所有するということ

何かを自分の手に入れる。
すると、それは自分のもの。
これが所有するということですね。
動物も縄張り争いをしたり、雌を巡って雄同士が争ったりします。
動物の世界でも、ここはオレの縄張りだ、この雌はオレの物だ、と動物なりの所有意識があるのかもしれません。
人間も動物の一つですから、同様の所有意識があっても、不思議ではありません。
実際、領土を巡っての争いがありますし、異性間のトラブルも後を絶ちません。
これは力のある物が、全てを手に入れるという構図になっています。
全てを手に入れても、力が落ちてしまうと、途端に他の者に、全てを奪われてしまいます。
動物の世界でも、ある群れのボスが、若い雄に地位を奪われて、すごすごとその場を離れるという光景は、いくらでもあります。
ボスの座を奪った若い雄も、いずれは同じように、その地位を他の雄に奪われ、群れから追い出されてしまうのです。

何故、所有しようとするのでしょうか。
動物の場合、安定した餌の獲得のために縄張りを、そして自分の子孫を増やすために雌を、我が物にしようとするのだと思います。
人間の場合、領土を得ようとするのは、そこから得られる食べ物や資源などが目的です。
その他に、威厳や権力を誇示するため、軍事的拠点を獲得するため、というのもあります。
異性を我が物にしようとするのは、子孫を増やすというよりも、性欲が一番の理由でしょう。
また、自分の好みの相手を、独り占めしたいという独占欲も働きます。
そこには他の者に対する、優越感もあると思います。
いずれにしても、何かを所有するという場合、所有の対象となるのは物品です。
相手が動物、あるいは人間であっても、所有意識を持っている者からすれば、それは物品に過ぎません。
つまり、この女は俺のものだぜ、とか、この人はアタシの物よ、と言う場合、その相手の人を自分が所有する物品だと、宣言しているわけです。
相手が独立した存在であることなど、完全に無視ですね。
だから、自分の思い通りにならないと、すぐに腹を立てますし、乱暴な扱いをします。
誰が主なのかを、わからせようとするのです。
でも、誰であれ人間は、誰かの所有物ではありません。
また、動物にしてもそうです。
人が勝手に動物を商品扱いしているだけで、本来は動物も誰の物でもありません。
植物や鉱物、空気、水、存在するもの全てが、誰の物でもないのです。
人間が勝手に自分の物だと、言い張っているだけのことです。
人間が人間を所有するという概念は、通常は否定的に見られます。
しかし、人間以外のものであれば、それが動物であっても、所有が認められます。
それは、人間以外のものには、人間のような知性がないと見なしているからです。
知性がないのは物と同じという発想でしょう。
もちろん、心ある人は動物虐待など認めません。
しかし、心ない人にとっては、たかが動物じゃないか、という考えの元で、動物を好きなように扱うのです。

相手が人間と対等に、会話などのやり取りができるなら、人間と同等の扱いをする可能性はあります。
ただし、そこに経済的な絡みがあれば、知性があるのがわかっていても、無視するかもしれません。
他の人間を物のように扱い、利用して金儲けをしようとするのと同じです。
それが物であれ、生き物であれ、人間であれ、所有していると考えている時には、相手への尊厳はありません。
自分が主だと考えているので、そのような想いはないのです。
道具や車などに愛着を感じている人は、それを所有しているとは言わないでしょう。
道具や車のことを、自分の相棒と呼ぶと思います。
全ての存在は、同じ一つのものから、生まれ出ました。
地球が誕生しなければ、人間はもちろん、他の生き物たちも存在しません。
山もなければ、海も、青空も、雲もありません。
どんなに人間が威張ったところで、人間は地球が誕生した結果、存在するようになったのです。
つまり、地球はお母さんであり、他の存在は全て兄弟姉妹です。

