やり直しの人生 その2

好き勝手に暮らして来たはずが、死が迫った時に、家族の気持ちを考えていなかったとか、本当にやりたかったことに、初めて気がつくということが、あると思います。
自分の本当の想いが顕わになった時、そして、その想いを表す機会が、既に失われてしまったと知った時、人は真の後悔を経験することになるでしょう。
もし、人生をやり直せるのなら、もし、自分にもう一度チャンスを与えてもらえるなら、今度こそ、こういう風にしたい、いや、絶対にこうして見せる、と思うはずです。
ドラマや映画であれば、限定された時間の中で、もう一度やり直す機会を、与えてもらうという話がありますよね。
ドラマや映画で、そんな物語を観たならば、とても感動するでしょう。
でも、実際に自分がその物語の主人公と、同じ状況にあるとは、誰も思いません。
そんなことは、創作された物語の中だけのことだと、思い込んでいるのです。
でも、本当にそうだと言い切れるでしょうか。

人の心も世界も、わかっているようでわかっていない、とても不思議なものです。
今の人生が、前の人生で抱えた問題を、クリアするためのものである可能性は、否定できないと思います。
もちろん、わからないことですから、自分の人生をどう受け止めようと、それはその人の自由です。
しかし、今の人生が自分に与えられた、やり直しのチャンスなのだと理解すれば、物事の見え方が、がらりと変わるでしょう。
大きな壁と見えていたものは、行くべき先でないという、案内板かもしれません。
みんなが敵意を持っているように見えたとしても、歪んだガラス板が、人々の姿を歪ませていただけと、気がつくでしょう。
何をやっても上手く行かないのは、それが自分の目的ではないからだと、理解ができます。

自分は一度人生を無駄にして、この世を去った。
その人生は悔いだらけの人生だった。
そこで、もう一度チャンスをもらって、この人生を経験させてもらっている。
そう考えると、生きていることが有り難く、また愛おしく思えるでしょう。
自分が嫌だとか、あいつが嫌いだとか、そんなことは考えなくなると思います。
何か問題が起こった、あるいは進む道が塞がれた。
そんな時こそ、自分がこの人生で、何をすべきなのかという目的が、示されているのです。

ほら、これが目的ですよ、と親切な形で表示されるわけではありません。
意外な形で、謎解きのように提示されるのです。
そもそも、それが謎解きだと思っていなければ、答えである人生の目的に、気がつくことはありません。
でも、人生というのは、そんな風にできているのだと思います。
嫌なことがあっても、人生をやり直したいと思うのではなく、すでにやり直しているのだと、受け止めて下さい。
そう受け止めるだけで、あなたの人生は、それまでと全く違う、光輝くものとなるでしょう。
やり直しの人生 その1

自分はもうだめだ。
こんな人生、もう嫌だ。
今の自分は最低。
こんな風に思って、自分の人生を諦めたくなる人、あるいは諦めてしまった人は、少なくないかもしれません。
実際、人生をリセットしようと考えたり、リセットしてしまった人もいるでしょう。
それは、今の人生から逃げ出したい、今の人生を捨てて、新たな人生をやり直したい、という気持ちの表れなのだと思います。
でも、ここでちょっと考えて欲しいのです。
今の人生は、ひょっとしたら、失敗した前の人生を、やり直すための人生ではないのかと。

大抵の方は、人生は一回こっきりだと考えていると思います。
だから、今の人生は最初で最後で、替えは効かないのだという、理解で生きるのです。
そのたった一回の人生で、成功をつかむ人もいれば、一つもいい事がないような人もいます。
一つもいい事がないような人は、他人の幸せを羨んだり、妬んだりする一方、自分のことは卑下して、運も力もない無価値な人間だと、決めつけてしまいます。
そんな中で、こんな人生はいらないと、人生を諦めたくなり、嫌いな世の中を滅茶苦茶にしてやろうと考えたり、自分の人生に終止符を打とうとするのです。
でも、人生が一回こっきりでなかったとわかったら、どうでしょうか。

