振動とは その2
空間が幻想であるならば、振動というものを三次元的に考えることはできません。
空間を構成しているエネルギーの、本来の振動というものは、三次元的なものではないはずです。
では、それはどのようなものでしょうか。
それは恐らく、単にそのエネルギーの状態が、順番に異なるものになるだけなのだと思います。
たとえば、エネルギーを一つのボールに見立てます。
本当は三次元空間的なボールを、エネルギーに見立ててはいけないのですが、それではイメージができないので、ここは辛抱してボールに見立てます。
このボールは動きません。
空間がないので、移動する距離というものがないのです。
ただ一所に、ボールがじっとしているというイメージです。
ところが、このボールの色がくるくると変わります。
赤 → オレンジ → 黄 → 緑 → 青 → 紺 → 紫 → 紺 → 青 → 緑 →黄 → オレンジ → 赤
と七色を繰り返しています。
ボールは動きません。
でも、この一定間隔で同じ色の変化を繰り返すのも、振動と見ることはできるでしょう。
私たちが知る振動とは、三次元空間における、振動物の位置の変化ですが、ここでいう振動とは、エネルギーの状態の変化です。
同じようなボールの色の変化でも、
赤 → オレンジ → 黄 → 緑 → 青 → 紺 → 紫 → 赤紫 → 赤
というような、らせんを描くような変化も考えられます。
振り子のようなものではありませんが、同じ所へ戻って来ますから、これも振動と捉えることができると思います。
このような様々な変化をするエネルギーは、一つに重なることができます。
逆に言えば、全ては一つに重なっていたと言うことができるのです。
そして、空間を構成する時には、全てのエネルギーの重なりの中から、そこに必要な振動エネルギーだけが取り出されるのです。
それは細胞の核にある遺伝情報の中から、各種の細胞が自分に必要な情報だけを、引き出すのと似ています。
では、誰がエネルギーの重なりの中から、必要な振動エネルギーを取り出すのでしょうか。
それは意識でしょう。
私たちが夢の世界を創るのは、私たちの意識があるからです。
世界とは、それを認識するものがいるからこそ、生まれるのです。
ですから、人間には人間が認識する世界があり、動物には動物の、植物には植物の、鉱物には鉱物の世界があるのです。
では、私たちの意識とは何なのでしょうか。
私たちの意識も、やはり全てのエネルギーの重なりの中に、存在しています。
意識とは、様々なシンプルな振動エネルギーが、複雑に重なり合った上に生じている、複雑な振動エネルギーなのだと思います。
あらゆる振動があるわけですから、人間の意識以外にも、あらゆる意識があるはずです。
人間よりも単純な意識もあれば、人間より複雑で高い知性を持つ意識もあるでしょう。
そして、それぞれの意識が持つ振動エネルギーの中で、それぞれが自分が認識できる世界を、構築するのだと思います。
振動とは その3
私たちの意識は、全てのエネルギーが集まった中の、一つの振動パターンだとみることができます。
光もまた、同じように全てのエネルギーが集まった中の、一つの振動パターンです。
ということは、私たちの意識と光とは、振動パターンこそ違いますが、本質的には同じと言えます。
つまり、私たちの本質は光であり、光の本質は意識であると言えるわけです。
もちろん、これは全ての存在に言えることです。
全ての存在の本質は光であり、意識なのです。
世界は様々な光、様々な意識が折り重なることによって、作られていると言えるでしょう。
私たちが神や天使と捉えているものも、悪魔や妖怪と捉えているものも、全ては人間と同じ本質のものです。
人間が生物とはみなしていない、土や水、大気でさえも、私たちと同じ光であり、意識なのです。
ですから、地球が生きているとか、太陽には意識があると言っても、それは当然と言えば当然なのです。
ところで、私たちの意識を、振動エネルギーと捉えると、パソコンのCPUを連想してしまいます。
CPUの性能も振動数の高さで表されますよね。
振動数が高いほど、同じ時間内に、多くの作業をこなせるからです。
ということは、私たちの意識の振動数よりも、遙かに高い振動数を持った知性体がいたならば、彼らは私たちには理解不能なことでさえも、理解することができるということです。
スーパーコンピューターでも、相当な時間がかかるような計算を、あっと言う間にこなしてしまうでしょう。
私たちには認識できないような、次元を超えた世界のことも、知覚できるのかもしれません。
人類には絶対不可能と思われるような飛び方をする、UFOを開発できるのも、それだけの知性があれば可能だと思われます。
人間が彼らのような高い知性を持つには、どうすればいいのでしょうか。
それは自分の振動エネルギーを上げるということに他なりません。
では、振動エネルギーを上げるには、どうすればいいのでしょうか。
振動とは その1
振動というと、何を思い浮かべるでしょうか。
地震?
