本当にあるのは心だけ その1
精神と物質という表現があります。
これは精神と物質は別物だという発想に、基づいているものです。
この考え方の基盤にあるものは、心と体の関係でしょう。
人には誰にも心と体があります。
そのそれぞれを学問的な、少し堅い表現をしたものが、精神と物質なのです。
ところで、人間は自分たちに心があることは理解しても、人間以外の存在に、心あるいは心に匹敵する精神が、本当に存在しているのかがわかりません。
犬や猫など、身近な動物には心があるだろうと、推測はするものの、本当のところはわからないと見るのが、理屈だけで物事を図ろうとする学者です。
学者の中には、心とは優れた人間の脳だけが創り出せるものだと、考える人がいるのです。
動物にも脳はありますが、人間のように心を産み出せるほどには、発達していないという理屈です。
しかし、ペットを飼っている人にとって、犬や猫に心があるのは当然であり、心があるかないかと議論すること自体が、無意味であり馬鹿馬鹿しいことでしょう。
それでも学者の中には、心があるように見えているだけで、本当はないと考える人がいるのです。
でも、ペットに心があると認めている人も、魚や昆虫に心があるのかと言われると、懐疑的になるかもしれません。
日本のことわざには、一寸の虫にも五分の魂というものがありますが、昔の人は、あらゆる物に心が宿っていると見ていました。
魚や昆虫ばかりでなく、草花や樹木にも、そして山や海にも心があると考えていましたし、自分たちが作った道具にさえ、心が宿ると思っていました。
だから、長年使って来た道具を、お寺で供養してもらったりするのです。
今の学者から見れば、昔の人は物を知らない者ばかりだと、考えるでしょう。
でも、本当に物を知らないのは、知ったかぶりをしている、自分の方かもしれないのです。
脳が心を創り出していると考える人は、心というものを物質的に説明しなければなりません。
蜃気楼のような現象は、物質的に説明ができます。
心を同じような現象だと言うのであれば、物質的にそれを説明できるはずです。
ところが実際は、それを説明できる人はいません。
心がこんな活動をしている時に、脳のこの部分が活発になっている、というようなことしか言えないのです。
でも、これは脳が心を創っている証拠にはなりません。
単に心と脳の関係性を示しているに過ぎないのです。
物質的に説明できないのであれば、素直に心は物質ではない存在だと認めるべきです。
そして、物質ではない存在があるのであれば、それが人間にしかないという、不自然で偏った考えを捨てないといけません。
これは、無限に広がる宇宙の中で、知性を持つ生物は、地球人だけだという考え方と同じです。
理性を持って考えたならば、いかに馬鹿げたことを言っているのか、誰にでもわかるでしょう。
人間が心を持っている以上、他の生き物たちにも心はあるわけで、昔の人が考えたように、あらゆるものには心が宿っていると見る方が、真実に近いと思います。
正義の裏に見え隠れする差別 その2
ウクライナには、他の国からも多くの人が、留学生あるいは労働者として暮らしています。
これらの人たちが、ウクライナの人たちと同じように、国外へ逃げようとした時、アフリカやインド、エジプトの人たちなどの外国人が、電車やバスに乗ろうとするのを、ウクライナの国境警備隊が許さなかったそうです。
逆らう者には、暴力をふるうのだと言います。
ウクライナの国民は救わなければならないが、外国人は死んでも構わないということでしょうか。
こんな考えの人間の国だと、手を差し伸べようという気持ちが、しぼんでしまうのではないかと思います。
ロシアに一方的に攻撃されているから、ロシアが悪で、ウクライナが正義、という構図ができていますが、本当に正義なのかと、疑いたくなる気持ちが起こります。
もちろん、現場の国境警備隊の人間が、勝手にやっていることかもしれません。
それでも、国の代表として動いている以上、そこの国がそうさせていると思われても、仕方がないでしょう。
とても残念なことです。
日本でもウクライナの避難民を受け入れると、岸田総理が表明しました。
また、難民と認められない者に対しても、人道上の配慮が求められる者に対しては、我が国への在留を認めると、林外務大臣が述べました。
ウクライナの人たちに手を差し伸べるのはいいことですが、えっ? と思った人は少なくないのではないでしょうか。