他の生き物を食べることで、生きるということは、その生き物からエネルギーをもらっているのです。
地球という全体のエネルギーの中での、エネルギーのやり取りです。
決してその生き物を、所有したわけではありません。
生き方や存在の仕方は、千差万別ですが、それでもみんな仲間であり、家族です。
道具などに愛着を持てる人は、理屈ではなく、感覚的に相手の存在を感じ取り、敬意を払うのだと思います。
個人が何かを持っていて、それを自分の物だと考えても、すぐに問題が起きるわけではありません。
しかし、何かを自分の物にしたいと、考えるようになると、問題につながるかもしれません。
大勢の人間が所有権を争うようになると、大変な騒ぎになってしまいます。
自分が何かを利用させてもらうことがあっても、それは自分だけの物だと、考えることはやめるべきなのです。
また、本当は誰の物でもないのに、これは自分の物だと言われると、その対象に対して失礼でしょう。
それぞれが相手に敬意と思いやりを持ち、また、何かを利用させてもらう時には、感謝の想いを持てば、争いごとは起こりませんし、みんなが平和な気持ちになります。

大きな問題は、実は日頃の小さな考え方の、積み重ねで起こるのです。
何かが身近にある時、あいるは、いる時、それは自分の物だという考えは、やめた方がいいでしょう。
それが物であれば、使わせてもらっている、利用させてもらっている、という姿勢が大切です。
動物や植物などの生き物であれば、自分の友、あるいは家族だと考えるようにして下さい。
それができなければ、生き物は飼わない方がいいと思います
相手が人間であれば、その人の人格を尊重しましょう。
相手を自分の物にしたいと思うのは、自分には相手を惹きつける魅力がないと、考えているのです。
実際に惹きつけられないのであれば、それは相手と波長が合っていないということです。
無理に一緒になっても、トラブルばかりの関係になるでしょう。
一緒になるのであれば、波長が合った人がいいと思います。
そして、そういう相手であれば、自分の物という考えは、浮かばないでしょう。
自分を許す その4

誰かを傷つけることで、自身も深く傷ついてしまうことがあります。
でも、傷つけたのは自分の方なので、責められることはあっても、慰めてくれる人はいません。
やってはいけないことを、やってしまった後に、我に返ってうろたえることも、あるでしょう。
世間から見て、自分は最悪の人間だと思えてしまい、自分で自分を責めたり、罰しようと考えます。
確かに、実際にやってしまったことに対しての、責任というものは生じます。
それに対しての、反省は必要です。
自分を許すというのは、反省をしなくてもいい、という意味ではありません。
しかし、自分を憎んではいけません。
悪いことをしてしまった自分さえも、自分で否定することなく、そのまま受け入れる必要があります。
繰り返しますが、反省をしないという意味ではありません。
これについては、自分や世界についての、深い理解が必要です。

最も大きな問題は、人生は一回こっきりで、やり直しが利かないという考え方です。
確かに、同じ人生は一回こっきりかもしれません。
でも、人間が何度も生まれ変わりを、繰り返す存在であるならば、人生は一回こっきりとは言えないでしょう。
今世で罪を犯した人を、強く憎んでいる人も、別の人生では、それ以上の悪いことを、しているかもしれません。
人間というものを、繰り返される多くの人生の、それぞれの人格をひっくるめた、もっと大きな意識だととらえてみて下さい。
本当の自分とは、その大きな意識のことであり、今の人生における自分は、本当の自分の一面に過ぎません。
本当の自分の意識に立って、今の人生で起こっていることを眺めてみれば、その受け止め方が、がらりと変わるはずです。
全ての経験は学びであり、自分が成長するための糧であると考えれば、自分を憎んでも仕方がないことが、わかると思います。
本当の自分が求めていることは、そんなことではないのです。
でも、自分がやった事に対して、何の反省もなく、何の責任も感じなければ、それは何も学び取れていないわけですから、人生が無駄になってしまいます。
これもまた、本当の自分が求めていることではありません。
やった事に対しては、深く反省をし、自分が傷つけた人だけでなく、自分と同じような境遇の人へ、想いを馳せることが大切です。
こうして考えると、自分を許すということと、他人を許すということが、同じ意味であると理解ができるのではないでしょうか。
逆に言えば、他人を批判したり、否定したりする人は、実は、自分のことが大嫌いなんですね。
他人を許せないということは、自分自身を許せないと、表明しているのと同じです。

