神頼み その2
神というものを、どうとらえるかで、神頼みという言葉の意味は、変わって来ると思います。
普通は神さまというと、自分とは別の特別かつ何でもできる存在、という風にとらえているでしょう。
宇宙の真理、すなわち全ての存在の全体としての意識を、神だと考えるならば、全ての存在は神の分身です。
あなたも私も、神さまなのです。
人間であろうとなかろうと、存在するものは全て神の分身であり、それぞれの存在の経験は、神の経験でもあるわけです。
神は全ての存在を通じて、あらゆる体験をし、自らの中にある無限の可能性を、一つ一つ確かめているとも言えるでしょう。
私たちの人生も、その一つであり、神は私やあなたという存在を通して、一人の人間の生き方を経験しているのです。
あなたが何かを願う時、神社などの神さまにお願いしても、仕方がありません。
あなた自身が神の分身であるわけですから、神頼みをするのであれば、自分自身を頼みにするべきでしょう。
あなたは神の分身ですから、本気で願うのであれば、その願いは叶います。
叶わないのであれば、本気ではないのか、あきらめの気持ちがあるのか、先に学ぶべきことがあるのか、というところだと思います。
神の分身である自分は、この人生で何を体験したいのか、何を求めているのか、そこをよく見極めて、神の分身である自分が、本当に望んでいるとおりに生きるのであれば、その願いはきっと叶うでしょう。
神頼み その1
お正月になると、初詣に行きますよね。
そこで神さまに手を合わせ、健康や安産、商売繁盛や試験合格、恋愛や結婚など、様々なことをお願いします。
本気で願っている人が、どれほどいるのかはわかりませんが、軽い気持ちであるにしても、みなさん、神頼みをしているわけです。
でも、本気で願ったところで、どれほどの人の願いが、叶えられるのでしょうか。
自分が何かを望むのであれば、それに本気で取り組まないといけません。
行動は心の表れであり、本気で思っていることがあれば、それは行動として表れます。
本当はこうしたいんだけどねぇ、と言いながら、いろいろ理由をつけて、動こうとしないのは、本気で思っているとは言いません。
本気で思っていたならば、周囲の人が無理だと言っても、自分の望みに向かって、まっしぐらになるはずです。
神頼みをするというのは、望みに対しての自分の責任を、神さまに委託するものです。
それで、神さまが動いてくれればいいのですが、実際にはそうはなりません。
自分の望みは、自分で叶えるしかないのです。
また、他人のことを願う場合がありますよね。
お嫁さんの安産祈願とか、子供の受験合格とか、おばあちゃんの病気が治りますようにとか。
でも、その人の人生を決めるのは、やはりその人自身です。
その人に対して、手助けはできますが、最終的にその人のことを決めるのは、その人自身です。
ただ、その人のために祈る気持ちが、その人に通じたら、その人自身が自分の願いを叶える力を、後押しできると思います。
また、一人一人が人生から学ぶべきことは、それぞれ異なりますから、見た目に上手く行くことが、必ずしもその人にとって、必要とは限りません。
失敗や挫折から学ぶ必要があるならば、いくら願ったところで、その人が成功することはないでしょう。
いずれにしても、願いを叶えるのは自分自身であり、神さまではないのです。
それも、自分の人生に関わることだけです。
また、上手く行かない場合にも、そこから何かを学ぶようにしましょう。
学んでしまえば、同じ経験をする必要はありません。
失敗を繰り返すのであれば、学び取れていないことが、まだあるのかもしれませんが、そもそもその願いが、自分が心から求めているものでは、ないのかもしれません。
NHKのプロジェクトX
先日、NHKでプロジェクトXの再放送がありました。
久しぶりに見た映像は、昔のブラウン管のサイズで、画質も今のように鮮明ではありません。
また、映っている司会の人たちが、若い若い。
自分の中では、この番組はそんなに昔のようには思っていなかったのですが、相当古い番組になったようです。
それでも放送内容は、今でも通じる素晴らしいものでした。
と言うか、今だからこそ、改めて見る価値があるものだと思いました。
