望んでいるのはお金? それとも

ああいう事がしたい、こういう事がしたい。
いろいろ考えた末に、やっぱり無理だ、お金がない、と思ってしまう人は、多いのではないでしょうか。
今の世の中は、お金で動くシステムになっています。
ですから、お金がないと、食べる物も買えませんし、住む所もなくなってしまいます。
その日を生きて行くのに精一杯で、自分の夢を叶えるなんて、夢のまた夢です。
でも、本当にそうなのでしょうか。

何かをやりたいと考える時、そこに商売を絡めることが、多いと思います。
たとえば、料理が好きだから、いろんな料理を作ってみたい。
そして、それを大勢の人に味わってもらいたい。
こう考えた時、レストランや食堂、居酒屋などの店を、思い浮かべるでしょう。
当然、そこには経営という問題が付いて来ます。
お店を開くにも資金が必要だし、開いたあとも、お店を維持するための、儲けが求められます。
自分の料理を、みんなに食べてもらいたいだけなのに、お金の計算をしなくてはなりません。
お金がなければ、お店は開けませんし、お店を開いても、お客がどのぐらい来てくれるのかは、その日によって異なります。
今のコロナ騒ぎのようなことが起これば、いつもは来てくれるはずのお客が、ぱったり足を運んでくれなくなってしまいます。
そうなると、収入が激減し、お店を維持することは困難になります。
また、世の中の情勢により、食材の値段が高騰すると、それが料理の値段に反映されることになるでしょう。
しかし、あまり値段を上げ過ぎると、誰も注文してくれなくなります。
値段を抑えようとすると、食材の質を落とす必要が出るかもしれません。
このように経営が絡んで来ると、お金のやり繰りに力を注ぐことになります。
それでは、お店を維持できたとしても、それが自分のやりたかったことなのか、という疑問が生じるでしょう。

お金そのものを望んでいる人ならば、食材の質をどうしようが、料理の値段をどうしようが、あまり気にすることはないでしょう。
自慢の料理ではなく、儲かる料理を考えればいいのです。
しかし、本来の目的が、自分の料理をみんなに喜んでもらう、ということであれば、話は変わって来ます。
経営を維持できたとしても、自慢の料理を出せなければ、目的が達成できたとは言えません。
お金がなければ、やりたい事ができない。
要するに、問題はお金です。
さらに言えば、お金がなければ、何もできないという発想が、問題なのです。

自分の料理を人にふるまうのであれば、お店という形をとらなくても、できるでしょう。
その時の自分にできる範囲で、精一杯の料理を作ればいいのです。
その気持ちがみんなに通じれば、自分たちにも何か手伝わせて欲しいと、言ってくれるかもしれません。
そうなれば、多くの人ができる範囲で力を合わせる中で、料理の腕を存分に振るうということが、できるのではないでしょうか。
もしかしたら、これはイベントという形で、行われるかもしれません。
あるいは、それぞれが少しずつ負担することで、お店を作るということもあるでしょう。
食事に困っている人の所へ行き、美味しいご馳走を、作ってあげるという方法もあると思います。

もちろん、自分一人でするのではなく、同じ想いを持つ人たちが、協力し合ってするのです。
お金がないと何もできない、という考え方は、ある立場に置いてのみ、成立するものです。
そんな立場しかないと考えてしまうのは、資本主義を維持するための洗脳です。
お金がなくても、やりたい事をしている人は、実際にいるのです。
そこには必ず、無償で力を貸してくれる人たちがいます。
つまり、人々の心を動かすことができれば、お金がなくても、物事は動くのです。
では、どうすれば人の心を動かせるのでしょうか。
それは、熱意です。
懸命に何かをやろうとしている人を見た時、何かを手伝いたくなるのが人情です。
特に、誰かのためにやろうとしている事は、多くの賛同を得られやすいでしょう。
お金がないから、何もできないと思う時、本当にそうなのかと、自分の考えを疑ってみて下さい。
自分がやりたいことは、お金稼ぎではなく、こういうことなのだと、はっきりすれば、それに向かって一歩ずつ、今できることをやってみて下さい。
そうすれば、必ずやりたい事はできるでしょう。
自分の望みが叶った姿を思い描く時、お金を稼いで成功している姿を、思い浮かべるのは間違いです。
望みの方向がずれています。
自分がやりたい事に、一心に打ち込んでいる姿を、思い浮かべて下さい。
それは、あなたがたどり着くのを待っている、確定したあなたの未来の姿なのです。

