世界について考えよう その2

水槽の中で飼われている、金魚やメダカには、水槽の中だけが世界です。
水族館で生まれて育てられた、イルカやアシカたちも、同じようにそこが世界だと受け止めているでしょう。
ただ、イルカは知能が高いですから、自分がいる場所以外にも、別の世界があると考えているかもしれません。
狭いプールの中を泳ぎながら、どこかにある広い世界に、想いを馳せている可能性はあるでしょう。

同じように、私たちはこの世界に暮らし、普段はここ以外の世界については、考えることをしません。
日常の暮らしに埋没し、生活に直接関係ないと思われれることには、関心を振り分けようとはしないのです。
それは、水槽で飼われる金魚やメダカと同じです。
しかし、知識や真理に好奇心を向ける人は、こことは別の世界へ、想いを馳せることでしょう。
プールの中のイルカと同じです。
ただ、プールの中のイルカが、自分で海へ行くことはできません。

でも、ある日、水面から高くジャンプをした時、プールの壁の向こうに、海が広がっていると気がついたとしましょう。
海に興味を持ったイルカは、さらに高いジャンプを試みて、プールの壁を越えようとするに、違いありません。
壁のすぐ向こうに、別の世界があると理解するか、また、その壁を越えることをあきらめないか。
このことは、とても重要です。
壁の向こうの世界の存在を、知ることがなければ、何も始まりません。
知ったとしても、壁を超えることはできないと、決めつけていては、やはり何も始まりません。
何とかして超えてみせるという意気込みで、挑戦して始めて、新たな世界へ飛び込むことができるのです。

これは日常の暮らし方にも、活用できる考え方です。
今の暮らしに飽き飽きしていても、違った生き方があるのを、知らなければ何もしないでしょう。
違った生き方があるのを、知ったとしても、それは特別な人だけの、特別なものだと考えると、自分の生き方を変えることはしません。
自分もあんな風に暮らしてみたい、絶対にあんな生き方をするんだ、と心に決めて動けば、生き方は変わります。
生き方を変えるということは、ある意味で、パラレルワールドに飛び込んだと、見ることができるでしょう。
いや、恐らく私たちは、知らず知らずのうちに、パラレルワールドを体験しているのに、違いありません。
生き方を変えなかった世界から、生き方を変えた世界への、シフトを体験しているのです。
気がついていないだけのことで、パラレルワールドとは、私たちの身近な所にあるのです。
世界全体ががらりと違った、こことは全く別の世界である、パラレルワールドもあるでしょう。
でも、同じような構成の世界の中で、枝分かれをするような、パラレルワールドもあるのです。

周囲の世界の様子が同じでも、一人一人が体験している世界は別々です。
あなたが体験している世界は、あなたが知覚している情報に基づいた、あなただけのオリジナルの世界です。
周囲が変わっていないように見えても、あなたが体験している世界は、前とは異なる世界なのです。
全体の世界は、全ての人々が感じている世界の、合作だと思えばいいでしょう。
世界の中で、あなたが関わっている部分は、あなたによって異なる世界に、変えることができるのです。
自分が水槽あるいはプールの中にいると思うのか、そんな所より、もっと伸び伸びした世界を望むのか、全てはあなた次第です。
世界について考えよう その1
世界について考えると言っても、今の世界情勢について考える、という意味ではありません。
世界とは何なのか、ということについて、考えて欲しいのです。
世界は、私たちが生まれた時からありますし、死んだ後も存在していると思われます。
何故なら、誰かが死んでも、世界は消滅しないからです。
それは間接的に、自分が死んでも世界は消滅しない、と示されているようなものでしょう。
しかし、それでわかるのは、世界の性質の一面だけです。
世界が何であるのかを、理解しているとは言えません。

科学が発展して、ミクロよりも微細な素粒子の世界から、宇宙全体を眺める宇宙論など、この世界を知るための手がかりが、増えてはいます。
でも、まだ世界を解明できたとは言えないでしょう。
世界を理解するということは、私たち人間を理解するということに、つながります。
人間は世界の一部だからです。

