恐れないで
何かを新しく始めることを、恐れないで下さい。
新しいことを始めたいと思うのは、あなたの心が新しいエネルギーを、取り込もうとしているのです。
人の心は好奇心と創造力に満ちています。
何かに興味を持ち、そこを深く追求したり、そこから新しいものを、生み出そうとするものです。
それが人間の本質であり、生きるということです。
新しいことを始められないのは、飼い殺しにされているのと同じです。
新しいことを始めないのは、生きることを諦めたのと同じです。
何か新しいことを始めたいと思うのは、同じことの繰り返しの中で、息が詰まっているからです。
息ができなければ、死んでしまいます。
それと同じ危機感を、心が感じているのです。
たとえば、見た目は同じことをしているようでも、こだわりや挑戦という気持ちがあれば、それは新しいことをしているのと同じです。
好奇心と創造力が発揮されているからです。
何か新しいことを始めようと思った時、あなたはその先に、喜びを感じているはずです。
その喜びに向かって動くことが、悪いわけがありません。
何も恐れず、思ったとおりに進んで下さい。
人と違うことをするのを、恐れないで下さい。
人と違うことをしようと思うのは、自分が他とは異なる存在だと、自分で認めているからです。
世界でただ一人存在している、自分というものの価値を、自分で認めているからなのです。
それは自分という個性を、示す行為であり、私はここにいます、と宣言しているのと同じです。
それは誰にでも平等に認められた権利であり、全ての存在が持つ性質です。
何でも他の人と同じでなければならない、という発想の方が間違っています。
そんなのは異常です。
不自然です。
自分が自分であることを示すのに、何も恐れる必要はありません。
けなそうとする人がいても、気にすることはないのです。
それは、その人の方が間違っているからです。
間違っている人の考えに、自分を合わせる必要はありません。
自分らしさを大切にし、自分がやりたいように、自分の人生を歩んで下さい。
幸せになることを、恐れないで下さい。
自分なんかが、幸せになれるわけがないと、考えるのは正しいことではありません。
それは、幸せというものを、とても特別なことだと、受け止め過ぎています。
幸せというものは、本来の自分であることを、誰に遠慮することなく、喜べることです。
本来の自分というものは、世界で唯一の個性を持つ、存在であると同時に、人間であり、生命です。
個としての喜び。
人としての喜び。
生命としての喜び。
これらの喜びが混じり合った全てを、誰に気兼ねすることなく、自分のものとして受け止められることが、幸せなのです。
そこには、やりたいようにできる喜びもあれば、他の人とのつながりの中で、感じられる喜びもあります。
また、自分と他の生き物との関係や、自分が自然や世界の一部だと、感じることの喜びもあります。
それらの喜びを、私たちは感じられるようになっています。
それが私たちの自然な状態であり、本来の姿なのです。
幸せになるということは、本来の自分になるということです。
何も恐れる必要はありません。
お金を稼げるとか、特技があるとか、人気があるとか、そんなことは一切関係ありません。
自分が自分でいられれば、人はそれを幸せだと感じるのです。
それは普通のことであり、自然なことですから、恐れる理由は一つもありません。
幸せを感じられないのは、本来の自分になれていない、ということです。
幸せになりたいというのは、本来の自分になりたい、という想いです。
世の中に蔓延する、誰かが勝手に作った価値観で、自分をがんじがらめにするのをやめて、本当の自分というものを、探ってみて下さい。
本当の自分というものを、感じてみて下さい。
感じることができれば、感じたままに生きてみて下さい。
その時、あなたは自分が幸せだと、理解することでしょう。
衣替え その3
今、世界中でこれまでの価値観が、大きく見直され始めています。
お金中心の生き方から、お金を目的としない生き方へ。
自分と他人の違いを探す生き方から、自分と他人の共通点を探す生き方へ。
比較や競争の生き方から、共存や共鳴の生き方へ。
緊張や不安の生き方から、喜びや希望の生き方へ。
世界全体が、人類全体が、今大きく変化しようとしています。
それは、全体の価値観が変化し始めているということです。
それでも、古い考え方でうまくやって来た人は、やはり古い考え方を、捨てきることができません。
