困った時がチャンス その2

温暖化対策として、火力発電所をなくすことが、世界的に求められています。
日本では火力発電所を完全になくすことはせず、燃料に水素やアンモニアを混ぜることで、排出される二酸化炭素を減らす計画です。
しかし、火力発電所をゼロにすることを求める世界から見ると、この方法は全く評価されていません。
いずれ、火力発電所をやめざるを得なくなる時が、来るのは間違いないでしょう。
火力発電所を減らす代わりに計画されているのが、再生エネルギーと原子力発電を増やすことです。
火力発電所をやめるとなると、再生エネルギーや原子力発電への依存が、さらに高まりますが問題はあります。
原子力発電の危険性と、問題が起こった時にかかる莫大な経費、処理方法が確定していない使用済み核燃料、などの問題から考えると、原子力発電を増やすことは、賢明とは思えません。
言ってみれば、原子力発電は時代遅れのものです。
しかし、代わりになる電力源が見つからないことを理由に、原子力産業で潤っている人々が、原子力発電をなくすことには、猛反発をするでしょう。
でも今後、世界のどこかで原子力発電の、悲惨な事故が起きれば、原子力に頼るという発想は、とどめを刺されることになるでしょう。
とは言っても、多くの電力が必要とされると、何とかしないとなりません。
再生エネルギーだけでは、全ての電力をまかなえないとなると、新たな方策を考える必要がだります。

その一つの方法としては、人々が電力を消費しない暮らしを、考えることでしょう。
これまで当たり前と思っていた、暮らし方を変えるのは、いろんな問題が起こったり、不平不満が出ると思います。
でも、それに慣れてしまうと、今度はそれが当たり前になるのです。
今までになかった、刺激的で楽しめる暮らし方というものが、増えて来るのではないかと期待しています。
それでも、やはり電力は求められるでしょうから、政府はこれまで目を向けていなかった所に、目を向けざるを得なくなるでしょう。
それはフリーエネルギーです。

空間から無尽蔵のエネルギーを、取り出せることができたなら、全てのエネルギー問題は解決されますし、エネルギーによって、他国やどこかの企業に、命綱を握られることもなくなります。
何とかエネルギーを確保しなければと、政府が必死な思いを抱いたら、これまで日の目を見ることがなかった、フリーエネルギーの研究者に、研究資金を出すでしょう。
そうなると、ただの空想だと思われていた、フリーエネルギーが実在するものだと、みんなが思うようになります。
みんなが実現を信じれば、フリーエネルギーは必ず手に入ると思います。
また、言い換えれば、現状のエネルギー問題があるからこそ、フリーエネルギーに目が向けられるのです。
今の困ったように見える状況は、新しい世界の幕開けです。
古い世界に固執するのではなく、新しい世界を見据えた行動が、混乱を鎮めてくれるでしょう。
困った時がチャンス その1

