水を得た魚 その1
魚を水から出すと、泳ぐことができず、ぴちぴちと藻掻くようにはねます。
放っておくと、呼吸もできませんから、死んでしまいます。
でも、そうなる前に水に戻されると、やったぁ! という感じで、水の中を素早く泳ぎ回ります。
水を得た魚というのは、そんな魚の様子を表しているのですが、同じようなことは、人間にも言えるわけです。
今のあなたが魚だと考えたなら、あなたは水の中にいるでしょうか。
水から引き上げられて、まな板の上で、さばかれる運命にあるのだとすれば、それはつらいことです。
水の中にいると思っていても、その水が自分に合っていなければ、生きていけません。
水だと思っていたら、水ではない液体なのかもしれません。
でも、それがあなたの水だと思い込まされて、そこで弱って行くのも仕方がないこととあきらめさせられて、いいようにされていませんか。
あるいは、水は水なんだけれども、そこは狭い水槽か、ちっちゃなバケツの中だとすれば、生きてはいても、自由に動き回ることができません。
自然の魚は、自分に合った水の中で、自由にのびのびと泳ぎ回るものです。
もちろん、自然の中には、様々な脅威がありますが、魚はそれを生き延びる力を、身に着けて行くのです。
脅威が怖くて、誰かの世話になりながら、水槽の中で生きるのも、一つの生き方だとは思います。
でも、それで本来の活き活きとした生き方ができるのかと言うと、そうではありません。
それは、ただ生きながらえているというというだけに過ぎないのです。
たとえ、生きる期間が長くなかったとしても、魚らしく生きて生涯を全うすることが、魚にとっては本望ではないでしょうか。
そして、それは人間にも言えることなのです。
考えてますか その5
アメリカ政府がUFOの存在を認めてから、随分経ちますが、その後は新たな情報は流れて来ません。
意図的に隠されているのかもしれませんが、アメリカ政府がUFOの存在を認めたのは事実なのです。
アメリカの選挙や、地球規模の自然災害、新型コロナウィルス、ロシアとウクライナの戦争など、大きな話題が続く中で、UFOの話はどこかへ消えてしまったかのようです。
それでも、UFOの存在がなくなったわけではありません。
昔の日本で言えば、幕末にアメリカのペリー艦隊が日本を訪れて、江戸が大混乱になったのに、ペリー艦隊が引き揚げたあとは、何事もなかったかのように、元の暮らしに戻ってしまったというようなものでしょう。
実際には、江戸幕府が異国船を忘れたことはなく、その後の日本は西欧の列強から、次々と開港を迫られ、不平等条約を結ばされました。
その後、日本では明治維新が起こり、国全体がそれまでとは全く異なるものに、変わりました。
今目撃されているUFOの中にいる存在が、かつて黒船で日本を訪れた異国人のようなものとは限りませんが、真剣に考えるならば、これは大問題なのです。
UFOを好意的にとらえるにしても、否定的にとらえるにしても、UFOの存在自体が忘れられることは、あってはならないことでしょう。
それなのに実際はどうかと言えば、日本ばかりか、世界中でUFOの問題などなかったかのような雰囲気です。
これは世界中の指導者たちが、意図的にそのように仕向けているように、思えてなりません。
各国の指導者たちが、UFOを現実的な問題としてとらえ、日常的にUFOを話題にしていれば今とは全く異なる状況が、世界を包んでいたことと思います。
それなのに、そうしなかったのは、UFO騒ぎで世界中が混乱し、経済が麻痺することを恐れたからかもしれません。
でも、そうならないように国民に話しかけ、真剣に議論するように努めるのが、本当の政府の仕事ではないかと、私は思います。
何か経済問題以外にも、UFOの話題を出さない理由があるのかもしれませんが、いずれそうはしていられない時が、必ず訪れることでしょう。
今の各国政府の姿勢を見ていても、彼らがUFOについて、何かの見解を出したところで、そのまま受け取るのはどうかと思います。
まずは、自分でUFOについて真剣に考えてみることです。