工事現場?
マッサージ機?
何かが振動するという場合、私たちはそれを物体が、ブルブルと小刻みに揺れることを考えます。
では、電磁波というものはどうでしょうか。
電磁場には波長というものがあり、その波長の長さによって、可視光線や赤外線、紫外線、あるいはX線やマイクロ波など、様々な呼び名をつけられています。
私たちが目にすることができる可視光線も、いろんな波長の光の集まりです。
それぞれの波長の光はプリズムによって分散されると、七色の虹となって見ることができます。
逆に言えば、プリズムによって元の光が、いくつもの光に分散されるのは、それぞれの光の屈折率が異なるということであり、それは光に波の性質があるということなのです。
光は真っ直ぐに飛んで行きますので、小さな小さな粒子のように思われていました。
だから、実は波でしたと言われると、確認できないほど小さな粒の中で、波が存在しているということになります。
そうなると、光は直進しているのではなく、小刻みに揺れながら、全体的に見ると、直進しているように見える、ということになるのでしょうか。
そもそも振動すると言ったって、何が振動するのかと考えてしまいます。
でも恐らくは、小さな小さなエネルギー粒子が、あらゆる方向に小さく小さく振動しているのでしょう。
振動しているのはエネルギーそのものなのです。
また、いわゆる物質あるいは物体ではありませんから、プラスやマイナスなどの反発する力が関わっていなければ、エネルギーは重なることができるのです。
だから、いろんな波長の光が重なり合うことができるのですね。
でも、私はこの光のような小さな粒子の振動を、別な見方で見ています。
何かが上下あるいは左右などに振動する場合、どんなにそれが微少なものであったとしても、そこには空間としての要素が含まれています。
上下も左右も空間だからこそ、生じる変化です。
しかし、空間というものが絶対的なものではなく、一種の幻想であるとすればどうでしょうか。
たとえば、私たちが見る夢の中にも空間はあります。
夢の空間と現実の空間は、別物だと理解されるでしょうが、同じものだと考えて悪い理由はありません。
夢と現実は違うと区別したい人だけが、それぞれは全然違うものだと、何の根拠もなく主張するだけです。
どちらも空間であることには違いなく、夢の空間が私たちの意識が創り上げた幻想であるならば、現実と思われているこの世界の空間も、幻想である可能性はあるでしょう。
事実、私たちが形を認識できるのは、本来形がなく、重なり合えるエネルギーが、プラスやマイナスという電気的な力を持つことで、互いに引き合ったり反発し合ったりしているからです。
具体的に言えば、これらの電気的な力によって、原子が構成されています。
原子の表面はマイナスの電子で覆われていますから、物体と物体は、ある程度以上は近づけません。
互いの表面を覆っている電子同士が、強く反発するからです。
これによって、私たちは物に触れることができますし、物と自分を区別することができるのです。
そうでなければ、どんな物もすかっと通り抜けてしまったり、自分と重なってしまって、何が何やらわからなくなるでしょう。
私たちが現実だと考えているものは、このように電気的な力によって作られた幻影なのです。
では、空間というものが幻想であるならば、その中におけるエネルギーの振動というものは、どんな感じになるのでしょうか。
プリズム その3
大元の意識は、どこの国、どこの地域の人であっても、みんな同じです。
ですから、生まれたばかりの赤ちゃんは、どこで生まれたにしても、意識の状態はみんな同じだと言えるでしょう。
それが違って来るのは、生まれたあとに育つ環境の中で、その地域の言語を含めて、様々な価値観が擦り込まれて行くからです。
大元の意識である本当の自分を忘れていると、歪んだ価値観によって、自分に自信を失ったり、生きる気力が削がれてしまうことがあります。
そんな価値観は、本当の自分ではないから、従う必要はないと思えればいいのですが、それができないために、どんどん自分で自分を追い込んでしまいます。
あるいは、脳のプリズムによって創り出された意識を、自分だと信じながらも、どこかで大元の意識を感じている人は、自分が持った価値観と、本来あるべき自分とのギャップに苦しんでしまいます。
この場合も、大元の意識の自分を、はっきりと認識できていれば、それに素直に従えばいいのです。