原油価格の高騰が続き、車のガソリンや、暖房費、温室の管理など、石油の値上げで大変です。
一方で、地球温暖化対策として、できる限り二酸化炭素を出さないようにという雰囲気が、世界中に広がっています。
その立場で言えば、石炭や石油は使うな、ということになります。
どちらにしても、石油や石炭ではない、クリーンなエネルギーを開発せよ、ということなのでしょう。
今、目にすることができるクリーンエネルギーとしては、太陽光発電、風力発電、地熱発電、潮流発電などでしょう。
太陽光発電には反射光のまぶしさや、山に設置した場合の土砂崩れの危険性などが、指摘されています。
また、風力発電の場合、プロペラが回る時に発生する、低周波の音が問題になります。
それで、これらの発電を目の敵のように、否定する人もいますが、世の中の流れが脱石油脱石炭に向かっているのは、間違いありません。
この流れに逆らうのではなく、自然エネルギーの開発や利用に、ルールを設けたり、問題解決の工夫をすることで、さらに自然エネルギーを増やすべきでしょう。
京都議定書で二酸化炭素排出が制限された時、多くの企業が反発をする中、トヨタはハイブリッド車を開発しました。
そのお陰で、トヨタは自動車業界を独走することができました。
ピンチの中にチャンスありです。
今回も脱石油脱石炭の流れには逆らえないわけですから、いかにその流れに乗って、新たなエネルギー開発をするかでしょう。
実際、トヨタは水素自動車に力を入れていますし、世界的には電気自動車が、かなりの勢いで普及して来ています。
世界的な混乱の中に、勝機を見出しているのです。
10年後には、ガソリン車はとても珍しいものとなるでしょう。
時代の流れは速く、人々の価値観が変われば、あっと言う間に、世の中の状況は変わります。
困った時というのは、それまでの価値観が通用しないということです。
つまり、新しい価値観を見つけ、その価値観に従って動け、という意味なのです。
このことが理解できる者は、ピンチをチャンスに変えることができます。
理解できない者は、いつまでも古い価値観にしがみついたまま、崩れて行く世界に絶望するだけでしょう。
これは個人的なことでも同じで、困った状況にぶつかった時、考え方を変えることができなければ、いつまでも困難から、抜け出すことはできないのです。
新庄監督就任
元プロ野球選手の新庄剛志さんが、来季の日本ハム新監督に、就任することが決まりました。
私は普段野球を見ないのですが、新庄さんが活躍されていたことは知っています。
本来のファンでない人間までもが、惹かれてしまう魅力が、新庄さんにはあると思います。
いつも明るく楽しいキャラクターは、見ている人を魅了します。
選手としての実力はかなりなものなのに、全然威張った感じがなく、観客も含めてみんなでゲームを楽しむというのが、彼のスタンスのようです。
その彼が監督になるという日本ハムには、多くの人が注目していると思います。
ところで、新庄さんは野球を引退したあと、インドネシアのバリ島で暮らしていましたが、そこで地元の人々から、親愛を込めてビッグボスと呼ばれていたそうです。
そのため、監督に就任しても、新庄監督とは呼ばないで、ビッグボスと呼んで欲しいと、会見で述べていました。
その明るさも見た目も、そして型破りな所も、現役の頃と少しも変わっていないようで、本当に面白い人選です。
ご本人が言うには、監督になりたいと思い始めてから、現役復帰に挑戦してファンの注目を集めたり、密かに12球団の二軍選手を研究したりと、監督になるための努力をされたとのこと。
すると、日本ハムの監督にという話が舞い込み、即座にOKを出したそうです。
それで、自分が思い描いていた道は、間違っていなかったと感激の笑顔を見せてくれました。
目標を決めたらまっしぐらという、彼のこの姿勢こそ、多くの人が参考にすべきものでしょう。
大抵は、頑張ってはいるけれど、結局は無理なんだろうなとか、上手く行くのは特別な人だけで、自分は普通の人間だからな、なんて考えてしまいます。
でも、そんな考えがあると、頑張っているつもりでも、自分の動きにブレーキをかけてしまい、実力を十分発揮できなくなってしまうものです。
その結果、うまく行かないと、やっぱり思ったとおりだったと、自分には無理なんだと、さらに強く思い込むのです。
新庄さんは監督に就任しても、優勝は目指さないと公言しています。
それは、好い加減なことをするという意味ではなく、存分にゲームを楽しめば、優勝は自ずとついて来る、という意味なのでしょう。
何事も楽しくなければ、いい結果には結びつきません。
そのことを新庄さんは身を持って知っているのだと思います。
多くの人は結果がどうなるのかと、そこに気持ちを振り向けてしまい、今すべきことに意識を集中しなくなります。
そうではなく、自分がやろうとしていることに、本気で取り組み、楽しんでやる、ということが大切なのです。
私は野球ファンではありませんが、新庄監督率いる日本ハムの試合には、興味が引かれます。
きっと優勝するしないに関わらず、選手や観客など多くの人々に、喜びと楽しみを与えてくれるでしょう。
また、新庄さんを特別視するのではなく、多くの人が彼の生き方に学んで欲しいと思います。
そして、野球やスポーツの世界だけでなく、様々な業界の中に、新庄監督のような指導者やリーダーが、現れることを期待します。
お金を稼ぐことや、業界で生き残ることを目的にするのではなく、仲間やお客など、そこに関わる人々の笑顔を、一番の目的とした仕事が世界に広がれば、世の中はとても素晴らしいものになるでしょう。
ご自身は意識していないかもしれませんが、新庄さんはそういうことも含めて、世の中にメッセージを届けているのだと思います。
すねちゃだめ
嫌なことや腹が立つことがあると、すねてしまう人がいます。
いいよ、勝手にしろよ。
どうせ、オレなんて。
そうやって、みんなで好きにしたらいい。
あたしのことなんか、放っといて。
こんな気持ちになったことは、誰しもあると思います。
でも、大体は子供の頃のことではないでしょうか。

