本当の強さ その3
一見、弱者に見える人たちが、本当に弱いのかを、検証してみましょう。
体力がない人、病弱な人、恵まれない環境にいる人、障害がある人。
こんな人たちは弱者と見なされてしまいますが、では、あなたがその人たちと同じ状況に置かれたとして、それに耐えられるかを考えてみて下さい。
いろんな不自由に制限される中で生きて行くことは、簡単なことではありません。
それを生き抜くだけでも、心の強さが求められますが、不自由を不自由とは感じないように、明るく楽しく生きる人の心は、強いという言葉を超えたところにあります。
他人から見れば、とても大変で苦痛に見える状況の中で、それをものともせずに生きている人がいれば、その人こそが本当に強い人と言えるでしょう。
自分に与えられた状況を素直に受け入れ、その中で自分らしさを失わずに、生きる喜びを見いだせる人。
こんな人は、他人と比べた時の自分の弱さを、全て認めて受け入れています。
決してそれを否定したり、自分を卑下して哀れんだりしません。
誰かに力を貸してもらえたら、素直に喜び感謝します。
また、自分でも誰かに力を貸す時があると理解しています。
苦しさや悲しさがあっても、そこから新たな感謝や喜びを見いだす力を持っています。
世間で一般に言われている強い人には、とても真似ができないことでしょう。
本当の強さとは弱さの中にあるものです。
誰かと比べるものではありません。
強さと弱さは対比の言葉であり、表裏一体です。
弱さがあるからこそ、強さがあるのです。
弱さが大きければ大きいほど、そこから生まれる強さは、比例して大きくなるのです。
本当の強さとは、自分の弱さを受け入れた時に出るものです。
弱さを否定するような強さとは、まがい物の強さです。
まがい物の強さは、一時的には人々の心を惹きつけるかもしれません。
でも、すぐに忘れられてしまいます。
それに対して、本当の強さは忘れられることはありません。
人々の心に深く感動を与え、いつまでも記憶に残るものです。
それが本当の強さなのです。
本当の強さ その2
そもそも強いとか弱いというものは、何かを基準とした時に、初めて言えることです。
基準がなければ、強いも弱いも言えません。
力比べをする場合、相手よりも大きな力を出せた方が強いとすれば、どちらの力が大きいかということが、強さの判定の基準になります。
AさんとBさんが力比べをして、Aさんの方がBさんよりも力が大きければ、Aさんの方が強いと言えます。
しかし、だからと言って、Aさんが強い人なのかと言うと、そうではありません。
あくまでも、Bさんと比べて力が強いというだけの意味合いです。
Aさんよりも、もっと大きな力を持つCさんと、力比べをしたならば、AさんはCさんには勝てませんから、力が弱い人だということになります。
では、Aさんは弱い人なのでしょうか。
そうではありませんよね。
あくまでも、Cさんと比べれば力が弱いというだけの話です。
つまり、力が強いから強い人なのかと言うと、それは誰と比べるかという条件付きの話であって、本当に強いとは言えません。
権威や権力がある人はどうでしょうか。
彼らは本当に強いと言えるのでしょうか。
権威とは本人が決めることではなく、周囲の人や世間が決めることです。
あの人はすごいぞ、とみんなが認めるからこそ、権威が生まれるのです。
権威があれば、自分の意見が通りやすくなりますから、力があるように見えますが、権威が失墜するようなことがあると、あっと言う間に人々の信頼はなくなり、ただの人になってしまいます。
こんなのは本当の強さとは言えません。
権力についても同じです。
自分には権力があり、みんなを支配していると思っていても、みんながそれを受け入れてくれているからこそで、そっぽを向かれては権力なんて、すぐに消えてしまいます。
政権クーデターなんかが、そのいい例でしょう。
あるいは、悪徳企業で働いていた人たちが、一斉に反旗を翻して反発すれば、企業は存続ができません。
企業を存続させるためには、それまでの権力者が一掃される必要があります。
これも本当の強さではありませんよね。
お金を持っている人が、社会的に強いと思うのも間違いです。
大金持ちが破産することは有り得ますし、資本主義社会自体が崩壊することも、十分に有り得ることなのです。
そうなれば、いくらお金を持っていても役に立ちません。
お金を楽して稼ぐことばかりしていた人は、何の知識も経験もないでしょうから、あっと言う間に奈落の底へ落ちてしまうでしょう。
