東京の人口減少
住⺠基本台帳⼈⼝移動報告の 2021 年の結果を、総務省が公表しました。
新型コロナウイルスの影響でしょうが、2020 年、2021 年の国内⼈⼝移動の様子が、これまでとは大きく違っており、東京や東京圏での転入超過数が、大幅に下落しています。
ちなみに転入超過と言うのは、人口の転入数が転出数よりも多い状態です。
つまり、人口がそれだけ増加しているということですね。
転入超過数が減少するということは、人口増加度が以前よりも緩やかになるという意味で、転入超過数が0であれば、人口数が増えも減りもせずに同じということです。
転入超過数がマイナスになる場合、逆に転出超過数がプラスになるのですが、これは人口が減少していることを意味しています。
上の図を見ると、東京都も東京圏も、2019年の転出超過数から崖のような形で、2020年と2021年の転出超過数が、下がっていることがわかります。
東京圏で見ると、まだ転出超過数はプラスですが、東京都はほとんど0で、特別区に至ってはマイナスに転じています。
これまで東京の一極集中が問題視され続けていましたが、それがようやく変化し始めたというところでしょう。
行政ではできなかったことが、コロナの影響によって可能になったということですね。
東京の特別区から他の東京圏である、神奈川県・埼玉県・千葉県への転出が多かったそうですが、東京圏全体の転入超過数が、大幅に下がっていることを見ると、東京圏外への転出がかなり増えているということでしょう。
上の図を見ると、東京圏の転入超過数の多さが目立ちますが、それでも2020年と2021年を比べると、2021年の数値が東京では、がくんと下がっているのがわかると思います。
多くの地域では、転入超過数はマイナスですが、2021年のマイナス度が、2020年よりも減っている所が多くなっています。
それは転出する人間が減ったのか、転入する人間が増えたかの、どちらかです。
大阪の転入超過数も、かなり減っていることから、都会から地方都市への移住が、増えていると言えるでしょう。
これは、とても好ましいことであり、人々の価値観が大きく変わって来ていることが、見て取れます。
この傾向が今後も続き、地方を中心とした新たな生き方が、これからの社会を動かして行くことに、大いに期待したいと思いますし、きっとそうなることでしょう。
総務省の発表したグラフでは、世の中が大きく変化をし始めたということが、目に見えてわかるのがいいですね。
犯罪が伝えていること その4
犯罪を他人事のように思ったり、犯罪が起こる理由を、個人的なものだと決めつけてしまうと、犯罪をなくすことはできません。
悪い人間を片っ端から捕まえて、刑務所に放り込んでおきさえすれば、それで世の中は平和だと考えるならば、それは浅はかな考えです。
たとえば、癌という病気があります。
知らない間に癌細胞が増殖し、体のあちこちへ散らばって行くのです。
それを見つけて、片っ端から切除すればいいなんて言っていると、いずれその人は死ぬでしょう。
抗がん剤や放射線治療で、目に見えない癌細胞を、退治すればいいと思うかもしれません。
でも、これらの治療は体にもダメージを与えます。
そのダメージを乗り越えて、癌が治る人もいますが、それはその人が二度と癌にならないという意味ではありません。
癌細胞を抑える免疫力がなければ、他の癌が現れるかもしれません。
あるいは、癌以外の病気になる可能性もあるでしょう。
免疫力が落ちた理由が、日常の暮らしの在り方にあるのであれば、それを改善しないままだと、同じことが繰り返されます。
治ったつもりの病気が再発したり、別の病気で苦しむかもしれません。
患者の免疫力を上げる治療が、注目されていますが、それはその人が持つ本来の力を、引き出すということです。
つまり、本来の自然な力に頼るということですね。
しかし、これにしても一時的に免疫力を上げるだけであるならば、再び免疫力が落ちた時に、またもや病気になる可能性があるでしょう。
大切なのは、日々の暮らしの中で、いかに免疫力を維持するかということです。
病気と言うと、体にばかり目が向きがちですが、心の状態にも注目する必要があります。
