愛を見つけよ その3
今の世界が置かれた状況の中で、愛を見つけるということは、容易なこととは思えないかもしれません。
愛よりも恐怖や憎しみの方が、目につきやすいからです。
ウクライナで起こったことは、自分たちの国でも起こるかもしれないと、多くの国やそこの国民が、不安に駆られていると思います。
しかし、未来を創るのは私たち自身です。
不安や恐れがもたらした結果を見せられたのであれば、そうならないようにすればいいのです。
不安や恐れを見せつけられて、同じ不安や恐れを抱いたなら、同じ状況が再現されます。
そして、自分が抱いた不安や恐れは正しかったと、強く思い込むことになります。
また、人は死を恐れます。
死ぬというのは、生きられなくなるということですから、死を恐れるというのは、当たり前と言えば当たり前です。
でも、自分が自分でないまま生きるよりも、自分が自分であり続けて死ぬ方がいい、と思えるようになれば、死をそれほどには恐れなくなると思います。
死をあまり恐れなくなると、不安や恐れよりも、愛に目が向きやすくなります。
あらゆる不安や恐れの根底には、死のイメージが潜んでいるからです。
この死を恐れなくなったなら、様々な不安や恐れが弱まります。
その分、不安や恐れに向けていた意識が、喜びに向けられるようになり、喜びの根底にある愛に気づくことになるのです。
ウクライナとロシアの争いの中で、両国で苦しむ人たちに目を向け、その人たちの気持ちを思いやることも、愛に基づく行為です。
でも、そればかりが愛ではありません。
争いとは全然関係のない、日常の暮らしの中にも、愛はたくさん顔を見せてくれています。
道端に咲く小さな草花のように、本当はそこに愛があるのに、気がつかないで見過ごしていることは、多いのではないでしょうか。
でも、自分の不安や恐れが小さくなれば、そんな草花のような愛の面影に、気がつくようになるでしょう。
ちょっとしたことに感謝の気持ちが起こり、何をしても嬉しくなると思います。
誰かと微笑み合うだけで、幸せな気持ちになれるでしょう。
生きているだけで、喜びが湧いて来るのです。
みんながそんな思いで暮らしたならば、そこに争いは起きません。
今、争って苦しんでいる人たちを、思い遣ることも愛ですが、それだけでは苦しみの状況を変えることは困難です。
普段の暮らしの中で、小さな愛を見つけて、そこに幸せを見つけるという生き方こそが、戦争を防ぎ、争いで苦しんだ人たちを、癒やしへ導くことができるのです。
愛を見つけてください。
どんなに個人的で些細なことに見えたとしても、それが世界の平和につながるのです。
一人一人のそんな想いや動きこそが、世界を変えることができるのです。
愛を見つけよ その2
愛というものは、単なる概念、あるいは感情の一つに過ぎないと、受け止める人もいるでしょう。
そんなのただの言葉じゃないかと、言う人もいるかもしれません。
でも、それは正しい理解とは言えません。
愛とはエネルギーであり、元はみんな一つであったということを、感覚的に理解することです。
人はエネルギーの動きを、外から見て理解しようとします。
それを内側から理解するのが感覚であり、感情です。
人が愛を感じる時、それは相手との一体感を、感覚と感情で理解しているのです。
見た目に別々の存在のように見えていても、本当は一つなんだということを、感覚的に理解するのです。
だから、愛を感じた相手のことを、自分と同じあるいは自分以上に、大切にしようとします。
我が身を犠牲にしてでも、相手を助けようとするのです。
心もエネルギーであり、複数の心が互いに一体感を感じる時、そこに大きなエネルギ-の動きが生まれます。
その動きを感じる時、人はそれを愛という言葉で表現するのです。
愛という言葉が気恥ずかしいのであれば、この言葉を使う必要はありません。
エネルギーとしての心の動きと、その動きをどう感じるのか、ということが理解できれば、それを表現する言葉は重要ではありません。
表現するならば、自分だけの好きな言葉で表現したって構わないのです。
実際、すでに使われている言葉、愛もそうですが、神や魂というものにも、長年多くの人が使い込んで来たための、勝手な思い込みがすり込まれています。
自分がどう解釈するかという以前に、すでにイメージが創り上げられているわけです。
それがために、そのことについて、一人一人が新たに深く考えることが、やりにくい状況にあります。
そんなことをすると、頭がおかしくなったのかとか、宗教にはまっているのではないかと、疑われることになり、それを恐れる人は、これらのことについて考えることをやめてしまうのです。
