エゴの上映会

嫌な奴に、嫌な思いをさせられた。
そんな時、無性に腹が立ちますよね。
相手がいなくなっても、その思いはなかなか消えません。
忘れたつもりになっていても、ちょっとした心の隙を突いて、相手の嫌な顔が浮かんで来ます。
また、顔が浮かぶだけでなく、嫌な思いを再現するようなシーンが、映画のように繰り返されます。
あるいは、その嫌な相手がこれからも自分に、こんな嫌な思いをさせるだろうという場面も、浮かんで来たりもします。
これは相手の言動に傷ついたと、思い込んでいるエゴが、自分がどれだけ傷ついているかを、意識の中心にいるあなたに、訴えかけているのです。

エゴは物事を低い視点から眺めている、自我意識です。
意識の中心にいるあなたは、自分の言動に対する選択権や決定権があります。
普段はエゴに自分の代理を任せていますが、何かがうまく行かなくなった時、エゴはその処理ができません。
高い視点から物事を眺めることができないので、壁があるとぶち当たるばかりで、それを乗り越えるということができないのです。
それでも、エゴは自分の必要性を、意識の中心にいるあなたに向かって、必死に訴えます。
それが、あなたを不愉快な想いにさせる、嫌な記憶や、不安を煽るような映像なのです。
また、エゴは相手への怒りを訴え、嫌な相手がひどい目に遭う場面や、死んでしまう場面を創り出して、あなたの心のスクリーンに上映します。
そうやってエゴはあなたに、同調を求めます。
あなたが、このエゴの言い分を受け入れ、自分をエゴと同調させると、あなたはエゴと一体化します。
つまり、物事を高い視点から眺めて、判断することができなくなるのです。
あなたが嫌な相手のことを、憎んだり呪ったりしている時は、エゴに主導権を握られています。
相手を憎んだり呪ったりしたところで、あなたの心は余計に乱れ、つらくなるばかりです。
本来の自分を取り戻し、楽しく過ごすためには、エゴに同調してはいけません。
そうではなく、エゴの視点を今より高い位置へ、移動させてやるのです。

嫌だと思った相手が、その後どうなろうと、それはあなたには関係のないことです。
あなたが関わるべきなのは、自分自身の人生であり、充実した人生を送ることだけです。
まずは、そのことをエゴに納得させねばなりません。
意識の中心にいるあなたには、エゴからの訴えだけでなく、もっと高い視点を持ったあなたからの、助言が届きます。
その助言を元にして、エゴにもっといい映像を見せるよう、要求すればいいのです。
でも、視点の低いエゴに完全に同調していると、高い視点からの助言は得られません。
気持ちを落ち着け、ニュートラルの状態を維持することが重要です。

エゴは自分の言い分を変えると、自分が無価値になると思い込んでいます。
そのため、なかなか助言に従いませんし、世の中にある不安を煽ったり、自分から自信を摘み取るような映像も、次々に見せようとします。
それでも粘り強く、そんな映像はつまらないから、違う可能性の映像を、上映するように求めます。
渋々ながらも、エゴが楽しい将来の映像を、上映し始めると、それが気分のいいことであるとわかります。
また、自分の価値がなくなるどころか、却って価値が高まると理解するようになります。
そうなると、エゴはそれまでより高い視点で、物事を眺めるようになり、あなたは再び安心して、エゴに普段の行動を、任せられるようになるのです。
仕事と遊び その2
職場が仕事と遊びをきっちり分けているために、息苦しい思いをする人は、少なくないでしょう。
しかし、仕事を単なる作業だと、自分でそう受け止めているために、仕事が面白味のない機械的なものになり、嫌気が差すこともあると思います。