病気を抱える人たちが、気持ちが塞いでしまうのは、誰にも理解ができるでしょう。
しかし、病気が発症する前の精神が、安定していたとは限りません。
見た目は普通の暮らしをしていても、心の中では不満を感じていたり、空しさを覚えていることもあるはずです。
精神面を軽視していると、心の歪みに気がつかず、体の病気以上に苦しむことになるかもしれません。
人間の体は病気にならないようにできています。
普段からその体の働きを、存分に発揮できるようにしていれば、病気にはならないでしょう。
何かの病気になった時には、必ずそれまでの暮らし方を、見直す必要があります。
それと同じで、人間が本来の人間らしさを存分に発揮して、社会を作ったならば、その社会では犯罪は起こりません。
犯罪が起こるということは、そこに社会の歪みがあるということです。
犯罪だけに注目していたのでは、本当の解決には至りません。
ただ、今の犯罪に見られる歪みは、思わずできた歪みではなく、計画的に作られた歪みです。
もちろん、犯罪を犯した人が、自分で作ったものではありません。
世の中を支配している者たちが、意図的に作った歪みです。
人々が将来に不安を感じるようにしたり、貧困の苦しみを味わわせることで、お金中心の世の中を、維持しようとしているのです。
みんなを支配するために、社会に優劣を作り、下へ行くほど苦しみが多くなるように、こういった歪みが作られています。
世界中の大金持ちは、資本主義が崩壊することを、誰より恐れているでしょう。
そんなことになれば自分たちが大変ですから、そうなると誰もが生きて行けないと、人々に思い込ませるのです。
経済社会の崩壊なんか有り得ないと思わせて、どんな問題が起ころうとも、まずは経済という発想が生まれます。
お金がなくても、人間が集まって助け合えば、どんなことでも可能だとは教えません。
人間がいて、物資があって、技術も知識もあって、困っている人を助けたいという気持ちがあるのに、お金がない、予算が組めないという理由で、今やるべきことが後回しにされてしまうことは、いくらでもあるのではないでしょうか。
人々がお金に縛られず、自分が持つ力を無償で提供する、国民全員がボランティアの社会ができれば、様々な問題は瞬く間に解決するでしょう。
困るのは、支配欲や優越感に凝り固まっている人々だけなのです。
犯罪が伝えていること その3
誰かを暴力によって傷つけたり、支配しようとする人がいます。
そのような人は、どうして暴力を振るうのでしょうか。
まず、誰かを支配しようというのは、自分自身に自信がないとか、居場所がないとか、他人に馬鹿にされたくないという想いが、潜んでいます。
他人の目など気にせずに、自分の好きなように暮らせる人は、誰かを支配しようなどとは思いません。
そんな必要はありませんし、そんな発想すら出ないでしょう。
お金があれば、お金で相手を支配することができます。
お金がなくても口が上手ければ、言葉で相手の自信を奪い取り、自分の方が立場が上だと、信じ込ませることで支配ができます。
しかし、お金もないし、理屈も苦手。
そんな時に、暴力が出ます。
いずれにしても、誰かを支配下において、自分の思い通りにしようと考える時、その人は自分に自信がありません。
世の中が自分の思い通りに行かないので、それを無理やり思い通りにしようとするのです。
どうして、自分が思ったとおりにならないのか。
そこには必ず理由があるはずです。
その理由を確かめて、自分の考えや行動を改めれば、動かないと思っていた世界が、動き始めます。
そのことを自分で理解できればいいのですが、理解できない場合は、誰かが教えてあげる必要があります。
他人を支配しようとしなくても、思ったように生きて行けます。
ところが社会そのものが、権力者が庶民を支配する構図になっていますから、なかなかこんな考えは、受け入れてもらえません。
子供が親の真似をするように、人間は社会の在り方に、自分を合わせようとします。
社会が他人を思いやる形になっていれば、誰かを支配したいと思う人は、自ずといなくなるでしょう。
犯罪が伝えていること その2