前世や来世の存在を、主張する人がいます。
臨死体験で、あの世の入り口を見たという人もいます。
前世の記憶を持ったまま、生まれて来る人もいます。
これらの情報の真偽を、確かめることもなく、こんなの全部嘘っぱちだと、決めつけたくなる人は多いと思います。
そんな人たちも、死が目前に迫って来ると、前世や来世に関係なく、自分の本当の気持ちに、気がつくかもしれません。
あるいは、死を迎えてから、自分が消滅しないことを知り、そこで初めて人生には意味があるのだと、悟ることもあるでしょう。
人間は死んで終わりではありません。
物理学で言うエネルギー保存の法則のとおり、人間の心は死んでも消滅しないのです。
でも、終わってしまった人生を、取り戻すことはできません。
やるのであれば、似たような人生を、初めから体験し直すしかないでしょう。
しかし、新たな人生を迎えても、前の人生と似たようなところでつまづき、前と同じように人生を諦めてしまう、ということは大いに有り得ることです。
同じような境遇や環境で、同じような思考や価値観しか持たなければ、結果も全部同じようなものに、なってしまうはずです。
そうして、何度も何度も似たような、人生を繰り返すのです。
これはある意味、地獄のようなものかもしれません。
同じ苦痛が、延々と繰り返し続けられるのです。

今、自分がぶつかっている問題は、実は何度も繰り返す人生の中で、クリアできない問題なのかもしれないですね。
そこには、自分の本当の想いが、隠されていると思います。
だからこそ、今がどんなにどん底で、どれだけ自分が傷ついていたとしても、今こそが踏ん張り所だと、気を入れ直してみるべきでしょう。
見かけの出来事に囚われるのではなく、自分自身の本当の想い、本当の目的を求めるのです。
そうすれば、諦めていたはずの人生に、一筋の光明が差し込むと思います。
それは端(はた)から見ると、些細なものかもしれません。
それでも本人にとって、それが光であるのなら、それで繰り返して来た人生から、脱却するきっかけになるはずです。
人生という名のキャンバス
みんな同じ世界にいるように思いがちですが、一人一人は異なる世界にいます。
他の人たちと似たような世界を、体験しているのですが、あなたが認識している世界は、あなただけのものです。
同じ部屋にいて、同じ物を眺めていても、あなたと他の人とでは、視点の位置が異なります。
二人の視点を、全く同じにすることはできません。
見ている物は同じでも、見ている視点が異なれば、それは別の世界なのです。

この視点というのは、単なる肉体の目の位置、という意味だけではありません。
見えているものを、どうとらえているのか、という意味もあります。
私たちは自分の感覚と、世界を別のものだと理解しがちです。
でも、両者は同じものです。
つまり、私たちの感覚が、私たちが認識している世界を、創り上げているのです。

目を閉じれば、世界は暗闇になります。
耳を塞げば、世界は閉塞感で包まれます。
皮膚の感覚や、嗅覚・味覚がわからなくなれば、自分が世界と分離しているように思うでしょう。
感覚に障害があると、私たちは世界を感じられなくなると、考えてしまいます。
でも、そうではなく、闇であったり、閉塞感であったり、分離した感じであったりしているのも、それもあなたが認識している世界なのです。
あなたが認識する世界は、常にあなた自身の感覚の状態、取り込んでいる感覚の情報によって、創造されます。
目の前に、キャンバスがあると思って下さい。
このキャンバスが、あなたの世界なのです。
そこにどんな色を塗りたくろうと、あるいは何も塗らない、白い状態であろうと、それがあなたの世界です。
他の人のキャンバスに、似たような絵が描かれていたとしても、あなたとその人のキャンバスは別々です。
すなわち、あなたとその人が認識している世界は、それぞれの独自の世界であり、別物なのです。