科学は客観性を重要視します。
観察者と観察の対象を、別々のものとするわけです。
そのため、世界を自分と切り離した形で、理解しようとするのですが、それでは理解ができません。
人間に心があるのを認めても、他の生き物に心があるとは、素直に認めませんし、ましてや植物や鉱物などにも心があるなんて、有り得ないと考えるのです。
しかし、心がある自分が世界の一部であるならば、世界そのものに心があっても、不思議ではないし、何も矛盾しないと理解ができるでしょう。
世界に存在する、あらゆるものに心があると考えたら、素敵だとは思いませんか。
人間の意識は、人間の心が頭脳を介して、変換されたものだと考えてみて下さい。
動物の意識は、動物の心が同様に変換されたものです。
頭脳を持たない、植物や鉱物などはどうでしょうか。
それらの心は、心のままなのかもしれませんが、頭脳を介したのとは別の、意識形態を持っている可能性もあるでしょう。

たとえば、心を水にたとえてみると、川の流れが意識です。
心である水が、川という形を持ったのが、意識なのです。
しかし、川ができるためには、大地が必要です。
水と大地の協力によって、初めて川の流れは、成立するのです。
この大地が、いわゆる物質エネルギーだとしましょう。
心である水が、物質エネルギーである、大地と重なった時に、意識である川の流れが生まれるのです。
そして、川の流れを意識とすれば、川の流れを形作る地形、すなわち谷や河原や川底などは、人間で言えば、頭脳になるのです。

川にもいろいろあるように、意識の形にも、いろいろあると考えられます。
人間の意識を作るような川は、複雑な形をしているでしょう。
一方、植物や鉱物の意識を表す川は、とても単純な形だと思われます。


そんな感じで、世界中は心あるいは意識にあふれた所だと、考えることができるでしょう。
他の存在と、心を通わせることができたなら、それは互いの心が、繋がっているということです。
動物を家族のように見る人は、動物と心が繋がっています。
植物に話しかける人は、植物と心が繋がっています。
山を崇めたり、海に感動する人は、山や海と心が繋がっています。
夕日に涙を流し、壮大な宇宙と一体感を感じる人は、太陽や宇宙と心が繋がっています。
このように、他の存在と心を通わせている、自分に気がついた時、私たちは世界と自分が一つであると、知ることができるのです。

