頭の理解 心の理解 その3
もし、人間とは全く異なるタイプの、人間よりも遙かに優れた知性体が、宇宙のどこかから地球を眺め、その表面で蠢きながら活動している、ちっぽけな人間たちを観察したら、どう思うでしょうか。
彼らが自分たち以外に、心を持つ存在を認めなければ、人間は何かの意思を持って活動しているようにも見えるけれども、何らかのプログラムに従って、動いているだけかもしれないと思うでしょう。
人間が自分たちと同じような姿をしていれば、人間にも意思や心があるだろうと考えるでしょうが、全く異なる姿をしていて、彼らには人間がとても異質な生き物に見えたとすれば、人間は心のない機械的な生き物だと、判断されるかもしれません。
何度も同じような争いを繰り返し、自分たちが滅亡するかも知れないような戦いを、やめようとしないのは、物事を本当に理解する思考能力はないと、見られてしまうでしょう。
ただ、自分だけがどうやって生き残るかとプログラムされただけの生き物で、争いはそのための手段に過ぎないし、その結果どうなるのかということを、理解する力はないと見るのです。
誰かがエゴを研究するために、遺伝子操作をして創り出した生き物だと、判断されるかもしれません。
それは人間がアリやミツバチを観察するのと、同じようなものです。
しかし、実際は私たちには心があり、自分たちの意思があります。
一人一人の人間には、それぞれのドラマがあるのです。
それと同じように、一匹一匹のアリやミツバチたちにも、それぞれのドラマがあります。
私たちがそれを知る術がないだけです。
いわゆる生き物だけでなく、山にも海にも大気にも、星にも銀河にも宇宙にも、それぞれの心があり、それぞれのドラマがあると考えると、すごいと思いませんか。
人間同士は心を通わせるということがありますよね。
もし人間以外の生き物たちや存在たちと、心を通わせることができたなら、素晴らしいとは思いませんか。
それができるためには、まず相手に心があると認めなければなりません。
そして、心を持つその相手に敬意を払う必要があるでしょう。
それは相手を頭で理解するのではなく、心で理解することです。
相手を自分の自由に扱っても構わないと考えたなら、その相手と心を通わせることなんかできません。
それは人間同士でも同じことです。
それは相手の心を無視した行動です。
自然の存在と心を通わせるには、相手に敬意を払い、愛と感謝の念を伝える必要があります。
動植物の世話をしている人たちには、当たり前のことでしょうね。
そうすれば、きっと互いの心が通い、相手ととてもいい関係が持てるようになるでしょう。
頭の理解 心の理解 その2
争いや揉め事だけでなく、他の生き物たちのことを理解するにも、やはり頭の理解と心の理解の、両方が必要になります。
そうは言っても、科学中心の世の中では、人間が世界を理解しようとする時に、客観的立場というものが重視されるので、全てを頭で理解しようとします。
でも、それでは本当の理解はできません。
動物に心があるということを、半信半疑の学者がいるのは事実です。
ペットを飼っていたり、動物の世話をする仕事に携わっている人には、動物に心があることは当たり前のことです。
しかし、動物を単なる観察対象、実験対象としか見ていない人にとって、動物に心があるかどうかには関心がありません。
心は科学ではうまく説明できないので、観察や実験の対象外に置かれてしまうのです。
もちろん生き物の行動を研究する学問もあります。
でも、そこでは動物に意識があるということは認めても、その意識とは単なる化学反応による、神経組織の活動という見方をしていることがほとんどでしょう。
ですから、神経組織を持たない植物や細菌類などが、意識そのものを持つわけがないという考え方です。
しかし、生き物も喜びや苦痛を感じるし、それに対してどうするかという意識は、あるはずです。
生き物が何かを知覚する時、学者はその生き物の感覚器官で、どのような化学反応が行われるのかということにしか、目を向けません。
その生き物が、それをどう感じているのか、ということには興味がないのです。
その結果、その生き物には心はないと見なしてしまうわけです。
アリやミツバチの集団が忙しく動き回っていても、その一匹一匹が何かを考えていると思う学者は、少ないでしょう。
