えがあります。
他の国は親しくしていても、いつ裏切るかわからないと考えているわけです。
互いに握手をしながらも、後ろ手に武器を隠していると見るのですね。
確かに、そういう一面はあるでしょう。
でも、それはお互いが共通の価値観を、持っていることの証です。
相手を信じられないという、似た者同士なのです。
しかし、そんな価値観を持ち続けていたら、いつまで経っても問題は解決しません。
落ち着いているように見えても、いつ再燃するかはわかりません。
それは沈静化していた火山が、突然爆発するようなものです。

それに、こういう価値観が当たり前の国では、身内である国民に対しても、常に懐疑的な姿勢を見せています。
また、国民同士も互いを信頼できず、あちこちで様々な事件や争いが、頻発するのです。
領土問題に限りませんが、ある問題が膠着状態に陥って、解決方法を見出せないのは、お互いに基本的な考えが間違っているのです。
自分を正当化するために、相手を否定しなければならない発想が、問題を引き起こしています。
よくウィンウィンの関係と言いますが、あれは口先だけです。
きれい事を並べて、互いの腹を探り合っているだけなのです。
本当に自分も相手も否定しない考えというものは、自分と相手を同じだと考え、互いを思いやるものでなければなりません。
知の巨人 逝く
ジャーナリストの立花隆氏が亡くなりました。
様々なジャンルで膨大かつ詳細な研究をされ、数々のベストセラーを出した立花氏は、知の巨人と呼ばれていました。
自分を何かの専門家と位置づけず、オールマイティに研究をする姿勢は、関心を持ったことを放置できない性格の表れだったのでしょう。
その姿勢は多くの研究者に対して、大いなるお手本となりましたが、一般の人々にも、興味を追求することの面白さを、学ぶ機会を与えて来たと思います。
私が立花氏のことを知ったのは、NHKで作られた特集番組「臨死体験」です。
それまで臨死体験は、現象として知られてはいましたが、怪しいオカルト話の類いとして、扱われていました。
医学界でも、まともに取り上げることはなく、下手をすれば、現象としても認められないような雰囲気でした。
その臨死体験を、NHKが特番で取り上げたということが、まず驚きでした。
しかし、それは立花隆氏の常に冷静で客観的な視点からの、調査報告だからこそ認められたものだと、番組を見て改めて思いました。
臨死体験の調査結果は、本でも出版されたので、私はすぐに購入して読みふけりました。
臨死体験の肯定派と否定派の、それぞれの意見を聞いた結果、立花氏は結論を出せませんでした。
しかし、それは臨死体験を否定することは、できないという意味でした。
当時の私にとって、それだけでも十分刺激的な話でしたし、これによって世の中は大きく変わると感じました。
実際、それから医学界でも、臨死体験の存在自体は認められるようになりました。
それで、人の死がどういうものかが、理解できたわけではありませんが、その理解に向かって、人々は大きな一歩を踏み出したのです。
今では、臨死体験どころか、体外離脱や異次元存在とのコンタクトなど、昔であれば光を当てられないような話が、市民権を得ています。
今週末には、アメリカでUFOに関する報告書が公表されますし、一昔前とは明らかに状況が違っています。
この状況変化は、強い意志を持った人々の、粘り強い働きかけがあったからですが、立花氏もその中の一人でした。
立花氏の功績はとても大きく、死後も称賛され続けることでしょう。
また、今頃ご本人は向こうの世界で、臨死体験の真偽について、確認をしているのだと思います。
そして、ご自身の活動が一つのきっかけとなって、人類が大きく進化して行く様子を、眺めているのでしょう。
長い間、お疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。
感情と波長 その3

近くにいると、こっちまで明るくなるような、楽しい人っていますよね。
また、その人がいるだけで、部屋の空気がピンと張り詰めるようなことも、あると思います。
何となく、いらいらのオーラが伝わって来る人もいますし、癒やしのオーラを放つ人もいます。
こういうことは、物理学的には説明できません。
何故なら、意識や感情は物質エネルギーではないので、物理学の範疇に入らないのです。
しかし、ある人の持つ感情が、周囲に伝わるのであれば、物理学的な空間とは、別の空間を想定する必要があるでしょう。
感情の波は、その空間を通って、周囲に伝わると考えられます。
電波がアンテナから周囲に広がるように、その人を中心にして、その人の感情が球状に広がるのです。

私たちは五感に意識を集中していますので、他の感覚は希薄です。
そのため、ある人から伝わる感情の波に触れても、何となく感じる程度にしか、わからないのでしょう。
あるいは、さっぱりわからない人も、少なくないでしょう。
この感覚に鋭敏な方であれば、その人の心の状態を、はっきり認識したり、感情の波が色のついたオーラとして、見えるのかもしれません。
いずれにしても、感情すなわち心の振動が、周囲に伝わるということは、物理学で理解している空間とは、別の空間が重なっているわけです。
私はこれを精神場と呼んでいるのですが、精神場を想定するかどうかで、世界観は大きく変わると思います。
世界はどのように構成されているのか。
意識や心とは、どのようなものなのか。
生きるとか死ぬとかというのは、どういうことなのか。
精神場を想定すれば、現在の科学ではうまく説明できないことが、いろいろと理解できるようになるでしょう。