何に意識を向けるのか その4
ロシアとウクライナの戦争や、新型コロナウィルスの影響で、世界的な経済のダメージが出ています。
石油の価格が高騰し、ガソリンの値段も下がりません。
ロシアやウクライナからの小麦の輸出ができないので、世界的に小麦の価格が高騰しています。
戦争自体、いつ終わるのかがわかりませんし、もしかしたら核爆弾を使うのではないかという懸念も出て来ています。
また、中国絡みの戦争も現実化を帯びているように報道されています。
ロシアとウクライナの戦争が終わったとしても、それで全ての騒ぎがおしまいというわけではありません。
逆に、今のは前哨戦で、本番はこれからだぞと、言われているかのように、世の中には不安材料があふれ返っています。
そんな中で、あなたはどこに目を向けるでしょうか。
多くの人が感じているような不安に、同調しますか。
それとも、これを時代の変化だととらえますか。
同じ混沌とした状況の中にいながら、それを世の終わりだととらえるのか、新しい世の到来だととらえるのかは、人によって違います。
どうとらえるかによって、その人が認識する世界は、違って来るのです。
どうとらえようが、実際にどうなるかは、わからないじゃないかと、文句を言う人もいるかもしれませんね。
だけど、世界を創っているのは、みんなの意識です。
喜びを感じている人たちが集まると、そこに喜びの世界が生まれます。
不安しか感じようとしない人たちは、そこにはいられません。
喜びを感じるように意識を変えるか、さもなくばその場を離れることになるでしょう。
逆に、不安しか感じない人たちが集まると、そこは絶望の世界になります。
喜びを感じたい人は、とてもそんな所にはいられません。
こうして世界は、混沌とした状態から、喜びの世界と不安の世界に分かれて行くでしょう。
どちらを選ぶかは、本人次第です。
そこに、いいも悪いもありません。
何を選びかは、本人の自由なのです。
ただ、選んだ結果は、その人が体験する世界として表現されるのです。
何を選ぶのか、どこに目を向けるのか、という選択権を、他人に譲渡している人は、世の中に翻弄される形で、不安の世界へ引きずり込まれることでしょう。
喜びの世界へ到達できる人は、選択権を自分で持ち続けている人だけです。
また、その選択権を行使する時に、自分の本当の想いを理解している人だけです。
あなたは自分の選択権を、他人に渡していませんか。
何に意識を向けるのか その3
今、あなたは何に目を向けているでしょうか。
今、あなたは何に夢中になっているのでしょうか。
今、あなたは何を不安に思っているでしょうか。
今、あなたは何を望んでいるのでしょうか。
あなたが目を向けている物、あなたが意識を集中させていることが、今のあなたの世界を創っています。
たとえば、病気になった人が、自分の病気に目を向けるとします。
そして、この人は自分の病気は、不治の病だと信じています。
こうなると、この人の心は不安で一杯になります。
何をやっても、自分はもうだめだと思って、楽しくありません。
この人の見ている世界は、不安一色で塗りたくられたものになっています。
ところが、同じ病気になった人でも、この病気は治るのだと理解しているとします。
しかし、そのためにはどうして病気になったのかを、きちんとわかっておかねばなりません。
この人は病気を治すことを考え、それに向かって生活を改善させます。
それに伴って、これまで注意を払って来なかった、様々なことに気がつくようになります。
それが自分が死ぬことよりも、大切なことだったとわかったこの人は、病気を治すことよりも、本当に大切なことの方に、意識を集中させるようになります。
この人の世界は、喜びの色にあふれるようになり、気がつけば病気も治っているのです。
たとえば、お金がなくて生活に困っている人がいます。
そして、この人はお金がなければ、生きていけないと信じています。
こうなると、この人の心は不安で一杯になります。
本当はやりたいことがあるのに、お金がないために、何もできません。
まずはお金を稼ぐことと自分に言い聞かせ、来る日も来る日も身を粉にして働き続けます。
結局は体を壊し、精神にも不調を来してしまって、やりたいことをするどころか、お金を稼ぐこともできなくなってしまいます。
この人が見ている世界は、孤独と絶望の世界です。
ところで、同じようにお金がなくて、貧しい暮らしをしている人がいます。
