楽しむ気持ち もてなす心

何事も楽しむ気持ちが大切です。
自分で好きでやることも、誰かに頼まれてやることも、義務的にしなければならないことでも、楽しんでやることが大事です。
楽しんでやらない場合、淡々と作業をするか、嫌々やるかの、どちらかでしょう。
淡々とできる人は、それはそれでいいと思うかもしれません。
しかし、限られた人生の中で、楽しんでいない時間が、長くなると考えると、損をした気分になると思います。
嫌々やる人は、何をするにしても、作業の効率は悪くなるし、仕上げの状態も好い加減になるでしょう。
本当に嫌であるなら、やめるべきですし、やらねばならないと言うのであれば、気持ちを改めなければなりません。

嫌々やっていては、面白いはずがありません。
嫌なのですから、不愉快ですよね。
楽しくないことや、不愉快なことをするのは、仕事の成果にも影響しますが、それ以上に、自分の心や体の調子に、不調を来すのです。
それでも、やめられないと言うのであれば、その作業の中に何か楽しみを、見つけるしかありません。
ちょっとした遊びやゲームの感覚を持つことができれば、つまらないと思っていたことが、案外面白く感じられるようになるでしょう。
そこには自分なりのこだわりや、工夫というものが出て来ると思います。
誰も褒めてくれなくても、自分で自分を褒めればいいのです。
うん、よくやった。
なかなか大したものだ。
こんな風に自分を褒めてあげましょう。
そして、ご褒美に何か美味しい物でも、食べて下さい。
自分が出すご褒美でも、頑張った証に得られるものであれば、気合いが入ると思います。

また、自分がすることで、誰かが喜んでくれると、こちらも嬉しいですね。
自分が何かする時にも、それで誰かが喜ぶところを、イメージするといいですよ。
そうすると、どんな仕事や作業でも、手を抜きたくなんかなりません。
喜ぶ人の顔が直接見られなくても、必ず喜んでくれる人はいますから、自信を持てばいいのです。
また、喜ぶというのとは、ちょっと違いますが、自分がしたことで、誰かが困らないか、という発想も大切です。
自分の手抜き作業によって、あとで誰かが困らないようにという考えは、誰かを喜ばせようという考えと同じです。
直接自分の家を訪ねて来た人に対しては、もてなそうという気持ちが働きます。
このもてなしの気持ちを、まだ出会っていない人に対しても、持つことができれば、とてもいい仕事ができますし、自分も気持ちがよくなります。
また、ちょっとしたことへ、感謝や喜びを持てるようになれば、周囲にいる人たちとも、いい関係を築けます。
誰かに褒めてもらったら、気分は最高でしょう。
それでも、どうしても楽しんだり、もてなしたりできない環境だと思うのであれば、思い切って、違う場所や環境へ移るというのも、一つの方法だと思います。
えん下食シェフ
NHKの番組で、山形県鶴岡市のえん下食シェフ、延味克士(えんみ・かつし)さんが紹介されました。
えん下食シェフとは、物を呑み込むことができない、嚥下障害のある人でも食べられる、食事を作るシェフです。
現在、旅館「うしお荘」の支配人を務める延味さんは、洋食と和食に精通した料理人です。
延味さんは、お父さんを食道癌で亡くされました。
そのお父さんが亡くなる前に嚥下障害になり、料理人である延味さんが、作った料理を食べられなくなったそうです。
それは、延味さんにとって、無力を感じさせられる悲しいことでした。
その延味さんに、ある時、地元の医療関係者から嚥下障害のある人の、食事について相談を持ちかけられました。
それで、その人たちと一緒に、えん下食を作ることになったのですが、それには亡くなったお父さんのことが、あったと言います。
お父さんと同じように、嚥下障害に苦しむ人たちに、食の楽しさを取り戻してもらいたい。
その一心で、様々な努力や工夫を、延味さんは繰り返します。
その人が食べたい物を作るため、料理は一回一回が真剣勝負です。
見た目も美しく、味も食感も本物、しかし、口の中ではすぐに崩れて食べやすい、そんな料理を延味さんは作りますが、その工夫は食材によって違います。
通常は嚥下障害の人たちが食べる物は、ミキサーにかけて、どろどろにしたようなものばかりなので、見た目の楽しさや、舌触りなどの味わいはありません。
患者さんは何を食べているのか、わからないと言いますし、美味しいとも思いません。
ただ、生きるために必要な栄養分を、体に取り込んでいるだけで、食事というものではないのです。
介護の現場にいる人たちから湧き出た、これを何とかしたいという熱い思いが、延味さんの心を動かし、えん下食シェフの道を、延味さんは進むことになりました。
料理を作るのは延味さんですが、その後ろには介護現場にいる人たちの、思いがあるのです。
それまで楽しい食事を、あきらめていた方たちが、延味さんの料理によって、食の楽しさを思い出し、味わい、感激する姿は、見ている者の心を打ちます。
その姿を見た、介護施設の調理をする人たちも、感激して、延味さんのような食事を提供するようになりました。
患者さんたちも、その食事に喜んでいました。
ただ、料理が上手というだけでは、決して作ることのできない、えん下食料理です。
嚥下障害に苦しむ人や、その家族の気持ちを知り、何とか力になってあげたいという思いがなければ、絶対に作ることはできません。
その気持ちが、シェフを通して他の人々に、広がって行く様子も、また感動させられました。
人の苦しみは、嚥下障害以外にも、たくさんあります。
しかし、その苦しみを何とかしたいと思い、懸命に取り組む人も、たくさんいらっしゃいます。
お金儲けや名声のためではなく、本当に誰かを思って行うことは、とても尊いことです。
そして、それこそが人間の本来の姿ではないかと思います。
誰もがえん下食を、作れるわけではありませんが、自分にできることで、誰かの力になることは可能でしょう。
それがどんなことであれ、一人一人がそのような気持ちを持ったなら、こんなに素敵で素晴らしいことはありません。
星のささやき

