自分が自分でいられる所 その4
自分が自分でいられる所と言っても、本当の自分が何を求めているのかが、わかっていないと見つけにくいでしょう。
でも、見つけるためのヒントはあります。
まず、自分にとって居心地が悪い場所があれば、それは、ここはあなたの居場所ではありませんよ、と教えてくれているのです。
ですから、そこではない所へ、移動する必要があります。
居心地が悪いことに対して、怒りや悲しみ、憎しみなどのネガティブ感情を、持つ必要はありません。
と言うか、そんな感情を引きずると、居心地のいい場所が見つけにくくなってしまいます。
居心地が悪い=ここは自分の居場所ではない
これだけのことです。
いいとか悪いなどの、価値判断をしてはいけません。
そんな価値判断が、ネガティブ感情に結びつくのです。
とにかく居心地が悪ければ、他へ移るのです。
それと、その場所の何が自分にとって、居心地の悪さになっていたのかを、細かく分析するのです。
これが悪かったのかとわかれば、次に移動する場所を考えるのに、こういう所だけは、やめておこうと参考にできます。
でも、それだけでは、どこへ行けばいいのか、的を絞りにくいですよね。
そこで今度は、少しでも自分が興味を持てることや、ほっこりした気分になれるようなもの、に注目するのです。
それは、あなたが進むべき方向は、こちらですよと示してくれているのです。
とは言っても、まだまだ、これだとわかるわけではないと思います。
それでも、何も感じない方へ進むより、遥かに自分の進むべき道に、近づいているのは間違いありません。
もっと正確な進むべき道を知るためには、とりあえず心が惹かれる方向へ、進んで見ることです。
実際に進みながら、その道の中で、さらに深く興味や関心を持つ方向が、見えてくれば、そちらへ進む道を絞ります。
こうして行くべき道や、避けるべき道が、具体的にわかって来ると、これだと思えるものは、目の前に近づいていると言えます。
あとは、自分の喜びや幸せな気分が、より正確な方向を示してくれます。
その先には必ず、自分が自分でいられる場所が、あなたを待っていることでしょう。
自分が自分でいられる所 その3
今いる所は、本当の自分の居場所ではない。
自分の居場所は、他の所にあるはずだ。
それがわかっていながら、多くの人は、自分の居場所を求めて、動こうとはしません。
その理由を尋ねると、いろいろ事情や大変さを並べ立て、自分が動かないことの正当性を示そうとします。
でも、そんな正当性を示した所で、自分の居場所を見つけられなければ、何の意味もありません。
本当はこうしたいのに、本当はこんな生き方がいいのに、本当はこんな場所が好きなのに。
そう思いながら、時間はどんどん無駄に流れて行きます。
しかし、自分があと一週間しか生きられないと、わかっていたらどうでしょうか。
自分に残された時間が、わずかしかないのに、それまでと同じように、自分にとって重要でないことで、無為に時間を捨てて行くのでしょうか。
もし、自分に何かをやりたい気持ちがあるのなら、そして、それができる可能性が、ゼロでないのなら、きっと全てを捨ててでも、そこに挑戦してみようと思うのではないでしょうか。
でも、自分がすぐに死ぬと思えばできるのに、まだ生き続けると思うとできない、というのは妙な話です。
本当にできないのであれば、自分がいつ死ぬことになろうとも、できないものはできないはずです。
本当はできるのに、やろうとしないのは、失敗したらどうしようという恐れが、原因かもしれません。
やって嫌な想いをするのなら、初めからやらない方がましだ、という諦めの理屈でしょう。
もちろん、どうするかはその人の自由であり、それに対して、いいも悪いもありません。
ただ、本当に居心地のいい居場所を求めるのであれば、それができない言い訳は、全て封じてしまう必要があるでしょう。
失敗しようが、人に笑われようが、そんなことはどうでもいいことです。
自分がやりたいことに、挑戦するのは自由ですし、やってはいけない理由はありません。
でも、誰かを傷つけたり、嫌な想いをさせるようなものは、だめです。
自分の自由を尊重してもらうのであれば、他の人の自由も認めてあげなければなりません。
誰かを傷つけるという行為は、その人から自由を奪うことです。
そんなことをすれば、自分も自由を奪われることになるでしょう。
周囲の人たちに認められ、尊重されてこそ、居心地よくなるのです。
自分のためにも、他人を傷つけるような真似はしないことです。
自分の自由も他人の自由も認め、互いを尊重し合える所こそが、本当に居心地のいい場所であり、自分が自分でいられる所です。