あるいは、新しい考え方へ不安を感じる人は、保証がない限りは、古い考え方に留まろうとします。
しかし、世界全体が新しい考え方に変化する中、古い考え方に固執していると、どうなるのかは一目瞭然です。
世界全体が衣替えの季節になったのです。
古い世界の価値観から、新しい世界の価値観に、衣替えをしなくてはなりません。
快適に過ごしたければ、状況に応じた価値観を、持つ必要があるのです。
あなたはどんな価値観をお持ちでしょうか。
本当に充実した人生を送りたいのであれば、新しい世界に見合った価値観を、持たなくてなりません。
そのベースにあるのは、感謝と思いやりです。
普段、あまり考えないことかもしれませんが、一度見直して欲しいと思います。
衣替え その2
季節に応じて衣服を変えるように、時代や状況に応じて、考え方を変えるのは、人間としての成長にも関わる、大切なことです。
もう、世界中の人が地球は丸く、宇宙には地球以外にも、生命が宿っている星が、無数にあると知っています。
それなのに、未だに世界は平面だと信じていたり、この広大な宇宙の中で、知性体が存在するのは地球だけだと思い込むのは、知性体としての人間の成長を考えた時、成長が止まっているように見えるでしょう。
新しい考え方が見つかったのに、古い考え方にしがみつくのは、何か理由があると思います。
衣服でも、冬だからと言って、暖かい日でも、オーバーに身をくるんでいる人は、そのオーバが大好きだったおじいちゃんの、形見なのかもしれません。
あるいは、たとえ暑くても、オーバーにくるまれていると、安心感が得られるのかもしれません。
それと同じように、状況が変わっても、古い考え方を捨てられない人は、何か理由があるのだと思います。
ただ、本人がその理由に気づいていない場合もあるでしょう。
その場合は、どうしてそんな考えにこだわるのか、と聞かれても、その人はうまく答えることができず、うるさいと怒鳴りたくなるかもしれません。
もし、その人の考え方を変えたいと思う人がいたら、その人自身が気づいていない、その考え方へのこだわりの理由を、一緒に探る必要があります。
いつからそんな考えを持つようになったのか。
その時に、どんな状況で暮らしていたのか。
何か心に残るような出来事はなかったのか。
そんなことを探って行くと、その考え方にこだわる理由が見えて来るでしょう。
そして、本当にその人がこだわっているのは、その考え方ではなく、別の事柄にこだわっているということが、理解できると思います。
これは、自分の性格が嫌だと思うような人も、自分で行えるものです。
自分がどうしてそんな風に思うのか、そんな風に考えてしまうのか、その理由を自身で探ることができるのです。
そうすれば、きっと自分に起こった問題や、自分が経験した出来事を、思い出せるでしょう。
そして、ある考え方を変えるというのではなく、意識全体が大きく変わるという経験を、することになると思います。
人間の成長で言えば、一段上に上がることができるということです。
衣替え その1
寒くなると言われて、暖かい服装になったのに、またしばらく暖かくなって、用意していた厚着をやめる。
すると、また寒くなって、厚着を着るけど、また暖かくなる。
こんなことを繰り返すことが、毎年のようにあります。
昔と比べて季節感がなくなり、春と秋が短くなったように思います。
かと言って、夏にしても夏らしくなく、冬と言っても冬らしくない。
そんなどっちつかずの気候に、服をどうするのかと、右往左往させられてしまいます。
それでも、その日の天候に合わせて、面倒臭がらずに適切な衣服を選べば、快適に過ごすことは可能です。
もう夏だから、もう冬だからと、その日の状況に応じずに、薄着や厚着に決め込んでしまうと、とても居心地の悪いことになるでしょう。
このことは人間の持つ価値観にも、同じことが言えるのです。
昔は通じていた価値観が、今では通じなくなったということは、よくある話です。
それを最近の世の中や、最近の若者のせいにして、愚痴をこぼす人は、結構いるのではないでしょうか。
しかし、価値観も衣装と同じで、その時の状況に応じて、変える必要があるのです。
たとえば男が外で働いてお金を稼ぎ、女が家事をこなして子育てをする、という考え方は、昔はごく当たり前のものでした。
男の人も苦労はありましたが、女の人は男に従うしか生きる道がなく、男と比べると、自由を謳歌する余裕などありませんでした。
それでも、世の中みんながそんな考えで動いていましたから、それに逆らうことはできませんし、自ら男を支える生き方を、誇りを持って選ぶ人もいたようです。
