コロナで変わったこと
自粛自粛と言われ続け、ワクチン頼みで全く当てにならない政府に、誰もが辟易していたと思います。
初めは不安だらけで、自分ではどうしたらいいのかがわからず、とにかく上から指示されたことに、多くの人が従っていました。
しかし、その指示が的確でなく、行き当たりばったりの無責任な指示ばかりだと、さすがに自分で考えるしかないなと、みんなが気づくようになりました。
まだ、深く考えていないような人の姿も、見受けられますが、イベントを楽しもうとする人たちの多くは、どうすればいいのかを理解できていると思います。
千葉県で行われた音楽フェスティバルについて、テレビで報道されていました。
後援をしていた千葉県は、この時期のフェスティバルの開催は、好ましくないとして、開催の延期か、もしくは観客数を大幅に減らすことを求めました。
しかし主催者側は、しっかりとしたコロナ対策を取っているとして、千葉県の要請には応えず、フェスティバルを予定どおりに開催し、千葉県は後援を取り止めるという事態になりました。
その結果、どうだったのかと言うと、主催者は言葉通りに、きっちりと対策を取って、観客への指導を怠りませんでしたし、観客も指示に従って、問題になる行動は見られませんでした。
一部、お酒を持ち込もうとしたり、酔っ払った状態で、入場しようとした者もいたようですが、そういう者たちに対しては、主催者側は厳しく応対していました。
その中で、感染が広がるかどうかは、今後の様子を見守る必要はあるでしょう。
しかし、それぞれが自分たちで考えて、マナーを守りながら楽しいことをする、というのは、とても大事なことだと思います。
もし、感染者が出たとしても、どうして出たのかを検証し、今度はそうならないように対策をすれば、いいだけです。
今の行政には庶民感覚が抜けていますので、何が本当に人々の助けになるのか、どうすればみんなを、いい方向へ導けるのかがわかりません。
それは、コロナに限らず、普段からそうでした。
コロナ騒ぎによって、多くの問題や行政の姿勢が露呈したことで、問題の本質がどこにあるのかを、見極めることができた人は、少なくないでしょう。
いろんな問題がありますが、その全てにおいて、当事者である私たちが、自分が関わった問題であるという、意識を持って来なかったことが、一番の原因なのです。
ただ、そういう意識を持たないように、教育されて来たという事情はあります。
本当に大切なことを教えず、いわゆるお勉強ばかりを重視して、自分で物事を考えるという機会を、子供たちに与えて来なかったのは、上からの指示に黙って従うように、育てたかったからに他ありません。
国の教育とは、国にとって都合のいいもので、あるからです。
そして、それは国を動かす人が、どのような姿の国を望んでいるかを、示したものです。
今後は、コロナ騒ぎが落ち着いたとしても、今体験しているような、自分たちで考え、自分たちで行動を起こすという習慣が、続くと思います。
それは、大人ばかりでなく、未来を担う子供たちにも、浸透するでしょう。
そう考えると、コロナ騒ぎは大変でしたが、悪い面ばかりではないとわかると思います。
また、駄目な姿勢を見せ続けることで、人々に自分で考えさせるように仕向けた行政も、それなりに役立ったのでは、ないでしょうか。
どうしようもない時 その2
今の混乱状態の中から、何が学べるだろうか。
そう考えられる人は、混乱に振り回されることはありません。
自分が進むべき道が、見えて来るからです。

ただ、似たような状況の中から、何が学べるかは、人によってそれぞれです。
それは、ある意味、世界の発見です。
この世界に産まれて来て、この世界をどのようにとらえ、どんな風に理解するのか。
それは、人さまざまであり、それぞれの人の発見なのです。
人生は冒険であり、宝探しでもあるのですね。
だから、混乱の中でも、自分にとって大切なものが、この混乱の中に隠されているはずだと考えて、それを見極めようとするといいのです。
そうすると、どす黒い霧の闇が晴れて、求めていた道が開けるでしょう。