UFOが実在しているということは、何を意味しているのか。
また、UFOを操作している存在が、人類をどのように眺めているのか。
いろんな考え方があると思います。
でも、まずは自分で考え、他の人たちと意見交換をしてみるべきです。
そうすることで、意見が違った場合に、それぞれの視点が違うことに、気がつくでしょう。
どのような視点で見るかによって、UFOをどうとらえるのかが、違って来ます。
UFOについて議論することは、世界がどのようなものなのかを、議論することにつながります。
ひいては、人間とは何なのか、自分は何なのか、という話にもなるのです。
誰の考えが正しいのかということではなく、どんな考え方ができるのか、ということを、相手の話を否定することなく、いろいろ議論してみて欲しいと思います。
それは面白いですし、絶対に有益な議論になるでしょう。
そして、今よりずっと高い視点から、UFOを見ることができるようになれば、きっとUFOの中にいる存在たちが、姿を見せてくれると思います。
考えてますか その4
人間は地球を好きなように利用して、他の生き物たちを蹂躙し続けました。
すべては人間のためにあると言わんばかりで、戦争であれ日常の活動であれ、自分たちの行動の結果、他の存在がどうなるかなど、これっぽっちも考えていません。
地球や自然の状態を危惧するのは、限られた人々だけで、ほとんどの人は自分とは無関係のように感じています。
考えているのは、今晩の食事のことや、明日の天気のこと、経済状態がどうなるかということ、将来年金が本当に支給されるかということなど、目先の生活に関することばかりです。
自分がいる足場が崩れそうになっていても、一向に気にしません。
そんなことができるのは、あまりにも自分という存在に固執しているからです。
自分と自分以外のものを、きっちりと線引きして区別し、線の内側である自分のことばかりを考えてしまうのです。
でも賢い人は、人間は一人では生きていけないと理解しています。
だから、自分さえよければいいという考え方が、間違っているとわかるのです。
もっと賢い人は、一つの国、一つの民族だけでは、生きていけないと理解しています。
だから、世界中が国境を越えて、本当の意味で一つにならなけらばならないと考えるのです。
さらにもっと賢い人は、人間だけでは生きて行けないと理解しています。
人間以外の存在たちがあって、初めて人間も生きることができるのだと、本当に賢い人たちはわかっているのです。
彼らの理屈は、決してむずかしいものではありません。
いたってシンプルでわかりやすいものです。
それをわかりにくくするのは、生きるためには金が必要だという、自分勝手な経済的観念です。
この考え方が世界中を狂わせて、分断させているのです。
本当に賢い人たちに、世の中を任せたならば、お金を必要としない暮らしのシステムを、いとも簡単に構築することでしょう。
考えてみて下さい。
今の社会システムは絶対的なものなのでしょうか。
本当にお金がなければ、暮らしていけないのでしょうか。
他のやり方というものは、絶対に有り得ないのでしょうか。
本当にそうなのだとすれば、今の経済社会が崩壊すれば、人類は絶滅するでしょう。
でも、実際はそんなことにはなりません。
人間は賢いですし、生きるためには、死に物狂いでいろんなことを考えるからです。
今の経済社会が崩壊したならば、必ず新しい社会が誕生します。
そんな新しい社会のことを、別に今考えても罰は当たりません。
今から考えておけば、実際に経済社会が大混乱に陥っても、それに対処することができます。
自分は賢くないなんて思わないで下さい。
本当に賢い人というのは、普通に暮らしている人々の中にいるものです。
余計な価値観に振り回されず、一人の人間として考えたなら、誰でも答えに行き着くはずです。
ヒントは感謝と思いやりです。
考えてみて下さい。
今のあなたの暮らしの中に、感謝と思いやりは、どれほどあるでしょうか。
もし、感謝と思いやりにあふれた世の中があったなら、そこに生きるということが、自分にとってどんなものでしょうか。