争いと生まれ変わり
生まれ変わりの話は、何等かの形で、誰しもが耳にしたことが、あると思います。
映画や小説などの物語でも、生まれ変わりの話は、たびたび登場します。
それは不思議な話であると同時に、ロマンを感じさせてくれるものです。
また日常的にも、生まれ変わりがあるかもしれないと、受け止めている人は、少なくないようです。
とは言っても、本当に生まれ変わりがあると、確信している人は少ないでしょう。
別の記事で紹介していますが、生まれ変わりについて、真剣に取り組んでいる学者たちがいます。
彼らの集めた情報に基づけば、生まれ変わりはあると考えるのは、合理的なようです。
また、これも別の記事で紹介してる、ヘミシンクという技術を用いて、変性意識状態になることで、自分の前世を探ることも可能です。
それが本当かどうかを確かめたい人は、前世の自分の名前だとか、年号や土地の名前などを、記録しておくのですが、それらしい事実が確認できることも、あるようです。
とにかく、生まれ変わりは実際にある現象で、生まれ変わる先が、必ずしもそれまで暮らした、国や地域と同じだとは、限らないようです。
外国の方で、何故だか日本の文化に心が惹かれ、日本に移住するという人は、結構いるようですが、それらの人も、いずれかの前世で、日本人だったのかもしれません。
もちろん、その逆もあるわけで、日本以外の国に憧れ、どうしてもそこへ行きたいと感じる人は、前世でそこに暮らしていた、可能性は高いと思います。
そんな感じで、みんなが、いろんな国で生きていた経験があると考えると、国同士の争い、あるいは宗教や民族間の争いなどは、全く馬鹿げたことに見えます。
何故なら、争っている者同士は、互いに相手を悪く言いますが、前世では自分が、相手側の人間だったかもしれないからです。
前世では向こう側にいて、こちら側の人間が悪いと言い、今世ではこちら側にいて、向こう側の人間が悪いと言うのは、とても滑稽だと思います。
もし、生まれ変わりというものを、もっと多くの人が認知すれば、世の中の争い事は、かなり減るのではないでしょうか。
相手を悪く思うのではなく、相手への敬意や思いやりの気持ちが、自然に芽生えて来るでしょう。
お互いの立場や考え方を理解し、尊重できるようになるのです。
生まれ変わりは、未だに神秘的なオカルト話のように、受け止められていますが、生まれ変わりを認めるかどうかで、私たちの日常の暮らし方は、大きく変わって来るでしょう。
死ぬということを、無闇に恐れることもなくなると思います。
人生は一回こっきりだという考えから、解放されて自由になれるでしょう。
その結果、今の自分の姿や環境を、受け入れやすくなり、今回の人生の課題を、探ろうとするはずです。
世の中では、平和という言葉だけが、虚しく響いています。
みんな、本気では考えていないし、本当に平和を望んでいるとは思えません。
本当の平和など有り得ない、と考えているようにも見えます。
しかし、それは知識不足です。
みんな一緒なんだという理解こそが、真の平和をもたらしてくれます。
そのためにも、生まれ変わりについて、一人一人が真剣に考えてみるべきだと思います。
パラリンピックと子供たち
今回、東京で開催されたパラリンピックは、テレビでも多くの競技が放映されました。
これまでの大会では、オリンピックは多くの時間を取って放映されていたのに、パラリンピックになると、放映時間はごくわずかで、ほとんどがニュースでの結果報告だけでした。
これでは、いくらパラリンピックの選手たちがすごいと言っても、知らない人たちには、そのすごさはわかりません。
ところが、今回は東京開催ということだからでしょうか、パラリンピックもNHKで多くの時間を割いて、放映されました。
お陰で、多くの人々がパラリンピックを観戦することができましたし、知らなかった競技の内容や、障害を物ともしない選手たちの活躍ぶりに、日本中が感動しました。
コロナの影響で、ほとんどの競技が無観客状態で行われましたが、たとえ観客を入れたとしても、テレビでの放映に比べると、その影響度は小さかったでしょう。
そういう意味で、今回のパラリンピックの東京開催は、とても大きな意義があったと思います。
多くの人々、また多くの子供たちが、障害者に対する見方が変わったという話を、耳にするようになりました。
競技自体も面白いですし、各地方の自治体で、障害者競技が行える施設を、もっと建設すれば、さらに認知度はアップすることでしょう。
そこで障害のない人も、一緒になって競技を楽しめるようになれば、最高です。
将来を担う子供たちが、パラリンピックによって、障害者へ尊敬の念を抱き、日常の中でも敬意を払う行動が、取れるようになれば、とても素晴らしいことだと思います。
運営の立場で見た場合、今回のパラリンピックが、本当に成功したと言えるかどうか、賛否両論があると思います。
しかし、人々の心に感動を与えるという視点で見れば、今回の大会は大成功だったと言えるでしょう。
テレビで感動した子供たちの声を紹介されると、とても明るい気分になります。
理屈で差別はいけないと教えるよりも、障害のある人たちの、本当の姿を見ることで、子供たちは自ら学んでくれます。
今後の社会を、よりよくするために、今回の影響が萎まないよう、みんなで盛り上がりを、持続させられるようにできればと思います。
また、さらに言えば、障害があろうとなかろうと、みんな同じ人間なんだ、という受け止め方を、子供たちが学んでくれることを期待します。
それは、障害以外の差別をなくすためにも、絶対に必要な学びです。
それに、人間以外の生き物たちも、みんな元は一緒だったんだ、と考えられるようになれば、素晴らしい世の中になるのは、間違いありません。
パラリンピック大会が閉会したことで、聖火は消えてしまいました。
しかし、選手たちが人々の心に灯した火は、今後も消えることなく、燃え続けて欲しいと思います。
思いがけない反応