とてもファンタジックでしょ?
人生とはファンタジックなのです。
理屈ではわかるけれど、どうしても嫌なことに気持ちが向いてしまい、客観的になれない、という人は、今の場を離れて、自然たっぷりの所を訪ねることを、お勧めします。
悪い刺激を裁ち切り、本来の自分が持つエネルギーに、満ち満ちた場所から、新たな力を分け与えてもらえるからです。
そうすれば、本来の自分を取り戻して、混乱を高い視点から、眺めることができるでしょう。

どうしようもない時 その1
どうしようもないほど腹が立つ。
どうしようもないほど困惑する。
どうしようもなくて絶望する
こんな時は、すっかり頭も心も混乱し、自分を見失っています。
本来の自分が見えなくなり、嫌なことに意識が縛りつけられ、振り回されているような感じです。
もうやめてと言っているのに、ぐるぐる回るコースを、猛スピードで走るジェットコースターに、無理やり乗せられているようなものですね。

こんな時には、どうするのか。
どうしようもないはずですが、方法はあるのです。
こんな時には、こう考えるのです。
さて、この状況から何が学べるのかな。
ふざけているように思えるかもしれませんが、そうではありません。
真剣にこう考えることで、意識の焦点を混乱から、外すことができるのです。
混乱の中で、どうしていいかわからない時と言うのは、意識が主観の塊になっています。
自分自身を外から眺める、客観性というものが、欠けている状態です。

この自分を外から眺めるというのは、自分自身の中にある高度な自分、言い換えれば、本来の自分の立ち位置なのです。
普段、私たちは目の前にある事柄に、いろいろ考えて対処しようとしますが、それでいいのかどうかを、自分より上の視点からも眺めて、確かめています。
この上からの視点と、通常の視点が一致している時、物事はうまく流れて行きます。
一見、混乱の中にいるように見えても、自分自身は安定した落ち着きの中に、いることができるのです。
ところが、どうしようもなくなって途方に暮れている時は、この上からの視点というものと、つながりが失われているのです。
と言うことは、この視点とのつながりを回復させれば、どうしようもないと思っていた所に、道が開けるわけですね。
それが、さて、この状況から何が学べるのかな、と自問することなのです。

原因と結果
物事には、原因と結果があります。
たとえば、道に大きな穴が空いているとします。
そして、前を見ないで歩いている人が、その穴に落ちたとしましょう。
この場合、道に穴が空いていたから、この人は穴に落ちた、と見ることができます。
すなわち、道の穴が原因で、穴に落ちたことが結果になります。

でも、この人がちゃんと前を見ていれば、穴に気づいて、落ちずに済んだかもしれません。
となると、結果は先ほどと同じ、穴に落ちたことでも、原因は前を見ていなかったこと、ということになります。
あるいは、この人はこの日に限って、いつもとは違う道を、通っていたのかもしれません。
すると、違う道を通ったということも、原因と考えられます。
でも、実際はこれらのことが、全て重なった結果、穴に落ちるという結果を、導いたのです。
つまり、全部が原因なのですね。
朝寝坊して急いでいたため、歩きながらスマホをいじったのだとすれば、朝寝坊も原因の一つになります。
朝寝坊をするハメになったのが、久しぶりに会った古い友人と、朝方近くまでお酒を飲んでいたからだとすると、これもまた原因の一つということになるでしょう。
この友人が、この人に会いたくなったのも、原因の一つと言うとができます。
こんなこと、言い出したらキリがありませんね。

何で、こんなことになってしまったんだ、と嘆きたくなることはあるでしょう。
でも、「何で」の理由を考えて行くと、結局はなるべくしてなったとしか、言えなくなります。
ただ、その中で、自分が関わっている部分については、反省することができます。
今後、同じようなことにならないよう、気をつけることはできます。