しかし、今はこんな考え方は通じません。
まだまだ世の中は男尊女卑の構造ではありますが、女は家を守るものだなんて公言すれば、即座にセクハラ、パワハラと叩かれることでしょう。
今は基本的に、女性にも生きる道を選ぶ自由があります。
世の中の価値観が、昔とは大きく変わっているのです。
それなのに、古い価値観を手放せない人は、新しい世の中の流れについて行けず、かなりの苦労と不自由、不快感を味わうことになります。
これは、夏はこうだ、冬はこうだと言って、昔とは大きく変化した今の気候の中で、昔の衣替えにこだわる人は、大変な思いをするというのと同じです。
時代の流れを見極め、人々の好みや望みを理解する。
それができれば、価値観の衣替えはむずかしくありません。
ただ、他の人とのつながりを、重視していない人は、人は人、自分は自分だと言って、同じ価値観を持ち続けるかもしれません。
でも、それは本人の自由です。
その人が、それで居心地が悪くない、あるいは居心地が悪くても、我慢が出来るというのであれば、同じ価値観を抱き続けても、何も問題はありません。
しかし、他の人の気持ちを思いやれる人は、居心地が悪くなった価値観は、服を着替えるように、さらりと変えるのがいいと思います。
無観客 その3
通常、ゲームをしている時に、あなたは周囲の人たちの様子がわかります。
みんなは、あなたのゲームの進め方を眺めながら、いろいろ言います。
時には、うるさいから黙っていてくれよ、と言いたくなることもあるでしょう。
でも、最近出て来たような、3Dのバーチャル世界のゲームを、体験しているとすればどうでしょうか。
ゲームをしているあなたと、あなたを応援する人々の状況は同じです。
周囲の人たちは、あなたが体験していることを、確認することができるので、あなたの横でそれぞれが応援しています。
ところが、あなた自身は完全にゲームの世界に入っているので、本当は隣にいるはずの人々の姿を、認識することができません。
あなたは、たった一人でゲームの世界の出来事に、対処して行かなければならないのです。
それでも、あなたが間違った方向へ進もうとすると、見えない観客たちは、そうではないと大騒ぎをします。
その声は聞こえませんが、雰囲気だけはあなたに伝わり、何だかこの方向はまずそうだと、感じるのです。
正しい方向へ向かえば、見えない観客は、やんややんやの大声援を送ります。
もちろん、その声は聞こえませんが、あなたはこの方向で間違いないと、わくわくした気持ちになるでしょう。
こんな感じで、今、自分は独りぼっちだと思っても、実際は目に見えない観客たちが、あなたのすぐ近くで、あなたを応援してくれています。
人生というゲームをプレイしているのは、あなたですが、他の人たちも、あなたを通して、同じ人生を経験しているのです。
あなたの喜びや悲しみも、全て他の人たちに伝わり、それを共有するのです。
また、人生で何が起こっても、それはこのゲームの中だけのことだと、他の人たちは理解しています。
あなたがこの人生で、絶望しそうになっても、そこであきらめるなと、他の人たちはあなたを応援します。
あなたにとって、取り返しがつかないような失敗も、ゲームの外にいる人たちから見れば、それは重要ではないのです。
通常のゲームでは、ボスを倒すとか、難関を突破するなど、誰にも共通した目標が設定されています。
しかし、この人生というゲームは、目標はゲームに参加する各自が、独自に設定するのです。
人によって、人生はばらばらで、お金持ちもいれば、貧乏な人もいますし、スポーツが得意な人、音楽が好きな人、本が好きな人など、様々です。
どの人生が最高ということは、決められません。
最高の人生というのは、自分自身の人生を、初めの設定どおりに、歩むことができた場合を言うのです。
ですから、他人の人生をうらやむ必要はありませんし、自分の人生を卑下する理由もありません。
今の自分がどんな状況にあろうとも、見えない観客たちを意識して胸を張り、自分が選んだ人生を、最高の人生にするのです。
無観客 その2
日常の暮らしの中で、孤独を味わっている人は、少なくないでしょう。
本当に周囲に誰もいない人もいれば、大勢の人間に囲まれながらも、その中で孤独を感じている人もいると思います。
自分なんか、誰も見向いてくれない。
自分には、魅力なんて、これっぽっちもない。
自分の気持ちを知ってくれる人がいれば、どんなに楽しいことだろう。