しかし、言葉の表現を捨てて、自分なりの感覚からの理解を大切にするならば、私が何を言わんとしているかが、わかってもらえるでしょう。
こんなことは、学校でも家でも取り立てて説明されることはありません。
だから、愛に憧れはするものの、愛とは何かと、真剣に考える機会がないまま、多くの人は周りに流されて生きてしまいます。
目の前に本当に大切なものがあるのに、それを見過ごして、どうでもいいことに夢中になるのです。
それでも、これが愛なのかと思い知らされるような体験をすると、それまでとは考え方や価値観が、がらりと変わります。
ただ、そういう体験は、多くの場合、身近な集団の中に限られていました。
そのため、身内や地域あるいは同じ国の者に対しては、親近感を抱いても、それ以外の者に対しては、愛の心を持つことができません。
代わりに恐怖や不安、あるいは軽蔑や嘲りという思いを、見知らぬ相手に対して持つのです。
個人的には国や民族などを超えた結婚やカップルが増えて、自分と違う人々に対する理解は、かなり広がりました。
しかし、国という集団になると、まだ相手と自分は違うという気持ちが残ります。
平和の祭典であるオリンピックやパラリンピックで、どの国がメダルをいくつ取ったか、という話題が重視されるのも、自国の優位性を世界に認めさせたいがためです。
メダルは頑張った選手個人のもので、国のものではありません。
それを国の力にすり替えてはいけないのです。
国のそうした態度を国民が受け入れる時、国が間違った方向へ進んでも、国民はそれを咎めようとしません。
国が違っても、みんな同じ人間だと理解していれば、国が進んではいけない方向へ進もうとした時、国民はそれを止めることができるでしょう。
国という境を取っ払ってしまえば、結局残るのは、個人としての価値観です。
普段から、異国の人や人種の違う人たちと、仲良くできる人たちは、世界中の誰とでも仲良くできるでしょう。
それを邪魔しているのは、国という概念です。
自分たちは優れている、自分たちはあいつらとは違う、という考え方をすり込まれているために、本来とは違う見方をしてしまうわけです。
そして、今まさにそのとおりの状況が起きています。
世界を支配していたはずの先進国たちが、直接的な戦争に巻き込まれています。
こんなことは有り得ないと嘆く人もいれば、プーチンが諸悪の根源だと言う人もいるでしょう。
また、プーチンに権力を与え続けた、ロシアの人々を憎む人も出て来ると思います。
あるいは、ロシアやプーチンをここまで追い詰めたのは、欧米の責任だと言う人もいるでしょう。
でも、責任のなすりつけ合いをしたところで、本当の解決にはなりません。
そんなことをしていれば、今回の戦争が落ち着いたとしても、再び同じ状況が訪れるのは確実です。
本当の問題とは、多くの人にとって、愛を感じる対象が、身近な範囲だけに限られていた、ということです。
世界中の人が、どこの国のどんな人に対しても、家族に向けるのと同じような目を、向けることができたなら、戦争なんて起こりません。
争う理由がないからです。
困っていれば、必ず誰かが助けてくれる。
助けてもらった方も、今度は自分が誰かを助けようとする。
そんな社会であれば、争いなんて起きません。
今回の戦争は、そんな課題を全人類に突きつけているのです。
その課題のテーマは、「愛を見つけよ」です。
愛を見つけよ その1
ウクライナへのロシア軍の侵攻により、世界中が大きな衝撃を受け続けています。
これまでにもロシア軍が侵攻した所はありますし、ロシア軍以外でも、世界中で紛争は起きています。
アメリカで同時多発テロが起こった時や、アメリカがイラクやアフガニスタンへ攻撃をした時も、世界は大きな衝撃を受けました。
でも、今回の戦争はそれ以上の衝撃を世界に与えています。
同じような争いなのに、どうして今回はこれほど大きな衝撃となっているのでしょうか。
それは白人による、白人への戦いだからです。
また、国同士の最低限の約束事は、守られるべきだという思い込みが、破られたからです。
どこの国も利権で動きますが、共倒れになるようなことは避けるはずだと、信じていたでしょう。
しかし、今回の戦争にはその考え方が通じません。
そういう人物が国を支配するということに、思いが及ばなかったのです。
かつてヨーロッパは争いの連続でした。
アメリカも南北戦争がありました。
しかし、その結果として大きな学びを得て、自分たちには直接的な戦争は必要ないと理解し、団結することへ舵を切りました。
