軍隊は必要か その3
軍隊があるべき姿であったなら、どこの国も他国を侵略することは有り得ません。
自国を護ることが軍隊の役割であり、他国を侵略することは役割ではないからです。
ゴジラなどの怪獣が現れて、こちらの話を聞こうともせずに、一方的に暴れまくるようなことがあるならば、それに対する軍備は必要になるでしょう。
しかし、人間が暮らす国同士の間では、互いに思いやりの心があれば、何でも争うことなく、話し合いで解決できます。
それは国内問題についても言えることで、人権問題や貧困問題など、世界中に存在する問題のほとんどは、これで解決するでしょう。
警察や軍隊による武力で、人々を無理やり鎮圧する必要はないのです。
国内が平和であれば、他国からいろいろ問題を指摘されて、嫌な想いをすることもありません。
面子を潰されたと言って、他国と争うことはないのです。
そんな状況にあれば、軍隊は不要となります。
何故なら、誰も攻めて来ないのですから、自国を防衛する必要がなくなるからです。
今の日本の都道府県の関係と同じになるわけです。
軍隊は必要かという問題を改めて考えると、狂った軍隊が存在するならば、必要になると言えるでしょう。
外敵というのは、要するに狂った軍隊のことなのです。
まともな軍隊が攻撃して来ることはありません。
でも、今のロシア軍のように、狂った軍隊には理屈が通用しません。
そうなると、それに対抗すべく、自国に軍隊を持つ必要性が出て来るのです。
今の世の中の現状を見ていると、やはり軍隊は必要だと見る人が、大半だと思います。
しかし、その結果、軍備拡張を競い、核戦争の現実化を恐れることになるわけです。
いくら自国を護るために軍隊が必要だと言っても、結果的に世界中が核によって滅びてしまえば、軍隊を持つ意味がありません。
では、どうすればいいのでしょうか。
やはり軍隊はない方がいいのでしょうか。
軍隊は必要か その4
体の免疫機能と同様に、軍隊とはその国を維持するために存在します。
軍隊が戦う相手とは、自国を攻めて来る、他国の狂った軍隊です。
しかし、ここで考えて欲しいのは、軍隊が存在するための条件として、自国とは違う他国の存在があるということです。
その他国が平和的であったとしても、それは現在のことであって、将来的にはどうなるかわからないと考えると、その国への信頼度は100%にはなりません。
いつか攻撃して来るかもしれないという恐れから、軍隊の必要性を感じます。
でも、その国と自分の国が、一つの国として機能し、それぞれの国民もそのような意識を持つならば、その二つの国の間には、軍隊は必要がなくなります。
本当の家族や仲間内では、殺し合いなど起こらないのと同じことです。
つまり、軍隊が必要だと考える時には、自国と他国の厳格な区別をしているということです。
目の前で戦争行為が行われていない時であっても、自国に軍隊が必要だと思う時、自国と他国の間に明確な境があります。
それは心の中の国境です。
そして、自国と他国のどちらかを選ぶ必要がある時は、躊躇なく自国を選びます。
自国の発展のためであれば、他国が泣きを見ようと仕方がないと考えるのです。
しかし、心の中に国境がない人は、目の前に困った人がいれば、それがどこの国の人かに関わらず、手を差し伸べるでしょう。
そうすることが自分の国の得になるのか、損になるのかということは考えません。
こういう人たちは、自分は地球人で、相手も同じ地球人だと見ています。
軍隊について考えるということは、それは自分の立ち位置を確認するということです。
またそれは、その時点における、自分の知性の高さを確かめるということでもあります。
相手を自分と同じ地球人だと見ることができない人は、高い知性を持っているとは言えません。
物事を深く理解する力が欠けています。
下心のない本当の思いやりは、どんな人にでも伝わるものです。
相手が怒っている場合、そこに思いやりが欠けていなかったかを、確かめた方がいいでしょう。
暴力の原因は、不安と自信のなさ、無力感です。
それを解決できるのは、思いやり以外にありません。
相手を思いやることで、その人の中にある、他人への思いやりの気持ちを、引き出してやるのです。
本当の信頼関係を結び、不安なんか必要ないということを、示さなければなりません。
あるのは喜びだけだと、わかってもらうのです。
