うまく行かない結婚 その2
人生には、結婚以外の出来事やイベントは、いろいろあります。
どれが重要かは、人によって違います。
価値観の違いですね。
結婚を何より重要に思う人もいるでしょうが、他にもっと大切に思うものが、ある人もいるのです。
そこに、いいか悪いか、正しいか間違っているか、という判断を持ち込むことはできません。
また、結婚についても、一夫一婦制の国もあれば、一夫多妻制の国もあります。
結婚を個人の関係と見る人たちもいれば、家同士の関係と見る人もいます。
入籍するのが正当な結婚と考える人もいれば、籍を入れなくても構わないと考える人もいるのです。

ある限られた地域や、限られた人間関係の中では、結婚というものが、決まりきったものであり、誰もがその枠の中に、はまらなければならないと、受け止めてしまいます。
しかし、視野を世界に広げてみると、結婚についても、いろんな見方、いろんな考え方があるのがわかりますし、どれが絶対に正しいということは、できないわけです。
たとえば、結婚とは夫が外で働いてお金を稼ぎ、妻は家事をしながら子育てもするという、古い考え方を持っているとします。
こういう人は、夫婦は平等であり、仕事も家事も育児も分担でしようと考えている人とは、意見がぶつかってしまいます。
どちらも、自分の結婚観が正しいと信じていると、相手とぶつかるばかりです。
でも、結婚にはいろんな見方があると理解し、相手の考え方を受け止めることができれば、互いに認め合い、理解し合うことができるでしょう。
要は、結婚とはこんなものだと、自分勝手に決めつけないことです。
カレーにジャガイモを入れるか入れないかで、揉める人たちがいると、聞いたことがありますが、それと同じことですね。

どうしても譲れないと思う人は、どうして自分がそこに強くこだわるのかを、考えてみるといいでしょう。
また、相手が自分の考えに執着する場合も、その理由や根拠について、考えてみるといいと思います。
そこに、どちらが正しいか間違っているか、という判断を持ち込んではいけません。
ただ、どうしてそう考えるんだろうという理由を、探るだけのことです。
それは自分自身を知ることになりますし、他の人の考えを知るきっかけになります。
結婚生活がどうなのかということよりも、自分を知る、人間を知るということの方が、大切なことなのです。
うまく行かない結婚 その1

幸せを期待して結婚したのに、そこにあったのは、期待とは正反対のことばかり。
互いに好き合って一緒になったはずなのに、何だか気持ちが冷めてしまったみたい。
別に喧嘩をするわけでなく、浮気をされるわけでもなく、それなりにうまく行っていると思うけど、何かしっくり来ない。
こんな感じで、結婚生活に疑問を抱く人はいませんか。
一生に一度と決めていたはずの結婚で、失敗してしまうと落ち込むでしょう。
だから、自分は失敗していないと信じたいし、失敗したとは認めたくない。
今がうまく行っていなくても、頑張ればみんなが羨むような、結婚生活を築くことができる。
そんな風に考えたくなると思います。

結婚というものは、遥か昔からあるもので、人間にとっては、当たり前のものになっています。
結婚することで一人前と認められますし、結婚することで子孫を産むことが、できるわけです。
もちろん、結婚をしていなくても、子供を産むことはできますが、そんな人は道を踏み外した者と、見られる風潮が日本にはあります。
肩身が狭い思いをしたくないがために、子供ができたのを理由に、好きでもない相手と、一緒になるという場合もあるようです。
こんな結婚では、うまく行くわけがありません。
うまく行っているふりはできても、実際は互いにストレスだらけでしょう。
そもそも結婚というものは、人間が作ったルールです。
自然のものではありません。
子供を産み増やさなければ、そこの地域は廃れて行きます。
だからこそ、結婚は本人たちよりも、地域や家にとって、重要なものだったと思われます。
特に昔は、地域や家が望む結婚は、子供を産むことが前提でした。
なので、子供を産めない女性が、里へ帰されることは、実際にありました。
権力者は本妻が子供を産めなければ、側室というお妾さんに、子供を産ませるということもしていました。
男尊女卑の社会ですから、主導権は男性側に置かれることが、多いようです。
個人主義の国では、女性の方が強いこともあると思いますが、日本では、まだまだ女性の立場は弱いと言えます。
そんな流れの中にある結婚ですから、結婚というものに対するイメージが、世代によっても違いますし、男女によっても異なるでしょう。
その結果、思ったのと違うということになるのです。
でも、結婚は人間社会が勝手に作ったルールです。
また、人間社会が勝手に作った、男女の価値観でもあります。