これも本当の強さではありません。
では、本当の強さとは何でしょうか。
そんなものがあるのでしょうか。
本当の強さ その1
強さというと、力を連想すると思います。
まず思い浮かぶのは、マッチョな人や、格闘技をする人ではないでしょうか。
次は権威や権力を持つ人たちですね。
この人たちは、体が細くても構いません。
自分の体に力がなくても、権威や権力を使って、他の人たちを動かせるからです。
また、お金をたくさん持っている人も、社会的に強いと思われているでしょう。
その強さを本人が自覚していないこともあるでしょうが、明らかに自分は力があると信じている人もいると思います。
いずれにしても、他の人ができないような力を備えている人が、強い人だと思われるのが普通ではないでしょうか。
一方で、弱い人となると、どうでしょうか。
大雑把に言えば、今述べた強い人ではない人たちは、弱い人の範疇に入れられると思います。
何故なら、支配される側にいるからです。
その中でも、もっと弱い人となると、どんな人が思い浮かぶでしょうか。
まずは、体力的に力がない人。
単に力がないというだけでなく、子供やお年寄り、病弱な人もここに入ります。
それから、誰に対しても従順で言いなりになってしまう人。
明らかな虐待やいじめの対象になっている人だけでなく、普段から自分の意見を言わず、人から言われたことばかりしている人も、ここに入ります。
また、お金がなくて一人では暮らせない人も、弱い人と思われます。
低賃金の人や職のない人だけでなく、子供やお年寄り、怪我や病気、障害などで仕事ができない人も、ここに入ります。
世の中でいう弱者とは、大体このような感じでしょうか。
しかし、どんなに強く見える人でも、死には勝てません。
どんなに力を持っていても、どんなに権力やお金を持っていても、それはあの世へは持っていけないのです。
人生なんて宇宙の時間と比べると、ほんの一瞬にもなりません。
そんなあるかないかもわからないほど短い人生の中で、力が強いとか、権力があるとか、お金を持っているなんて言っても、空しいばかりだと思います。
そんな空しさを感じさせるものは、本当の強さとは言えません。
信じるということ その4
信じることと、理解することは、別物です。
たとえば、空っぽの箱の中から、生きたウサギを取り出す手品がありますよね。
手品を知らない人が見れば、何が起こったのかと思うでしょう。
これは魔法だと言われれば、そう信じてしまいます。
でも、手品を知っている人は、それが魔法ではないことがわかりますし、手品師が空の箱から、どうやって生きたウサギを取り出したのかを、理解しています。
海を知っている人は、潮風がどんなものかわかりますし、海の水がしょっぱいこともわかります。
広い海原の壮大さもわかりますし、荒れた海の恐ろしさもわかります。
海を知らない人が、行くことのない海について知ろうとすれば、本などからの知識に頼ることになります。
それは一種の理解ではありますが、本当の理解ではありません。
それでも、自分では海のことをわかったつもりになりますから、本を読まない人たちに、いろいろ海についての講釈をしたりもします。
本も読まない人にとっては、この人が唯一の手掛かりであり、この人を通して、海とはこんなものなのだと信じます。
この人の言葉一つで、本物の海とは違うイメージも抱いてしまいます。
信じることと、理解することとは、このような違いあるのです。
信じるというのは、自分はそれを知らない、という意味でもあります。
知っているのであれば、信じるという言葉は使いません。
また、知っているのであっても、本などの知識によって知っているのと、自分自身の体験や感覚を通して知っているのとは、また違って来ます。
本当に知るためには、体験や感覚が欠かせません。
しかし、全てを体験したり感じたりはできないでしょうから、自分がまだわからないところはあるわけです。
理解するということは、自分の限界も理解するということであり、新たな情報や経験が加われば、その理解は変わる可能性があるということです。
それを、そんなのは理屈に合わないから有り得ないとか、非科学的だと言って否定してしまうのは、本当の理解とは言えません。
理解しているつもりで、いつのまにか信じているだけになっているのです。
理解するとは、本当の状態である真実を、知識や感覚など総動員して知ることです。
そして、全てを知ることはできない、ということも知ることです。
それは知性を刺激して、もっと知りたいという想いにつながります。