この人は、そもそもお金に執着していません。
自分が食べていければ、それでいいと思っています。
それよりも、自分がやりたいことを実現することに、夢中になっています。
この人は、あれがなければできない、これがないとだめだ、とは考えません。
自分が置かれた環境の中で、手に入る物を利用したり、自分で創り出したりして、やりたいことを実現します。
他人から見れば、何だよそれは、と思われるかもしれません。
でも、そんなことは少しも意に介しません。
楽しむためにやっているだけですから、他人がどう思おうと構いません。
自分が楽しければそれでいいのです。
それに、誰もが認めてくれないわけではなく、中にはわかってくれる人もいます。
この人には、それで十分なのです。
この人の心は楽しさで一杯です。
この人が見ている世界には、楽しさの色しかありません。
こんな感じで、同じような状況、似たような環境にあったとしても、その人の物事の受け止め方や、何に意識を向けるかで、その人の世界は全く違うものになるのです。
何に意識を向けるのか その2
机や机に置かれた物を、自分の人生に置き換えてみて下さい。
机が自分自身で、置かれた物は、自分の身の回りにある全てのものです。
それは人かも知れませんし、出来事かも知れません。
ペットかも知れませんし、花壇の花かも知れません。
書物や映画などから得られた知識や考え方かも知れませんし、音楽や絵画、ダンスなどから得られる感動かも知れません。
とにかく、自分を取り巻く全ての物が、私という机の上に並べられています。
そして、その中のどれに目を向けるかで、今の自分の気分が決まります。
あるいは、今の自分の気分が、何を選ぶかを決定しているとも言えるでしょう。
毎日仕事に没頭していたり、仕事をするのが当然と考えている人は、仕事に関係した物にばかり、目を向けているはずです。
すぐ隣に家族の写真が置かれていても、全然そのことに気がつきません。
気がついていたとしても、そこに目を向けるような関心が湧いて来ません。
だけど、何かの拍子に家族の写真が、目の前に倒れて来たら、嫌でも目がそちらへ向いてしまいます。
そして、家族のことを思い出すのです。
初めはきれいなカラーの写真だったのに、知らない間に変色して、全体がセピア色になっていたら、あなたは驚くことでしょう。
そして、自分がどれほど長い間、家族の写真に目を向けていなかったの、気づかされるのです。
その写真を撮った時の家族の様子、あるいはそれまでの家族のことが、いろいろと思い出されます。
しかし、その写真以降の家族のことは、何もわかりません。
頭では自分が懸命に仕事をしているのは、家族のためだと考えていました。
他人に対しても、家族を養うためにがんばっているんだと、口にしていました。
ところが、実際はその大切なはずの家族のことが、何もわからなくなっていたのです。
こうなると、これまで目を向けていた、仕事に対する関心は薄れてしまいます。
あれほど重要だと思われていた物が、どうでもいいように見えて来るでしょう。
逆に、セピア色になった家族の写真が切なくて、悲しくなってしまいます。
もし、その写真が突然倒れなければ、家族の大切さを忘れたまま、機械のように働き続けていたでしょう。
そのことを思うと、ぞっとするに違いありません。
家族の大切を思い出した今、その人は現在の家族を探し求めるようになるのです。
こんなことって、あると思いませんか。
人間は目の前にある物や、見ることを習慣づけられたことに、意識を集中し続ける癖があります。
自分が本当は何を求めているのか、本当は何を大切に思っているのかが、わかるようになるまでは、同じことを繰り返し続けるのです。
途中で、本当の気持ちを知って、目を向ける物を変える人もいますが、一生、本当の気持ちがわからないまま、どうでもいいことに夢中になり続ける人もいます。
いいとか悪いという問題ではありませんが、本当の気持ちを知り、それに従って生きることができれば、人生は豊かなものになります。
そんな人生を送りたければ、今自分が目を向けている物が、自分にとって本当に価値があるものなのかを、検討してみる必要があるでしょう。
何に意識を向けるのか その1
目の前に机があります。
その机の上には、いろんな物がごちゃごちゃと置かれてあります。