サイバー攻撃は身代金を要求します。
つまり、お金が欲しいのです。
他人になりすまして、その人のカード機能を使い、買い物をする人も、お金が欲しいのです。
泥棒や強盗が他人のお金を奪い取るのも、お金が欲しいからです。
と言うことは、お金が必要のない暮らしが実現できれば、このような犯罪は自然になくなるといことですね。
お金がない社会なんて、できるわけないだろうが、と言う人はいます。
でも、本当にそうなのか、真剣に考えてみて欲しいと思います。
遥か昔は、お金なんてなかったはずです。
それでも、人々は互いに助け合って生きて来ました。
お金は人類の歴史の途中で、何者かが取り入れたシステムに過ぎません。
便利かもしれませんが、絶対的なものではないのです。
昔から、周囲の人々を支配するという発想は、あったと思います。
動物の世界でも、力の強い雄が多くの雌や、食べ物のある縄張りを独占します。
力が衰えると、他の雄に全てを奪われてしまうのです。
人間も動物の一種ですから、そのような支配欲というものが、元々備わっていたのでしょう。
その支配欲にとって、お金は人々を支配するための、格好の手段なのです。
全てをお金によって、手に入れるシステムを構築しておけば、お金を多く持つ者が、世の中を支配できるわけです。
そこには必ず、支配する者と支配される者があります。
金持ちと貧乏人がいます。
全員が平等ということは有り得ません。
支配することが目的ですから、平等はあってはならないのです。
お金さえあれば、楽に生きて行ける。
お金さえあれば、何でもできる。
お金さえあれば、何も心配することはない。
こんな考えに洗脳された人々は、日夜お金稼ぎに精を出し、お金を必要としない暮らしがあるなんて、考えもしません。
このまま頑張り続ければ、何とかなると信じて、ずっと支配され続けるのです。
それでも、このままではどうにもならないと思う人は、いるわけです。
そんな、お金がないために苦労した人や、つらい想いをした人は、お金を手に入れるために、何でもしようと思うかもしれません。
たとえ、それが悪いことだとわかっていても、誰かを傷つけるとわかっていても、自分が生きて行くためには仕方がない、という理屈が生まれます。
そんな理屈が通るものかと言うならば、その人がそんな理屈を生まなくてもいいように、力を貸してやればいいのです。
しかし何でもかんでも、個人の責任で生きて行く世の中ですから、お金のない人が苦しんでいようと、そんなことには無頓着です。
その結果、自分の責任で生きて行く、自分にとっての正義は自分で決める、ということになり、様々な金銭目的の犯罪が生じるのです。
犯罪が伝えていること その1
サイバー攻撃による身代金請求の話や、盗んだ個人情報により、本人に成りすました購買の話が、テレビで報道されていました。
素人にはわからない、コンピューターの知識や技術を悪用し、一般の人とは異なる次元で起こっているような、途轍(とてつ)もない犯罪が、毎日のように行われています。
それを防ぐためには、個人的な注意も必要ですが、何かの登録先で情報を抜き取られてしまっては、個人では防ぎようがありません。
個人情報を扱う所は、セキュリティ対策を行わなければなりませんが、どんなセキュリティ技術も、それを上回るプログラム技術があれば、いとも簡単に避けることができます。
よく言われるように、イタチごっこで終わりというものがありません。
番組では視聴者に対して注意喚起を行っていましたが、注意喚起だけで解決する問題ではないのです。
サイバー攻撃だけでなく、通常の犯罪も、あとを絶ちません。
暴行や殺人、横領や泥棒など、他人を傷つけたり、他人の権利を奪うような話は、しょっちゅう耳にすることです。
法律上の犯罪とみなすかどうかは、地域性や程度の問題というものがあるでしょうが、差別やいじめ、虐待なども、他人を傷つけ、権利を奪うものです。
また広い意味では、苦しんでいる人がいて、それがわかっているのに、見て見ぬふりをするというのも、同じことでしょう。
何かしてあげたいけれど、どうすることもできないと、残念に思うことと、自分には全く関係のないことだと、無視するのとは違います。
