メタバース その2
私たちが、今の世界に生きているのには、意味があります。
どんな意味かと言いますと、人間としての成長です。
個人レベルでは、人としての様々な経験をするため、同じ時代に暮らしていても、一人一人の個人的な人生の目的は異なって来ます。
それでも、人間として成長するという目的は、みんな同じです。
中には、自分の体験している人生から、逃げ出したくなる人もいます。
実際、自ら人生を終えてしまう人もいます。
メタバースは、そんな人たちの一時避難場所として、大いに役立つと思います。
でも、そこに入り浸ってしまって、本来の世界に戻らなくなると、この世界に生まれて来た意味が、なくなってしまいます。
パソコン中毒、スマホ中毒と同じように、メタ中毒という言葉が、生まれるのは間違いないと思います。
あくまで、メタバースは仮想空間であって、本来の自分の居場所は、そこではないと理解できているならば、メタバースは新たな楽しみ、新たな可能性として、大いに役立つものとなるでしょう。
たとえば、自分が認識している世界というものは、脳に伝えられる情報によって、創られているのだということが、実際の体験で理解できます。
これまでも、マトリックスという映画で、機械が人間の脳に偽りの情報を与え、現実ではない世界を、現実であるかのように思わせる、というものがありました。
あの映画もまた、人々にとって刺激的だったと思います。
しかし結局は、創られた世界を体験しているのは、映画の中の登場人物であって、映画を観ている人ではありません。
どうして仮想現実が、現実のように思えるのかという理屈は、映画で説明されていますが、そういう理屈が苦手な人もいるわけです。
ところが、メタバースを体験すれば、むずかしい理屈は抜きで、創られた世界なのに、現実のように感じられると経験できます。
つまり、感覚によって理解ができるのです。
これは世界というものが、何であるのかを知るのに、とてもいいことです。
メタバースが感覚情報によって、構築されているのだと理解できれば、現実だと思われている世界もまた、同様に感覚情報によって、構築されているとわかるでしょう。
そしてメタバースを体験している、自分という存在は、メタバースの中にいるのではないと知れば、現実の世界を体験している自分も、実はその世界には存在していない、とわかるのです。
メタバースは楽しくて利用価値が高いだけでなく、人間の思考レベルを、飛躍的に高める可能性があると思います。
それは、地球が平面だと思われていた世界から、地球が丸いと理解する世界への、移行と似ています。
あるいは、地球が宇宙の中に浮かぶ、惑星の一つに過ぎないと、感覚的にとらえられるようになった、思考変化のようなものです。
ただ、メタバースによる思考の飛躍レベルは、これを遥かに超えたものです。
いろいろ使用上の注意というものは、出て来ると思いますが、メタバースが人々にとって、当たり前になった時、人間の思考は大きく成長していることでしょう。
メタバース その1
新聞の一面記事に、「メタバース 痛みも再現」という見出しがありました。
何だろうと思ったら、社名を「メタ」に変えた、前のフェイスブック社が開発した、3次元仮想空間のことでした。
少し前にニュースでやっていたことを思い出し、あれのことかと納得しました。
ただ、「痛みも再現」となると、これはかなりの技術です。
ニュースでは、そこまでは伝えていませんでした。
それで新聞の記事を読んでみると、「メタ」ではなく、東京の新興企業「H2L」が、体に刺激を伝える装置を、開発したとのことでした。
メタバースの中にいる、自分のアバターが受けた体の感覚を、本物の自分に装置によって再現するものです。
また、自分の腕を動かすと、アバターの腕が同じように、動くというものだそうです。
この装置は腕に装着するそうですが、スーツの装置も慶応大学で研究しているそうです。
スーツであれば、腕だけでなく全身の感覚を、再現できるわけですから、ますます3次元仮想空間を、現実世界のように体感することができるようになるでしょう。
これまでも仮想空間というものは、実際に様々な形で利用されていますが、現実との区別は歴然としていました。
しかし、メタバースの場合は、現実との境目が小さくなり、あたかも自分がそこにいるような、錯覚を覚えてしまうというものです。