こんな風に、独りぼっちであることを嘆き続け、こんな人生なんかいらないと、生きることをやめてしまう人もいます。
でも、ここで考えて見て下さい。
この世界が何であるのか。
人生とは何なのか。
それがわからないのに、世界や人生のことを、自分で勝手にこうだと決めつけて、捨ててしまうのは、もったいないことです。
世界はここだけ。
自分という存在は、今の自分だけ。
人生は一回こっきりで、死んだらおしまい。
世の中のルールは嫌いだけど、従わなければ生きていけない。
こんな考えや価値観を持っているから、自分は独りぼっちだと感じたり、生きて行くことに絶望するのではないでしょうか。
世界はここだけではない。
自分という存在は、今の自分を越えた、もっと大きなものだ。
人生は何度も繰り返され、死んでも、また生まれ変わる。
世の中の納得いかないルールには、無理に従わなくても構わない。
こう思えるようになれば、人生はもっと気楽なものになり、たとえ一人きりでいたとしても、孤独を感じることはないでしょう。
今の人生は、自分が体験する数多くの人生の中の、一つであると考えて下さい。
本当のあなたは、こことは別の所にいて、人生というゲームを体験しているのです。
家やゲームセンターでゲームをしている時に、仲間や周囲にいる人が、あなたを取り囲んで、あなたのゲームを眺めているところを、思い浮かべて下さい。
ある人は黙って見守るだけですが、別の人は、そうじゃない、こっちだなんて叫んだり、また別の人は、あなたがどういう状況にあろうと、しっかり、がんばれと励まし続けています。
そして、あなたがステージをクリアできれば、全ての人が拍手喝采をして、あなたを祝福するのです。
無観客 その1
試合や大会、コンサートやお芝居など、イベントには観客や聴衆が付きものです。
しかし、コロナ騒ぎの中、感染を恐れて、観客の数を制限したり、無観客にするということもありました。
コロナ感染者の数が減るにつれ、観客数の制限が撤廃されて来ましたが、オミクロン株の猛威が広がり、海外では再びロックダウンを行う所が出て来ました。
そうなれば、無観客どころか、イベント自体ができなくなります。
これまでも観客の声を聞けず、活躍の場を失った、多くのアスリートやミュージシャン、アーティストの方たちは、再び同じ状況になるのかと、戦々恐々としていることでしょう。
ひどい孤独感や、先々への不安に襲われて、精神的なダメージを受ける人も、いたと聞いています。
それでも、その方たちを応援する人たちは、実際にはたくさんいて、再び活躍を見せてもらえることを、心待ちにしているのです。
しかし、陰で応援してもらっているからと言っても、経済的困窮を救ってもらえるわけではありません。
そこは自分でいろいろ考えたり、工夫をする必要があります。
でも、それをするにしても、自分を待ってくれている人がいる、応援してくれている人がいるんだ、という想いが、あるかないかでは、全く違う結果になるでしょう。
これまでは、通常の流れに乗ってされいれば、全てが順調に行ったのかもしれませんが、今は自分の力で、状況を切り抜けて行くということが、求められているのです。
ここでいう自分の力とは、全くの自分一人の力でもいいのですが、仲間同士で協力し合うことも含みます。
自分の力、あるいは自分たちの力、ですね。
つまり、既存の道ではなく、新たな道を切り開くということであり、それが今の社会全体の様々な所で、求められているのです。
一つの場所で見つけた新しい道が、他の所でも活用できたり、別の場所ではそこから飛躍した、さらに新しい道が創られるかもしれません。
みんな、自分だけのことを、やっているように感じてしまうでしょうが、実際は社会全体で、それぞれの担当部署の改革を、任されているわけです。
独りぼっちでやっていると思うと、なかなかしんどいことも、顔も名前も知らない人同士で、協力し合いながら、新しい社会を創っているんだ、と考えると、やり甲斐が湧いて来るのではないでしょうか。
見えない所で、自分を応援してくれている人々の存在を、きちんと認識できれば、社会における自分の役割が、はっきりと見えて来ると思います。
実際の観客や聴衆がいないから、何もできないし、やったとしても、モチベーションが上がらない、などと言っているうちはだめです。
それでは、周りの状況に押し流されているだけで、自分の本当の力を、発揮しているとは言えません。
そこに人の姿がなくても、目には見えない、人々とのつながりを感じていれば、愚痴をこぼしたりしないで、今の自分にできることを、模索すると思います。