それがさらなる進化や発展へと結びつくのです。
信じることは悪いことではありませんが、それは自分が理解はしていないのだ、という意味であることを、わかっておく必要があるのです。
信じるということ その3
信じることも疑うことも、やっていることは同じです。
相手を自分が作った枠に、無理やり押し込もうとしているのです。
信じていた枠に相手がはまらなければ、裏切られた気持ちになります。
疑っていた枠に相手がはまらなければ、いい意味で裏切られた気持ちになります。
それはそれで、人生の中の経験であり、楽しめるものではあります。
でもそれだけでなく、信じたり疑ったりすることには、次なるステップへ踏み出すための、情報集めという役割があるのです。
それは、相手や状況を理解するということです。
相手や物事の本当の姿を知るということなのです。
それがどのようなものであれ、いいも悪いもありません。
そういう見方をすることは、再び相手を枠にはめることになります。
それが相手の姿であるならば、こちらでそれに無理な意味づけはせずに、その相手をそのまま受け入れるしかありません。
大好きな人が浮気をしたとすれば、どうして浮気をしたのか、その気持ちを探ればいいのです。
それで、もし自分に対する気持ちが失せているのであれば、それは受け止めるしかないでしょう。
それは新たな道が始まったというだけのことです。
相手への未練や偏見、執着は、新たな道を歩み出すのには、邪魔になります。
余計なことは考えず、素直に次のステージへ向かいましょう。
未来がどうなるかも、誰が未来を創るのかによって、違う未来が訪れるでしょう。
自分が望む未来があるのなら、自分がその未来を創るようにすればいいのです。
ある場所や、ある物、ある考え方にこだわったり執着していると、それに見合った未来が訪れるでしょう。
こんな未来がいいと、本当に思うのであれば、自分の中にある、その未来を創るために邪魔になるものを、さっさと手放さなければなりません。
神がいるかどうかを考える前に、神という言葉が、何を示しているのかを考えましょう。
誰かが作った神のイメージではなく、自分自身が理解できる神を、思い描けばいいのです。
自分の経験と矛盾しない神ですから、いいことも悪いことも、全てを認める神のはずです。
勧善懲悪の神ではありません。
また、神が世界を創ったと思うのであれば、その神はどこにいるのかと考えればいいのです。
それは世界の他に、神の居場所があるということです。
では、その神の居場所は誰が作ったのでしょうか。
いろいろ考えるといいと思います。
そして、全てを納得できる神のイメージができたなら、神を信じるとか、神なんているものか、などと考えることはなくなるでしょう。
信じるということ その2
信じることと、疑うことは表裏一体です。
信じるということに言えることは、疑うということにも言えるのです。
あんな奴がうまくいくはずがない。
未来に希望なんかあるものか。
神なんているわけないだろう。
こんな風に、周囲の人や世の中を悪く見てしまうこともあるでしょう。
でも、この「疑う」という言葉には、裏の顔があります。
それは「信じる」という言葉です。
何故、相手を疑ったり、悪く思ったりするのでしょう。
それは相手を信じたいのに、相手がそれと違う顔を見せるからです。
疑うという気持ちを持つ時は、一方で相手を信じたいという気持ちがあるのです。
どうでもいい相手のことなど、信じることもなければ、疑うこともありません。
どうでもよくないからこそ、こうあって欲しいとか、どうしてそうなのか、と考えてしまうのです。
あいつは何てひどい奴なんだろう。
だけど、あいつだって本当はいい所があるはずだ。
未来に希望なんてないし、人類は滅亡するに違いない。
だけど、こんな素敵な人もいるから、そうならないかもしれない。
世の中に神も仏もあるものか。
だけど、涙が出るほど感激する時は、神仏に感謝したくなる。
何かを疑う時、どれぐらい疑っているのかは、人それぞれです。
疑うという言葉を口にしても、実際はそれほど疑っていない人もいれば、確信を持って疑っている人もいます。
疑い切っている場合、そこには一点の信じる気持ちもないように見えます。
でも、疑っていたのとは異なる現実を、目の前に突きつけられると、その人はパニックになるでしょう。
何故、パニックになるのか。
それは状況が理解できないからです。
思考が停止し、全てに自分が騙されたように感じてしまうのです。