みんな、ただ機械的に自分に割り当てられた役目を、果たしているだけだと考えるのです。
一匹のアリや一匹のミツバチに、人生と呼べるようなドラマがあるとは思いません。
コンピューターの画面を、プログラム通りに動いている、ゲームのキャラクターたちと、生きているアリやミツバチたちを、同一視しているのです。
しかし、それは間違っていると私は思います。
頭の理解 心の理解 その1
何かを理解するという時、多くの場合、理屈や論理で客観的に理解しようとします。
でも、困っている人や苦しんでいる人などの気持ちを理解する時には、共感という心の理解が必要とされます。
客観的に理解しようとする時、そこには理解するための情報があります。
情報がなければ、理解することができません。
揉め事や争い事などがある場合、それに巻き込まれてしまっては、客観的な判断ができなくなります。
そこで当事者から距離を置き、揉め事や争い事などとは無関係の立場で、客観的にその状況を判断します。
この時に、何故そういう問題が起こったのかという情報を、集める必要があるのですが、その情報の一つとして、当事者たちがどのような想いでいるのか、どんな感情を抱いているのか、ということも含める必要があります。
ただ、これを文章で書いただけの資料では、本当の想いや感情は伝わりません。
判断する人たちが、当事者の身になって、その人たちがどうしてそのような想いや感情を、持つようになったのかを知る必要があります。
これは当事者の主観に対する共感ですが、どのぐらい共感できるかによって、どのような判断材料になるのかは違って来ます。
そこが曖昧と言えば曖昧であり、やはり主観に頼らず、客観的証拠に基づいて判断しなければならない、という考えが強くなるのです。
それでも、争いの被害者を救うのであれば、被害者の気持ちを知らねばなりません。
そうでなければ、被害者の気持ちに沿った支援はできないでしょう。
また、争いを起こす者についても、その者がどうして争うのか、その気持ちを探らなければ、問題の本当の解決はできませんし、似たような争いが繰り返されるのを、防ぐことはできません。
やはり心の理解は必要です。
かと言って、当事者たちの想いにばかり重きを置いてしまうと、具体的な問題解決が遠のいてしまうかもしれません。
当事者たちの言い分が、必ずしも正しいとは限らないからです。
間違った言い分や、歪んだ考え方に、耳を傾けるばかりでは、いつまで経っても争いは続くでしょう。
この場合、客観的な理解が求められますし、それを行うのは心ではなく頭です。
このように、物事を本当に理解しようとすれば、主観と客観の両方の情報を、バランスよく取り入れる必要があるのです。
言い換えれば、頭と心の両方を使って、理解するということです。
二周年
早いもので、ブログを始めてから2年が経ちました。
今年の正月から、Web小説の投稿も始め、ようやくその1作目を、投稿し終えました。
大長編なので、いくつにも分けての投稿でしたが、無事に書き終えることができて一安心です。
一方で、パソコンを使った作曲の勉強も始めました。
こちらはまだまだ修行中で、一曲創り上げるのは、まだまだ先になりそうですが、とても刺激的なことなので、楽しみながらやりたいと思います。
ちなみに、コロナは相変わらず続いており、感染者数だけ見ると、当初とは比べものにならないほど増えました。
減少傾向にあるとは言うものの、依然として高い水準を維持したままです。
それでも、以前のような都市を封鎖するような状況にはなく、みんな昔のように活動しています。
あの緊急事態宣言は何だったのかと、誰もが思っているに違いありません。
政府や専門家の人たちは、まだ油断はできないと言い続けていますが、どこまで本気で言っているのかはわかりません。
これまで言い続けて来たことを、今更変えるわけにも行かず、困惑しているのが本当のところのような気がします。
コロナがというより、コロナ騒ぎがそれなりに落ち着きを見せて来たところに、今度はロシアによるウクライナへの軍事侵攻が起こりました。
日本人的には突然という感じですが、向こうの人からすれば、とうとう来たかという感じのようです。
日本で報道されなかっただけのことで、ロシアがクリミア半島を占拠して以来、ウクライナ東部では、ずっと争いが続いていたようです。
コロナが恐ろしいかどうかも、報道の仕方が大きく影響していたと思います。