何がよくて何が悪いのか。
その判断基準は、全てこの世界で作られたものです。
でも、本来の私たちは、この世界を越えた、もっと大きな存在です。
狭い価値観に縛られるのではなく、もっと高い視点に立って、物事や自分自身を見つめることが肝要です。
自分を許すということは、本当の自分を知る、ということでもあるのです。
自分を許す その3

自分を独りぼっちだと感じている人は、自分の魅力に気がついていません。
周囲に人がいなくて孤独を感じる人もいますが、みんなと一緒にいても、考え方や興味が合わなくて、心のうちでは独りぼっちということもあります。
見た目は違っても、孤独であることは、どちらも同じです。
自分を独りぼっちだと思う時、他人と自分を比べて、自分が劣っているように感じています。
みんなの話題に関心が持てない自分を、変わり者と見てしまうでしょう。
他人と自分を見比べる時は、大体において、相手に都合のよい基準で、比較するものです。
勉強ができるか、スポーツが得意か、営業成績がいいか、友だちがたくさんいるのか。
他にもいろいろあるでしょうが、どれをとっても、相手に都合のいいことばかりです。
共通の話題があるかということも、同じです。
みんなと一緒に盛り上がれるかも、比較の基準の一つです。
こんな相手に都合のいい基準で考えれば、当然、自分は何をしてもだめな、何の取り柄もない、つまらない人間だという結論に、至ってしまいます。
でも、自分の魅力を知っていたならば、他人と自分を見比べて、自分が見劣りするとは思いません。
そもそも、他人と自分を比べることもしなくなります。
では、自分の魅力とは何でしょうか。
それは、何かに夢中になるということです。
何かを本気で極めてやろうと思うほど、夢中になれるものがあれば、その姿が魅力として滲み出て来るのです。

それは個人的に楽しむものでもいいですし、仲間とするものでも構いません。
誰かに喜んでもらうことが嬉しくて、そんなことに夢中になるのもいいですね。
中身は何でもいいのです。
自分の意思で、自分が決めたとおりに、自分の人生を歩む。
これこそが、人間の魅力なのです。
そして、そんな人生を歩めるようになった人は、自分が進む道しか見えませんから、他人と自分を比べることなど、関心がありません。
自分と同じ道を進む人たちと、心を通わせることは心地よいのですが、そうではない人たちと一緒にいると、とても苦痛です。
つまり、自分が独りぼっちに見える、状態にあったとしても、全く平気になるのです。
そうなると、独りぼっちの自分が嫌いという想いは、いつの間にか消えているでしょう。
あえて自分を許すと思わなくても、自然に自分を許した状態になっています。
繰り返しますが、自分の魅力というものは、自分が進むべき道を歩む時に、内側から滲み出て来る雰囲気、あるいはオーラなのです。
自分が出すオーラは、それを異質と受け取る人を、寄せつけません。
でも、同じ気持ちを持つ人は、そのオーラに引き寄せられて、集まって来るのです。
本当に気持ちが通じ合える人たちというのは、こういう人たちです。
こういう人が一人でもいてくれたなら、生きていてよかったと思えるものです。
自分を許す その2

誰かにひどいことを言われて傷つく時、それは発言の基準となる相手の価値観を、自分が受け入れたということです。
たとえば、大人が子供に馬鹿にされたとしましょう。
大人のくせに、こんなこともできないのか、と子供に言われて、かっとしてしまうのは、大人は子供よりも優れているものだ、という価値観が絡んでいます。
子供はこの価値観に基づいて、何かができない大人をからかいます。
からかわれた大人は、この価値観に基づいて、自分を情けないと思っているため、子供にそこをつつかれると、かっとするのです。
もし、この大人が、大人にだってできないことはあるし、大人より子供の方が優れていることもあるんだよ、と子供に教えられる人であれば、かっとすることはありません。
素直に褒められた子供は、この大人を尊敬するようになるでしょう。