読みかけの本や新聞、鉛筆に消しゴム、ボールペン、メモ用紙、預金通帳、広告のチラシ、スマートフォン、家族の写真、ノートパソコン、眼鏡、飲みかけのコーヒー、ビスケット。
さて、机の前に座ったあなたは、どこに目を向けるでしょうか。
読みかけだった本に手を伸ばすでしょうか。
まずは、コーヒーを口にしますか。
あるいは先にビスケットかも。
ふと何かを思いつき、メモ用紙にそれを書き込むかもしれませんね。
その時に、鉛筆を選ぶかボールペンを選ぶか。
どちらが近くにあるのか、どちらが普段のお気に入りなのか、それで選ぶ方が決まるでしょうか。
でも、ボールペンを選んだら、インクが切れているかもしれません。
鉛筆を選んだら、書こうとした時に、芯がポキリと折れることもあるでしょう。
そんなことより、今はまだ給料日が来ないのに、金欠で困っていたなら、真っ先に預金通帳を確かめますよね。
暮らしに孤独を感じていれば、一番先に手に取るのは、家族の写真かもしれません。
何にも考えずに過ごしていると、いつもと同じようにパソコンを開くか、スマホを見るか。
買い物に行くつもりでしたら、広告のチラシを見ているでしょうか。
そこで字が見えづらくて、眼鏡を外していたことを、思い出したりするかも。
机に置かれた物のどれに目を向けるのかは、人によって違います。
また同じ人であっても、その時の状況によって違うでしょう。
もしかしたら、どれにも目を向けずに、ただ全体をぼんやり眺めているだけかもしれません。
あるいは、置かれた物ではなく、物が置かれている机に注目することもあると思います。
机にある小さな傷やへこみを見て、それがどうしてできたのかということに、思いを馳せるのです。
どうしてできたのかという点では、机そのものが、どこで誰がどうやって作ったのかと、考えるかもしれません。
それと同じ目を、机の上に置かれた物に向けて、一つ一つの物が、そこに置かれるようになった経緯を、思い浮かべるようになったとします。
これは誰が作ったものなのか。
どうやって手に入れたんだっけ?
ああ、これは誕生日のプレゼントにもらったものだった。
こんな感じで、その品物に込められた想いや、その品物に隠されたドラマなどが思い浮かぶと、同じ物がそれまでとはまた違ったように、見えて来るでしょう。
何かに注目していると、他の物も視野に入っているはずなのに、注目している物以外は見えなくなってしまいます。
見えたとしても、意識には残りません。
それは見ていないのと同じです。
また、同じ物を見続けていても、どんな考えで見るかによって、その物から得られる情報は、違って来ますし、限られてしまいます。
それをちゃんと見ているつもりでも、実は全然見ていなかったということにもなりかねません。
こうしたことは人生にも言えることなのです。
止まらない銃犯罪
アメリカで銃の乱射事件が続発しています。
同様の事件は、以前から繰り返されていますが、ここ最近は特に頻発している様子です。
これに対して、銃の規制を訴える人たちと、銃の権利を訴える人たちとの間で、議論や衝突が起こっています。
それぞれに言い分はあるようですが、真逆の訴えをする者たちの意見が、一つにまとまることは期待できません。
銃を持った強盗が来た時に、こちらに銃がなければ、どうやって撃退するのか、というのが銃の権利を訴える人の主張です。
それに対して、誰もが銃を持てるようにしているから、銃の乱射事件がなくならないのだというのが、銃の規制を訴える人の主張です。
確かに、銃を持った強盗が来た時に、こちらが素手であれば、殺されてしまうかもしれません。
それでも、実際に銃の乱射事件が頻発している以上、何かの対処をする必要があるでしょう。
ただ、銃を完全に禁止しない限りは、銃を持つ年齢の制限だけでは、犯罪者の平均年齢が上がるだけのような気がします。
では、銃を完全禁止にすれば、犯罪はなくなるのでしょうか。
答えは、なくならない、です。
誰かを殺したいと考える人間は、銃が使えなければ、他の凶器を見つけるだけです。
日本では銃は持てませんから、銃の乱射事件は起こりません。
しかし、包丁や暴力による殺人事件は、数多く起こっています。
今ではインターネットで爆弾の作り方を、知ることができるそうです。
銃が使えなくなれば、個人で爆弾を使って、大量殺人を謀る者が出て来るかもしれません。
結局、この問題は銃そのものにあるのではなく、銃を使いたくなる人間の心にあるわけです。