同じ作業をするにしても、そこに個人の考え方や、やり方を反映できる場合、その仕事を面白いと受け止める人と、つまらないと感じる人に分かれます。
面白いと思う人は、自分なりの工夫を入れたり、相手や周囲の人たちとの関係を考慮して、その職場を居心地のいいものに、しようとします。
つまらないと感じる人は、その仕事の意味を理解する意思もなく、言われた作業だけをしています。
工夫次第で面白くできるのに、そういう工夫をしようとも思いません。
そんな姿勢のままでは、たとえ転職して仕事を変えても、新しい職場で同じ状況が、繰り返される可能性は高いでしょう。
こういう人は、自分で仕事と遊びを別物だと、完全に分けてしまっていると思います。

仕事を楽しむという感覚を、持つことができれば、つまらないと思っていた作業が、とても面白く感じられるようになるかもしれません。
もちろん、どうしても自分には合わない、仕事というものもあるでしょう。
それでも、自分なりに仕事を楽しめるような、工夫をしているかどうかが大切です。
端(はな)から工夫をしない人は、どこで何をやっても同じです。
工夫はしたけれど、うまく行かなかったという人は、次の仕事ではうまく行く可能性は、十分あると思います。
仕事を楽しいものにできるかどうか。
これについて、経営者の意識はとても大きく関わっています。
しかし、これと同じかそれ以上に、自分自身の意識も、大きく大きく関わっているのです。
仕事と遊び その1

人間は仕事と遊びを分けて考えます。
特に生真面目な日本人には言えることです。
仕事も遊びも、単なる作業に過ぎません。
何を持って仕事とし、何を持って遊びとするのか、そこには本来線引きなどできないはずです。
それを敢えて線引きするのは、その線引きが自分にとって、都合がいいという人がいるからです。
それは人を動かして、自分がやりたいことを実現しようとしている人。
特に、それによって利益を儲けようと考えている人です。
人間はロボットではありませんから、喜怒哀楽があります。
その日によって、気分も体調も変わって来ます。
あるいは、家の事情などで、いつものようには動けないこともあります。
しかし、毎日毎日決まったように、成果を出したい経営者は、自分の下で働く者たちが、一糸乱れぬ動きをすることを望みます。
それは人間に対して、ロボットになることを、求めているのと同じです。

仕事中に私語は禁じるとか、机の上に家族の写真を置くなとか、勤務時間中はトイレ以外は仕事を続けろとか、営業に出たら営業以外のことはするなとか、職場にもよるでしょうが、厳格な所はとても厳格です。
そんな所はやめればいいのにと思うのですが、自分はそこでしか働けないとか、みんなが頑張っているのに、自分だけが弱音を吐けないとか、そんな強迫観念を子供の頃から、教育の名を通してすり込まれていると、なかなか抜け出すことができません。
その挙げ句、病気になったり、誰かと争ったり、自ら命を絶ったり、ということになるのです。
仕事というものは、ロボットのように淡々と作業をこなすこと。
遊びというものは、楽しむこと。
こんな風に、分けて考える経営者が、昔は多かったように思います。
でも、最近の若い経営者の中には、仕事の中に楽しさを見つけてこそ、初めていい仕事ができると気がつき、社員に働く意欲を持たせる、工夫をする人が出て来ました。