それは自分たちの精神が、大きく進化したという誇りにつながったでしょう。
それでも白人の国々は、白人でない人々の国に対しては、常に上から目線で見ていました。
そこの国がどうなろうと構わないし、そこの人々が苦しんでいても関係ないという態度をとり続けたのです。
力を貸そうとする時は、相手を利用できると判断した時だけです。
利用する価値がないと見れば、一切関わろうとしません。
もちろん個人的あるいは小さな組織では、国や民族による分け隔てはせず、全ての苦しむ人々に、手を差し伸べる人たちもいます。
しかし、国あるいは国を動かす人たちにとって、関心があるのは、いかに自分たちが利益を得るのか、ということだけです。
彼らは頭脳だけで動こうとして、心で動こうとはしません。
常に相手を支配して、自分たちが優位に立とうとします。
そのためには、どんなことでも厭いません。
それに対して、心で動く人々は、相手を支配しようとはしません。
相手と同じ目線に立ち、相手の気持ちを理解しようとします。
相手と心がつながることに、喜びを感じるのです。
人間は様々な場面で、いろんなことを学びます。
その学びの中で、愛は一番尊い学びです。
家族や仲間など、小さな集団の中で、その学びは始まります。
それでも、その学びは簡単ではありません。
互いを想う気持ちは、常に示されていると、それが当たり前になってしまい、その大切さがわからなくなるからです。
家族や仲間に何かをしてもらっても、それが当たり前だと思っていれば、ありがとうという言葉が出て来ません。
でも孤独を経験して、家族や仲間の存在の有り難さを知れば、ちょっとしたことに対しても、自然にありがとうという言葉を口にします。
人間にとって、愛以上に学ぶべきことはありません。
愛こそが本当に学ぶべきことであり、それ以外のことは、重要ではないのです。
本当の仕事 その3
家業を継ぐ人もいれば、継ぐべき家業がない人もいます。
家業がある人を羨む人もいますが、家業に縛られない人たちを羨む人もいます。
家業があるのが、いいとか悪いとかいう話ではありません。
誰かを羨ましいと思う時、それは今の自分のあり方に、不満を抱えているのです。
家業を継いでいる人も、継いでいない人も、あるいは継ぐべき家業がない人も、今の自分に満足していれば、決して他の人を羨むことはありません。
ただ、今の自分に満足しているという理由を考えると、そこにはいろいろな価値観があることがわかるでしょう。
お金を稼ぐことが何より大切だと考えている場合、お金を稼げるかどうかで、仕事の善し悪しを決めます。
そんな人にとっては、お金を稼げる仕事はいい仕事で、稼げない仕事はいい仕事ではありません。
自分が今の仕事でお金を稼げている間は、その仕事はいい仕事なのですが、お金を稼げなくなると、途端にそれはいい仕事ではなくなります。
それが仕事の内容に原因があるならば、仕事が悪いとなるでしょうが、自分の能力が原因となった場合、自分はもうお金を稼げなくなったから、人生はおしまいだと思うでしょう。
売り上げの成績を伸ばして、周囲から注目を浴びることで、大きな満足を得ている人は、注目がなくなることを恐れます。
恐れが潜んでいる満足は、本当の満足とは言えません。
お金と同じで、注目が得られなくなると、途端にその仕事が嫌になるでしょう。
自分に原因があって注目が得られないと考えると、自信を失って何もできなくなるかもしれません。
お金にしても注目にしても、それがなくなればおしまいだと考えると、それを失うまいと必死になります。
体を壊そうが心に不調を来そうが、お構いなしにお金や注目を得ようとします。
それでもなかなか上手く行かない時には、やってはいけないことまでやって、目的を達成しようとします。
こうなると病気と言えるでしょう。
そして、こんな考え方は間違っていると、離れて見ている人にはすぐにわかります。
一方、その仕事や作業そのものに面白さを感じたり、魅了されている人は、それができることにこそ満足感を感じます。
他の人が気にしないようなことにも、こだわりを出し、決して自分がしていることが、完成しているとは思いません。
どんなにいい物を作ったり、どんなにいい仕事をしたとしても、明日は新たにいい物やいい仕事に、取り組もうとするのです。
いい仕事をしていると、それは自ずと人々の知るところとなり、無理に売り込もうとしなくても、勝手に広まって行きます。
特に、今の情報時代ではそうです。
一人が発した情報が、あっと言う間に世界中を駆け巡ります。
