世界で唯一の存在 その4
宇宙はビッグバンで生まれたと考えられていますが、そうであるならば、この宇宙の全ての存在は、同じ所から生まれて来たと言えます。
また、世界にはこの宇宙だけでなく、限りない数の宇宙が、パラレルワールドとして存在しており、その全てが、やはり一つの存在から生まれたのだと、考えることができるでしょう。
いずれにしても、全ての存在は兄弟姉妹であり、家族なのです。
そこには、人間が考えるような価値観はありません。
存在する必要がないのであれば、初めから存在していないでしょうし、どんな存在であれ、世界の一部であり、時空間の一部を成しています。
その存在をなくしてしまうと、世界そのものが成り立たなくなってしまうでしょう。
つまり、誰から何を言われようが、誰からどう見られようが、価値のない人は存在しないということです。
同じように、価値のない生き物は存在しませんし、価値のない場所もありません。
価値がないように思えるのは、そう思う人が無知なだけです。
今は生命の神秘が、遺伝子の中にあると考えられていますが、かつては遺伝子の集まりである細胞核が、その存在意義が理解できず、細胞の中のジャンクなものと見られていたそうです。
これは明らかに、当時の学者たちの無知を、意味しています。
自分には理解ができなくても、そこに存在している以上、必ず意味があると考えることが大切だという、いい事例でしょう。
自分にどんな価値があるのか。
そんなことを考える人の立ち位置は、人間が勝手に作った価値観の上にあります。
人間に、それも一部の人間に、都合がいい価値観の上に立ち、自分にどんな価値があるのかと、考えているわけです。
自分ではない人に、都合よく作られた価値観を元にして、自分を判断したならば、ほとんどの人が、自分には価値がないという結論に、導かれるでしょう。
そして、それこそがその価値観を作った者たちの、思惑なのです。
自分に自信がない者は、何かにすがる必要があります。
そのすがる相手は、宗教であったり、お金であったりするわけです。
人種差別などの歪んだ考え方も、自分に自信がないものが、すがってしまうものです。
差別をなくすには、差別がいけないことであるのを、教えるだけでなく、本人に自信を持たせるようにする必要があるでしょう。
見た目は違っても、自分がここにいるということが、自分には価値があるという証です。
それは人間が考える価値ではありません。
世界を創造した、大元の存在の価値であり、それは同時に、自分がその大元の分身であるという意味でもあります。
この大元の存在を、神という言葉に置き換えてみて下さい。
そうすると、全ての存在は神の分身ということになります。
あなたも私も、動物も植物も、空も水も大地も風も、全てが神の分身なのです。
そう、あなたは神の分身であり、何も恥じる必要はありません。
どんな状況にあっても、あなたの価値が失われるということはないのです。
そのことを忘れず、今ここにいるということを、思う存分に味わって欲しいと思います。
世界で唯一の存在 その3
自分を否定しがちな人は、どうしてそう思いたくなるのか、考えてみてください。
親に叱られた。
先生に相手にしてもらえない。
友だちがいない。
誰かに否定された。
何をやっても上手くできない。
他人に迷惑ばかりかけてしまう。
他にもあるでしょうが、大体はこんなところでしょうか。
しかし、これらは全て、自分が暮らしている環境や地域における、人々の価値観や考え方が、関わっていることです。
そして、それらの価値観や考え方は、どこでも通用する絶対的なものではなく、地域限定のものです。
正しいか正しくないかではなく、その地域で当たり前になっている、価値観あるいは考え方ということですね。
ただ、その地域で生まれ育った人は、外の世界を知りません。
どこへ行っても、同じようなものだと、勝手に思い込んでしまうのです。
この考え方を変えるためには、外の世界を体験してみることでしょう。
外へ出ることに気が引けるのだとすると、それは単に、自分が臆病だということです。
また、知りもしないのに、外の世界もこうだと、勝手に決めつける傲慢さが、あるということです。
自分は傲慢な人間じゃないと思うのであれば、思い切って外の世界へ出てみましょう。
そうすれば、場所によって人々の考え方が、全く違うということが、理解できるはずです。
自分がいた所では、否定されていたことが、違う所では、否定されないかもしれません。
むしろ、賞賛されることもあると思います。
自分には友だちがいないと思っていたのに、気がつけば、気を許せる仲間がたくさんできた、ということだってあるでしょう。
何かを失敗しても、それを悪いことだと考えない人は、いくらでもいます。