残念に思いながら何もできない人は、目の前に行動を示す機会が訪れたら、必ず動きを見せます。
無視している人は、そんな機会が訪れても、見向きもしないでしょう。
犯罪という言葉は、人間が定義したものです。
この言葉を使って、やってはいけない行為や、あってはならない状況を説明しているわけですが、物事は簡単に線引きできるものではありません。
それを無理やり線引きして、犯罪か犯罪でないかを区別してしまうと、犯罪でないと定義された部分の、実は人々を傷つけるような事柄が、正当化されてしまいます。
悪意を持っている人は、そんな線引きの曖昧さを利用して、本当はしてはいけないことをしているのに、それが犯罪だと咎められない状況を、巧妙に作り出します。
悪いことをしているのは明らかなのに、それを取り締まる法律がないから、どうすることもできないという、間が抜けた話もよく聞きますよね。
普通は誰もやらないようなことなので、あえて法律という形を作らないだけなのに、そこを逆手に取って、法律に書いていないからと、大手を振って悪いことをする者がいるのです。
ありとあらゆる行為を、法律で取り締まろうとすると、その量は膨大なものとなり、専門家でさえも、その全てを頭に入れることは、難しくなるでしょう。
では、どうすれば犯罪を取り締まることが、できるのでしょうか。
まず、この犯罪を取り締まるとい考え方を、変えなければなりません。
犯罪は取り締まるのではなく、人が犯罪を起こさないようにすることが肝要です。
それは病気を治療するのではなく、病気にならないようにする、というのと同じです。
病気にならないためには、どうするのか。
病気になる理由を突き詰めて行き、そうならないようにするのです。
それは日常の暮らし方や、ものの考え方を、どうするかということです。
犯罪もこれと同じで、その人がどうしてそんな犯罪を、起こしてしまったのかという理由を、とことん調べて、その状況を改善しなければなりません。
そのためには、どんな犯罪も、個人的なものとはとらえずに、社会全体の問題として見る必要があるのです。
何もできないのか
またもや新型コロナ感染が広がり、世の中には自粛モードが漂っています。
これまで何度も外へ出るな、家にいろと言われて、遊びに出ることも、食事に行くことも、旅行も制限されて来ました。
その制限がようやく解除された、と思っていた矢先に、またもやコロナの拡大です。
今までと違うのは、オミクロン株は感染力は強いものの、毒性はそれほどでもなく、感染者の大半が、無症状か軽症であるということです。
言ってみれば、ただの風邪のようなものですが、新型コロナという名前がついているために、警戒を解くことができません。
理不尽に自由を奪われたように見える中、ちょっとした楽しみを見つける人も、出て来ています。
ずっと外食やコンビニ弁当などで、食事を済ませていた人が、自分で作る料理に挑戦して、結構ハマってしまう、ということがあります。
仕事ばかりしていた人が、子供の相手をするようになり、それが楽しくなったという人もいます。
芸術に目覚める人もいますし、読書や勉強を始める人もいます。
勉強と言っても、義務的なものではなく、自分が興味を持ったものを、好奇心を持って調べるというものです。
こんな感じで、自分の中に潜んでいた、それまで知らなかった楽しみや、生き方を見つけてしまうと、自粛が解かれたあとも、それが消えることはありません。
自由に動けるようになれば、自分の中に芽生えた新たな喜びが、爆発的に成長しようとするでしょう。
もう、以前のような暮らしには戻れません。
新しい喜び、新しい生き方を見つけた人は、自粛を求められる前の自分こそが、実は何もできていなかったと、気がつくのです。
憧れを行動に移そう
誰かに憧れることって、ありますよね。
あるいは、誰かというのではなく、誰かがやっている行動や行為に、憧れることもあるでしょう。
たとえば、大空を自由に飛んでみたいとか、イルカやクジラと一緒に泳いでみたいとか、いうものです。
ところで、野球のイチロー選手や大谷選手は、誰もがすごいなと思う選手です。
