物語と人生 その3
人生は、一冊の本に描かれた物語です。
私たちは、時間の流れに沿って、その物語の中の、どこか一点に意識を合わせています。
私たちが知ることができるのは、今という瞬間だけです。
その瞬間は、次々に入れ替わります。
それが時間の流れです。
でも、どんなに時間が進んでも、やはり知ることができるのは、今という瞬間だけなのです。
そうして体験した瞬間瞬間を紡ぎ続けてできた記憶が、自分が経験した人生です。
これから先の人生を、どのように紡ぐのかは未定です。
物語がある以上、この先が決まっていると言えば、決まっています。
しかし、まだ経験していない先の部分は、意識が変われば違うものに置き換えられます。
そういう意味では、この先は決まっていません。
要は自分の意識次第ということです。
ところで、全体の物語が想定されているのに、それを体験している自分は、今という瞬間にしかいないということを考えると、私たちの意識の構造というものを、推測できるでしょう。
物語全体を想定するのも自分であれば、今という一点を体験するのも自分です。
私たちは、今という一点に集中した意識のみを、自分だと認識してしまいますが、事実はそうではないとうことです。
私たちの意識は、もっと大きなものなのです。
たとえば、何か物語を考えてみて下さい。
日本人であれば、桃太郎の話は、誰でも知っていますよね。
桃太郎の話を思い浮かべた時、あなたの頭の中には、桃が川に流れて来る所から、鬼退治をした桃太郎が、宝物を持って村に戻って来る所まで、全部が一つの塊となってあると思います。
つまり、物語の初めから終わりまでの全てが、頭の中にあるわけです。
ところが、桃太郎がどんな人生を送るのかということに、意識を向けたなら、あなたは桃太郎が桃から生まれ、老夫婦に育てられ、鬼退治に出かけて、鬼と戦い、宝物を奪って帰る所までを、順番に思い描いて行くことでしょう。
絵本やアニメで見ていたことを、頭の中で再現するのです。
桃太郎の物語を読み進めるように、今の私たちは自分の中にある物語を、体験しているのだと考えてみて下さい。
今の私たちも自分であるけれど、人生という全体の物語を思い浮かべている、もっと大きな意識の自分がいるということが、理解できると思います。
桃太郎の話に戻りますが、もし鬼たちが、本当は桃太郎と同じ人間で、こちらの人間たちが、鬼を恐ろしい存在に、仕立て上げていたとしたら、桃太郎はどうするでしょうか。
本当に悪かったのは、自分たちの方だと知りながら、鬼を退治して、宝物を奪い取って帰るでしょうか。
恐らく、あなたは既存の桃太郎とは別の、新たな桃太郎の話を思い浮かべるでしょう。
それと同じように、私たちが体験している人生という物語も、私たちの視点が変わると、それまでとは違う流れの物語になるのです。
人生とはこんなものだと、悟ったようなことはしないで、自分の視点を変えて見て下さい。
人生という物語は、あなたが好きなように、書き換えることができるのです。
物語と人生 その2
人は何度も人生の物語を体験し、そこから、ああでもないこうでもないと、いろんなことを学びます。
そうして、今度こそはと、今の人生を選ぶのです。
それでも、生まれた時には、それまでのことなんか覚えていませんから、やはり、いろいろ悩みながら生きることになるわけです。
それでも、昔の人生のような、低い視点ではなく、もっと高い視点で、人生をとらえようと計画していたのであれば、高い視点に気がつくような設定がなされた、物語を選んでいるでしょう。
たとえば、それは自分にとって、とても大切な人との出会いかもしれません。
あるいは、大病を患ったり、事故で大怪我をすることかもしれません。
大きな災害にあって、全てを失ったり、誰かに騙されて、深く傷つけられることかもしれません。
そんな出会いや出来事があっても、そこから何も学べない人もいます。
そこで学ぶつもりで物語を選んでいても、学びのポイントを見逃してしまうと、何も学べない人たちと、同じ道を進むことになります。
学びのポイントで、意識を変えることができるかどうかが、運命の分かれ道ですね。