さて、道の穴に誰かが落ちた、という結果について、見てみましょう。
落ちたというのは、一つの結果ですが、そのために落ちた人は、怪我をするかもしれません。
下手をすれば、死ぬということも考えられます。
穴に落ちたという結果は一つでも、そこに続く別の結果は、幾通りかに分かれます。
仮に落ちた人が無事であっても、そこから這い出すなどの手間がかかります。
その手間のせいで、本来なら起こらないはずのことが、起こってしまう可能性はありますよね。
その人が怪我をしたり、死んでしまったりすれば、尚のこと、その先のことに、大きな影響を与えることになるでしょう。
このように、たった一つの結果に見えることでも、実は多岐に渡って影響を及ぼすものです。
影響の大きさを問わなければ、恐らくは、その後の世界全体に影響があると言えるでしょう。
これぐらいいいだろうとか、自分一人がすることで、どうなるものでもない、などと考えるのは、間違いです。
実際は一人の行動が、世の中全体に何等かの影響を、及ぼしているのです。

原因にしても結果にしても、突き詰めて考えると、全てはつながっているのだな、ということがわかると思います。
どうして自分は生まれて来たのだろう。
自分なんか生まれなければよかったのに。
こう考えてしまう人も、いると思いますが、その考えが正しくないことは、原因と結果の話から、わかるのではないでしょうか。
何かが起こるのには、現在から過去の時間全てを含めた、世界全体が関わっています。
誰かが生まれることは、ある意味、遠い遠い昔から決まっていのだと、言えるでしょう。
それは世界の意思であり、人類全体の意思なのです。
ですから、生まれなくてもよかったのに、という人など、一人も存在しないわけです。
自分なんかに何ができるんだ。
自分は何もできない無価値な人間だ。
こう考えるのも、同じ理由で、正しいとは言えません。
先に説明したとおり、何かをすれば、それは必ず、現在から未来の時間全てを含めた、世界全体に影響を及ぼします。
それがどのような影響なのかは、必ずしも知ることはできません。
でも、自分が知らないだけのことで、影響は必ずあるのです。
ですから、何もできない無価値な者など、一人も存在しないのですね。
自分に自信がない方は、自分の力を知らないだけです。
また、力というものを、何か派手なもののように、思い込んでいるのでしょう。
自分の力とは、自分が自分らしくいることです。
世界について考えよう その8
現実の世界も夢の世界のように、自分の心の中にあるならば、別の世界が心の中にあっても、不思議ではありません。
ただ、通常の夢の世界が、全く個人的な意識で、創られているのに対して、現実と呼ばれる世界は、もっと大きな意識が創っていると思われます。
言い換えれば、私たちが考えている自我の意識は、本来の意識の、ごく一部に過ぎないのです。
今の自分のアイデンティティを越えた、単なる存在としての自分を認識し、何の制限もつけないことで、意識はその焦点範囲を広げることができます。
つまり、今よりも大きな意識、大きな自我を感じられるということです。
これまで指先だけで、何かを感じていたのを、指全体、あるいは手全体で感じるようになる、というようなものです。

何をわけのわからないことを、言っているのかと思われそうですね。
でも、この世界の物事に集中している意識だけが、意識の全てだと仮定すると、ひらめきなんて起こりませんし、虫の知らせもありません。
幽霊なんか有り得ない話ですし、体外離脱の話や生まれ変わりの話も、全部でっち上げということになるでしょう。
何をどう考えるのかは、人それぞれの自由ですので、違う考えをお持ちの方を、私は説得したり議論しようとは思いません。
ただ、ひらめきや虫の知らせ、幽霊などを認める方たちには、さらにもう一歩、それについて深く考えてもらえたらなと思います。
なかなかむずかしい話になるのは、私たちは日常認識している自分を、本当の自分だと理解しているからです。
それを越えた自分、という存在があると言われても、ぴんと来ないのは仕方がありません。
それでも考えて欲しいし、何とかイメージをつかんでもらいたいのは、今のあなたは、本来のあなたの心の中の、一つのキャラクターだということです。
本来のあなたは、今のあなたというキャラクターに、意識を集中しているのです。
そうやって、今のあなたを通して、この世界を体験しているのです。
同時に今のあなたとは、別のキャラクターのあなたにも、本来のあなたは意識を集中しています。
そこでは、こことは異なる世界を、本来のあなたは体験するのです。
そんな世界や、あなたの分身がたくさんありますが、それは一種のパラレルワールドです。

