重なる世界

過去、現在、未来。
これらは一つの直線上に、順番に並んでいるというイメージが、ありますよね。
あるいは、一つの直線上を動く点が現在で、点の進行方向の後ろにあるのが過去、前にあるのが未来、という認識を、多くの人が持っていると思います。
一方で、現在・過去・未来の全部が、今ここに重なって存在している、と言う話もあります。
そんな話、耳にしたことはありませんか。
普通に考えれば、何を馬鹿なことを言っているんだ、と思ってしまうでしょう。
でも、視点を変えると、そんなことも有り得るなと、思えるようになります。
どういうことかと言いますと、私たちは普段、先に述べた直線上を動く点と、自分を重ね合わせて、自分や世の中を見ています。
自分の位置は、この直線上の点にあるわけですね。
しかし、全てはここに存在しているという人の位置は、直線を上から眺められる所にあるのです。
それはそうだろうけど、どうやって上から眺められるのか、と思うでしょうね。
では、こう考えてみて下さい。
何でもいいから、ある物語を創るのです。
恋物語でもいいですし、戦いものでも構いません。

物語を創ると、そこに直線的な時間の流れが生じます。
私たちが知る世界と同じように、物語は直線的な時間の流れにそって、進行して行きます。
当然、主人公たちが活動している今があり、その前後に過去や未来があります。
でも、あなたの頭の中には、物語全体が入っているので、物語の始まりから結末までの、全ての時間を全部まとめて、眺めることができますよね。
登場人物が始めにどんな状態で、途中でどんな経験をして、最後にどうなるのか。
全ての情報が重なり合って、頭の中に仕舞い込まれています。
あなたは物語を、一々直線的に広げなくても、全部重ねたままで、全てを理解できるはずです。
これが、直線を上から眺めるということなのです。
物語の登場人物は、全てあなたの意識の一部であり、あなたの分身です。
その一人一人の分身の立場に立ってみると、過去は経験によって確かめられた事実であり、未来はどうなるかわからない、未確定の要素です。
でも、物語全体を眺めているあなたから見れば、未来もまた確定されたものです。
物語のある時点で、登場人物をどう動かすか、迷うことがあるとしましょう。
それは登場人物自身の迷いでもあるわけです。
そこで、あなたの頭の中では、二つの筋書きが生まれます。
そこで物語の進行が、二手に分かれるんですね。

分かれたそれぞれの物語には、同じ登場人物がいて、それぞれの経験をして行きます。
でも、分かれたもう一方の道で、自分と同じ人物が、異なる経験をしているなど、夢にも知りません。
そもそも、そこで人生が二つに分かれたとは、気がつきません。
ですから、もう一方の道の存在自体、あるとは思わないのです。
ところで、あなたは登場人物の家族や時代などの設定を、変えたくなるかもしれません。
すると、似たような物語が、違う設定で創られます。
あるいは、全然別の登場人物を使い、全く異なる物語を考えたとしましょう。
そうなると、あなたの頭の中には、たくさんの物語が存在することになります。
そんなものも全部、頭の中で重なり合い、同時に存在するわけです。
そんな感じで、今の私たちが、もっと大きな意識の一部あるいは分身であり、今の人生はその意識が創った、一つの物語だと考えてみて下さい。
大きな意識の視点で見れば、現在だけでなく、過去や未来も同時に存在している、と言えますよね。
また、そこには数え切れない無数の物語、無数の人生があるでしょう。
それらはパラレルワールドです。
人生が分岐したものとか、似たような人生を送る世界であれば、それぞれの世界に接点があるかもしれません。
昨日と今日で、自分や相手の記憶が違っている場合など、もしかしたら似たような世界との、接点を経験したと考えることができるでしょう。
しかし、全く異なる物語になっている世界同士は、接点がありませんから、基本的には互いの世界へ、迷い込むということはないと思います。
とにかく、今の自分というものは、本来の自分の一つの分身であり、全体を眺めることができない状態にあるのだと、理解して下さい。
過去や現在、未来が同時に存在していると考える人は、その視点が大元の自分に近い所にある、ということです。
また、もっと大元の自分に視点を近づけたなら、現在・過去・未来だけでなく、パラレルワールドの存在も、認識できるようになるでしょう。