外国で何が起こっているのかも、報道のやり方一つで、全然違う印象ができてしまいます。
現に、ロシア国内での報道と、世界各国の報道は、同じ状況を報道しているのに、その説明が全く真逆になっており、それぞれの国民は、その報道を信じるわけです。
何を信じるかは、人それぞれです。
何が本当に正しいのかは、誰にもわかりません。
それほど情報は巧妙に操作されるものだからです。
正義だと信じていたことが、実はそうではなかったということが、何年も経ってから暴かれるということも珍しくはありません。
信じられるのは自分だけです。
だからこそ、自分自身の心に物事の真偽を問わねばなりませんし、真偽を問えるほどに、普段から自分の心を磨いておく必要があります。
戦争について言えば、どちらの国の言い分が正しいという見方ではなく、人が人を殺しても構わないのか、という点だけを考えるべきでしょう。
戦争の発端になったところでも、人が人を傷つけたり殺したりという事実があったのであれば、それについても考えねばなりません。
本当は誰もが平和を望み、争いを嫌うはずなのに、何故相手を傷つけたり殺したりしてしまうのか。
その本当の理由を掘り下げて行かない限り、同じことは繰り返されるでしょう。
それが歴史は繰り返すと言われる所以です。
コロナにしても、戦争にしても、そこから何を学ぶのか。
本当に注目すべき点は何なのか。
それを学べなければ、同じこと、あるいはもっとひどい状況が現れるでしょう。
そうならないように、少しでも私の意見が、人々の役に立てたなら幸いです。
という思いで、三年目に突入です。
嫌なこと その2
何があっても平常心でいられれば、いいですよね。
でも、平常心でいようと努めても、なかなかそうはいきません。
嫌なこと、腹が立つことが起これば、思わずムカッと来るでしょう。
そもそも嫌なことがあるということ自体、平常心でいられないということです。
でも、それは別に悪いことではありません。
嫌なことに嫌だと反応するのは、自然なことであり、次にどうするかということを考える、大きな指針になるのです。
では、平常心とはどういうことなのでしょうか。
それはいろんな物事や、いろんな人に対する、理解度がとても深いということです。
相手の気持ちや、物事の状況を、深いところで理解していますので、ちょっとやそっとのことでは、動揺したり慌てふためいたりしないのです。
それでも、これはさすがに危ないな、このままではいけないぞ、と理解すれば、その人はパニックになることなく、静かにその場を立ち去るでしょう。
平常心でいるということは、自分が置かれた状況に対して、何でも受け入れるというのではなく、常に冷静な判断に基づいた行動を取るということなのです。
そうは言っても、今自分が直面している嫌なことを、理解するなんて無理だと思う時は、そこから離れることをお勧めします。
離れられない理由があったとしても、とにかく少しその状況から、距離を置きましょう。
そうすれば、離れられない理由というのが、本当にそうなのかということも、冷静に考えることができるものです。
また、その環境から離れることで、嫌なことを客観的に眺めることができます。
それが本当に嫌なことなのか、単に自分の理解が足らなかっただけなのかが、わかるようになるでしょう。
その結果、再び同じ環境に戻り、嫌な気持ちにならずに過ごすか、これは無理だなと判断して、新たな環境に移ることにするかが、判断できるわけです。
そこには困惑もうろたえもありません。
自分で冷静に考えて、落ち着いて行動するわけですから、どうしたところで心は安定しています。
それが平常心を維持できるということなのです。
平常心に憧れる人は、嫌なことがあった時、少しそこから距離を置くよう心がけて下さい。
きっと、知らないうちに平常心になっていると思います。
嫌なこと その1
嫌なことって、ありますよね。
それは普段からあることかもしれませんし、降って湧いたような思いがけないことかもしれません。
他人から見れば些細なことかもしれませんし、誰が見たって嫌だよねと思うようなことかもしれません。
そんな時には、どうするのでしょうか。
いらいらするのを我慢するのでしょうか。
我慢と言っても、嫌な気持ちを顔に出しながらということもあれば、顔では笑顔を見せながらということもあるでしょう。