軍隊が必要かどうかという問題の答えは、その人の立ち位置によって異なります。
どの答えが正しいかということはありません。
その人が、自分の立ち位置から見て、それが正しいと思うなら、それは正しいのです。
間違っていると思うなら、それは間違っているのです。
本当に考えるべきなのは、軍隊が必要かどうかではなく、人が人として成長するに当たり、自分の立ち位置は、どの辺りにあるのかということなのです。
宇宙は神秘に満ちており、今の人間が理解できるものではありません。
その宇宙の中にいながら、自分たちのわずかな経験と、狭い見識だけを頼りに、偏った判断で他人を傷つけたり、命を奪うということが、どういうことなのかを、今一度考えてみるべきでしょう。
ただし、それは間違っているかどうか、ということではありません。
試験の点数が、その科目に対する自分の理解度を、示しているだけに過ぎないように、今の自分が人間や宇宙というものに対して、どれだけ理解しているか、ということなのです。
軍隊は必要か その2
軍隊が必要かどうかという疑問に対して、国を外敵から護る必要があるという状況があるならば、答えは「軍隊は必要」となるでしょう。
それは自然環境の中で、生物が我が身を護るために、免疫を含めた様々な機能を持っているのと同じです。
ただ、これはそんな外敵があれば、という条件つきです。
外敵がいなければ、それに備える必要はありません。
たとえば、日本も昔は小さな国がひしめき合って、互いに相手を攻めて、領土を広げようとしていました。
それぞれの国にはお殿様がいて、そのお殿様に従う武士団がいたのです。
でも、今はそんなものはありません。
かつての小さな国の名残が、都道府県という形で残っていますが、隣の県がいつ攻めて来るかなんて、誰も心配していません。
どこの県に移動しようが、誰に咎められることもありません。
地域性というものは護られながらも、日本全体としてのまとまりがありますし、どこの地域の人も、自分は日本人だという自覚があります。
こんな感じで、周辺国との間にも、完全なる信頼関係と助け合う関係があるならば、軍隊なんか無用の長物です。
でも、表面的には仲良くしても、腹の底では相手を見下していたり、相手を利用して自分たちが得をするようなことを考えていると、それがいつかは大きな問題になるでしょう。
そうなると争いが起こり、それが大きく発展し、互いを憎むようになるのです。
ある地域がその国から独立しようとする動きとは、元はこのようなことが根底にあると思います。
周囲の人たちとの関係がよく、お互いに相手を尊敬し、困った時には助け合う環境にあれば、たとえ宗教や民族、言語などの違いがあったとしても、その国から独立しようとは思わないでしょう。
国内に大きな騒ぎが起こった時、まずは警察が動きますが、それでも埒が明かない場合には、軍隊が出動するというのも、よく見られる光景です。
この場合の敵は外敵ではなく、国内にいる者ということになります。
国内の治安を含めた環境を維持するために、軍隊が動くのは、外敵に対処するのと理屈は同じでしょう。
でも、その環境が本当に護るべきものなのかという点については、よく考えてみる必要があるでしょう。
権力者が無茶苦茶な政治を行った結果、多くの国民が怒り出してデモ騒ぎを引き起こすのも、珍しいことではありません。
民主国家でない場合、それが平和的なデモであっても、武力によって無理やり鎮圧しようとするものです。
この場合の軍隊は、国の環境を護るための組織というより、権力者の地位と権限を護るための組織と言えるでしょう。
本来の軍隊の姿ではありません。
軍隊というのは、決して自国民に手を出してはならないのです。
体の免疫機能が、普通の細胞を攻撃するようになると、これは自己免疫疾患という病気です。
独裁政治の下で行われる、軍隊や警察による国民の弾圧は、これと同じです。
それらの軍隊および警察は、病的な状態にあるわけです。
本来の軍隊は、他国を侵略するものではなく、自国を護るためのものです。
また、国民に乱暴を働くためのものでもありません。
そんな軍隊は必要ではありません。
軍隊は必要か その1
軍隊の必要性について、議論されることがありますよね。
日本の自衛隊が軍隊かどうかという議論も、軍隊の必要性が絡んだ問題です。