でも、それには脳の支配を逃れた、無意識領域での思考が必要です。
あまりにも膨大な情報量で、人間の脳では処理しきれないからです。
ですから、そういう世界を認識できるとすれば、眠っている間だけと言えるでしょう。
そして、それが時に、変わった夢という形で表現されるのです。
国民のみなさま
「国民のみなさま」
この言葉は、政治家が自分の立場が悪い時や、選挙の時などに、よく使われます。
国民に対して、低姿勢をアピールして、自分の傲慢さを隠そうとするわけです。
端から国民を、小馬鹿にしているような政治家もいますが、そんな政治家でも自分の立場が危うくなると、やはりこの言葉を使います。
そもそも、この言葉はとても違和感のあるものですね。
「国民のみなさま」と言う言葉を使うのは、自分は国民ではない特別な存在である、と述べているようなものです。
低姿勢を装いながら、自分はお前たちとは違うんだと、堂々と宣言しているわけです。
政治家というものは、選挙で選ばれるだけのことであり、彼らもまた国民の一人であるはずです。
それなのに、政治家という立場になった途端、自分は国民ではないような意識を持つわけですから、国民目線の政治ができるわけがありません。
自分もまた国民の一人であり、他の国民たちの思いを代表して仕事をするのだ、という意識こそが求められているのに、実態は全然異なります。
国民は、選挙の票を集めるための道具に過ぎず、本当に国民のために仕事をする者は、ほとんどいないように思えます。
オリンピックやコロナが絡んだ、今の日本の政治を見れば、政治家が国民以外の所にばかり、目を向けているのが、よくわかります。
これまでは、ごまかし続けられた汚点が、今度ばかりは隠しきれず、顕わになっています。
面白いのは、国民が注目している中で、無茶苦茶で無責任な発言が、繰り返されることです。
政府や大臣に責任が及ばないように、いろいろ工夫しているつもりなのでしょうが、全然国民をごまかせるようなものになっていません。
あまりにも滑稽な答弁には、呆れて笑ってしまうほどです。
彼らは無能と言うより、初めから国民のために、動くつもりがなかったのでしょう。
どうすれば、人々がついて来てくれるのかが、理解できるわけもなく、右往左往するばかりです。
しかし、彼らに今のポジションを与えたのは、私たち国民です。
自分たちの選択した結果が、目の前に突きつけられているのです。
政治に無関心な人も多いと思いますが、さすがに今回は、そんな人までをも巻き込んで、政治を変えなければならないという、気持ちにさせることでしょう。
また、政治など当てにしないで、自分たちで道を切り開こうと考える人も、出て来るでしょう。
そういう意味で、今の政治家たちは、いい仕事をしているのかもしれません。
アリの社会性

アリは集団で生きる昆虫です。
女王アリが卵を産み、働きアリは餌を探したり、卵や幼虫の世話をする役割を担っています。
それぞれが自分の役割を持ち、アリの社会全体が成り立っているのです。
一匹一匹のアリが、好き勝手に動くのではなく、自分の役割を果たす姿は、人間が社会を形成しているのに似ています。
と言うか、人間よりも役割に忠実なので、人間以上にしっかりした社会を形成していると言えるでしょう。
それは、社会全体が一つの生き物であるかのようで、一匹一匹のアリは、その生き物の分身と見ることができます。
これと似ているのは、体の細胞です。
体の細胞は受精卵という一つの細胞が、分裂して増えたものです。
様々な形態や機能を持った細胞に分化してしまうと、それぞれの細胞が元は同じであったとは思えません。
そんな細胞たちが、それぞれの役割を果たしながら、個体という全体の形あるいは環境を、維持しているのです。
一つ一つの細胞は、独立した存在ではなく、受精卵の分身です。
元の受精卵はどこへ行ったかと言うと、分裂して元の姿はありません。

