1+1=? その2
この世界には、1+1=2 という数式が通用しないものがあります。
それは、数えることができないもの。
つまり、形がないものです。
たとえば、水や空気、光などです。
水は氷にして砕けば、数えることができますが、そうでなければ数えられません。
その代わり、バケツなどに入れて、その量を形の代わりにすることができます。
そうすれば、バケツ1杯とバケツ1杯で、バケツ2杯となるわけです。
でも、大きなバケツにまとめて入れると、答えは2杯ではなく1杯になります。
もちろん、その量を考えれば、2杯になるから、答えは2で間違いないと言えるかもしれません。
でも、見た目には1つにされた水を、2つに分けて考えることはできません。
光の場合は、その量すらわかりませんから、同じ所に光をいくつ照射したところで、そこに見えているのは、一つの光だけです。
違いは、その光の明るさや色などでしょう。
たとえば、赤い光と緑の光を合わせると、そこに見えるのは黄色の光になります。
これを式にすると、赤+緑=黄色 というわけです。
でも、一所に照射した光の数で言えば、1+1=1 となります。
これが赤い皿と、緑の皿であれば、赤+緑=赤+緑 になってしまいます。
数えられる物の場合、1+1=2 ですから、赤と緑の物は、そのままそこに並ぶだけです。
私たちが認識している世界には、1+1=2 となる要素と、1+1=1 となる要素が混ざっています。
しかし、注目しがちになっているのは、1+1=2の方ばかりです。
1+1=1になるものがあるわけですから、それがどういうことなのかを、もっと深く考えてみるべきだと思います。
1+1=? その1
1足す1は、いくらでしょうか?
普通は2と答えますよね。
学校の試験としては、それが正解です。
子供でも解ける問題です。
でも、この最もシンプルな計算に、とても深い意味があるとは、多くの人が気づいていないでしょう。
1に1を足せば、2じゃないか。
それのどこに意味があるのか。
そう思うでしょう。
でも、とても深い意味があるのです。
それは、この式が私たちが認識している世界の、基本を示しているということなのです。
そう言われても、よくわからないでしょう。
では、別の言い方をしてみましょう。
1足す1が2になるというのは、1足す1が1にならない、ということなのです。
ここでいう1というのは、一つの物を示しています。
数字や、数えるという思考は、その根底に、数えるべき物があります。
そして、その物は決して他の物と交わることなく、一つ一つが別の物として、認識されているわけです。
ここに石ころがあるとします。その隣に別の石ころがあったとすると、この二つの石ころは、それぞれ別物として認識されます。
なので、一つの石ころと、もう一つの石ころを合わせて、全部で二つの石ころがあるということになります。
それで、1足す1は2、になるのですね。
ある物とある物は、別物であるという概念が、この簡単な数式に表れています。
それは、私とあなたは別、彼と彼女は別、人間と動物は別、人間と自然は別、という考え方ともつながって行くのです。
1+1=2 という式を見たところで、実際は誰もそこまで考えてはいません。
でも、何かと何かは別物だという発想が、今の人間が抱いている考え方の、基盤となっているのは事実でしょう。
そして、そのことをうまく示しているのが、1+1=2 という計算式なのです。
教えるということ その2
相手に何かを教えて理解してもらうためには、相手に興味を持ってもらう必要があります。
どんなに頭のいい者であっても、興味がないことに対しては、その頭を使おうとはしないでしょう。
ですから、本当はすごい才能がある子供がいても、教える側の教え方が下手であれば、その子はせっかくの才能を伸ばす機会を、得られないままになってしまいます。
日常の暮らしの中で、相手に何かを伝えようとするならば、まずそれがどんなもので、どれだけすごいことなのか、あるいはどれほど大変なことなのか、などを十分にアピールしながら話すでしょう。
そうすることで、相手の気持ちを強く引き寄せながら、情報を伝えるのです。
学校の授業や、職場での研修においても、これから伝えるべきものが、どれほど大切で役立つことなのか、どれほど面白く興味深いものなのかを、よくわかるようにしっかりと理解してもらう必要があります。
ところが、日常の場ではなく学習の場と規定されている所では、学習するのは当たり前だと思われているのか、これから教わることの大切さについて、説明されることはほとんどありません。
これでは、教えられる方が退屈するばかりですし、とても疲れてしまいます。