しかし、それがわからないために、いつも不愉快な気分になったり、どこにいても居心地が悪い、ということになるのです。
私たちは、自分たちが認識している世界を、唯一の現実と理解しています。
しかし、実際はそうではありません。
私たちが認識している世界は、一種の幻想のようなものであり、よくできた立体映画のようなものです。
この世界は脳のプリズムを介して、生み出された意識によって創られています。
言い換えれば、私たちの意識は、この世界を体験するために、創られているのです。
元々の意識では、この世界を体験することができません。
だから、元の意識を脳のプリズムを通して、この世界バージョンに変化させているのです。
私たちからすれば、元の意識がある世界は、未知で特殊な世界に思えますが、元の意識からすれば、私たちの世界こそが、特殊で不思議で面白いのです。
せっかくこの世界を楽しむために生まれて来たのに、いろんなルールが勝手に作られ、自由が大きく制約されるため、何をしに生まれて来たのかと、首をかしげたくなる人も少なくありません。
でも、そんな人たちは心の奥底で、本当の自分を感じているのです。
だからこそ、何か違うぞと首をかしげてしまうのです。
この世界がかりそめのものであるならば、この世界における価値観も絶対的なものではありません。
その価値観に従うのも自由ですし、違う価値観を求めるのも自由です。
そこをきちんと押さえておけたならば、人生はもっと明るいものになるでしょう。
アメリカの粉ミルク騒ぎ
先日、アメリカで深刻な粉ミルク不足が問題になっていると、記事に出ていました。
その原因は大手の粉ミルクを摂取した乳児四人が、細菌感染症になって二人が亡くなったことでした。
そのため、この粉ミルク工場が2月から操業停止となり、メーカーが製品を自主回収したことで、全国で粉ミルクが不足するという事態が起こったようです。
粉ミルクに限りませんが、全国的に必要とされるものを、ごく限られた所だけで生産していると、そこがだめになった時に、大混乱が起こります。
この問題には、そういう経済構造も大きな原因の一つに違いありません。
でも私が驚いたのは、そのことではなく、アメリカでは子供に母乳を飲ませない人が、そんなにたくさんいるのかということでした。
日本との文化の違いで、アメリカでは赤ちゃんが生まれても、女性はベビーシッターに赤ちゃんの世話を任せて、働きに出るようです。
そうなると、当然母乳を与えることができませんので、粉ミルクが必要となるわけです。
もちろん、母乳を与えたくても母乳が出ない人や、男性同士で結婚している人などもいるでしょうから、そんな方たちは粉ミルクが必要でしょう。
それでも、母乳が出るのに粉ミルクを与える人が、あまりにも多いのではないかという印象を受けました。
文化の違いと言えばそれまでですが、子供を産んだ母親が、子供に母乳を与えるのは、自然の摂理だと思います。
人間も動物である以上、その姿が本来の自然な姿だと思うのですが、社会構造や社会における女性の立ち位置などが、女性のあるべき姿というものを、自然とは異なるものにしているのでしょう。
そのため、母乳を子供に与えない社会が当然のようになってしまい、粉ミルクが手に入らないと、大問題になるわけです。
でも、粉ミルクを手にして維持しようとしている、その社会のあり方が、本当にそれでいいのかを、問い直す時期ではないのかと思います。
ほとんどの女性が粉ミルクを使うことで、一番喜ぶのは粉ミルクの製造会社でしょう。
また、粉ミルクの原料となる、牛乳を作る酪農家たち。
それに、彼らから多額の税金を受け取る自治体でしょうか。
そのために、女性が母乳よりも粉ミルクを重視するような社会が作られて、それが当たり前で正しいことなのだと、みんなが洗脳されているような気がします。
アメリカの大女優ベット・ミドラーが、こんな時には子供は母乳で育てましょうと、声かけをしたところ、大バッシングを受けるということが起きているそうです。
彼女は別に誰かを非難したわけでもありませんし、無茶苦茶なことを喋ったわけでもありません。
母乳を与えられない人に対して、粉ミルクよりも母乳がいいのだと、主張したわけでもないのです。
ただ、こんな時だから母乳を与えられる人は、母乳を与えるようにすればどうかと、提案しただけです。