無観客の状況は、目に見えない人とのつながりを、再認識させてくれる機会だと言えるでしょう。
民間人 宇宙へ
実業家の前澤友作さんが、国際宇宙ステーション (ISS) での12日間の滞在を終えて、無事地球に帰還しました。
民間人で ISSに初めて滞在したのは、2001年 4月にアメリカ人実業家のデニス・チトーさん (60) が1週間滞在したのが初めてです。
デニスさんは22億円ものお金を、支払ったと言いますが、前澤さんはアシスタント役の平野陽三さんと二人で、100億円以上の旅費を使ったと言われています。
一人当たり50億円以上ですね。
民間人が宇宙へ行けるのも、この莫大なお金を支払う力が、あるからだとは言えるでしょう。
しかし、これからは宇宙旅行費はもっと安くなり、数千万円あれば、誰でも宇宙から地球を眺めることも、可能となるようです。
そうは言っても、数千万円という金額は、一般庶民に出せるものではありません。
庶民が宇宙から地球を眺められるのは、まだまだ先の話でしょう。
それでも、宇宙に出る民間人が増えるということは、すごいことだと思います。
しかも、こういうことができる人々は、社会を動かす力を持っています。
狭い地球で、どうでもいいことで争い続ける人間を、宇宙から眺めてどう思うのか。
恐らく、「何をやってるんだ、我々は」と思うに違いありません。
世界中の資産家が、自分たちのお金を、人類の成長に用いたならば、世の中はあっと言う間に変わってしまうでしょう。
彼らにはその力がありますし、そういう機会が与えられるのです。
もちろん、彼らがお金を使ったところで、人々がそれに従わなければ、何にもなりません。
また、彼らにはお金があっても、世の中をどうすべきかというビジョンが、必ずしもあるわけでもありません。
それを導くのは、庶民です。
庶民が日々の暮らしの中で得た経験や、他人を思いやる心を、彼らに示せば、そこから彼らが力の使い道を、考えることになるでしょう。
また、彼らは宇宙で得た高い視点から、人々に語りかけることができますから、みんなの固定観念や既成概念を打ち砕くのに、大きな力となるに違いありません。
もちろん、中にはもっとお金儲けをしようと考える人も、いるとは思います。
それでも、人々の気持ちを汲んで、みんなが暮らしやすい、平和な社会の実現に力を貸す人が現れたら、そちらの人が称賛されて、力を持つ人の模範とされるでしょう。
そうなると、力があるからと言って、自分勝手なことをする人は、居たたまれなくなるはずです。
前澤さんの宇宙旅行を、お金持ちの道楽だと、やっかむ人もいるでしょう。
しかし、彼が宇宙へ飛び出したのは、これから世の中が向かう大きな変化の、第一歩なのです。
自分はいったいどこを向いて、何を見て生きているのか。
一度、自分に問いかけてみて欲しいと思います。
人間は成長すると、その視点はより高く、より広い所へ向けられます。
また、自分自身を見つめ、自分をより深く見定めて行くのです。
そして、遥か遠くを見つめることと、自分の中を深く見つめることが、実は同じなのだと、いつか気づくことでしょう。
歴史文化財に思うこと その2
歴史文化財を後世に残すのだとすれば、人々がそこに歴史的な価値を、見出せなければなりません。
でも、これは歴史的に重要で価値があるものだ、と言ったところで、伝わるものではありません。
学校の歴史の授業が、単なる暗記になっているように、その言葉は覚えるかもしれませんが、そこに込められた意味までは、理解できないと思います。
歴史が自分たちにとって、どんな意味があるのか、という部分が欠落しているのです。
歴史というものに触れるのは、学校の授業が基本でしょうが、そこで歴史の意味や価値を、教えていないから、大人になっても、歴史に関心が持てなくなるのでしょう。
もちろん、個人的に歴史に興味を持つ子はいますが、ほとんどの子供は、歴史よりもゲームなどの遊びに、目を向けると思います。
歴史とは何なのか、どういう意味があるのか、という点において、行政に携わる人が、どれだけきちんと説明できるのだろうかと、考えてしまいます。
もし、きちんと説明できるのであれば、学校の授業で、それが実践されているのか、確認するべきでしょう。
大切なのは、古い建物ではなく、その建物があった時代に、自分たちと同じような人々が、暮らしていたという事実に、目を向けることです。
現在でも注目されるのは、有名な人ばかりですが、社会に存在する人間は、有名ではない人がほとんどです。