現時点では、まだ発展途上にあると思われますが、すぐに世界中の人たちが、メタバースで利用できる技術を、次々に開発して、あっと言う間にすごい世界が、構築されると思います。
ただ、だからこそですが、メタバースには問題が孕んでいると言えるでしょう。
それは、メタバースを使った現実世界からの逃避です。
日本初のオストメイトモデル その3
オストメイトモデルのエマさんは、シングルマザーです。
ただでも生きて行く気力を、失いそうな状況の中、一人親として子供を育てるの苦労は、口で言えるようなものではないでしょう。
そんな状況に置かれたら、人はそこから逃げ出したくなるに違いありません。
実際に逃げ出したり、人生そのものに終止符を打つ人いると思います。
しかし、エマさんはその苦しい状況を、自分が生きるための力に変えました。
マイナスに見えるものを、プラスに変えて利用したわけです。
また、同じ苦しみを持つ人たちのためにという想いも、大きな力となりました。
誰かのためにという想いが、自身の生きる力になったのです。
もし、自分のことしか考えない人であれば、子供の気持ちや、同じオストメイトの人たちの気持ちを、思い遣ることはできなかったでしょう。
そんな人は、自分だけがつらい想いをしているという、閉塞的な考えにはまってしまい、人生に絶望し、他人の気持ちも考えられないまま、全てをリセットしたくなるのです。
エマさんの生き方は、オストメイトの方だけでなく、全ての他の人々にとって、模範となるものです。
人生の苦しみは人工肛門だけではありません。
いろんな苦しみがあり、中には、他人から見て問題ないじゃないか、と思われるようなものも、少なくないのです。
どんな苦しみであれ、本人にとっては大問題なわけであり、そこからどう抜け出せばいいのか、わからずに悩み続けてしまいます。
そんな人たちにとって、エマさんの姿は、やはり大いなる励みになるでしょう。
エマさんのことは、NHKの番組で紹介されていたのですが、番組の中でエマさんは、とても大切なことを伝えていました。
それはオストメイトになった自分自身が、パウチを装着している姿を、恥ずかしいものだと思い込んでいたのではないか、というものです。
自分で自分を恥じるからこそ、周囲の人が同じように見ていると思うだろうし、実際、そう見られてしまうということでしょう。
今のエマさんは、パウチを少しも恥じないと言います。
パウチは自分の一部であるといい、隠すべきものとは思わないそうです。
この言葉は本当に素晴らしい。
同じことは、いろんな人に当てはまると思います。
自信を失っている人、嫌なことや恥ずかしい経験をしてしまった人。
こんな人たちは、自分が価値のないものだと信じ込み、他の人たちも自分を、そのように受け止めていると思いがちです。
でも、実際はそんなことはありませんし、自分が堂々として人生を楽しんでいれば、他の人ともいい関係を築けます。
自分の想いが、自分を取り巻く状況を創っている。
このことをエマさんは教えてくれました。
エマさんは、これからも一人の人間として、輝く人生を歩まれるでしょう。
日本初のオストメイトモデル その2
医師であるエマさんは、自身が難病によりオストメイトになりました。
それによって、オストメイトの方たちの苦悩を、身を持って知ることになったのです。
それでもエマさんは、自分が置かれた現状に立ち向かいます。
オストメイトだからこそわかる、オストメイトの苦悩を、そうではない人たちに訴え、少しでもオストメイトの方たちが、快適に過ごせるようにと考えたのです。
人工肛門の部分に装着する袋は、パウチと呼ばれていますが、何と、このパウチを作っている会社の人たちでさえ、オストメイトの方たちの苦しみを、理解できていなかったのです。
自分が人工肛門になり、24時間パウチを装着して、管理しなければならない状態であることが、すでに普通の状態ではなく、それだけでもオストメイトの方たちは苦しみます。
それなのに、このパウチが透明で中身が丸見え状態ですから、オストメイトの方たちは、そのことでさらに苦しむのです。
パウチが透明なのは、便の状態を確認しやすいため、というのが理由です。
手術をしたあとの体調や、腸の状態を確かめるためには、それが必要なのはわかります。
しかし病院を退院して、自宅で通常の暮らしを始めるようになれば、パウチを透明にしておく必要はありません。
調子が悪くなれば、便の状態以外でもわかります。