それなのに状況が理解できないひどい人だと言うような、ひどい言葉が投げかけられるのは、人々が正常な思考ができなくなっている証拠でしょう。
戦争を支持する人たち同様に、これも一種の洗脳だと私は思います。
と言うと、戦争と一緒にするなと怒られてしまいそうですが、でもそうなのです。
大問題が起こっている時には、必ず自分たちの価値観に、その原因があるのだと考えなくてはなりません。
そして、どこが悪いのかを見極めて、そこを修正する必要があるのです。
そうでなければ、本当の問題解決にはなりません。
病気と同じことです。
世界中に蔓延している、様々な問題、知らぬ間に洗脳されたような価値観が、いろんな所で限界を迎えているようです。
それらの問題が露呈するような大きな問題は、恐らくこれからも続くことだと思います。
でも、それは悪いことではありません。
問題が起こることで、その問題の原因が見つかり、そこが修正されれば、次に待っているのは、とてもいい世の中なのです。
そのためにも、すぐにかっとなるのではなく、問題が起きた時には、今までの何が悪かったのかと、冷静に考えることが大切です。
プリズム その2
日本人は日本語でものを考えます。
アメリカ人やイギリス人などは、英語でものを考えます。
中国人は中国語でものを考え、韓国人は韓国語でものを考えます。
英語を日本語に訳す場合、単語や言い回しを同じような日本語に変換します。
しかし、どうしても日本語に訳せないような言葉もありますし、訳しはしたものの、何かちょっと違うんだけどな、ということもあると思います。
それは日本語を英語に訳す時にも生じることです。
それは文化の違いであり、物事の受け止め方の違いがあるからです。
言語的思考とは、大元の意識が脳を介して、プリズムを通った光のように、分散され並べられたものです。
日本人も他の国の人々も、同じ人間ですから、大元の意識は同じ状態にあると思われます。
しかし、それぞれが異なる言語、異なる思考を持っているのは、国や地域によって、脳が持つプリズム機能が違って来るからでしょう。
テレパシーで意思の疎通ができたなら、それはプリズムを通さない、大元の意識の状態でのやり取りになるので、どこの出身かに関係なく、間違いのない情報のやり取りができるでしょう。
しかし、脳のプリズムを通した、それぞれの言語的思考同士で、意思の疎通をしようとした場合、微妙なすれ違いや、理解不能の部分が生じるわけです。
いずれにしても、私たちが普段使っている思考というものは、大概が言語の形を取っています。
頭の中で言葉を使っているつもりがなくても、これこれこうだから、こうなるな、だとしたら、こういうことかな、という風に順序立てて考えるのは、言語的思考です。
脳のプリズムを介していなければ、全ての思考が一塊になっているはずですから、順序立てた思考になるのは、脳のプリズムによって変換された意識ということです。
これはどういうことかと言いますと、普段私たちが自分だと信じている意識は、実は本当の自分ではなく、脳のプリズムを介して作られたものだということです。
いろんな歪みのあるレンズで、誰かをのぞいて見るとしましょう。
レンズを通さないで見えるのが、その人の本当の姿です。
でも、レンズを通してみると、レンズの歪みに応じて、その人の姿が変形して見えるでしょう。
このレンズの存在に気がつかなければ、その歪んだ姿がその人の本当の姿だと、誤解するはずです。
こんな感じで、私たちが考えている自分というものは、実は本当の自分ではないのです。
プリズム その1
プリズムに光を当てると、光が分散されてきれいな虹色が見えますよね。
元々は色がない、あるいは色があるとすれば白っぽい光が、分散されると、多くの色に分かれます。
本来の色からすれば、その中に、こんなに多くの色の光が、隠されていたのかと思うと驚きです。
しかし、それが現実であり、一つのものの中に、実は多くのものが隠されているのです。
受精卵も同じですね。
初めの受精卵は、単なる一つの細胞にしか見えません。
でも、そこには一つの体を構成する、多くの種類の細胞の姿が潜んでいるのです。
それには細胞の核にある遺伝子が関係しています。
遺伝子は染色体という塊になって存在しています。
ここには細胞の形態や機能、また細胞全体で構成する個体の形などの情報が、コンパクトに詰め込まれています。
各細胞は自らの核にあるこの遺伝子情報の、必要な所だけを展開して利用しています。