今の社会と、感謝と思いやりの社会の、どちらをあなたは選ぶでしょうか。
考えてみて下さい。
考えてますか その3
いろんな悩みの根源をたどって行くと、人生は一回限り、死んだらそこでおしまい、という考え方に行き着きます。
たった一回の限られた人生なのに、どうして自分はこうなのか、何故ここでこんな風に生きているのか、本当ならこんな感じに生まれたかったのに、などと考えるわけです。
誰かと自分を比べて、いいとか悪いとか考えてしまいます。
何でも損か得かで、判断したくなってしまいます。
お金持ちがよくて、貧乏は悪いように見えてしまいます。
みんなの注目を集められる人はよくて、誰にも注目されない人は、大したことがないと思ってしまいます。
子供のうちに死んでしまうと、生まれた意味がないと受け止めてしまいます。
正直でお金が稼げないよりも、人を騙してでもお金を稼ごうと考える人も出て来ます。
自分が置かれた状況が不満で、人を傷つけたり、犯罪に手を染める人も現れます。
ばれなければいい、法に触れなければ構わないと、勝手な理屈で悪いことをする人もいます。
一回こっきりの人生で、損をしたくないと思うから、いろんな問題が生まれて来るのです。
そもそも何が得で何が損かという基準も、世の中に広まっている価値観で決まるので、絶対的なものではありません。
しかし、その価値観が選択されるのも、根底には人生は一回限りだから、という考えがあるのです。
でも、考えてみて下さい。
人生は一回限りって、誰が決めたのでしょうか。
恐らく、人が死ぬという事実をとらえて、死んだらおしまいだと、考えるようになったのでしょう。
しかし、これは肉体にだけとらわれた見方です。
唯物主義にとらわれて、心を軽視しているから、このような考え方が、自然の摂理であるかのように信じられてしまうのです。
もし、本当にそうであるのなら、幽霊というものは、存在しないでしょう。
そもそも本当に物質しか存在しないのであれば、心自体が存在しないことになってしまいます。
とても大切なことなのに、頭の偏った学者に任せていたのでは、本当の理解は得られませんし、結果的にみんなが苦しい人生を送ることになるのです。
心は物ではありませんし、幽霊は実際に存在します。
そして、この事実を真剣に考えるならば、肉体は死んでも、心が消滅するわけではないだろう、と見ることはできるでしょう。
死んだらそれでおしまいというわけではないのです。
そうなると、そのあとはどうなるのだろうとか、生まれる前はどうだったのか、と考えたくなると思います。
前世の記憶を持つ人がいますが、前世があるということは、今の人生は前世から見れば、来世になるわけです。
生まれる前も後もあるのなら、人間は死んでは生まれるの繰り返しと、考えることができるでしょう。
それは多くの人生を経験するということであり、決して人生は一回限りでは、ないということになります。
とは言っても、今の人生は他の人生とは違うわけで、そういう意味では一回限りです。
それでも、数ある人生の中の一つという意味であり、特別な人生ということです。
どんなに大変に見えたとしても、そこには必ず価値があるわけです。
とにかく、世の中に広まっているような、自分なんかと思いたくなるような、刹那的な人生観は、正しい見方ではありません。
自分の人生の価値は、自分にしかわかりませんし、それを理解するためには、考える必要があるのです。
人生なんて、みんなこんなものだと、思い込まされないで、どうか考えてみて下さい。
必ず今の自分を、もっと楽しみたくなるでしょう。
考えてますか その2
あなたにとって、一番大切なことは何でしょう。
家族あるいは恋人でしょうか。
それともお金?
会社で上司に認められることですか。
会社と言わず、世の中の人々の注目を集めること?
自分の好きなようにできる自由でしょうか。
音楽や絵画、彫刻などの芸術活動?
お芝居や映画、ドラマを作ること?
スポーツやゲームなどの競技で、トップに立つこと?
自分が何かを教えている子供たち?
一緒に何かをする仲間?