いらいらを我慢せず、相手にぶつけることもあるでしょうか。
不平や文句を言って、相手の反応を見ても、相手が態度を変えるかどうかはわかりません。
文句を言って、態度を改めてくれればいいのですが、それでも不愉快な想いは残ります。
文句を言っても、相手が態度を改めなければ、まだわからないのかとばかりに、怒りが増幅されるでしょう。
それが相手との大喧嘩などの争いになることもありますし、場合によったら、傷害事件や殺人事件へと発展してしまうことだってあるのです。
自分の言い分が通ろうが通るまいが、争いになってしまうと、いい気分にはなれません。
かと言って、争いを避けるために、自分に我慢を強いるというのも、つらいものです。
そのまま続けていると、いつかは爆発したり、あるいは病気になったりするでしょう。
嫌なことがある場合、二つの対処法があります。
一つは、自分が置かれた状況や、自分が関わる相手のことを、それまでとは違う視点で眺めてみることです。
物事を理解する時、その基準となる自分の立ち位置があります。
立ち位置を変えることで、理解の内容が変わります。
相手を別の視点で眺めることで、相手への理解ができたなら、嫌なことは嫌なことではなくなるかもしれません。
もう一つの方法は、さっさとその場所、その環境から逃れるということです。
ここは自分の居場所なのに、どうして自分が逃げないといけないのか。
ここは先祖代々受け継いで来た所だから、手放すわけにはいかない。
自分には何の非もないのだから、逃げる理由がない。
いろいろ理由をつけて、その場に留まろうとすることも、少なくないでしょう。
しかし、どんな理由を並べたところで、嫌な気持ちがあるということは、自分が置かれた環境に対して、自分の心が拒絶反応を示しているわけです。
それを無視し続けると、我慢できずに逃げようとした時には、すでに逃げられなくなっているかもしれません。
何かへの執着は、様々なトラブルの元になります。
また、誰が正しくて誰が悪いのか、という考え方も余計なことです。
自分の心に従って、居心地のいい環境を見つけること。
嫌なこととは、そうすることを促してくれている、人生の道しるべでもあるのです。
見直されるべき事業 その2
大小を問わず、社会的な問題を引き起こすような企業の経営者は、自分たちの仕事の意味を理解していません。
彼らの目的は仕事ではなく、お金稼ぎなのです。
問題が起こるとは、これっぽっちも予想できませんから、当然責任感もありません。
こんな人たちに事業を継続させるのは、それこそ社会問題と言えるでしょう。
それでも、彼らも生まれた時には、他の人たちと同じ、可愛い赤ちゃんだったはずです。
彼らが金の亡者になるには、それなりの理由があるのです。
そこを掘り下げて考えると、やはりその経営者が生まれ育つ間の教育や、周囲の大人たちの言動が、大きく影響しているのだと思います。
つまり、お金を稼げた人が勝者であるという考え方を、家族も学校もそうですし、あちこちにいる普通の人々が、自分では意図しないまま、世の中とはそんなもんだという風に、子供たちに擦り込んで洗脳しているわけです。
もちろん、それで全ての子供が大人になって、金の亡者になるわけではありません。
それでも、お金儲けよりももっと大切なことがあるということを、子供の頃からみんなが教えるようにしていてば、金の亡者になる子供はぐっと少なくなるでしょう。
個人であれ企業であれ、自分がしている仕事には、誇りとこだわりを持ってもらいたいと思います。
いわゆるブラックと見なされる企業は、営業停止にしてもいいでしょう。
その企業がなくなると困るという人もいるかもしれません。
でも、その企業が手がけている仕事が、本当に重要な仕事であるならば、必ず志のある者たちが、新たな企業を立ち上げて、本当にいい仕事を行おうとするでしょう。
そういうところを、行政にもしっかりしてもらいたいところですが、行政も一つの企業組織のようなものだと考えると、行政もまたブラックになっていると言えるかもしれません。
株式会社の場合、株主が会社の経営をチェックしたり、口を挟んだりすることができます。
行政の場合、庶民が株主の役目を果たさねばなりません。
ブラックな企業が事業を継続できないようにするためには、我々が行政に意見をする必要がありますし、その一番の方法が選挙です。