元々は同じ受精卵の分身である細胞なのに、利用する遺伝子情報の違いによって、様々な細胞へと分化して行くのです。
光にしても遺伝子にしても、見た目だけではわからない情報が、そこに詰め込まれているのです。
私たちの意識も同じです。
たとえば、突然目の前にライオンが現れたとしましょう。
当然、驚きますよね。
また、恐怖を感じます。
それから、逃げることを考えるでしょう。
これらは頭の中に、一つの塊となってあるはずです。
その想いを言葉によって解説すると、驚き、恐怖、逃避思考という風に、ばらばらに展開できますが、実際にはこれらは一つに混じり合っています。
誰かに何かを伝えようとする時、私たちは言語を用います。
そのため、頭の中で一塊になっている想いを、言語に変換して、順番に並べて表現するわけです。
これは光がプリズムで分散されるのに、似ているとは思いませんか。
そう、私たちの脳は意識に対する、プリズムの役割を果たしているのです。
アメリカのUFO公聴会 その2
正体がわからないからUFO(未確認飛行物体)と呼ばれます。
公聴会を開いたところで、目撃されたものが何であるのかは、誰も答えることができません。
答えることができれば、それはUFOではありません。
ですから、いくら審議したところで、UFOが何であるのかという結論は出せないでしょう。
実際、今回の公聴会でも結論は出ていませんし、アメリカ政府はUFOという言葉ではなく、UAP(未確認航空現象)という言い方をしています。
何かがそこにあるという表現のUFOではなく、何かそのように見えたという表現であるUAPを使っているのです。
UFOという言葉を使いたくない、アメリカ政府の考え方が見て取れます。
現象であるのなら、公聴会で問題はされないでしょう。
また、目撃証人の多くが軍人ですが、その軍人たちが、そこに何かの物体があったと証言しているわけです。
これを現象という表現をするのは妙な話であり、UFOという言葉の使用を避けていること自体が、政府がUFOが何であるのかを認識している証拠のように思えます。
モールトリー国防次官は、UAPを「遭遇してもすぐに識別できない空中の物体」と定義したと言います。
こう定義するのであれば、初めからUFOという言葉を用いる方がいいと思います。
さらにモールトリー国防次官は、適切なデータと厳密な科学的分析を組み合わせることで、その物体を特定できる可能性が高まると述べたそうです。
あくまでも、異星人あるいは異次元の存在の関与を、認めたくないような口ぶりです。
いずれにしても、UFOもしくはUAPが何であるのかという結論は、何度公聴会を開いた所で、解明されることはないでしょう。
重要なのは、アメリカ政府が正式にこれらの存在を認め、それについて真剣に議論しているということなのです。
恐らく、今後はUFO目撃がもっと増えることでしょう。
とにかく、人間以外で、人間よりも遙かに高い知性を備えた存在が、この世界にいるということを、人々が認めざるを得ないようになるのは、間違いないと思います。
ただ、それでみんながパニックにならないような配慮は、UFO側ではなされていると思います。
そうでなければ、とうの昔に、UFOの大群が姿を見せて、人々を恐怖のどん底へ突き落としているはずです。
そうではなく、UFO側は人間が自分たちに目を向け、理解しようとするのを待っているのです。
そして、少しずつではありますが、ようやくその姿勢を人々が見せ始めたのです。
ですから、UFOが当たり前のように姿を見せるようになるのは、近い将来だと思います。
アメリカのUFO公聴会 その1
アメリカの議会下院情報委員会で、「UFO」に関する公聴会が開かれました。
前回、同様の公聴会が開かれたのは、ほぼ半世紀前でした。
それ以降、アメリカ政府はUFOについて、だんまりを決め込んで無視し続けて来ました。
それでも、UFO目撃情報が頻繁にあったのは事実です。
その中でも本物のUFOと思われる情報について、関心を持った人々の動きが国を動かすことになり、アメリカ政府もUFOの存在を正式に認めました。
今回の公聴会はその延長線上にあるものです。
今はアメリカなどの大国が、高度な技術を駆使した兵器を開発しているため、UFOを外国からの偵察もしくは侵略と見なす人たちもいます。
しかし、現在の人間の常識を越える動きをするUFOを、開発できる者はいないでしょう。