そういう人たちと一緒にいれば、自分を否定することが、馬鹿馬鹿しくなります。
自分を認め、他の人のことも認めると、世の中が多様性に満ちていて、それがとても楽しく美しいものだと、気づかされるでしょう。
自分も世界の一部であり、自分が自分でいるだけで、十分なのだと知ることになるのです。
自分を否定したくなったなら、新しいことに挑戦するとか、知らない所へ行ってみるなど、自分に新しい世界を体験させましょう。
それは、どんな立派な本を読んだり、どんな立派な先生の話を聞くよりも、確実にあなたに自信を取り戻させてくれると思います。
世界で唯一の存在 その2
誰かのことを、生きる価値がないとか、こんな奴は死んだらいいのに、とか言う人がいます。
その対象となっている人は、反社会的な行動によって、人々に大きな不安を与えた人かもしれません。
しかし、そうではない人に対しても、単に自分が気に入らないという理由で、その人の価値を頭から否定しようとする人がいます。
いわゆるイジメや虐待ですね。
子供の社会でもありますが、大人の社会でもあります。
どうしてこんなことが起こるのでしょうか。
実は、他人の価値を否定する人は、その人自身が自分の価値を認めていないのです。
自分なんか全然大した人間じゃない。
これから先、無事に生きて行けるのか自信がない。
誰も助けてくれない世の中で、何かが起こった時には、どうすればいいのかわからない。
お金や地位、権力、あるいは特別な才能や、コネ、助けてくれる人などが、備わっている人はいいけれど、自分にはそんなものは何一つない。
何事もないように暮らしていても、このような不安を、常に胸の中に抱えている人が、自分の気持ちを安定させようとして、他人の価値を否定してしまうのです。
誰かを否定することで、相対的に自分の価値を、見い出そうとするのですね。
否定される方には、もしかしたら否定する方が憧れる、何かがあるのかもしれません。
それをねたんで否定するということは、あると思います。
自分にないものを持っている者がいると、自信のない者は、その人を否定するか、逆になびこうとします。
自分に自信がある人は、自分にないものを持っている人を尊敬し、その人を自分と対等か、それ以上の存在として扱います。
誰がどんなものを備えていようと、それはその人の人生の一部であり、その人の個性の表れなのです。
一人一人が違うということを、理解している人は、相手を世界で唯一無二の存在だと認めますし、同時に自分のことも、世界で唯一無二の存在だと受け止めています。
誰かに否定されて、自分に自信を失う人は、相手が無知なだけであり、自分で自分を否定する必要はないのだと、いうことを理解して欲しいと思います。
また、誰かを否定してしまう人は、自分が自信がないということを、素直に認めて、その考え方が間違っているということを、理解して欲しいと思います。
双方が自分を認め、自信あふれる明るい人生を、手にすることができたなら、世の中はどれほど素晴らしいものになるでしょうか。
世界で唯一の存在 その1
道ばたに咲く花だって、足下に落ちている石ころだって、同じ物はありません。
似ているように見えても、どれも違うものです。
同じ品種、同じ性質だと、人間が位置づけても、それぞれに存在するものは別物です。
また、そこにどんな価値があるのかを、人間が決めつけることはできません。
何故なら、その存在を人間が創ったわけではないからです。
人間は自分が利用できないものに対しては、価値を認めようとしません。
また、自分が理解できないものに対しても、価値を認めません。
そもそも価値という概念自体が、人間が損得勘定の下で作ったものです。
生物が生きて行くために、自分に必要なものに惹かれるのは当然です。
人間が生きて行くために、必要なものに興味が引かれるのも、当たり前のことです。
必要でないものには目を向けません。
これも当たり前です。
ただ、ここで必要なものに価値あり、必要でないものに価値なしという、概念を引っ付けてしまうのが、人間の悪いところです。
結局、価値があるのかないのかという考え方は、個人を基準とした概念であり、絶対的なものではありません。
つまり、その人の勝手な言い分、自己中心的な考えに過ぎないのです。
政府による有機農業支援
日本政府は、環境に配慮した農林水産業の推進を目指し、「みどりの食料システム法案」を閣議決定した、という報道がありました。
その内容は、化学農薬を使わない有機農業に取り組む生産者や、環境負荷が少ない技術開発を進める食品事業者の認定制度を創設し、税金を軽減するなどして支援することが柱だそうです。
現在の通常国会で成立させて、年内に施行する予定だということです。