どうしてその人物が、そんなことをしたくなるのか、という点を、徹底的に調べて対処しなければ、本当の解決には至らないでしょう。
それは、単に個人の環境の問題だとか、個人の心の問題だと考えることではありません。
彼らの心をゆがませてしまった、社会のゆがみを検証することです。
犯罪を犯してしまった者たちが、全く異なる環境で生まれ育っていたならば、また違う道を歩んでいたであろうことは、誰にでもわかるでしょう。
同じ環境にありながら、犯罪を犯す者と、そうでない者がいるのだから、犯罪を犯す者が悪いのだという理屈では、問題の解決には結びつきません。
環境に対して心が弱い者に、どのようなアプローチをするのかで、結果は変わって来ます。
社会を変革するよりも、個人の責任にした方が、楽に思えるのかもしれません。
また、社会体制を変えることで、困ってしまう人がいるのかもしれません。
でも、それは思いやりのないことでしょう。
自分さえよければ、立場の弱い者が、どうなろうと知ったことではない、という考えこそが、多くの社会問題の原因です。
そこに目を向けて、改善して行くことこそが、銃乱射事件に代表されるような、多くの事件の解決につながります。
逆に言えば、そこをやらなければ、決して問題が解決することはないでしょう。
ナスカの地上絵
南米のペルーには、有名なナスカの地上絵があります。
そこに、新たな地上絵が発見されたというニュースがありました。
長さ約60メートル、幅約30メートルの植物と思われる絵です。
ナスカ以外にも、世界各地に地上絵は見つかっていますが、ナスカも含めて、それらの絵の目的は不明です。
地上にいる人間からは、そこに絵が描かれていることはわかりません。
ですから、空にいる者に対して、描いたものだろうと、誰もが推測するでしょう。
そして、当時はまだ飛行機はなかったはずですから、宇宙人ではないかという理屈になるわけです。
ただ、地上絵とは言っても、本当に宇宙から見たのでは、小さ過ぎて見えません。
ある程度、地上に接近しないとわからないのです。
とは言っても、当時の人々が、どのくらいの高さであれば、絵が見えるのかということまでは、考えていなかったかもしれません。
絵を描いた人々の頭には、遙か遠くから訪れる、宇宙人が思い描かれていた可能性はあるでしょう。
一方で、こんな話もあります。
それは体外離脱をして、本当に空中を飛んだのだという証として、上空から見てわかる絵を描いたというものです。
体外離脱の修行をしている者に、体外離脱ができたなら、こちらの方向へ飛んで、そこで見えたものを報告するようにと告げておくのです。
その人が体外離脱をして、言われた方へ飛んで行き、そこでサルの絵がありましたとか、クモの絵がありましたと報告すれば、本当に体外離脱ができたのだなという証拠になるでしょう。
なかなか面白い話ですし、それは有り得る話のようにも思えます。
遙か昔のことは、ほとんど何もわかりません。
それについて、いろいろ考えるのは面白いことだと思います。
ただ、全てを今の人間社会を基準にして判断するのは、間違いにつながる恐れがあるでしょう。
たとえば、当時の人間は原始的で、科学的な知識も技術もなく、今の人間と比べて、遙かに劣った存在だという考えです。
初めから、そんな風に決めつけてしまうと、正しい答えを見つけることはできません。
多くの遺跡からわかるのは、今の技術を持ってしても、同じものを再現するのは困難だという事例が、少なくないということです。
それでも頭の硬い学者や専門家の人たちは、そのことを素直に認めようとはしません。
過去に今より優れた技術や文明があったという考えは、妄想に過ぎず、有り得ないことだと決めつけています。
それでも、アメリカ政府がUFOの存在を認めました。
人類よりも遙かに進んだ技術を持った知性体が、実際に存在しているということです。
彼らが遙か昔の人々に、関わっていたとするならば、多くの素晴らしい遺跡が存在する理由になるでしょう。
ナスカの地上絵や、他の遺跡などを、ただ面白いとか、不思議だなということで終わらせるのではなく、そこから何が考えられるのかと、思考を巡らせることはとても大切なことなのです。
誰の言葉か その4
いろんな人に支えられてはいても、自分の道を歩むのは、自分自身です。
どのように歩くのかを決めるのは自分ですし、分かれ道があった時に、どちらを進むかを決めるのも自分です。