これまで日本は難民の受け入れに、とても厳格で、申請をしても認められることは、滅多にないというのが現状です。
それなのに、ウクライナの人たちに対しては、ほとんど無条件に受け入れるというのは、どういうことなのでしょうか。
これは欧米の動きに合わせたとしか、考えられないでしょう。
つまり、アメリカやヨーロッパから白い目で見られないように、というのが理由に違いありません。
しかし、これは明らかに差別です。
これまで難民申請をしながら、何度も拒まれた人や、泣く泣く自国へ送り返された人たち、その人たちを支援していた人々は、どう思うでしょうか。
とは言っても、ウクライナの人々を受け入れるな、と言うのではありません。
総理や外務大臣が言ったように、希望する人たちは、全員を助けてあげればいいと思います。
そして、それを今後の難民受け入れの条件の基準とすればいいのです。
白人を優遇し、有色人種を見下すというのは、絶対に許されることではありません。
基準は全ての人種に、共通のものとしなくてはいけないのです。
日本人、特に政治家は欧米に対して、大きなコンプレックスを持っているようです。
常に欧米の目を気にしていますし、自分で意見を述べる前に、まずは欧米の意見を確かめようとします。
全くもって情けない姿です。
欧米が白人主義的な差別をするのであれば、日本はそうではないというところを、見せてもらいたいものです。
日本こそが世界を引っ張って行くリーダーであると、それぐらい強い気構えを持って欲しいところです。
ただ、世界中の多くの人たちは、人間として戦争に反対し、人間としてウクライナにいる人たちを、助けようとしています。
彼らが心を寄せているのは、ウクライナ人だけではないでしょう。
ウクライナで暮らし、同じ危険な目に遭っている、外国人たちのことも心配しているはずです。
人間は大変なことが起こった時に、その本性を見せるものです。
今回のことは、単純なロシアとウクライナの問題ではなく、様々な問題が浮き彫りにされたと思います。
それらの問題を解決できるのは、愛の心しかないでしょう。
世界中の人々が見せてくれた、国境を越えた純粋な思いやりが、これからの世界を新しく創り直し、動かしていくものと期待しています。
正義の裏に見え隠れする差別 その1
ロシアによるウクライナへの侵攻は、多くの市民を難民にしています。
すでに100万人以上の難民が、国外へ脱出しており、隣国のポーランドでは、55万人の避難民を受け入れています。
他にも、ハンガリーで13万人、モルドバで10万人、スロバキアで8万人、他の国へ9万人と言われており、敵国であるロシアにも、5万人が逃げています。
ロシアに逃げた人たちは、親ロシア派の人たちなのでしょうね。
ところで、難民と言えば、シリア難民が記憶に新しいでしょう。
彼らは未だに難民生活を強いられています。
よりよい生活環境を求めて、ヨーロッパへ移動しようとしたものの、EUからこれ以上は受け入れられないと、拒否されていたことを覚えている方は、少なくないと思います。
実際、ヨーロッパの国々はそれぞれの事情が許す限り、彼らを受け入れて来ましたが、やはり限界が来たので、制限をしたのでしょう。
そこのところは理解できますが、今回、ウクライナから短期間に避難して来た人の数は、今の勢いで行くと、シリア難民の数を遙かに超えるだろうと言われています。
それなのに、こうして多くの難民を快く受け入れているのは、基本的には近隣諸国が同情的だからだと思います。
ところが、ブルガリアのキリル・ペトコフ首相は、次のように述べたと言います。
「これらの人々は、私たちが見てきた難民とは違います。彼らはヨーロッパ人なのです。知的で教養のある人々です。これは私たちが直面してきた難民の波とは違う。素性も過去もわからない、テロリストかもしれない人たちとは違うのです」
これは明らかに差別でしょう。
確かに難民に混ざって、テロリストやそれ以外の無法者が、入り込む可能性はあるでしょう。
しかし、それはウクライナの難民についても言えることです。
それに難民になった大半の人たちは、それがどこの国の人であれ、平和を愛する普通の暮らしをしていた人たちであり、その人々を見下した言葉はいただけません。
他にも、ウクライナの元次長検事デヴィッド・サクヴァレリゼ氏は、こう述べています。