自分のことをわかってもらえない。
自分の思ったとおりにならない。
こんなことに腹を立てて、すねるのが子供です。
でも、そんな経験の中から、いろんなことを学んで行くと、次第にすねるということは、しなくなります。
人は人。
自分は自分。
別にわかってもらわなくたって困らない。
自分は我が道を行くだけだ。
なかなかうまく行かないけど、だからこそ面白い。
ちょっとした工夫で、うまく行った時は最高の気分だ。
こんな感じで、壁を乗り越えて行くと、すねる必要がなくなります。
すねると言うのは、困った状況にあるけれど、どうすればいいのかわからない、という困惑と混乱の気持ちを、表現したものです。
でも、すねていたところで、少しも前には進めません。
状況は何も変わりませんし、却って、もっと嫌な思いをすることに、なるかもしれないのです。

困ったことがあっても、すぐに対応できる人は、すねている暇などありません。
すねるという発想自体が、意識の上に上がって来ないのです。
大人になってからも、嫌なことがあった時に、すねてしまう人は、すねる時間が無駄だということを、理解して下さい。
人生は前に進むものですから、ふてくされていても仕方がありません。
とにかく前に一歩前進することだけを、考えてみて下さい。
たった一歩でも前進できれば、すねるという気持ちは消えてしまいます。
一歩進めれば、もう一歩進もうと思います。
それが、さらに次の一歩へと続き、いつの間にか困った状況から、抜け出すということになるのです。

すねたくなる気持ちはわかります。
でも、そんなのは時間の無駄だと思って、一歩踏み出して下さい。
絶対に、新たな世界が広がります。
犯罪の抑止
東京の京王線特急内で、乗客17人が負傷するという事件が起こりました。
負傷者のうち、70歳の男性は意識不明の重体です。
逮捕されたのは24歳の男性で、「今年6月ごろに仕事で失敗し、友人関係もうまくいかず、死にたかった。自分では死ねないので、2人以上殺して死刑になりたかった」などと話しているそうです。
被害者との面識はないようで、無差別殺人を狙った犯行だったようです。
以前にも、死刑になりたいと言って、無差別殺人を行った者たちがいます。
こういう者たちにとって、死刑は抑止力になりません。
それどころか、死刑を求めて犯罪を起こしているのです。
普通の感覚の人であれば、死刑は極刑であり、最も恐ろしい刑罰です。
こんなことで死刑になるのは、馬鹿らしいと思える人間であれば、犯罪を起こそうとしても、そのブレーキになるでしょう。
しかし、死刑のことが頭にない人間に対しては、いくら最高刑に死刑を設けていても、意味がありません。
また今回のように、死刑になるのが目的の者にとっては、死刑は抑止力ではなく、犯罪を増長させるきかっけになるわけです。
無差別殺人を起こす者がいると、大抵の場合、とても恐ろしい事件だと言い、事件を起こした人物や家族の情報を、徹底的に暴こうとします。
そして、全ては事件を起こした人間の異常さが、問題なんだとします。
場合によっては、その人物を育てた親や家族、あるいは学校に責任を、見出そうともします。
それで、何とひどい人間なのだと、みんなで散々非難して、二度とこのような事件が起こらないことを、心から願うなどと言うのです。
しかし、本当にそう願うのであれば、事件が起こった理由を、深く掘り下げて調べる必要があるでしょう。
何故なら、事件を起こした人物は、生まれたばかりの赤ん坊の時には、他の赤ん坊と同じように、真っ白な心だったはずです。
その人物を育てた家族や学校関係者などに、何等かの問題があったとしても、その人々もまた、生まれた時には、真っ白な心だったでしょう。
いじめが事件の原因であることも、よく見受けられますが、いじめをする人間や、それを黙って見ている人間も、みんな真っ白だった心が、汚い色に染まっているのです。
好き好んで、染めているわけではありません。
いつの間にか、染まってしまうのです。
みんな、生まれてから育って来るまでの間に、よくない気持ちを、知らない間にすりこまれているのだと思います。
本当に問題を解決するのであれば、このすり込まれた何かについて、議論をするべきなのです。
そうでなければ、似たような事件が繰り返されるばかりでしょう。
あるいは、もっとひどい状況になるかもしれません。
本当の原因について、深く掘り下げて行くと、もしかしたら私たちも、その原因に関わっている可能性も、あると思います。
全然関係がないと思われる人も、全く意識しないまま、そのような事件の原因に、関わっているとしたら、どうでしょうか。
本当の事件解決を目指すのであれば、事件を他人事と受け止めるのではなく、普段の自分たちの言動の中で、それを防げる工夫はないのかと、一人一人が考えないといけないと思います。
昔と違い、今は死刑という極刑でさえも、事件を未然に防ぐ効果は、薄れています。
今後は、刑罰によって犯罪を抑えるやり方は、限界を迎えることでしょう。
それよりも、教育や暮らしなどの中に、感謝や思いやりの大切さを、感じられるようにすることが、何より重要ではないでしょうか。
低い投票率