それに、パウチを交換する時に、自分で便の状態を見ることもできます。
便を確かめる必要がない時に、わざわざ透明のパウチで、自分の便が外から見える状態にする必要は、どこにもありません。
オストメイトでない人も、自分の衣服や体に、自分の便がべったりついたまま、外を出歩くことを想像すればわかるでしょう。
たとえ、乾いて匂いが取れていたとしても、そんな格好を好む人は、一人もいないと思います。
それなのに、あなたは病気なのだから、その格好で辛抱しなさいと言われたら、どんな気持ちになるでしょうか。
外国では日常の生活を送る、オストメイトの方たちのために、透明でないパウチが用意されているのです。
それなのに、何故か日本だけは、いつまでも透明の袋のままで、それを改善する動きが見られません。
これはパウチの問題と言うよりも、日本人気質と言いますか、今の日本人にすり込まれてしまった、周囲への無関心の問題でしょう。
自分の言動が、他人にどのような影響を及ぼしているのかを、何も考えず無責任に生きている人が、どれだけ多いことでしょうか。
そのような事例は、日常の至る所で目撃できます。
パウチの話も、その一例に過ぎないのです。
外国ではオストメイトであることを隠さず、パウチを見せたモデルがいます。
その姿は決して嫌なものではなく、むしろかっこよく魅力的です。
また、オストメイトの人たちが日常生活を楽しめるよう、様々な服や下着などが開発されています。
しかし、日本ではそのようなものは、一つもありません。
そこでエマさんは、自分は日本初のオストメイトモデルになろうと、決意したのです。
エマさんは透明でないパウチを、作るよう企業に働きかけ、自らオストメイトの理解を求めるポスターを作ったり、あえてパウチが丸見えになる、水着姿をネットで公開したりしました。
すると、多くのオストメイトの方たちから、力をもらったと感謝の声が届きます。
それでもオストメイトモデルとしてのスポンサーは、日本では見つかりませんでした。
そんなエマさんに好機が訪れます。
オストメイトモデルの仕事が、海外の企業から依頼されたのです。
日本は外国から圧力をかけられたり、外国と比較されて、日本が劣っていると言われることに、とても敏感です。
エマさんに海外企業のスポンサーがついたというのは、日本としては情けないことではありますが、今後の日本が大きく変わるための、大きな一歩なのです。
日本初のオストメイトモデル その1
病気や大怪我が理由で、直腸や直腸を含む他の大腸を切除された方は、腹壁に穴を開け、そこへ残った腸の断端部を縫合した、人工肛門(ストーマ)を作られます。
日本では、この人工肛門の方が約21万人いるそうで、その方たちはオストメイトと呼ばれています。
オストメイトの方たちは、人工肛門を作ることで、元の病気や大怪我の状態から抜け出せます。
しかし、その代わりに人工肛門による不便さや、苦労を強いられることになります。
本来の肛門は便意を感じたり、排泄を調節することができますが、人工肛門の場合はそれができません。
そこに袋を装着して、だらだら出て来る排泄物やガスを貯めて、一杯になったら新しい袋と交換します。
袋は本人が眠っていても、勝手に貯まって行くので、一杯になったのに気がつかないでいると、最後には弾けて破れ、辺りは排泄物まみれになります。
病気や怪我の苦しみを乗り越えるためとは言え、人工肛門による代償は大きく、見た目の問題や、袋の管理の問題、世の中の偏見など、多くの新たな問題を、患者の方たちは抱えることになるのです。
袋を衣服で隠してしまえば、外見上は他の人たちと変わりませんから、周囲の人はその方の状態を、言われなければ知ることができません。
また、知ることがないがために、そういう方たちの苦悩を理解できず、時には偏見の目を投げかけることにもなるのです。
大抵の場合、人工肛門になった方が自宅へ戻ると、自分と同じ境遇の人は、身の回りにはいません。
独りぼっちです。
家族がいても、人工肛門でなければ、本当の気持ちはわかってもらえません。
自分がどれだけつらく苦しく悲しいのか、この状況をどう乗り切ればいいのか、答えを教えてくれる人はおらず、一人で悶々と悩み続けるのです。
袋は透明で、中の排泄物が丸見え状態です。
万が一、装着がきっちりしていなければ、衣服は汚れるし、辺りに嫌な臭いが広がります。
ちょっと変な匂いがすると、自分ではないかと不安になるのです。