一人一人の人間は、そんなルールに従って生まれて来たのではありません。
私たちは自然の一部であり、心の赴くままに生きる存在です。
結婚という制度は、そんな自由な私たちを、一つの枠の中へはめ込むものです。
理想的な相手と巡り会えたのであれば、そんな枠も問題にならないでしょう。
でも、そうでなければ、この枠は逃げることのできない壁となります。
結婚生活を続けるのも苦しいし、続けられなくなっても、やはり苦しみます。
それは心の苦しさであり、不自然な枠を受け入れたことによる、苦しみです。
この苦しみから逃れるには、結婚というものについて、深く考えてみる必要があるでしょう。
古代小麦 その2

古代からあるスペルト小麦は、育つ土壌を選ばないし、気候変動にも強いと言われています。
もちろん、天変地異と言えるような、余程の極端な環境の変化があれば、スペルト小麦と言えども、生き延びるのはむずかしいでしょう。
それに、一つも病気にならないとか、虫に食われないということでも、ないと思います。
それでも、全体的に見れば、強い生命力を持った植物です。
人間がいろいろと手を掛けて育てる、通常の小麦と比べると、その強さは雲泥の差と言えるでしょう。
スペルト小麦に限らず、自然の中で自力で育つことができる、他の生き物たちは、いずれも強い生命力を備えていると考えられます。
そうでなければ、今まで生き延びることは、できなかったでしょう。
人間も自然の一部である以上、本来の力を存分に発揮できれば、病気知らずだと思います。
ところが、人間社会には様々な病気が存在しますし、今は新型コロナウィルスに翻弄されっ放しです。
ワクチンを打つしか、根本的な対処ができないということで、安全性もよく確かめないまま、何度もワクチンを打ち続けることが、推奨される有様です。
これは、自然の生き物としては、とても奇妙なことだと言えるでしょう。
つまり、ワクチンを打たなければ、ウィルスに対抗できないということが、そもそもおかしなことなのです。

他の生き物同様に、人間にはウィルスに対抗できる、免疫力が備わっています。
ウィルスを抑えられないというのは、この免疫力がうまく機能していない、ということです。
それは、ウィルスだけでなく癌についても、言えることです。
癌細胞を抑える免疫力が落ちているから、癌細胞が増え続け、やがては全身を蝕むことになるのです。
癌末期で余命いくばくもないと言われた人が、開き直って暮らしていると、癌が消えてしまったという話を、時々耳にします。
これは、それまで機能していなかった免疫力が、開き直ることで回復し、癌細胞を攻撃することができた、ということなのでしょう。

通常の小麦と同じように、今の人間はひ弱にされています。
本来の自然な在り方ではなく、社会や周囲の人々が求める姿に、自分を合わせることが、求められているのです。
たくさんのお金を稼ぎ、多くの人たちから、もてはやされることが、人生の目的であると信じ込まされています。
その目的に到達できないと考える人たちは、自分を否定し、塞ぎ込み、裕福とは言えない暮らしを、強いられます。
一方、目的に到達したと考える人たちも、自分はいい暮らしをしていると信じていますが、実際はとても不自然な生活に、どっぷり浸からされているのです。
その結果、病気になりますし、病気になると、薬に頼ります。
みんな、自分の生活の仕方や、物の考え方に問題があるとは、受け止めません。
新型コロナウィルスが、殺人的ウィルスだと言われると、それを信じてパニックになりますし、ワクチンしか手立てがないと言われると、ワクチンを求めて右往左往します。
ウィルスに感染してひどい目に遭ったり、死んでしまったりする人は、そうなるだけの理由があります。
それなのに、その理由を改善することよりも、ウィルスを完全な悪者に仕立て上げることばかりに、政府も専門家と呼ばれる人々も、躍起になっています。
でも、一番の問題は、人間が人間としての機能を発揮できるような、自然な生き方ができていないことなのです。

便利な道具を使って、楽をして生きることが、人間の生き方だと信じている人が、とても多いと思います。
その人たちは、せっかくの頭脳を、自分や世界の解明には使わず、すり込まれた価値観の中で、日々をロボットのように過ごしています。
せっかくの好奇心や喜びを抑え込み、枠にはまった生き方を、拒むことなく受け入れています。
食べる物も、健康にいいものではなく、作った者が儲かるような物ばかりを、食べさせられています。
そのことに、多くの人が疑問を持ちません。
その結果、本来の力が出せなくなり、病気になって行くのです。
スペルト小麦がどうして強いのか。
そのことを、自分たちに照らし合わせて、考えるべきだと思います。
古代小麦 その1