受精卵が二つに分裂した時、その二つの細胞を合わせたものが、受精卵だと考えるなら、元の受精卵は個体という形に、変貌したと言えるでしょう。
初めの受精卵に意識があるとした場合、その意識は個々の細胞に分裂しながらも、個体としての全体の意識は、常にあるのです。
個体の意識は、各細胞意識が集まった、集団意識と言えますし、細胞意識は個体の意識の一部であるとも言えます。
それと同じように、アリの集団にも集団意識があり、個々のアリは集団意識に従って、活動していると見ることができるでしょう。
社会を形成している生物は、集団意識の存在を認めやすいと言えるのです。
そして、私たち人間も社会を形成する生き物です。
つまり、私たちにも人類全体の集団意識があるでしょう。

でも、各地域にそれぞれの社会を作っていますから、各地域ごとの集団意識というものも、あると思います。
社会がどのようになるのかは、この集団意識の性質にかかっていると言えますが、アリよりも個性の強い人間の場合、個々人の考え方が、集団意識に影響を及ぼすということが、結構あると思われます。
個人が集団意識に流されて行く場合もあれば、個人個人の価値観の変化が、集団意識を変えて行くということです。
これまでの人間社会は、それまでの集団意識に流されていたように思います。
でも、この混乱の時代を通して、個々人の意識の変化が、集団意識を変えているように感じます。
それはすなわち、私たちの社会が変わるということですね。
アリで言えば、新たなアリに進化するという感じでしょうか。
同じように、私たち人間も、新たな人類へと進化しようと、しているのかもしれません。
自然災害
またもや豪雨により、大きな被害が起こりました。
静岡県熱海市を襲った土石流は、住宅地の上方の盛り土が、豪雨によって流されたものと、判明しました。
この盛り土は違法であり、熱海市はそれを認識していながら、三度の指導をしただけで、何の対策も取られていませんでした。
この場所が危険であることは、わかっていたにも関わらず、何の手も打てなかったのは、行政側に問題があるということです。
法律上、何もできないと言うのであれば、早急に法律を改正して、悪徳業者の好きにさせないような動きを、見せなければなりません。
それをやらないのは、本気で町を守る、人命を守るという意思が欠けていたとしか言えないでしょう。
誰が悪いと責任をなすりつけたところで、失われた人命は取り戻せません。
自分たちがどこに住むべきなのか、住民側も考えなければいけませんし、自分たちの安全を確保するために、行政に対して意見を言う時には、遠慮しないで強く言うべきです。
これは熱海市だけでなく、どこでも同じことが言えます。
本当は家を建ててはいけないような所に、住宅が密集している光景は、全国のあちこちに見られます。
その問題は、そこが災害に遭ってから、指摘されるわけです。
これはそこに家を建てても構わないと、許可を出す行政の問題ですし、行政が言うことを鵜呑みにしてしまう、一人一人の問題でもあります。
一般的に住民は、無責任な行政に全てを任せ、成り行きに従うばかりということが、ほとんどでしょう。
自然災害と呼ばれる大半は、実は人災であると、私は思います。
土砂が崩れたところで、誰にも被害が及ばなければ、災害とは言えないのです。
自然の動きが災害になる時、それは人間の知性が試されているのです。
同じことを繰り返すのであれば、それは何も学べていないということです。
あるいは、学ぶポーズを取るばかりで、本気で学ぶつもりがないのかもしれません。
それは、自らの知性を高めることを、放棄しているのと同じです。
度重なる災害は、人々の知性を高めるように、要求しているように思えます。
本当に大切なものは何なのか、本当にやるべきことは何なのか、それを自然は問いかけているのです。
振動する世界 その3