周りに誰かがいれば、ついどうすればいいのかと、聞きたくなります。
でも、誰もいなければ、自分一人で決断しなければなりません。
ですから、基本は何でも自分で考え、自分で決めるということです。
他の誰かが、そのことについて何かを言う場合、それは今の自分とは、異なる視点に立っての意見を、述べてくれているだけです。
つまり、それはあくまでも、その人自身の考えであり、その人にとって正しいことなのです。
それが自分にとっても、正しいと思えるかどうかは、その時によって違います。
いいねと思えば、それを自分のものとして取り込めばいいのです。
ちょっと違うかなと思えば、どうもと言って、自分が思うとおりに行くのです。
相手がどんな人であるかは関係ありません。
相手の素性や肩書きなども、何も関係ありません。
その人が発した言葉が、今の自分にとって、役に立つものかどうか、自分が求めていた言葉かどうか、というだけのことです。
料理のレシピや、仕事の進め方などから、政治や戦争問題など、世の中にはいろんな情報や、言葉が飛び交っています。
それらの情報をどう利用するかについて、情報の出所がどのような意図で、その情報を広めているのかを、確かめることは大切でしょう。
でも、ここならば大丈夫と思っていた出所からの情報が、間違っているということも有り得ます。
そうなると、どの情報を信じていいのかが、わからなくなるでしょう。
そんな時には、自分自身に問いかければいいのです。
人間は何も知らないようでも、本当に大切なことは、心の奥でわかっています。
その心の奥にいる自分自身に、本当にこれでいいのかと問いかけるのです。
そうすれば、自ずと取り入れるべき情報を、選別することができます。
そして、その言葉は誰のものでもなく、自分自身の言葉であるとわかるでしょう。
誰の言葉か その3
権威のある人が、こうしなければいけません、と言ったとしましょう。
大抵の場合、なるほどそうかと、その人の言葉に従うと思います。
従わなかった場合、そのことに対する罪悪感を感じてしまいます。
しかし、権威があるとは言っても、世の中の全てのことを、知り尽くしているわけではありません。
専門家が知っているのは、自分の専門領域のことだけです。
それも、これまでの研究などによって、明らかになっていることが、わかっているだけで、わからないことは、いくらでもあるのです。
得られた研究データから、これこれこういうことですね、と言う専門家がいますが、それはあくまでも、その専門家個人の意見であって、真理ではないのです。
状況が変われば、専門家がそれまでとは全く異なる見解を出すことも、決して珍しくはないのです。
また、専門家の知識が間違っていなかったとしても、人々の日常生活のことまでは、その専門家は知りません。
それなのに、こうしないといけないと、専門外のことについても口を出し、みんながそれに従おうとすると、世の中は混乱するでしょう。
一人一人、それぞれ違う暮らしや、異なる考え方があるわけですから、それを一律に同じようにしろというのは、無理な話なのです。
何が本当の問題で、何をどうするのかということは、全体的に考えながらも、個別に考えるということも必要です。
あの人が、ああ言ったからとか、この人が、こんなことを言ったせいだと、あとから相手に責任を求めたところで、どうにもなりません。
自分のことは自分で判断するよりほかないのです。
専門家だけでなく、親や先生、会社の上司など、権威があるような人たちが、何かを言って来る場合、その言葉を鵜呑みにするのではなく、相手が何を言いたいのか、ということを、よく理解することです。
まずは、それが自分のためを思って、言ってくれているのか、権威自身のために言っていることなのかを、判別しなくてはなりません。
自分のために言ってくれているとわかった場合も、相手が何を根拠に、そのように考えているのかを、理解する必要があります。
その根拠が自分には当てはまらないのであれば、その言葉に感謝はしつつも、従う必要はありません。
なるほど、そうだと自分で納得するならば、自分の意思で、その言葉を受け入れればいいのです。
それは、あの人がこう言ったから、という言葉ではなく、自分で納得して選んだ言葉なのです。
誰の言葉か その1
好い加減なことをする人に、ちゃんとやれよな、なんて言われると、カチンと来ますよね。
お前が言うな!