自分にはなかったはずの信じる気持ちが、ビッグバンのように一気に爆発するのです。
大嫌いだった人が、子猫を助けるために自分を犠牲にした。
戦争になったのに、敵国の人たちが自分を助けてくれた。
神なんかいないと思っていたのに、絶望の中に光を見つけた。
こんな風に疑っていたことが、脆くも崩れ去るということは、有り得ることです。
また、実際にこんなことは起こっています。
こうなると、もう何も疑う気持ちになれないかもしれません。
全ては愛と喜びに包まれているような、そんな気持ちになるでしょう。
疑うということとは、その対象がどのようなものなのかを、理解しているわけではないのです。
こうなんだ。
こうに違いない。
こうに決まってる。
こうであって欲しい。
そんな自分の期待や価値観で作った枠に、相手を押し込めようとしているだけなのです。
それは自分が勝手に作った枠ですから、相手がその枠に収まるはずもありません。
収まっているように見えても、枠からはみ出してしまう可能性は、いつでもあるのです。
そして、相手が枠にはまらなかったり、はみ出してしまった時に、嘘でしょ? となるわけです。
信じるということ その1
何かを信じる。
とても素敵な響きがある言葉です。
あなたを信じる。
未来を信じる。
神を信じる。
でも、この言葉には裏の顔があります。
それは「疑う」という言葉です。
何かを信じるということは、一方で、その何かを疑う気持ちもあるということです。
あなたを信じる。
だけど、あなたは私を裏切るかもしれない。
未来を信じる。
だけど、未来は期待したようなものではないかもしれない。
神を信じる。
だけど、本当は神なんていないかもしれない。
何かを信じる時、どれぐらい信じているのかは、人それぞれです。
信じると言っても、実際は言うだけで、ほとんど信じていない人もいれば、絶対にそうだと信じ切っている人もいます。
信じ切っている場合、そこには一点の疑いの気持ちもないように見えます。
でも、信じていたのとは異なる現実を、目の前に突きつけられると、その人はパニックになるでしょう。
何故、パニックになるのか。
それは状況が理解できないからです。
思考が停止し、全てに自分が騙されたように感じてしまうのです。
自分にはなかったはずの疑いの気持ちが、ビッグバンのように一気に爆発するのです。
大好きだった人が、浮気をしていた。
平和になると思っていたのに、戦争が始まってしまった。
神さまを信じていたのに、自分の人生はおしまいだ。
こんな風に信じていたことが、脆くも崩れ去るということは、有り得ることです。
また、実際にこんなことは、よくどこかで起こっているのです。
こうなると、もう何も信じられないと、全てを投げやりにしたくなったり、何も楽しくなくなってしまうかもしれません。
不安と絶望で暗い日々を送る人もいるでしょう。
信じていた自分が悪いとか、裏切った相手や状況が悪いとか、そんなことばかり考えて埒が明きません。
信じるということとは、その対象がどのようなものなのかを、理解しているわけではないのです。
こうなんだ。
こうに違いない。
こうに決まってる。
こうであって欲しい。
そんな自分の期待や価値観で作った枠に、相手を押し込めようとしているだけなのです。
それは自分が勝手に作った枠ですから、相手がその枠に収まるはずもありません。
収まっているように見えても、枠からはみ出してしまう可能性は、いつでもあるのです。
そして、相手が枠にはまらなかったり、はみ出してしまった時に、どうして? となるわけです。
苦境はチャンス その3
ヨーロッパではロシアがウクライナに侵攻し、先進諸国であっても、直接戦争に巻き込まれるという現実に、多くの人々が震え上がったでしょう。
ロシアは禁断の核兵器の使用までちらつかせ、アメリカもEUも対処の仕方に苦しんでいます。
また、この争いは世界中を巻き込んで、日本の周辺でもキナ臭い感じが漂い始めています。
不安になりやすい人は、このまま日本にもロシアが攻めて来るとか、この機に乗じて中国が台湾に侵攻して、日本も巻き込まれるなどと考えるみたいですね。
でも、どんなに不安な状況を考えても、それは数ある可能性の一つに過ぎず、他の可能性と比べて、特別起こる確率が高いわけではありません。
ただ、その確率が高いと思わせるような記事を書くと、それにみんなが注目するので、無責任なことを書き並べる人が目に付きます。
どの可能性を引き寄せるかは、私たちが決めることです。