私たちの宇宙は、138億年前に誕生したと言われています。
現在、最も遠くにある星の光は、131億光年離れた所にあるそうです。
131億光年とは、光が131億年かかって到達できる距離です。
そんな遠くから、ようやく光が地球に到達したのですね。
よく言われるように、星空に見える星の光は、今この瞬間のものではなく、過去にその星から発せられたものです。
どのぐらい過去なのかは、地球からどのぐらい遠く離れているかによります。
一番近い星、月の光は、地球に届くまで、1.3秒です。
月については、ほとんどリアルタイムでの観測と言えますが、正確には1.3秒前の月を眺めていることになるのです。
太陽の光は、8分で到達しますから、見えている太陽は、8分前の太陽ということです。

夜空に見える恒星で、最も明るい星、シリウスまでの距離は8.6光年です。
つまり、私たちが見上げるシリウスは、8.6年前の姿ということですね。
一番近い恒星は、プロキシマ・ケンタウリという赤色矮星で、4.2光年の所にあります。
太陽系に属する星と比べると、自ら光を放つ恒星は、かなり遠い所にあり、その光は長い時間をかけて、地球に届くのです。
この光を、単に星が発した光と捉えると、その星の過去の姿を眺めている、というだけの話で終わってしまいます。
でも、この光をその星が発した、ささやきと捉えると、どうでしょうか。

星にも心があります。
もちろん、人間が認識しているような心ではありません。
全ては元は一つでしたから、人間に心があるのなら、他の存在にも、その存在なりの心があるはずです。
人間は脳と心を同じものと捉えがちですが、それは正しい考え方ではありません。
人間の脳は、人間の意識形態を形成するのに、必要なだけであって、人間以外の存在には、必要ないものです。
星には星の心があるのです。
その星が発している光は、当然、その星の心を表現したものであり、星のささやきと言っても構わないのです。
そのささやきは、歌かもしれません。
ただの光だと捉えるのも、その人の自由ですが、星のささやきや歌と捉えたほうが、ロマンチックに思えませんか。