容姿のことを言われて、傷つく時も同じです。
誰かの容姿のことを、いろいろ言う人は、まず、容姿が人の良し悪しを、決める基準になっています。
また、どんな容姿がいいのか、というのは、単なるその人の好みです。
こんな人に容姿のことを言われて傷つくのは、自分の容姿に自信がなく、基本的に相手と同じ価値観を、持っているからです。
本当に魅力がある人というのは、見かけの姿は関係ありません。
魅力というものは、その人の内側から滲み出て来るものなのです。
どんなに見た目をきれいに整えたところで、魅力のない人はたくさんいます。
それに、見た目というものは、個人個人の好みであり、全体的な流行というものも、時代によって異なって来ます。
絶対的に素晴らしい見た目など、ないわけです。
誰かを本当に好きになった時、その人がどんな容姿をしていようとも、関係ありません。
そして、その人の容姿こそが、自分にとって最高の姿になるのです。
こういう価値観を持てるならば、容姿のことを誰かに言われた時、自分が傷つくのではなく、相手のことを哀れに思うことでしょう。
自分を受け入れられないという考えの、基準になっている価値観を見直して、もっと上質の価値観を持つようにすれば、他人の目など気にならなくなります。
自分に自信がない人は、自分を否定するのではなく、自信をなくさせるような価値観こそを、否定しましょう。
それが自分を許すための、第一歩です。
自分を許す その1
自分が嫌いという人はいませんか。
あるいは、あんな事をした自分が許せない、と思う人はいませんか。
やってはいけない事をした後、自分を責めることがあります。
誰かに傷つけられて、悲しい思いをした時も、そんな自分が情けなくて、嫌いになることもあるでしょう。
別に傷つけられることがなくても、いつも独りぼっちで、友だちの輪に入っていけないと、やはりそんな自分が嫌になるかもしれません。
勉強ができなくて、何で自分はこんなに頭が悪いのか、どうしてもっと賢く生まれて来なかったのだろうと、今の自分を否定したくなった人も、少なくないのではないでしょうか。

みんな大なり小なり、自分を否定的に受け止めたことが、あると思います。
現在進行形で、自分を否定したり、自分を嫌ったり、自分を憎んだりしている人もいるでしょう。
そんな想いが強いと、自分で自分を許せなくなります。
上手く生きていけない時に、周囲に対する怒りを、自分自身に向けてしまい、こんな自分に終止符を打とうと、自ら命を絶つ人もいます。
しかし、どんなにつらい状況にあっても、自分を認め、今の自分を受け入れることができたなら、自分の命を絶つという道を、選択することはありません。
何かができなくて苦しんだり、誰かにつけられた心の傷が、いつまでも癒えなかったりする時も、自分を認め、受け入れることができれば、その状況から抜け出せると思います。
と言うことは、本当の問題は周囲にあるのではなく、自分の能力や境遇にあるのでも、ないということですね。
本当の問題は、自分を認めないという、自分自身の心にあるのです。
でも、生まれたばかりの赤ちゃんが、自分を否定することはありません。
自分を否定したくなる気持ちは、生まれてから後に、どこかですり込まれた価値観が原因なのです。

そんな価値観を見つけ出し、そこから解放されたなら、今の自分をまるごと受け止め、認め、愛することができるでしょう。
それが、自分を許すということなのです。
私はこんな感じだけど、でも、私は今の自分が大好きです。
こんな風に言えるようになれば、自分の翼で人生を羽ばたけるようになります。
そして、それはとても幸せなことなのです。
長い物に巻かれる