お金になんか興味がないと思っていたのに、大金を手にしたら、それを使うのが惜しくなった。
LGBTを差別してはいけないと、他人には言っているのに、子供がLGBTだとわかると、落ち込んでしまった。
暴力には大反対のはずなのに、暴言を吐く相手に、手を出してしまった。
死ぬことなんか怖くないと考えていたのに、いざ死が迫るとうろたえてしまった。
自分でも思いがけない反応は、誰にでも起こることがあります。
それは意識の表面には現れていない、心の奥に潜んでいる、不安や恐れ、怒りや悲しみなどが、不意に現れるからです。

子供なんか嫌いだと思っていたのに、友だちに子供を預けられると、子供が可愛いと思うようになった。
弱い人間なんか、どうなったっていいと思っていたのに、困っている人に、つい手を差し伸べてしまった。
一人でいるのが気楽だったはずなのに、気の合う人と出会えて嬉しくなった。
こんな感じで、自分が抑え込んでいた、他人への想いが、出て来ることもありますよね。
湧き上がった想いが、愛情を表現するものであれば、戸惑いはしても、それをいいものだと受け止めるので、問題はありません。
しかし嫌な考えが、自分の中に潜んでいたとなると、これはショックなことですし、実生活に問題を生じることにもなるでしょう。
でも、心の奥底に嫌な想いが、潜んでいたとしても、それが自分の本音なんだと、決めつけることはありません。