少し前なら、商品を開発しても、それを宣伝するために、多くの費用や労力が必要とされました。
しかし、今はそんなことをしなくても、見ている人たちが、無料で好意を込めて、情報を広めてくれるのです。
そのため、個人でいろんな仕事をする人が増えました。
個人でするから、大量生産のような画一的なことはしません。
手作りとこだわりを前面に出し、自分の個性を表現しています。
それは多くの人に支持されていますし、刺激を受けて、自分もやってみようと考える人も増えています。
与えられた物を受け取るばかりだった人々が、自分で何かを作って発信する時代になったわけですね。
そんな時代に入ったということを念頭に、今の自分に不満がある人は、本当は何に不満を感じているのか、心の中をよくのぞいてみて下さい。
お金や注目を望んでいると思っていたはずなのに、本当に自分が求めているものは、そんなことではないと気がつくかもしれません。
そして、気がついたならば、そのとおりに動いてみてください。
きっと、そこには本当に満足できる仕事が、待っていると思います。
本当の仕事 その2
天職という言葉があります。
あまりにも自分にぴったりの仕事を手に入れた時、まさにこれは天が与えてくれた仕事だ、と思いたくなるでしょう。
それで、そんな仕事を天職と呼ぶわけです。
でも実際には、なかなかそのような仕事に、巡り会うことはありません。
ほとんどの人が生きて行くために、必死に探して見つけた仕事に、しがみついているのが現状でしょう。
それが自分に向いているかどうかなんてわかりません。
向いていないとわかったとしても、それを続けるしかないのです。
せっかく大学に入って専門的な知識を学んでも、それを活かせる仕事につける人は稀でしょう。
全然お門違いな仕事や、大学に入る必要がない仕事で、何とか生計を立てるばかりです。
天職に巡り会うなんて、夢のまた夢でしょう。
でも、本当にそうなのでしょうか。
天職がどのようなものなのかを、もう一度考えてみて下さい。
天職とは、自分にぴったりの仕事のことを言います。
その定義に、お金を稼げるかどうかは、含まれていません。
学歴も関係ないですし、現在の経済状況も定義には含まれていません。
それが自分の性に合って、ずっと続けていられる仕事が天職なのです。
お金持ちになれる仕事という意味ではありません。
しかし仕事ですから、継続はできるものです。
つまり、見た目に裕福になるとは限らないけれど、自分がずっとのめり込んで続けていける仕事が、天職というわけです。
もちろん、結果的にお金が集まって、大金持ちになるかもしれません。
でも、本人はお金には関心が向かないでしょうから、あってもなくても関係ないのです。
自分がやりたいことに、没頭し続けていられれば、それが幸せなんですね。
そこを理解したところで、さて、自分は何を基準に仕事を求めているのだろうかと、見直してみて下さい。
すでに仕事を手にしている人も、それは自分がのめり込める仕事なのかどうかを、確かめてみて下さい。
のめり込める仕事であればいいのですが、そうでなければ、天職とは言えませんね。
天職の仕事が欲しいのであれば、お金を稼ぐ仕事ではなく、自分の性に合った仕事を、探す必要があるのです。
また、今の仕事にのめり込んでいる人も、のめり込んでいる動機の部分が、本当に自分の心が欲しているものなのか、上や周囲に認めて欲しいがために、がんばっているだけなのかを、区別しなければなりません。
自分が本当に満足できるのであればいいのですが、他人の価値観に合わせて仕事に打ち込み続けていると、きっと心や体に不調を来すでしょう。
それは、本来の自分の姿ではないからです。
天職を求めるということは、裏を返せば、本当の自分の姿を求める、ということなのです。
本当の仕事 その1
世の中にはいろんな仕事があります。
仕事と家庭の両立という言葉があるように、仕事と家のことは別という考えがありますが、家事もまた仕事です。
そもそも仕事とは何でしょうか。
辞書で調べてみると、次のように書いてありました。
① すること。したこと。しなくてはならないこと。しわざ。また、からだを動かして働くこと。作業。
② それによって生計をたててゆくための職。職業。業務。
③ 事をかまえて、ふつうでない行動をおこすこと。また、悪事を働いたりたくらんだりすること。
④ 針仕事。裁縫。
⑤力学で、ある物体に力を作用させその位置を移動させること。
このうち、④は昔の暮らしの中の表現です。