今のあなたに話を戻しましょう。
本来のあなたは、今のあなたを通して、この世界を体験しています。
今のあなたも、この世界も、本来のあなたの一部です。
しかし、今のあなたが、暮らしに充実感を感じていないとすれば、今のあなたと本来のあなたが、うまくリンクできていないと思われます。
夢で言えば、本来のあなたは、今のあなたを眺めているだけ、という状態です。
眺められている今のあなたが、どこで何をしようと、それに対して、本来のあなたは、眺めている以外、何もできないのです。
でも、本来のあなたが、今のあなたにぴったり意識を集中できれば、何の閉塞感や不自由感を感じることなく、のびのびと自由に活動ができるでしょう。
今のあなたの行動を、うまくコントロールして、危険を回避したり、楽しい方向へ向かわせることができるのです。
それを今のあなたという立場から見ると、本当の自分の望みが、わかったという感覚になるわけです。
それまで、こだわっていたようなことや、世間の常識などに関心を寄せなくなり、新たな興味や価値観に、生きるようになるのです。

これは、本来のあなたの立場から言えば、明晰夢を見ている状態ですね。
世界をわけのわからない場所と、捉えるのではなく、自分が自由に活動するための空間と、捉えているのです。
思いがけないことが起こっても、それは自分の望みを実現するための、一つの道だと受け止めます。
全ては本来の自分を表現するための、道筋だと理解しているので、障害物は存在しません。
他人がどう見るかに関係なく、あなたは充実した幸福感を、得ることができるのです。

何も考えず、機械的に日常生活に埋没している状態は、本来のあなたと波長が合っていません。
何か違うけど、何をしていいかわからない、と悩む場合、本来のあなたが、今のあなたに波長を合わせようと、懸命になっている状態です。
しかし、波長がうまく合わず、今のあなたは途方に暮れるばかりです。
こんなこと、できたらいいな、とか、こういうことを、やってみたいな、と思うようになると、本来のあなたの波長が、かなり合って来ています。
もう一歩という状態です。
自分がやりたいことの、優先順位が高くなって来ると、いよいよですね。
よし、やるぞ、そのためには、転職だって引っ越しだってするぞ、となると、完璧に本来の自分とリンクできた状態です。
おめでとうございます、と言われる状況ですね。

今の世の中は、ほとんどの人が、本来の自分とのつながりを見失い、一部の人たちに都合がいい価値観を、無理やり持たされています。
多くの人は無力感を感じ、将来に対して、希望を見出せません。
考えるのは、せめて現状を維持しようと、いうことぐらいです。
でも、本来の自分とリンクすれば、状況は一変するでしょう。
何故なら、あなたが認識している世界は、誰かの世界ではなく、あなた自身の心の中に、あるからです。
本来の自分とリンクすることで、あなたが認識する世界を、あなたに都合のいいように、変えられるようになります。
困ったことが起きたように見えても、必ず助け船が現れます。
でも、お金がないと何もできない、などという価値観に気を取られると、本来のあなたとのリンクが切れてしまい、あなたは糸の切れた、凧のようになるでしょう。

いったん本来の自分とつながったなら、そのつながりを維持すること、すなわち、自分が本当にやりたいことにだけ、気持ちを集中させるということが大切です。
世界について考えよう その7
何故、世界について考える必要があるのでしょうか。
それは、新たな世界観、新たな価値観を持つためです。
世界がどうなっていようと、自分には関係ない。
自分にとって重要なのは、今日も明日も食いっぱぐれないことであり、少しでも多くの収入を得ることだ。
そんな風に考える人もいるでしょう。
実際、日常のことに没頭している人は、世界について考える暇などありません。