私が観たのは、まだ日本でパソコンが普及する前に、富士通がアメリカのIBMに対抗して、世界最速のコンピューターを、開発した話と、ビクターの窓際族になった人たちが、巻き返しを狙ってVHSビデオを開発した話です。
どちらも現場で働く技術者たちの、意気込みや心意気を見せてくれるものでした。
彼らはお金のために働くのではなく、自分たちが描いた夢を、実現するために働きました。
何かに感動すること、何かを創り出す喜びを、とても大切にしていました。
表向きには、富士通がすごいコンピューターを開発し、ビクターがVHSを世界基準にしたと言われています。
でも実際は、会社のトップは開発は無理だと判断し、中断させようとしたり、端からそんな開発など、眼中になかったのです。
それを実現したのは、現場の人間です。
いろいろ試行錯誤をしながら、新しい技術を開発し、会社のトップを説得し、他の企業をも巻き込んで、すごい物を世に出したのです。
会社がしたことではありません。
現場の名もなき人たちが、成し遂げたことなのです。
それなのに、今はどうでしょうか。
経営のためにリストラをして、現場の人間をどんどん切り捨ててしまいます。
残った人たちも、同じ給料で人が辞めた分、増えた仕事を押しつけられて、死ぬ思いです。
世の中に新しいものを生み出す、世の中に喜びを広げたい、そんな気持ちが、今の企業にあるのかと疑ってしまいます。
今の多くの企業が考えているのは、いかにお金を浮かせて、見かけの儲けを増やすのか、ということではないでしょうか。
ただ、収益を増やす、あるいは維持する、ということにばかり終始して、自分たちの存在意義を忘れているのではないでしょうか。
今の時期、NHKがこの番組を再放送したのは、そんな企業たちに対して、企業を立ち上げた頃の意気込みを、取り戻して欲しいという、思惑があったのかもしれません。
また、末端の現場で自信を失っている人々に、エールを送っていたのかもしれません。
自分なんか価値がない、自分なんか誰も評価してくれない。
そんな風に思ったなら、自分がプロジェクトXのメンバーだと、考えればいいと思います。
この番組には、必ずピンチが現れます。
ピンチや絶望がなければ、プロジェクトXには採用されません。
もうだめだと思った時は、よし、プロジェクトXだと思い、奮起して下さい。
必ずや、その成果は現れ、人生を充実したものへと、導いてくれるでしょう。
SDGsの広がり その2
2018年の調査では、17項目のうち、日本が達成できていたのは、「質の高い教育をみんなに」の1項目のみでした。
これは国としては情けないことでしょう。
周囲のことを考えない、身勝手で無責任な国だと、言われているようなものです。
それで日本はSDGsを推進するよう、動き出したのでしょうが、実際には日本の企業はSDGsに対して、どのように取り組んでいるのでしょうか。
SDGsについて、従業員に啓蒙を始めた所もあれば、まったく取り組んでいない所もあるでしょう。
しかし、従業員にSDGsを啓蒙しながら、その会社が従業員たちを、使い捨ての駒のように扱っている所も、あるのではないかと思います。
この場合のSDGsの啓蒙は、本当に従業員にSDGsを伝えるのが目的ではなく、自分たちの会社はSDGsに取り組んでいますと、外に対してアピールするためのものでしょう。
SDGsというと、難しいことに取り組むように思えますが、要は思いやりを持った生き方、働き方ができるのか、ということです。
自分さえよければ、相手はどうなっても構わない、という姿勢を持っているうちは、本当のSDGsを行えているとは言えません。
個人の行動は、その個人の意思で決まりますが、企業となると、経営陣の意思で決まります。
この経営陣が自分たちの地位や、儲けを守ることばかりを考えていると、従業員は大変な思いを強いられますし、世の中にとってもよくありません。
SDGsなんて、とんでもない話です。
こういう企業の存続が、許される環境があるうちは、なかなか状況は改善しないでしょう。
生まれ変わることができないのであれば、こういう企業はなくなってしまった方が、世の中のためだと思います。
そのためには、本気でSDGsを掲げる企業が、もっと増える必要があります。
そんな企業で働かない。
そんな企業の商品は買わない。
という人々の姿勢も重要だと思います。