スペルト小麦という言葉を、聞いたことがあるでしょうか。
これは世の中に流通している小麦の原種で、古代からある小麦です。
8000年以上前からエジプトで栽培され、その後、ヨーロッパに伝わったそうです。
スペルト小麦は原種ですから、通常の小麦のように、人間の手がほとんど加えられていません。
小麦を品種改良する理由は、同じ面積からより多くの小麦を、安定的に収穫することや、人間が求める質が高い、商品価値のあるものを作るということです。
原種であるスペルト小麦は、そんな人間の都合に関係なく、自然の中で自らの力で生きています。
通常の小麦は、人間の都合によって品種改良が為されているため、人間が世話をしてやらねばなりません。
そのため、どうしても肥料や農薬、除草剤などを使う必要が出てきます。
また、環境の変化に適応することがむずかしく、気候や土壌の変化によっては、不作になることもあります。
しかし、自然の中で生きるスペルト小麦は、生命力が強い植物です。
通常の小麦には条件が悪いとされる土地でも、スペルト小麦は育つと言います。
ただ、多くの収穫のために品種改良された、通常の小麦と比べると、当然、同じ面積における収穫量は、少なくなります。
そのため市場での価格が、通常の小麦の1.6倍ほどになるようです。
それでも、この小麦を求める人は、少なくありません。
その理由は、健康にいいからです。

通常の小麦は、殻を取ってしまうと、大切な栄養素の多くが、殻と一緒に取り除かれてしまいます。
しかし、スペルト小麦はその栄養素が殻ではなく、内側にあるので、殻を取っても失われません。
また、小麦アレルギーの人は、スペルト小麦だと症状が出にくいそうです。
アレルギーの原因となるのはタンパク質ですが、スペルト小麦にもタンパク質は含まれています。
それなのにスペルト小麦では、アレルギー症状が出にくいというのは、小麦によってタンパク質の質が、異なるのかもしれません。
でも、それだけでなく、通常の小麦の場合、化学物質の影響という可能性も、否定はできないと思います。
スペルト小麦の良さというものは、自然の生命力というだけでなく、人為的な有害物質が含まれにくい、ということがあるのでしょうね。

今の大量消費を基盤とした経済社会においては、多くの収穫量が期待できないスペルト小麦は、脇役に過ぎません。
しかし、その結果として、小麦アレルギーだけでなく、様々な病気や不調が、世の中に蔓延しているのだとすれば、社会の在り方や考え方を、変える必要があるでしょう。
お金を儲けるという考えではなく、いい物を人々の手に、という発想で動くべきなのです。
また、栽培場所を選ばないのであれば、世界各地でスペルト小麦を栽培すればいいのです。
現地の人が必要な分は、そこの現地で作るようにするのです。
何故、わざわざ限られた国や地域から、小麦を仕入れなければならないのでしょうか。
それは、小麦などの食料を握ることによって、世の中を牛耳ろうとする、あこぎな人々の企てに乗るだけです。
自分たちの食べ物は、自分たちで作る。
これが基本だと思います。
食べ物は小麦だけではありませんから、他の食べ物についても、みんなで考え直す必要があるでしょう。
自然と共に闘おう

地球温暖化に起因すると思われる自然災害が、地球規模で起こっています。
これに対して、これ以上の温暖化を防ぐ動きや、災害を警戒する動きが見られますが、まだまだ全人類的な動きではありません。
どうしても国同士の利害や、経済状況などを第一優先にしてしまうので、なかなか事は思ったようには進みません。
また、人間は自分を正当化するために、いろいろと理屈を捏ねます。
しかし、どんなに理屈を捏ねたところで、自然には通用しません。
自然災害は、神の怒りだとか、愚かな人間への天罰などではありません。
自然に対して、人間がやって来たことに対する、単なる反応です。
だからこそ、とても無慈悲に見えます。
でも、反応ですから、人間がしたことを、鏡に映して見せられているようなものでしょう。
人間が自分勝手な理屈で、自然に対して行って来たことこそが、無慈悲なものでした。
毎年のように起こる自然の猛威に対して、人間は対処しようとします。
それは自然をコントロールしようという試みでもあります。
口では地球に優しい環境を、などと言いますが、実際は損得勘定で動いているだけです。
もちろん、一部の人は自然や地球のことを、本気で考えていると思います。
でも、実際に国や経済を動かしている人たちの大半は、損得勘定が考えの基盤になっています。
このまま突っ走っては、人間が暮らせない環境になり、そうなっては商売ができなくなってしまう。
こんな考え方で、これまでの方針から、もっと積極的な温暖化対策へ、舵を切ることにしたのです。