それまで着ていた水着はもちろん、体にフィットするような服も、袋を隠せないので着られません。
装着部の皮膚が、炎症を起こしてただれることもあります。
だからと言って、袋の装着をやめるわけにも行かず、装着部を清潔に保つよう、気を遣います。
そうなるまで当たり前に思っていた楽しみの多くが、突然奪われてしまい、人生に絶望してしまいます。
中には、自殺を考える人もいると言います。
そんなオストメイトの方たちの苦しみを、世の中に伝える一方で、オストメイトの方たちを、励ましている人がいます。
それは内科医師のエマ・大辻・ピックルスさん(42)です。
白い鳥の夢 その3
ガイドが金柑をくわえた、白鷺に扮して現れたのは、そのイメージが示すとおり、私の人生がいい方向に向かっている、ということを伝えているのだと思います。
今進んでいる人生の先には、いいことが待ち受けているということです。
それは単純にお金が儲かるなどの意味ではなく、私にとって幸せなこと、という意味でしょう。
白鷺がくわえていたのが、大きなミカンではなく、金柑であったことも、それを示しています。
金柑は宝くじで当たった、1万円を意味すると同時に、私が手にする幸福は、お金ではないということも、示しているのです。
それでも、お金に困るようなことは、ないはずです。
これまでも、綱渡りのような暮らしでしたが、何とか収入と支出のバランスは、取れて来ました。
それは今後も同じだと思います。
つまり、必要なお金は手に入りますが、余るようなお金、不要なお金は手に入らない、ということですね。
白鷺がくわえるのに、ちょうどいい大きさのミカンが、金柑だったということでしょう。
それは、暮らしに必要なだけのお金は、手に入るから心配ない、という意味なのです。
お陰で、ジェットコースターに乗っているような、ハラハラドキドキの日々ですが、それでも絶対に大丈夫だろうという安心感はあります。
そのようにコントロールされていると、わかっているからです。
さて、この白鷺の夢が、私がいい方向に向かっていると、教えてくれていると書きましたが、そのこと以上に、この夢が示す大切な情報があるのです。
それは、私のガイドは間違いなく存在し、私を見守り、陰から手助けをしてくれているのだ、という事実です。
そのことを私が忘れたり、疑ったりしないよう、自分たちがちゃんとここにいるから、何も心配しなくていいよということを、私の心にしっかり植え付けたのだと思います。
宝くじの1万円には、その確かな証拠という意味があるのです。
そして、このことを、こうして私がブログに書いているということも重要です。
本当にそんなことがあるのだと、受け止めてくれる人にとっては、これは朗報だからです。
ガイドは誰にでもいます。
言ってみれば、テレビゲームに熱中している人を、端で応援してくれる人たちのようなものです。
人生というゲームに没頭している私たちを、ゲームから外れた所で、懸命に支援してくれているのです。
何を支援するのでしょうか。
それはもちろん、私たちが自分の人生に設定している、ゴールへ行き着くためです。
半信半疑であったとしても、まずは自分にもガイドが付いてくれているのだと、そう考えてみて下さい。
これまで偶然という言葉で済ませて来た、運がよかったことや、不思議なことを、ガイドがしてくれたことかもしれないと、考えてみて下さい。
自分にもガイドがいるような気がすると思えば、そのガイドに挨拶をしたり、日頃の感謝を伝えてみて下さい。
それから寝る前に、夢でガイドに会いたいと、真剣に願ってから、蒲団に入って下さい。
何か夢を見たら、それを書き留めておくといいでしょう。
その中に、ガイドが出ているかもしれません。
やたらと懐いてくる動物は、ガイドの可能性が高いと思います。
私の夢では、ぼてっとしたブタ猫が、腹ばいになりながら、頬杖をついて、私を見上げていました。
これは絶対にガイドだと、私は思っています。
私のガイドは面白いことをするのが、好きなようなのです。
とにかく、ガイドの存在を信じられるようになれば、どんどんその存在を受け入れて、自分が人生を突き進むのを、これからも応援して欲しいと、お願いしてみて下さい。
きっと、いろんないいことが、あなたに起こると思います。
白い鳥の夢 その2
目が覚めてから、あの白い鳥は何という鳥なのか、インターネットで「白い鳥」の検索をしました。