長い物には巻かれよ、という言葉があります。
力のある者には従った方が得策、という意味です。
裏を読めば、長くない物には巻かれない、すなわち、力のない者には従わない、という意味になりますね。
上司にはぺこぺこするのに、部下には威張り散らすような人の、イメージでしょうか。
出世あるいはお金儲けのためであれば、自分の主張とは違う相手にでも、頭を下げておいた方が得をする、という発想でしょう。
こういう人は裏表があり、嫌なやつ、信用できない人、と見られると思います。
でも、こんな人たちは一般の人間から、どのように見られようと構いません。
自分が媚びを売る相手から、どう見られるかということだけが、重要なのです。

しかし、長い物に巻かれるというのを、もっと広い意味でとらえると、どうでしょうか。
世の中の流れに、逆らわずに生きるというものです。
みんながしているから、みんなが持っているから、みんなと同じが安心だから。
みんなと違うことに対して不安を抱き、安心を得るために、自分の想いを封印してしまうのです。
言い方を変えれば、安心のために自分を殺すのです。
でも、自分を殺して、何の安心でしょうか。
自分が活き活きした上での、安心でなければ、意味がないでしょう。
権威や権力になびく人も、結局は自分を殺し、大切なものを犠牲にして、安心を手に入れようとしているのです。
つまり、世の中の流れに自分を合わせている人も、権力になびく人も、中身は同じということです。
力がある者の言いなりになる人には、嫌悪感を抱くと思います。
でも案外、自分も似たようなことを、意識しないまましているのかもしれません。
存在するという奇跡

存在するとは、どういうことでしょう。
存在しないというと、何もない、無ということです。
自分が死んだら、無になると思っている人は、意外に多いようです。
あの世があるかもしれないと思ったとしても、多くの人にとって、それは確かなものではなく、半信半疑です。
では、自分がいなくなる、無になるというと、イメージできるでしょうか。
無になるとは、眠るようなものだと、考える人がいるかもしれません。
確かに、眠っている時には意識がありません。
しかし、それを覚醒時の自分が存在しなくなったと、とらえることはできるでしょうか。

通常、眠っている人の意識は、翌朝目覚めた時に戻ります。
存在しなくなったら、戻って来ることはできませんから、眠ることが、存在しなくなるということでは、なさそうです。
部屋にいた人が、部屋の外に出てしまい、その姿が見えなくなっても、部屋に戻ってくれば、再びその姿を見ることができる、ということと同じですね。
部屋の外へ出ると、姿は見えなくなりますが、存在がなくなるわけではないのです。
物理学の世界では、エネルギー保存則があります。
エネルギーは変化はしても、なくならないというものです。
死んで肉体が崩壊しても、肉体を構成していた物質エネルギーは、別な形態に変化しただけで、なくなるわけではありません。
人間の意識も、睡眠中は消えたように見えても、覚醒すれば、再び活動を始めるのは、エネルギーとしての状態が、変化しているだけと言えるでしょう。
では、死んでしまうと、どうでしょうか。
エネルギー保存則に従えば、存在していたものは、なくなりません。
睡眠中の時に、意識形態が変化したように、死後の意識は、肉体とのつながりがない状態に、応じた形態に変化しているだけと思われます。

肉体によって、自分の存在を表現できなくなりますから、生きている者からは、死んだ人の存在を知る術がありません。
それで、その人が無になったように思うのですが、実際は変化した状態の意識として、存在し続けていると考えられます。
とにかく、すでに存在しているものが、無になることはないと理解すると、無というものは、私たちには絶対的に縁のないものだと言えます。
ですから、本当の無をイメージすることは、できないのです。
イメージできるのは、存在し得るものだけです。
無をイメージできたとすると、無が存在することになります。
存在しないのが無ですから、これでは矛盾してしまいます。
では、何故自分は存在しているのか。
存在しなくても、よかったのではないか。
そんな風に考えたことは、ありませんか。
何故自分は存在しているのか。
それは、自分が世界の一部だからです。
全てを含めた世界というものが、存在しているから、全ての一部である自分も、存在しているのです。
何故自分は世界の一部なのか。
世界があらゆる意識の集合体だと考えると、世界には、存在し得る全ての意識形態があり、自分もその一つなのです。
ですから、自分が存在するのは、当然と言えば当然なのです。
でも、感覚的には、やはり自分が存在するということは、とても不思議に感じられます。
また、奇跡だと考えたくなるでしょう。
無ではなく、存在している。
このことを奇跡だと受け止めるのは、存在そのものが、とてもすごいことであり、素晴らしいことだということです。
それは、あなたも私も奇跡であり、とてもすごく、とても素晴らしいという意味です。
目立ったことが、できようとできまいと関係ありません。
存在しているというだけで、素晴らしいのです。
そして、それは人間以外の、全ての存在についても言えるのです。
動物も素晴らしいし、植物も素晴らしい。
微生物も素晴らしいし、山や海も素晴らしい。
地球も素晴らしければ、太陽も素晴らしい。
宇宙の全てが素晴らしく、世界は素晴らしいのです。