何のために勉強するのか。
受験戦争に勝つためだ。
これでは、受験が終わればおしまいです。
だから、せっかく大学に受かっても、勉強をしない若者が増えるのです。
勉強は日常生活にこそ、役立つものでなければなりません。
少しむずかしい学問的なことであっても、それを学問という特別なものとして捉えるのではなく、普段の暮らしに大きく関係していることだと理解すれば、その人の生き方そのものに、大きな影響を与えることになるでしょう。
学問とは本来そうあるべきものなのです。
決して、特別な学者だけのものではありません。
教えているのに、教えられる方がついて来られないからと言って、それを相手のせいにするのはよくありません。
まずは、自分が教えるべきことの大切さや面白さ、意義などを伝えられているのかを、よく検証してみる必要があります。
試験でも営業でも研究でも、ただ数字や結果を求めるばかりでは、仕方がありません。
さらに、成績が悪かった者に対して、懲罰的なレッテルを貼ったりするのは最低です。
ただ、どうしてもそれについて、相手が興味を抱いてくれないことは、あるでしょう。
それは自分を振り返ってみればわかることです。
自分が世の中のあらゆることに、興味があるかと考えると、そうではないとわかるはずです。
また、何か一つに興味が持てなかったとして、自分がだめな人間なのかと言うと、そうではないこともわかるでしょう。
あることに興味がなくても、他には興味が持てるものがあるからです。
つまり、学校の勉強や職場の仕事がうまくできなかったとしても、それはその人が、そこには興味を持てなかった、というだけのことなのです。
適材適所という言葉のように、その人が本当に興味を持てるものを、見つけてやることが大事なのです。
本当に面白いものと出会たならば、その人はそのことについて、さぼったり手を抜いたりすることはありません。
失敗しても、決してあきらめたりせずに、上を目指してがんばるでしょう。
それを理解せずに、結果を出せない者や反応が悪い者をつかまえて、叱りつけるというのは間違っています。
適材適所で言えば、その人こそが、人を指導する立場には、向いていないとういことになるでしょう。
教えるということ その1
人に何かを教える時、そうかわかったぞと、その人が大きくうなずく姿を、期待すると思います。
自分が教えたことを、相手が理解してくれると、嬉しいからです。
でも実際には、なかなかわかってもらえないことが、少なくありません。
どうでもいいことならばともかく、大切なことをわかってもらえないと、いらいらしてしまいます。
挙げ句の果てには、こいつは何て頭の悪いやつなんだろうと、理解してもらえないのは相手のせいだと、一方的に決めつけてしまいます。
しかし、それでは相手に教えるということが、できなくなってしまいます。
人はそれぞれ生まれ育った環境が違いますし、体の発達状態も違います。
同じことを同じ時間内に理解しろと言われても、それができる者とできない者がいるのは、当たり前のことなのです。
理解するための下地がなければ、なかなか理解することはできません。
それでも、時間を十分にかければ、いずれは理解してもらえるはずです。
問題なのは、時間制限があるということなのです。
学校では決められた時間ないに、決められた内容を習得しなければなりません。
個人個人の状況は無視して、全体を同じように取り扱います。
その結果、理解ができる者はよくて、できない者は悪いと、単純に区別されてしまい、理解できない者には、頭が悪いというレッテルが貼られます。
一回言ってわかる者もいれば、五回言わなければならない者もいますし、十回以上言っても、なかなかわからない者もいるでしょう。
でも、とにかく繰り返して教えることで、いずれ理解することができるのであれば、理解ができるまで、根気強く教えればいいのです。
確か、北欧の小学校だったと思いますが、生徒が学習すべきことを習得できなければ、留年させます。
その子が本当に理解できるまで、次の段階へ上がらせないのです。
同じ年齢の子供よりも、上に上がるのが遅れてしまうので、日本人的には可哀想に見えますが、理解できないまま上に上がっても、もっと理解ができなくなって、結局はわけがわからないまま、社会へ放り出されることになるのです。
どちらが本当に可哀想なのかは、よく考えればわかることです。
それに留年する子が珍しくないので、留年する子が自分を悪く見ることもないようです。
日本の場合、何でも他の子と同じでなければいけない、という考え方があるため、何がその子にとって本当にいいのか、という観点から外れてしまいがちのように思います。