今の時代に、仕事と言われて、針仕事かと思う人はいないでしょう。
⑤は物理学での表現です。
また③は悪人たちが使う言葉であり、彼らの立場に立った時の「仕事」です。
一般的に仕事と言えば①と②ですが、どちらの順位が上かと言えば、②でしょうね。
家事は①の意味での仕事になりますが、お金を稼ぐ仕事は②の意味です。
そして、お金につながらない家事よりも、お金を稼ぐ仕事の方が、上に見られるのが今の風潮ですから、①より②が上ということですね。
でも、これは正しいのでしょうか。
①の仕事よりも②の仕事の方が、上に見られるというのは、今の風潮であり、絶対的なことではありません。
あくまでも、現在世界を牛耳っている経済中心の社会の中においてのみ、通用している考え方です。
もし、お金が通用しない状況や、お金に何の意味もない状態に置かれたとしたら、この順位はどうなるでしょうか。
当然①の仕事の方が上ですし、そもそも②の仕事は、仕事として見なされないかもしれません。
そうは言っても、今は何を手に入れるにしても、何をするにしても、お金が必要なシステムが構築されています。
お金を稼ぐことが第一に考えられますし、より多くのお金を得られる仕事が、いい仕事だとみなされています。
そのために嫌な仕事であっても、お金のためだから仕方がないという、あきらめの気持ちになりますし、嫌な仕事を終えたあとで、お金を手に入れると、我慢した甲斐があったと、自分を慰めます。
お金がないと暮らせないし、やりたいことができないけれど、今の自分には、そのお金を手に入れる環境がない。
となれば、悪いことをしてでも、お金を手に入れようと考える人が、現れるのは当然のことでしょう。
そして辞書の③の意味のように、その人たちにとっては、悪事が仕事となるわけです。
他人から見れば、そんなの仕事じゃないと思えますが、彼らにとっては、立派な仕事ということです。
お金が目的に悪事をする人は、言い換えれば、お金があるのであれば、悪いとわかっていることなど、わざわざやらないということです。
つまり、一番の問題は、お金がないと身動きが取れないシステムにしておきながら、誰でもがお金を手にする機会が与えられていない、ということです。
そもそも、お金が登場する前から、人は生活をしていたはずです。
その時の仕事と言えば、①の意味の仕事しかなかったでしょう。
本来の仕事というのは、①の仕事だけなのです。
本当にあるのは心だけ その5
集合意識とは何でしょうか。
集合意識とは、一人一人の意識が集まったものです。
ですから、一人一人が意識を変えれば、それに応じて集合意識も変わります。
一方、集合意識が思考に大きな偏りを見せていると、一人一人が新たな考えを持つことが、難しくなります。
独裁者に支配されている世界や、物やお金、宗教などに支配されている人々が、そうですね。
そこで当たり前だと思われている考え方や価値観から、なかなか抜け出すことができません。
抜け出そうとすると、周囲の者たちから否定されたり、拒絶されたりするでしょう。
場合よっては、命の危険を心配することになるかもしれません。
それでも、新しい考え方が少しずつ広がって行くと、ある時点から集合意識の状態が柔軟になり、一気に新しい考え方が広がりやすくなります。
そして集合意識は瞬く間に、新しい価値観の色に染まってしまうのです。
今は、まさにそんな時に私たちはいるのではないかと思います。
以前であれば、否定されたり潰されていたであろう考え方や価値観が、世界中に広がりを見せています。
戦争や平和についても、これまでだったら他人事のように見ていた人たちが、身の危険も顧みずに立ち上がり始めています。
恐らく、この動きは止めることができません。
今、まさに人間の集合意識が大きく生まれ変わろうとしているのです。
そして、集合意識がその焦点を合わせる世界も、これまでとは全く違う世界が選ばれることでしょう。
それがどんな世界なのか。
それは今の世界中の人々の動きを見ていれば、予想ができると思います。
ただ、集合意識が全体的に変化しないということも、あるかもしれません。
色で言えば、それまで緑色だった集合意識が、青と黄色の二つの部分に分かれて、互いに混じろうともしないし、変化もしないとしましょう。
こうなると、一つだった集合意識は、それぞれの色の集合意識として、二つに分離するかもしれません。
ちょうど細胞が二つに分裂するように、完全に分かれてしまうのです。
そして、それぞれが青の世界と黄色の世界を創るのですね。