すると、出て来た写真の中で、夢で見たのとそっくりの鳥がいました。
それは白鷺です。
それで今度は、白鷺にはどんな意味があるのかと、調べてみたのですが、白鷺は神の遣いと言われる、とても縁起がいい鳥ということでした。
スピリチュアルな意味としては、「幸運に恵まれるサイン」「人間関係が良好になる暗示」「金運アップの前兆」があると言います。
これは何といい意味なのだろうと、私は嬉しくなりました。
では、白鷺が加えていたミカンは、どうでしょうか。
これについても調べてみると、ミカンを漢字で書くと「蜜柑」ですが、この「蜜柑」という漢字の中国語読みは、お金や吉の意味になるそうなのです。
それで、ミカンは財を成し、吉を運ぶという、縁起のいい食べ物とされていると言うのです。
白鷺の意味を合わせて考えると、これはどう考えても、金運でしょう。
私は普段は買わない宝くじを買ってみました。
そしたら何と、当たりました。
当たったと言っても、一等賞の高額当選ではありません。
当たったのは、1万円と千円です。
大した金額ではありませんが、私にしては、大した金額です。
これまで宝くじを買っても、参加賞みたいな100円や200円しか、当たったことがありませんでした。
それが1万円と千円が当たったのです。
私にすれば、これは大事件でした。
思い返せば、白鷺がくわえていたミカンは小さくて、ミカンというより、金柑だったようにも思えます。
もし、あのミカンがもっと大きな物であれば、もっと高額の当選につながったのかもしれません。
どうせだったら、大きなミカンをくれればよかったのにと、思う人もいるかもしれませんが、私には金柑で十分でした。
私はお金には無頓着で、金銭欲というものがありません。
宝くじを買うのは遊びです。
それも滅多には買いません。
今回も当たった宝くじは、家内に全部プレゼントしました。
もちろん、お金がたくさんあれば、それなりに使うことはできます。
でも、私は基本的にお金がいらない、社会を望んでいますから、そんな私に大金をつかませるようなことを、私のガイドはしないでしょう。
それは、私の人生の目的とは、外れたことだからです。
それでも、ガイドが白鷺に扮して、私に1万円をくれたのは、何故でしょうか。
そこには、金運よりももっと重要な意味があるのです。
白い鳥の夢 その1
少し前に、白い鳥の夢を見ました。
家屋の脇にある、小さな水槽の横に私がいます。
そこへ、すぐ近くの物陰から、白い鳥が姿を現したのです。
その鳥は首が長く、広げた羽はボロボロで、とても飛べるようには見えませんでした。
実際、鳥は羽ばたきましたが、とても弱々しい飛び方でした。
私がこの鳥を見ているように、鳥の方でも、私を意識しているようです。
私はこの鳥に、おいでと心の中で声をかけました。
すると、鳥は私から左側へ離れるように羽ばたいたのですが、遠くへは行かず、くるりと回って右側から戻って来ました。
鳥はそのまま私の所までやって来ました。
手で触れられる距離です。
鳥はくちばしに、小さなミカンのような、柑橘の実をくわえていました。
その実をくわえた鳥は、長い首をまっすぐに上に伸ばし、天を仰ぐような格好をしています。
その長い首を水槽の方に曲げると、くわえていた実を、水槽の中へ落としました。
何だか、その実を私にくれたように思えたので、この実をくれるのかと、私は鳥に尋ねました。
鳥は人間のように喋りませんが、じっと私を見ている様子から、どうやら私にくれると伝えているようです。
私は嬉しくなって、鳥を抱くと、ありがとうとお礼を言いました。
ぼろぼろだった鳥の羽は、いつの間にか、立派できれいなものになっていました。
それから鳥は、私の元を去ったのですが、私はこの鳥が自分のガイドが、化けたものに違いないと直感しました。
ガイドというのは、肉体を持たない存在で、ハイアーセルフとかヘルパーと、呼ばれることもあります。
また、守護霊というとらえ方を、される場合もあるようです。
とにかく、誰のそばにもいる、その人を陰で支えてくれる、非物質の存在です。
信じる人もいれば、信じない人もいますが、ガイドを知覚できた者にとっては、信じる信じないではなく、感じるものであり、確かに存在しているものなのです。
こんな話をすると、ぶっ飛んでいるみたいに、思われるかもしれませんけど、嘘をついているわけではありません。
私は自分のガイドの存在を感じていましたが、ヘミシンクCDを聞くようになってから、時々ガイドの姿が、瞑想状態の時や、夢の中で見えるようになりました。