視点に話を戻しますが、見る位置が違えば、必ずそこに描かれる絵は、違うものになります。
また、同じ物を表現するにも、色の使い方は人それぞれです。
青い物を、わざと赤くしようと思う人も、いるかもしれません。
抽象画のように、目に見える形ではなく、その形に隠されたエネルギーを、表現しようとする人もいるでしょう。
机に置かれた鉛筆を見て、何も思わない人もいなければ、鉛筆が絡んだ思い出を、思い出す人もいるはずです。
それによって、鉛筆のとらえ方が違って来るでしょう。
見ている物をどうとらえるかで、あなたの世界の色合いは、大きく違って来ます。
浜辺の砂や小石を見て、何も感じないのか、そこに自然の不思議さを感じるのか。
食卓に出された食事を見て、美味しさしか判別できないのか、その食事が完成するまでの、それに関係した、いろんな人々の想いに心を寄せられるのか。
森の木々を見て、そこに生命を感じられるかどうか。
自分が人間として生きていることを、全然不思議に思わないのか、深く考え、その理由や意味を追求しようとするのか。
物事をどうとらえるのかは、その人の自由です。
こうでなければいけないという理由は、どこにもありません。
ただ、感性豊かな人ほど、素晴らしい絵を描けるように、いろんなことを考え理解できる人ほど、豊かな人生を送れるのは事実でしょう。
豊かな人生を送りたいと思うなら、いろんなことを深く感じ、理解するように努めてみて下さい。
あなたのキャンバスに描かれる、あなたの人生は、個性的で素敵なものとなるはずです。
蝶々の話
松山市から山を越えて、今治市に入った所に、玉川ダムの湖があります。
そのダム湖の脇に、地元の農産物の直売所があるのですが、そこで一匹の蝶々を見つけました。
飛んでいる様子を見ると、羽の背中側は黒っぽいのですが、お腹側は白いんです。
どこかに留まる時は、羽を閉じるので、見えるのはお腹側の白い面だけです。
一見、モンシロチョウのように見えますが、モンシロチョウのような、黒い紋は付いていないし、羽の形や表面の感じが、モンシロチョウとは違います。
何という蝶々なのか、名前はわかりませんが、その蝶々がひらひら飛んで、キクラゲを入れている、黒いプラスチックのケースに留まったんです。
何が気に入ったのかわかりませんが、近づいても逃げませんし、よく見ると、触角や伸ばした口で、ケースを触れながら歩いています。
何かケースについた、甘い香りに誘われているのだろうかと思いながら、しばらく観察していたのですが、他の人が来ると、驚いたように逃げるんですね。
でも、しばらくすると、また戻って来て、元のケースの上に留まります。
そんなことを何度か繰り返したのち、また人に驚いた蝶々は、ひらひら飛んで行ったんです。
その間、私は蝶々に向かって、こっちへおいでと念じていました。
すると、向こうの方へ行ったと思った蝶々が、また戻って来て、私の手に留まったんです。
これには驚きましたし、何だか嬉しかったですね。

しばらく眺めたあと、他の所へ逃がしてやろうと思い、その場から離れて歩いたのですが、その間も、蝶々は手に留まったまま、じっとしていました。
歩いて行った方に、クモの巣があると家内が言うので、元の所に戻って来たのですが、それでも蝶々は動きません。
もう行かなければいけないので、困ったなと思いながら、少し手を動かすと、ようやく蝶々は手から離れました。
でも、辺りをひらひら舞ったあと、また戻って来て、今度は私の肩に留まったんです。
嬉しいけど、困ったなと思っていると、蝶々は自分から離れて、飛んで行きました。
何だか挨拶をされたような気分です。
ただの偶然だと思われるかもしれませんが、私は蝶々と気持ちが、通じたのではないかと思いました。
些細な出来事ですが、幸せな一時でした。
近くのパン屋さん
家から車で10分ほどの所に、素敵なパン屋さんがあります。
個性的なパンがいっぱいあるし、どれも美味しいのはもちろんですが、お店の造りや雰囲気が、またとても個性的なのです。
ひっきりなしにパンを求める客が集まる人気店ですが、お店の建物を写真に撮る人も、たくさんいます。