損得勘定で動くのも、何もしないよりはましでしょう。
しかし、地球上で問題なのは、何も温暖化だけではないのです。
放射能の後始末もできないくせに、やたらと増やす原子力発電所や、核兵器。
他の生き物たちを、自分たちと同じ命ある地球の兄弟とはみなさず、単なる商品あるいは物としか見ない、無慈悲な心。
権力や金を求めるために、人間は生きていると思わせる、利己的で醜く歪んだ思考。
こういう問題を全て解決しなければならないのですが、それらの問題には共通しているものがあります。
それは自分のことしか考えない、人間のエゴです。
エゴそのものは、この世界で生きて行くための、一つの意識形態です。
ですから、エゴ自体が悪いわけではありません。
問題は、そのエゴに他人や他の生き物たちへの、思いやりや共感が大切だと、教えない環境にあるのです。
その環境は誰が作ったのでしょう。
それは、権力や金など上の地位にいる者たちが、自分たちの地位を守るために、他の人々に植え付けているのです。
そうすることで、人々から力を奪い、自分を弱者だと信じ込ませ、己の思いどおりに支配することが目的です。

別に陰謀論ということではありません。
権力に魅了された者であれば、誰もがそう考えるからです。
事情はどこの国でも同じです。
そんな者たちが人間社会を動かして来て、人々にそれが正しいことなのだと信じ込ませて来ました。
現在、地上で猛威を奮う自然災害は、そんな考え方に対する、地球の反応なのです。
それは病気と同じです。
病気とは、何かの状況によって、心身のバランスが崩れていることを示しています。
ですから、病気自体が悪いのではありません。
心身のバランスを崩している状況が、問題なのです。
病気は、そのことを教えてくれているのに過ぎません。
それと同じで、自然災害も人間が狂っていることを、教えてくれているのです。
本来は、地球の一部であり、他の存在たちと兄弟であるはずの人間が、自分と他のものとは別の存在だと思い込み、好き勝手をしているわけです。

病気で言えば、癌細胞と同じです。
癌細胞は、自分たちが増殖することで、体が死滅すれば、自分たちも死滅すると、理解していません。
今の人間は、まさに地球に生まれた癌細胞です。
でも、その中で本来の人間の姿を、取り戻している人たちもいます。
彼らは、本当の問題がどこにあるのかを、理解しています。
本当の問題を知らない人たちは、政府や地位ある人たちの言葉を信じ、自然をコントロールすべき対象として、考えるでしょう。
でも、そうではなく、何が悪いのかを教えてくれている自然とともに、人類社会の中の腐った部分を、改善して行くべきなのです。
そのためには、誰かに対して文句を言うのではなく、自分自身が自然と共に生きる、という姿勢を持つのです。
多くの人が、そういう考え、そういう生き方をすれば、権力者たちはどうすることもできないでしょう。

自然は決して敵ではありません。
コントロールすべき対象でもありません。
自分自身が自然の一部であることを思い出し、あるいは理解して、本来の人間としての生き方を、歩んで行くことが大切です。
人々がそのような道を歩み始めれば、自然の猛威は、次第に落ち着いて行くでしょう。
思ったように生きよう

自分は何のために生きているのか。
そう問われて、答えられる人は多くはないでしょう。
生きているから、生きているんだ、と考える人が大半ではないかと思います。
それでも、あえて理由を尋ねられると、どう答えるでしょうか。
お金を稼ぐため?
子供を養うため?
親の世話をするため?
何か楽しみを見つけている人は、その楽しみのために生きていると、答えるでしょう。
お金を稼いだり、家族のことをしたりと、いろいろすることはあるでしょうが、それでもそのために生きているとは、考えないと思います。
楽しみがあって、そこから喜びを得られる人生は、羨ましがられるものです。
羨むということは、他の人はなかなかそれが、できないということです。
あなたが羨ましがられる側ではなく、羨む側だったなら、何故自分は羨むのか、考えてみるといいと思います。