衆議院選挙が行われました。
新型コロナウィルス騒動や、オリンピック・パラリンピック開催など、国民生活に直結した問題が、指摘され続けた直後の選挙です。
自民党は新総裁を迎えての選挙となり、いったいどんな結果になるのだろうと思っていましたが、蓋を開けてみると、自民党の単独過半数確保という結果でした。
それでも自民党は議席を減らし、野党連合を掲げていた立憲民主党も、議席を減らしました。
議席が増えたのは日本維新の会ですが、恐らく、自民党にも立憲民主党にも期待できないが、どこへ票を入れたらいいのかわからない、という人たちが、日本維新の会に流れたように思えます。
そういう意味では、日本維新の会の人気が急上昇した、ということではないでしょう。

いずれにしても、自民党は単独過半数を取ったわけですから、国民全員から信任をもらったと、勝手な解釈を掲げて、国民が反対している政策についても、好きなように行えます。
議員が悪いことをしても、それをうやむやにすることも可能です。
しかし、他の政党が政権を取ったところで、世の中ががらりと良くなるのかと言うと、そんな保証はありません。
却って悪くなるのではないかと、恐れる人は、やはり自民党へ票を、入れたくなるかもしれません。
どこの政党が政権を取ったところで、そこにおごりがあったり、偏った考え方や、国民目線と違う価値観を、持っているのであれば、結果はどんぐりの背比べのようなものになるでしょう。
だから、どこに票を入れたって同じだし、選挙なんて意味がないよ、と考える人が少なくないのだと思います。
その結果が、投票率の低さです。
しかし、投票は自分の意思表示をする手段です。
その手段を自ら放棄するというのは、世の中がどんなことになったところで、文句を言いませんと、宣言しているのと同じです。
実際、そういう方たちは、普段からそのような暮らし方を、しているのかもしれません。
世の中とのつながりを断ち、自分だけの世界に、籠もっているのではないかと思えます。

政治の方が、人と人のつながりを重視するような政策を、次々に打ち出してくれれば、このような人たちも、自然と世の中とのつながりを、取り戻すでしょう。
でも現実は、そうではありません。
好い加減なことをしても、選挙で負けないとわかっていると、議員は動きません。
自分が目立つための、パフォーマンスばかりに懸命になって、実際に国民のためになるような動きは見せません。
だから、世の中が変わるのを待っていても、何も変わらないのです。
投票に行っても、すぐに思ったような結果が、出ないかもしれません。
それでも、みんなが投票に行けば、どの政党も必ず、これまでどおりにしていると、まずいと認識するようになります。
そうなれば、どこの党が政権を取ったとしても、人々の暮らしは今よりも良くなって行くでしょう。
政治家を腐らせるのは、政治への無関心です。
また、好きなようにしたい政治家は、国民に政治へ関心を持たれるのを嫌います。
本物の政治家であれば、みんなが世の中を創っているんだ、ということを、常日頃から人々に訴えて、様々な活動を通して、みんなの意識を高めようとするでしょう。
どこの政党というのではなく、どこの政党にもいるであろう、そのような政治家の方たちに、もっと頑張ってもらいたいですし、そのような政治家が頑張れるように、国民は選挙に行くべきだと思います。

