操られていませんか その2

どうせ買い物をするのなら、ポイントが高い日、あるいは安売りをしている日に、買わないと損をする。
そう考えて、いろんなスーパーやドラッグストアなどを、駆け巡る人がいると思います。
本人はポイントが貯まったとか、安く買えて得をしたと思うのですが、本当に得をしていると言えるのでしょうか。
たとえば、普段なら10ポイントのところ、ポイント10倍セールで100ポイントが付いた、としましょう。
100ポイントももらった、お得!
と考えたくなりますが、お金に換算すると、精々100円でしょう。
たった100円を稼ぐために、高いガソリン代を払い、混み合った道路や駐車場に、辟易しながら、売り場で品物の争奪戦を繰り広げ、買わなくてもいい物までも、たくさん買い込み、最後は長く並ぶレジでイライラするのです。
たった100円のためにです。

100円あげるからと言われて、同じことをする人は、いないと思うのですが、これが100ポイントとなると、目の色が変わってしまうのですね。
人間って面白いものです。
安売りの商品も、期限切れが近いとか、何かが傷んでいるとか、安くする理由があるでしょう。
同じ品の普段の値段を知っていれば、表示されている値段が、安売りの日には高く設定されていることに、気がつくかもしれません。
それを1割2割安くしてもらっても、全然得はしないでしょう。
もちろん、赤字覚悟でお客にサービスをするお店も、ないわけではないと思います。
でも、店を潰すわけにはいきませんから、どこかで儲けようとするはずです。
一方的にお客が得をするような商売は、有り得ないでしょう。
相手に得をしたと思わせることで、こちらの思い通りに操作する。
それが今の商売のやり方です。
お金を儲けることが基本ですから、相手のことよりも、儲けの方が上になるのです。
ポイントがもらえるとか、この日は安いなどと言われたら、本当にそれが得なのか、よく考えるようにするといいでしょう。
知らない間にポイントが貯まる、というのであればいいのですが、ポイントのために走り回るということは、避けた方がお得だと思います。
操られていませんか その1
誰もが自分の意思、自分の考えで行動し、生活していると思っています。
でも、実際は誰かにうまく操作されているのかもしれません。
たとえば、新聞やテレビ、ネットなどで、体に障害のある人が、苦悩の人生を送る話が、紹介されたとします。
多くの人は、それを観ることで、障害のある人を気の毒に思い、自分よりも弱い人間なのだと考えるでしょう。
でも、実際は障害などものともせず、それも個性だとばかりに、いろんな分野で活躍する人たちがいます。
その人たちは、自分が劣った人間だとは、受け止めていません。
そんな人たちに対して、障害があることを気の毒がると、とても失礼になります。

人が誰かを弱い存在と見ている時、相対的に自身を高い位置に、置いているものです。
誰かを気の毒に思ったり、同情することによって、自分はそんな状況でなくて、よかったと思うのです。
そうではなく、困っている人がいれば、その人にも自分と同じような力があるのだ見て、その力を引き出すために、手を差し伸べるべきでしょう。
それは、気の毒にとか、可哀想にという意味ではありません。
立ち上がって、一緒に歩みましょうと、伝えているのです。
相手の辛い気持ちを理解することと、相手を低く見ることは別物です。
相手の気持ちを理解しつつ、相手が再び立ち上がれるように、励ましたり力を貸すことは、相手を自分と同等に見ているということです。
しかし、相手を低く見ることで、自分の位置を高めたい人は、その相手にずっと低い位置に、いてもらわなくてはなりません。
そういう人は、障害がある人をみると、すぐに気の毒な人と決めつけてしまいます。
また他の人にも、その人を気の毒だと思わせようとします。
そうすることで自分の考えの正当性を、確保するとともに、自分が安全な位置にいることも、確かなものにしたいわけです。
何も考えずに、こういう人の言葉に同調すると、知らない間にその人の考えを、正当化するために利用されます。
あるいは、そういう人の考えに、いつの間にか染まってしまうのです。
人間の可能性や、人間のあるべき関係性、あるべき姿を考えたなら、気の毒そうな人の中にも、その人の強さが見えるでしょう。