心の中には、様々な想いが混在しており、その中に、そういう想いが混ざっていた、というだけのことです。
何と、自分の中にも、こんな想いが隠れていたのか。
と言いながら、さっさとその考えを、捨ててしまえばいいのです。
潜んでいた考えが顕わになったあと、ずっとその考えに、囚われてしまうことが問題であり、その考えを捨ててしまえば、何も問題はありません。
言ってみれば、きれいに掃除をしていたつもりの、部屋の隅に、埃がこびりついているのに、気がついたというのと、同じです。
見つけた埃を、取り除けばいいだけのことですが、それを取り除かずに、自分の部屋は汚い部屋だと、困惑するのは滑稽ですよね。
もし、自分の中に、思いがけない嫌な反応が起こったなら、慌てないで反応の元になる、ネガティブな考えを、捨ててしまいましょう。
なかなか捨てにくいと感じたならば、何故、捨てにくいと感じるのか、その原因を探る必要があります。
その考えを持つに至った理由が、自分の経験や記憶の中に、あるはずです。
それを探って、その理由に正当性がないと判断できれば、ネガティブな考えを捨て去ることができます。
心の中のネガティブな想いを、きれいに掃除できれば、すっきりした気分になりますから、思いがけない反応は、うまく利用するのがいいですね。
感動をくれたパラリンピック
コロナ騒ぎの中、オリンピックに続いて行われた、パラリンピックが終了しました。
いろいろ問題がある中で執り行われ、開催に賛成する人と反対する人に、分かれた大会でしたが、無事に閉会式を迎えることができました。
様々な意見があるとは思いますが、選手たちが懸命に戦い、観ている人々に、感動を与えたのは事実でしょう。
また、パラリンピックの開催に首を傾げる人も、問題にしているのは、コロナ騒ぎの中での開催ということであり、選手たちに反発しているわけでは、ないと思います。
大会やイベント開催に対する、政府の曖昧な態度こそが、やり玉に挙げられていたのであり、選手たちに怒りを向けていたのではないのです。
とは言っても、オリンピックも含め、選手側が自分たちは特別なんだという想いを、抱いていたとすると、それも正しいことではありません。
学校の運動会やスポーツ大会、あるいは音楽会やコンサートなど、楽しみにしていたのに、諦めざるを得なかった人や、生活がかかっているのに、何もできず困っている人が、多くいたわけですから、そういう人たちへ想いを馳せるということは、大切です。
実際、オリンピックの選手たちもパラリンピックの選手たちも、自分たちの大会が開催されたことに、大いなる感謝を抱き、だからこそ、いつも以上の力を出し切って、活躍したと思います。
パラリンピックについて言えば、肉体に障害があっても、これだけのことができるということを、選手たちはまざまざと見せつけてくれました。
競技ですから勝敗はありますが、パラリンピックで感動を覚えるのは、メダルを獲れたかどうかではなく、勝利に向かって頑張る、選手たちの姿です。
また、こんなこともできるなんて、障害者という言葉は彼らには不適切だ、と言わしめるような、そんな活躍こそが、パラリンピックの醍醐味でしょう。
腕がないから、足がないから、何もできない、ではなく、腕がなくても、足がなくても、こんなことができるぞ、ということを、選手たちは示してくれています。
障害がない人であっても、実際は、自分にはお金がない、資格がない、有力な支援者がいない、だから、何もできないと思っている人が、多くいると思います。
パラリンピックは、その考えが間違っていることを、教えてくれたのではないでしょうか。
大切なことは、自分が何をしたいのか、何に全力を注ぎ込むのか、ということでしょう。
つまり、身体的に何かが足らないとか、生活条件で何かが足らないということは、問題なのではなく、情熱を注げるものを、見つけることこそが、最も重要な課題なのだということです。
今回のパラリンピックは、このことに加えて、多くの人に、いろんなことを考える機会を、提供してくれました。
政府はあてにならない。
じゃあ、どうすればいいのか。
と、自分で考えて行動するという経験を、私たちにさせてくれたわけです。
オリンピックやパラリンピックに、賛成か反対かということも、どちらが正しいというのではなく、そうやって自分たちの意見を、堂々と示すということが重要でした。
日本人は言いたいことがあっても、いつも黙ったまま、上からの指示に従う習慣があります。
今回の騒ぎは、そういう習慣を打ち破る、大きな力になったと思います。
また、コロナウィルスを他人に感染させてしまう不安、その中で、どんな暮らしをすればいいのかという思考、学校へ行けない子供たちや、楽しみだった大会やイベントを、諦めざるを得なくなった人たちへの思いやり。
そういういろんなことが、普段の日常生活の中で、思考や感覚が凝り固まっていた、私たちの心を、解きほぐしてくれたのではないでしょうか。
開催の是非に関係なく、私は今回のパラリンピックは、オリンピック以上に大きな刺激を、私たちに与えてくれたと思います。
どう受け止めるのか

怪我や病気で、それまでとは異なる生活を、強いられることになった時、もうだめだと絶望する人は、少なくないかもしれません。
いきなり暮らしを、大きく変えられては、困惑するのが当たり前です。
でも、自分はまだ生きているし、こんなことも、あんなこともできるぞ、と思い直す人もいるでしょう。
一方で、そう思い直すことができないまま、ずっと悲嘆に暮れ続ける人もいます。
この違いは、本人が持つ物事の考え方や、価値観によるものです。
人は何かを判断する時、判断基準を選び、それによって物事に意義を見出そうとします。
不自由を強いられている状態を、ネガティブにとらえるのか、ポジティブにとらえるのか、それは、その人がどんな価値観で、生きているかによって違って来ます。
怪我や病気によって、それまでと違う生活を送るようになることで、見過ごしていた大切なことに、気がつくこともあります。
たとえば、自分を大切に想い、愛してくれる人たちの存在です。
何かに夢中になっていたり、仕事に没頭し続けることで、目を向けることがなかった部分に、目が向くようになり、それまでの人生を反省することもあるのです。
そういう人たちの中には、病気や怪我に対して、感謝の念を抱く人もいます。

同じような状況にある時に、それをどうとらえるのかは、その人の考え方次第です。
どんな考えを持とうが、それはその人の自由です。
ただ、自分の価値観によって、自分はこのような判断をしているのだと、理解している人は、多くはないと思います。
いろんな視点、いろんな考え方がある中で、自分はこのような視点、このような考え方を選んでいる。
だから、今の状況について、このように理解し、こう判断しているのだと、自分で納得するならいいのですが、実際は、そうではありません。
大抵の場合において、どうしてそうなっているのかが理解できず、自分が置かれた境遇を嘆くのです。