人によって、大切にしているものは違います。
誰かにとっては大切なことが、別の人にとっては、それほど大切ではないということは、よくあることです。
そんなことの何が大切なんだ。
それより、こっちだろうが。
と憤る人もいるでしょう。
でも、文句を言ったところで始まりません。
その人が、それを大切だと思うことを、他人がとやかく言うことはできないのです。
みんな、それぞれが大切にしているものを護ったり、追いかけたりすることで、自分が本当に追い求めているものが、何であるのかを知るようになるのです。
今、夢中になっていることは、そのとっかかりに過ぎません。
考えて欲しいのは、何故自分はそれに夢中になるのか、ということです。
本当にそれが好きで夢中になっているとは限りません。
それに対する憧れは、自分の中に何かが欠如していると、感じていることの表れかもしれないのです。
本当の想いは、目の前にあるものに夢中になることではなく、自分の中の欠如を埋めることなのです。
でも、それは無理なことだとあきらめて、その想いを隠してしまうと、自分で自分の気持ちがわからなくなります。
そんな気持ちを再確認するためにも、自分が何かに夢中になるのは、何故なのかと考えてみてください。
夢中になれるものが何もないと言う人も、少なくないように思います。
そんな人も、どうして自分には夢中になれるものがないのかと、考えてみて下さい。
自分は平凡な人間だから、夢中になれるものは特にないと考えているならば、それは大きな誤解です。
そもそも平凡な人間というものは、存在しません。
何か特技で目立つ人がいた時に、目立たない人たちのことをひとまとめにして、平凡な人間という呼び方を誰かがしたのでしょうが、本当の意味で平凡な人というのは、存在しないのです。
どんな人も個性的な存在です。
その人に特別なことがないように見えたなら、それはその人に人を見る目がないだけのことです。
自分に人を見る目がないのを棚に上げ、相手のことを平凡な人間だと、表現するのです。
また、特別な才能があっても、お金が中心の世の中では、それがお金稼ぎに結びつかなければ、その才能は認められません。
でも、それはやはり間違いです。
才能は才能なのです。
また、自分で自分の才能に気がつかない人もいます。
自分にとっては当たり前で、どうってことがないので、それを才能だとは思わないのです。
そもそも自分のこと考える時に、自分なんか大した人間じゃないと、初めから色眼鏡で見てしまいがちになります。
それでは正しい評価はできません。
自分という存在である以上、自分は他人とは違うのです。
それは個性があるという意味であり、それはその人なりの表現や才能があるということなのです。
他人が評価するかどうかは、関係ありません。
自分が存在しているということは、そういうことなのです。
とにかく、考えてみて下さい。
他人や世の中の考え方など、どうでもいいのです。
自分で考えてみて下さい。
そして、本当の自分の価値観で、自分や世の中を眺めてみて下さい。
きっと、それまでとは違う姿や景色が、見えることと思います。
考えてますか その1
世の中には、不思議なことがあるものです。
幽霊しかり、UFOしかり、臨死体験しかり、超能力しかり、前世記憶しかり。
これらは、いわゆる科学の範疇には含まれていません。
そのため、ただの思い込みだとか、見間違いとか、いかさまだとか、エセ科学などと言われがちです。
でも、科学が認めている生命や進化、宇宙などについても、やはり不思議としか言いようのないことばかりです。
科学者がデータを用いて説明すると、何となくわかったような気になったりもしますが、でも実際には何もわかっていません。
生命とは何なのか。
進化とは何なのか。
宇宙とは何なのか。
学者がどんな説明をしようとも、それはその学者の推測でしかありません。
本当のところは、よくわかっていないのです。
また、心とは何かということも、全然わかっていません。
脳の活動だと説明する人はいますが、それでは心が何なのかという説明にはなっていません。
脳の話は、脳と心にどんな関係があるのかを、説明しているに過ぎないのです。
とにかく、世の中は不思議なことだらけです。
子供の頃には、そんな不思議に魅了されますが、大人になっても、その気持ちを抱き続ける人は多くありません。
みんな、日常の暮らしに没頭してしまい、本当に大事なことを考える機会を、失っているからです。
言ってみれば、これはルールや目的、意義などを説明されないまま、バーチャル世界あるいはバーチャルゲームの中に、放り込まれたようなものです。