弱肉強食 その2

人間社会でも、弱肉強食の世の中などという、見方があります。
お金や権力がある人、有名人や人気者、特殊な技能や才能を持つ人。
こういう人たちは、人生の成功者とされ、余程ヘマをしなければ、暮らしに困ることもなければ、楽しい生活が約束されているように、見えるかもしれません。
一方、お金にも権力にも縁がなく、自慢できるものが何もなく、他人から注目なんかされたことがない、という人たちは、毎日を窮屈な思いで過ごし、将来への不安も抱えています。
高給など期待できるはずもなく、安い賃金でいいように使われるばかり。
お前の代わりなど、いくらでもいるぞと、言わんばかりの待遇に耐えながら、生きるのに必死の暮らしです。

こんな関係を見れば、世の中は弱肉強食で、自分たちは会社のいいようにされている、と思いたくなるでしょう。
その会社も、小さなものは大きなものに吸収されたり、ライバル会社との戦いに敗れて、潰れてしまうものがあります。
これも一見すれば、弱肉強食の構図でしょう。
でも、誰が強者で誰が弱者なのかと、決めつけてしまうのは早計です。
会社は従業員があって、初めて成り立ちます
従業員全員に辞められると、どんなに大きな会社であっても、すぐに潰れてしまいます。
それまで経営者として、ふんぞり返っていた人たちも、あっと言う間に全てを失い、失業者になることでしょう。
小さな会社も、工夫しだいでは、大きな会社に吸収されずに済みますし、ライバル会社と共存することも可能です。
何もしないで威張っている政治家たちを、本気でなくそうと思うのであれば、みんなが選挙で落とせばいいのです。
比例代表という仕組みも、みんなが怒ってやめさせるべきでしょう。

力が強いと思われる人たちが、その地位を守るための方法は、他の人々に、お前は弱者で逆らえば生きて行けないぞ、と思い込ませることです。
学歴があろうがなかろうが、財産があろうがなかろうが、資格があろうがなかろうが、そんなのは関係ありません。
自分で自分を弱者だと決めつけなければ、現状を打破するための力が、必ず湧いて来ます。
こういう生き方でないと、生きて行けないぞと、上の人間に都合のいい人生モデルを、多くの人はすり込まれています。
でも、暮らし方は様々です。
誰かが作った枠にはめられた、人生モデルなど必要ありません。
自分の人生を作るのは、自分自身です。
また、世の中は弱肉強食だと思うのではなく、助け合いだと思えば、同じ世の中が、全く違うように見えるでしょう。

植物が動物に栄養を与えるように、他の人たちのために生きることを、生き甲斐とする人たちも、世の中には少なくありません。
そんな人たちの生き方を見れば、世の中が弱肉強食ではないと、わかるでしょう。
また、何がその人たちの原動力になっているのか、確かめてみて下さい。
きっと、自分が自分らしく生きるための、大きな力をもらえると思います。
弱肉強食 その1