何で、いつもこうなんだ。
どうして、私ばかりがこんな目に遭うの。
世の中は、嫌なことばかり。
つらい状況が、自分の価値観のせいだと理解できていれば、このような不満は出て来ないでしょう。
自分の状況に愚痴をこぼす人は、自分の価値観でそうなっているとは、理解ができていないのです。
誰かのせいで、こうなった。
世の中の状況が、自分をこんなにした。
自分は不幸の星に生まれついている。
こんな感じで、自分以外のところに原因を求め、自分ではどうしようもないと、決めつけているのです。
自分は悪くない、という考えを捨て、物事がそうなった理由の中に、自分自身をも含めて考えるようにする。
物事には必ず、いい面と悪い面があるから、その両面を常に探るようにする。
どんな状況にあっても、自分に心を向けてくれている人は、存在している。
こういうことを念頭に、状況を判断するようにすれば、つらいと思っていた状況を、違ったように受け止められるようになるでしょう。
ヘミシンク体験
実は、最近アクアヴィジョン・アカデミーの、家庭学習用ヘミシンクCDを購入し、時間がある時に、ヘミシンク体験をしています。
ヘミシンクというのは、アメリカの故ロバート A・モンロー氏によって開発された、音響効果による変性意識状態を、作り出す技術です。
変性意識とは、通常の意識とは異なるものを意味しています。
体は眠っているのに、意識が覚醒している状態や、異世界を知覚したり、高次の意識存在とコンタクトを取ったりという、通常では考えられないような状態です。
そんなのは、ただの幻覚だとか、妄想や思い込みだと、言いたくなる人はいるでしょう。
しかし、何が現実で何が幻なのか、実ははっきりとした、線引きなどないのです。
この世界だけが、唯一の確固たる存在だと考えたなら、それ以外のものは、全て幻覚や妄想ということになるでしょう。
しかし、何を証拠にこの世界だけが、確固たる存在なのかと考えると、実は証拠だと思っているものが、とても曖昧だとわかるはずです。
ここでは、それについての話はしませんが、私たち一人一人にとって、この世界での体験が事実であるのと同じように、変性意識状態での体験も、その人にとっては事実なのです。
ヘミシンクはこの世界以外の世界、あるいは人間以外の知性体の存在を、私たちに示してくれています。
つまり、ヘミシンク体験というものは、異世界や他の知性体の存在が、前提になっているわけです。
そういうものに興味がある方は、体験されてみると、とても面白いと思います。
前置きが長くなりましたが、今回ご紹介するのは、フォーカス10と呼ばれる状態です。
体は眠っているのに、意識は覚醒している状態です。
普段でも、寝入りばなに自分のいびきで、びっくりして目を覚ましたという人が、いると思います。
フォーカス10とは、あの状態なのです。
いびきをかいているので、体は眠っているのですが、意識が完全に眠っているわけではないので、自分のいびきが聞こえるのです。
普通はそのまま眠ってしまいますし、このCDを聞いていても、寝不足をしていたり体が疲れていたりすると、やはり眠ってしまいます。
でも、そうではない時を狙ってやってみると、眠らないで体験を続けることができます。
いびきをかけば、体が眠っていることがわかるのですが、いびきをかいていなければ、意識はしっかり目覚めているので、自分がフォーカス10の状態にあるのか、よくわかりません。
体がそこにある感覚はありますから、体を動かそうと思うと、いつでも動かせます。
なので、本当に体験できているのかどうかは、疑わしい気持ちになります。
それでも、体が眠るということが、体が深いリラックス状態にあると考えると、別に意識が体の感覚を認識していても、構わないのだと理解ができます。
また、覚醒しているとは言っても、眠りの一歩手前の状態まで行くと、体の感覚はかなり薄まって来ます。
体の感覚に、関心が向かなくなっているような、そんな感じです。
そんな状態でいると、目蓋の裏の闇の中に、突然何かの映像が見えるのです。
それは写真のような固定した映像のこともあれば、動画のような映像のこともあります。
何だこれは、と驚いたり、それが何なのかを解釈しようと、意識を働かせてしまうと、ふっと映像は消えてしまいます。
何も考えず、映像が出るに任せておくと、映像はしばらく続きます。
場合によれば、そのまま夢の世界へ入ってしまいそうになり、そうならないように踏ん張ると、また映像は消えてしまいます。
そういう映像を、学者は脳の中に記憶されたものが、でたらめに再生されているだけだ、などと説明するでしょう。
でも、その説明が正しいという根拠は、どこにもありません。
それは、あくまでも、その学者の基準に合わせた推測に過ぎないのです。
とにかく、それが何であるのかなど、余計なことを考えずに、ぼんやり写真や映画を眺めるような感じでいると、映像を楽しむことができます。
面白いのは、フォーカス10を体験してから、普段眠りに就く時にも、いろんな映像が見えるようになりました。
また、目蓋を閉じた時に、いろんな動く模様が見えるのですが、何かの本で、それは異次元の知性体の言葉だと、書いているのを思い出しました。
私たちは、言葉は音として捉えていますが、言葉が映像であっても、別に構わないのですね。
確かに、うとうとしている時に、突然何かの音が聞こえたりすると、閉じた目の前に、目映い光が見えることがあります。
音の情報が、視覚情報に変換されることは、有るということですし、初めから言葉を、視覚情報で伝えるということが、あっても不思議ではないと思いました。
それで、眠る時に何かの模様が見えると、見えない相手に、心の中で挨拶をすることにしています。
フォーカス10はヘミシンク体験の、ほんの入り口に過ぎませんが、実に興味深い体験です。
道を切り開く
人生の道は、自分で切り開くものです。
じっと待っていても、誰も切り開いてくれません。
そんな人は、他人の道を進むしかありません。
世間の常識や価値観に自分を合わせ、他人と同じように、流行を追い求めます。
みんなが通る道を進むことに、安心感を覚えるのです。
でもそれは、とりあえず道があることへの、安心感です。
本当は自分の道がないから、その道を進むのです。