人によって求めるものは異なりますが、ここの部分だけは、誰にでも共通する重要な点です。
自分が居心地よくいるためには、他人の居心地も考慮する必要がある、ということですね。
自分が自分でいられる所 その2
自分が自分でいられる所。
そんな自分の居場所が誰にでも見つかれば、世の中は楽しいものになるでしょうが、現実にはなかなかむずかしいと思います。
では、自分の居場所が、なかなか見つからないのは、何故でしょうか。
その理由は、まずは自分に自信がないということです。
心のどこかに、本当の居場所を見つけるのは、自分には無理だという想いが、潜んでいるはずです。
居場所を見つけて楽しく過ごせる人は、余程運がいいか、余程の能力や才能に、恵まれた人だけだと、思い込んでいるのです。
自分は平凡な人間であり、特別運がいいわけでもなければ、特に自慢できるものもない。
だから、そんな人たちと同じことを望んだって、絶対無理に決まっている。
そんな風に思っていれば、そのとおりの人生になってしまいます。
また、もう一つの理由として、自分が何を望んでいるのかが、自分でもよくわかっていない、ということがあると思います。
お金持ちになりたい。
楽しいことがしたい。
美味しいものが食べたい。
みんなに注目されたい。
何を望むかと問われた時に、こんな風に考える人は、少なくないのではないでしょうか。
でも、ここには一つも具体的なものがありません。
また、これは誰もが望むようなことです。
そこに個性を示すようなものはありません。
つまり、この望みの中には、自分が本当に望んでいるものは、表現されていないわけです。
自分がどうしたいのかが、はっきりしていなければ、どんな所が自分にとって、居心地がいいのか、わかるはずがありません。
たまたま行き合わせた所が、居心地がよかった、ということはあるでしょうが、それは完全に運任せです。
それに、そこがずっと居心地がいい場所で、あり続ける保証はありません。
居心地がよかったはずが、そうではなくなってしまう、というのもよくあることです。
そんな時も、不満を述べてばかりでは、どうしようもありません。
自分が何を求めているのかが、ちゃんとわかっていれば、新たな居心地のいい所を、見つけることができます。
自分が何を求めているのかを知ること。
必ず自分の居場所があるという確信を持つこと。
この二つが、自分の居場所を見つけるために、欠かすことのできない要素です。
ここにもう一つ加えるとすれば、居場所を求めて動くことを、邪魔するような理由を作らない、ということです。
本当はこうしたいけど、これがあるからできない、みたいな理由を付けてはいけません。
そんなことを言い出すと、自分の居場所が見つかることは、決してないでしょう。
自分が自分でいられる所 その1
人は自分の居場所を求めるものです。
大人でも子供でも同じです。
しかし、居場所を確保するために、無理や我慢を強いられることも、少なくないと思います。
大人の保護下にある子供は、大人に逆らうことができません。
一人きりにされてしまっては、生きて行くことができないからです。
大人が子供に何かを強いる時、それが子供のためになる躾けであることが、ほとんだとは思いますが、単なる嫌がらせや虐待ということも、多いかもしれません。
それでも、子供はそれに抗うことができません。
グループの中にいる場合も、仲間外れにされたくないと思うと、思ったことも言えなかったり、やりたくもない事に付き合わされたり、ということがあるでしょう。
就職先がなかなか見つからない状況においては、ようやく見つけた職場で、嫌なことがあっても、それを我慢せざるを得ないということも、よくある話です。
確かに、自分の居場所を確保することは大切です。
しかし、そのために自分を殺すような状況になるのだとすれば、そこは居場所のように見えても、本当の自分の居場所ではありません。
本当の居場所とは、自分が自分でいられる所です。
ですから、本当の居場所であれば、居心地がいいものです。
居心地が悪いのに、そこを追い出されては、居場所がなくなると思うのは、裏を返せば、自分にはそれぐらいの価値しかないと、自ら信じているということです。
素敵な人
YouTubeに「ちーチャンネル」を開設された山田千紘さん(30)は、20歳の時に列車事故で、右手と両足を失ったと言います。
自殺を考えたこともあったそうですが、周囲の人々の支えによって、両脚義足で生活ができるほどになりました。
山田さんは杖も使わず、どこにでも出かけて行きます。
当然ながら義足で歩くことは、初めはとても大変だったそうですが、努力によって一人で歩けるようになりました。
ズボンをはいていれば、両脚が義足だと気がつく人は、いないと思います。