そういう人々によって、社会は形成されていますし、そんな人たち一人一人に、人生というドラマがあるのです。
それと同じように、有名な文化財が造られた時にも、有名でない人々が多く暮らし、一人一人が一生懸命に生きていたのです。
そんな人たちの暮らしや考え方が、その時代の文化となるのですから、これらの人々を無視して、歴史を知ったとは言えないでしょう。
たとえば、今から千年後の人たちが、アメリカ大統領や日本の総理大臣の名前や、業績を覚えただけで、今の時代を理解したと言えるでしょうか。
言えませんよね。
それと同じことです。
古い文化財の建物を見ただけでは、何もわかるはずがないのです。
建物はその時代へ案内してくれる、ツールに過ぎません。
しかし、別世界と言っても過言ではない、過去の時代に想いを馳せるのは、簡単なことではありません。
そのためには、まず他人の気持ちや立場を、思いやれないといけないでしょう。
身近な人たちのことを、思いやれないのであれば、過去の人々に想いを馳せるのなんて、無理な話です。
歴史を知るためには、まず身近なことから、知らなければならないのです。
全然関係ないことのように、思えるかもしれませんが、関係はあります。
現在も過去も、同じ時間軸の上にあるわけで、現在の人のことを考えるのも、過去の人のことを考えるのも、やることは同じです。
時間軸のどこに目を向けるかの、違いがあるだけです。
それは未来についても言えるわけで、未来の人々のことを思いやれるかどうかで、今の暮らし方や行動に、違いが出て来るでしょう。
歴史を考えるということは、今や未来を考えるのと、通じるところがあるなんて、面白いと思いませんか。
歴史文化財に思うこと その1
先日、松山市から後世に残したい、歴史文化財についての、アンケートが届きました。
20ほどの具体的な文化財が挙げられていて、それらについての想いや、文化財を残して行くための、松山市の取り組みについての感想などを、聞くものでしたが、それで歴史文化財について、ちょっと考えてみました。
このアンケートに限りませんが、歴史文化財など古いものについて、後世に残したいとか、未来に引き継いでいかねばならない、などという言葉を、よく耳にします。
言われてみると、確かにそうですねと思いたくなる話ではありますが、でも、こういう誰もが当たり前だと、思いたくなるようなことは、本当にそうなのかと、疑ってみる必要があります。
そもそも、何を残したいと言うのでしょうか。
よく言われるのは、何百年も昔に造られた物で、一度失われてしまうと、二度と戻すことはできないから、そこに価値があるということでしょう。
確かに、歴史を研究する人にとっては、大切な資料であり証拠ですから、それを残す必要性を強く感じると思います。
しかし、歴史の研究家でない人たちにとっては、ただの古い建造物に過ぎません。
これは五百年前に建てられたものです、と説明されても、へぇ、すごいですねと言って、それでおしまいです。
どこかの会社が面白い新商品を開発して、それをお披露目した時に、へぇ、すごいなぁと思うのと変わりません。
一般の人にとって、歴史建造物というものは、それほど重要なものではないのです。
形のない無形文化財と呼ばれるものについても、同じことが言えます。
いくら行政が文化財に指定しても、その価値は庶民にはわかりません。
庶民がわからないのであれば、その文化財を後世に伝え残して行くということは、容易ではないと思います。
それに対して、行政ができることと言えば、歴史文化財を観光の目玉にして、多くの観光客を呼び込もうということぐらいです。
そうすれば、歴史的な価値はよくわからなくても、自分たちが暮らす地域のシンボル的な物としては、一般の人も認識します。
それに、観光客が落とすお金で、地域経済が潤うというメリットがあります。
けれども、それがその文化財を後世に残す理由だとなると、ちょっとどうかなと思ってしまいます。
自分たちのシンボル的な、観光資源が失われると、経済的に大きな損失になるので、これを後世に残せるようにしましょう、ということですと、今一つ説得力に欠けてしまいます。
それに、お金に困らないのであれば、いらないということなのか、という話になるでしょう。
そうではありませんと言われるでしょうが、観光客を呼び込むために、文化財を残して行くという発想がある限り、却って後世に伝えるべきものが、見えなくなってしまうのではないかと思うのです。