SDGsとは、他人のためのように見えますが、自分自身のためでもあるのです。
思いやりのある社会を実現するために、SDGsは大きな足がかりになるでしょう。
SDGsの広がり その1
SDGs(エスディージーズ)とは、「Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)」の略称で、2015年に国連サミットで決められた、国際社会共通の目標です。
SDGsでは17の目標が掲げられています。
それは次のようなものです。
1 貧困をなくそう
2 飢餓をゼロに
3 すべての人に健康と福祉を
4 質の高い教育をみんなに
5 ジェンダー平等を実現しよう
6 安全な水とトイレを世界中に
7 エネルギーをみんなに そしてクリーンに
8 働きがいも 経済成長も
9 産業と技術革新の基盤をつくろう
10 人や国の不平等をなくそう
11 住み続けられるまちづくりを
12 つくる責任 つかう責任
13 気候変動に具体的な対策を
14 海の豊かさを守ろう
15 陸の豊かさも守ろう
16 平和と公正をすべての人に
17 パートナーシップで目標を達成しよう
SDGsの前には、MDGs(エムディージーズ)というものがありました。
SDGsは、2015年に達成期限を迎えたMDGsに代わる、新たな世界目標として定められたものです。
ちなみに、MDGsの目標は以下の8つです。
1 極度の貧困と飢餓の撲滅
2 初等教育の完全普及の達成
3 ジェンダー平等推進と女性の地位向上
4 乳幼児死亡率の削減
5 妊産婦の健康の改善
6 HIV/エイズ、マラリア、その他の疾病の蔓延の防止
7 環境の持続可能性確保
8 開発のためのグローバルなパートナーシップの推進
このMDGsは、先進国による途上国の支援を中心とする内容でした。
それに対して、SDGsは誰ひとり取り残さないことを目指し、先進国と途上国が一丸となって目標を達成するというものです。
そのためか、日本でもあちらこちらで、SDGsという言葉を耳にしますし、テレビでもSDGsについての啓蒙が行われています。
MDGsの時には、このような動きはありませんでした。
つまり、MDGsは政府やマスコミも、他人事のように見ていたのでしょう。
ところが、SDGsについては国としての義務、という認識に変わったようです。
その背景には、世界中を襲う異常気象や、もう見て見ぬふりができなくなった、様々な社会問題があります。
また、SDGsに取り組むことで、クリーンなイメージを作ろうという、企業の思惑もあるでしょう。
下心と言えば、下心ではあるのですが、動機はともかく、人類全体が同じ方向を向いて動き出した、という点は、大いに評価できることだと思います。
SDGsとは、要するに自分勝手なこと、自分さえよければいいという考えをやめて、他人や自然に対する思いやりを持ち、喜びを共有しようというものです。
初めは義務や責任、あるいは宣伝や経済的有利性などが、動き出すモチベーションになるでしょう。
しかし、やっているうちに、誰にとっても当たり前のことになってしまうと、いつの間にか素晴らしい社会が、生まれていたということになるのです。
17の項目を全部覚えて、それを実践するというのは、ややこしく難しいように見えますが、他人や自然への思いやりを持つ、ということに終始していれば、全てはうまく行くでしょう。
お金や注目とからめない その3
趣味でやっている間はよかったけれど、プロになったら上手くできなくなる、という話は時々耳にします。
それは、やりたいが、やらなくてはならないに、変わってしまったからです。
本人がそれに気づいていればいいのですが、気づいていなければ、何でできないのかと焦ってしまい、それを続けられなくなってしまうのです。
同じようなことは、いわゆるプロではない人にでも、十分に起こり得ます。
インターネットで得意なことを発表し続け、みんなに喜んでもらう人は、数え切れないほどいます。
この喜んでもらうという点に、焦点を合わせてしまうと、やりたいことをするのが一番ではなく、喜んでもらうことを、やらないといけない、ということが一番になります。
その人はそのために、いろいろ努力や工夫をしたり、勉強や調査をしたりするでしょう。