弱いものが、強いものの餌食になることを、弱肉強食と言います。
ネズミやウサギが、キツネに捕食されたり、小魚が大きな魚に食べられたり、小鳥がワシに襲われたりと、弱肉強食と表現されるような場面は、いろんな所にあります。
しかし、体の大きな生き物や、攻撃力のある生き物が、強い生き物で、捕食される側の生き物が、弱い生き物だと決めつけるのは、問題があります。
たとえば、人間は野生の動物と比べると、とても非力です。
日本では、毎年山に入った人が、クマに襲われる事件が起きています
最近では、餌がないためか、クマが里に下りて来て、人が襲われるというケースもあります。
このように、まともにクマと戦えば、人間に勝ち目はありません。
しかし、人を襲ったクマは殺されますし、人間がその気になれば、山のクマを絶滅させることも可能です。
それは、人間には強力な武器や、クマの動きを察知する技術があるからです。
その生き物が強いか弱いかを判断する時、その生き物が作り出す環境も含めて、考えなければなりません。
また、強力な感染症に罹患すると、クマも人間も死んでしまいます。
感染したウィルスや細菌は、感染した生物の中で増殖し、細胞を破壊します。
生き物には免疫力がありますが、免疫力が機能しなければ、ウィルスや細菌に太刀打ちできません。

では、ウィルスや細菌が弱肉強食の強者になるのかと言うと、そうではありませんね。
いかに強力なウィルスや細菌でも、全ての生き物を殺すことはできません。
そのようなウィルスや細菌に対する、免疫力を持つものがいるからです。
サメは小魚を捕食しますが、サメが死ぬと、その体は小魚の餌になります。
何が強くて、何が弱いのか、どの視点から見るのかで、その答えは変わって来ます。
ちなみに、「弱肉強食」という言葉が、英語では何と言われるのか、辞書で調べてみました。
すると、the jungle law とありました。
ジャングルのルールということですね。
英語圏の人たちは、野生の生き物たちについて、そのように見ていたということでしょう。
確かに、捕食するものと、捕食されるものが存在するので、それが自然界のルールのように思えてしまうのですね。
ただ、肉食動物が強者で草食動物が弱者である、というような見方は間違っています。
同じ生き物でも、その生き物が置かれた環境や、体の状態などによって、強者にもなれば弱者にもなります。
トラだから強者だとか、シカだから弱者だと、決めつけてはいけません。

植物は根から養分を吸収し、葉で光合成を行います。
食虫植物のように、虫を捕らえる植物もいますが、大半の植物は捕食をしません。
捕食はされても、捕食はしない。
これは動物同士の関係とは、全く異なるものですね。
まるで、動物たちが生きて行けるように、土の中や大気中にある分子を、動物が取り込めるような形に、作り直してくれているようです。
慈愛ですね。
植物も生物ですが、弱肉強食の弱者というより、慈愛に満ちた母親という方が、しっくりするように思います。
自然界の生き物たちの関係を、どのように見るのかは自由です。
でも、弱肉強食という言葉で、一括りにするのは無理があるでしょう。
異星人が現れたら

異星人が目の前に現れたら、あなたはどうするでしょうか。
悲鳴を上げて逃げますか。
恐ろしくて固まってしまうでしょうか。
やられる前にやってやると、殴りかかりますか。
見たことがない生き物が、突然現れたら、それが異星人でなくても驚くでしょう。
でも、それが可愛らしい姿をしていれば、驚きはしても、恐ろしいとは思わないですよね。
猛獣や爬虫類など、怖い生き物に似ていると、恐ろしい生き物に違いないと、考えるでしょう。
どんな生き物にも似ていない、異様な姿をしていたら、怪物だと思うに違いありません。

しかし、相手が恐ろしい存在かどうかは、見た目ではわからないはずです。
可愛らしい姿をしていても、獰猛な性格の動物もいます。
撫でてやろうと、下手に手を出したら、怪我をさせられてしまいます。
恐ろしい姿をしていても、キングコングは女性に優しいですし、(昔の)ゴジラやガメラは子供の味方でした。
アメリカのヒーロー、ハルクも見た目は怪物ですが、人間の味方です。
映画のスターウォーズに出て来る 異星人は、異様な姿をしていますが、恐ろしい存在なのかと言うと、そうではありませんよね。