2018年の有機農業の農地面積は、全体の0.5パーセントしかありませんでしたが、それを2050年には25パーセントにするというのが、農林水産省の戦略だそうです。
また、2050年までに、化学農薬の使用量を5割減らすということです。
これまで有機農業が広がらなかったのは、化学肥料や農薬を販売しているJAが、有機農業に消極的だったからです。
しかし、世界では有機農産物の売上高が、この10年間で倍増しており、日本も有機農業に力を入れねばとなったようです。
ただ有機農業と言っても、化学肥料の代わりに使う、有機肥料がどのように作られるのか、という点は重要です。
そこに多くの化学物質が混入していたのでは、有機肥料という名前の化学肥料を、使用することになるからです。
また、農薬を減らすという話も、作物を遺伝子組み換えにより操作して、作物の性質を変えてしまうことを考えているのであれば、それが本当に安全でいいことなのかも、検証する必要があるでしょう。
本当は自然栽培が一番いいのですが、現状ではその普及は、難しいようです。
それでも、まずは有機農業推進へ、政府が舵を取ったことは、小さいけれど大きな一歩だと思います。
国民が安全で美味しい作物を望めば、政府が計画しているよりも、もっと急速に有機農業は広がりを見せるでしょう。
また、それに併せて、自然栽培も広がって行くと思います。
ポイントは、みんながどこまで安全な食べ物を求めるか、ということであり、より安全な食べ物を望む人が増えれば、いずれは自然栽培が有機農業に、取って代わることになるでしょう。
政府が物事を動かしているように見えますが、本当は私たち国民が動かしているのです。
そこを理解して、安全な食作りが広まるよう、私たちも協力して行きたいと思います。
アメーバに感染する細菌
東京理科大学野田キャンパスの池から、新種のバクテリアが見つかったという記事がありました。
これは細菌より大きなアメーバに感染する細菌で、宿主の細胞外では生きていけない珍しい種類の仲間だそうです。
つまり、常にアメーバの中で暮らし、生きるも死ぬもアメーバと一緒ということです。
感染によって、宿主であるアメーバを死滅させては、自らも死滅してしまうので、アメーバとの共生が重要になるわけですね。
ところで、多くの生物の細胞の中には、ミトコンドリアという小器官があります。
ミトコンドリアは酸素を使ったエネルギー産生に関わっています。
ミトコンドリアがあることで、細胞は多くのエネルギーを利用することができるのです。
細胞核の遺伝子とは別に、ミトコンドリアの中にも遺伝子があり、細胞が分裂する時に、ミトコンドリアも複製されて、それぞれの細胞の中に維持され続けます。
このミトコンドリアは、元々細胞にあったものではなく、遥か昔に細胞の中に入り込んだ、ある種の細菌が、細胞と共生するうちに、細胞の一部へと変化したのではないかと考えられています。
このアメーバに感染する細菌は、このミトコンドリアの始まりを、示してくれているように思えます。
目立たない記事でしたが、進化の在り方を垣間見せてもらったみたいで、とても興味深い話でした。
自己認識ができる魚
以前に、ミラーテスト(鏡像自己認知テスト)の話を、記事に載せました。
それは、動物に麻酔をかけて眠らせている間に、その動物が自分では見られない部分に、色を塗ったりステッカーを貼っておき、意識が戻った動物に鏡を見せて、その反応を見るというテストです。
鏡に映る姿を、自分だと認識しているのかというテストです。
自分だと認識している動物は、自分に余計な物がついていることを、鏡で認識して、それを取ろうとするそうです。
このテストの結果、多くの動物が、鏡の中にいるのが、自分だとは認識できていないそうです。
認識できた動物は、イルカとシャチ、ボノボとチンパンジーとオランウータン、ゾウ、カササギ、そして魚のホンソメワケベラと書かれてありました。
これに対して、自分だと認識できなかったのが、多くのサルたち、アシカ、パンダ、イヌ、オウム、カラス、タコだそうです。
知性が高いと言われる、多くのサルや犬、カラスやタコには、鏡の自分がわからないのに、魚のホンソメワケベラはわかると言うのが、へぇという感じでした。
ところが今回、大阪市立大学の研究グループが、このホンソメワケベラを使って、同様のテストをした結果、やはりホンソメワケベラは、自分を認識しているようだという、研究結果を発表しました。
研究グループは、ホンソメワケベラの喉の部分に、寄生虫に似た茶色のマークを付けたあと、鏡を置いてホンソメワケベラの動きを観察しました。
すると魚は鏡を見たあと、ブロックに喉をこすりつけ、マークを取ろうとしたそうです。