それぐらい、スムーズに歩いてらっしゃいます。
腕は左側しかありませんが、それでも自分のことは何でもできます。
今、山田さんは一人暮らしをしながら、会社勤めもして、YouTubeチャンネルで自分の経験を発信することで、多くのつらい想いをしている人たちを、励まし続けています。
山田さんが励ましているのは、自分と同じような、手足を失った人たちばかりではありません。
あらゆる状況の悩める人たちが、励ます対象です。
だめだと思えるようなことも、頑張ることで乗り越えられる、という事を、山田さんは自らの経験を動画で発信することで、実際にそれが目に見えるようにしています。
また、自分がここまで来られたのは、周囲の人たちの支えによるものだと述べ、感謝の気持ちを持つことの、大切さを訴えています。
日常に当たり前なことなどなく、当たり前だと思っているようなことも、誰かの支えがあるからこそだと、山田さんは言います。
どんなことでも、それを当たり前だと思ってしまうと、そこへの感謝の気持ちが失われてしまうと、山田さんは忠告します。
全く、そのとおりだと思います。
また、山田さんは自分が義足であることを、隠しません。
義足を着ける時は、基本的に半ズボンをはいて、義足が他の人から見えるようにするそうです。
子供たちの多くは、義足を見たら不思議がります。
ですから、わざと義足を見せることで、見慣れさせようと言うのです。
そうすれば、子供たちが大人になった時に、義足を隠す必要がない、世の中になるわけですね。
幼い頃から、手足がないということで、それを恥ずかしく思ったり、そのことでいじめられたり、ということが現実にあります。
山田さんは、自分が義足を堂々と見せることで、全ての子供たちにとって、手足があるかどうかは、問題ではないということを、教えようとしているのです。
「人と違う体を隠すことはない。自分らしくいればいい」。
これが、山田さんがみんなに伝えたい言葉です。
これはまた、体だけではなく、一人一人の能力や感性など、目に見えないことについても、言えることです。
自分らしく生きる。
それは、今の自分を認め、自分を好きになる、ということです。
これは、これからの時代を生きて行く人たちに、求められていることだと思います。
大人も子供も同じです。
そのことを、山田さんはみんなの先頭に立って、教えてくれています。
本当に素晴らしく、素敵でかっこいい魅力的な人だと思います。
ウィルスは生物か その3
人が人に何かを伝える時、それはその人の思考であり、価値観であり、情報です。
抗生物質の耐性菌が、その耐性遺伝子を仲間の菌に、伝え広げる時、その耐性遺伝子は、耐性菌の思考だと見ることができるでしょう。
遺伝子全体は、その菌の意識であり、遺伝子の一部は意識の一部、つまり、菌の一種の思考なのです。
ここでウィルスについて考えてみましょう。
ウィルスの本質は遺伝子です。
つまり、ウィルスも元は、細胞意識の一部であり、細胞あるいは菌の間で交換される、一種の思考だったと言えるのです。
日本人で言えば、言霊(ことだま)に該当するかもしれません。
言霊とは、言葉に宿ると信じられた霊力のことです。
でも、正確に言えば、言葉に霊力が宿っているのではなく、言葉を発した者の思考あるいは念が、言葉という形に変換されているのです。
言葉は思考や念が形を持ったものです。
遺伝子は細胞の思考が、形となったものであり、細胞から外へ出された遺伝子は、その細胞の言霊なのです。
恐らくウィルスは、何かの細胞から発せられた言霊が、一人歩きをした状態と言えると思います。
今で言えば、インターネットの中で、誰かが何かの情報を発信したところ、その内容がその人の意思とは関係ない所へ、どんどん広がって行き、途中でその内容や形を変えて行くのに、似ています。
特に誰かを傷つけるような、悪質な言霊は、人に害を与えるウィルスにそっくりです。
しかし、インターネットの中に言霊が存在しても、それだけでは言霊は何もできません。
誰にも見つけられなければ、ただの書き込まれた言葉が、どこかにひっそり潜むだけです。
この点もウィルスに似ていますよね。
ところが、それが誰かに見つかり、その人の心に取り込まれてしまうと、いっきに言霊としての活動を始めます。
これもウィルスと同じです。
取り込まれた悪い言霊は、その人の心を傷つけたり、あるいは尾ひれはひれをつけられて、ニュータイプの言霊として、さらに拡散して行きます。
もう、その言霊が元は誰から発せられたのかなんて、誰にもわからなくなります。
どうでしょうか。
遺伝子であるウィルスが、どこから来たのか、よくわからないのとそっくりでしょう?