そのささやきは、その星を眺めた人の心に伝わります。
ただ、誰かの声が聞こえても、それをただの音だとしか受け止めていないと、その意味は伝わりません。
それと同じように、星の光をただの光だと思っていると、星のささやきは聞こえないでしょう。
星に心があり、光という形で、そのささやきを届けていると受け止めれば、夜空がそれまでとは違ったように、見えるのではないでしょうか。
そのささやきが何億年前に、発せられたものだとしても、ささやきを受け取ることができた人は、星と心が通じ合います。
肉体が死んでも、存在としての人間は、死滅することがありません。
それと同じように、遥か遠くにある星が、その光を受け取った今、すでに消滅しているかもしれませんが、その星の心がなくなることはありません。
星のささやきを受け取ることができた人は、リアルタイムでその星の心と、心を通わせているのです。
夜空を見上げた時、心の中で星々に声をかけてみて下さい。
きっと、あなたの心は、夜空一杯に広がるでしょう。

奇妙な論理 その3
新型コロナウィルスに感染すれば、重症化すると思う人が、ワクチンのリスクは覚悟した上で、免疫力を高めるために、ワクチンを打つのは理解できます。
でも、重症化しないと思う人には、ワクチンを拒否する権利があると思います。
自分が重症化するかどうか、わからないと思うならば、ワクチンを打つのも方法ですが、免疫力を落とすようなことを、自分がしていないのかを、確かめることは大切でしょう。
ワクチンを打っていようがいまいが、自分が体調がおかしいと思うのであれば、他人に迷惑をかけないようにするのは、人間として当たり前です。
感染症で人に迷惑をかけるのは、別に新型コロナウィルスに、限ったことではありません。
それぞれが、自分の健康を考えたり、他人の気持ちを配慮する、ということができるなら、強制的にワクチンを打たせたり、ワクチンを打たない者を排除する、ということにはならないでしょう。
海外ニュースで、ドイツではワクチンを打っていない者が、飲食店などに入ると、警察に捕まると伝えていました。
その姿は、ユダヤ人というだけで捕らえていた、ナチスドイツを彷彿させるものでした。
自分たちは間違っていない。
自分たちは正義を貫いている。
警察や政府、あるいは多くの人たちは、自分のことを、そのように信じているのでしょう。
でも、こういう状況は最も危険です。
日本でも関東大震災の時に、火災が起こって、多くの人が焼け死にました。
その火をつけたのは、朝鮮人だというデマが広がり、何もしていない朝鮮の人たちが、あちこちで日本人に殺されました。
あの時も、誰も朝鮮人が火をつけたと、信じて疑わなかったのです。
それがどれだけ恐ろしい過ちであったのか、人は歴史から学ぶべきなのですが、今また同じことが起ころうとしているように見えます。
何故、そうなるのでしょうか。
それは、人々が不安と恐怖、怒りや悲しみで、パニックに陥るからです。
パニックに陥った人々の心を、支配するのはいとも簡単です。
こうなったのは、あいつらのせいだと何かの証拠を示せば、みんながそうなのかと思い込みます。
助かりたければ、こうするしかないと言われると、何も疑うことなく、その言葉に縋りつきます。
私は陰謀論を好みませんが、今の状況を見ていると、人々がパニックに陥ることを、望んでいる者がいるように思えてしまいます。
そして、うがった見方かもしれませんが、ワクチンを製造している所は、今の状況がこれからずっと続くことを、願っているように思えるのです。
みんな、一度立ち止まって深呼吸をし、気持ちを少し落ち着けないといけません。
今のこの騒ぎの、本当の問題はどこにあるのか、誰かの意見を求めるのではなく、自ら考え、自分が本当に納得する答えを、導き出すのです。
何故、新型コロナウィルスが恐ろしく見えるのか。
ウィルス自体が化け物でないのであれば、何がウィルスを恐ろしく見せているのか。
そこのところをよく見極めて、今後の自分の動きを、決めたらいいと思います。
奇妙な論理 その2
コロナワクチンを打っても、数ヶ月すると血中の抗体価が、下がって来るということで、二回目の接種だけでなく、三回目の接種をするよう、あちこちの国で促されています。
それでも、抗体価は必ず下がりますから、そうなると四回目、五回目と、際限なくワクチンを打ち続けるよう、指示されるようになるでしょう。
まるで、抗体価が常に100%の数値を維持していないと、恐ろしいコロナウィルスに感染して大変なことになるぞと、脅しをかけられているようです。
ワクチンでなく、自然にコロナウィルスに感染した人でも、病状が回復して時間が経てば、抗体価は下がります。
必要ないのですから、下がるのは当たり前のことなのです。