悪習慣から抜け出す その3
悪習慣の原因がわかったとしても、それですぐに悪習慣から、抜け出せるわけではありません。
原因を解決しなければ、無理に悪習慣だけを断ち切ろうとしても、なかなかむずかしいと思います。
この悪習慣を何とかせねばと、悪習慣に意識を集中させると、却って悪習慣に引っ張られてしまい、抜け出すことは困難になります。

悪習慣から抜け出すためには、何か違うものに意識を合わせることが有効です。
意識を合わせやすいとなると、自分が興味を持てることです。
つまり、自分が本当にやりたいと思っていることに、夢中になることです。
お金がないからできないとか、こんな場所ではできないとか、できない理由を並べるのではなく、その状況の中でもできることを見つけ出し、何が何でもやってやるんだという、強い意気込みを持つのです。
言い換えれば、それだけ本当にやりたいという気持ちがなければ、口先だけでやりたいと言ってもだめだ、ということです。
悪習慣から抜け出すためには、それに応じた強い力が必要なのです。
だからこそ、自分が本当にやりたいことが、一番ふさわしいのです。
また、悪習慣の原因、悪習慣の正体を知らなければ、本当にやりたいことをしているつもりでも、悪習慣は手強い相手となるでしょう。
しかし、悪習慣の理由がわかっていれば、つまり、自分の心が悪習慣を通して、何を伝えたいのかが理解できていれば、向きになって悪習慣と戦う必要はなくなります。

本当にやりたいことに専念すれば、悪習慣の原因も、自然と解決されて行くでしょう。
本当にやりたいことをしているつもりでも、ふと悪習慣の誘惑が出て来ることがありますが、それはそれで気にすることはありません。
また、悪習慣を始めてしまったと悔やまなくても、気にせずにやりたいことに専念するのです。
変化は少しずつ起こりますから、悪習慣の誘惑が繰り返されても、その力は徐々に弱まって行きます。
それと比例するように、自分がやりたいことには、どんどん夢中になるはずです。
やりたい事にのめり込むほど、悪習慣は遠のいて行きます。
気がつけば、やりたいことだけをするようになり、悪習慣はいつの間にかなくなっているでしょう。
悪習慣から抜け出す その2
どんな習慣でも、それが身につくには、何等かの理由があるはずです。
たとえば、毎朝歯を磨くのは、幼い頃から親に躾けられたからでしょう。
出かける前に必ず鏡を見る人は、誰かに髪の寝癖を笑われたのかもしれません。
煙草やお酒を始めるのは、大抵の場合、大人の気分を味わうためだと思います。
それが長く続けているうちに、中毒になってしまい、体が感覚的に煙草やお酒を求めるようになるのです。