「青い目とブロンドヘアーのヨーロッパ人が殺されているのを見ると、非常に感情的になる」
これはイギリスのBBCによるインタビューに応えたものですが、この言葉に対して、BBCの司会者は異議を唱えなかったそうです。
要は、白人であれば同情するが、白人でない者には同情しない、ということですね。
こういうことを考えるから、白人は信用ならないと、考える者が出て来るのです。
ただ、難民救援に携わっている、ほとんどの人々は、このような考えは持っていないと思います。
現場で打ちのめされた人々を、自分の目で目撃し、自分の手で触れた人は、そんなことは考えないでしょう。
何故、自分と同じ人間なのに、この人たちがこんな目に遭わねばならないのかと、こう考えるに違いありません。
ウクライナの人たちに、救いの手を差し伸べることは、正しいことだと思います。
しかし、その動機の中に、このような差別的な考えが潜んでいるのだとしたら、それは残念なことだと思います。
台無しにされたパラリンピック
北京オリンピックに続き、北京パラリンピックが開幕しました。
ところが、オリンピックとパラリンピックの間のわずかな期間に、ロシアが一方的にウクライナに侵攻を始めました。
国際社会が猛反対をする中、ロシアは攻撃をやめようとせず、未だに戦いは続いています。
その結果として、世界中がロシアを非難し、ロシアとの関係を絶ちました。
スポーツ界でもロシアの除外が広がり、パラリンピックへのロシア選手と、ロシアに協力したベラルーシの選手の参加が、開幕直前に禁止となりました。
これらの選手たちは、ウクライナと争っているわけではありませんが、国を代表するということなので、参加ができなくなったのです。
これに対して、スポーツと政治は別だとか、差別だという声も多数が挙がっていましたが、スポーツと政治は別だというのは、やはりきれい事でしょう。
多くの国がスポーツを、国の威厳を高める手段として用います。
オリンピックのメダルも、選手個人のものとしてではなく、どの国が何個獲得したか、という表現の方が重視されます。
また、メダルを取れば、帰国後に国から多大なる賞賛と、ご褒美がもらえるということで、がんばる選手も少なくないようです。
これではスポーツと政治が別だとは言えないでしょう。
国も選手も、初めからスポーツと政治を、一体化させて受け止めているわけですから、周りがスポーツと政治は別だからと言っても、空しく聞こえてしまいます。
本来、オリンピックもパラリンピックも平和の祭典です。
世界平和の象徴として行われるわけです。
それなのに、大会が開催されている陰で、この瞬間にも平然と殺し合いが行われているのであれば、平和の象徴なんて、とんだ茶番劇でしょう。
4年に一度しか行われませんから、それへの参加を目標にがんばって来た選手にとって、オリンピックもパラリンピックも、他の大会よりも特別であるのはわかります。
しかし、これらの大会が平和の象徴であることを理解するならば、この大会がどうあるべきなのかを、選手こそが中心となって、深く考えるべきでしょう。
本来の形で行われるのであれば、オリンピックもパラリンピックも、とても感動的なものだと思います。
ところが、実際は今回のロシアとウクライナの問題以外にも、様々な国際的な紛争や人権問題などが、大会の陰で行われて来ました。
ただ、それができるだけ表沙汰にならないようにしたり、気がつかないふりをして、大会を運営して来たわけです。
でも、今回のウクライナの問題は、さすがに目をつぶるわけには行かないようで、今回のような結果となったわけです。
実際、ロシアやベラルーシの選手が参加したとしても、大会の雰囲気は損なわれるでしょうが、これらの選手を排除したから、大会が本来の姿に戻ったかと言うと、そうではありません。
争った国を排除するのであれば、これまでの大会でも、そうするべきでした。
また、争っている国を支援したり、擁護する国も同罪ですから、やはり排除するべきだったと思います。
いずれにしても、気の毒なのは選手たちです。
どんな形であれ、今回の大会は台無しになったのは間違いありません。
ただ、これまでの大会が本当に成功だったのかと言うと、そこにも問題が潜んでいたと思います。
オリンピックもパラリンピックも、平和の祭典であるとするならば、世界中で争いがない時に、その証として行うべきだと思います。