そもそも、人間と姿が異なる異星人から見れば、異様な姿をしているのは、我々人間の方でしょう。
それでも、人間は自分を中心に考える質で、自分たちの価値観で、相手を判断しようとします。
それは、同じ人間同士の間でも、よく見られることですし、様々なトラブルの原因にもなります。
同じ人間同士でも、自分との違いで、相手を悪く見てしまうのですから、異星人が現れたら、とんでもない騒ぎになるでしょう。
しかし、知性の高い人であれば、同じ人間同士が争ったり、優劣を決めることが、馬鹿げたことであると、理解できます。
そんな知性の高い人は、きっと異星人が現れても、その姿だけで相手のことを、判断したりはしないでしょう。

友好的な異星人に対して、偏見を持たずに接することができたなら、私たちが知らない知識を、教えてもらえるに違いありません。
アメリカ政府がUFOの存在を認めたので、UFOや異星人への関心は、以前よりも高まっていると思われます。
まるでSF映画のようですが、いずれ異星人が、私たちの前に姿を現す日が、訪れることになるでしょう。
その時には、うろたえたりパニックにならないようにしたいものですね。
自分と異なる姿の存在に対して、敬意を払えるよう、今から心構えをしておくのがいいでしょう。
それは自らの知性を、磨いておくということです。
オリンピック体操男子個人総合
東京オリンピックの体操男子総合決勝が行われ、日本の橋本大輝選手が、金メダルを獲得しました。
日本人としては、とても嬉しいことです。
でも、私はそれ以上に、二位の中国選手と三位のロシア選手の爽やかさが、強く印象に残りました。
体操選手たちは国が違っても、お互いに仲よしのようなのですが、それにしても爽やかでしたね。
競技を離れたら友人だと言いながら、負けたら悔し涙を流したり、自分の順位に納得が行かないと、ふてくされる人がいるのも事実でしょう。
それなのに、彼らのように相手の勝利を、心から祝福する姿はメダルの色以上に、見ている人の心を打ったのではないでしょうか。
国としては、日本と中国、ロシアは仲がいいとは言えません。
お互いに相手の出方を探り合い、領土や権利など、自国を有利にするための駆け引きを、ずっと続けています。
選手たちが本当に、国の代表として出場しているならば、選手同士があのように、仲よくしたりはしないでしょう。
つまり、国の代表という立場ではあっても、選手同士は一人の人間として、お互いを認め合っているということです。
そして、その姿は自分たちがどうするべきなのかを、それぞれの国に対して、示しているように見えました。
自分が獲得したメダルの色に固執せず、同じ体操の選手として、互いに認め合い称え合う姿は、オリンピックの本当の意義を象徴したものです。
またそれは、これからの世界のあるべき姿であり、きっとそうなるであろう姿なのです。
世界中で多くの問題が起こっていますが、これからの世界を背負う彼ら若い世代は、古い世代の過ちを正し、新たな世界を築くことでしょう。
今回の競技を見ていて、強くそう感じました。
普通ということ
普通とは何でしょう。
辞書によれば、「特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それが当たり前であること」とあります。
つまり、よくあることとか、特に珍しくもないものは、「普通」となるのです。
ただ、この言葉を使う時、それがいつものことだと、伝えているだけでなく、その状況を変える必要性を感じていない、という気持ちも示しています。
たとえば、学校や職場で多くの人が、互いの顔を見るたびに、いがみ合ったり争ったりしているとしましょう。
その場にいる人が、そのことを外部の人から聞かれると、「普通だよ」ということになるでしょう。
この人にとっては、当たり前の光景であって、別にどうってことはない、という意味です。
言い換えれば、この人はこの争いの状況を、改善するつもりはない、ということです。
同じように、いじめや差別を受けている人がいても、それがいつものことだと思われると、誰もそれを止めようとはしなくなるでしょう。
別にどうってことない、いつものことと、とらえているからです。
国を動かす政治にしても、役に立たない政治家が、好い加減なことばかりしていても、「自分の国は、これが普通なんだ」と思ってしまうと、政治を変えようとは思わないでしょう。
大多数の人が何も言わなければ、それは「普通」になってしまいます。
少数の人の意見が通らなくても、それは「普通」なのです。
でも、ある人にとっては普通でも、他の人にとっては普通ではありません。
普通とは絶対的なことではなく、相対的であり主観的です。
また、普通という言葉を用いる時、その人は思考を停止しています。
「普通」だから、考える必要はないのです。
しかし、これは知性を持つ人間としては、よくないことです。
思考を停止すると、知性が発達しないからです。
日本人が外国で礼儀正しくして、驚かれたり褒められたりした場合、日本人にとっては、それは普通のことだと思うでしょう。
でも、これだって普通だと思うと、マナーの悪さが目立って来ていることに、目をつぶるのと同じです。
普通じゃないのです。
礼儀正しくする人は、その人個人が、礼儀を重んじているだけであり、日本人として普通ではないのです。
普通という言葉は、目の前にあるものを、見えなくする力があります。
普通という言葉を使いたくなる時は、自分が何かを見落としていないのか、よく確かめてみたらいいと思います。
世界と意識 その2