このパン屋さん、写真を見てわかるように、お店の建物や周辺に、たくさんの植物を植えていらっしゃいます。
小さな森の中のお店という、イメージなのでしょうか。
上の写真には入りきっていませんが、右下の車の奥には、いろんな珍しい植物を見ることができます。








本当に様々な植物があり、その面白さに魅了されてしまいます。
何で、こんな形をしているんだろう。
こんなのも、ありなんだ。
こんなの、見たことがないよ。
こんな感じで、驚きと感動でいっぱいになってしまいます。
全部ばらばらの違う姿をしているのに、互いに争い競うという感じがなく、どれもが活き活きと個性に輝いているんです。
これこそ多種多様の姿であり、多種多様だからこそ成し得る、ハーモニーだと感じました。
これはまさに、理想的な人間社会を示してくれているわけであり、私たちはこの植物たちのような、社会を目指すべきだし、それは必ず実現できるものなのだと思いました。
また、一つ一つの植物が、宇宙に存在している、様々な知性体だと見ても面白いです。
世界には人間が知らない、無数の高度な知性体や、異星人が存在していて、それらの知性体が共鳴してハーモニーを奏でている。
そんな宇宙を想像してみて下さい。
言葉では表現できないほどの、感動が生まれるのではないでしょうか。

そんな異星人や知性体たちの一部が、すでに地球を訪れていて、私たち人間が目覚めるのを、待ってくれているのだとすると、こんなに嬉しいことはありません。
近くのパン屋さんの店先で、こんな宇宙や世界を見せていただけるとは、本当に感謝ですね。
ちなみに、私もついにガラケーの携帯電話から、スマホに変わりました。
上の写真は、スマホのカメラで撮影したものです。
とは言っても、スマホの扱いには、まだまだ不慣れで、ほとんど利用できていません。
まぁ、必要がなければ使うことがないから、しょうがないですが、何か面白いものがあれば、写真を撮って紹介してみようかなと思っています。
カメラを持ち歩かなくてもよくなったので、その点は便利ですね。
自律性と統一性 その2

人間でいう自律性というのは、その人自身を表現することです。
心筋細胞の自律性とは、心筋細胞が自分の性質を、歪めずに表現することですね。
心臓以外の細胞たちも、それぞれが自分の性質を存分に発揮して、自分たちの活動を行っています。
赤血球や白血球も、お前は今日から赤血球だぞ、君は明日から白血球をやりなさい、と言われて、活動しているのではありません。
それがその細胞の性質であり、そうすることが、その細胞の存在の現れなのです。
私たちも人間だから、今の姿があるわけだし、今のような暮らしをしているのです。
今の私たちの活動は、人間であることの表現です。
しかし、まだ存分に人間であることを、表現できているわけではありません。
せっかく人間に生まれながら、人間としての自律性、つまり人間性を表現できていないのです。

私たち人間は、個人個人考え方や価値観、好みなどが異なります。
同じ世界に産まれて来ても、求めるものや、やりたい事は、人それぞれが違います。
そんな自分を素のままに表現して、自分らしく生きるということが、人間の自律性です。
その人個人の人間性なのです。
そういう目で、今の世の中を見てみますと、自律性を発揮できている人が、どれだけいるでしょう。
ほとんどの人が、自分は何をしたらいいのかわからず、世の中の流れに身を任せて、生きているのではないでしょうか。
それは、生きてはいても、仮死状態ですね。
死んでいるのと同じ状態です。