免疫力がつくというのは、抗体価が常に100%を維持する、ということではありません。
抗原となる病原体の情報を、体内に記憶するということなのです。
初めての病原体が体内に侵入すると、体はその病原体に対する、情報がありません。
最初にその病原体と戦った白血球から、リンパ球へ情報が渡されるのですが、それから情報分析がなされ、その病原体に見合った抗体が、産生されるようになるのです。
体内から病原体がいなくなれば、抗体は必要なくなりますから、その数値は下がります。
しかし、リンパ球は情報を保持していますから、同じ病原体が再び侵入して来ると、手持ちの情報に基づいて、すぐに抗体を産生するのです。
分析する手間が省かれますから、初めて罹患した時と比べると、迅速に対応ができるわけです。
そのため、病原体が数多く増殖する前に、抗体で抑え込めますので、感染しても症状が出ないか、出たとしても軽傷で済むのです。
ウィルスが常に空気中などに蔓延していれば、しょっちゅうウィルス感染が繰り返され、それによる刺激が続きますから、抗体を持っている人の、血中抗体価は高い値を維持します。
しかし、ウィルスがいない状況が続くと、抗体価は下がって来ます。
体は無駄なことはしませんから、ウィルスがいないのに、その抗体を常に100%産生し続けることはありません。
必要に応じて、産生したりしなかったりするのです。
それを抗体価が下がることは問題だと、常に100%の抗体価があるのが、当たり前かのように人々に思わせるのは、ワクチンを売りたいがためとしか思えません。
症状もほとんどなく、重症化する者がほとんどいない子供に対し、ワクチンを推奨する製薬会社は、金の亡者にのように見えてしまいます。
製薬会社が出すデータだけで判断するのは、とても危険です。
データなんて、どのようにでも作ることができるからです。
ワクチンは感染を防ぐというより、重症化させないためのものです。
感染しても症状が出る前に、ウィルスを抑え込んでしまうと、感染しなかったように見えますが、感染はするのです。
他人に感染させないために、ワクチンを打つというのは、これまでなかった考え方です。
ワクチンは他人のためにするものではなく、自分のためにするものです。
感染しても重症化の可能性が少ない人たちには、ワクチンは必要ありません。
また、一度免疫をつけた人に、何度もワクチンを繰り返す必要もないでしょう。
それが必要になるのは、ウィルスの型ががらりと変わり、全く別物のウィルスに変異していると、考えられる時だけでしょう。
でも、その場合に打つワクチンは、以前と同じではだめです。
新しい型に見合ったワクチンでなければなりません。
それを、古い型のままのワクチンを、繰り返し打つのは、あまり意味があるようには思えません。
いずれにしても、基本的には元々自分に備わっている、免疫力こそが重要なのです。
ワクチンを打たなくても、平気な人がいるわけですから、その人の免疫力の在り方を、他の人も見習うべきなのです。
医師や研究者たちも、そこのところを徹底的に調べて、自然の免疫力を上げるための方法や、免疫力を下げてしまう事柄を、細かく人々に伝えるべきでしょう。
奇妙な論理 その1
日本では、新型コロナ騒ぎは、一段落していますが、海外ではまたもや感染者数が、増えていると言います。
そのため、ワクチンを未接種の人たちに、強制的に接種させようとしたり、二度ワクチンを接種した人に対して、三度目のワクチンを接種させる動きになっています。
また、五歳以上の子供に対しても、ワクチンを接種させるよう推奨されています。
一方で、ワクチンによる副反応が、話題に上がります。
注射をした部位の痛みや熱感は、出て当たり前という感じで、三日間高熱で寝込むという場合も、少なくないようです。
中には、ワクチン接種後に亡くなる方もいますが、ワクチンとの関係性は不明とされています。
実際、ワクチンとは関係のない理由で亡くなることは、有り得る話ですが、かと言って、絶対にワクチンと関係がないとは、誰も言いきれないでしょう。
それまで全く健康でピンピンしていた人が、ワクチンを打ったその日に倒れて死んだなら、普通はワクチンの影響で死んだと、受け止めると思います。
しかし、ワクチンを推奨する立場の人たちは、科学的根拠に乏しいという理由で、これらのケースを無視しているのが現状のようです。
本来、新たに開発されたワクチンは、何年も安全を検証した上で使用するものです。
ところが、今回の新型コロナウィルスに対するワクチンは、安全性の確認ができないまま、特例で使用が認められました。
いわば、世界中の人々を、実験台にしているようなものです。
そもそもワクチンは、その対象の病気にならないように、予め免疫をつけようというものです。
つまり、その人が病気で苦しまないようにするためのものなのです。