何故、選挙が大切なのか。
それは行動を通して、自分の意思表示をすることだからです。
これは政治だけの問題ではなく、一人一人の生き方に関わることなのです。
普段から、自分の気持ちに従った生き方や、人々と心のつながりを持った暮らし方が、できているかが、投票率という形で表れているのだと思います。
たかが一票の投票ではありますが、わざわざその一票のために、投票場へ足を運ぶということをすると、必ず日常生活にも、その影響が現れます。
全てはつながっていますから、一部を変えると、それに応じた変化が、他の所にも現れるのです。
別に投票でなくても構いません。
何か、自分の意見を出す場面があれば、あるいは自分の意思表示が必要な時には、そのとおりにやってみて下さい。
その小さな一歩から、人生は変わって行くでしょう。
投票率の低さは、自分をあきらめている人の、多さを示しています。
次回の選挙では、もっと投票率が上がっていることを、期待します。
前世と来世 その3
私たちが知る世界は、今世のものです。
私たちが考えている時間の流れも、今世のものです。
前世や来世があるのなら、そこにはそれぞれの世界があり、それぞれの時間の流れがあるでしょう。
また、今世と関係がある前世や来世だけでなく、今世とは関わりのない、パラレルワールドにも、今世とは異なる世界や、時間の流れがあります。
それぞれの世界の自分が統合された、自分の全体的な意識を考えた時、その意識にとっては、全ての世界は同時に存在していることになります。
全ての人生における分身たちが、一つになったのが全体的な意識であるのなら、そこに全てが同時に存在しているはずなのです。

今世では前世は過去のもの、来世は未来のものとして、受け止めますが、それは今世の時間の流れから、前世や来世を眺めてのことです。
しかし、全体的な意識からすれば、そこに前後はありません。
全ては一緒に存在しているのです。
全体的な意識からみると、私たちが認識している世界や、時間の流れというものは、ただの幻想に過ぎません。
この世界が唯一確固たるものであり、真実なのだと信じている人にとっては、受け入れがたい話だと思います。
でも、前世や来世の存在を認めるならば、この世界は全体の意識が、自分の中に見る幻想に過ぎない、ということになるのです。
私たちが見る夢と同じですね。
この世界を幻想でなく現実だとするのであれば、全ての夢も現実だと、認めなければならないでしょう。
でも、幻想か現実かというのは、単なる言葉の遊びですから、本当はどちらでもいいのです。
問題は、この世界が全てではないし、前世や来世を含めた他の人生が、全て同時に存在しているということなのです。
私たちにとっては過去であり、既に終わってしまった前世の自分が、今もこの瞬間に存在して、その人生を送っているのだと考えると、何だかぞくぞくしませんか。
前世があるのであれば、今世の幼い頃の自分というものも、今この瞬間に存在しているはずです。
同じ自分ですから、心は繋がっているわけですね。
ですから、当時はわけがわからなくて、怒ったり悲しんだり、おびえたりつらかったりしていた、昔の自分に対して、大丈夫だよと心の中で、慰めや励ましの気持ちを、伝えることができるということです。

そんなことをしたところで、過去の自分が変わるもんかと、思うかもしれません。
しかし、やってみて下さい。
過去の自分に、今の自分の気持ちが届いたならば、過去の自分は慰められて、強い気持ちを持てるようになるでしょう。
今の自分は、その強い気持ちを持った、過去の自分の延長にあるわけです。
過去の自分が慰められることで、現在の自分も強い心を、持てるようになるでしょう。
来世についても、私たちの時間感覚で言えば、まだ未確定で存在していないわけですが、全体意識の視点でみれば、今世と一緒に存在しています。
つまり、来世は未確定ではなく、すでにあるわけです。
ただ、パラレルワールド的に考えれば、すでにある来世というのは、必ずしも私たちの知る時間軸の、直線上にあるとは限りません。
途中で時間軸がいくつも分かれるとすれば、その数だけ来世もあるということです。

また、今世の自分の未来というものも、同様に一つだけに限られているわけでは、ないでしょう。
いろんな可能性があり、今の自分が、その中のどこを目指して進むのか、ということだと思います。
どうせ進むのであれば、楽しく喜びの未来に向かって、進むのがいいですよね。
そうであるなら、そんな未来の自分をイメージして、そこへつながるような生き方をすればいいのです。
自分がイメージする未来の自分は、実際に存在しているはずです。
その未来の自分につながるように動いていれば、必ずその自分にたどり着けるでしょう。
前世と来世 その2
前世や来世があるのだとすると、それは何を意味しているのでしょうか。
考えればわかることですが、自分や大切な人たちの存在が、今世限りではないということです。