でも、日常のことで頭が一杯になるのは、自分がいる世界が、そのような社会になっていて、そうしなければならないと思わせられるような、価値観が蔓延しているからではないでしょうか。
生まれたばかりの赤ん坊は、そのような価値観を持っていませんし、幼い子供も同じです。
子供は成長するにつれて、大人を真似ながら、様々な価値観を持つようになります。
この時に、別の価値観を与えられれば、その子は周囲の者とは、異なる生き方をするようになるでしょう。
そうでない子供たちは、周囲の大人たちと同じような生き方を、当然のものとして受け継ぐことになります。
中には、本当の自分は、そんな価値観に合わないと気づき、新しい生き方を始める人もいます。
あるいは、大きな出来事に遭遇し、強制的に価値観を、変えさせられる人もいます。
その他の人たちは、何の疑いも持たずに、ずっと同じ価値観のまま、一生を送るのです。
それで、みんなが楽しく幸せに、なれるのであればいいのですが、実際はそうではありません。
多くの人が常に不安や不満を持ち、将来に希望を持てずにいます。

それでも、これしかないと思い込んでいるために、今しがみついている価値観を、手放そうとはしません。
しかし、世界がどのようなものなのかが理解できれば、今の自分というものを、別の視点から見ることができます。
そうすれば、今の人生において、自分に本当に必要なものや、自分がやるべきことが、見えて来るでしょう。
その結果、今までの価値観を手放して、もっといい価値観を持つことが可能になります。
より多くの方が、新たな世界観に基づいた、新しい価値観で生きるようになれば、社会全体が素晴らしい方向に変わるでしょう。
そのためにも、世界について考えるということは、とても重要なのです。
世界について考えよう その6
世界は、心の中にある。
自分の体も、心の中にある。
こんなことを言われても、ぴんと来ないと思います。
でも、夢の中の世界を、思い出して下さい。
夢の中には、世界があり、その世界を体験している、自分がいます。
夢は心の中のものですから、この世界と、そこでの自分の体は、自分の心の中にあるわけです。

私たちが現実だと考えている、この世界でも、それと同じことが言えるのです。
では、私たちの体とは何なのか。
体が世界を知覚して、その情報を心に伝えているのではないのか。
体自体が、知覚するべき世界の一部であるとすれば、何が世界を知覚していると言えるのか。
こんな疑問が湧いて来ると思います。
では現実世界を、夢の世界に置き換えて、考えてみましょう。

夢の世界は、私たちの心の中にあります。
つまり、精神エネルギーで構成されているのですね。
その精神エネルギーで世界を創った時、必ずその世界を観察する、自分という意識が存在します。
夢を見る時、夢の世界で何かをしている自分を、上から眺めている自分というものを、体験したことがありませんか。
それは、何かをしている自分を映した、動画を眺めているようなものです。

でも、その動画の中の自分に意識を集中すると、いつの間にか、その動画の世界に入り込んでしまい、意識は眺めている自分ではなく、何かをしている自分そのものに変わります。
上から眺めている時は、何かをしている自分の感覚は、伝わって来ません。
ですから、見えている映像は希薄な二次元的なものです。
しかし、何かをしている自分になると、とたんに世界はリアルな三次元になるのです。

つまり、何かをしている自分とは、その世界を実感するための情報を、取り込むための窓口なのです。
そこに焦点を合わせれば、そこから世界の情報が、意識の中に流れ込みますし、焦点を外せば、世界の情報は途切れます。
これと同じように考えれば、現実と呼ばれる世界も、自分の体を含めた全てが、実は自分の心の中にあると考えても、矛盾はありません。
それは物質エネルギーも、一種の精神エネルギーだと、考えるということでもあります。
つまり、現実と思われるこの世界も、一種の夢のようなものだということです。
そして私たちは、この世界の自分の体に、意識を合わせている時だけ、この体を通して、周囲の世界をリアルに知覚しているのです。
じゃあ、意識を合わせていない時って、いつなのかと言われるかもしれませんね。
それは、眠っている時と、この世を去った時です。
世界について考えよう その5