人間が認識している世界は、人類の集合意識が創り出したものと言えます。
そして、私もあなたも人間である以上、この集合意識に加担しているわけです。
世の中がどうなるのかわからない、と考えている場合、自分と世界が切り離されているように、受け止めているはずです。
自分で世界をコントロールできないから、どうなるのかわからないと不安になるのです。
でも、世界が人類が創った幻想で、自分もその幻想の一部を、創っているのだと考えてみて下さい。
世の中の流れがどうなるかに関係なく、自分が関わる部分については、自分の想いが創っているのです。
と言うことは、自分が関わる部分は、自分が積極的に影響を及ぼして、その状態を変えることができるということです。
つまり、自分で判断し決断し行動することで、自分が関わる部分については、周囲とは異なるものにできるのです。
周りが不安や恐れで一杯でも、あなたのいる所だけは、希望と喜びがある、という風にできるでしょう。

それは、周りにお金がないのに、あなたの所だけ、お金があるという意味ではありません。
お金が必要ならば、お金を手に入れることになるでしょう。
でも、あなたの喜びにお金が必要とは限りません。
お金は喜びを達成するための、一つの手段に過ぎません。
他の手段があるのであれば、お金ではなく、そういう手段を手にすることになるでしょう。
お金がないと不安になると言っていると、その不安があなたの世界の現実になります。
あなたの想いが、あなたの現実を創るからです。
自分がどんな生き方をしたいのか、どんな人間でありたいのか。
そこをはっきりさせた上で、実際にそういう生き方を進めて行けば、きっと満足できる人生を、送ることができると思います。

こんなこと、できるはずがない。
この歳で今更、そんな生き方をするのは無理だ。
できる人もいるだろうが、その人は特別なのだ。
こんな風に考えていては、できるものも、できなくなります。
そういう想いが、あなたの世界に反映されるからです。
自分は何をしたいのか、どうありたいのかがポイントです。
本当にそう思っているのであれば、現在の状況に応じて、そういう動きを取るはずです。
思うばかりで動かないのは、それほどには思っていないということです。
また、いつかはできるかもしれないけど、今は無理、という想いがあるのかもしれません。
と言うことは、無理なわけですね。
とにかく、愚痴っていても、自分が大変な状況は変わりません。
何も損をするものはないでしょうから、自分は人類意識の一端を担っていると、自覚してみて下さい。
それから、何も疑わず、自分が思ったとおりの生き方を、してみて下さい。
お金稼ぎを目的とするのではなく、自分の本音を目的とするのです。
他人から見ると、大変そうに見えるかもしれません。
でも、自分で見ると、満足できる人生になると思いますよ。
世界と意識 その1
人間は体の知覚である五感を元に、世界を認識します。
他の生物たちは、それぞれの持つ感覚を元に、独自の世界を認識しています。
それがどんな世界なのかを、人間は知ることができません。
人間からすれば、同じ空間、同じ世界にいるのだから、犬や猫、昆虫たちも、人間と同じ世界を認識しているだろうと、思いたくなります。
でも、彼らは彼らの世界を認識しているのです。