言霊は人から人へ伝わるうちに、どんどん形が変わって行き、元の姿とは全く異なるものへと、変化します。
その形態によって、その言霊が届いた人を傷つける力が、パワーアップすると、その人を破滅させてしまうかもしれません。
しかし、あまりにも変貌がひど過ぎて、その言霊を受け取った人に、笑い飛ばされてしまうようになると、誰も傷つけることができなくなってしまいます。
ウィルスでいうと、無毒化ですね。
また、悪い言霊をプラスの力に、変えられる人もいます。
そんな人は言霊をいい形に取り込んで、自分の人生に役立てることができるのです。
ウィルスで言えば、感染した細胞にとって、有益な遺伝子として、利用されるわけです。
このように、ウィルスと言霊はよく似ています。
見た目や形は違っても、その本質は似たようなものでないかと、私は考えています。
知らない所で、自分が発した言霊が、拡散してしまうことは、誰にでも有り得ると思います。
どうせ拡散するのであれば、受け止めた人がいい気分になるような、そんな言霊を発したいものですね。
少なくとも、悪いウィルスのような言霊は、発しないように気をつけねばなりません。
ウィルスは生物か その2
ウィルスの本質は遺伝子です。
ウィルスを覆う外殻に関する情報も、この遺伝子の中にありますから、寄生した細胞内で増殖する時に、遺伝子と一緒に外殻も作られます。
ですから、ウィルスの本質は遺伝子だと考えて、いいと思います。
そうすると、面白い問題が出て来ます。
ウィルスを非細胞型生命体と考えるとことは、遺伝子が非細胞型生命体であると、いうことです。
遺伝子は細胞の中にある、一つの器官、あるいは細胞の一部、というわけではなく、それ自体が生命体なのです。
しかし、非細胞型生命体という考え方をすると、細胞内にある遺伝子以外の物質や構造体も、全てが生命体ということになります。
すなわち、細胞型生命体というものは、非細胞型生命体によって、構成されていると言えるわけです。
全てが元は一つで、全てが生命であるとするならば、当然と言えば当然ですが、従来の生物=生命という考え方から見ると、とんでもないことに思えるでしょう。
恐らく、ウィルスを生物をして認めることができない、という理由の一つに、遺伝子も生物にしなければならなくなる、ということがあるはずです。
細胞にとって遺伝子というものは、細胞の設計図であり、細胞活動の説明書でもあります。
細胞は自らの内にある、遺伝子の情報に基づいて、自分の形や構造を作り、それぞれの活動を行います。
設計図にせよ、活動説明書にせよ、人間で言えば、それは思考が具現化されたものであり、知性の一部が表現されたものです。
細胞意識というものを考慮すると、遺伝子とは細胞意識の知性が、具現化されたものと言えると思います。
ところで、感染症にやたらに抗生物質を使用すると、その抗生物質に対する耐性菌ができます。
多くいる菌の中には、ごく一部に抗生物質を分解するなど、抗生物質に対抗できる力がある菌が存在しています。
この菌自体は、抗生物質に対する耐性を持っているわけです。
でも、その数は全体の中の、ほんのわずかです。
しかし、菌全体が抗生物質の脅威に曝されると、この耐性を持つ菌は、耐性遺伝子を周囲の仲間の菌に、手渡しするようにして配ります。
こうしてほとんどの菌が、抗生物質の耐性遺伝子を手に入れると、もうその抗生物質は効かなくなるのです。
この現象はとても興味深いと思いませんか。
ある菌は、抗生物質への耐性遺伝子が、自分の中にあると、わかっているのです。
また、他の菌が抗生物質にやられて、死滅して行くのを理解しているのですね。
だからこそ、自分の耐性遺伝子を、他の菌に配って回るということが、できるのです。
そんな認識ができるのは、まさに知性があるということでしょう。
たかが菌という見方をするのは、間違いであると言えます。
同じ状況を、人間に置き換えてみると、危機に直面しながら、どうしたらいいのかわからない人々に、危機への対処法を知っている人が、それを伝え回っている、という感じでしょう。
それは、声かもしれませんし、チラシに書いたメッセージかもしれません。