それなのに、そのワクチンで苦しんだり、場合によっては、死ぬかもしれないというのは、何かおかしいと思います。
たとえば、インフルエンザワクチンを打った人が、副反応で40度の高熱が三日続いたとして、ああ、よかった、これでインフルエンザに罹らずに済むと、喜ぶでしょうか。
どんなにひどい副反応であっても、新型コロナに罹って死ぬよりは、ましだと言うのが、専門家の意見のようですが、本当に新型コロナは、そこまで恐ろしいウィルスなのでしょうか。
確かにコロナウィルスに感染して亡くなる方はいます。
しかし、全く平気な人もいるのです。
コロナウィルスが本当に恐ろしい、殺人ウィルスであるならば、どんな人でも感染したら死に至るのではないでしょうか。
片や、一家全滅。
片や、一家みんな平気。
これは、どういうことなのでしょうか。
ここからわかるのは、ウィルスが殺人的と言うよりも、人間によって免疫の状態に、大きな違いがあるということでしょう。
見かけではわからない免疫力は、何もない日常の中では、その機能がうまく働いているかどうかは、わかりません。
今のように同じウィルスが広範囲に広がった時に、その差が目に見える形で、現れるのです。
基礎疾患を持つ人の、免疫力低下は疑われていますが、そうでない人までもが、重症化するという話が出ると、人々は恐れおののいてしまいます。
しかし、その人が本当に健康だったというデータは、どこにも示されません。
基礎疾患がありますかと、最初に聞かれた時に、普段病院に通っていない人は、基礎疾患はなく健康ですと、調査の者に伝えるでしょう。
でも、実際は調べてみると、血糖値や血圧が高いとか、体力的に問題があるとか、免疫力を落とすような暮らしをしているなど、見えていない原因というものが、必ずあると思います。
そこをしっかり確かめず、やたらウィルスの恐ろしさを強調するのは、科学的とは言えません。
死んだ人の葬儀もできず、遺族の元に戻って来た時には、すでにお骨になったあと、というやり方も、人々の不安を煽ります。
それだけ恐ろしいウィルスなのに、重症でなければ自宅で静養だとか、検査をしていない人は、街中を出歩いても大丈夫など、やっていることが矛盾だらけです。
本当に死んだ人からでも感染するような、恐ろしいウィルスであるのなら、直ちにロックダウンをしなければならないでしょう。
でも実際は、ロックダウンなどしなくても、ばたばた人が死ぬわけではありません。
確かに多くの命が失われてはいますが、歩いていた人が、ばたばた倒れて行くような状況ではないのです。
繰り返しますが、ウィルスを化け物に仕立て上げるのではなく、何故人々の免疫力が落ちているのか、という点を詳しく調べるべきでしょう。
外国人の投票権
東京都武蔵野市の松下玲子市長が、在留期間などの要件を付けずに、外国人に住民投票の投票権を与える条例案を、市議会に提案すると発表しました。
市議会で可決されるかどうかはこれからですが、可決されれば武蔵野市民は、国籍を問わず住民投票に参加できるようになるそうです。
外国人が住民投票に参加できる自治体は、他にもあるそうですが、その数は少なく、この条例案が可決されれば、日本人と同条件で外国人に投票資格が与えられる条例としては、全国3例目になると言います。
これはかなり画期的なことだと思います。
国政に関する選挙に、外国籍の人が投票するとなると、それなりの問題が生じるかもしれませんが、地域の住民としての投票であれば、日本人も外国人もないでしょう。
同じ住民として、みんなで暮らしているのに、一部の人には投票権がないというのは、投票権がある者から見ても、悲しいことではないでしょうか。
自分たちは差別をするつもりはないのに、差別をしているような気にさせられると、迷惑な話だと思います。
同じ地域に暮らす仲間と見るのか、よそ者と見るのか。
住民投票権を与えるかどうかは、異国から来た人たちを、どう見ているかによって、違って来るでしょう。
もちろん、外国から来た方たちを、大切に思いながらも、そういう問題に気がつかないでいる自治体や市民は、少なくないと思います。
武蔵野市の住民投票条例案が可決されれば、それが他の自治体に波及して、あちこちの地域で同じような条例案が、可決される気がします。
それは、同じ町に暮らす外国の人たちを、仲間だと宣言するのと同じです。
外国の人たちからすれば、とても嬉しいことでしょう。
それは、自分が逆の立場であったならと考えれば、誰にでもわかることです。
国籍を超えて、人々の気持ちが一つになれば、こんなにいいことはありません。
それはやがて、国のレベルで同じような動きを、引き起こすことになるでしょう。
いろいろ文句をつける人はいるでしょうが、私は素晴らしいことだと思います。
倭の国の文化