もしどこかで紛争や迫害が行われたならば、それが解決できるまでは、大会は無期限延期とするべきです。
スポーツと政治は別物だからと言って、どこかで行われている殺人行為と、自分たちは無関係だとする態度は、やはり正しくないでしょう。
スポーツ選手であろうとなかろうと、それぞれの立場で、それらの問題について考え、それに見合った行動を見せるべきだと思います。
何故なら、行動こそが思考が物質的に表現されたものだからです。
思っていたのに何もしなかった、というのは、思っていなかったのと、同じ意味です。
ただの言い訳に過ぎません。
自分の意見が正しいのかどうかは別にして、自分はこう思うと言うのであれば、それに見合った行動を見せるべきです。
争いを止めたいのであれば、それによって自分が損をするかもしれなくても、その意思を表現しないといけません。
その結果、争いなんて関係ないよ、ということで、スポーツに夢中になるのであれば、それはその人の勝手です。
しかし、そういう人たちに対して、周囲が白い目を向けたとしても、それもまた、その人たちの勝手であり、文句を言うことはできません。
自分の言動には、必ずそれに応じた結果が伴います。
何をしようと自由ですが、自由には結果と責任が伴うということです。
今の自分が自分でいられるのは、周囲の支えがあるからだと理解するならば、また、自分と遠く離れている人々の協力があるからだと理解するならば、それらの人々が困っている時に、どうするのかということは、自ずとわかることでしょう。
いずれにしても、オリンピックもパラリンピックも素晴らしいイベントだと思います。
これらの大会の素晴らしさを、本当に輝かせるため、大会の意義と、大会を開催するために、どうすればいいのかを、世界中の人が考える時が訪れたのです。
狂気の支配者 その2
今のプーチンが正気でないというのは、誰もがわかると思いますが、そもそも戦争を起こそうという者たちは、みんな狂っています。
それぞれに言い分があり、それぞれが正義を掲げるでしょうが、それは狂った言い分であり、狂った正義です。
また、争う者たちの一方だけが狂っているとは限らず、どちらも狂っているということは、いくらでもあることです。
これまで自国が何らかの戦争や、紛争に関わったことがあるという人は、その戦争や紛争で、自国に正義があったのかを、検証してみるといいでしょう。
正義を口にする時、そこには自分や自分の国を、責めて欲しくないという気持ちが働いています。
その時点で、真実を探ろうとする考えは、かなり抑えられてしまうのです。
これは国ではなく、個人的なことと通じることです。
狂った者がいたとしても、普通はその人物が勝手に狂ってしまったとか、何か事情があったのかもしれないが、それは自分には関係ないと考えるでしょう。
狂った者は異常者で、自分は健常者だと、線引きをしてしまいます。
言葉を換えれば、狂った者は悪で、自分は正義だと考えるわけです。
でも、もしかしたら自分の何でもない普段の暮らし方の中に、その人物を狂気へ追いやる原因の一つが、隠れているのかもしれません。
ちょっとした思いやりがあれば、その人物を狂気に走らせることを、防げたかもしれないわけです。
しかし、自分には関係のないことだと決めつけてしまうと、同じような狂った者が、次々に現れるでしょう。
その原因がどこにあるのか、それをみんなが理解するまで、同じことが続くのです。
それと同じように、支配者が狂うのにも理由がありますし、狂った者が支配者でい続けることができるのにも、それなりの理由があります。
また、支配者は本当は狂っていても、一見したところは、普通の紳士に見えるかもしれません。
本当にその人を知っているのならともかく、一般の者が知る支配者の姿というのは、全体のごく一部であり、実際の姿はわからないものです。
ただ、誰が支配者であっても、その人物は自分一人で何もできません。
その人物に権限や支配力を与えているのは、他の者たちです。
いわば、その人物をみんなが利用して、そこで甘い汁を吸おうとするわけです。
人間の本来の自然な姿を比べてみるならば、この者たちも狂っていると言えるでしょう。
こういう人たちは、どこの国にも掃いて捨てるほどいるものです。
そして、こういう人たちを中心に、人間社会は構築されて来たわけです。