何故、世界は振動するのでしょうか。
それは、何故素粒子は振動するのか、という問いと同じです。
人間の心も、それ以外の全てのものも、みんなエネルギーです。
同じエネルギーである物質空間が、素粒子で構成されているのなら、心もまた素粒子で構成されていると、考えることができるでしょう。
であれば、意識あるいは心が振動する理由を探れば、素粒子が振動する理由も見つかると思います。
振動するということは、瞬間瞬間に状態が変化するということです。
瞬間瞬間の変化の連続が、意識を生み出していると言えるのです。
無数のフィルムのコマが、動く映像を創り出すのと同じ理屈ですね。
映画のような映像は、コマが動かなければ、ただの静止画像になってしまいます。
映画の映像を見るためには、コマがどんどん変わることが必須条件です。
さらに言えば、映画というものは、スクリーンに映し出された映像ではなく、フィルムに収められたコマを、次々に変えて行くことなのです。
映像は映画の一側面であり、映画という存在が、二次元的に投影されただけのものです。
つまり、コマを変化させることが映画であり、映像は映画が活動した結果と言えるでしょう。

同じように考えますと、意識というものは、瞬間瞬間の変化がなければ、意識として成立しないわけです。
精神エネルギーが瞬間瞬間変化することで、そこに意識が生まれるという見方もできますが、正しくは、瞬間瞬間の変化そのものが、意識なのだと思います。
エネルギーの振動と意識とは、同じものを違う視点から、表現しているだけでしょう。
ですから、ある意識の振動数というものは、その意識の個性を表していると言えるのです。
また、この振動数は知性が高くなれば、自分で変化させられます。
喜怒哀楽という感情の変化は、振動数を変化させています。
知性が高くなければ、いつも感情に引っ張られて、振動数が上がったり下がったりするでしょう。
知性が高い人は、物事を高い位置から眺めることで、感情を安定させて、振動数を一定に保ちます。
また、高い位置から眺めることで、自分の振動数を上げるのです。

意識の存在と意識の振動は同じ意味であり、意識の状態と意識の振動数も同じ意味なのです。
意識があれば、そこにエネルギーの振動がありますし、エネルギーの振動があれば、そこに意識が存在していると言えるでしょう。
素粒子が振動しているということは、素粒子に意識があるということです。
もちろん、人間が理解できるような意識ではありません。
あくまで、素粒子レベルの意識です。
その素粒子で構成された、世界全体が振動しているということは、世界そのものが意識であると言えるでしょう。
何故、世界は振動するのかという問いの答えは、「世界が意識だから」です。
納得できない人は、夢の世界を考えてみて下さい。
夢の中に現れる世界は、夢を見ている人の意識の表れです。
すなわち夢の世界は、夢を見ている人の意識なのです。

夢と現実を厳密に区別しようとしても、実際は区別できません。
私たちが勝手に、夢と現実を区別しているだけに過ぎないのです。
この世界こそが現実だという、思い込みですね。
この世界が何であるのかも理解できていないのに、これが現実だと言い切ることなど、できないのです。
夢の中にも世界があり、それが誰かの意識であるわけですから、この世界が誰かの意識であり、誰かの夢の世界だとみなしても、何も問題はないでしょう。
では、誰の意識、誰の夢なのでしょうか。
その誰かというのは、人間全体の集団意識と言えるでしょう。
私たちが認識している世界は、私たちだけのものです。
他の生き物は、その生き物なりの世界を認識しています。
私たちが存在している世界は、私たち人間の意識全体で、創り出しているのです。
言い方を変えれば、この世界は、みんなで見ている夢なのです。
振動する世界 その2

素粒子の振動に応じて、世界が構築されているのだとすれば、一つの世界は固有の振動数を、持っていると言えるでしょう。
振動数が異なる素粒子は、別の世界を創るのです。
そう考えると、素粒子の振動数の数だけ、様々な世界が生まれることになるわけですが、それがパラレルワールドと、呼ばれるものではないでしょうか。
私たちが異星人と考える存在は、パラレルワールドから訪れた、知性体なのかもしれません。
つまり、私たちとは異なる振動数を持つ存在です。
振動数が異なるのに、どうしてこちらの世界へ、来ることができるのでしょうか。
それは恐らく、自分たちの振動数を調整できるのだと思います。
あまりに振動数が異なり過ぎると、調整がむずかしいでしょうが、似たような振動数であれば、調整できる可能性はあるでしょう。
この振動数の調整で、UFOは姿を現したり消したり、できるのではないかと思います。
そうは言っても、自分の振動数なんか、わかりませんよね。
でも、私たちの意識に振動数があるのなら、怒っている時と、笑っている時では、振動数が異なるのではないでしょうか。
状態があまりにも違いますから、同じ振動数のようには思えません。