地位やお金、名声や権力を持っている人が、すごい人だと思うのも、決めつけた見方なのかもしれません。
ある人物を崇拝する人は、その人が神さまであるかのように、崇めようとします。
また、その人を尊敬したり、崇めることを、他の人にも求めます。
それで、同じように崇拝する人が増えれば、自分はその人物の信者を増やした、特別な人間のような気持ちになるのです。
でも、実際はみんな同じ人間です。
いい面もあれば、悪い面もあります。
場合によっては、人に言えないような、ひどい一面を持っていることだってあるのです。
本当にその人がすごい人なのか、それはその人の、ある一面だけを見て言っているのではないか、そう考えてみると、どんなに優れた人でも、自分と同じ人間なのだと、わかると思います。
また、崇拝されることで、その人が困惑しているということも、見えて来るでしょう。
いいことにせよ、悪いことにせよ、人のことを決めつけて見ていないか、注意するといいと思います。
決めつけていたなという時は、自分が知らない間に、操られていたということがわかるでしょう。
大切なのは生き様 その3

自分の土俵を見つけようとしても、どうすればいいのかわからない。
今の世の中で、自分の土俵を見つけるなんて、無理な話だ。
そう思いたくなるような世の中ですよね。
でも、自分の人生を決めるのは、自分自身です。
他の誰でもありません。
どんなに何かを強要されようと、自分にはそれを拒否する権利があります。
どれほど無駄だと言われようと、自分には好きなように生きる権利があります。
要は、覚悟が必要ということですね。
覚悟を持てば、どこでもそこは、その人の土俵です。
生きる覚悟さえあれば、嫌な生き方を強要されることはありませんし、好きに生きることができます。
生きる覚悟のない人は、他人に命綱を握られて、いいように扱われるのです。

他人からどう見られるかなどと考えては、覚悟のある生き方はできません。
自分はこう生きたいんだ。
自分はこんな人間になりたいんだ。
そう思ったなら、その望みどおりの生き方を、今すぐ始めるべきでしょう。
その結果、思ったとおりになれなかったとしても、それは重要ではありません。
そうなろうとしていた、その生き様こそが重要なのです。
何故なら、その生き様こそが、その人の存在そのものであり、その人がその人である証だからです。
障害の多いこの物質世界の中で、望んだ結果が出せれば、それはそれで素晴らしいことですが、結果が出なくても、それは問題ではありません。
どんな結果を出そうとも、それは所詮、生きている間だけのものです。
死んでしまえば、どうってことはないのです。
この世を去っても残るのは、自分という存在だけです。
その時の自分が、自分らしさを出せたものであるならば、人生は大成功と言えるでしょう。
だから、結果よりも生き様が大事なのです。
大切なのは生き様 その2
もっと豊かな暮らしがしたいと、誰しもが思うでしょう。
そのために一生懸命働いたり、資格を取る勉強をしたりして、少しでも多くのお金を稼ごうとします。
でも、どんなに頑張ってみても、これ以上は稼げないとか、どんなに勉強をしても、自分にはこの資格は取れないなどと、落胆するかもしれません。
所詮、自分の力なんてこの程度だし、自分には豊かな暮らしなんか、縁がないんだと考えたくなる人は、多いのではないでしょうか。
お金をたくさん稼いでいる人を羨んだり、自分の親を恨んだり、自分の邪魔をした人を憎んだり、果ては自分自身を見下して、こんな人生いらないと、思ってしまうこともあるでしょう。
そう考えてしまうのは、自分に自信がないからです。
何をやっても上手く行かないと、初めから諦めモードになっています。
まずは、どうして自分に自信がないのかを、よく考えてみましょう。