日本食のことを、和食と言います。
日本のお菓子を、和菓子と言います。
日本の着物ことは、和服と言います。
日本式のことは、和風と言います。
でも、日本という国の名前に、和という文字は含まれていません。
これはどういうことなのかと、調べてみますと、昔、日本は倭国と呼ばれていました。
この「倭」と今の「和」は同じ字のようなのです。
つまり、和食とは倭食であり、和服は倭服、和風は倭風ということですね。
この倭という名は、中国の魏志倭人伝にも出て来る言葉です。
「倭」という漢字の意味は、小さいとか従順ということだそうです。
当時の中国は大国であり、文化の中心でした。
その中国から見て、日本の人たちは、素直で従順に見えたのでしょうね。
実際、今の日本の文化の基盤に、中国の文化が広く浸透しているのは、誰もが認めているところです。
日本の人たちは、中国文化の素晴らしさを、素直に受け入れていたのでしょう。
しかし、今の日本の文化は、中国の文化から引き継がれたものだけではありません。
西欧の国々から入って来た文化も、中国からの文化に負けないぐらい、日本文化の中で息づいています。

宗教もいろんな宗教が入って来ていますが、別に争うことなく共存しています。
こだわりがないとか、節操がないとかという、見方もできるでしょうが、日本人は好奇心が旺盛で、楽しいことは何でも取り入れる、という習性があるように思えます。
日本人の日常の食事も、純粋な和食と呼べるものばかりでなく、洋食や中華も当たり前のようにありますし、カレーは日本人の大好物です。
他にも、いろんな国の食事が気軽に楽しめますし、創作料理もどんどん出て来ています。
自分の国の食事が最高だとは、誰も思っていません。
スポーツや芸術も、自国だけを応援したり称賛したりはしません。
素晴らしいものは、どこの国のものかに関係なく、惜しげない拍手を贈ります。
こういうことは、国が教えたり強制したりしているのではなく、自然なものとして受け継がれているようです。
逆に、国が大きく国民の意識に介入していた時は、自国ばかりを褒めたり、他国を平気で侵害するような風潮が、あったように思います。
一人一人が自由な発想を持てる時、素敵な物や面白い物は、素直に受け入れて、自分たちのものにするという、日本人の性質が発揮されやすいのでしょう。
そして、それこそが日本文化の、基礎になっているのだと思います。
国の名前は、倭から日本に変わっていますが、精神は倭のままで残っているのでしょう。
ですから、日本食は和食だし、日本の着物は和服なのです。