もちろん、バーチャルを体験しているという記憶は、失われた上でです。
みんな、自分が何者なのかを知りません。
どうして、この時代、この世界にいるのかも知りません。
何故、自分が今の家、今の地域に生まれて来たのかも知りません。
自分の性別や体の状態についても、それが選択された理由を知りません。
とりあえずは周囲の人たちと、同じようなことをやっていますが、本当のところは、自分が何をすべきなのかを知りません。
そもそも、この世界がどんな所なのか、この世界は一体何なのかを、知らないのです。
何のルールもわかりませんから、自分が暮らす地域に流通している決まり事や考え方を、当たり前のこととして身に着けます。
生きる理由もわかりませんし、死ぬということもわかりません。
ただ漠然と、生きることがよくて、死ぬことはよくないことと、受け止めています。
人生は一回きりで、やり直しがきかないと思うので、他人と自分を比べて、自分は恵まれているとか恵まれていないとかと考えます。
恵まれていないと思うと、恵まれているように見える人たちが、うらやましくなります。
場合によっては、腹が立ちます。
でも、悪態をついたり誰かを傷つけたからと言って、自分の状況がよくなるわけではありません。
人生は不公平だと思いながら、その理不尽な人生を、流れに乗って歩み続けるしかありません。
そして死が近づくと、恐れで取り乱し、嘆き悲しむのです。
しかし、それは何も知らずに、人生というゲームをしているからです。
どうせ考えたってわからないと思わずに、いろんなことを考えて下さい。
専門家と呼ばれる人に任せるのではなく、自分自身で考えるのです。
また、何かを理解する時には頭を使うので、考えて理解すると思いがちですが、感じるという感覚も非常に大切なのです。
理屈で理解するのではなく、感覚で理解するということも、身に着ける必要があるのです。
何故なら、私たちが知っている理屈というのは、絶対的なものではないからです。
絶対的なものであるのなら、不思議なことは一つもないでしょう。
不思議なことがあるということは、知っている理屈に不備があるからです。
つまり、私たちが知っている理屈は、限定された理屈と言えます。
それなのに、今の科学で全てを説明できると豪語する人は、傲慢です。
そういう人は不思議を不思議と認めずに、そんなものはないと決めつけて、自分の立場を護ろうとします。
でも実際にはわかっていないことは多く、全てを説明することはできません。
だからこそ、感覚で理解することが大切なのです。
まずは感覚で理解する。
理屈は、あとからついて来るのです。
むずかしいことがわからなくても、まずは感覚的に自分なりに、不思議と思われることを理解するようにして下さい。
その上で、世の中はどうなっているのか、自分とは何なのかと、考えてみて下さい。
その答えは決して無駄になりません。
何故なら、それが自分の人生の指針となり、人生を豊かなものにしてくらるからです。
新たな生活スタイル
昔と比べると、松山にはパン屋さんやカフェが増えました。
お店の中には、週末だけ開けているような所もあります。
私が子供の頃には、そんなお店はありませんでした。
でも最近では、休むところはしっかり休むという店が、増えて来ていますし、消費者の方もそれをそんなものだと、受け止めているようです。
店を閉めている日は、のんびり過ごされているのか、研究をされているのか、あるいは全然別の仕事をしているのか、そこはお店によって事情は異なるでしょう。
いずれにしても、昔では考えられなかった形式でのお店が増えており、それは仕事をする人の自由な気持ちの表れなのでしょう。
それを悪くとらえる人もいるでしょうが、それはその人の考え方です。
人それぞれ価値観が違いますし、仕事一辺倒だった昔とは異なる価値観が、今は多くの人が抱くようになったということです。
また、それを単なる夢や憧れで終わらせることなく、実現してしまうというところが、素晴らしいなと思います。
たとえば、他に副業があったとしても、それで自分がやりたかったことが実現できて、他の人たちからも好評をもらえたら、それは幸せなことでしょう。
別に誰かに迷惑をかけているのでなければ、他人からとやかく言われる筋合いのものではありません。
自分の人生は自分のものと、きっちり把握している姿勢は、本当に素敵だと思います。
また、その姿勢が他の人たちの憧れとなり、同じように自分の夢を実現する人が、どんどん増えて行ったなら、世の中は今よりももっと楽しく、喜びに満ちたものになるでしょう。