彼らに憧れる人は多いと思いますが、イチロー選手や大谷選手個人に憧れる人と、彼らのようなスーパースターになりたいと憧れる人、あるいは彼らの物事へ取り組む姿勢に憧れる人と、どんな所に憧れるのかは様々でしょう。
いずれにしても、憧れるということは、そこへ気持ちが惹かれているわけです。
あんな人になりたい、あんな人と友だちになりたい。
あんなことがしてみたい、こんなことができるようになりたい。
あそこへ行きたい、こういう所に住んでみたい。
憧れは、本当にいろいろです。
しかし、それぞれの憧れに共通して言えることがあります。
それは、今の自分にはないものが、そこにあるということです。
ただ、その憧れをモチベーションとして、自分の生き方や行動を、それまでとは違う方へ変えて行く人もいれば、憧れは憧れとして置いたまま、それまでと同じ暮らしを続ける人がいます。
どちらの生き方を選ぶかは、本人の自由であり、そこに優劣はありません。
でも、憧れたまま動かなければ、後悔を残すことになるかもしれません。
では、憧れに向かって行けば、悔やむことはないのかと言うと、そうでもありません。
憧れたものに向かって突き進んでも、必ずしも満足できるとは限りません。
憧れていた時には、わからなかったことを知るようになると、憧れの気持ちがしぼんでしまうこともあります。
田舎暮らしに憧れて、実際に田舎に移住したら、不便なことや人間関係で悩むことになった、という話は、よく聞く話です。
有名なスポーツ選手に憧れて、同じスポーツを始めてみたけれど、練習がきつくて続けられなかった、ということもあるでしょう。
幸せな結婚生活に憧れて、適当な人を見つけて一緒になったものの、思っていたような暮らしではなく、離婚を考えているということも、少なくないかもしれません。
憧れに従ったのに、結果的にはうまく行かなかった。
もう憧れなんかに従うものかと、思ってはいけません。
憧れに従って動くというのは、よさそうな服を見つけて、それを試着してみるのと同じです。
試着した姿を鏡で確かめて、これだと思う人もいれば、他の服も試してみようかな、と思う人もいます。
憧れに従ってみたけれど、思ったようなものではなかった、というのは、試着した服が思ったほどではなかった、というのと同じです。
いいも悪いもありません。
気に入らなければ、別の服を試着するだけのことです。
憧れも同じです。
うまく行かなかったとしても、そこに何か惹かれるものがあったのは事実です。
自分の好みの方向性を、わからせてもらえたことでは、一つも損はしていません。
損をしたと言うのであれば、気に入った服があるのに、試着すらしないであきらめる人でしょう。
つまり、何かに憧れているのに、自分には無理だとか、恥ずかしいからと言って、一つも憧れに近づこうとしないのは、損だということです。
自分の人生です。
誰に遠慮することもありません。
憧れから逃れていては、何が自分に合うのか、自分が何を求めているのか、わからなくなってしまいます。
憧れたことに挑戦したけれど、うまく行かなかったとしても、また挑戦すればいいのです。
初めの憧れがうまく行かなかったのは、そこについての情報や理解が、足らなかっただけのことです。
新たな憧れは、そこの所を踏まえたものになるでしょうから、うまく行く可能性は高まります。
それでもうまくいかなければ、どうなのか。
もう一度、憧れに従うだけのことです。
繰り返すにつれて、憧れの精度は高くなって行きます。
憧れに向かう本気度も、どんどん高くなって行きます。
失敗を恐れずに、憧れたものがあれば、どんどんそこへ近づいてみて下さい。
あ、いいなと思ったら、とにかくやってみることです。
憧れは、自分が何に惹かれるのかを、見極めさせてくれます。
それは人生の方向性であり、自分の生き様を示してくれるものです。
何かに憧れたなら、恥ずかしがらずに、その憧れを追求してみて下さい。
きっと、新しい生き方のヒントが見つかるでしょう。
世田谷区のリユース促進
まだ十分に使えるのに、もういらないからと捨ててしまうことって、ありますよね。