人生が今世限りだと考えると、自分が置かれた環境と、他の人が置かれた環境を比べて、その見た目の違いだけで、優劣を決めてしまいがちです。
また、生きる目的や価値観も、限られた時間の中で、多くの人が受け入れているものを、自分自身も受け入れるようになります。
他の人と違うことをしたり、他の人が思いつかないようなことを、口にしたりする人は、変わり者あるいは狂人と見なされます。
本当は誰よりまともで、優れているかもしれない人が、おかしな奴というレッテルを貼られ、社会の隅へ押しやられることは、実際に数多くあると思います。
食べ物であれ、資源であれ、限られただけしかない物を、手に入れようとすると、どうしても力の強い物が優勢になります。
動物の世界でも、力のある雄が多くの雌を獲得し、広い縄張りを得るのです。
それと同じで、人間も限られた物を奪い合いますし、それで相手が泣いたり苦しんでも、お構いなしです。

しかし、必要な物が奪い合うことなく、いつでも手に入るのであれば、争う必要はありません。
それが限られたものであるのかどうかが、価値観を大きく変えるのです。
人生あるいは世界についても、今世限りだと思うのか、前世や来世と数限りなく、人生は繰り返されると考えるのかで、一つの人生の過ごし方が、大きく違って来るでしょう。
世界を支配して、自分たちだけが、いい思いをしようという発想は、無意味なものだと理解できると思います。

今の現状だけを見て、自分と他人の優劣を決めるのではなく、どうして今世では、自分は今の状況にいるのかを、深く考えるようになるでしょう。
自分という存在を、一つの人生だけで考えず、もっと大きな存在として、認識できるようになりますし、世界というものについても、これまでとは異なる視点で、見るようになります。
そうなると、恐らく世界を知覚する感覚も、これまでとは違って来ると思います。
これは、まさに人類大進化と呼べるものでしょう。
前世や来世に興味を持つということは、実は、このような壮大な話につながる、一歩なのです。
前世と来世 その1
前世や来世という言葉は、聞いたことがありますよね。
でも、それについて真剣に考える人は、それほど多くはないと思います。
そんなのがあったらいいなとか、面白いなとは思うのでしょうが、本当に前世や来世はあるのだろうかと、考えたりはしないでしょう。
あなたが前世や来世に、関心を持たないのだとしたら、何故そうなのかを考えてみて下さい。
私が思うに、こんなものにのめり込んだら、とうとうあいつもいかれてしまったかと、思われてしまうと考えるのでしょう。

前世や来世という言葉や発想は、とても宗教的に思えます。
また、怪しいオカルトの世界のものにも見えるでしょうから、そんなものには近づきたくないと、思ってしまうのではないでしょうか。
それに、前世や来世に関心を持たなくても、生きて行くことはできますし、日常生活にはやらなければならないことが、目白押しです。
生活に直接関わらない、一部の人たちだけが深い関心を示すようなものに、かまけてなどいられない、という感じだと思います。
何かで一時的に関心を持ったとしても、次の日には、仕事や生活のことで頭が一杯になり、前世や来世の話など、どこかへ吹っ飛んでしまうのでしょう。

私が考えているような事情で、前世や来世に関心を持たないのだとすると、やはり一度立ち止まって、本当に関心を持たなくてもいいのか、確かめてみて下さい。
何故なら、人はいつか必ず死を迎えます。
自分も死にますが、自分にとって大切な人も死ぬのです。
一般的に、死は不吉なものとされ、誰もが逃げることができない、最大の悲しみのように受け止められています。
死が存在の消滅だと考えると、とても恐ろしくなるでしょう。
大切な人が消滅して、二度と会えないのは、悲しみの極みです。
そんな死の訪れを感じるようになった時、やらねばならないと信じていた、日常生活のことさえもが、どうでもいいように思えるでしょう。
死を受け入れられなければ、怒りと悲しみ、絶望と空しさが続きます。