自分たちが楽しい気持ちを持ちながら、お客をどうやって喜ばせるのか、どうすれば素晴らしい結果を導けるのか、ということに、みんなで頭を捻って創意工夫をする。
こんな職場は、遊びと仕事の区別をしていません。
社員は活き活きと働き、失敗があっても挫けず、喜びにつながる結果を出してくれます。
一方、昔ながらの仕事と遊びを、きっちり分けている職場では、社員はいつ辞めようかと考え、仕事にも気持ちが入りません。
いい結果は出ないし、従業員の定着率も悪く、しょっちゅう社員を募集することになるのです。
かつては、上から無茶を言われても、黙って従う人が圧倒的多数だったですが、今は違います。
今の若い人たちは、自分がやりたいと思わなければ、いとも簡単に辞めてしまいます。
彼らをつなぎとめるのは、昔ながらのやり方では無理なのです。
若い人が働いてくれないから、という理由で、海外からの労働者を、安い賃金で使う所が結構あるようですが、これも一時的な対応策に過ぎません。
海外の労働者を見下すような態度を見せていれば、彼らも怒って、働かなくなるでしょう。
若い人たちが、やりがいのある仕事に惹かれるように、海外から来る労働者も、自分を人間として扱ってくれる所を、望むはずです。
そして、実際にそのような動きになると思います。
人を駒扱いするような企業は、これからどんどん潰れて行くでしょう。
今、求められているのは、楽しくやりがいのある仕事であり、そういう仕事で成り立つ社会なのです。
ゼロと無限大
ゼロというのは、何もないということです。
一方、無限大というのは、文字通りどこまで行っても、無限に大きいという意味です。
決して行き着くことがない、果てがないということですね。
私たちが暮らす世界は、縦横高さの三次元です。
空間という大きさのある世界です。
宇宙は拡大していると言われますが、その果てというものは、確認できていません。
果てがあるとすれば、その向こうはどうなっているのか、となりますが、その向こうがあるのであれば、果てとは言えません。
宇宙は拡張を続けた後、ある時点で収縮に転じると、考える人もいるようです。
その場合、どこまで収縮するのかはわかりませんが、ビッグバンが一点の爆発から起こったのだとすると、元の一点にまで収縮するとうイメージでしょうか。
その一点はゼロに見えるのでしょうが、ゼロではありません。
言い換えると、存在しているものが、無にはならないのです。
エネルギーは変化することがあっても、その総量は変わりません。
エネルギーが一点に圧縮されるだけであって、なくなるわけではないのです。
ゼロにしても無限大にしても、人間が頭に描くイメージであり、実際にそれが何であるのかはわかりません。

ところで、宇宙の拡張や収縮を表すものとして、表面に多くの点を描いたボールがあります。
星と星は互いに離れ合って動いている、という観察結果があるのですが、それを説明するのに使われます。
ボールを膨らませると、表面に描かれた各点は、互いに離れて行きます。
それが宇宙が拡張しているというモデルです。
ボールは破れない前提なので、どこまでも膨らませることができます。
その膨らみ方には限度がありません。
これが無限大です。
一方で、ボールを収縮させて行くと、どんどんボールは縮んで点のようになります。
でも、どんなに収縮しても、宇宙がなくなるわけではありません。
先ほど述べたように、ゼロになったように見えても、無としてのゼロには、なり得ないのです。
限りなくゼロに近づくけれど、決してゼロになることはない。
これは限りなく膨張するけれど、決して果てに到達することがない、というのと似ていますよね。
この世界のプラスとマイナスが、逆転した世界があるならば、そちらの世界では、こちらの世界の膨張が収縮になり、収縮が膨張になると考えられます。
もしかしたら、ゼロに見える瞬間とは、そんな逆転世界への転換点なのかもしれません。
プラスの宇宙が収縮して、ゼロのような点になった瞬間、マイナスの宇宙が誕生して拡張を始める、という感じです。