こうした生き方をする人が増えれば、これまで当たり前に思われていた学歴社会や、どこかで雇ってもらって給料をもらって暮らすという考え方が、崩壊して行くと思います。
従業員を単なる駒のようにしか見ていなかった企業は、若い働き手が来てくれなくなるでしょうし、現在働いている人たちの中からも、独立する人が増えて、業務が回らなくなるでしょう。
お金を与えて働かせるという発想は、もう時代遅れのものとなり、人としての喜びや思いやりを、いかに仕事を通して得られるか、という点が、企業の善し悪しの基準となると思います。
リモートワークによって、田舎暮らしを始める若者が増えているようですが、農業や漁業、林業に興味を持って、田舎へ移住する若者もいると言います。
徐々に広がる新しい生き方、新しい生活スタイルが、いずれは新しい社会へとつながることは、間違いありません。
それなりの苦労はあるでしょうが、同じ苦労をするのであれば、喜びを得られる苦労の方が、苦労のし甲斐があるというものでしょう。
不安を煽るような出来事が多い昨今ですが、その陰では、じわじわと新しい社会の息吹が、芽吹いて来ています。
だけどお陰さまで
嫌な体験をしたことがない人は、いないと思います。
誰しもが、あれは嫌だったとか、あんなのは二度と嫌だと言うような、体験をしているでしょう。
それでも、よくよく考えてみると、その嫌な体験のあとに、何か自分にとってプラスになるような、あるいはとても価値があるような体験や出来事が、あったという人も、少なくないのではないでしょうか。
その自分にとって素晴らしいことを、どうして体験できたのだろうかと考えてみたならば、必ずその前の嫌な体験があったから、と理解できると思います。
その嫌な体験のせいで、ある場所から離れるとか、仕事を辞めるとか、大きな失意を抱くという状況に陥りますが、その状況の中で、新たな発見があったり、新たな出逢いがあったりして、それが、それまでとは違った素晴らしい経験へと、結びつくわけです。
嫌な体験がなければ、その全ては起こり得なかったわけで、そういう意味では、嫌なことに感謝せざるを得なくなります。
大病を煩ったり、大怪我をしたりして、人生に絶望した人が、そのことを通して本当の愛情を知り、それまで自分が表面的な生き方しか、して来なかったと気づかされることがあります。
その人は、大病や大怪我をするまでの自分は、生きているつもりで生きていなかったということを、理解できるようになります。
そうして生きる喜びを手に入れると、そこへ自分を導いてくれた大病や大怪我に、ありがとうと感謝をしたくなるのです。
大病にしても大怪我にしても、その真っ最中には絶望しかありません。
でも、物事を別の視点で見るきっかけがあると、それまでの自分の方がおかしかったのだと、わかるようになるのです。
ですから、今現在大きな悩みを抱えてつらい思いをしている方がいれば、その先に必ず、今の悩みに対して、お陰さまでと言いたくなるような、広い視野が開ける時が訪れると考えて下さい。
そのきっかけは、視点を変えるということです。
悩んでいる時には、自分の視点を変えてみるようにしてみるのです。
そうすれば、悩みが投げかけている、本当の問題点と、その解決方法というものが、見えて来るでしょう。
そして、あなたは思うのです。
つらかった。
だけど、お陰さまで、こんなに幸せになれました、と。
不思議な歌
今朝、目が覚めたあとに、布団の中でぼんやりしていると、突然女の人の歌声が聞こえて来ました。
以前にも、こんなことはあったのですが、今回は歌だけでなく、なんと演奏つきでした。
太鼓と笛の音に合わせて、女の人が勇ましい感じで歌っているのです。
残念ながら、歌の内容までは覚えることはできませんでしたが、何だかかっこいい歌でした。
歌を聴きながら、何を歌っているのだろう、とか、このメロディーを覚えなくては、とか、いい歌だけど、これは今書いている小説の雰囲気とは少し違うかな、とか、余計なことを考えてしまううちに、頭がはっきりして来て、歌は途中で消えてしまいました。
何とか覚えているメロディーを、パソコンの作曲ソフトで記録しましたが、いやぁ残念無念。
今度から余計なことは考えないで、黙って最後まできちんと聴こうと、自分を強く戒めました。
それにしても、いったい誰が歌っているのでしょうね。
全然知らない声ですし、全く聴いたことのない曲です。
それも音楽のことはもちろん、何も考えないでぼんやりしている時に、勝手に頭の中で始まったのですが、私のガイドが歌ってくれたのでしょうか。
自分たちがついているから、しっかりやんなさいよと、私を鼓舞してくれた歌なのかもしれません。
それにしても、最後まで聴けなかったことは残念でした。