意識を変えることができたなら、その時点から先の物語は、がらりと別の物語に、書き換えられます。
つまり、視点が低い人たちが選ぶ物語とは、別の物語を選ぶことになるのです。
ゲームで言えば、みんながステージ1にいる中で、あなたはステージ2に突入したようなものです。
何の疑問も抱かずに、周囲の人たちと同じことを考え、同じことをしている人たちは、みんなステージ1にいると言えるでしょう。
自分が今の世の中とは、うまくやっていけないと感じている人は、自分を悪く見てしまいがちです。
でも、そういう人たちは、ステージ2の入り口に立っているわけです。
そして、このままステージ1を続けるのか、ステージ2に入るのかの、選択を迫られているのです。
他人を思いやり、他人の優しさを受け入れられる人は、ステージ2へ入ることができるでしょう。
キーパーソンとの出会いを、理解することができるからです。
しかし、思いやりや優しさを拒む人は、そのままステージ1を続けることになるでしょう。
そこには問題を解決する状況は見つからず、つらい体験が続くばかりです。
物語を終えてから、自分の人生は何だったのかと考えるのもいいのですが、物語の途中で、同じ疑問を抱くことは重要です。
そして、疑問を抱いたのであれば、その答えを求めるのです。
それが、その人を次のステージへ、導いてくれるでしょう。
物語と人生 その1
人生とは物語を読むようなものです。
ここに一冊の本があるとします。
中には、あなたの誕生から死までの、物語が書かれています。
あなたは自分の人生が書かれた本を、初めのページから順番に、読んで行きます。
あなたの目がとらえているのは、常にどこか一点です。
本の中に描かれている、壮大な物語の中の、一点だけがあなたの意識に上ります。
一度目を通した部分は、記憶としてとらえられ、まだ目を通していない部分は、未知の未来ととらえられます。
でも、全ては本の中に描かれています。
それがあなたにとって、楽しかろうとつらかろうと、そんなことにはお構いなく、物語は進んで行きます。
そのまま物語の終わりまで突き進み、結局自分の人生とは、何だったのかと考えることになるかもしれません。
この、何だったのか、と考えることが、とても大切なことなので、何とつまらない人生だったのかと、思うような人生であったとしても、一つも無駄にはなりません。
物語を読み終えたから、それでおしまいというわけではなく、一つの物語が終わったら、今度は別の物語を始めるのです。
その時に、前の物語を読み終えた時の感想が、とても参考にされるわけです。
自分の人生は何だったのかと、考えることができたなら、次の物語を選ぶ時に、慎重になるでしょう。
貧乏で苦労した人は、お金持ちになる物語を、選ぶかもしれません。
力が弱くて苦労した人は、喧嘩が強い力自慢の人になる物語を、選ぶかもしれません。
誰にも注目されなかった人は、みんなから注目される物語を、選ぶかもしれません。
男だった人は、女になるかもしれませんし、女だった人が、男になるかもしれません。
あるいは、そのどちらでもないような物語を、選ぶかもしれません。
若くして亡くなった人は、とても長生きする物語を、選ぶかもしれません。
家族が多いことにうんざりした人は、ずっと一人でいる物語を、選ぶかもしれません。
そうやって、いろんな物語を体験しながら、それでも自分の人生は何だったのか、と考えるなら、物語を選ぶ視点を変えることになるでしょう。
今の視点ではだめだと知ることで、今より高い視点の存在に、気がつくのです。
そして、次に選ぶ物語は、それまでとは全く異なる、奥行きのある物語になるのです。
人生大学 その2
どうすれば、教師である自分の声が、聞けるのでしょうか。
それにはまず、学びたいという心構え、学ぼうとする姿勢が、大切です。
普通の学校のように、教師は受講生が、授業中に外を見ていても、注意をしません。
居眠りをしていても、起こそうとはしません。
だからと言って、こいつは落ちこぼれだと決めつけて、見捨てることもありません。
本人がその気になるまで、我慢強く待ち続けます。