楽しみはあるのはあるが、それを楽しみ続けるのは、現実問題としてむずかしい。
こう思っているのかも、しれませんね。
きっと、他にやらなければならないことが、いろいろあって、がんじがらめになっているのでしょう。
でも、やらなければならない、という考えは、自分で決めているものです。
また、そう考えるには、自分なりの知識と経験があるでしょうし、周囲を見回して、そう思い込んでしまうのかもしれません。
しかし、ここまではやるけど、ここから先はやらない、という線引きは、固定的なものではありません。
実際に楽しんでいる人の、考え方や価値観を参考にすると、自分が引いた線の位置を、ずらすことができるでしょう。

何でもかんでも、自分一人で背負い込むというのも、思い込みです。
誰か助けてくれる人がいないのか、あきらめずに探してみるといいと思います。
とにかく、必死に楽しみを追いかければ、何か方法は見つかるものです。
そもそも、楽しみがないという人は、何をやればいいのかわかりません。
そいういう方は、だからこそ、いろんなことに挑戦してみるといいでしょう。
案外、こんなことが楽しいんだ、と自分の意外な一面に、気づかされると思います。

楽しさを感じている時の自分は、至福状態です。
できるだけ、その状態が維持できれば、人生は充実したものとなるでしょう。
ふと思ったこと その3
ふと思いました。
私たちが光で構成されているならば、私たちの心も光だと言えます。
物質が光が凝縮されたものであるように、今の私たちの自分という意識も、光である心が凝縮されたものだと言えるでしょう。
言い換えれば、一つの焦点に合わせた心が、私たち個人の人格を形成している意識です。

一つの体に焦点を合わせた心が、いわゆる意識ということであれば、物質に凝縮されている光もまた、意識であると言えるでしょう。
すなわち、あらゆる物質、あらゆる存在には、それなりの意識があるということです。
一方で、広がる光のように、焦点を合わせていない心は、私たちが眠っている時、あるいはこの世を去った後の心と、考えることができます。
一つの人格に囚われないで、もっと大きく広がった意識です。
前世や来世、あるいはパラレルワールドにいる自分の分身たち。
彼らの意識とつながり、統合されている状態が、一つの人格から焦点を外し、ぼんやり広がった心です。
そこには、あらゆる体験を通して得た知識がありますから、今の私たちが意識している自分よりも、遥かに高い知性があり、崇高に感じられる自分が、存在しているでしょう。
何かの瞬間に、思いついたり閃いたりということも、この高い知性の自分から来た情報が、今の自分に届いたということなのです。
こんなことを、ふと思いついたのも、きっと私の上にいる、もっと大きな私からの情報なのだと思っています。
ふと思ったこと その2
ふと思いました。
光が空間を伝わるのではなく、光が空間を作っているのではないかと。
光源から発せられた光は、四方八方へ広がって行きます。
でも、これは空間を広がって行くというより、光が四方八方へ広がることで、空間が生まれたのではないか、と思ったのです。
言い換えれば、空間とは光というエネルギーの、一つの表現系かもしれないということです。

これは、ビッグバンで宇宙が生まれたという発想と、よく似ています。
でもビッグバン理論では、空間が何であるのかを説明していません。
私は空間そのものも、光だと考えました。
その空間の一部である、物質も光でできていますし、私たち人間も光でできているのです。
実は、あなたは煌めく光です、という話です。
何だか、わくわくした気持ちになりませんか。

空間は、私たちの心の中にも存在します。
イメージや夢の世界がそうです。
世界が光で創られているのであれば、光である私たちの心が、世界を創ったとしても、不思議ではありません。
また、イメージや夢の世界が、私たちの心に存在するように、この宇宙もまた、何かの心の中に創られたものなのかもしれません。
その何かがどんなものかはともかく、その何かもまた光だと言えるでしょう。
世界は光であり、心であり、意識である。
こんなことを、ふと思いました。

ふと思ったこと その1
ふと思いました。
質量を持つ物質とは、光が集まったものではないのかと。
光に質量はありません。
質量とは定義が難しいのですが、引力を引き起こすエネルギーの量と、いうことができるでしょう。
地球上で言えば、重さで表さすことができる、物質のエネルギー量です。

重いということは、それだけの強さで、地球と引き合っているということです。
ですから、重い物は軽い物よりも、質量というエネルギーが多いということです。
質量がエネルギーだとわかっても、その実体はよくわかりません。
一方、光は質量がない、純粋な運動エネルギーです。
光は何かにぶつかって吸収されない限り、止まることはありません。
光は質量がないので、粒とは言えません。
電磁波という呼び方があるように、光は波としての性質を持っています。