いらない物を捨てることに、何の抵抗感もない人もいる一方で、もったいないよなぁと思いながら、捨てるしかないからと思って捨てる人もいます。
中古の品を売買する店もありますが、商売をする立場から見ると、もったいないかどうかよりも、それが売れるかどうかという視点で、品定めをするでしょう。
せっかく持って行った品が、これは買い取れないからと言われて、持ち帰るという経験をすると、今度は持って行かずに捨ててしまうと思います。
しかし、儲けを考えるのではなく、これを使いたい人にあげますよ、という場があれば、引き取ってもらえる品は、いくらでもあるでしょう。
この場合、引き取る条件は、売れるかどうかではなく、使えるかどうかです。
また、使うというのも、必ずしも作動する物ということではなく、インテリアとしての価値があればいいわけです。
それをどう使うかは、商品を見に来た人が決めることです。
そんな場があれば楽しいだろうと思うのですが、実際に世田谷区がそういう場を設けました。
無駄なゴミを減らす取り組みとして、まだ使える物を、それを欲しいという人へ渡すというものです。
中古品として十分売れるという物には、少々の値段をつけていますが、欲しい人からすれば、格安の値段です。
また、値段をつけない0円の品もありますから、お金のない人は大助かりです。
出品した品の9割が、誰かの手に渡っているということですので、この事業は大成功と言えるでしょう。
世田谷区のこの取り組みは、今のところはゴミを減らす実証実験ということだそうですが、これだけ好評であれば、今後も本格的に行われると思います。
また同様の取り組みを、他の地方行政でも行うようになるでしょう。
この取り組みが日本中に広がれば、みんなのゴミに対する考え方が、変わって来るでしょうし、お金がなくてもやって行けるという、一つのモデルになると思います。
これは人々の助け合いという行動につながりますから、いらない物を必要な人に譲るということだけでなく、自分の持っている力を、助けを求めている人に、無償で提供するという、慈善行為へと発展して行くでしょう。
とても素晴らしい取り組みだと思います。
ミクロの世界の知恵
生き物の世界は、実に不思議です。
保護色も不思議ですし、貝が貝殻で身を守るのも不思議です。
昆虫をおびき寄せて食べてしまう植物も不思議ですし、空を飛べる鳥も不思議です。
言い出したら、きりがありませんが、そんな不思議がミクロの世界でもあります。
バクテリアと呼ばれる細菌とは別に、カビ・キノコ・酵母などを菌類と呼びます。
この菌類は、植物のように自分では養分を作れないので、腐葉土などに菌糸を伸ばして、そこから養分を摂取します。
そんな菌類の中に、線虫捕食菌というのがあります。
NHKで紹介していました。
この線虫捕食菌は、他の菌類と同じように、腐葉土などから養分を摂るのですが、線虫という目に見えない小さな細長い虫を、捕まえて食べたりもするのです。
その方法は、三つの細胞で作られた小さな輪で、線虫を捕らえるのです。
線虫捕食菌の本体の、所々にあるこの小さな輪の中を、線虫が潜り抜けようとすると、この輪がきゅっと縮まって、線虫を捕らえます。
そして、その線虫の中に菌糸を伸ばして、線虫から養分を吸い取るのです。
学者に言わせれば、何かの偶然に出来た細胞の輪が、たまたま線虫を捕らえるのに、役に立ったということでしょう。
しかし、ミクロの世界の生き物たちにも、人間にはわからないような意識や思考があり、ちゃんと目的を持った上で、自らの構造を変えたり、ある動きを取るのだと、私は考えています。
線虫捕食菌は、捕らえる獲物がどのような形態をしているのかを、理解しているからこそ、獲物の大きさにぴったりの輪を、作ることができたのでしょう。
とは言っても、それは人間が考えるような理解ではありません。
ミクロの生き物の理解とは、その生き物の集団意識あるいは全体意識でのものだと思います。
どのような意識が、周囲をどのように認識し、どう理解するかで、その生き物が感じている世界は、違って来るはずです。
同じ空間にいるはずなのですが、彼らが認識している世界は、人間が知る世界とは全然違うものでしょう。