たとえば、何かの仕事をするにも、そのやり方や、やっている事の意味が、よくわからないと、仕事の流れに乗れなくて、何をやっているんだと言われてしまいます。
本当にその仕事をやろうと思うのであれば、面倒臭がらずに、やり方や意味などを、徹底的に学ぶのです。
そうすれば、そこに自分なりの工夫も取り入れることができますし、仕事もスムースに流れます。
でも、仕事そのものが自分に向いていない、自分に合わないと思うのであれば、他の仕事を探すべきでしょう。
自分にはこんな仕事しかできないと、決めつけてしまっては、そこで終わってしまいます。
世の中にどんな仕事があるのか、全てを知っている人などいません。
自分に合う仕事が見つかるまで、いろんな仕事を調べてみるといいのです。
この場合、その作業内容だけを調べるのではだめです。
その仕事に本気で取り組んでいる人の、考え方や生き方までも、参考にするのです。
それで本当に、その仕事がどんなものか理解できます。
また、仕事はすでに存在しているものだけではなく、これから誰かに創造されるのを、待っている仕事だってあるのです。
それを誰かが始めるのを待たないで、自分で始めるのも、一つの方法でしょう。
自分に自信がないと感じる時、それは他人の土俵で相撲を取っているのです。
本当の実力ややる気は、自分の土俵で相撲を取って、初めて出せるものです。
そこを勘違いして、自分には土俵なんてないんだと、思い込んでしまうと、自信はなくなりますし、何をやってもうまくいきません。
自信を持ちたければ、自分の土俵を見つけることです。

大切なのは生き様 その1
人間にとって何より大事なのは、どう生きるかということです。
人はとにかく、生きることに必死で、死を敵視します。
死なないために生きている人は、どれほど多くいることでしょうか。
その生き方は、ただ生きることが目的です。
死にたくないから、お金を稼ぎますし、嫌な仕事でもするのです。
そうしないと、生きていけないと思うから、そうするのです。
でも、それではただ生きるだけの、人生になってしまいます。

人は必ず死ぬます。
死ぬということは、自然な物事の流れです。
死が恐ろしく見えるのは、死んでしまった人の姿だったり、死んだあとのことが想像できない、ということが理由でしょう。
つまり、死を恐れる人は、自分と肉体を同一視しているのです。
肉体が自分だと信じていると、誰かが死を迎えた時や、その後の肉体の様子を見た時に、とても恐ろしく思えます。
また、脳が心を創っていると考えるわけですから、その脳が死によって崩壊してしまうと、心である自分は消滅すると、受け止めてしまうのです。
自分が消えてなくなるなんて、考えるだけで怖くなるのではないでしょうか。
しかし、自分と肉体が同一ではないと知れば、死についての受け止め方も、変わって来るでしょう。
いずれにしても、私たちはこの世界で生きていますし、何かの活動を行います。
ご飯を食べる、どこかへ行く、遊ぶ、お喋りをする お金を稼ぐ。
これらは全て活動です。
そして、大半の方がこれらの活動をすることが、生きることだと考えていると思います。
それは間違いではありませんが、正解とも言えません。

私たちは人間ですから、人間としての生き方というものが、重要なのです。
ただ生きているだけでは、他の動物たちと変わりありません。
人間として生きるということは、そこに学びがありますし、創造があります。
創造というのは、何か物を作るということだけではありません。
新しいやり方、新しい生き方、新しい付き合い方を、生み出していくことも、創造なのです。
形があってもなくても関係ありません。
それまでなかったものを、新たに生み出すことが創造です。
人間は創造することに喜びを感じます。
創造がない人生は、面白味がないものになってしまいます。
また、他人に何かを強要されたり、うまく乗せられて、他の人と同じことをする人生は、自分の生き方とは言えません。
強要された人生は、苦痛と不満だらけです。
乗せられた人生は、初めは楽しいかもしれませんが、次第に虚しくなって行きます。
自分はどうありたいのか。
自分はどう生きたいのか。
自分は何を求めているのか。
そこを見極めて追求して行くことこそが、人生の醍醐味であり面白さなのです。