全ての物を呑み込んでしまうブラックホールの向こうには、呑み込んだエネルギーが噴き出す、ホワイトホールというものがあるという説もあります。
これはまさしく、ゼロと思われるものの向こうに、無限大に広がる別の宇宙が、存在しているということです。
宇宙というものは、単純な一つの時空間ではなく、いろんな時空間が、所々で接点をもってつながっているような、複雑な構造をしているのかもしれませんね。
また、果てと思えるほど遠くへ行っても、そこには新たな宇宙が広がっているのかもしれません。
助けられたカンガルー
オーストラリアのキャンベラで、早朝、冷たい湖の浅瀬でたたずんだカンガルーを、二人の男性が発見しました。
何故、カンガルーがそんな所にいたのかは、わかりません。
しかし、カンガルーは凍えているようでした。
二人は野生動物の救助隊に連絡をしましたが、その到着を待たずに、自分たちでカンガルーの救出を始めたそうです。
二人に抱えられたカンガルーは、抵抗する様子はなかったと言います。
そうして岸辺へ運ばれたカンガルーは、逃げずにその場に居続けましたが、驚いたことに、助けてくれた二人が近づくと、その腕を両手で握ったのです。
この時には、救助隊が来ていたのでしょう。
その様子が動画に映されていましたが、確かにカンガルーは男の人の手を、自ら握っていました。
撮影者は、カンガルーが感謝しているんだろうと話していましたが、私もそうなのだと思います。
人間は動物のことを、とても低く見ており、動物にも心があるということを、見ようとしない人が少なくありません。
そんなことを考えていては、肉を食べることもできないし、動物を使った商売も、できなくなってしまうからでしょうか。
それでも、人間がどう考えるかに関係なく、動物には心があり、喜んだり悲しんだりするのです。
人間は彼らにもっと敬意を払い、丁重に扱うようにしなければなりません。
力の強い者が、抵抗できない弱い者を、好きなように扱っていいというのは、全くもって自分勝手な考え方です。
人は、もっと心に関心を向けるべきであり、心を通して、世界を理解するべきです。
それは人間社会における、多くの問題解決にもつながりますし、私たち自身の進化に、大きく関わって来ることなのです。
今回のような、人間と動物との関わりは、これまでも人目につかない所で、いくらでもあったことだと思います。
しかし、これからはもっと多くの人の目に留まるように、多くの記事が伝えられることになるでしょう。
それは、人間が今まさに進化を始めようとしているからです。
一息入れよう

誰もが日々の暮らしに追われています。
病気や怪我、あるいは生活環境の変化によって、何もできない方もいるでしょう。
でも、頭の中ではいろんなことを考えたり、将来への不安におびえたりしていると思います。
毎日忙しく動いている人も、動けなくても頭の中が不安だらけの人も、ちょっと一休みをして、ぼーっとしてみませんか。
動いているにしても、機械的に動いているだけでは、充実感は得られません。
何のために、こんなことをしているのだろうか。
ずっと同じことを続けないと、いけないのだろうか。
ふと、そんな考えが頭をよぎると、どっと疲れてしまいます。
休日なのに、上司からメールや電話などの連絡が来る人も、少なくないと聞いています。
それでは本当の休日になりません。
いろんなしがらみを一切捨てて、一人のんびりと露天風呂に浸かっていると、体も心も楽になります。
それに、そうだと、何かいいことを思いつくかもしれません。
それは機械的で刺激のない日々に、鮮やかな彩りを添えてくれるものでしょう。

同じように、今は動けない人も、今は動くのをやめて、自分がどうありたいのかを、見つめ直す時だと、受け止めればいいと思います。
これまでと同じような状態に戻りたいとか、他の人と同じことができないとだめだとか、そんなことを考えるのではなく、ただ、自分がどうありたいのか、ということにだけ、意識を合わせるのです。
一生懸命に考えたところで、答えは見つかりません。
思考停止状態で、ぼやっと見つめている時に、初めて答えは見えるものです。
頭も体も、いつも忙しく活動させていると、目先のことしかわからなくなります。
自分が進む方向を確かめたい時には、ちょっと一息入れて、ぼんやりする時間が大切です。

思いと行動

思ってはいるんだけれど、実際には行動を取っていない。
そんなことって、よくありますよね。
部屋を片づけないといけない。
わかっているけど、いつも後回し。
家族との時間を大切にしなければ。
だけど、今は忙しい。
不健全な生活を改善しようと思う。
そうは言っても、なかなかむずかしい。
頭ではきれいごとを並べるのですが、実際には、それができない言い訳を、いくつも見つけるだけです。
やらねばならないはずのことは、何一つできません。
結局は、やる気がないんでしょ、と誰かに言われると、いや、頭ではやろうと思ってるんだけど、と弁解するのです。
確かに、やろうと思っているわけですから、初めから、そんなことやらないよ、というのとは違うでしょう。
でも、実際には何もしていない、ということは、本気では思っていないのです。
いくら言い訳をしたところで、他の人には通じません。