日本は軍備を持たないとするならば、自衛隊を軍隊と呼ぶわけにはいきません。
しかし、どこかの国と戦争になったとすれば、前に出て戦うのは自衛隊です。
自衛するための組織ですから、当たり前ではあるのですが、そこで行われることは軍隊のそれと同じです。
呼び名がどうあれ、また普段の活動がどうあれ、自衛隊に軍隊としての顔があるのは否めません。
自衛隊を軍隊とみなすのかどうかは、本来の議論を避けるための、あまり意味のない議論です。
要は、日本に軍隊が必要なのかどうか、という点ですね。
周囲に脅威となる国がいなければ、軍備を持つ必要性はありません。
でも、今は脅威でなくても、将来的に脅威となる可能性があると見るならば、やはり軍備は持っておくべきだろうと、考える人もいるでしょう。
特に、ロシアのウクライナへの侵攻を目の当たりにさせられると、平和で安全な所にいても、いつかそれが崩されてしまうかもしれないと、不安になるかもしれません。
ところで、人間の体には免疫という働きがあります。
この免疫の力によって、細菌やウィルスなど外から侵入してくるものに対抗します。
また、体内に生じる癌細胞に対しても、この免疫力が働きます。
外敵に対抗する意味では、免疫とは軍隊に似ていますし、内なる反乱者を抑える意味では、免疫は警察に似ています。
体という環境を維持するために、免疫は欠かせません。
免疫がなければ、いろんな感染症に冒されてしまいますし、体中を癌細胞に蝕まれるでしょう。
生体にとって免疫機能とは、必要なものなのです。
そう考えると、各国が自国を護り維持するために、軍隊を持とうとするのは自然なあり方でしょう。
ただ、体の免疫細胞たちは、体の環境を維持することが目的なのであって、体の外へ出て行って、離れた所にいる細菌やウィルスを攻撃することはありません。
そういう意味で、他国の領土を奪うために戦争を仕掛ける軍隊は、本来のあるべき姿ではないということです。
もし体の免疫細胞が、同じようなことをしたならば、その人は深刻な病気とみなされることでしょう。
そんな軍隊の必要性は、誰も認めることはありません。
しかし、他国を侵略する軍隊の正当性を主張する方法はあります。
それはそこの土地あるいは海が、元々は自国の領土や領海だったと主張することです。
つまり、それは本来の自国の環境を取り戻すために、軍隊が動いているだけで、決して侵略ではないという論法です。
体の一部を強力な細菌に冒されていたり、癌細胞が増殖して体が大変な状態になっている時に、それらの菌や癌細胞を排除して、元の体を取り戻そうという理屈と同じです。
今のロシア(プーチン)がウクライナを侵略しているのも、この口実を使ってのことですね。
中国が台湾を攻撃する可能性も、この理屈が基盤になっています。
そこは古来より我が国の領土であった、という言葉をよく耳にしますよね。
でも、その根拠となるのは、いつの時代のことなのかと思ってしまいます。
地球が誕生した時、まだ人間はどこにも存在していませんでした。
人間の祖先が現れた頃にも、今ある国はどこもまだなかったはずです。
つまり、古来より我が国の領土という古来とは、今の権力者たちにとって都合のいい時代の話ですよね。
全く馬鹿げた論理です。
そして、そんな論理に従った軍事行動は、理屈に合ったものではありません。
そんな軍隊は存在するべきではありませんし、決して認められないでしょう。
今のロシア軍の姿は、世界中の国々に、軍隊のあり方というものを、根本から考え直す機会を、提供してくれているように思います。
そこには、軍隊が本当に必要なのか、という疑問も含まれることでしょう。
世界と塗り絵 その4
塗り絵をするには、色を塗る道具が必要です。
クレヨンで塗るか、色鉛筆で塗るか、水彩絵の具で塗るか、油絵の具で塗るか。
元々色の付いた紙や葉っぱを、貼り付けることもできるでしょう。
きれいに均一の色で塗ることもできれば、濃淡をつけることもできますし、他の色を混ぜて、グラデーションにすることもできます。
色の使い方によっては、暗い色も明るい色を引き立てるのに役立ちます。
そういう意味で、ネガティブを悪い色と決めつけることはできません。
問題は色の配分や使い分けを、どのようにするかです。
そうは言っても、ほとんどが暗い色で彩られていたのでは、やはり冷たく苦しいばかりに感じられてしまいます。