と言ってやりたくなります。
それと同じように、他人の物を盗むのはよくないと、泥棒が言っても説得力がありません。
人を見下している人間が、差別はだめだと叫ぶのは、白けるものです。
暴力を振るっていた者が、争いはやめなければいけないと言っても、何を言ってるんだとなるでしょう。
しかし、泥棒に盗むなと言われて、お前が言うなと言いながら、誰かの物を盗むのはよくありません。
人を見下している者に、差別はするなと言われたことに、腹を立てながら、誰かを差別するのも、いいことではないでしょう。
暴力を振るう者に、争いはやめよと言われて、余計に激しく争うのは、何の得にもなりません。
相手に反発すると、相手の言葉に逆らいたくなるかもしれませんが、本当にそれでいいのかは、よく考える必要があるでしょう。
専門家と呼ばれる人が、自分の専門領域について、熱く語ることは、よく見受けられます。
専門家という表現は、権威の象徴でもありますから、専門家がこう言ったとなると、みんなそれに従おうとしてしまいます。
権威のある人の言葉は、とても説得力があるからです。
権威があるということでは、親や学校の先生、政治家や会社の上司など、世の中には様々な権威があります。
他の人から見れば権威でなくても、当事者にとっては権威ということは、よくあることです。
と言うか、誰が権威なのかは、その人を見ている者が、自分で決めるのです。
絶対的な権威というものは存在しません。
自分が誰かを権威だと思えば、自分にとっては、その人は権威になるわけです。
そして、その権威になる人が何かを言うと、素直にその言葉に従ってしまうのです。
しかし、これについても、本当にその言葉に従うべきなのか、本当にその人の言うとおりなのかは、自分自身で検証してみないといけません。
誰の言葉か その2
泥棒が盗むのはいけないと言う場合、もしかしたら、その泥棒は自分が盗みをしたことを後悔し、改心したのかもしれません。
自分が盗みを働いて、他の人に迷惑をかけたり、苦しめてしまったことに気がついて、これはしてはいけないことだと悟った結果、盗むのはいけないと言っている可能性はあるでしょう。
過去に悪いことをしたからと言って、その人がそのことを心から悔やんで反省したとしても、更生の道が開かれないのであれば、恐らく世の中の人全員が、ずっと罰を受け続けなければならないでしょう。
自分は何も悪いことなんかしてないぞ、と反論されるかもしれませんが、自分が知らないところで、誰かを傷つけたり、迷惑をかけてしまうということは有り得ることなのです。
知らないことだから、別に構わないじゃないかと言うのは、自分の勝手な言い分です。
やられた方の立場に立って考えれば、そんな言葉は出ないはずです。
それに、人は失敗をしたり、お互いに傷つけ合ったりしながら、人間としての成長をして行くものです。
失敗や過ちを完全に否定してしまうと、それ以上成長することができなくなってしまいます。
真理とは、失敗や過ちの中から見つかるものだからです。
とは言っても、泥棒が盗みはよくないと言う時に、その泥棒が本当に改心しているのかどうかを、判別することは容易ではないでしょう。
もし現役の泥棒であったなら、やはりその言葉に説得力はありませんし、相手を馬鹿にしているとしか言えません。
それでも、盗みはよくない、という言葉は、確かにそうなのです。
問題は、その言葉を誰が言ったかによって、態度を変えるということでしょう。
同じ言葉を、お巡りさんが言えば聞くけれど、泥棒が言ったのでは聞かない、というのは妙な話です。
その言葉の意味を自分で考え、確かにそうだと納得するならば、それを誰が言ったかに関係なく、自分のものにしなければなりません。
つまり、その言葉は泥棒のものでもなく、お巡りさんのものでもなく、自分自身の言葉になるということです。