バクテリアにとって世界とは、養分か養分でないかに過ぎないでしょう。
植物にとって世界は、光と水と養分を、エネルギー的に感知したものだと思います。
人間の視覚的世界とは違って、そのものの存在を感じ取るようなものでしょう。
人間と目の構造が違う昆虫たちは、どのように世界を眺めているのでしょうね。
動物たちは人間と同じ世界を、見ているように思いますが、見えている色が違うかもしれません。
人間にはない感覚があると、世界の感じ方が人間とは違うはずです。
いずれにしても、同じ空間にいるはずのものたちですが、それぞれが違う世界を認識し、体験しているのです。

人間にとっては、みなさんが認識し理解している世界こそが、本物の世界です。
他の世界の存在など、考えもしませんから、この世界が唯一のものであると、みなしたくなります。
でも、生き物あるいは存在物の意識によって、認識できる世界は様々です。
私たちが知っているこの世界は、その中の一つに過ぎません。
私たちの世界とは、私たちの意識が創り出した、一種の幻想なのです。
とは言っても、自分が生まれる前から、世界は存在しているし、自分が死んだあとでも、世界は存在し続けるはずだと、誰しもが思いますよね。
個人的な意識から見れば、確かにそう見えるでしょう。
しかし、人類全体の意識、いわゆる集合意識として考えると、どうでしょうか。
私たち人間が認識している世界が、人類の集合意識が創り出した幻想だと考えれば、一個人の生死に関係なく、人類が存続し続ける限り、この世界は存在し続けます。

もし人間が一人残らず、死ぬような状況になると、この世界は消滅します。
それは、目覚めたあとの夢が、消えてしまうようなものでしょう。
でも、再び眠りに就いて、消えたはずの夢の続きを見ることがあります。
それと同じように、人類の集合意識が、人間に似ている知性体として、生まれ変わることを選択すれば、再び世界は再現されると思います。
そして、この知性体は地球を発見すると、かつてそこにいた人類という知性体の、名残を見つけるかもしれません。
内子座

内子にある内子座という、芝居小屋へ遊びに行って来ました。
内子座は、大正5年(1916年)に大正天皇の即位を祝って、創建されたそうです。
文楽や歌舞伎、落語などの伝統芸能のほか、芝居やコンサート、ピアノの発表会など、いろんなイベントに利用されています。

廻り舞台になっているので、奈落と呼ばれる舞台の地下には、円盤状の舞台床を回転させる装置があります。
昔は人力で回していましたが、今はモーターで回転させるそうです。

また、出演者が床からせり上がって登場するための、せりと呼ばれる昇降装置や、すっぽんと下から跳び上がるように登場する、すっぽんと呼ばれる昇降装置もあり、面白いですよ。

一番目の観客席は、舞台のすぐ際にあり、芝居などを演じる者と観客の距離が、とても近いのが特徴だそうです。
観客がすぐ目の前にいるので、演者の動きをしっかり見られるため、演者にとってはごまかしが効かない、勉強の場なのだと説明されました。
ちなみに、この日内子座を訪れたのは、かつて日本のあちらこちらにあった、活動写真を上映していたからです。
当時の映画は無声映画で、画面の中の人物は、口は動かしても声は出ません。
要所要所で台詞が書かれた画面が出るだけですが、台詞が全くない場面が、ほとんどです。
それで、活弁士と呼ばれる人が、脇で台詞を喋ったり、状況を説明したりするのですね。
その活弁士付きの活動写真を、内子座で上映するというので、一度観てみようと思い、訪ねてみたわけです。
上映された映画は、約100年ほど前のもので、当時の人たちは、こんな風に楽しんでいたのだなと、昔の雰囲気を味わわせてもらいました。