テレビやインターネットの映像は、モニターに映し出されます。
映画館の映画は、スクリーンの上に映し出されます。
では、私たちが眺めている風景は、どこに映し出されているのでしょうか。
脳?
いや、そうではないでしょう。
私たちが風景を眺めている時、脳の視覚領域にある脳細胞たちは、活発に活動しています。
でも、脳の中を覗いても、視覚領域に映像が、映されているわけではありません。
脳細胞が活動する時、その表面に微弱な電流が発生します。
脳細胞から脳細胞へ刺激が伝わることで、微弱な電流の複雑な回線が生じるわけです。
電流の流れが生じると、そこには磁場の変化が生まれます。
恐らく、この磁場の変化によって、脳と心は情報のやり取りを、しているのではないかと、私は考えています。

それにしても、それは磁場の変化であって、映像そのものではありません。
では、映像はどこに、映し出されるのでしょうか。
それは、脳から情報を得た心の中です。
私たちが風景を眺める時、その映像は自分の心の中に、映し出されているのです。
私たちの心が、世界を眺めるモニターの役割を、果たしているのですね。
視覚情報だけでなく、聴覚や嗅覚、味覚、触覚など、他の感覚も心の中で再生されます。
こうして、私たちが認識する世界は、私たちの心の中に、創り上げられるのです。
世界の中に自分がいるように、私たちは感じていますが、実際は、世界が私たちの中にあるのです。
同様に考えると、体に心あるいは魂が、宿っているように思えるのですが、実際には、心の中に体があるのです。

世界について考えよう その4

自分で人生を切り開く人は、それまでとは異なる世界へ、飛び込んでいるのです。
それは、異なる世界へ飛び込むことを、選択したということです。
一方で、世の中の流れに身を任せ、様々なことに翻弄され続ける人は、自分の流れを変えることをしません。
これは、異なる世界へ飛び込むことを、選択しないということです。
でも、言い換えれば、この人は選択しないということを、選択しているのだとも言えるでしょう。
つまり、別の世界を選ぼうと、同じ世界を進もうと、それは常に本人の意思であり、誰かが強いているわけでは、ないということです。

これは、わけのわからない夢の世界で、全然意味がわからないまま、ただ、その世界を体験しているだけ、というのに似ています。
夢とは、自分が無意識に創り出している、心の中の世界です。
誰かが無理やり創った世界ではありません。
自分で創った世界ですが、体験している時には、それを理解できません。
夢だったとわかるのは、目が覚めてからのことです。
でも、夢には明晰夢というものがあります。
自分が夢を見ていることを、自覚している夢のことです。
明晰夢の場合、夢を体験しながら、これは夢なのだと理解しています。
言ってみれば、精巧な立体映画や立体映像のゲームの、主人公を体験しているようなものです。
怪物が現れたとしても、夢だとわかっていますから、うろたえたりはしません。
それが自分の夢なので、自分はその世界で、創造神のようなものだと考えれば、自分の望んだように夢の内容を、変更することもできます。
たとえば、現れた怪物を友だちにするとか、姿は恐ろしくても、本当はとても優しい性格にする、ということもできるのです。
だけど、そこが自分が創った夢だと気がつかなければ、怪物は怪物のまま、ずっとあなたを追いかけ続けるでしょう。

人生を切り開く人というのは、明晰夢を見ている人と、似ているところがあります。
つまり、自分の世界は、自分の選択によって変えられる、と受け止めているのです。
でも、このように理屈として認識しているのではなく、そんなものだと、自然なものとして認識している人が、ほとんどだと思います。
何であなただけ、そんなにホイホイうまく行くのか、と問われても、さあねとしか言えないでしょう。
そこで、うまく行かない人は、あの人は特別で運がいい人なんだと、考えます。
そして、自分は平凡で運がない人間だと、思うのです。
でも、実際はそうなのではなく、うまく行く人は、世界を明晰夢のような感覚で、受け止めているのです。
同様に、うまく行かない人は、世界を普通の夢のように、体験しているだけなのです。