選挙の投票率が低いことは、よく話題に上がりますが、あきらめずに投票をするべきでしょう。
また選挙以外にも、ブラックな企業では働かないとか、ブラックな企業の商品やサービスは利用しないなど、私たちにもできることはあるでしょう。
そうなれば、ブラックな企業は簡単に潰れてしまうはずです。
社会の問題が問われる時、自分には関係ないとは考えず、ささいなことではあったとしても、自分にできることで、自分の意思表明をすることが、何より大切だと思います。
見直されるべき事業 その1
資本主義の世の中では、お金を稼ぐことが第一と考えられています。
そのため多くの企業は、いろいろ理念を掲げてはいても、収益を上げることを第一考えます。
いい商品を作った結果、稼ぎが手に入る、というのではなく、稼ぎを手に入れるために、いい商品を開発する、という流れになっている所が多いと思います。
いい商品を作った結果、稼ぎが手に入る場合の「いい商品」とは、こだわりを持った本当にいい商品です。
ところが、稼ぎを手に入れるために開発する「いい商品」とは、お客に注目させることが一番の商品になりますから、それは必ずしも本当にいい商品とは限りません。
お客に、いいと思わせることができればOKですから、本当にいい商品でなくても構わないのです。
昔であれば、メイドインジャパンは信頼の証でしたし、日本の商品は性能がよくて壊れにくくて長持ちするのが売りでした。
しかし、今はお客に買い換えてもらうために、わざと長持ちしないように作ったり、値段を安く見せかけるために、商品の質を落としたりすることが多いと聞きます。
アメリカで好い加減な作りをされた、日本製の自動車のエアバッグで、多くの人が亡くなって大きな騒動になったことがありました。
そのエアバッグを製造したのが日本の企業だと知った時、私は大きなショックを受けました。
メイドインジャパンの信頼が、粉々に吹っ飛んでしまったのです。
その後も似たような問題がいろいろ出ました。
どれもこれも上からの指示で、現場に無理なことをさせた結果、不良品であるにも関わらず、正規の商品として市場に出てしまうのです。
全ては金儲けを第一に考える企業トップの責任です。
本来はそんな企業に仕事をさせてはいけないのですが、今の世の中はそれが通用してしまうわけです。
今、ニュースで大きく取り上げられている、北海道の知床の観光船の事件も同じことです。
海のこともよく知らない経営者が、乗客の危険を顧みずに、無理な出航をさせた理由は、お金以外にはないでしょう。
今更どんなに頭を下げたところで、死んだ人たちの命は戻って来ません。
他の観光船の会社の人たちは、この会社がいつか大きな事故を起こすと思っていたようですが、そんな会社が事業を継続できている現状が、私はおかしいと思います。
安全を軽視していることがわかっているのであれば、その時点で営業を停止させるべきだったでしょう。
ところが、日本は大きな事故が起こらなければ、問題点が指摘されていても、それに対して対処しようとしません。
日本の悪い癖です。
このような問題は、直接的には経営者が悪いのですが、その経営者が事業をできる環境を、維持している者たちの責任が、一番大きいと私は思います。
何かを創ろう
子供は何かを創るのが大好きです。
粘土やブロックがあれば、それで何でも好きなものを創ります。
単に何かを創るだけでなく、それぞれに命を吹き込んで、そこに世界や物語を紡いで行きます。
大人でもそのようなことができる人はいます。
芸術家や小説家、映画やドラマを創る人たち、料理研究家、ゲーム制作者など、いろいろありますね。
みんな、大人ではあるけれど、子供の頃の心を失わず、大切に持ち続けているのだと思います。
しかし、子供の頃の気持ちを忘れて、みんなと同じことをするのが大人だと信じている人も多くいます。
毎日同じような日々を繰り返して、つまらなくてもそれを我慢して繰り返すのが、大人なのだと思い込んでいるというか、思い込まされている人が本当に多いと思います。
他人を思いやることは大切ですが、そのことを逆手に取られて、自分が我慢してでもみんなのためにがんばるとか、不満があっても会社のために仕事をする、という考え方が正当化されているような気がします。
他人を思いやりながらも、自分自身のことも大切にするのでなければ、やってられないでしょう。