魚にどうやって麻酔をかけるのかはわかりませんが、もし魚がマークを付けられたことで、その部分に違和感を覚えて、それをこすり取ろうとしたのであれば、鏡には関係なく、そうするでしょう。
しかし、鏡を見たあとで、そのような行動を起こしたのだとすると、それは鏡でそのマークを認識したからこそ、それを取ろうとしたのだと考えられます。
また、研究グループによると、他の色のマークではこうした動きはしなかったそうです。
つまり、魚はマークを取ろうとしたのではなく、寄生虫を取ろうとしたということなのでしょう。
とても興味深い研究結果だと思います。
サルや犬などの、知性の高い動物では、認識できないことが、知性が低いと思われるホンソメワケベラで、認識できたということは、人間が考えるところの知性の高さと、鏡の自分を認識する能力とは、比例しないということですね。
やはり知性の高いイルカやシャチ、チンパンジーやオランウータン、ゾウなどは、鏡の自分を認識したと言いますし、ホンソメワケベラ以外の魚が、認識したとは言われませんから、いわゆる知性とは関係ないのかもしれません。
あるいは、鏡に映っているのが自分だとわかっていても、その姿に何かが付いていることに、無頓着なだけかもしれません。
そうであれば、このテスト自体が、意味をなさなくなってしまうでしょう。
ただ、いずれにしても魚の中で、明らかに鏡に映った自分を認識しているものが、いるということは、とても興味深いことであり、小さな生き物であるという理由で、それが劣った存在であるとは、決めつけることはできないということです。
事実は人間が知らないだけで、目に見えないような生き物であっても、機械的に動いているのではなく、それぞれの知性や心があるということだと思います。
玩具を使いこなそう その3
スマホにはいろんな機能がついています。
パソコンにも様々なプログラムが入っています。
それらの全ての機能やプログラムに、精通している人は、もちろんいるでしょうが、私が言うスマホやパソコンを使いこなすというのは、そういう意味ではありません。
その中にある、今の自分にとって必要な機能やプログラム、自分が興味を惹かれる機能やプログラムを、使いこなすという意味です。
また、それぞれの機能やプログラムにおいても、さらに細かく、どんなことができるのか、という作業の違いがあります。
いきなり全ての作業を覚えるなんて、なかなかできませんし、自分にとって、全ての作業が必要であるとは限りません。
これにしても、今の自分にとって、必要な所だけを抜き出して、それを使いこなすということです。
どの部分が自分に必要なのか、そこにどんな働きがあるのかは、使ってみないとわからないでしょう。
そういう意味では、使えるものは、とにかく試しに使ってみるといいでしょう。
その上で、これはいいなとか、これはいらないな、という感じで、今の自分に必要な部分を、選択していけばいいのです。
あるいは、取り敢えずわかっている範囲で、自分がやりたい所だけ、やってみるのもいいでしょう。
その上で、こんなこともできればいいなとか、こういう機能があれば便利なんだけど、と思った時に、それについて調べてみればいいのです。
そうやって、一段一段階段を上って行くように、知識や経験が積み重ねられて行くうちに、それを使いこなせるようになるのです。
また、使いこなせるようになるのは、もちろん楽しいことですが、そうやって一つ一つ覚えて行く過程が、とてもわくわくして面白いですね。
ちなみに、私は今、作曲のためのプログラムを勉強中です。
メロディーの他、背景に流れる、様々な楽器の演奏について、一つ一つ音を選んで、それぞれの音を変化させたり、強弱をつけたりと、作業としては地道でコツコツとしたものです。
興味がない人がすれば、絶対に途中で投げ出したくなるでしょう。
でも、仕上がりをイメージして、そこへ一歩ずつ近づいて行くと思うと、とてもいい気分です。
大きな山を、一歩ずつ登って行くような感じでしょうか。
今はまだ、道や登り方を覚えている段階ですが、頭の中には、山の中腹を颯爽と登っている、自分の姿があるのです。
どんなことでも、それと同じで、自分がそれを楽しんでいるイメージと、今の自分をそのイメージに合わせる作業を、楽しむということが、途中で嫌にならずに、楽しみ続けるコツではないかと思います。
みなさんも、ぜひ何か楽しむものを、見つけて下さい。
玩具を使いこなそう その2
自分が楽しめる玩具って、何だろうと考えた時、多くの人が思い浮かべるのは、スマホかもしれません。
スマホはポケットサイズのコンピューターです。
電話やメールだけでなく、写真や動画を撮ったり、計算をしたり、絵を描いたり、小説を書いたり、音楽を創ったりと、いろんなことができます。
でも、形を持たない玩具もあります。