それは菌類だけでなく、他の生き物全てに言えることです。
どの生き物も、自分たち独自の世界を生きているはずです。
たとえば、犬や猫が認識している人間という存在は、私たちが認識している人間とは、別のものなのです。
言い換えれば、私たちが唯一であると信じているこの世界も、人間が認識している世界に過ぎず、絶対的なものではないということです。
意識が違えば、認識する世界が異なるということは、私たちが世界の中にいるのではなく、世界の方が、私たちの中に存在しているということですね。
誰かが死んでも世界は残りますが、それは一個人の話です。
人類全体の集合意識の中に、私たちが暮らす世界が存在していると考えればいいのです。
そんなことを、微生物が教えてくれました。
夢をどう見るか その3
自分が夢を見ていても、普通はそれが夢だとは、気がつきません。
どうしてそこにいるのか知らないまま、夢の中の状況に応じて、喜んだり悲しんだり怖がったりするのです。
楽しい夢ならいいのですが、怖い夢や嫌な夢の場合、苦しんだりパニックになったりします。
しかし、それが夢だとわかっていれば、そこを切り抜けることができるのです。
自分が夢を見ていると、わかっている夢のことを、明晰夢と言います。
そんなに数多く見るわけではありませんが、誰しも一度や二度は、見たことがあるのではないでしょうか。
これは夢だなとわかっていれば、それは自分が思い描くイメージと変わりませんから、状況を変えることが可能となります。
逃げ道がないと思っていたはずが、空を飛べるようになったり、小さな抜け穴を通り抜けられるようになったりできるのです。
怖いと思っていた相手を、やっつけることもできますし、相手の気持ちを理解して、仲間になることもできます。
明晰夢でなければ、何もわからないまま、夢の中の世界の状況に、黙って従うしかありません。
それは現実の世界でも同じです。
自分は無力で、世の中に対してどうすることもできないと、信じ込んでいると、悪夢のような混乱した状況に巻き込まれて、苦しむことになってしまいます。
明晰夢で自分の思ったとおりに動くように、この世界でも、自分の思ったとおりに動くことができれば、悩んだり苦しんだりすることはないでしょう。
自分が思ったように、自由に生きることができるのです。
でも、どうすればそんなことができるのでしょうか。
自分が夢を見ていると理解するというのは、夢の中で設定された状況が、絶対的なものではなく、自分で好きなように変更できる、と知ることなのです。
現実世界で人々から自由を奪い、束縛しているものは何でしょうか。
それは誰かが勝手に決めた、ルールや価値観です。
自分が知らない所で、いつの間にか設定されていた、本来は自分とは関係のない、ルールや価値観です。
それらのルールや価値観に従わなければ、この世界では生きていけないと、多くの人が信じ込まされています。
しかも大抵の場合、そのルールや価値観に従うと、ほとんどの人が自分は無力で無価値なのだと、考えざるを得なくなるのです。
それはおかしい、そんなルールや価値観なんていらないや、と考えられるようになった人は、様々な束縛から逃れて、自由に生きることができるようになります。
それはちょうど夢が夢であると理解して、自由に空を飛べるようになるのと同じです。
人が世界をどのように認識し、どのように理解するのか。
それはその人の価値観で決まります。
他人から押しつけられた価値観ではなく、自分自身の感覚で生きることができれば、どれほど人生は楽しいことでしょう。
お前に何ができる、お前なんか無力で無価値だ。
そんな言葉など好きなように言わせながら、思う存分自由に生きるのです。
人生は自分を表すキャンバスです。
実際に、そのように生きている人は、いくらでもいます。
そんな人たちを特別だと考えず、その人たちにできるのであれば、自分にだってできるはずだと考えるのです。
彼らは周囲の人に、自由に生きるお手本を示してくれています。
現実に対する固定観念を打ち壊し、自由を手に入れることだけが、今の現状を抜け出せる唯一の方法です。
私が見た中東のイメージの夢は、そんなことを教えてくれていたのです。