しかし、この世界には怒りと喜びが共存しています。
私たち自身の中においても、怒りや喜びは出たり引っ込んだりしています。
世界の振動数が一定であるならば、このようなことは起こらないはずです。
でも、肉体が存在している物質世界と、心が存在している精神エネルギーの世界が、異なる世界だとすれば、説明がつきます。
この世界自体は、人間が怒ろうが笑おうが、そんなことにはお構いなく、一定の振動数で振動しています。
変化するのは、人間の心であり、物質世界は変化していないのです。
そして、本来は共存できない怒りと喜びが、共存できているのは、それぞれが肉体を通して、この世界につなぎ止められているからでしょう。
と言うことは、肉体の死後、意識だけの状態になった人は、自分の持つ振動数に応じた世界へ、移行すると考えられます。
喜びを持つ人は、喜びの世界へ。
怒りを持つ人は、怒りの世界へ。
孤独な人は、孤独の世界へ。
死後のことを考えると、自分の振動数を調整しておいた方が、いいかもしれませんね。
振動する世界 その1

振動すると言うと、ブルブル細かく震える状態を、イメージすると思います。
ドリルで穴を開ける時とか、大きな音がした時とかに、家の中の物が振動しますね。
地震の揺れは細かくないかもしれませんが、あれも振動です。
振動とは、その物が据えられた所を中心にして、前後や左右に揺れ動くことですが、振り子の揺れも同じようなものですね。
このような物理的な振動は、わかりやすいのですが、形がないものが振動していると言われると、ちょっとわかりにくいと思います。
物質の基本単位である原子は、やはり振動していると言われていますが、それは原子を構成している、素粒子が振動しているということです。
素粒子は原子が存在していない、空間にも潜んでいます。
何もない空間は、何もないように見えるだけで、本当は莫大なエネルギーが詰まっているのです。

ちょっと話が逸れますが、この空間に潜む莫大なエネルギーを、利用しようというのが、フリーエネルギーです。
フリーエネルギーが実用化されれば、いつでもどこでもエネルギーをただで利用できるようになりますから、世界中の人々が、その恩恵を被ることができるのです。
話を戻しましょう。
空間にも素粒子が潜んでいるということは、世界全体が振動しているということです。
そこには当然、私たちも含まれています。
私たちもまた、世界とともに振動しているのです。
わからないのは、それを感知する感覚機能がないからです。
実際、素粒子は原子よりも小さなエネルギー単位ですから、そんなレベルで振動していると言われても、わかるわけありません。
それでも、素粒子が振動している以上、私たちや世界が振動しているのは、事実なのです。
ところで、素粒子の振動を考える時、私たちはその振動が、私たちが存在している、一つの時空間内で行われていると、理解すると思います。
しかし、この世界以外にも、無数のパラレルワールドが存在し、それらの世界が重なり合っているのだとしたら、どうでしょうか。
素粒子の振動が、別の時空間への移行である、可能性はないのでしょうか。
そうであるなら、私たちは物凄い超スピードで、似たような時空間の間を、移動しているということです。