誰かが引っ張って来るのではありません。
それなのに、悪い可能性を引っ張る人に任せて、自分は何もしなければ、その可能性は現実のものとなるでしょう。
大切なことは、今の状況の表面的なことではなく、世の中の本当に病んだ部分に、光を当てることです。
その部分こそが戦争を含めた、世界中の争いの源です。
それを明らかにして、そこを改善していけば、自ずと争いは収まりますし、それも平和的に終わります。
争いが終わったあとに憎しみが残るのではなく、新しい真の平和を築こうと、敵味方の隔てなく、全ての人が手を取り合うことになるでしょう。
もう、その時点で新しい世界の到来です。
戦争なんて、頭に思い浮かぶことなどありません。
みんなの頭に浮かぶのは、人々の喜ぶ笑顔と、充実した楽しい暮らしです。
それがどこの誰であれ、困っている人を放ってはおきません。
いい物があれば、それを誰とでも分かち合います。
何かで自分だけが儲けてやろうだなんて、誰一人考えません。
戦争の理由を、目先の人物や目先の国に探したのでは、本当の解決にはなりません。
核兵器が厄介であるのなら、核兵器をやめればいいのです。
どうせ使えない武器です。
万が一、使ってしまうと大変です。
だったら、全部捨ててしまえばいいのです。
そもそも、相手を殺してまで、何を手に入れようとしているのかを、よく考えてみたらいいのです。
どんなに正当化しようとしたところで、人の命を奪う正義など存在しません。
それが正義に見えるのは、自分の知性のレベルが、その程度だということです。
もっと高い知性を目指すことで、新たな世界観が見えて来るでしょう。
食料やエネルギーも、この戦争の影響で、各国ともに苦しい状況になっています。
その影響は、まだまだ続くことでしょう。
でも、それは人々に食事やエネルギーについて、真剣に考える機会を与えてくれています。
ちょうど気候変動の問題も重なっていますから、それと合わせて、素晴らしい方法が見いだされることと思います。
今はクリーンなエネルギーというと、太陽光発電や風力発電などの自然再生エネルギーが、頭に浮かびますが、恐らくフリーエネルギーというものが、現実化して来ることでしょう。
放射能汚染の恐れがある原子量発電は、やはり敬遠されるべきものですが、化石燃料を使わず、自然再生エネルギーだけでは、まだ今の電力維持には足りません。
世の中の状況は、フリーエネルギーを開発せざるを得ない状態になっています。
これが開発されれば、世界の産業は一変するでしょう。
貧困だった国も豊かになります。
一部の国が富を集めるのではなく、全ての国が平等にエネルギーの恩恵を、享受できるようになるでしょう。
今は世界中がとても苦しい状況です。
でも、それは産みの苦しみです。
新たな世界が生まれるのは、もうすぐです。
苦境はチャンス その2
苦境をチャンスに変えるためには、何が苦境を作りだしているのかを、見極める必要があります。
たとえば、世界的に問題となっている新型コロナウィルスですが、やはり一番怖いのは、これに感染して死んでしまったり、重い後遺症が残る人がいるということでしょう。
また、恐ろしい感染症ということで、感染したら隔離され、入院した患者は面会が許されません。
もし死んでしまえば、家族が最後の別れをできずに、そのまま火葬されてしまい、戻って来た時は骨になっているという状況です。
それでも今は、病院によっては感染予防の措置を取りながら、家族と最後のお別れをさせてくれる所もあるようです。
でも、全ての病院ということではありません。
ところが、それだけ恐ろしい感染症のはずなのに、マスクをしているとは言え、多くの人たちが普通に仕事に出かけ、イベントや旅行に多くの人が出かけるようになりました。
感染者数は減って来ているとは言っても、かつて緊急宣言が出された頃と比べると、とても高い数字が続いています。
それでもみんなが自由に動いているのは、専門家たちが騒いでいるほどには、新型コロナが脅威には思われなくなっているということでしょう。
それが現実なのですが、未だに恐ろしい怪物というイメージを捨てきれない専門家たちは、重症になった人たちを引き合いに出し、自分たちの言い分を繰り返しています。
でも、そこまで恐ろしい病気であるのなら、今の状況では、かなりの人たちが死んだり苦しんだりしているはずです。
また、ワクチンについても、幼い子供たちにまで推奨されていますが、子供たちがコロナウィルスで重症化することは、ほとんどありません。