社会を心臓にたとえるならば、今の社会は心停止あるいは細動状態の心臓と同じです。
形はあっても、本来の機能は、果たしていないわけです。
心臓が機能を発揮するためには、まずは心筋細胞が自律性に、目覚めなければなりません。
人間社会が本来の姿を持つためには、まずは一人一人が自分の個性を、表現することに目覚めなければならないのです。
そうして、人々が自律性を持つようになったところで、自分たちが何のために存在しているのかを、理解することが必要となります。
心房から心臓全体の心筋細胞に、号令をかけるのは、自分たちは心臓を動かしているのだという意識を、各心筋細胞に持たせているわけです。
言い換えれば、心臓全体の意識の一部であることを、感覚的に理解させているのです。
これと同じように、それぞれの人が個性を示しながら、自分たちが社会の一員であることを、感覚的に理解すれば、自然と統一された社会が形成されるでしょう。

社会というのは、人間の集団意識の表現です。
今の社会は、大半の人が自律性、すなわち個性を表現できていません。
表現できている人がいても、ばらばらの状態です。
あるいは、間違った号令を好き勝手に出して、周囲の人々を自分に従わせようとする人もいます。
本当の号令は、誰かが声に出して言うものではありません。
それは、一人一人の心の中に、ちゃんと伝達されています。
ただ、その伝達に気がつくためには、まず自分の個性を発揮するという、自律性が求められるのです。
どういう事かと言いますと、個性を発揮するということは、自分が生きていることに満足し、幸せを感じるということなのです。
幸せを感じるようになると、幸せであることが、どういうことかを理解し始めます。
そして、他の人たちとの、心のつながりの重要性に、気がつくわけです。
他の人の笑顔、他の人の喜びが、自分の幸せと結びついているのだと知ると、自然に他の人たちへの思いやりを、持つようになります。

同じような気持ちを持つ人々は、自然に集まり始め、一人ではできなかったような活動が、可能となります。
それは初めは小さなグループですが、やがて大きなグループへと、発展して行きます。
誰かが指示して行うのではなく、みんなが自分で考えて動くのです。
組織ではなく、仲間なのです。
したくもないのに、仕方がなくて動く人など、一人もいません。
そこにあるのは、互いへの思いやり、感謝と愛情です。
こうした動きの延長線上に、築かれた社会は、元気に血液を送り出す、心臓と同じになります。
一人も取り残されることなく、みんなが社会の一員であることを自覚して、それぞれの個性を発揮しながら、互いを喜びへ導くのです。
これが、本来の人間社会の姿であり、進化した人類の意識が示すものなのです。
自律性と統一性 その1

心臓は全身に血液を送り出すポンプとして、リズミカルに縮んだり緩んだりしています。
眠っていようが、起きていようが関係なく、心臓は一生の間、ずっと動き続けます。
どうしてそんな事ができるのかと言うと、心臓の筋肉を作っている心筋細胞が、リズミカルに縮んだり緩んだりする性質があるからです。
そうすることが心筋細胞の務めであり、心筋細胞としての自己表現なのですね。
心筋細胞一つ一つが、そのような性質を持っているので、細胞がばらばらの状態にされても、それぞれの細胞が律動的に、収縮と弛緩を繰り返します。
そんな心筋細胞の集まりだから、心臓はポンプとして動くことができるのです。
しかし、いかに心筋細胞に律動性があると言っても、それぞれが勝手なリズムで動いてしまうと、全体的にはポンプとして機能ができません。
病気で言えば、心房細動や心室細動と呼ばれる不整脈の時が、それぞれの心筋細胞がばらばらに動いている状態です。
この時の心臓を見ると、細かく震えた痙攣状態になっていて、止まっているのと同じ状況になっています。

心臓には心房と呼ばれる、血液を圧縮するための上の部屋と、心室と呼ばれる、全身に血液を送り出す下の部屋があります。
心房細動の場合、心房部分は痙攣状態にあって、機能はしていません。
しかし、心室部分は律動的な収縮を行いますので、圧縮はうまくできませんが、取り敢えず全身に血液を送り出すことはできます。
これに対して、心室細動は心室部分が痙攣状態になりますから、心停止と同じ状況になり、すぐに処置をしなければ、この方は亡くなってしまいます。
心筋細胞に自律性があっても、それを統率できなければ、全体としての機能は果たせなくなるのですね。