それを体験してみたくて、わざとそうしているのであれば構わないのですが、そうでないのであれば、もう少し居心地のいい色に変えてみるといいと思います。
また、色の塗り具合も、同じ塗り方ばかりではなく、他の人の塗り方を参考にさせてもらうのも、なかなか楽しいものでしょう。
自分の世界を彩る時、どんな色を選ぶのかは、全て自分の価値観で決まります。
暗い世界を描いてしまう場合、自分が暗い色を選んでしまう言い訳はできますが、とにかくその色を選んでいるのは自分です。
言い訳は、自分がどうしてそんな価値観を持ったのか、という説明に過ぎません。
また、言い訳をしたくなる時は、他人からどんな目で見られているのか、ということを気にしています。
でも、他人の目なんか気にする必要はないのです。
人はみんな自由です。
それぞれが自分の好きな色を選べばいいのです。
他人が選んだ色について、あれこれ言うのは間違いですし、言われたからと言って、それで自分が間違っていると考えてはいけません。
大切なのは、その色で自分が満足しているのかどうか、ということだけです。
色を変えたくなったなら、価値観を変えればいいのです。
価値観を変えれば、色は簡単に変えられますし、違った色の塗り方も、楽しむことができます。
価値観をなかなか変えられないと思っている人は、価値観と自分自身を同一視しているのです。
価値観を変えてしまうのは、自分を変えてしまうことだと信じているのですね。
つまり、違う価値観を持つのは、今の自分を否定するのと同じ意味になり、そんなことはしたくないし、できるわけがないと思うのです。
でも、価値観は衣服と同じです。
暑いとか寒いとか、その時の状況に合わせて、私たちは衣服を着替えます。
衣服を替えたところで、中の自分は何も変わりません。
それと同じで、価値観を変えたところで、自分自身は何も変わらないのです。
そこが理解できたなら、それまでとは違う色を、衣服を着替えるように、自由に使うことができるでしょう。
どんな色を選ぶのか、どんな塗り方をするのか、それは全く個人の自由です。
こうでなければいけないということはありません。
要は自分がその色の世界に、満足するのかどうか、ということだけです。
暗い色であっても、自分がそれでいいと思うのであれば、それでいいのです。
気に入らないところがあるのなら、そこを別の色に変えるだけのことです。
そうして自分が満足する色の世界を描けたならば、それは最高の体験です。
そして、そんな様々な世界が重なった、人類全体の世界とは、個性が尊重されて多様性がハーモニーとなった、最高に素晴らしい世界となるでしょう。
世界と塗り絵 その3
楽しい気持ちや、嬉しい気持ち、前向きな気持ちなど、喜びにつながる感情は、明るい色で表現されるとしましょう。
また、悲しい気持ち、怒りの気持ち、あきらめの気持ちなど、嫌な想いにつながる感情は、暗い色で表現されるとします。
言い換えますと、ポジティブな心の色は白く煌めく光に近くなり、ネガティブな心の色は黒い闇の色に近くなるわけです。
光は虹のように、七つの色に分けられます。
塗り絵で使える色も、大きく七つに分けられると、考えて下さい。
ただ、それぞれの色の境目は微妙であり、厳密にここからが、この色だというようには分けられません。
あくまでも、大きく分けてという意味です。
この時、赤い色は活発な動きの色と考えて下さい。
ポジティブな活気は、きらきら煌めく赤い光で、ネガティブな活気は、どんよりした暗い赤です。
みんなのために何かしようという時は、きらきら煌めく赤い光の色です。
みんなをひどい目に遭わせてやろうという時は、どんよりした暗い赤です。
オレンジ色は異性への想いと考えましょう。
同性愛の場合は、パートナーへの気持ちですね。
相手を心から大切に思う場合は、きらきら煌めくオレンジ色の光です。
相手を単なる性の対象とみなしている場合は、どんよりした暗いオレンジ色です。
黄色は自分への想いです。
自分を愛し、自分を大切にできる場合は、きらきら煌めく黄色の光です。
自分を大切にできず、誰かの言いなりになったり、自分を卑下する場合は、どんよりした暗い黄色です。
緑色は自然を含め、自分とは異なるものに対する敬愛の心の色です。