アメリカが警戒している国の一つであるロシアの軍事力が、どの程度のものなのかは、今回のウクライナ問題で明らかになっています。
ロシアがUFOを手にしているのであれば、ウクライナの制空権を握るのは、いともたやすいことだったでしょう。
また、UFOがあるということを誇示することができれば、核爆弾の使用をちらつかせるよりも、効果的に西側諸国を怯えさせることができたはずです。
それは中国にしても同じであり、UFO技術を手にしているのであれば、台湾や東シナ海、南シナ海での争いに使って、自国の有利をアピールできるでしょう。
それに月に人間を送り込むのも、ロケットなどを作らなくても、簡単にできたはずなのです。
UFOを問題にしているアメリカはもちろん、ロシアにも中国にもUFOはありません。
似たような物を造ろうと努力はしているかもしれません。
でも、それは本物のUFOと比べれば、月とスッポンほどの違いがあるでしょう。
連続したテレポーテーションのような、空間を自在に動ける技術は、今の地球人類にはないのです。
一人一人の顔を見る
人間はみんな違う顔を持っています。
双子であっても、よく見ると違いがあるものです。
顔の作りが同じでも、心が異なるわけですから、好みも違えば、癖も違って来ます。
それらは表情として表れますし、成長の過程に何らかの差が出て来たりもしますから、それは初めは同じだったはずの顔も、微妙に違って来たりするのです。
とにかく、一人として同じ人間はいません。
そうは言っても、日本人には日本人の特徴がありますし、外国人にはその国の人たちの特徴があります。
そのため、それぞれの国の人たちを個人的に知らない人たちには、みんなが同じ顔に見えたりします。
個人を個人として見るのではなく、その国の人々全員を、同じように見てしまうことがあるのです。
その結果、素敵な人がいれば、その国の人みんなが素敵に見えてしまいますし、悪いことをする人がいれば、その国の人みんなが悪人に見えてしまいます。
誰もがそのように見るわけではありませんが、一人一人の顔をきちんと見ようとしない人たちは、このように見てしまうのです。
そのため、日本人が絡んだ嫌な思い出がある人は、日本人か、という目で私たちを見るでしょう。
その逆もあり、日本では中国や朝鮮の人を、同じように悪く見る人がいます。
実際は、日本でみんなと仲良く暮らしている人たちなのに、その人たちに対しても、偏見の目を向けるのです。
今はロシアとウクライナの争いが世界的に問題となっているので、世界中の国々で、その国に暮らすロシア人が、差別を受けていると新聞の記事に載っていました。
とても悲しいことであり、人間として情けないことです。
平和を望むロシアの人々は、今後のロシアを再建し、新たな世界を創り出すためには、とても重要な存在です。
彼らと一緒になって世界を創るのでなければ、本当に平和な世界は創れないでしょう。
それはロシアの人に限りません。
全ての国の人々が、一緒になって世界を築かなければ、真の平和は訪れません。
そのためにも、全ての国の人々がどこにいたとしても、偏見の目に曝されないようにしないといけないのです。
偏見の目を持つのは、いかに自分がものを知らないのか、という意味しかありません。
どこの国の人間か、どこの民族の者か、どこの言葉を使うのか。
そんなことだけで馬鹿げた差別や偏見を持つ人は、自分たちこそが世界を争いで混沌としたものに、しているのだと気がつかなければなりません。
誰かに踊らされるのではなく、きちんと自分で考えて、一人一人を見極めるようにしなければ、いつまで経っても平和は訪れないでしょう。
自分はどこの国の人間だ、という意識は捨てましょう。
私たちはみんな地球人です。
あるいは、太陽系人です。
あるいは、銀河系人です。
あるいは、宇宙人です。
みんな同じ地球に暮らす仲間です。
誰かを支配したいと思う者でなければ、誰も争いなんか好みません。
みんな平和に楽しく暮らしたいのです。
誰かを疑い不安になるのではなく、その人の中にある平和と愛に、心を向けましょう。
自分や自分の国だけが、安全であることを望むのは間違いです。
他の国を否定することは、やめなければいけません。
一人一人の顔を見て、その人の個性を認めましょう。
どこの生まれであるかは重要でありません。
ともにハーモニーが奏でられる世界を創るのです。