今回のロシアとウクライナの争いで、誰が悪いと個人的に責任を追及することが、これから起こって来るでしょう。
しかし、本当に検証すべきなのは、誰がその人たちに権限を与えていたのか、という点です。
これには、一見何の罪もないと思われる人の多くが、関わっているはずです。
ロシアとウクライナの争いは、地球の反対側でのことだから、日本には直接関係ないや、と思う人がいるならば、それは間違いです。
向こうで起こることは、こちらでも起こります。
起こってから慌てるのではなく、どうしてそういうことになるのか、その原因が日常生活の中に潜んでいないのか、それを探ることはとても重要なことだと思います。
狂気の支配者 その1
ロシアのプーチン政権が、隣国ウクライナに侵攻して、一週間以上が過ぎました。
ウクライナはヨーロッパに助けを求めていましたが、NATOへの加盟は認めてもらえず、同盟国ではないという理由で、各国が直接支援の軍隊を派遣することもありません。
それでも、あまりにも理不尽な状況に、世界中で平和と戦争の中止を求める声が上がり、地球上を大きなウェイブが、うねり続けています。
このうねりは各国の首脳をも巻き込み、何とかウクライナを支援しようと、多くの国が立ち上がっています。
また、ロシア国内でも若者を中心に、戦争の即時中止を求めるデモが、連日起こっています。
どうしてこの戦争が起こってしまったのかと、その責任を追及しようとする声もありますが、今はまずこの無益な争いを止めることが先決でしょう。
責任の追及はそのあとで十分です。
ウクライナの予想外の抵抗や、世界中からの総スカンを食らって、プーチン政権は思惑が外れたようです。
中国との裏でのやり取りで、ウクライナの併合は、北京オリンピックと北京パラリンピックの間の、数日で済ませるという約束がなされていたようですが、思わぬ反撃で計画が大幅に狂ったようです。
このまま侵攻を続ければ、北京パラリンピックにも重なってしまい、中国の顔に泥を塗ることになりますが、それでもロシア軍は攻撃の手を緩めません。
世界中からの経済制裁で、ただでも大変な国民の生活が、さらに困窮し始めたというのに、プーチン政権は気にも留めていない様子です。
けれども、たとえウクライナを掌握したとしても、待っているのは国家の経済破綻であり、ロシアという国の崩壊でしょう。
それなのに戦いをやめようとせず、核爆弾の使用までちらつかせて、他の国々を威嚇するのは、正気の沙汰とは言えません。
プーチンの様子がおかしく、冷静な判断ができなくなっているようなのは、他の国々の首脳たちも気がついているようです。
その原因が何なのかはわかりませんが、とにかくまともな話が通じない状態にあるのは、間違いないでしょう。
そして、そんな狂った支配者が、核爆弾を使用する権限を握っているわけです。
これこそが、核兵器の弱点であり、本当の恐ろしさでしょう。
核兵器はあくまでも威嚇であり、本当に使うことはない、というのが、各国の考え方です。
もし使えば、使った方もやり返されて、生き残れる国など存在しなくなるからです。
ですから、核兵器は絵に描いた餅であり、使うことができない兵器のはずでした。
しかし、プーチンはそれを、これは絵に描いた餅ではなく、本物の餅だぞと主張したわけです。
もはや、核兵器は威嚇手段だという論理は、成立しなくなったのです。
日本でも、心療内科の入り口に石油を撒いて、そこに火をつけた男がいました。
その炎で多くの人が亡くなりましたが、男が火をつけた理由は、相手への恨みではなく、自殺への道連れだったと言います。
今のプーチンがやろうとしていることは、この狂った男と同じように見えてしまいます。
自分があってこそのロシアであり、自分が滅びるのであれば、そんなロシアに存在価値はない、とでも考えているような言動ですね。
ウクライナがどうなるかということに加え、核戦争が起こるのか、という不安や心配を、世界中の人々が抱いていることでしょう。
しかし、私は人々の平和を求める、心の強さが勝つと理解しています。
プーチンがこれ以上暴走する前に、今、ロシアにいる誰かが、これを止めることになるでしょう。
それが唯一の解決手段であり、また必ずそうなることでもあると思います。
世界に暴力はいりません。
他の人々への感謝と思いやりこそが、今の地球で求められていることです。
自分さえよければいいという人や、誰かを見下すような人たちは、これからの世界では求められていません。