私たちが暮らすこの世界では、行動と思考は一つのものです。
一体化しているのです。
学者が思考と行動を、別々に分けて考えてしまったので、二つは別物だと理解されています。
でも実際は、思考と行動は同じものです。
思考という表現をする時、それは目に見えません。
行動という表現をすれば、それは目に見えます。
つまり、行動とは思考が見える形で、表現されたものなのです。
やろうと思っているのに、何もやらない、というのは、やろうと思うけれど、まだやらないよ、という思考が表現されたものです。
その人が何を考えているのかは、その人の行動を見ていれば、わかります。
特に本人も気づいていないような、さりげない仕草を見れば、よくわかります。

誰も見ていないのに、他人が捨てたゴミを拾う人。
誰も見ていないだろうと、平気でそこらにゴミを捨てる人。
困っている人を見ると、声をかける人。
困った人を見ても、気づかないふりをする人。
お店で店員さんに、ありがとうと言う人。
お店で店員さんに、黙ってお金を投げて寄越す人。
ちゃんと患者に向き合って、きちんと話を聞く医師。
パソコンのモニターばかりを見て、患者の話を聞かない医師。
みんな、自分の思いを口にしていませんが、その行動でどんな人なのかが、一目でわかります。

また、自分自身を見つめてみても、面白いと思います。
自分が実際に取っている行動を、自分で確かめてみて下さい。
自分が何かを考えていたとして、それが本気での考えなのかどうかが、一目瞭然です。
ようし、やるぞ、と言いながら、何もしていなければ、それだけの思いだということです。
いつかはやるけど、そのうちな、という思いが表現されているのです。
充実した暮らしをしたいと思った時、その思いが本物かどうかは、自分自身の行動を見れば、すぐにわかります。
案外、好い加減な気持ちなんだと、気づかされるかもしれません。
いやいや、自分は本気で思ったんだ。
こんなことではいけない、と自分を叱咤激励することもできます。
そうすれば、実際に充実した暮らしを、手に入れることができるでしょう。
思いと行動は同じものです。
このことを、ぜひ日常の暮らしに活用してみて下さい。
感動と生きる意味

何かに感動できるって、いいですね。
スポーツや映画、お芝居や小説。
音楽や絵画などの芸術作品。
大自然や生き物たちの姿。
ちょっとした善意。
いろんな所に、感動は隠れています。
そして、感動は私たちの心を、大きく揺さぶります。

私たちの心は、機械的な日常の暮らしの中で、いつの間にか固まって、いつも同じ形の殻の中に、閉じ込められてしまいます。
感動はその心の殻を打ち壊し、心に再び柔軟で活動的な力を、取り戻させてくれます。
何かに感動すると、私たちはそれまでの自分を振り返ります。
そして、もっとこういう生き方をすればよかった、これからはこうしよう、などと考えるのです。
ただ、感動の大きさが小さければ、その効果は日常の暮らしの中に、埋没してしまいます。
日々の習慣の力とは、相当なものです。
それでも感動は次から次に訪れます。
そして、ついには私たちを日常の枠から、外へと飛び出させます。
それは、生きる意味を見つけるということです。
感動は私たちに、生きる意味を見出させてくれるのです。

日頃から、自由に生きている人は、感動を人生の道しるべとして、大いに活用しています。
自由に憧れている人は、感動によって、自由を手に入ることができるでしょう。
自由をあきらめている人は、感動はしても、感動が示してくれているものは、自分とは縁のないものだと、決めつけています。
それでも、人との出会いや何かのきっかけで、自由を味わうことができれば、すぐにでも感動の導きに従うようになるでしょう。
何かに感動している人を、冷ややかな目で見る人は、相当な重症です。
幼い頃から、人や生き物と心を通わすことが、できなかったのかもしれません。
それでも、それなりに、ほぉっと思うようなことがあったなら、そこから興味や面白さを見つけ、それが感動へつながって行くでしょう。
凝り固まった体を、マッサージすれば解れます。
感動は凝り固まった心を解す、心のマッサージです。