いずれにしても、それは意思疎通の手段であるわけです。
生命の世界には、人間が及びもつかないような、意識や思考の形態が、存在しているのですね。
ウィルスは生物か その1
新型コロナウィルスの新たなタイプ、オミクロン株の出現で、また世界が戸惑いを見せています。
人に感染して増殖したかと思えば、免疫で抑えられて勢いを減らし、もう大丈夫かと思うと、新たなタイプがまたもや増殖する、ということを繰り返していますが、このウィルスというものは、そもそも何なのでしょうか。
目に見えない細菌のような、とても小さな生物は、微生物と呼ばれます。
この細菌の一部は、動植物に感染して炎症を起こしたり、増殖したりしますが、ウィルスも似たような状況を作ります。
そのためウィルスも、微生物の範疇に入れられることがありますが、現在の生物の定義からは、ウィルスは定義から外れてしまうので、厳密に言えば微生物ではありません。
今の生物の定義というものは、次の三つです。
・自己と外界との境界を持つ。
簡単に言えば、細胞構造を持つということです。
・エネルギー代謝を行う。
つまり、自己の中に取り込んだ物質を、化学変化させて活動に利用する、ということです。
・自己複製を行う。
ウィルスは細胞構造を持ちません。
ですから、生物とは言えませんが、生物に感染して増殖するウィルスは、その動きを見ていると、生物のように思えてしまいます。
そのため、細胞構造ではないけれど、遺伝子が膜に包まれた形をしていて、外界との境界があるから、この項目については OK としてもいいのではないか、という意見もあります。
ウィルスの分類に困って、基準を緩めた格好ですね。
では、エネルギー代謝はどうでしょうか。
ウィルス自体は、自身の中で化学反応を起こしません。
寄生して、中に取り込まれた細胞の中で、細胞の代謝を利用して増殖しますが、自分でエネルギー代謝をするわけではありません。
このことから、ウィルスは生物ではなく、ただの物質に過ぎないと、考えられています。
また、自己複製についても、ウィルスは寄生した細胞の力を借りれば、増殖することができますが、自身の力だけでは増殖できません。
実際に増殖しているのだから、生物ではないかと言いたくなるところですが、自分の力での増殖でないから、だめだそうです。
こんな感じで、ウィルスは細菌のような、微生物と思われがちですが、学者の定義によれば、生物ではないということになります。
しかし、感染して増えるのだから、絶対に生物ではないとは、言い切れないだろうという意見もあり、ウィルスは生物と非生物の中間、という扱いのようです。
学者がそう言うのだから、そうなのだろうと思いたくなりますが、でも、この生物の定義とは、何を根拠に作られたのでしょうか。
それは、昔の人が細胞を生命の基本単位と考えたからです。
そして、生きている細胞とは、どのようなものかを考えた時に、これらの定義を導き出したものと思われます。
言い換えれば、この定義は、それが生きた細胞がどのようなものであるのかを、説明しただけなのです。
さらに言えば、生きた細菌の性質を、大まかに説明したものと言えるでしょう。
体の細胞について言えば、受精卵に近い、まだ何の細胞になるか決まっていない細胞は、どんどん分裂して、増殖することができますが、血液や皮膚、筋肉の細胞など、形がはっきり決まってしまった細胞は、増殖することができません。
それでは、その細胞は生物ではないのかと言うと、そんなことありませんよね。
ですから、この自己増殖という定義も、とても大雑把な定義と言えます。
そんな定義を導き出した時には、学者たちの視野には、ウィルスは入っていなかったのでしょう。
そのため、ウィルスをどう扱えばいいのかわからず、生物と非生物の中間などという、学者としては情けなくなるような、曖昧な表現しかできなくなるのです。
ウィルスとは何なのか、ということを真剣に考えると、生命とは何なのか、という問いの答えが、垣間見えるように思います。
生物に関する定義は、そろそろ書き換えてもいいのではないかと思うのですが、この定義はそのままにして、別の言い方を付け加えても、いいかもしれません。