他人や他の生き物、自然とのつながりを深く感じる場合は、きらきら煌めく緑色の光です。
自分と他の存在の間につながりが感じられない場合は、どんよりした暗い緑色です。
青色は自己表現の色です。
本来の自分の姿を素直に表現できていれば、きらきら煌めく青色の光です。
いろいろ理由をつけて、本来の自分を押し殺している時は、どんよりした暗い青色です。
藍色は世界観の色です。
一般的に言われている物質世界を超えた、もっと広い世界を感じたり認識できるのであれば、きらきら煌めく藍色の光です。
物質が全てであり、豊かさとはお金や物をたくさん手にすることだと受け止める場合は、どんよりした暗い藍色です。
紫は静かで思考に満ちた色です。
周囲との繋がりを理解したり感じたりする時は、きらきら煌めく紫の光で、孤立して自分をどんどん深みに追い込むような時は、どんよりした暗い紫です。
こんな感じで、世界の塗り絵を塗っているとイメージしてみて下さい。
さて、あなたが生きている世界は、どんな色の世界でしょうか。
世界と塗り絵 その2
世界は塗り絵と同じです。
みんなが同じ世界にいると思うのは、それぞれに手渡された塗り絵の元の絵が、全員同じ物だからです。
同じ絵を手にしているから、どこに何があるとか、誰が何をしていた、などという情報を共有できるのです。
しかし、世界というのは、それだけが要素ではありません。
楽しい世界と思う場合、そこに楽しさという要素が加わっているのです。
苦しい世界という場合は、そこに苦しさという要素が加わっています。
楽しい世界を感じている人は、手にした世界の絵に、楽しさという感情の色を塗っています。
それで、世界は楽しいと認識すると同時に、世界は楽しいと表現しているのです。
苦しい世界を感じている人は、手にした世界の絵に、苦しさという感情の色を塗っています。
それで、世界は苦しいと認識すると同時に、世界は苦しいと表現しているのです。
楽しいとか苦しいとか感じるのには、その基準となるものが必要です。
それには体の感覚も関係して来ます。
体が気持ちよければ、いいなぁと思うでしょうし、体が具合悪ければ、嫌だなぁと思うでしょう。
しかし、この体の感覚でさえも、価値観によって受け止め方が変わります。
心地がいいはずのことであっても、それはやっちゃいけないことだと信じていると、心地がいいのに罪悪感が生まれます。
あとで心地よさは消えても、罪悪感は残ってしまい、それが世界を嫌な色で染めてしまいます。
体がつらい状態にあっても、喜びを感じるようなことがあると、つらさも忘れてしまいます。
そのつらい経験があるからこそ、この喜びがあると受け止めたなら、そのつらさを悪いこととは思わなくなります。
このように、世界をどのように色づけするかは、その人の持つ価値観で決まると言えるのです。
喜びにつながる価値観を持っている人の世界は、大変なことがあったとしても、喜びの色で彩られます。
苦しみにつながる価値観を持っている人の世界は、楽しいはずのことがあっても、苦しみの色で彩られます。
元の世界の絵を、どんな色でどのように彩るのかは、その人の自由です。
たとえ苦しみの色で彩られていたとしても、本人がそれで満足しているのであれば、色を変える必要はありません。
でも、こんな色は本当は嫌なんだと思っているのであれば、色を変えればいいのです。
簡単に変えられないと思う場合は、自分の手持ちの色に対する、こだわりがあるのでしょう。
そのこだわりさえ捨てることができれば、すぐにでも違う色を使うことができます。
でも、まずすることは、自分が持っている世界の塗り絵に、自分がどんな色を塗っているのかに、気がつくことです。
世界と塗り絵 その1
今のあなたにとって、世界は素敵なものでしょうか。
それとも、不安や苦痛に満ちたものでしょうか。
何の刺激もない、つまらないものですか。
それとは逆に、とても刺激的で興奮するようなものですか。
同じ遊園地で同じように遊んでも、それを楽しいと思う人もいれば、つまらないと思う人もいます。
ジェットコースターやお化け屋敷を、怖くてもう嫌だと思う人もいれば、スリルがあって面白かったと思う人もいます。
本を読めば、場面や情景が頭に浮かぶという人もいれば、文字ばかりでさっぱりわからないという人もいます。
流行りの場所で、流行りのスイーツを食べて、流行りのポーズを決めて写真を撮るのが、楽しみだという人もいます。