それで、やっていることを続けられるうちは、いいのです。
でも、発想自体が出て来なくなると、どんなに努力をしても、どんなに勉強をしても、結果には結び付きません。
こうなると、喜びや楽しさなんかは、感じられません。
あるいのは焦りと苦痛だけです。
これを避けるためには、初心を忘れないということが必要です。
お金儲けにつなげてもいいですし、みんなに教えて注目されることは、悪いことではありません。
ただ、そちらに意識の焦点を合わせてしまい、本来焦点を合わせるべき所が、ぼやけてしまうと、望むような結果は出ません。
言えるのは、初心を忘れるなということです。
お金や注目は悪ではありませんが、惑わされてしまいがちになります。
お金がなくても、注目されなくても、自分はこれが好きであり、これをやりたいんだという気持ちを、常にはっきりさせておくことが大切です。
お金や注目とからめない その2
音楽が好きで、楽器や歌の練習を始めたとか、仲間とバンドを組んだとか、そんな人は音楽に夢中でしょう。
絵が好きで、いろんな美術館巡りをするだけでなく、自分でも絵に挑戦し、描きたいと思ったものを、どんどん描く。
こんな人も、絵に夢中になっています。
数学や物理などが好きで、いろんなことを調べたり、新たな法則を見つけようとしている時、その研究をしている人は夢中です。
スポーツを始めて、それが楽しくて仕方がないという人も、そのスポーツに夢中です。
食べることが好きで、いろんな美味しい物を、自分で創作し始めた人は、料理に夢中になります。
どんなことでも、自分が興味を持ち、そこに喜びや楽しみを見出せると、その人はそれに夢中になるのです。
夢中になっている人の頭の中は、自分がやりたいことで、一杯になっています。
それでお金を儲けようとか、みんなの注目を集めようとか、余計なことは考えていません。
経済的に苦しくても、なかなか上手にできなくても、夢中になっている人は、そんなことで手を休めません。
しかし、自分が夢中になっていることで、お金が稼げたらいいなと、考えるようになるかもしれません。
確かに、やりたくないことで稼ぐより、やりたいことで稼げたらいいでしょう。
自分が夢中になっていることで、世間の注目を浴びたいとか、有名になりたいと考える人も、いるかもしれません。
せっかくの喜びや楽しさを、他の人にも知ってもらえればと思うのは、自然なことでしょう。
でも、夢中になっていることで、お金を稼いだり、注目を浴びるようになると、自分がやっている事に対して、それまでとは違う視点を、持つようになることがあります。
つまり、それまでは純粋に、楽しいからやっていたことなのに、お金を稼いだり、注目を浴びるためにはどうするか、と考えるようになる可能性が、あるということです。
目的が変わってしまうわけですね。
やりたくてやっていたはずが、お金や注目のために、やらなくてはならない、という姿勢に変わってしまうと、楽しいはずのことが、次第に苦痛になって行くでしょう。
また、今まで自然に湧いて来たアイデアや力が、急に出て来なくなって、焦ってしまうかもしれません。
下手をすれば、楽しかったはずのことが、すっかり嫌になって、やめてしまうことも有り得ます。
そうなると、人生に喜びをもたらしてくれるものを、手放すことになります。
それはとても残念なことですし、残された人生が暗いものになるかもしれません。
お金や注目とからめない その1
何かを始めようと思うのは、お金を稼ぐためかもしれません。
あるいは、他の人の注目を集めるためかもしれません。
この場合、始めようとしていることは、必ずしも興味がそそられるものとは、限らないでしょう。
みんながそれをやって、お金を稼いでいるから。
他の人から勧められたから、やってみることにした。
そんな理由で始めるのであれば、何をするのかということは、それほど重要ではないはずです。
絶対無理だというのでなければ、やってみようというぐらいの気持ちでしょう。
しかし、やってみると、案外自分に合っていたとか、思ったより面白いと感じる、ということはあると思います。
そういう人は、やってみてよかったと思うでしょうが、そんな人はそれほど多くはありません。
大抵の場合は、思っていたのと違うとか、結構大変だとか、できればやりたくないと、受け止めることになるでしょう。