コロナ騒ぎのお陰で、愛媛でも多くの人が、遊びに出かけることを自粛していました。
それでも、感染者が減って来ていることや、ワクチンが広がっていること、それに政府の緊急宣言の効果切れなどで、人の動きがかなり増えて来たようです。
内子も人があふれるほど、観光客がいたわけではありませんが、食事処やカフェには、次々にお客が入って来るほどの、盛況ぶりでした。
結局は、みんなが自分たちで考えて行動するのですね。
コロナについても、闇雲に恐れるのではなく、何が怖くて何が怖くないのか、自分で判断することが大切なのだと思います。
以前と同じような風景が戻ったとしても、そこにいる人々の心の中は、きっと以前とは異なっていることでしょう。
始まったオリンピック

いろいろ問題を抱えながら、東京オリンピックがついに開催されました。
観客がいようといまいと、懸命に競技をする選手の姿を見せられると、自然と引きつけられ、声援を送りたくなります。
オリンピックの開催に反対していた方でも、そこの所は同じだと思います。
何故なら、選手は競技をしたいだけであり、その気持ちは政治やコロナとは、関係がないからです。
しかし、その選手たちの想いを利用して、お金を儲けようとしたり、地位や名誉と得ようとする輩が、うじゃうじゃいるのは、誰の目にも明らかでしょう。
そのような者たちを遠ざけた、選手と世界平和のためのオリンピックを、今回の混乱を生かして、築いてもらいたいものです。
そのためには、まず選手たちが声を上げるべきでしょう。
どこかの国の放映時間に合わせた、大会スケジュールなどやめさせるべきです。
また、国の威信を懸けた金メダル争いというのも、やめないといけません。
金メダルは頑張った選手個人に与えられるものであり、国は関係ありません。
オリンピックは国際平和のための場であり、国の威信を見せつけたり、争ったりする所ではないはずです。
自分の国の選手だけを応援するのではなく、全ての選手を応援する姿勢が必要です。
また、お金や設備がたくさんある国ばかりが、優勝する大会なんて、全然国際平和と結びついているとは思えません。
実際は金メダル争いに必死になっているくせに、参加することに意義があるなどという、きれい事はやめるべきです。
結局は、力のない国は力がある国の、引き立て役にされているだけです。
参加国が少なければ、大会に箔が付かないので、多くの国を参加させようとしているのです。
貧しいとされる国にも、その国の競技があるのなら、それをオリンピック競技に取り入れたらいいと思います。
あるいは綱引きのような、設備がない国でも、優勝するチャンスがあるような競技を、選ぶのもいいでしょう。
一部の国ばかりがメダルを集める大会は、絶対におかしいと思います。
貧しい国ができないような競技をするのなら、富める国は貧しい国の選手を招待して、自国の選手と同じように練習できる環境を、提供するべきです。
大会そのものではなく、大会を成功させるための、普段の活動こそが、本当の国際平和につながるものなのです。
オリンピックの間だけ、争いごとをやめようという呼びかけも、実に虚しいことですね。
オリンピックが始まったら、殺し合いを中止して、オリンピックが終われば、再び殺し合いを始めても構わない、ということですから、全く馬鹿げたことです。
オリンピックは、富める国も貧しい国も、平等に参加できる大会であり、富める国が貧しい国に、手を差し伸べる活動の象徴であるべきです。
そうなれば、きっとスポーツ以外のことでも、同じことが行われるようになるでしょう。
それこそが、本来のオリンピックの意義であり、目的なのだと思います。
金メダルを目指すのは、真剣勝負の証です。
また、人間の可能性を追求するものでもあります。
金メダルを手に入れた選手が、称賛されるのは当然です。
しかし、大会そのものの意義や目的が、どこにあるのかということは、選手も運営スタッフも、競技を見ている各国の人々も、忘れてはなりません。
メダルを争っていても、お互いは敵ではなく友であり、家族なのだということを、人々に示すのがオリンピックです。
今回のオリンピックを通して、人々が本物のオリンピックを求めるようになることを、私は強く期待します。