通常の心臓は、まず心房が収縮して心室に血液を充満させ、続いて心室が収縮して、血液が全身に送られます。
つまり、心房から心室へ順番に、各部位の心筋細胞が収縮しているわけです。
心房のある部分の細胞は、他の心筋細胞よりも、速い律動性を持っています。
それぞれの心筋細胞が、独自の律動性で動く前に、この速い律動性の刺激が伝わると、各心筋細胞は、その刺激で収縮します。
こうして心臓全体が、統率された律動性で、動くようになるのです。
のんびり気ままに動く人たちに、号令をかけて、一斉にてきぱきと、動かすようなものですね。
このように、心臓がポンプとして機能するためには、各心筋細胞の自律性と、それを一つにまとめる統一性が必要なのです。
そもそも心筋細胞に自律性がなければ、心臓は止まったまま動くことはありません。
しかし、せっかくの自律性も、統一性が加わらなければ、心臓はやはり止まっているのと、同じ状態になります。
これは、私たちの社会についても、同じことが言えるでしょう。
一人一人の自律的な動きがなければ、何も始まることはありません。
まずは、各自の動きが必要です。
では、人間の自律性とは、どのようなものなのでしょうか。
不安を煽る者 その2
不安を煽る者は、自分の周辺にいるだけではありません。
自分自身の中にもいます。
何かを決断しようと思った時、本当にそれでいいのか、と決断にブレーキをかけようとする、もう一人の自分がいますよね。
そのブレーキが適切な場合もあれば、不適切な場合もあります。
馬鹿なことをしようとするのを、思い止まらせてくれるのであれば、適切なブレーキです。
しかし、進むべき所を引き止めようとすのは、不適切なブレーキです。
今の仕事が自分に合わない。
職場での人間関係が耐えられない。
今の仕事の賃金では、生活が維持できない。
様々な理由で、転職を考えることがあるでしょう。
いろいろ悩んで、よし、別な所で働こうと思っても、いざ、行動を起こそうとする時に、本当にいいのかと、不安を煽る自分が現れると、決意した気持ちが萎んでしまいます。

仕事が合わないと言っても、そんなのは、みんな同じでしょ。
そんなのは当たり前で、みんなそれを我慢してやってるんだから。
こんな風に囁く自分が、いるかもしれません。
また、実際にそう言って諭そうとする人物が、身近にいることもあるでしょう。
だけど、その言い分が正当であるという根拠は、どこにもないのです。
どうして我慢してまで、やらないといけないのか。
みんながやっているというのは、理由になりません。
みんなが騙されているかもしれませんし、そもそも誰のことを、みんなと言っているのかわかりません。
我慢している人がいても、それはその人の勝手であり、他の者には関係のないことです。
人間関係に耐えられないとか、賃金が安過ぎるということも、みんな、それで我慢してるんだ、ということを、相談した相手から言われるかもしれません。
自分の中の不安な部分は、そういう言葉を真に受けます。
それで、仕事を辞めたいという自分を、押さえつけようとします。
でも、これも根拠のない話ですから、従う理由などどこにもありません。
それでも、じゃあ辞めようと思うと、不安な自分は、今度はこう言うのです。
この仕事を辞めたところで、他にどんな仕事がある?
今のご時世、どこへ言っても同じだよ。
そこで一から始めるなら、ここで頑張る方がましだって。
何の取り柄もないくせに、ここを辞めて何ができるの?
こんな考えが心に広がると、辞めようという決意は揺らぎます。
でも、ここでもう一人の自分に言いましょう。