ガイドは複数存在しているようですが、人間の姿をしている時もあれば、動物の姿をしていることもあります。
非物質的存在なので、これだという固定的な姿形はないのでしょうね。
そんなわけで、私はこの白い鳥が、ガイドに違いないと感じたわけです。
では、ガイドは何故白い鳥になり、私にミカンをくれたのでしょうか。
そこには、きっと何かの意味があるはずです。
操られていませんか その4

世の中は資本主義だから、お金がないと生きていけない。
ほとんどの人が、こう信じているでしょう。
でも、本当はお金がなくても生きて行けます。
生きて行くのに必要なものは、衣食住です。
また、娯楽や知識欲を満たしてくれるものです。
お金ではありません。
お金がなくても、お互いに力を出し合えば、どんなことでもできます。
相手を思いやる心があれば、何も心配することはありません。
世の中に必要なのは、お金ではなく思いやりです。
誰かの笑顔を喜ぶ気持ちです。

しかし、実際の世の中は、お金が中心です。
不安を煽ることで、人々に優越感を持たせようとします。
それは何のためでしょうか。
地位や権力を持つ者が、それを維持するためです。
お金で人々を縛りつけ、優越感を持たせることで、自分になびかせたいからです。
みんながいろいろ考えて、自分の価値観を持つようになると、支配ができなくなります。
それは支配者には困ったことなのです。
だから、みんなに考える余裕を与えないよう、次から次に不安をかき立てるような情報を広めたり、そんな状況を作ったりするのです。
最近は世界中で、新型コロナを初めとする、様々な問題が浮き彫りにされ、人々がいろいろ考えるようになりました。
これは、とてもいい傾向です。
結局は自分たちで考えて、自分たちで動かなければ、何も解決しないと理解できるようになるでしょう。
その結果、お金がなくても、自分たちが助け合えば、何とかなるとわかるようになるのです。
そうなるとお金で縛られなくなり、自由な生き方を手に入れることになります。
お金による洗脳から、解放されるわけです。
互いを尊重して、助け合う社会が訪れれば、お金は必要とされなくなるでしょう。
それこそが、人間の本来の姿を反映した社会なのです。
操られていませんか その3

将来、いい仕事に就いて、楽な暮らしを手に入れるためには、いい高校、いい大学を卒業する必要がある。
だから、小さい頃から勉強をたくさんして、いい学校へ入学することが、子供にとって一番いいことだ。
そう信じている親御さんは、少なくないと思います。
でも、大学を出たところで、思ったような仕事に就けない人は、いくらでもいます。
それなのに、未成年の子供を抱える親は、子供を大学へ入れようと、努力を続けるのです。
仕事によっては、確かに大学での知識が必要とされるでしょう。
しかし、ほとんどが職場で教えてもらえば、それで済むのではないでしょうか。

学歴よりも、本人の熱意こそが重要です。
それでも、未だに学歴神話は健在です。
社会人のほとんどが、大学の試験など合格できませんし、授業を聞いてもちんぷんかんぷんでしょう。
それでも、みんなちゃんと生活をしています。
大学を出ないで、会社を経営している社長さんもいます。
親も子供も闇雲に大学を目指すのではなく、大学とは何をする所なのかを、よく考えてみるといいと思います。
本来、大学とは就職のための予備校では、なかったはずです。
研究をしたい、教養を高めたい、そう望む者が入るところであり、だからこそ、大学というものに価値が見出せたのです。
しかし、今はほとんど誰もが大学へ進み、勉強することよりも、就職先を探すことに、懸命になっているのではないでしょうか。
これでは大学の価値など、どこにもありません。
会社側も学生側も、大学に価値があると、勝手に信じているだけです。
大学を出ても、ものの道理もわからず、他人への気遣いもできない人は、たくさんいます。
一方で、大学を出ていなくても、仕事熱心で機転が利く人もいます。
社会は大学を出ているかどうかで、その人物を判断しがちですが、何を根拠に判断しているのか、その判断が正しいのか、よく吟味するべきだと思います。
学歴神話が崩れた時、世の中は大きく変わるでしょう。
それは、枠に填められた堅苦しいものではなく、もっと自由で人々が活き活きしたものになるはずです。