ベーシックインカム さらにその後
世界的な新型コロナのニュースばかりが報道される中、アメリカのロサンゼルス市とシカゴ市で、低所得者を対象とした、実験的なベーシックインカムが導入されることになったという、記事を見つけました。
ロサンゼルス市と同じカリフォルニア州の、ストックトン市が2019年から2年間、ベーシックインカムを行ったところ、毎月の給付金によって生活が安定したため、フルタイムの仕事を見つけやすくなったなどの効果があったと言います。
それで、今ではアメリカの約40都市が、ベーシックインカムを導入する検討を、始めているそうです。
これはすごいことだと思います。
ヨーロッパでも、ドイツやオランダ、イタリアなどでベーシックインカムが行われ、その効果は認められているようですが、そのコストが問題点となっているようです。
また、少ない金額であっても、ただでお金をもらうことで、労働意欲が減るという指摘もあるようです。
しかし、逆に言えば、コストさえ何とかなれば、制度自体には問題はないということでしょう。
お金を手に入れることで、労働意欲がなくなるのは、ベーシックインカムの問題ではありません。
それは何事もお金を基準にして考える、資本主義の悪い価値観が原因でしょう。
自分がやりたいことを目指す、という生き方ができるのであれば、ベーシックインカムは大きな力となるはずです。
働く意欲を削ぐようなことには、決してならないでしょう。
ベーシックインカムによって、労働意欲が失われるのは、これまで住民がやりたくもないことを、無理に押しつけられて来た、ということの表れなのです。
コストは問題があるでしょうが、ベーシックインカムとう発想自体は、将来性のある考え方でしょう。
ベーシックインカムは、単なる貧困対策ではなく、貧しい人に労働の機会を与える、きっかけ作りです。
生活のために働くのではなく、自分の夢を叶えるために、働く支えとなるものなのです。
収入を得たら打ち切られてしまう、生活保護とは意味合いが、全然異なるのです。
アメリカの多くの都市で、ベーシックインカムが導入されようとしているのは、その意味が理解されていることと、少しでも多くの貧しい人が、平等に暮らせるようにという試みです。
この気持ちこそがもっとも大切なものであり、この想いを持たずに、形ばかりのベーシックインカムをやれば、それは必ず失敗すると思います。
アメリカでベーシックインカムが、当たり前の制度となったなら、恐らく日本でも取り組んで行くことになるでしょう。
それがいつのことになるのかはわかりませんが、資本主義の象徴であるアメリカで、この制度が認められつつあるということが、人間の意識の大きな変化に、繋がって行くような気がします。
ここは大いに期待したところですね。
エネルギー保存則 その4

宇宙はビッグバンで誕生したと、多くの学者が信じています。
実際にビッグバンがあったのかどうかは、確かめようがありません。
しかし、かつて宇宙が、とんでもないくらいに縮んでいたとしても、宇宙全体に含まれるエネルギーの量は、変わりません。
それがエネルギー保存則です。
圧縮されていると、かなり高密度のエネルギー状態なのでしょうが、それはエネルギーの総量が変わらないからこそです。
さらに言えば、たとえビッグバンが宇宙の始まりだったとしても、宇宙は無から生まれたわけではないということです。
私たちが知る宇宙という形がないだけの話であり、その形を作る元のエネルギーは、常に存在していたのです。
そして、現在の宇宙の一部である、私たちの心も、その中に存在していたはずなのです。
もちろん、今の一人の人間としての意識状態ではありません。
個というものが、何かを理解できていない状態での、意識なのだと思います。
それでも、私たちはそこに存在していたはずです。

宇宙は誕生してから、138億年と言われていますが、あなたも私も、138億年前から存在し続けているのです。
通常の人間の人生から考えれば、途方もない時間です。
でも、私たちが宇宙とともにある以上、138億年前にも私たちは存在していたと、言えるのです。
その頃には、個の意識がわからなかったのだとすれば、自分と他の存在の区別は、つかないでしょう。
つまり、全ては一つであり、全ては同じ存在だということです。
それが、今は一人の人間としての意識を持っていますし、他の生き物たちも、それぞれの意識があるように見えます。

また、無生物と思われる存在にも、意識があると考えても、それらの意識と自分の意識というものを、人間は区別しています。
ところが、実は自分とは別の存在だと思っていたものたちが、全て元の自分の分身だったとわかれば、これは驚きであり感動するべきことでしょう。
そして、138億年前には全てが一つであったとするならば、それこそが事実だと言えるでしょう。
存在する全てのものは、みな兄弟であり分身なのです。
誰が一番とか、どの存在が優れているのかと考えることは、無意味です。
本当の自分というものを、追求していったならば、そこには必ず全てが一つであった時の、自分にたどり着くでしょう。
全ては自分の兄弟であり、分身なのです。
別々のもののように見えても、それは視覚的なものです。
それぞれの意識や心は、根本の所でつながっているのです。