しかし、前世や来世があるのならば、死は全ての終わりではなくなります。
肉体は崩壊しても、自分という存在、大切な人の存在が、消滅するわけでありません。
それでも、前世や来世という考え方は、そんな死に瀕する人々の心を慰めるために、昔の人が創ったお話だと、受け止める人もいるかもしれません。
どう考えるかは、その人の自由ですが、前世や来世というものが、単なる創作話だとするならば、そうであるという根拠を求める必要があるでしょう。
根拠なしに思うだけならば、それこそ個人の妄想ということになります。
一方、前世や来世を示す出来事は、実際にあります。
それを真剣に研究している人もいます。
それらを自分で確かめることもなく、頭ごなしに否定するのは、正しいことだとは思えません。
それに、そういう考え方を持ち続けると、結局は自分が苦しむことになるだけです。
人は自分の価値観によって、喜びもすれば苦しみもするのですから。
今、特に死とは縁がないと思えたとしても、前世や来世というものを、一度ゆっくり考えてみて欲しいと思います。
うまくいかない結婚 その3
本来であれば、絶対に受け入れないような考え方や価値観も、自分が好きになった人の考え方や価値観であれば、何とか理解しようと努めるでしょう。
それで必ずしも理解できるとは限りませんが、少なくとも理解しようと努力はするのです。
それが、結婚という人間関係のメリットですね。
結婚によって、それまでとは異なる考え方や価値観と出会い、それを理解することができたなら、自分は人間として一歩成長できたということです。
そして、両者の異なる考えや価値観を、一つに合わせることで、どちらにもなかった新たな考えや価値観が、生まれる可能性もあるのです。

これは二人だけでなく、人類全体で考えても、大きな一歩となるでしょう。
結婚というものには、そのような力があるのです。
ただし、儀式や形式としての結婚には、いろいろありますので、どれか一つにこだわる必要はありません。
ここで言う結婚とは、心が惹かれ合った者同士が、一緒になるという意味です。
好きでもない人と一緒になると、自分と違う考え方を相手が持っていても、それを受け入れようとは思わないでしょう。
何だよ、こいつ。
何よ、この人。
と、はなから相手を否定してしまい、相手から何かを学べる機会は訪れません。

それでも、こんな結婚からも、学べることはあります。
それは、一緒になるのであれば、一緒になりたい人となる、ということです。
それがわかれば、その結婚に固執する必要はありません。
さっさと別れて、本当に心惹かれる相手を探すのです。
この時に、自分は結婚に失敗してしまったと考えると、気持ちが後ろ向きになり、本当に心惹かれる相手と、出会うことはないでしょう。
さぁ、新しい人生の始まりだ、と前向きに受け止めることで、自然に自分の本当の姿や魅力が、周囲に知ってもらえるようになり、この人という人が現れるのです。
でも、心惹かれたと思っていても、その人の表面的な所だけを見て、そう思ったのであれば、やはりうまく行かないかもしれません。
一緒になって、楽しくやっているつもりが、相手が自分を一人の人間として、見ていないと気がつくと、一気に興醒めするでしょう。
そして、同時に自分自身も、相手の表面しか見ていなかったことに、気づかされるのです。
この場合も、結婚に失敗したと考えるのは、間違いです。
そうか、自分が望んでいたのは、人間としての自分を、きちんと受け止めてくれる人だったんだ、とわかればいいのです。
次は、そんな人を探すだけのことです。
何も悔やんだり悲しんだりする必要はありません。
その時は、自分自身も相手を、一人の人間として見ているでしょう。

また、自分に何でもしてくれる人が、いい人だと思い込んでいると、そうしてもらえない時に、相手のことを悪く見てしまいます。
何かしてもらっても当たり前ですが、何もしないと悪く見えます。
これでは、いい関係は築けません。
相手に何かをしてもらおうと思う時、それは自分が弱い人間だと、自分で決めつけているのです。
相手がいなくても、一人で何でも何とかできる、という状態であれば、相手が何かをしてくれなくても、別に腹は立たないでしょう。
逆に、自分が相手に何かをしてあげようと、思うかもしれません。
でも、これもやり過ぎると、相手は自分で好きにしたいのに、と文句を言うことがあります。
何でもほどほどが、いいのですね。
こんな感じで、結婚がうまく行かなくても、そこからいろんなことが学べて、自分が成長する糧にできます。
自分が成長することよりも、結婚そのものを重視する人は、誰と一緒になったとしても、かなり苦労すると思います。
人生は経験と学びであり、全ては成長のためです。
結婚は人生の一部であって、全てではありません。
結婚というものを、大きな視野で見ることができれば、これまでの結婚がうまく行っていなかったとしても、必ず素敵な人と出会えると思います。