教えることの問題が、もう一つあります。
それは教えたことによる、成果を期待することです。
しかも、できるだけ早くに成果を上げることを、教える側が期待するのです。
親や先生が子供に大切なことを教えても、それがすぐに反映されるとは限りません。
しかし、親や先生の知らないところで、子供がその大切なことを実践している、ということがあるのです。
また、親や先生が年老いてから、その子供が教えられたことに目覚めることもあるでしょう。
要は、その子が教えられたことを、活かせる時がくればいいのです。
それを、親や先生が確かめる必要はありません。
確かめられれば嬉しいでしょうが、それはその子自身の問題であり、その子がいつ花開くかは、その子に任せられているものです。
自分自身を振り返れば、そのことがよくわかると思います。
教えた側が、いつかその教えが必ず花開くだろうと信じて、教えればいいのです。
言うばかり その3
何かをしなくてはいけない時に、すぐに行動に出ないのは、本音ではしたくないからです。
でも、どんな本音なのかによって、その後の取るべき行動が、違って来ます。
まず、その人の本音が人間的な欲求である場合です。
たとえば、ブラック企業などで、無茶苦茶な仕事を押しつけられ、決められた期限内に、それをやり遂げろと命じられたとしましょう。
それに素直に従っていると、必ず心身に異常を来すことになりますが、何も考えられない人たちは、それに従おうとします。
指示通りにできなければ、自分が無能だと思うのです。
でも、そんな指示なんて糞食らえと思える人は、わかりましたと口では言いながら、実際には仕事がはかどりません。
当然、上司などから叱られるわけですが、そこで叱責に耐えながら、そこに留まろうとしていると、やはり具合が悪くなるでしょう。
嫌だと思いながら、そこに居続けることは、矛盾しています。
この場合、さっさとそんな所とはおさらばして、自分が納得できる仕事を探すべきでしょう。
今度は、その人の本音が動物的な欲求にあるとしましょう。
たとえば、家族や仲間から何かを頼まれたとします。
断れないので引き受けますが、気持ちは美味しそうな食べ物や、楽しそうなゲームなどに惹かれています。
家族や仲間が大切なのは、言葉としては理解していても、感覚としては理解ができていません。
その頼まれごとが、うまく為されなかった時に、相手がどれほど困るのかは、想像ができません。
そんな人は、頼まれたことを面倒くさいこと、できればやりたくないことと、受け止めます。
ですから、頼まれたのとは違うことをしてしまったり、頼まれていたことを忘れてしまったりします。
その結果、大変なことになったとしても、自分は悪くないと言い張ります。
要は、この人は家族や仲間の大切さを、本当には理解できていないわけです。
その結果、大切な人たちを失う羽目に遭うことに、なりかねません。
それが本音である以上、いいも悪いもないのですが、こういう人は大切な人を失っても、すぐにはその意味が理解できないかもしれません。
でも、長い時間を経た後に、必ず大切だったはずの人たちの存在を、思い知ることになるでしょう。
それも経験であり、それによって人は成長するので、仕方がないことですし、どうしようもありません。
でも、口先ばかりで何もしないという背景には、このような本音が隠れているのです。
言うばかり その2
口先だけで、実際には行動を示さないと、その結果として、何かの問題が起こったり、誰かと気まずいことになるでしょう。
そんなトラブルが起こると、それが問題という風に見えますが、それは本当の問題ではありません。
本当の問題は別の所にあり、目の前にある問題は、本当の問題が引き起こした、二次的な問題なのです。
具合が悪くなった時に、症状に合わせて、解熱剤を服用したり、咳止めや吐き気止めを飲んだりします。
この場合、熱や、咳、吐き気を目の前の問題としているわけです。
でも、問題はそこではなく、この人は風邪などによって体調を崩しているのです。
そこを治さなければいけませんが、実はこれも本当の問題ではありません。
問題は、そのように体調を崩しやすくなるような、生活の仕方にあるのです。
睡眠不足や偏った食事、ストレスを一杯ためるなどの不摂生。
こういった暮らし方を改善することが、何より大切なわけです。
ところが、実はこれさえもが本当の問題とは、言えないのです。
どういうことかと言いますと、どうしてそのような偏った暮らしを、しようとしてしまうのか、という点にあります。
そんな生活を当たり前のように選ぶのは、その人自身です。