こんなことが起こったとしても、それぞれの集合意識の中に存在している個人意識は、世界が分裂したとは感じません。
自分が存在している世界だけが、唯一の現実世界だと思うでしょう。
でも、実際には二つの世界に分離していた、ということは、有り得ないことではないと思います。
もし、そうだとして、今が世界が分離する場面だとすれば、あなたはどちらの世界に存在することになるのでしょうか。
それは、あなたがどちらの集合意識に属する心を、持ち合わせているのかということによるでしょう。
感謝と思いやりの心で生きるのか、自分さえよければいいという心で生きるのか。
それで選ばれる世界が、決まって来るのだとすれば、あなたはどうしますか。
本当にあるのは心だけ その4
様々な意識が創り出しているのが、現実世界なのだとすると、それは様々な意識が集まった集合意識が見ている夢が、現実世界だと言うことができるでしょう。
そこには人間の集合意識だけでなく、他の生き物たちの集合意識も関わっていますし、山や海などの意識、地球や宇宙の意識も関わっていると言えるのです。
ですから、誰かが亡くなっても、この世界が失われることはありませんし、私たちが全く知らない宇宙の遠い所でも、星々の活動や、その星で暮らす生き物たちの活動というものが、あるわけです。
ただ、全体的な集合意識が選んだ夢の中でも、部分的な集合意識が認識している世界は、様々でしょう。
同じ世界に存在していながら、人間と動物や植物、昆虫や魚などは、全く別の世界を認識しているはずです。
ただ、互いの存在を認め、心の交流を行うことは可能です。
人間の世界について言えば、人間が認識できる現実世界は、いろんな意味で、人間が知覚できる範囲に限られます。
行動範囲が広がれば、その分だけ人間の世界観も広がります。
世界についての知識が増えれば、それもまた人間の世界観を広げます。
五感を超えた感覚を手に入れれば、人間の世界観はがらりと変わるでしょう。
ところで、個人が見る夢の世界は様々です。
場面が突然変わることもありますし、大人だと思っていたら、いつの間にか子供になっていることもあります。
それぞれを一つの世界だと考えたなら、一人の心の中には、無数の世界が存在しているということになります。
そして、夢を見るというのは、どの世界に意識を合わせるのか、ということになるのです。
不安を抱えていれば、怖い夢を選んでしまいますし、楽しい気分でいれば、明るい夢を選ぶのです。
同じように考えると、私たちが現実だと受け止めている世界も、人間の集合意識の中にある、一つの世界に過ぎないのかもしれません。
たくさんある世界の中で、人間の集合意識がどこに焦点を合わせるかで、人間が体験する現実世界が、様々に変化すると言えます。
正しくは、変化するというよりも、別の世界に意識を合わせるのですね。
ライブラリーにある数え切れない映画の中から、どれを選んで、その中の世界に浸るのか、という感じです。
お互いを信用しない世界を選べば、争いばかりが起こるでしょう。
お互いを信じて愛し合う世界を選べば、そこには喜びだけが存在するのです。
集合意識がどの世界を選ぶのかで、私たちが体験する世界は違って来ます。
集合意識が争いよりも、信頼し合うことを望むようになれば、世界は争いの世界から、信頼の世界へシフトするのです。
それは争いから信頼へと変化したように見えますが、実際は争いの世界から、信頼の世界へ、意識の焦点を変えたということですね。
今の時点では似ているけれど、それぞれの世界の結末は異なるわけです。
集合意識が選ぶ世界を変えても、違う世界を選んだ時点では、どちらの世界もそっくりなので、私たちは世界がシフトしたとは思わず、世界が変化したと受け止めるのです。
本当にあるのは心だけ その3
現実世界もまた、夢と同じように、自分の心の中に存在していると考えた場合、他の人の心も、自分の意識が創り出しているのでしょうか。
そこが現実世界と個人的な夢の世界との、違いになるかもしれません。
個人的な夢の場合、そこに存在しているものは、全て自分の意識にあるものを、材料として創られていると考えられます。
どんなにすごい物があったとしても、どんなに素晴らしい、あるいは恐ろしい物が存在したとしても、それらは全て、自分がどこかで見たり聞いたり触れたりしたものを、基盤として創られていると思われます。
逆に言えば、自分が全く知らないことや、体験したことがないようなものは、夢には出て来ないということです。
もし出て来たとすれば、それは自分以外の意識が、そこへアクセスしているのかもしれません。