見方を変えれば、高速でフィルムのコマを入れ替えることで、映像が動くように感じるのと、同じようなものですね。
入れ替えるコマの画像を、どれも同じものにしたなら、映し出される映像は、まるで静止画のように見えるでしょう。
でも、実際は高速で画像が入れ替わっているわけです。
これと同じことが、私たちにも起こっているのかもしれません。
私たちは、ずっと同じ時空間にいると認識しています。
本当は無数の時空間を、高速で移行しているのですが、それらの時空間が、どれも似たようなものであれば、ずっと同じ時空間にいるように感じることでしょう。
IPS細胞による治療
受精卵の分裂から生まれた細胞は、体の様々な部位や組織で働く細胞へと、姿を変えます。
これを細胞分化と言います。
たとえば、脳や脊髄などの細胞は神経細胞ですし、筋肉の細胞は筋細胞です。
皮膚や粘膜には、それぞれの上皮細胞がありますし、血液には、赤血球や白血球などの血液細胞があります。
眼球の中には、網膜に光を感じる細胞があります。
鼻の中には匂いを感じる細胞があります。
舌には味を感じる細胞があります。
これらの細胞は、全て形も働きも異なりますが、元は同じ受精卵から生まれたものです。
つまり、それぞれの細胞に変化するまでは、同じ形態の細胞だったわけですね。
この、まだ役割を決めていない細胞を、人工的に作ったものが、IPS細胞と呼ばれています。
このIPS細胞を分化させれば、どんな細胞でも作れるのです。
これはとても画期的なことで、一度傷つくと元には戻らないと言われていた、脳や脊髄の怪我や病気、あるいは心臓の筋肉などを、再生できる可能性ができたのです。
世界で初めてIPS細胞の作成に成功したのは、京都大学の山中伸弥教授のグループです。
アメリカなどでは、せっかくいい治療方法が見つかっても、それについての特許権を盾にして、莫大な金額が請求される傾向があります。
お金がなければ、その治療方法を使うことができないわけです。
そのため、IPS細胞の特許は山中教授が取得しています。
世界中の研究者が自由に研究できるようにし、全ての患者にその恩恵が届くようにするためです。
これは本当に素晴らしい精神であり、医療に携わる人々の模範です。
その山中教授の思いが、IPS細胞による治療という形となって、動き始めています。
既に始まっているのは、加齢黄斑変性症という目の網膜の病気と、パーキンソン病への細胞移植です。
また、進行性骨化性線維異形成症や、筋萎縮性側索硬化症、家族性アルツハイマー病の患者の細胞から作ったIPS細胞を用いて、研究した薬の治験も始まっています。
そして今回、角膜が混濁する水疱性角膜症や、脊髄損傷の患者にも、 IPS細胞による治療が行われることになりました。
近い将来には、心筋梗塞などで壊死した、心臓の筋肉を再生させる治療が、始められる予定だそうです。
また、一つの臓器を作って移植することも、いずれは可能となるでしょう。
そうなれば、臓器移植ができるようになるため、移植のために望みもしない誰かの死を、待つ必要がなくなるのです。
夢が大きく広がるIPS細胞は、今後も活躍の場を広げて行くことでしょう。
自分に打ち勝つ

勝負の時には、必ず相手がいます。
その相手と勝ち負けを競うのが、勝負です。
そんな勝負ごとの時に、よく使われる言葉が、「自分に打ち勝つ」というものです。
それは自分の中にある弱さが、自分自身の足を引っ張り、敗北につながるからです。
本当の敵は己の中にあり、というわけです。
この戦うべき自分とは、どのような自分なのでしょうか。
それは冷静沈着ではなく、焦りや不安で心の中を、かき乱そうとする自分なのです。
本当にこれでいいのか。
もっと、いい方法があるのではないか。
もし、上手くいかなかったら、どうしよう。
ああ、きっと失敗するに決まっている。
こんな感じで、やかましく喚き続ける自分を無視し、冷静に判断することが、勝負では求められるのです。
でも、これって普段の暮らしの中にも、よくあることではないでしょうか。