国を支配している人々は、いろんな思惑を持っていますから、ある国には従うけれど、ある国には敵対心を持つ、ということがよく見られます。
これは、本来の日本人の在り方とは、違うと思います。
それに対して、一般の人々はどこの国の人に対しても、オープンな気持ちで接することができます。
もちろん、偏見を持つ人はいます。
でも、そんな人たちに毒されなければ、異文化を受け入れて楽しむという、好奇心に満ちた精神が、人々の心を刺激するのです。
日本の文化、すなわち和の文化というものは、目に見えている建築物や食事、作法というよりも、その根底にある、どんなものでも自らの中に取り込むという、日本人の気質を言うのだと思います。
外国の人にも、そんな方はいますし、日本人の中にも、異質なものを拒む人もいます。
でも、全体的に見ると、日本人には異質なものを取り込めるという、好奇心と度量の広さがあると言えるでしょう。

今の世の中は、どちらが正しいのかとか、どちらが強いのかなど、競争や争いを基盤とした、自分と他者を分離する思考が、蔓延しているように見えます。
それは自分と自然を、別のものとして受け止めるという、考え方にもつながります。
それで人々が幸せになれるのであれば、構わないのですが、実際はその逆です。
互いの違いを認め、それを調和のとれた多様性として、活かして行く力が、日本人にはあると思います。
また、自分と自然を分けて考えず、自然と共に生きるという考えが、昔は当たり前のようにあったでしょう。
今の世界では、そんな日本人の気質が、求められているように見えます。
本来の日本人気質をもっと高めるために、互いの存在を認め合い、様々な価値観があることを、受け入れるような教育が、広まることを私は望みます。
所有権や金銭的な損得という発想は、本来の日本人気質の邪魔をします。
ですから、資本主義的な価値観を離れて、日本人の気質を考えてみて欲しいと思います。
一人一人がそういう意識を持って、日常を暮らすようになれば、必ずその意識は、世界中に広がって行きます。
そして和の文化は、争いに反発し合う世界を、本当の平和へ導くことができるでしょう。

自分探し

一時、自分探しの旅というものが、流行りました。
今でも、そういうことをされている人は、いると思います。
でも、本当の自分とは、どんな自分なのでしょうか。
それは、旅することによって、見つかるのでしょうか。
私たちは、普段物を考えたり、喜怒哀楽を感じたり、五感を感じる自分を、たった一人の自分として認識しています。
その自分が自分なのであって、それ以外の自分なんて、有り得ないというところでしょう。
しかし、本当の自分を探すということは、それまで自分だと信じていた自分は、本当の自分ではなかった、ということになります。
これは、どういうことなのでしょうか。