私たちにとって、一番馴染みのある波とは、水面の波です。
波は水面の水の動きによって形作られたエネルギーで、水の上を同じ形で伝わって行きます。
なので、波というものは、何かの上を伝わるものというイメージを、私たちは持っています。
しかし、光は伝わるものがない空間を、そのものだけで伝わっているように見えます。
実際には空間には何もないのではなく、光を伝えるエネルギーが、満ちているのではないかと考えることもできますが、その正体はまだ誰にもわかっていません。
ところで、この宇宙に存在するものは、実は全てが光で構成されているのではないかと、私は思ったのです。
つまり、質量を持つ物質は、光が閉じ込められた状態にあるのではないか、ということです。

光は運動エネルギーですから、どこまでも移動し続けるものです。
その光を一点に閉じ込めたとすると、移動しようとする力は、どうなるのか。
閉じ込められているから、光は動けません。
その代わりに、そこに引力が生まれるのではないかと、考えたのです。
自分が移動できない代わりに、周囲との距離を縮めようとする力が、互いを引き寄せ合う引力となっている。
そんな考えが、ふと頭をよぎりました。

未来をどう考える
日本では、コロナ騒ぎは収束しつつあるようですが、他の国ではまだ落ち着きを見せていません。
落ち着きそうに見えたものが、再び増えて来ているという状況です。
そもそも日本と状況が違うので、単純に比較して、今後どうなるのかと判断するわけにはいきません。
それでも、日本も同じような経過をたどると見る人も、少なくないかもしれません。
コロナ騒ぎによって、経済はダメージを受け、思わぬ苦しみや家族の死を経験し、不安が差別を呼びました。
テレワークという仕事のやり方が、クローズアップされましたが、人間同士の直接の触れ合いがなくなったことで、精神的に病む人や、自らの命を絶つ人も出て来ています。
このような状況ばかりを見ていると、これからの日本は、世界はどうなるのだろうと、心配になるかもしれません。
また、自分自身が今後どのように生きて行けばいいのかと、悩む人も多いと思います。
しかし、考えてみて下さい。
コロナ騒ぎがある前の世界は、そんなに素晴らしいものだったのでしょうか。
私はそうは思いません。
本当に素晴らしい世界であったなら、コロナウィルスが広がったところで、今のような状況にはなっていないでしょう。
まるでコロナウィルスが世の中を壊したように言われますが、そうではありません。
問題は元々あって、力の強いものだけが勝ち残れる資本主義社会は、基礎の部分が腐って壊れかけていたのです。
そこの所がコロナ騒ぎによって露呈したり、とうとう壊れてしまったというだけの話です。
たとえば、志を一つにした医療体制が整っていたならば、具合が悪くなっても、すぐに病院で診てもらえるでしょう。
コロナ患者は診られませんと言われ、息ができない人が、何時間も病院を探し回ることこそが、異常なのです。
企業によって、従業員の扱いが異なるというのも問題です。
経済にゆとりがある人々の職場では、様々な対策を打ってもらえるでしょうが、そうでない職場では、対策が後手後手になってしまいます。
政府や自治体が、国民や住民のために、機能しているかどうかも、見逃せない大問題です。
これまでであれば、どんな問題があっても、喉元過ぎればで、うやむやにされて来ました。
それでも選挙になれば、力のある議員は当選できるのですから、真面目に仕事をするわけがありません。
また、国民もそんな状況を、半ば諦めていたのかもしれませんが、許して来たのもいけないのです。
そういった様々な問題を抱えたまま、それを無視し続けて来たのが、これまでの社会です。
コロナはそんな社会の問題を浮き彫りにして、これから先をどうするのかと、私たちに問いかけているのです。
この騒ぎを、世の中が壊れてしまったと、不安がるのか、新しい世の中を創るために、古い社会が壊されたと考えるのか。
今の状況を、どうとらえるかで、その人のこれからの行動が、変わって来るでしょう。
この状況を、行動の活力に変えるのか、この状況で力を失うのか。
それは、その人の考え方次第です。
これまでより素晴らしい社会ができることは、誰しもが望むことだと思います。
でも、黙っていても、そんな社会はできません。
打ちのめされた時には、手を差し伸べてくれる人もいるでしょう。
でも、今後ずっとそのまま、というわけにはいきません。
手を差し伸べるのは、その人が立ち上がれるようにするためです。
自分で立ち上がり、今度は自分が手を差し伸べる側になって、他の人たちとともに、新たな社会創りに参加するのです。
そうすることでのみ、これまでとは違った素晴らしい社会が、実現できるでしょう。