それでもお金や注目のためだと思って、しんぼうする人もいますが、我慢できずにやめてしまったり、無理をして病気になったり、事故を起こしたりする人もいます。
いくらお金や注目が得られたとしても、それが嫌だと思っているなら、そんな仕事を続けることはできません。
仕事が続けられないのであれば、結局はお金も注目も、得られなくなるわけです。
これでは意味がありませんね。
つまり、仕事を決める順序としては、お金や注目を得る、ということを一番に持って来るのではなく、自分が続けられる仕事、もっと言えば、自分が興味を持てる仕事を、一番に考えることが肝要だということです。
Web小説を始めました
明けましておめでとうございます。
今日から令和4年という、新たな年を迎えます。
今年がどんな年になるのか、蓋を開けてみなければわかりませんが、新しい年に合わせて、Web小説の配信を始めることにしました。
サイトの名前は、「風のように ~ 風野陽二の本棚」です。
記念すべき第一作は、「野菊のかんざし」とう長編小説です。
舞台は大正時代の松山で、日露戦争で捕虜となったロシア兵と、日本人看護婦の間に生まれた娘が主人公です。
元々この小説は、10年ほど前に書いたものを、新たに加筆修正したもので、最近上映された、「ソローキンの見た桜」とか、松山の坊ちゃん劇場で上演された、「誓いのコイン」とは全く関係がありません。
サイトでは、当時の松山の状況を、写真付きで解説しています。
現代とは全然違う環境ですから、何も知らない人が読んだのでは、なかなかイメージがしにくいかもしれないと思って、解説をつけてみました。
解説だけ読んでも、当時のことがわかって、面白いと思います。
小説や昔の松山に興味がお有りの方は、ぜひのぞいてみて下さい。
「風のように ~ 風野陽二の本棚」はこちらです。
この一年を振り返って
この一年を振り返ると、思い浮かぶのは、コロナ騒ぎとオリンピックでしょうか。
しかし、コロナ騒ぎは二年前から始まっており、オリンピックも本来は去年行われるはずでした。
このブログを始めたのも、ちょうど日本でコロナ騒ぎが、広がり出した頃でしたので、一年を振り返るつもりが、二年を振り返っているように思えます。
異常気象に加え、コロナ騒ぎにより、移動を制限されていたからでしょう。
季節感が希薄で、コロナ騒ぎが始まって二年になるというのに、二年が過ぎたような実感はありません。
しかし、コロナ騒ぎが始まった頃は、国民みんながパニック状態でしたが、今は慣れてしまったようで、当初のような緊迫感はありません。
それをワクチンの影響だと言う人はいますが、実際、ワクチンは今のオミクロン株には、効いているようには見えません。
また、オミクロン株は感染力は強いものの、毒性は弱くなっているため、それほど恐ろしいとは、誰も思わなくなったような気がします。
逆に天然のワクチンを、広めてくれているようでもあり、政府やマスコミが作り上げた、コロナウィルスはモンスターだ、というイメージを、払拭しようとしているようにも見えます。
いずれにしても、オミクロン株は恐ろしいものであり、とにかくワクチンを、何度も打たねばならないという考え方は、何だかおかしいのではないかと、多くの人が思うようになっているのではないでしょうか。
コロナウィルスであろうとなかろうと、感染症を他の人に移すのは困るので、それぞれが他人への配慮をするということは、大切だと思います。
ワクチンは有効でなくても、この思いやりの精神があれば、ウィルスを抑え込むことはできるでしょうし、それこそがウィルスの目的ではないかと、考えたくなってしまいます。
実際、世界中で他人を思いやる人が、増えたと言えるでしょう。
また、政府を当てにするのではなく、自分たちで社会作りを始める動きが、始まったようにも思います。
まだまだお金や力が、支配的な世の中ですが、その支配力は次第に衰えています。
古い権力体制は、コロナウィルスのような騒ぎに、対処することができません。
そんな体制に、人々は見切りを付け始めているのです。
多くの混乱がありましたが、変革を求める動きが、始まった一年でもあったと思います。
そして、この動きは新たな年になると、さらに活発になって行くことでしょう。