それは言語です。
たとえば、外国語は馴染みのない日本人にとっては、ちんぷんかんぷんでしょう。
英語はだいぶわかる人が増えましたが、それでもわからない人の方が大半です。
英語以外の外国語となると、何が何やらさっぱりわかりません。
同じ日本の言葉でも、地方の言葉は、外国語なみにむずかしいものもあります。
そんな言語だからこそ、きちんと学んで使いこなせれば、相手との意思疎通を楽しむことができますし、相手と一緒に何かを行うこともできるようになります。
言葉がわからないと、なかなかそうは行きませんね。
他の言語を知るということは、そこの文化を知ることでもあり、それ自体が楽しいことです。
つまり、知らない言語は、その言語に興味を持つ人にとっては、玩具と同じです。
玩具を使いこなす、つまり、その言語を使いこなせるようになると、その先には、その言語を使うことによって、初めて成し遂げられる、大きな楽しみが待っているのです。
しかし、そんな楽しみがない人や、そもそも言語に興味がない人に、無理やり言語を覚えさせようとしても、苦痛なだけです。
みんなが勉強しているのだから、自分も勉強しないとだめだ、という理由だけでは、なかなか言語習得の上達は望めないでしょう。
それよりも、言葉が通じない人と、コミュニケーションを取ることで、新たな世界を体験したいという気持ちが、持てるようになることが先にあるべきです。
今の日本では、子供の英語教育に力を入れているようですが、日常で英語を使わない環境の下で、試験のためだけに英語を教えるのは、全くもって無駄なことです。
本当に英語を教えたいのであれば、日常の中で英語を使える環境を、整えてやるべきでしょう。
子供たちが自然に、英語を使って相手と喋りたいという状況を、作ってやらねばなりません。
国や人種、民族などの違いを乗り越えて、同じ一人の人間として、相手と向き合い、共に何かを成し遂げよう、という気持ちにさせることができれば、放って置いても、子供たちは勝手に英語を喋られるようになるでしょう。
英語だけでなく、いろんな国の言葉を喋るようにも、なると思います。
そんな世の中って、すごいと思いませんか。
そんな世の中を創るためにも、自分にとっての玩具を見つけ、それを使いこなすようになるのは、とても重要なことなのです。
玩具を使いこなそう その1
子供は玩具が大好きです。
玩具と言っても、親が買い与える物とは限りません。
地面に落ちている小枝や石ころだって、子供には玩具になるのです。
どうしてそんな物が、玩具になるのでしょうか。
子供は面白い物は、素直に面白いと思います。
妙な理屈をこねたりしませんし、他人にどう思われるかも気になりません。
自分が面白いと思ったことは、飽きるまで何度も楽しもうとします。
その対象となるものは、子供にとっては全てが玩具です。
子供は成長するにつれて、玩具も単純な物から、複雑な物を好むようになって行きます。
いろいろ工夫することで、玩具の使い道や、新たな創造につながるならば、より一層、その玩具にのめり込んで行きます。
たとえば、パソコンのプログラミングを、大人は子供の勉強と見るかもしれませんが、子供にとっては遊びです。
簡単なプログラミングから、複雑なプログラミングを覚えて行くと、いずれはとても大きなすごいプログラムを、作りたくなるでしょう。
それは宇宙船を動かすようなものかもしれませんし、ロボットを操作するものかもしれません。
あるいは現在あるものよりも、より本物らしいバーチャル世界を創るものかもしれません。
そこには、その子供の夢があり、パソコンもプログラミングも、その夢を現実にするための、手段なのです。
そんな子供を大人が見ると、その子供はパソコンを使いこなしている、プログラミングを使いこなしていると思うでしょう。
つまり、何かを使いこなすというのは、その人にとって、その何かは玩具であるわけです。
そして、その人の心の中には、その玩具を使って、最高の遊びをしようという想いがあるのです。
その想いがない人に、あの人がやっているのだから、君もやらなくてはだめだとか、この人にできるんだから、あなたにだってできるはずよ、なんて言っても、できるわけがないのです。
そんなことよりも、本人にとって玩具になるものを、見つけることが先決です。
玩具というのは、その人が楽しめる何かです。
そんな玩具を見つけたならば、その玩具を徹底的に楽しみ、それを使って、もっと楽しめるような工夫をすればいいのです。
本人が楽しいのはもちろんですが、そこに引っ張られる他の人たちも、やはり楽しい気持ちになれるでしょう。
仕事中毒になるのではなく、そんな玩具を見つけて楽しむことが、人生を豊かにさせ、他の人と人生を分かち合える社会を、築くことができるのです。