エネルギー保存則 その3
生きていても、死んでいても、人間の意識は存在し続けます。
しかし、生きている時と、死んでいる時とでは、意識の形態が異なると考えられます。
寝ている時と、死んでいる時では、意識が同じ状態にあるとすれば、そちらが本来の私たちであり、覚醒時の意識は特別仕様と、見ることができます。
しかし何故、意識を特別仕様にして、この世界を体験する必要があるのでしょうか。
肉体を離れている、あるいは肉体を持っていない状態の意識が、本来の自分であるならば、何もこの世界に生まれて来なくても、いいようなものです。
それを、わざわざ意識の形態を変えてまでして、この世界に生まれて来るのだとすれば、そこには何か大きな理由があるはずです。

私たちは、生まれて来る前のことを覚えていませんし、眠っている間のことも思い出せません。
ですから、この世界に生きていることに、何か理由があるとはわかりません。
それでも、理由があるのは間違いないと思われますので、その理由を探ることは、何より重要だと思います。
ルールも知らないゲームに、いきなり参加させられて、何となく過ごしていても、仕方がありません。
ゲームに参加するのであれば、ゲームの目的を確かめる必要があります。
目的がわかれば、それまでルールだと信じていたことが、勝手な思い込みだったと、知ることになるでしょう。
では、どんな目的なのか。

幽霊は姿や形がはっきりしません。
この世界にいない時の私たちは、幽霊のように形が定かでない存在なのだとすると、はっきりした形で構成されているこの世界は、とてもエキゾチックだと思います。
自分という姿形があるからこそ、自分と他のものの区別がつくわけです。
形のない光は、いくらでも重ね合わせられますが、姿形のない意識というものが、光のように重ね合わさることができるなら、自分という線引きがはっきりしないかもしれません。
それに対して、この世界では自分というものが、はっきりと確立されています。
逆に言えば、自分がはっきりしない意識なんて、想像ができないくらいです。
これこそが、恐らくはこの世界の特徴であり、価値なのだと思います。
個を体験するというのは、この世界でしか体験できないのでしょう。
また、個を体験しながら、他の存在とのつながりを感じることができれば、それは新たな発見ということに、なるのかもしれません。
エネルギー保存則 その2
死によって、肉体との繋がりがなくなっても、精神エネルギーはエネルギー保存則に従って、消滅することなく残ると考えられます。
しかし、エネルギーは変化はします。
生きている時と死んだ後では、精神エネルギーの状態は、変化している可能性はあると思います。
それは眠っている時と、覚醒している時の違いと、同じなのかもしれません。

私たちが眠りに就く時、意識がなくなります。
呼吸もしていますし、心臓も動いていますから、死んだわけではありませんが、意識がない状況は、死んでいるのと同じです。
つまり、私たちが眠っている時、意識はなくなったのではなく、違う形に変化したと考えられます。
また、その時の意識は、肉体から離れているのかもしれません。
その間に何があったのか、それは通常の意識に戻った時には、ほとんど何も覚えていません。
覚えているとすれば、何かの夢を見たというぐらいでしょう。
何故覚えていられないのか。
それは恐らく、意識の形態が変わったために、思考状態も変化したからだと思われます。
眠っている時の思考状態と、覚醒している時の思考状態は、全く異なっているのでしょう。
思考状態が異なっているため、眠っている間の体験の記憶を、上手く再生できないのです。
では、眠っている時の意識は、どんな状態にあるのでしょうか。
そのヒントは、幽霊にあると思います。