それを、みんながそうしてるからと、自分に言い聞かせて続けていると、病気になるか、生活が崩れるか、人間関係が壊れるか、何かの問題にぶつかることになると思います。
また、自分自身を大切にして来なかった人が、仕事をくびになるとか、会社が潰れるとか、病気や事故で仕事が続けられなくなる、あるいは定年で辞めるという感じで仕事ができなくなると大変です。
仕事の時には言われたことをしていればよかったのですが、仕事を離れると、自分が何をどうすればいいのかわかりません。
やりたいことをすればいいよと言われても、何がしたいのかさえわからない、という人は少なくないはずです。
それはとても不幸なことだと思います。
本来の自分が封じ込められてしまって、自分がどうしたいのかもわからないわけです。
でも、そんな時には子供の心を呼び起こせるように、何かを創る作業に挑戦してみるといいでしょう。
失敗を恐れる必要はありません。
失敗も笑いのネタになりますから、失敗が多いほど楽しめます。
それに失敗は成功の元と言うように、失敗することで、どうすれば成功に近づけるかがわかります。
そうやって何かを創り上げた時の喜びはひとしおでしょう。
それで、そこにはまってしまったなら、どんどん自分なりのこだわりを追求して、もっといいものを創ることに夢中になればいいのです。
そうすれば、忘れていたはずの子供の頃の心が蘇り、人生は自分のものであるということを思い出せるでしょう。
人生とは体験ですが、挑戦でもあり、創作でもあるのです。
人生そのものが、自分のオリジナル創作作品だと考えれば、人生をどのような作品に仕上げるか、ということに大いなるこだわりを持てるようになるでしょう。
それはとても楽しいものであり、充実した人生を経験できることになるのです。
同じような日々を、機械的に暮らしているだけだと感じているならば、ぜひ何かを創作してみて下さい。
そして、人生もまた自分の作品であることに、気づけますように。
理解すること その4
どうして自分は、今のような状況にあるのだろうか。
自分は本当に、今の生き方を望んでいるのだろうか。
どうして世の中は争いが絶えないのだろう。
みんな、平和を望んでいるはずなのに、何故戦争が起こるのだろう。
お金がないと困るけど、そもそもどうしてそんな世の中なのか。
本当にお金がなければ、生きていけないのだろうか。
世の中にはいろんな宗教があるけれど、どれが本物なのだろう。
日本人は無宗教の人が多いけれど、無宗教だとどんな支障があるのだろう。
本当に神さまがいるのなら、何故今みたいな世の中になっているのか。
命を奪ってはいけないと言うのに、みんなが食べているのは、元々は命がある生き物ではなかったのか。
人は殺してはいけないけれど、他の生き物は殺してもいいのだろうか。
心って何だろう。
私とは何だろう。
何で自分は男あるいは女なのか。
何故他の時代じゃなくて、今の時代に生まれて来たのか。
生まれる前って、どんなだろう。
死ぬというのは、どういうことなんだろう。
宇宙人って本当にいるのだろうか。
光速を超えての移動はできないと言われてるけど、本当なのかな。
光は粒子でもあり、波でもあるって、どういうこと?
誰かを好きになるって、いったい何なの?
どうして孤独は嫌なんだろう。
人間以外の生き物は、どうやって会話をしてるのかな。
地球は生きているって言われるけど、それってどういうこと?
いろんなわからないことが、世の中には一杯あります。
自分のことでも、自分以外のことでも、どうしてだろう、何故なんだろう、と思ったなら、自分は専門家ではないからと、疑問を投げ出したりしないで、じっくり考えてみて下さい。
学校の試験とは違います。
時間はたっぷりありますから、好きな時に好きなだけ考えてみて下さい。
誰かが、こうだろうと言っても、それを鵜呑みにしてはいけません。
参考にするだけで、自分で考えて下さい。
いろんなことを考えて下さい。
世界は元々一つですから、全然違うことを追求していたはずなのに、同じ結論にたどり着くこともあるでしょう。
ある分野で言えることは、全く異なる分野でも言えるのです。
何故なら、全ては同じものを、異なる視点で眺めているだけだからです。
どんな発見があるのか。
楽しいですから、ぜひ考えてみて下さい。
それは必ずあなたの進化につながります。