人と同じことをするのが嫌で、一人で好きなようにしているのがいいという人もいます。
同じ場所、同じ状況に置かれても、そこをどう感じるのは人それぞれです。
同じ所にいて、同じ物を見聞きして、同じ体験をしているのだから、みんな全員が同じ世界にいると、私たちは勝手に思っています。
でも、実際は一人一人が体験している世界は違います。
みんなが同じ場所や同じ経験をするというのは、自分に与えられたゲームの基本的な部分が、共通しているというだけです。
同じ基本となる条件を与えられた時に、そこにどのような世界を構築していくのかは、人それぞれに委ねられています。
極端な話をすれば、同じ所にいても、目を閉じている人には、何も見えません。
耳をふさいでいる人は、何も聞こえません。
見ているようでも、ぼーっとしている人は、見えているはずの物を見逃すでしょう。
聞こえているようでも、他のことに集中していると、聞こえているはずの音や声が聞こえなくなります。
果たして他の人が、本当に自分と同じものを、見たり聞いたりしているのかというと、それはわからないのです。
恐らく同じものを見聞きしているだろうと、勝手に推測しているだけです。
同じ場所を同じように見ていたとしても、立ち位置が違えば、目に映る光景は異なります。
それだけでも、同じ世界を同じように経験しているとは言えません。
さらには、その世界、その体験を素晴らしいと思うのか、つまらないと思うのか、あるいは心地よく感じるのか、不安や怒りや悲しみを感じるのかなどが違うと、それぞれが認識している世界は、全くの別物だとわかるでしょう。
これは手渡された塗り絵の用紙に、それぞれがどんな色を、どんな感じに塗るのかというのと同じです。
塗られた色の違いや、色の塗り方の違いなどで、元は同じ絵だったのに、完成品は全部違うものになります。
一人一人が感じている世界とは、そんな塗り絵のようなものなのです。
振動とは その5
波長の合った音叉は、共鳴し合います。
波長が異なる音には、音叉は共鳴しません。
人間が価値観を共有する時、それぞれの意識が音叉と同じように、互いの振動に共鳴し合っています。
そのため、全く異なる価値観には、耳を貸そうともしません。
それはその価値観が持つ振動数が、その人の意識の振動数と合わないからです。
他者を思いやったり、誰かと心を一つにするというのは、意識が共鳴していることに他なりません。
共鳴できる相手が多ければ多いほど、そこには大きな家族、あるいは大きな仲間が生まれます。
逆に、共鳴できる相手がいなければ、その人は孤独を感じ、周囲は敵ばかりだと思うでしょう。
元々の家族や仲間、あるいは地域の人間、同じ職場の人、同じ民族、同じ宗教、同じ国など、共通するものを通じて、これらの共鳴は起こります。
共鳴が起こらない相手に対しては、警戒しますし、初めから敵と見なすことも有り得ます。
ところが、そんな相手に対しても共鳴するということが、わかる場合があります。
それは相手が自分たちと同じ人間であると理解する時です。
戦争で戦い、殺し合った相手にも、自分と同じ愛する家族がいて、平和な暮らしを望んでいただけだと知ったなら、どんな気持ちを抱くでしょうか。
そこには深い悲しみと後悔が生まれ、その先には相手をいたわる気持ちが生じます。
つまり、敵だった相手への共感です。
それは、相手への理解が深まったということでもあります。
理解が深まることで、自分が音叉として使っている意識の振動数が、変化するのです。
互いに異なる振動数の音叉ではなく、互いに共鳴できる振動数の音叉を、用いるようになるのです。
そうなると、その人は他の人に対しても、この音叉を利用するようになります。
この人の世界観は大きく変化し、世の中には敵が多いと思っていたのに、実際には友だちになりたいと思う人ばかりだと気がつきます。
動物も植物も自然の環境も、全て人間が利用するためにあると思っている人が、可愛らしい動物や、慈愛に満ちた植物、生命を感じさせる自然に触れることができれば、どうでしょうか。
やはり、それらに対する見方や考え方が、がらりと変わることでしょう。
平気で生き物を殺し、自然を破壊していたはずの人が、動物愛護や環境保護の精神に目覚めるのです。