何となく日々の暮らしに疲れたら、何か感動するものを、求めるといいと思います。
何にどのように感動するのかは、人によって異なるでしょうが、それは、人それぞれが進む道が違うからです。
ああ、感動した、で終わらせるのではなく、自分は何に感動したのか、という点を明らかにしておくと、今後どのように生きるべきかを、知ることができるでしょう。
あなたが神さま

困った時の神頼み。
誰もが経験したことが、あるのではないでしょうか。
でも、この考え方の根底には、神さまと人間という関係があります。
それは支配者と被支配者、創造者と被創造物という関係です。
自分の力では、どうしようもない状況に遭遇すると、自分の無力さを見せつけられたような気になります。
それでも、その状況を何とかせねばとなると、自分よりも力のある者に、頼らざるを得ません。
その結果、神さまに頼ることになるわけです。
でも、神さまとは何でしょうか。
どのような存在なのでしょうか。
人間のように肉体を持たず、人間には想像もつかないような、優れた能力を持つ者であれば、その存在を人間は神さまだと、受け止めると思います。
もしかしたら、それは神さまではなく、単なる高次元の存在、あるいは異星人かもしれません。
それでも、人間には神さまのように思えてしまうでしょう。

ところで、全ての存在が宇宙の一部であるわけですから、私たちも、他の星の異星人たちも、みんな同じ宇宙の一部です。
宇宙全体を大きなエネルギーの塊だとみなせば、わかりやすいと思います。
私たちは、そのエネルギーの一部なのです。
宇宙の一部である私たちに、意識があるということは、宇宙全体に及ぶ意識が、存在していると考えることができるでしょう。
宇宙には意識があり、宇宙は自らの意識によって活動しているのです。
地球上で起こることも、私たちの日常の出来事も、全て宇宙の意識の一部によって、生じるものです。
私たち自身が、宇宙の意識の一部ですから、私たちの行動は全て、宇宙の意識の内に含まれているわけです。

宇宙の支配者が神さまだと考えるのであれば、宇宙意識が神さまと言えるでしょう。
そして、私たちは宇宙の一部ですから、神さまの一部であるのです。
つまり、神さまは私たちの存在を通して、人間というものを体験していると、考えることができるでしょう。
豊かな人たちも貧しい人たちも、笑っている人たちも泣いている人たちも、仲よくしている人たちも、争っている人たちも、全て神さまにとっては、一つの体験であるわけです。
そこに本当の意味での善悪はありません。
いいことや悪いことに見えても、それは人間が決めた基準によるものです。
神さまからすれば、どんなことでも一つの体験に過ぎません。
いずれにしても、自分は神さまの一部、あるいは神さまの分身だと考えて、どんな状況においても、自分が思うとおりに行動すればいいと思います。
自分だけでなく、他の者たちもみんな、同じ神さまの分身なのだと理解していれば、誰に遠慮することもなくなりますし、争うこともなくなります。
自分という存在に尊厳を認め、自分に相応しい生き方を、探ることができるでしょう。
誰が言ったのか

子供が言い争う時、自分の発言なのに、先生が言ってたぞ、とか、うちの父さんが言ってた、などと言うと、相手はその威厳にひるんでしまいます。
自分と対等の相手と思うからこそ争うわけで、権威のある存在がいるとわかると、争えなくなってしまいます。
言い返すとすれば、嘘つき、先生がそんなこと言うもんか、などという言葉だけでしょう。
実際に、権威のある存在の発言だとわかると、相手は悪態をつきながら、その場を離れます。
自分の負けを認めたわけですね。
これと同じようなことが、大人になってからもあります。
と言うか、大人の方が、そういうことが多いかもしれません。