幽霊は亡くなった方の精神エネルギーです。
肉体は失われ、意識だけになった状態です。
姿を見せることもあれば、気配や音だけのこともあります。
触れることができる場合もあれば、触れることができない場合もあります。
目に見えないのに、写真に写っていることもあります。
幽霊はこの世界の法則に従わない、不思議な存在ですが、私たちが眠っている時の意識は、このような状態にあるのではないかと思います。
私たちが自分だと認識している意識は、生きている間の覚醒時限定の意識です。
それに対して、睡眠時の意識と死後の意識が、同等であるとするならば、そちらの意識こそが、私たちの本来の意識だと言えるでしょう。
幽霊という存在は、とても不思議で特別なもののように思えますが、実際は私たち自身が、幽霊のような存在だとすれば、どうでしょうか。
恐らくは、この世界で生きている、ということこそが、実は不思議で特別なものなのです。
エネルギー保存則 その1
エネルギー保存則とは、エネルギーは変化をしても、その総量は変わらない、という法則です。
つまり、存在しているエネルギーは、変化をすることはあっても、消滅することはない、ということです。

人が死ぬと、その人はいなくなったように思われます。
人だけでなく、他の生き物もそうですね。
死んだ生き物は、存在しなくなるとみなされるのです。
でも、人間も含めて、生き物が死ぬと、そこに死んだ体が残されます。
体は死んだあとも、消えることなく残るのです
やがて、その体はバクテリアや酵素の働きによって、分子レベルに分解されてしまいます。
でも、それは消滅したのではなく、別の形に変化したということです。
体を構成していた原子や分子は、消えることなく、どこかに存在し続けます。
消えたように見えるのは、それらの分子が集まってできた、体という形です。
もし、バクテリアや酵素が働かない状態にしていれば、死んだ体は崩壊することなく、いつまでもそのままで残るでしょう。

でも、その体が再び動き出すことはありません。
それは、その体には意識がないからです。
では、意識はどうなってしまったのでしょうか。
消滅したのでしょうか。
意識をエネルギーと考えるならば、変化することはあっても、消滅することはありません。
私たちが生きている人や、生きている動物に、意識や心を認めることができるのは、その人や動物が、喜怒哀楽を表現して活動したり、こちらの行動に対して反応を示すからです。
死んだ人や動物は、自分で動くことはありません。
声をかけても、反応してくれません。
呼吸もしておらず、心臓も動いていなければ、二度とこの体が、元のように動くとは思えません。
そのような状態を、私たちは死と呼び、その人や動物がいなくなってしまったと、受け止めるのです。
でも、それはその人や動物との関わりや、コミュニケーションを持つことが、できなくなったという意味に過ぎません。
その体を通して、その人や動物の心の存在を、確かめることができなくなった、ということなのです。

存在を確かめられないから、それが消滅したというのであれば、目を閉じれば、世界が消滅したということになるでしょう。
他の地域へ移動してしまった家族や、知人と連絡が取れなければ、その人たちは消滅したことになってしまいます。
でも、事実はそうではありませんよね。
自分が相手を確認できないというだけであり、相手はちゃんと存在しています。
しかし、死んでしまった人とは、永遠に連絡が取れないではないか、という人もいると思います。
そう思う人は、自分の知っている人が、太陽系外の宇宙を冒険する旅に出たと、想像してみて下さい。

地球から近い所にいる間は、連絡を取り合うことはできますが、あまりにも遠くへ行ってしまうと、連絡を取ることができません。
100光年も先へ行ったなら、電波に載せた互いの声や姿が、相手に届くのは100年先です。
生きている間に、連絡を取ることは不可能です。
でも、それは相手が消滅したという意味ではありません。
もちろん、その長い期間の間に、何か重大な事故が起きて、お互いが死んでしまうことが、あるかもしれません。
しかし、ここで議論しているのは、互いが生きていることが前提です。
生きていたとしても、二度と連絡が取れないという状況は、想定できますし、その状況において、相手が消滅するわけではないということです。
つまり死んだ人と、これまでのような意思疎通が、二度とできなくなったからと言っても、それがその人が消滅したという、根拠にはならないのです。
エネルギー保存則に従って考えれば、人は死んでも存在し続けます。
また、人以外の生き物についても同様で、大切にしていたペットや、可愛がっていた生き物たちも、死に関わらず、ずっと存在し続けているのです。