たとえば、神々しい光を体験したとすると、それは現実世界では体験できないことですから、心が存在している世界のどこかから、何かの存在が接触していると考えられるでしょう。
でも、そうでないものについては、登場人物も含めて、全てが自分の心の中にあるものが、反映されていると見ることができると思います。
一方、私たちが現実だと認識している世界では、自分たちが知らない、新しい発見や発明が登場します。
これまで体験したことがないものが、現れるのですね。
赤ん坊や子供たちにとっては、毎日が発見です。
恐らく、ここが現実世界と個人的な夢との、違いなのだと思います。
そして、新しい発見があるということは、この世界を構成しているのが、自分の意識だけではないということです。
個人的な夢も現実世界も、意識の中に創られたものですが、個人的な夢は基本的に、個人の意識だけで構成されているのに対し、現実世界の方は多数の意識で、構成されていると言えるでしょう。
昔の人が言ったように、あらゆるものには心が宿っているというのは、この世界が様々な意識によって構成されていると、いう意味でもあるわけです。
たとえば、私たちが誰かを見ている時、その人の姿は、私たちの心の中に創られたイメージです。
でも、その人自身である心は、私たちの意識とは別に存在し、その人もまた、私たちと同じように、自分の心の中の世界を見ているのです。
そして、互いの世界に映し出された相手の姿を通して、お互いの心の存在を感じ取り、認識するわけです。
つまり、あらゆるものに心が宿っているのではなく、あらゆるものは自分の心の中にあるけれど、それらを通して、あらゆるものの心と触れあうことができる、ということです。
現実世界というものは、そんな感じで構成されているのだと思います。
本当にあるのは心だけ その2
私たちは夢を見ます。
夢にもいろいろあって、ぼんやりしたものもあれば、現実世界のようにとてもリアルなものもあります。
リアルな夢の世界では、自分が現実世界にいるかのように錯覚します。
大変なことをしでかしてしまったり、大事件に巻き込まれたりして、どうしようと焦りまくったあと、目が覚めて、夢だったのかとほっとするのです。
このリアルな夢の中にあった世界とは、何で構成されているのでしょうか。
夢とは個人の意識の中にあるものです。
ですから、いわゆる物質で構成されているわけではありません。
夢の中のものは、その人の記憶で創られていると言われることがあります。
確かに、それはそうかもしれません。
本人が記憶として覚えているかどうかに関係なく、その人が体験した様々な情報を基盤として、夢は創られているという考えは、有り得ることだと思います。
でも、それは夢の世界が何で構成されているのか、という説明にはなっていません。
夢の世界の中で、電子顕微鏡を使うことができたなら、夢の世界を構成している机や椅子、家の壁、地面の土や人間の体などが、原子で構成されているのが、見えるのでしょうか。
物質が原子で構成されていることを、今は誰もが知っていますから、その記憶に基づいて、夢の中の電子顕微鏡では、やはり原子を確認できることは考えられます。
そうなると、夢の世界が本当は何で構成されているのかを、知ることはできないわけですね。
けれども、夢を見た人にとっては、それが夢と気づかないうちは、そこは現実世界なわけです。
いわゆる科学的に証明ができなくても、本人にとっては現実なのですね。
ところで、現実世界とは何なのかを考えてみましょう。
どうして、私たちは自分たちが存在している世界を、現実世界だと認識しているのでしょうか。
もしかしたら、ここもまた夢の中かもしれません。
何かが起こった瞬間、はっと気づけば、別の世界で、今のは夢だったのかとなるでしょう。
私たちは、いわゆる五感の情報に基づいて、世界を認識し、そこに自分が存在していると信じています。
しかし五感の情報とは、心に伝えられてこそ、感覚情報となるのです。
いくら体から神経を介して脳に情報が送られても、それが心に届かなければ、それは心が認識している世界には、反映されません。
目の前に何かが存在していても、その情報が心に伝わらなければ、心はそこには何も存在していないと認識するのです。
世界とは、私たちの心の中に、伝えられた情報に基づいて、構成されたものです。
その情報源がどこにあるのかは別にして、私たちが認識している世界とは、私たちの心の中にあると言えるのです。
そして、それは夢も同じですから、実は夢と現実世界とは、本質的には同じだということなのです。