ましてや狂った支配者など、どこにも居場所はありません。
それは、今の世界中の人々の様子を見ていれば、明らかなことでしょう。
お笑いの夢 その3
このお笑いの夢、実は今の人間社会を示しています。
思考停止の屋敷に囚われて、自分が何をしているのかもわからないまま、機械的に同じ所を繰り返し歩き続ける幽霊たちは、今の人間社会で暮らす、多くの人々の姿を示しています。
その動きを止められるような、特別な出来事がない限り、人々は同じ生活を機械的に繰り返しますし、そのことについて何も考えることがありません。
他の人に何が起きようと、全くの無関心です。
自分のことも、周囲のことも、世界のことも、何も考えずに、ただ生き続けることをよしとしています。
それは一種のロボットであり、ゾンビと言えるでしょう。
それでも本人たちは、ちゃんといろいろ考えているし、自分は人間だと言い張るでしょう。
でも実態はというと、政府や権力者たちの言いなりになり、それによって苦しい思いをしても、それを変えようとしないで、その暮らしに甘んじています。
お金がないと生きていけないと洗脳されていますから、自分は生きるために、懸命にお金を稼いでいるんだと、自分がいかに考えているかを主張します。
お金がないと生きられないというのは、一つの概念に過ぎませんし、それも権力者たちにだけ、都合がいい概念です。
それを信じ込まされて、彼らの思うとおりに生きているのに、そのことに気がつきません。
これは思考停止の屋敷に囚われて、そこを歩き続ける幽霊たちと同じです。
隣の国が攻めて来るぞと、国の支配者に言われて、隣の国の国民を憎んだり、その人たちが殺されるのを見ても、あいつらが悪いんだと信じるのは、やはり思考停止の幽霊たちと同じです。
支配者たちに利用されている、ただの生きた屍でしょう。
そんな彼らを目覚めさせるには、どうすればいいのでしょうか。
それは、彼らの機械的な動きを止めることです。
何だかんだと言いながら、日々の暮らしが続けられるうちは、人々は支配者に支配されることを、受け入れます。
たとえ支配者が悪い人間だとわかっていても、その支配体制を打ち破ろうとは思いません。
しかし、日々の暮らしが続けられなくなった時、初めていろいろ考え始めます。
コロナも戦争も、見た目は悪いことに見えますが、人々を立ち止まらせて、このままでいいのかと考えさせる、大きな機会であることには、間違いありません。
思いがけない状況に放り込まれた時に、どう反応するのか。
普段から思考している人と、そうではない人とでは、反応の仕方が全く異なります。
でも、その反応の結果、物事がどうなったのかを見せつけられた時、普段思考していなかった多くの人々は、自分の考えが間違っていたことや、深く物事を考えていなかったことを、理解するようになります。
それによって、ようやく支配者たちの洗脳の世界から、抜け出すことができるのです。
コロナにしても、戦争にしても、できれば起こって欲しくないことが、起こるのは何故なのか。
それは多くの人々が、思考停止の屋敷に囚われたまま、抜け出すことができずにいるからです。
みんながこの屋敷から抜け出せた時、こららの出来事は起こらなくなるでしょう。
そして、それは必ずそうなります。
ガイドが見せてくれた夢は、それを示唆しています。
実際、世界中の多くの人々が、国境を越えて、心を一つにしようとしています。
まだ、支配者の洗脳下にある人たちも、もうしばらくしたら、その洗脳から抜け出して、平和を望む人たちに合流するでしょう。
その平和のために、ユーモアが大切であることも、ガイドはこの夢を通して、教えてくれました。
物事は嘆き悲しむ立場から眺めるのではなく、喜びに続く道から眺めた方がいいのです。
相手を責めたり憎んだりするのではなく、ともに歩んで行こうと、手を差し伸べ合う関係になることこそが、真の平和を創り出すことでしょう。
見た目は、ただのお笑いの夢ですが、考えれば考えるほどに、奥の深い素晴らしい夢だと思いました。
お笑いの夢 その2
ガイドに見せてもらった、笑える夢。
思考停止状態の幽霊の男の子が、思いがけない出来事に驚かされ、つい取った行動の結果を見せつけられて、我に返って逃げ出してしまうという夢です。
この夢のポイントは、思考停止状態だった男の子の幽霊が、思いがけない出来事に対しては、反射的に動いてしまうというのが一つ。