世界中にどんな仕事があるのか、全部調べたわけでもないのに、偉そうなことを言うな。
取り柄がないのは、そっちだろ?
誰もが同じ人間なんだから、やろうと思えば、何だってできるんだよ。
また、うまく行かなければ、うまく行くまで続けるだけさ。
余計なこと言わないで、黙って見てろって。
これは自分に対する宣言です。
こう言えば、不安を煽りたくなる自分は、何も言い返せません。
また、本来の自分も、宣言した以上、絶対にやってやるぞと、気持ちが奮い立ちます。
あとは、こうだからできないとか、こうだったらできるのに、と否定的な考えを持たず、とにかく黙々と思った方向へ、突き進むだけです。
途中に山あり谷ありでも、それが人生です。
その山や谷も、あとで振り返れば、思い出深いものになるものです。
山や谷を恐れなければ、必ず目的地にたどりつけますし、不安に悩むこともありません。
不安とは、自分の人生を受け入れる、覚悟のなさなのです。
不安を煽る者 その1

新聞や週刊誌、テレビやネット記事など、人々の不安を煽ろうとする情報は、いくらでもあります。
自分自身が不安だから、その気持ちを共有したくて、不安な情報を発信する人もいるでしょう。
でも、不安を煽るような発信をすることで、人々の注目を集めたいと考える者も、いると思います。
テレビや雑誌などは、視聴率や購読者数を稼ぐため、これでもかと言うぐらいに、不安を煽ろうとしているように見えます。
しかし、こちらが正しい情報と、正しい理解を持っていれば、いくら不安を煽る者が現れても、彼らの情報に振り回されることはありません。
要は、自分自身の問題なのです。

そんなことを言ったって、何が正しい情報で、何が間違った情報なのか、区別がつかないと言う方もいるでしょう。
そんな方は、普段から物事について、何故こうなんだろう、どうしてこうなっているのだろうと、考える習慣を持つようにしたらいいと思います。
物事には、原因と結果があります。
ただ、原因は一つとは限りません。
これが原因だと思っても、その原因に見える出来事は、何かの結果なのです。
そこには新たな原因が、見つかるでしょう。
しかし、その原因も何かの結果であり、また別の原因があるとわかります。
そうやって原因を探ると、まるでクモの巣をたぐり寄せるみたいで、何がなにやらわからなくなるかもしれません。
でも、そこからわかるのは、一つの出来事には、多くの物事が関わっているということです。
何か一つ、目立つような事が起こっても、それは全体が置かれた状況の、結果の一つとして起こっているわけです。
たとえば、熱が出た、咳が出た、と言っても、それは風邪などの病気の、一つの症状に過ぎません。
熱を下げればいい、咳を抑えればいい、という話ではないのです。
それと同じで、何か問題が起こっても、そこだけに注目するのではなく、その背景や全体像に目を向けなければいけません。
不安を煽る人たちは、物事のある一面だけを取り上げて、そこから勝手に、悪い将来像を創り上げ、いかにもそれが、確定した未来であるかのように吹聴します。

今、世間を騒がしているコロナについても、誰もが感染して重症化するような、そんな不安を広げようとしているように思えます。
確かに、若い人でも重症化するケースがありますし、感染者の増え方から見ると、今のコロナウィルスは、以前よりも感染力が強くなっているのでしょう。
でも、誰もが感染するわけではありませんし、誰もが重症化するわけではありません。
重症化する人には、他の人とは異なる、それなりの事情があるはずです。
若いからと言っても、免疫力を落とすような環境にいれば、やはり感染するでしょうし、重症化する可能性は高くなるでしょう。
若いのに感染して重症化する人が、増えているのだとすれば、コロナが怖いというよりも、若い人たちの生活の仕方を、見直す必要があるということでしょう
どんなものを食べているのか、睡眠をちゃんととっているのか、何かストレスを抱えていないか、自分らしく生きているのか。
そういう事を中心に、暮らしを見直してみるといいと思います。
何も考えずに不安になるのではなく、自分で確かめて、やるべきことがあるならば、躊躇しないで行動を起こす。
今はコロナが大きな問題となっていますが、コロナに関わらず、こういう動きが重要なのです。

不安になるということは、不安を煽る人たちを、喜ばせるだけです。
不安を煽る人たちの示す情報が、いかに偏ったものであるかを、きちんと見抜く力を、身に着けましょう。
そうすれば、不安に振り回されることはありません。
不安とは、先へ進むための情報不足を、示しているのです。
互いに好きになる