体が煙草やお酒を求める場合、強制的に煙草やお酒がない環境に留まれば、やがて体は煙草やお酒がない状態に、慣れて行きます。
問題は精神的な依存です。
煙草を吸ったり、お酒を飲んだ時の感覚や雰囲気を、心が求めてしまうと、せっかく体が煙草やお酒がない状態に慣れたとしても、全て元の木阿弥になってしまいます。
これは食べ過ぎやゲーム、暴走運転など、他の悪習慣にも言えることです。
本来必要でない習慣が、いつの間にか身についてしまうのは、心が何か問題を抱えているからでしょう。
その問題を解決しなければ、なかなか悪習慣を断ち切ることはできません。
悪習慣とは、心が言葉ではなく行動によって、不満を訴えたものなのです。
煙草やお酒が、大人の象徴であるならば、大人になってからでも、自分が一人前の人間として、認められていないという不満を感じた時に、煙草やお酒に走りたくなると思います。
いわゆる、ストレスを感じた時というのが、それですね。

あるいは、普段いろんなことを辛抱し、言いたいことも言えない、やりたいこともできないと、自分に不満を抱きます。
自分で自分のことを、半人前の人間と見なしてしまうのです。
そんな時も、大人の象徴である煙草やお酒を、求めてしまうのではないでしょうか。
食べ過ぎたり、買い過ぎたり、貯め込み過ぎたりするのは、そうすることで安心感を得たいのだと思います。
でも、この安心感は一時的ですから、すぐに不安になってしまい、安心を求めて、同じ行為を繰り返してしまうのです。
車の運転にしても、道を歩くだけにしても、あるいはお店の店員さんとのやりとりにしても、やたら乱暴な態度を見せる人がいます。
この人たちも、自分に自信がない、誰にも認められていない、もしかしたら下に見られているかもしれない、というような不安や不満が漂っています。
だから、まだ、相手が何もしていないのに、舐めんなよと先に示したくなるのです。
悪習慣の陰には、自分のそんな弱気な気持ちが、隠れているのだと認識することが、悪習慣から抜け出す第一歩です。
そうだったのか、自分はそんな気持ちを抱えていたのか、と思えればいいですね。
ほとんどの人が、心の奥深くに隠れた想いに、気がつかないまま悪習慣を繰り返していると思います。
まずは心の中の想いに気がついて、それを第三者的に認めることが肝要なのです。
悪習慣から抜け出す その1
飲酒、喫煙、食べ過ぎ、ゲーム、暴走運転、散財、貯め込み。
一度習慣になってしまったものは、なかなかやめることができません。
それが生活に支障を来さないものや、健康にいいものであれば、何も問題はありません。
しかし、やり過ぎて体を壊したり、人間関係が悪くなったり、大きなトラブルにつながるようなものは、悪習慣ですから続けない方がいいでしょう。
それでも、本人がそれで構わないと思うのであれば、仕方がありません。

他人にとっては悪習慣でも、本人にとっては、ただの習慣だと言うのであれば、そこから抜け出す理由がありません。
ここで取り上げているのは、他人の習慣ではなく、自分の習慣です。
自分でこれはやめないとな、と思いながらも、なかなかやめられない場合の習慣です。
習慣に問題がある場合、習慣ですから、その問題は蓄積されて行きます。
ぱっと見ただけでは、これぐらい別にどうってことないでしょ、と思えるようなことも、塵も積もれば山となるで、気がついた時には、大変なことになっているかも知れません。

たとえば、死にそうになるとか、大きなトラブルに巻き込まれるとか、大切なものを失ってしまうなど、絶対に経験したくないような出来事が、訪れることになるでしょう。
それでも、まだやり直しが利く場合、ようやくではありますが、悪習慣を断ち切って、新たな人生を始めることができます。
ひどい目に遭って初めて、それほど強い意志を持つようになるのです。
言い換えれば、それぐらいひどい目に遭わなければ、なかなか強い意志を持つことができない、ということですね。
でも、やり直しが利かない、手遅れ状態のこともあります。
まだやり直しが利くのか、手遅れになるのか、それはその時にならないとわかりません。
そんなのは嫌だという方は、問題が大きくなる前に、悪習慣から抜け出すようにした方が賢明でしょう。
では、どうやれば悪習慣から抜け出せるのでしょうか。
それには、まず悪習慣がついた理由を、探ることが大切です。