これも、人間以外の存在に対して、共鳴できる振動数の音叉を、自分が持っていたことに気づかされるから起こることです。
一度、その音叉の存在を知ってしまうと、古い音叉は二度と使おうとは思いません。
そして、これらの音叉の振動数は、理解度が深まるほど高くなって行くのです。
つまり、意識の振動数が上がるということであり、それは人間として進化したと言えるでしょう。
見た目は同じ姿に見えても、エネルギー体としてのその人の存在は、以前とは全く異なるものになっています。
UFOの存在をアメリカ政府が正式に認めたことで、科学的な宇宙観も広がることでしょう。
その時に、UFOの中にいるであろう知性体を恐れるのか、彼らを理解するのかで、その人の振動数がわかります。
彼らも自分たちと同じ光の存在だと理解することができたなら、心の音叉の振動数は、ぐっと高まることでしょう。
彼らは人類よりも知性が高い存在ですが、崇める対象でも恐れる対象でもありません。
彼らは私たちと同じ光の化身であり、仲間なのです。
そのことを彼らは私たちに伝えようと、我慢強く人類の成長を待っているのです。
でも、現在の地球ほど、全人類的に様々な経験や価値観を、共有できたことはないでしょう。
見た目には大変なことばかりですが、今起こっていることをきっかけにして、人類は地球人としての意識に目覚めることと思います。
その時に、UFOはUFOではなくなり、異星人あるいは異次元の存在と、互いを尊敬し合えるようになるでしょう。
振動とは その4
意識の振動状態によって、その意識が認識できる世界は、異なって来ます。
逆に言えば、世界をどのように認識できるかが、その意識の振動数を決めると言えるでしょう。
ずっと同じ世界観で過ごしているうちは、振動数に変化は起こりません。
せっかく人間として生まれているのに、獣のような暮らしを続けていると、振動数は下がってしまいます。
自分や世界について深く思考し、そこに新たな発見や理解を見い出すことができたなら、それは振動数を上げるでしょう。
実際、科学の発展は、そうなる前と比べると、人間の知性をかなり高くしてくれたと思います。
しかし、自分や世界についての理解を深めるために、科学一辺倒になるのは偏った見方ですし、限界があります。
これまでの科学を超えた、古くて新しい見方によって、物事の理解を進める必要があるでしょう。
それは自分と他者、人間と自然を分離しない見方です。
他の人たちと気持ちが通じ合えるようになり、また、自然の存在や地球、太陽、宇宙に対して、敬愛の心を持つようになることです。
また、生きることや死ぬことについて真剣に考えて、自分たちが認識しているよりも、本当の世界はもっと大きく無限であると気づくことです。
それができれば、人間の意識の振動数は、ぐっと高くなるのは間違いありません。
それができるようになった時に、今の人間の姿を振り返ったなら、きっと同じ人間だとは信じられなくなるでしょう。
今の人々が、いかに自分が人間であることを理解せず、操作不能になったロボットのように、無益なことばかりしているのかと、情けなくなるに違いありません。
戦争や貧困、犯罪などは、振動数を下げるものです。
これらに心が囚われてしまうと、その人の振動数は下がってしまいます。
そんな人の心の中は、不安や恐れ、怒りや悲しみ、憎しみなどで一杯になります。
物事を考える基盤が、このようなネガティブな考えですと、希望のある考え方ができません。
常にストレスを抱え、誰かに縋ることばかり考えるか、力こそ正義だと言って、他の人を無理やり支配しようとするでしょう。
でも、振動数が高くなれば、戦争や貧困、犯罪などを見た時に、どうしてそうなるのかを考えます。
それが悲惨なことはわかりますが、そこに心が囚われることはありません。
どうすれば、それがよくなるのかを考え、根本的な原因を探ります。
一人にできることは限られていても、少なくともその人は、自分の暮らしについては、それらの悲惨なことが起こるようなことは排除して、楽しく暮らそうとするでしょう。
そういう人が多く増えて行けば、自然と社会全体が楽しいものへと変化して行きます。
何か問題が起こったなら、それをステップにして、よりよい社会を築こうとするのです。
最終的には、この世が楽園となるでしょう。
そして現実にいま、それが起ころうとしているのです。