多くの日本人の場合、進学するのも、就職するのも、そこに自分の意思はありません。
親に言われたから、みんながそうするから、そこしか行けないから。
そんな理由で動いている人が、ほとんどでしょう。
仕事や生活に不満があっても、みんなが我慢していると思って、動こうとしません。
あるいは、動いたところで、どうにもならないと、初めから決め込んでいます。
危険が迫っている時や、誰かを助けようと言う時などに、みんなが息を揃えて行動することは、必要ですし大切だと思います。
しかし、普段の暮らしは人それぞれで、どういう生き方をするのかは、その人の自由です。
それなのに、その自由を捨てて、他の人と同じ道を進もうとするのは、せっかく念願のゲームを手に入れたのに、そのゲームを楽しまないのと同じです。

人生というゲームに、初めから道はありません。
道は自分で切り開くのです。
それこそが、このゲームの目的です。
なかなか、上手く進めないこともあるでしょうが、それもこのゲームの醍醐味です。
ホイホイと簡単に進むようでは、少しも面白くありません。
自分の道を切り開こうとしないのは、子供が泳ぐのを怖がったり、自転車に乗るのを嫌がったりするのと、同じでしょう。
やったことがないから、自信がない。
溺れたら嫌だから、転んだら痛いから、だからやらない。
別に泳がなくても、自転車に乗れなくても、生きて行けるから。
こんな感じでしょうか。
だけど、こんな人は泳ぎや自転車以外のことも、同じように考えてしまい、結局何一つやらないまま、ただ生きているだけの、人生を送ります。
やってみた結果、こういう理由で、自分にはこれができないとか、自分には合わないと、わかるのならばいいのです。
何もしないで、初めから否定的な結果を決めつけるのは、やはり、もったいない話です。