つまり、その人の価値観によって、その暮らし方が選択されているわけです。
となると、一番の問題はその人の価値観にあるということになります。
人間として不自然な考え方を、知らない間に身に着けてしまったために、自分によくない習慣を持つようになるのですね。
これを正すためには、何が人間として自然な状態なのか、という点を、自分で追求する必要があります。
言うばかり その1
何かをしないといけない時に、やるよと口では言いながら、実際にはなかなか動かないってこと、ありますよね。
それをやらなければ、痛い目に遭うというのがわかっていれば、渋々ながらでもやりますが、それでも作業に気持ちが乗りません。
面倒臭そうにやるので、なかなか作業は終わりませんし、終わったとしても、本当に満足がいくものにはなりません。
逆に、何だこれはと、お叱りを受けてしまうことも、しばしばではないでしょうか。
どうしてこうなるのかと言うと、何かをしないといけないと言いながら、本音では、別に今それをしなくても構わない、という気持ちがあるからです。
あるいは、何でそんなことをしないといけないのか、という反発心さえ潜んでいるかもしれません。
表面的には、やらないといけないことであると、そこは理解しているので、やりますよと口では言うのですが、本当はそうは思っていないので、なかなか始まらなかったり、やってみても、うまく作業が進まないわけです。
それで問題が起こったり、あとで嫌な気持ちにならないのであれば、別にそれでも構わないのですが、一応はやらないといけない、ということであるならば、それをやらなければ、必ず何かのトラブルに見舞われることでしょう。
それを避けるためには、どうすればいいのでしょうか。
答えは簡単です。
どうして、それをやりたくないのか、という理由を探ることです。
サッカーワールドカップ
中東のカタールで、サッカーのワールドカップが開催されています。
カタールという国の人権問題が取り上げられ、それを気にしない主催者側と、問題視する選手側とで、意見の衝突がありました。
オリンピックもそうですが、主催する側は、大会が開催できればそれでいい、というスタンスなのでしょう。
選手の方も大会に参加したければ、それに黙って従うしかなかったのですが、最近は選手も黙っていない傾向にあり、とてもいいことだと思います。
カタールからすれば、せっかく開催国になったのに、選手からいろいろ突き上げられては、面白くないでしょう。
そんなカタールの人たちの心を動かしたものがありました。
それは、ワールドカップでお馴染みになった、日本のサッカーファンの方たちの、礼儀正しさとサッカー愛による、会場の清掃活動です。
大概の国は、自国のチームの試合に熱狂し、大騒ぎはするけれど、それで会場が汚れてもそのままにしていることが、ほとんどです。
ところが、日本のファンの方たちは、日本チームの試合でなくても、会場をきれいに掃除します。
それも、目立つためとか、お金のためとかというのではなく、サッカーや会場への敬意の気持ちで、自発的に行っているのです。
日本人的には、武道などの会場は神聖な場所と受け止めますので、それと同じ感覚でサッカー会場を、大切に思っているのでしょう。
これは、自国のチームの勝敗にしか興味がなかった人たちには、とても奇異あるいは新鮮なものとして映ったと思います。
どうして、それをするのか。
何のために、そうするのか。
そこのところが、多くの人は損得勘定で考えますが、日本人の清掃活動は、損得勘定を抜きにしたものです。
その発想や行動は、現地の人をも自発的な清掃活動に引き込んでおり、とても素晴らしいことだと思います。
これは日本の文化というよりも、人間として自然な姿です。
相手に敬意を払い、感謝と思いやりの気持ちを示すことが、どれほど人々を幸せな気持ちにすることでしょうか。
こういう気持ちが広がれば、指摘されているような様々な問題は、自ずと解決されていくことでしょう。
政府の要人が何かを発言したり、巨額のお金を動かしたりするよりも、ごく普通の人たちの、自然で当たり前の行動が、他の人たちの心を打って、物事をいい方向へ動かすものなのです。
私利私欲のない思いやりの行動。
国や組織のトップに立つ人たちには、ぜひとも見倣ってもらいたいものです。
また日本の一般の人たちも、イベントや行楽で楽しんだあとの、感謝の気持ちを行動に示してもらいたいものです。
脳と心 その6
人間の脳が、他の動物の脳と違うのは、人間としての心の活動が、他の動物の心の活動と、異なっているからです。
人間以外の生物にも、好奇心というものはあります。
しかし、人間の好奇心は貪欲と呼べるほど、その限界を知りません。