それと、その出来事に反応したことで、停止していた思考が活動を再開し、自分がしてしまったことに驚愕するというのが一つです。
この驚愕には、何てことをしてしまったのかという、後悔も含まれています。
男の子が逃げ出したというのは、自分が囚われていた屋敷から、抜け出したということでもあります。
屋敷の中は思考停止の世界ですので、思考が動き出した途端、そこから外の世界へ脱出するわけです。
そして、自由に思考ができる外の世界で、これまでの自分を見つめ直し、これからどうするかということを、考えるのでしょう。
男の子を驚かせた、悪戯好きなお坊さんは、悪戯が成功したことで、笑っていたように見えます。
でも、男の子をこの屋敷から救出するのに、成功したから笑っていると、見ることもできます。
地蔵菩薩は僧侶の姿をしていて、あらゆる世界に表れて、そこで苦しんでいる人々に、救いの手を差し伸べる存在です。
夢を見ていた時は、男の子が張り倒したのが、どうしてお地蔵さまだったのかとは、私は考えていませんでした。
しかし、あとになって考えると、この場面では他の存在ではなく、お地蔵さまというのが、ぴったりだと理解できました。
また、お地蔵さまは僧侶の姿ですから、男の子の幽霊の前に現れたのが、お坊さんだったというのも、なるほどとうなずけます。
となると、やはりこのお坊さん、あるいはお地蔵さまは、男の子の幽霊を救い出すために、こんな悪戯をしたのでしょうね。
男の子は自分が救い出されたことに、気づくことなく、外の世界で自分を顧みるのでしょう。
お地蔵さまは、自分の存在や自分が行ったことを、覚えてもらっていなくても、少しも不満はありません。
そんなことは目的ではないからです。
ただ、思惑どおりに男の子を助けることができた、ということに満足しているのです。
人は、神や仏のように、自分たちよりも上の存在に、姿を見せてもらい、実際に手を差し伸べてもらって、助けてもらうことを望んだり、そんな状況を思い描くものです。
でも、実際の上の存在からの手助けというのは、この夢のように、思いがけない出来事という形で、やって来るのだと思います。
どんなに見た目に悪いことが起こっても、それは自分たちの目を覚まさせるためのものだと考えれば、同じ出来事が違ったように見えて来るでしょう。
また、どうしてその出来事が起こったのか、見せかけの理由でなく、本当の理由が理解できるようになるのです。
お笑いの夢 その1
先日の話です。
夜、トイレに起きた私は、再び布団の中に入った時、久しぶりに自分のガイドに会いたいと思いました。
ガイドに会いたいと願って寝ると、夢の中にガイドが出てくることが、よくあるからです。
そして、この時も、それらしい夢を見ました。
その夢はアニメでした。
舞台は不気味な雰囲気の日本家屋です。
どこかの大きな旅館でしょうか。
大きな広間があって、障子の向こうに縁側と、内庭が見えます。
その中を、幽霊のような、と言うか、恐らく幽霊でしょうね。
生きた人間ではない者たちが、思考停止状態で、ぼーっとしながらうろついています。
多分、自分がそこで何をしているのか、何故そこにいるのか、何もわからないし、わかろうともしないまま、同じ所をぐるぐると回り続けているのでしょう。
そこに一人の若い男の子の幽霊がいました。
歳は中学生か高校生ぐらいでしょうか。
青白い顔で、ぼーっとした顔のまま、広間に入って来ました。
普通の人が見れば、明らかに幽霊だと知って、驚いたことでしょう。
その男の子の幽霊が広間に入って来ると、突然その前に、一人のお坊さんが現れました。
全てはアニメーションです。
アニメと言っても、リアルな絵ではありません。
四コマ漫画のような絵です。
幽霊の男の子も、突然現れたお坊さんも、四コマ漫画に出て来るようなキャラクターです。
そのお坊さんは、男の子の幽霊に、鉄工所での溶接現場で使うような、フェイスシールドを渡します。
声はありません。
無音です。
まさに四コマ漫画ですね。
男の子の幽霊は、ぼーっとしたままそのフェイスシールドを受け取ると、それを顔の間に掲げます。
私に見えるのは、そのシールドを通して見た、屋敷の中の様子です。
ちょうどサングラスをかけたように、少し薄暗く見えます。
それが男の子が見ている情景なのですね。
男の子はそのシールドを通して、部屋の中をぐるりと見回します。