新型コロナ騒ぎでも、よく政府の大臣が、専門家の先生方のお話を伺ってから、という言葉を連発していました。
これは、実際に専門家に相談するかどうかに関係なく、専門家という言葉を出すことで、言い逃れができるからでしょう。
また、専門家と呼ばれる人の言葉もいろいろです。
そんなの言われなくても当たり前でしょ、と言いたくなるのもあれば、いくら何でも、それはやり過ぎじゃないですか、と言いたくなるのもあります。
もし、誰かを傷つけたり、場合によっては、命を奪ったりした人が、他の人間に対して、人を傷つけることはよくないからやめなさい、と言ったらどうでしょうか。
お前が言うな。
どの口が言うのか。
と周囲から散々叩かれるでしょう。
しかし、この人は自分のしたことを悔やみ、心から反省して、そう発言したのかもしれません。
それでも、犯罪者というレッテルが貼られてしまうと、この人の発言に耳を貸す人はいなくなります。
でも、同じ言葉を警察署長が言うと、それは全くそのとおり、となるでしょう。

人間は権威に逆らわないよう教育されていますから、権威には従順になりますし、困ったことがあると、権威に助けを求めます。
何かの情報を見つけると、それは誰が言ったのか、どこから出て来たのかと、権威が出所であるのかを、確かめようとします。
でも、たとえ名の通った所からの情報だとしても、それが正しいという証拠は、どこにもありません。
権威だから、間違いないだろうと、勝手に思い込んでいるだけです。
子供の喧嘩に話を戻せば、先生が言ったことだから、あるいは親が言ったことだから、それが正しいとは限らないのです。
また、権威が権威を護るために、データを改ざんすることは、どこの国でも有り得ることです。
あるいは、お金のためにすることもあるでしょう。
個人的にも、自分に都合のいいことは言うけれど、都合の悪いことは話さない傾向がありますよね。
権威だからと言って、信用してはいけないのです。
じゃあ、誰を信じればいいのか、と思うでしょう。
それは、自分自身です。

もちろん、何も知らなければ、判断のしようがありません。
普段から、いろんなことに興味を持ち、それらについて、自分なりにいろいろ考える習慣をつけるのです。
また、人間としてどう判断するのか、という点においては、政治家や専門家と呼ばれる人たちは、全くの無力です。
これを判断する力は、誰の中にもあります。
自分の心に問いかけて、自分は人間として、どう判断し、どう行動するべきか、と問うたなら、必ず答えは浮かんで来るでしょう。
何かの言葉を聞いたとしても、誰が言ったから信じる、誰が言ったから信じない、というのではなく、その言葉そのものを、自分の心で見定めるのです。
言葉の出所が誰なのかなど、一つも関係ありません。
コロナ騒ぎについても、どう行動すればいいのか、ということは、一人一人が自分で判断して決めることです。
政府が何か指示を出したから動く、出さないから動かない、というのは正しいやり方ではありません。
何かが起きたところで、政府は責任を取ってくれません。
また、責任を取ろうと思って、取れるものでもありません。
何事においても、自分で考え、自分の責任において、判断・行動しないといけないのです。

特に、ネット上に情報があふれる世の中ですから、誤った情報に振り回されたり、誰かが悲しむことになったりします。
これを取り締まれと言っても、なかなか上手く行きません。
それよりも、一人一人が間違った情報に飛びつかないよう、自分自身を高めるようにするのが一番です。
本当の問題はどこにあるのか、本当の問題解決は、どうすればいいのか。
常にこういう意識で、いろんなものを眺めるようにすれば、目先のことで一喜一憂したり、不安に振り回されたりしなくて、済むようになるでしょう。
本当の権威とは、自分の心の中にこそあるのです。