人生はいつも崖っぷちだと受け止めている人は、常に心の中がざわついているでしょう。
ちょっとした事で一喜一憂し、他人の動きや評価を、とても気にしてしまいます。
本当はこうしたいけど、他の人たちがやらないから、やめておこうと考えます。
今は上手く行っていても、将来的にどうなるのかわからないと、不安を抱えてしまいます。
人生は勝負だと考えるのであれば、そんなやかましい自分なんか、何とか抑え込んで冷静に行きたいものでしょう。
でも、なかなか抑え込むのは簡単ではありません。
結局は、不安から逃れることはできないのです。
でも、そうではない人たちもいます。
それは、このようなやかましい自分を、心の中に住まわせていない人たちです。
このやかましい自分というのは、自分に自信がなく、自分を認められない自分です。
また、巷にあふれる根拠のない価値観を、バイブルのように崇めている自分なのです。
この自分は、自分だけという状況を恐れるので、多くの人と自分を合わせようとします。
そのため、多くの人が抱える価値観を、後生大事にするのです。
他人に合わせるのではなく、自分の価値観を持ち、自分自身の考えで人生を歩む人たちには、このようなやかましい自分はいません。
ですから、何かが起きても冷静に判断しますし、また起きたことに対する覚悟を持っています。

その人たちは決して特別ではありません。
誰もが同じようにできます。
ただ、そうできないと信じ込むような価値観を、手放さないからできないのです。
自分に打ち勝つとは、自分を信頼するということであり、失敗してもそれを受け入れる覚悟を、持つということです。
覚悟を持たず、結果に対する責任から逃れようと考えていると、いつまで経っても自分を信頼できません。
自分を信頼できれば、そもそも打ち勝つべき自分が、いなくなります。
不戦勝というわけですね。
と言うか、そういう人たちは人生を勝負とは見ていないのです。
人生は勝負するものではなく、楽しむもの。
こう理解していれば、うるさい自分は現れません。
それが一番楽ですし、納得の行く人生を送れるでしょう。
隣の芝生は青い

「隣の芝生は青い」という諺があります。
芝生という言葉から、英語の諺だとわかります。
意味は、自分のものよりも他人のものがよく見えるということです。
こういうことはよくありますよね。
自分の車よりも、他人の車の方が、かっこよく見える。
自分の弁当よりも、他人の弁当の方が美味しそうだ。
自分の仕事よりも、他人の仕事の方が立派に思える。
自分の彼氏・彼女あるいは夫・妻よりも、他人の 彼氏・彼女あるいは夫・妻 が、素敵に見える。
諺ですから、昔からある言葉ですし、英語圏の諺ということを考えますと、古今東西を問わず、昔からどこでもある話ということなんですね。
人間の性(さが)というべきものなのでしょうか。
しかし、他人のものがよく見えるというのは、自分が選んだもの、自分が決定したものに、自信がないということです。
自分自身に自信がないということですね。
何を選んでも満足できず、どんな状況にいても、自分は他人よりも劣った状態にあると、考えてしまうわけです。

これと真逆の諺があります。
それは「足るを知る」です。
辞書によると、「身分相応に満足することを知る」とありますが、この説明ではよくわからないと言うか、誤解を招きそうな気がします。
「身分相応に満足する」という表現では、貧乏人は貧乏人らしくして、なれるはずがない金持ちに憧れるな、という意味にとらえることができます。
「足るを知る」とは、そういう意味ではなく、貧乏か金持ちかなどの状況に関係なく、自分が置かれた状況の中で、満足感を得るということなのです。
それは欲望を超えた、自分が生きていることへの感謝の想いであり、自分の人生を受け入れている姿勢です。
他人と比べてどうのこうのということではなく、自分が存在していることを素直に喜び、自分を支えてくれている全てのものに、感謝の気持ちを持つことなのです。
何も自分を制限するものはありませんから、自分がしたいようにできます。
自分が選んだこと、自分が決めたことを、他人がどう評価するかは、関係ありません。

今、この瞬間を満ち足りた気持ちで生きられる人は、何をしていても、思ったように生きられるのです。
決して、隣の芝生は青いと羨ましがることはありません。
「隣の芝生は青い」と「足るを知る」
あなたは、どちらの生き方を選ぶのでしょうか。