自分たちに与えられた範囲を超えた所にまで、その好奇心を広げようとします。
そうして、それまで知らなかったことを知ろうとし、理解しようとします。
それは、人間としての自然な心の成長であり、個人レベルだけでなく、種としての人間に備わった、自然な性質なのです。
たとえば、昔は地球は平面的に捉えられていました。
それが、途中から宇宙に存在する一つの星であると、認識するようになりました。
地球が宇宙の中心ではなく、地球は数え切れないほどある、無数の星の一つに過ぎないことも、今では理解しています。
また、人類の起源、生命の起源、宇宙の起源などにも、興味の目を向け、それを調べて確かめようとしています。
人間とは何か、生命とは何か、世界とは何か、ということにも、関心の目を向けています。
そうして、新たに得た知識や経験によって、自分や世界の捉え方が、大きく変わって来るのです。
もし自分や世界を、三次元を越えた視点から捉えられるようになったなら、その人の世界観は大きく変わるでしょう。
自分というものを、ちっぽけな人間とは思わなくなります。
それは人類の進化であり、人間はそうなるようにできているのです。
そして、それらの知性がさらに発達できるように、脳は創られているのです。
それは別に、人間が他の生き物たちより、優れているという意味ではありません。
単に、人間は知性を発達される類(たぐ)いの、存在だというだけのことです。
脳の形や機能が、心の状態に応じたものであるならば、心が発達して、新たな進化を迎えた時に、脳もそれに応じた形態に、変化すると思われます。
映画に出て来るような、頭が大きな宇宙人のような姿に、なるのかもしれません。
いずれにしても、人間の脳が知性を発達させるように、創られているのであれば、それは人間の心がそのように進化すると、示してくれているわけです。
人間は単にお金や快楽を求めて、ただ長く生き長らえるためだけに、生まれているのではありません。
本来の性質である、知性の発達にこそ、目を向けるべきでしょう。
知性と言うと、いわゆる学問的なこと、科学的なものにばかり、目を向けがちです。
でも、本当の知性とは、自分たちと他の存在とのつながりを、理解できるものです。
そこには相手への理解や思いやり、敬意や尊厳があります。
偏った知識ばかりがあって、他人の痛みがわからない人たちは、知性があるように見えても、本当は知性の低い人たちです。
本当の知性とは何か。
それをまず理解するべきですし、そうすることこそが、人間の自然な成長なのだと、人間の脳が教えてくれているのです。
脳と心 その5
心というものを捉える時に、どうしても人間の脳を、イメージしたくなる人は、心とはこういうものだという、固定観念で縛られています。
地球上に存在するものたちは、それが生物と呼ばれるものであれ、非生物と呼ばれるものであれ、みんな兄弟です。
そして、その見た目の姿や活動状態は、千差万別です。
人間の体を構成している、様々な細胞たちも、みんな見た目が違いますし、働きや役目も違います。
でも、元々は同じ受精卵から生まれたものです。
同じように、心と一口で言っても、千差万別の心があるはずです。
人間の心は、その中の一つに過ぎません。
人間の心だけを取り上げて、これこそが心だと言うのは、地球上で人間だけが真の存在であって、他の存在は全て真実ではない、と言うのと同じです。
人間には人間の心がある。
当たり前です。
だから、人間は人間でいられるのです。
そして、人間の脳とは、人間としての心がこの世界で活動するために、必要不可欠なものなのです。
他の動物には、それぞれの脳があります。
それは、その動物の心を反映したものであり、そこには人間には理解できないような、心の活動があるでしょう。
また、脳を持たない植物や鉱物、水や大気などにも、心があります。
脳がないのは、それが必要ないからです。
言い換えれば、それだけ彼らの心の状態は、人間の心とは大きく異なったものだということです。
そんな彼らと意思疎通ができるでしょうか。
私はできると思います。
自然の中で心が癒やされるのは、自分の心が自然の心に、共鳴しているからです。
共鳴は一方的には起こりません。
こちらが癒やされている時は、相手も癒やされているのです。
それは、一つの意思疎通の形です。
自然が大好き、自然を愛していると、心から感じている人は、同じように自然から愛されているのです。
しかし、心を脳に限定したものと捉える人には、こういう捉え方はできません。
それでも、自然に癒やされる体験をしたならば、自分の考えが間違っているのだと、いつか気がつく時が来るでしょう。