自分が体験している世界は、自分だけのものです。
他の人と同じ世界に、いるように見えますが、自分がいる世界と、他の人がいる世界は、それぞれ別々です。
異なるモニターで、同じ映像を眺めたり、同じゲームを体験しているようなものです。
どんなゲームを楽しむのか、どんな設定にするのかは、自分で変更することができるのです。
でも、ほとんどの人はゲームに参加せず、ただ眺めているだけです。
うまく行く人たちは、ゲームに参加して楽しんでいます。
自分は人生という、ゲームを楽しむために、生まれて来たのだと理解すれば、すぐにでも変更を選択することができます。
他人が設定したゲームを眺めるのではなく、自分で設定したゲームを楽しめるのです。
映画などで見る、主人公がバーチャルの世界に、入り込むシーンを思い浮かべればいいでしょう。

朝目覚めた時に、自分は人生ゲームの世界に、無事に降臨したと、物語の主人公になったつもりになってみて下さい。
さて、これから何をするかな、なんてつぶやいてみると、もうすっかり明晰夢ムードです。
何をするにも、常に主導権は自分にあるわけですから、うろたえたりはしません。
嫌な奴が現れても、うまく立ち回って相手を回避し、そこでふっと笑うのです。
そして、あいつも本当は気の毒な奴なんだ、と口にしてみて下さい。
もう、最高でしょう。
あとは、自分がやりたいことに向かって、進むだけです。
朝、目覚めた時がチャンスですよ。
世界について考えよう その3
自分がどんな生き方をするのかを、選択することで、それまでとは異なるパラレルワールドが、開けるのだとすれば、とても面白いことだと思いませんか。
瞬間瞬間、何かを選ぶのか選ばないのか、その選択権が私たちには、与えられているのです。
選ぶのも自由ですし、選ばないのも自由です。

何も選ばなければ、それまでの流れに乗って行くだけのことです。
そこで何が起ころうと、あなたは何もできません。
選ぶことをしないので、そこで起こる出来事に、翻弄されるばかりです。
先に危険が待ち受けているのが、目に入ったとしても、あなたにはどうすることもできないのです。
でも、自分に選択権があるとわかっている人は、その流れが気に入らなければ、別の流れに乗り換えることができます。
危険が迫っているように見えれば、それを避けることができますし、そもそも危険が迫らないような流れを、選ぶこともできるわけです。
でも、無意味に選択しても、好ましい流れを選べるとは限りません。
適切な選択をするには、選択する基準が必要です。
選択する基準というのは、つまり、自分がどうしたいのか、ということです。
それがないのに、無闇に選択を繰り返しても、結局は満足する流れをつかめません。

自分はあれもこれもやっているのに、何をやってもだめだ、ということになるでしょう。
ただ、自分に自信をなくすだけで、選択することを諦めてしまいます。
でも、それは自分に力がないのではなく、自分がどうしたいのかが、よくわかっていないだけです。
何かをすると言う具体的な行動は、自分自身を表現する手段です。
その手段はいくつもあります。
大切なのは手段ではなく、その手段を用いて表現する、自分自身の姿なのです。
自分は何をしたいのかと、具体的な作業や仕事、趣味などを模索しても、なかなかわからないかもしれません。
それよりも、どんな時に笑顔が出るのか、どんな時に楽しい気持ちになれるのか、どんな時が幸せなのか、それを思い起こせばいいのです。
その時に、自分は何をしているのか、自分はどんな状況にいるのか、自分は何を喜んでいるのか。
そんなことを理解して行くと、その自分を表現するには、どんな風にすればいいのか、ということが見えてくると思います。
それは既存の仕事かもしれませんし、誰もやったことがないものかもしれません。
何でもいいのです。
自分の喜びを基準にして、瞬間の選択をするのです。
そうすれば、きっと自分にぴったりの流れを、選ぶことができるでしょう。
また、そのパラレルワールドは、あなたが選択してくれるのを、待ち続けてくれているのです。