従来の定義に従えば、細胞構造を持つものが生物であり、細胞構造を持たなければ非生物です。
ここで、生物=生命という考えを捨てて、生物型生命体、非生物型生命体、という表現にすれば、すっきりすると思うのですが、いかがでしょうか。
これであれば、ウィルスは非生物型生命体です。
また、ただの物質と表現される存在も、非生物型生命体です。
ウィルスを生命体と考えるのであれば、いわゆる物質を生命体を見なしても、問題はないと思います。
その線引きをするのは、難しいでしょう。
宇宙の全てが元々一つであり、それぞれの存在全てが、生命であると考えるならば、この表現の方が適切だと思います。
ウィルスは生物ではないけれど、生命体なのです。
オリンピックを見直そう その2
どうすれば、あるべき姿のオリンピックを、取り戻せるのでしょうか。
それには、選手を中心とした、スポーツを愛する人たちが、自ら動いて変革を求める必要があります。
今のオリンピックは、選手も観客も、みんな興行主任せで、完全に受け身の姿勢です。
オリンピックの在り方や運営に、人々の意見が反映されているとは思えません。
また、その状況を選手も観客も、当たり前のように受け入れています。
こんな状態であれば、興行主が好きなようにできるのは当たり前です。
これは、オリンピックに限らず、あらゆることに共通して言えることです。
一番わかりやすい例が、国の政治でしょう。
国民が黙っていれば、政府を仕切る者たちは、自分たちに都合のいいように動きます。
口ではきれい事を言っても、実際は人々のために動きません。
目立つためのパフォーマンスは大好きですが、本当に人々のためになるようなことは、余程のことがない限り、自分から進んではやりません。
今の政治が嫌ならば、国民の一人一人が動いて、自分たちの意思表示をする必要があります。
それでも、今の体制にしがみついている人や、恩恵を受けている人たちは、なかなか体制を変えることに、協力しようとはしません。
そういう人たちを動かすためには、暮らしの安定を示しながら、人間として生きることの大切さを、訴えるしかないでしょう。
この暮らしの安定というところは、とても重要でして、これがなければ、余程の信念を持っている人でない限り、話も聞いてもらえません。
オリンピックに話を戻すと、スポーツ選手たちの生活を、保証してあげることができなければ、今のオリンピックを改めるということは、簡単ではないと思います。
また、スポーツ選手だけ生活を保証するのか、という話にもなりますから、実はこれは、普段の人々の暮らしを、どうするのかという問題とも絡んでいるのです。
今のオリンピックや、スポーツ大会などで浮き上がる問題は、私たちの日常生活で、よく見られる問題でもあります。
個人的には無視したり、辛抱してやり過ごそうとしている問題が、スポーツという特殊な状況を通して、浮き彫りにされているのです。
自分のことであれば、声を上げずに済ませようとすることも、大好きな選手がつらい想いをしているとなると、黙ってはいられなくなるでしょう。
そして、それは自分自身の問題に対しても、声を上げて行くということに、つながるのです。
オリンピックは様々なスポーツ大会の、象徴的な存在ですが、人間社会の象徴でもあります。
そのオリンピックを変えて行こうという気運が、起こりつつありますが、それは人間社会を変えようという気運でもあるのです。
私はオリンピックは必ず変わると確信しています。
それは、私たちの社会も変わると、確信しているということです。
オリンピックを見直そう その1
オリンピックはスポーツの祭典であり、多くのスポーツ選手の憧れです。
しかし、そのオリンピックが今、大きく揺れています。
それは、みなさんご存知のように、来年早々に冬季の北京オリンピックを控えている中国が、新疆ウイグル自治区での、人権弾圧問題を抱えているからです。
これに対して、アメリカを中心に、イギリス、オーストラリア、カナダが、外交的ボイコットを決定しました。
日本も閣僚を送らない方針のようです。
その中国では、女子テニス選手の彭帥さんが、監禁脅迫を受けている疑いが、持たれています。