誰かを好きになる。
相手もこちらを好きになってくれる。
互いに好き合う、相思相愛って素敵ですよね。
でも、この好きになるのに、何か理由があると、気持ちが変わるかもしれません。
例えば、相手の容姿に惚れたとします。
その相手が大怪我をしたり、大病になったり、あるいは歳を取ったり、食生活が変わったりという理由で、出会った頃とは異なる容姿になることって、ありますよね。
その場合、惚れた容姿が変わってしまったということで、好きだったはずの相手から、心が離れてしまうかもしれません。
スポーツが得意だから、頭がいいから、お金を持っているから、優しいから。
いろんな理由で、相手に魅力を感じる人はいるでしょう。
結婚相手の条件として、そういうことを並べる人も、いるのではないでしょうか。
でも、そういう理由で一緒になっても、その理由が解消されてしまうと、二人の仲も解消になってしまうと思います。
本当に誰か好きになった場合、どうして好きになったのかと、理由を聞かれても、うまく答えられません。
それは、その人自身、その人の存在そのものに、惹かれたからです。
姿が変わろうと、歳を取ろうと、貧乏になろうと、他の人が離れようと、そんなことは一切関係ありません。
その人に惹かれたのですから、何がどうなろうと、惹かれる気持ちは変わらないのです。
お互いに相手を、そんな想いで好きになったなら、まさに運命の人との出会いと言えるでしょう。

ところで、この誰かを心から好きになるということって、どういうことでしょうか。
人が人を好きになるなんて、別に珍しいことではありません。
言い換えれば、そんなのは当たり前の話です。
でも、当たり前であっても、それがどういうことなのかは、なかなか説明できないのではないでしょうか。
それは、磁石のN局とS局が、引っ付き合うのは当たり前だけど、どうして引っ付くのかは、うまく説明できないのと同じです。
原子はプラス電荷の原子核と、マイナス電荷の電子が、互いに引き合うことで、できています。
これも、何故マイナスとプラスが引き合うのか、その理由はよくわかっていないと思います。
ところで、真空と思われる空間に、強力なガンマ線を放射すると、ある一点において、ガンマ線が消失し、そこからプラスの陽電子と、マイナスの電子が飛び出します。
この陽電子と電子は、別々の方向に飛び出したあと、互いに引き合い、最後には合体して消えてしまいます。
すると、その一点から、先ほどのガンマ線が、再び現れるのです。
これは、空間は全て均一なのではなく、ガンマ線が引っかかるような、歪みがあるということと、ガンマ線のエネルギーは、空間の歪んだ一点を、陽電子と電子に分離させるということを、示しています。
つまり、何もない0だと思われている空間には、実は、互いに向きが正反対で、同じ大きさのエネルギーの波が、重なって存在しているということです。
二つの真逆の振動エネルギーが、重なって存在しているので、見た目には、互いの波が打ち消されて、何もないように見えるのですね。
ポイントは、本来一体になっていたものが、二つに引き離されると、再び一つになろうとすることです。
これを、素粒子レベルの愛だと理解すると、面白いと思いませんか。
お互いを愛し合っているから、お互いを好いているから、一つに戻ろうとするのです。
それは、世界が愛で創られていると、いうことですね。
私たち人間も、愛で構成されていると言えるでしょう。
また、互いを心から好き合う人たちは、元は一つの魂が、二つの心に分かれたのかもしれませんね。
だから知らない間に、お互いに近づき、離れられなくなるのです。

もしかしたら、分かれた魂は、同じ性の体に宿るかもしれません。
あるいは、年齢がとても離れた体に、宿るかもしれません。
また、心では惹かれ合っているのに、世の中の常識や価値観が、二人の邪魔をするかもしれません。
それでも、元々一つだった二人の心は、一つになろうとするのです。
誰かを本当に好きになるって、こんなことではないかと思うのです。