内子で出会ったタロットの女性
先日、私と家内と娘の三人で、内子へ遊びに行きました。
八日市の町並みの一画に、最近ナッツやドライフルーツの、量り売りの店ができたので、そこを訪ねたのですが、ここのナッツもドライフルーツも、とても美味しいのに値段が安いんです。
それで、この店はうちのお気に入りになりました。
この日も、欲しい品をたくさん購入したのですが、たまたまこの日は、タロットカードで悩みや運勢を見てくれるという女性が、このナッツ屋さんとコラボして、無料でタロットの体験をさせてくれるという企画がありました。
その女性は私たちがナッツやドライフルーツを、瓶詰めしている間、店内の端に座っておられたのですが、買い物が終わったあとに、お店の人からタロット体験を勧められ、それぞれがみてもらうことになりました。
本格的なタロットでは、数枚のカードを並べて、相手の状態や運勢をみるのですが、今回は体験なので、一枚だけを引いて、そのカードを通して、簡単な答えを示してくれました。
個人情報になりますので、詳しいことはここには書きませんが、家内も娘も実に適切なカードと、カードの説明を示していただきました。
こちらも特に細かいことなど、何も話していないのですが、まさにぴったりという答えが出て来たので、みんなで驚きながらも満足させていただきました。
この方はカードを引く前に、少しだけ瞑想のようなことをされるのですが、それは何をしているのかと尋ねてみると、相談者の守護霊など、目に見えない存在に、相談ごとの答えを求めているとのことでした。
それは言ってみれば、悩みや考え事を持つ人自身が、心の奥底ではその答えを持っているとうことで、この方はその答えをうまく引き出して、それをカードという形で示してくれるのですね。
あとになってからも、すごいねと家族ともども感心しきりでした。
さて、最後に私の番となったのですが、私は別にこれと言った悩みも心配ごともないので、見てもらうものがありません。
それで、どうしたものかと考えた末、宇宙人が人類の前に姿を見せるのは、いつ頃になるのかを知りたいと尋ねました。
人によっては、ふざけた質問には応じられないと、言うかもしれません。
しかし、この方は知り合いの中に、UFOを目撃した人がいると仰り、私の問いかけに真面目に応じてくれました。
ちなみに、私は決してふざけて尋ねたのではなく、本当に知りたいと思ったから尋ねたのです。
答えは質問者の方にあるということなので、私は自分の高次の意識から、彼女へ情報が流れるようにと思いながら、彼女がタロットカードを選ぶのを眺めていました。
そうして彼女は自分が選んだカードを眺め、少し首を傾げながら、6ヶ月か6年と言いました。
選ばれたカードには、six of autumn とありました。
秋の6ですね。
この6という数字を、6ヶ月か6年かと迷われていたようですが、恐らくその間なのだろうと私は思いました。
また、それが秋の季節なのかどうかはわかりませんが、秋であるならば、6ヶ月後は初夏ですから、6年後の秋ということかもしれません。
あるいは、真夏の暑さのような大騒動が沈静化し始めた頃、という意味にも取れます。
たった一枚のカードだけで、意味をくみ取るのは、難しいことだと思います。
それでも、具体的な数字のカードが出て来ましたし、私が感じている時期と、大体同じのように思えましたので、彼女は上手く情報を引き出せたのだと受け止めました。
6ヶ月から6年の間と言っても、あっと言う間の期間です。
それで宇宙人が姿を現すとなると、それはとても楽しみであり、素晴らしいことです。
ただ、今の人間の状態では現れないでしょうから、この短期間の間に、宇宙人が姿を見せても大丈夫と思えるような、大変革が人類に起こるという意味になります。
それは人によっては、とんでもない大恐慌に見えるかもしれません。
人類はおしまいだと思うかもしれません。
でも、その先には宇宙人と対等に話ができるような、人間社会が生まれているということであれば、不安や心配ばかり抱えるのではなく、その先にある楽しみに目を向けるのがいいでしょう。
このタロットの結果に、私は大いに満足しましたし、それまでに自分にもできることを、もっと気合いを入れてやらねばと、いう気持ちになれました。
また、家族三人に適切な情報を与えてくれた、このタロットの女性には感謝してやみません。
そもそもタロットで情報を引き出せるということ自体が、不思議そのものです。
美味しいナッツやドライフルーツを手に入れられただけでなく、とてもエキサイティングな体験をさせてもらえた、楽しく有意義な内子でした。