それなのにワクチンを勧めるのは、子供がお年寄りに感染させないためだと言います。
しかし、一方ではワクチンは感染を防ぐものではなく、その人自身が感染した時に重症化するのを、予防するためだといいます。
そうであるなら、子供たちがワクチンをする必要はありませんし、旅行のキャンペーンなどで、ワクチン証明書を提出するのは、意味がないということです。
ところが、この矛盾について、政府も専門家もテレビのコメンテーターも誰も指摘をしてくれません。
結局は、一人一人が自分で考えて、自分で判断するしかないということです。
また、これからの行政を誰にしてもらうかということも、真剣に考えねばなりませんし、具合が悪くなった時にかかる病院も、コロナ騒ぎの時の病院の姿を見て判断すればいいと思います。
コロナウィルスによって、いろんな問題が引き起こされているかのように言われていますが、それは間違いです。
本来、それぞれの立場にある人々が、普段から責任と熱意を持った仕事をしていれば、コロナ騒ぎはここまで大きくならなかったでしょう。
死ぬかどうかということについても、人は必ず死ぬわけであり、ことさらコロナばかりを恐れるというのは、馬鹿げたことです。
具合が悪くなれば、すぐに病院で薬をもらったり、治療をしてもらうことを考えますね。
でも、そうではなく、自分の体力を上げる暮らしをすることで、コロナに感染しない、感染しても大したことにならない、という状態にするべきなのです。
また、死についても、普段から死とは何なのかという、哲学的な問いかけを持ち続けるべきです。
考えたってわからないというのは、自分の人生に対して、無責任な態度です。
自分の人生を満足が行くように過ごしたいのであれば、必ず自分が関わる死について、自分なりに考えて、自分なりの答えを持っておくことが、とても大切なのです。
これは行政や医療の問題ではなく、私たち一人一人の問題です。
自分が解決するべき問題を放置しておいて、何かあった時に、それを他の何かのせいにするのは、間違っていますし、何の解決にもなりません。
学校の問題にしても、保育所の問題にしても、職場環境の問題にしても、コロナはすでにある問題を、顕わにしただけです。
コロナがそれらの問題を生み出したわけではないのです。
そういう様々な問題を、一つ一つ解決していけば、新たな感染症が現れたとしても、大した問題にはならないでしょう。
しかも、それだけではなく、私たちにとって本当に暮らしやすい、いい世の中になっているはずです。
苦境をチャンスに変えるとは、このようなことなのです。
苦境はチャンス その1
ピンチはチャンスという言葉がありますよね。
転んでもただでは起きないという諺もあります。
一見、どん底のように見える状況も、視点を変えれば、新たな発見の入り口になります。
かつて京都議定書で、二酸化炭素の削減が決められることになった時、それに対して悲鳴を上げた企業もあったでしょうが、いち早くハイブリッド自動車を手がけたトヨタは、業界を先導する立場になりました。
今後はハイブリッドも含めた、ガソリン車撤廃の方向へ進むでしょうが、水素自動車を手がけるトヨタは、このまま引き下がることはないと思います。
ピンチという時、これまでのやり方や、今の自分の力が通用しません。
そこであきらめるのは自由ですが、絶対にあきらめないと決めている者は、必死になって新たな方法を探ります。
すると、必ずそこに、それまで思いつかなかったような道が、開けるものです。
逆に言えば、ピンチがなければ、その道は開かれることはありません。
人間は安定状態にある時は、なかなか新しい変化を好まないものです。
変化をすることで、これまで築いて来たものが、壊れてしまうことを恐れるからです。
それでも強制的に新しい変化に巻き込まれると、絶望するか、やってやるぞと気合いを入れ直すかのどちらかです。
今の世の中は、強制的な変化の連続です。
思いがけないと言えば、思いがけないことばかりですが、でも前々から予測はできていることばかりです。
予測はしていたのに、まだ大丈夫だとか、変化はしたくない、という気持ちが予想を無視して来たつけが、今起こっているのですね。
結局はやらねばならないことが、山積みになるまで放置されて来たので、さっさとそれを片付けろという状況になっているのです。
苦境とはそういうものであり、やるべきことをやれば、苦境は自然と乗り切ることができます。
そして、目の前に新たな道が開き、素晴らしい世界が、そこに待ち受けているのです。
苦境とはチャンスなのです。