それは要するに、今の自分が本音で生きているのか、建前で生きているのか、ということでしょう。
人は一人一人が違いますから、それぞれが人生に求めていることも、違って来ます。
もちろん、似たようなことを求めることは、あるでしょうけど、全員が同じ目的で生きているわけではありません。
他人から見て、とても恵まれているように見える人でも、周囲の期待に自分を合わせようと、無理をして生きているかもしれません。
困っている人を見ると、胸が痛むのに、周りの人は誰も困った人に、手を差し伸べないので、みんなと同じようにしながら、これでいいのかと悩む人もいるでしょう。
頭がよくて勉強ができるので、親にも先生にも、医者か弁護士になるべきだと勧められ、大学に入ったけれど、本当は漫画家になりたかったと考える人もいます。
華やかな都会暮らしに憧れて、田舎から出て来たものの、心に浮かぶのは田舎の自然や、家族のことばかり、という話もよく聞きます。

いい夫、いい妻、いい親、いい子供、いい人。
本当はいろんなことをやりたいし、いろんなことが言いたいけれど、自分を偽らなければいけないので、それができないということも、少なくないでしょう。
何が自分にとって喜びなのか。
それをよく確かめないまま、流行に流されたり、世間で常識と思われている考え方や価値観に、自分を染めてしまうと、自分が何のために生きているのかが、わからなくなってしまいます。
それなりの楽しさはあるけれど、何か胸に空しさがある。
そう感じた時、自分は偽りの人生を送っていると、見た方がいいでしょう。
その空しさの原因が何であるのか、すぐにわかる人はいいのですが、わからない人は、それを知るために、いろんな所に行ったり、いろんな人に出会うことで、ヒントを得ようとするのです。
それが、本当の自分探しの旅ですね。

でも、それまでの価値観を捨てきれないまま、何となく旅をしても、結局は何が本当なのかは、わからないままになるでしょう。
それまでの価値観は捨てて、真っ白な心で旅をすれば、これだというものを見つけられると思います。
でも、遠くへ旅しなくても、見つけられる人には、本当の自分は、すぐにでも見つかります。
それは、日々の小さな出来事、小さな発見に、喜びや感謝を感じることです。
喜びを感じている時の自分は、本当の自分と繋がっています。
自分が一番喜びを感じるのは、どんなことかを、確かめてみて下さい。
そうすれば、本当の自分と出会うことができるでしょう。

困った時がチャンス その3

困った時、人はどうしていいのかわからなくなります。
どうしていいのか、わかっていれば、困りませんものね。
困るということは、それまでのやり方や考え方では、対処できない状況が、起こっているわけです。
その状況は、別のやり方や考え方を、求めていると言えるでしょう。
しかし、人は安定を好み、変化を好みません。
これまでどおりのやり方を、維持したく思うものです。
たとえば、夜もろくに眠らず、働き回ってお金を稼ぎ、仕事の業績を上げようとしている人が、体を壊したとします。
この人は仕事を続けたいので、仕事を休まずにいられるよう、薬で何とかして欲しいと、病院に頼むでしょう。
しかし、病院で入院しなければだめだと言われると、とても困るでしょう。
病院の指示に従わず、そのまま仕事を続けて、死んでしまうかもしれません。
入院したとしても、業績をあげねばという考えに囚われていると、動けない自分を情けなく思い、すっかり自信をなくすでしょう。
そのことが原因となって、新たな症状を引き起こすことも、考えられます。

でも、自分を本気で心配してくれる、家族や友人たちの存在に気がついて、考え方が変わる人もいます。
こんな人は、業績よりも大切なものがあると理解し、それまでの自分が間違っていたと認めるでしょう。
そして、新たな価値観で暮らし始め、自分が本当は何をやりたかったのか、ということも思い出すのです。
こんな風に価値観を変えられた人は、病気になったことに感謝するでしょう。
病気にならなかったら、間違った人生を突き進み続けていたからです。
こんな感じで、困った状況というのは、その道をそのまま進むのは問題があると、示してくれているのです。
その意味さえ理解できれば、困り続ける必要はありません。
その道を進み続けねばならないと、思い込んでいる理由を、よく考えてみるといいでしょう。
正しいと思っていたその理由が、実は正しくなかったとわかったら、新たな道が目の前に現れます。
それこそが、本来進むべき道であり、その道へ一歩足を踏み入れたなら、困った状況はたちどころに消えるのです。