すると、いきなりゴーゴンのような女の化け物が現れました。
すぐ目の前に大きな化け物の顔が現れて、ベロベロバーという感じで、男の子を驚かせようとするのです。
そして、期待通りに男の子は驚き、思わずその化け物に平手打ちを浴びせます。
何も考えずに、ぼーっとしていたはずの幽霊が、反射的に平手打ちをしたところが、思いがけず面白かったのですが、その次の場面で、私は思わず噴き出して笑いました。
化け物に驚き、その化け物を張り倒してしまった男の子は、興奮したままシールドを外します。
そして、足下に倒れている化け物を確かめるのですが、何と、それは化け物ではなく、お地蔵さまでした。
よく見かける、石像のお地蔵さまです。
ただ、大きさは1メートルはあるでしょうか。
結構、大きなお地蔵さまでした。
それを見て、男の子はさらに驚きます。
だって、化け物を張り倒したはずなのに、自分が張り倒したのは、お地蔵さまだったのです。
お地蔵さまは尊い存在であり、敬いこそすれ、張り倒す対象ではありません。
男の子は自分がしてしまったことに驚き、慌ててその場を逃げ出してしまいます。
それこそ漫画のように、シュインって感じでした。
その驚きように、私は笑いました。
もう幽霊であることも忘れて、生きた人間みたいに、逃げてしまったからです。
すると、倒れていたお地蔵さまがにやりと笑い、その顎から黒い顎髭が、ニュッと伸びて来ました。
そうです。
このお地蔵さまは、先ほどのお坊さんが化けたものでした。
男の子が見た女の化け物もそうですね。
お坊さんが化けていたのです。
これが、私が見た夢です。
とんだお坊さんですが、果たしてこのお坊さんは何者だったのでしょうか。
私はこのお坊さんこそが、私が会いたいと望んだ、私のガイドだったと受け止めています。
私には何人かのガイドがいると認識していますが、そのうちの一人は、とてもひょうきんなので、恐らくはそのガイドだったのでしょう。
夢の中で笑わされてしまうなんて、滅多にないと言いますか、初めてのことだったように思います。
でも、ガイドはガイドですから、ただふざけているのではありません。
この夢には、もっと深い意味が隠されているのだと、私は気がつきました。
世界で唯一の存在 その5
世の中にある価値観は、個人の価値観が集まったものです。
どんなに絶対的なように見えても、結局は一人一人の考えが、集まったものに過ぎません。
世の中を動かそうとするならば、いきなり命令したり、法律を変えても、上手くはいかないでしょう。
反発する人は、ずっと反発を続けるからです。
しかし、一人一人の考え方を変えることができたなら、上から命じたりしなくても、みんなが自分の価値観に従って動いた結果、統率の取れた行動を見せることになるでしょう。
これは素晴らしいように見える一面、ある意味、恐ろしさを秘めています。
それは、歪んだ価値観で洗脳されてしまうと、その社会全体が狂ってしまうからです。
ある国が、他の国を攻撃する時に、その正当性を国民に訴え、それを信じ込ませることができたなら、国全体が戦争を正義と見なして、指導者の言うとおりにみんなが動きます。
人の命や自由を強制的に奪うことに、どんな理由をつけたところで、それが正義であるわけがありません。
それでも、人々はそれを正義と信じて、本当は自分と同じ人間で、家族や友人と楽しく暮らすことを望んでいる人たちを、敵と見なして殺すのです。
これを狂気を言わずして、何と言えばいいのでしょうか。
歴史は繰り返すと言いますが、それは人々がいつまでも同じ価値観の下で、生きているからです。
人はどうあるべきなのか。
その答えは自分の心の中にあります。
誰かに言われて決めることではなく、自分の心の中にある声に従えば、誰かと争うということはなくなるでしょう。
そして、一人一人が自分の心の声に従うことで、本来の人間として、統率された行動が取れるようになった時、そこに真の平和が訪れるのです。
もはや歴史が繰り返されることはありません。
その初めの一歩としてするべきことが、自分と他の存在は兄弟姉妹であり、いずれもが世界で唯一無二の存在なのだと、認めることでしょう。
自分の存在を認めるということは、他人の存在を認めることにつながります。
自分が自信を取り戻すということは、単に個人的な話ではありません。
その延長線の先には、本当の平和な世界が待っているのです。