そんなことができたところで、それが何?
一銭の金にもならないじゃない。
全然大したことないのに、よくやるね。
こんな風に、すぐに人を批判したがる人もいるでしょうが、そんな連中は、放って置きましょう。
自分がやりたいことを、見つけている人は、絶対にこんなことは言いません。
こんなことを言う人は、自分が何をすればいいのかわからず、他人の人生を生きている人です。
そんな人生がつまらないのは、彼らもわかっているけど、自分ではどうすることもできないのです。
だから、自分の人生を歩もうとする人を見ると、羨ましく思いますし、貶したくもなるのですね。
結局、彼らの言葉は、何もできない自分を、卑下してるわけです。
他人を貶しながら、実は自分自身を貶しているのです。
もし、あなたが誰かに対して、その人が打ち込んでいることを、批判したくなるならば、それは自分には、打ち込めるものが何もないという、気持ちの表れです。
言い換えれば、自分は自分の道を歩んでいない、ということが言いたいのです。
誰かの楽しみに、けちをつけたくなるなら、気持ちを切り換えて、自分もその人を見習って、何かを始めてみようと思いましょう。
どんな小さなことでもいいのです。
自分が面白いと思えることであるならば、いろいろ試してみるべきでしょう。
たとえ、それが糸のような細い道でも、いずれは立派な、あなただけの道につながります。

楽しいことをしよう

人生は楽しむためにあります。
人生は喜ぶためにあります。
自分の人生を犠牲にして、他人のために生きるということが、何となく美談にされています。
でも、それは間違っています。
確かに、誰かのために、献身的な一生を送る人もいます。
しかし、本人は自分を犠牲だとは、考えていないと思います。
そういう事ができる人は、そうする事が自身の喜びになっているのです。
そんな人たちの存在は、とても有り難いことですし、人として尊敬に値する、素晴らしい方たちです。
だからと言って、あなたもあの人のようになりなさい、と言うのは間違っています。

物事には順序というものがあります。
誰かのために動くことが、自分の喜びになるためには、まず自分のために動いて、喜ぶという経験が必要です。
その経験を飛び越えて、献身的な形ばかりを真似させても、絶対にうまく行きません。
うまく行かないどころか、大きなトラブルにつながります。
実際、介護や看護の仕事に就いた人が、こっそり患者を虐待したり、死なせてしまう事件が起こっています。
これなんかは、本人の喜びを無視して、形ばかりの献身を強いたために、起こったことでしょう。
事件の被害者も気の毒ですが、加害者も不幸です。
介護や看護の仕事だけでなく、全ての仕事において、同じことが言えます。
お金を稼げるのはいい事だ。
成績がいい者は、優秀な人間だ。
資格や学歴がないと、認めてもらえない。
こんな事が、当たり前の事のようにすり込まれ、そうする事が人生の目的に、なっている人は少なくないでしょう。
そうできない人は、自分はだめな人間で、自分の人生なんか、全くつまらないものだと、思い込んでしまいます。
でも、こんな理屈は、経済社会の権力者が作った、自分たちに都合のいいものです。
本来、自然の生き物である人間は、こんな理屈で生きるようには、創られていません。

人間は好奇心の生き物です。
それは未知を探求し、そこに喜びを発見するものです。
どんな探求があり、どんな発見があるのか、それは人の数だけあります。
お金の奴隷にされるのではなく、自分の本当の心を解放して下さい。
今の自分にできる範囲から、自分が興味があること、自分が楽しみたいことを、始めて下さい。
誰かに迷惑をかけるのでなければ、何をやっても構いません。
逆に、他の人にも喜んでもらえるようなことを、追求していけると、喜びは何倍にも膨れるでしょう。
誰かのために動く喜びというものは、その延長線上にあるのです。
みんなが誰かのために、動くようになったならば、それは天国のような社会でしょう。
そんな社会を実現するためには、まず自分が喜ぶことを、自分に認めてあげるということが、第一歩なのです。