彭帥さんは、中国の元副首相に性的関係を迫られたと告白し、その直後からの行方がわからなくなっています。
しばらくして、映像やメールなどで安全が確認されたと、政府関係者が発表するのは、とても奇異に見えます。
これは誰だって、政府による圧力だと考えるでしょう。
仮に個人的な事件であるならば、逆に政府が動いて彭帥さんを保護し、生身の彭帥さんの姿を、公の前に見せるはずです。
彭帥さんに対する中国政府の姿勢は、自ら人権問題を認めているようなものでしょう。
これこそが中国なのだと、胸を張っているようにも思えます。
これに対して、女子プロテニス協会(WTA)は素早く、今後の中国での大会開催を中止すると発表しました。
女子テニス協会(WTA)は中国での大会によって、多くの収入を得ていたにもかかわらず、お金よりも人権が大切という姿勢を鮮明にしました。
一方、国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、中国政府の言い分を100%事実と受け止める姿勢を示し、女子テニス協会(WTA)とは対照的な姿勢を見せました。
また、男子テニス協会 (ATP) と国際テニス連盟 (ITF) は、WTAに追随しないで、中国での大会開催を継続する意思を示しました。
この姿勢の違いは、この問題は男には関係ないという考えや、多額の金のためならば、こんなのは些細な問題に過ぎないという見方によるものでしょう。
何か問題が起こった時、それぞれの本音が見えるものです。
しかし、選手個人の意見は別で、男子プロテニスプレイヤーのジョコビッチ選手は、親中派と見られているにもかかわらず、今回の事件に関して、このまま中国で大会を開催することに、異議を唱えています。
女子プロテニスプレイヤーで、元世界王者のシャラポワ選手も、女子テニス協会の英断を指示しています。
ドイツでは、ドイツのトップ選手らが組織する団体「アスリート・ドイツ」が、国際オリンピック委員会(IOC)に対して、彭帥さんが安全である証拠の提示と、独立機関による調査を要求したとされています。
まだ、動きとしては小さいですが、この動きは徐々に広がりを、見せて行くと思います。
ただ、大会への参加によって、生活の糧を得ている選手たちは、面と向かって大会主催者に、文句を言いにくいのも事実でしょう。
声を上げたくても、上げられない選手も多いに違いありません。
そこには、選手たちが大会という興行に、利用されているという現実があります。
全てのスポーツの大会を、選手たちが自ら運営する形にしていれば、このような問題への対処は、統一されると思います。
でも、今は大会主催者やスポンサーに、選手は命綱を握られている状態ですから、安定した地位を得た選手でなければ、なかなか発言はしにくいでしょう。
それでも、今の状況は異常です。
選手たちも、本当に幸せとは言えないと思います。
スポーツは誰のためにあるのか。
スポーツは何のためにあるのか。
今こそ、そこを見直す時期なのだと思います。
様々なスポーツ大会がある中で、オリンピックは群を抜いて、称賛と注目を集める大会です。
各スポーツの世界大会で優勝するのと、オリンピックで優勝するのでは、格が違うような雰囲気があります。
それは、世界中の国々が参加する、単なるスポーツ大会とは異なる意味が、あるからでしょう。
しかし、そのオリンピックもまた、世界的な興行に成り果ててしまい、開催国の名声のために、利用されています。
どんなに素晴らしい成績を出す選手でも、どんなに努力を積み重ねた選手でも、大会主催者にとっては、ただの駒に過ぎないように思えます。
そうでなければ、彭帥さんへの対応が、もっと違うものであったでしょう。
また、東京オリンピックでも、日本国民の神経を逆なでするような言動を、会長みずからが平然と行うところが、オリンピックが腐っている証拠です。
オリンピックは、全てのスポーツ世界大会の、模範となるべきものです。
そのオリンピックが腐っているから、他の大会もおかしなことに、なるのではないかと思います。
人々は、真のオリンピックを取り戻す必要があるでしょう。