声をかけて聞こえなくても、大声で叫んだりもしません。
あなたが耳を傾けた時に、初めて教師である自分の声が、聞こえます。
それは普段、私たちが使っている声ではありません。
ふと思いつく感じで、教師の自分の言葉は、あなたの心に届きます。
ほとんどの人は、それが教師の自分の声だとは、気づきません。
自分で勝手に思いついたと考えるのです。
教師の自分も、受講生の自分も、同じ自分ですから、自分で勝手に思いついたと言っても、間違いではありません。
しかし、その考え方をしているうちは、自分というものを、ちっぽけな存在ととらえがちです。
つまり、低い視点に留まったままでいることが、多いということです。
何かでたまに、高い視点の言葉に気がつくだけで、基本的には低い視点で、物事を見続けます。
そのため、いろんな悩みがついて来ます。
大きな苦しみを受けるかもしれません。
ですから、何かをふと思いついたなら、勝手に思いついたとは考えず、それが教師である自分からの、メッセージなのだと受け止めて下さい。
視点が低い人が、ふと思いつくようなことは、視点が高い人にとっては、当たり前のことなのです。
大切なのは、ふと思いついたことを、自分にとって当たり前のことに、してしまうことです。
それは生徒が教師から教わったことを、理解するのと同じです。
教えられたことが、自分にとって当たり前になったなら、あなたの視点は一段階高くなります。
そうなると、そのレベルに見合ったことを、また思いつくようになるでしょう。
そして、それをまた自分にとって、当たり前のことにするのです。
そうすることで、あなたのレベルは、知らないうちに、どんどん上がって行き、教師である自分に近づいて行きます。
すると、世の中がかつてとは違った風に、見えて来るでしょう。
以前は表面的にしか見ていなかった、様々な出来事について、深い洞察力を持って、眺めることができるようになるのです。
白や黒、正義や悪、というような、単純な色分けで物事を見たりはしません。
自分と異なる存在を、馬鹿にしたりもしませんし、他人と異なる自分を、卑下したりもしません。
違いは個性として受け止め、いろんな存在がいることを、ハーモニーとして見るのです。
いろんな存在が、みんなで調和の歌を歌い、メロディーを奏でるのです。
そして、自分自身もそのハーモニーの一端を、担っていると知り、それを存分に楽しむのです。
誰かに言われてその気になっているのは、本当に学んだことにはなりません。
誰かに言われるということは、ただのきっかけです。
そのきっかけを通して、心の中の教師の声を聞くのです。
それができなければ、わかったつもりでいるだけで、本当にわかったとは言えません。
差別はいけないと、人には教えながら、自分自身が誰かを見下していれば、それは偽物です。
殺人はいけないといいながら、戦争は仕方がないと考えるのは、やはり偽物です。
神を信じると言いながら、神を知ろうとしないのは、これも偽物です。
心の教師の声に従っている人は、このようなことはしません。
他人の声に従うのではなく、自分自身の教師の声に、耳を傾けて下さい。
学びたいという謙虚な姿勢で、悩んでいることを、心の教師に問いかけてみて下さい。
どんな答えであろうとも、素直に受け入れる気持ちで、尋ねてみて下さい。
そうすれば、あなたの心の中に、新たな意識が芽吹くことでしょう。
人生大学 その1
人生は学びです。
人生は学校です。
あなたのクラスは、わたし学部わたしだけ課です。
受講生はあなた一人。
教師もあなた自身です。
正確に言えば、教師はあなたの心の奥底にいる、とても知性の高いあなたです。
受講生は、普段のあなたです。
普段のあなたは、教師であるあなたとは、切り離されている感じで生きています。
教師であるあなたが、いろいろ声をかけても、受講生であるあなたは、他のことに夢中になっていると、その声が聞こえません。
その状態で様々な出来事にでくわして、それをいろんな感情で受け止めるのですが、場合によっては、そのことでとても苦しむこともあります。
しかし、そんな時にも教師のあなたは、それをどう受け止めるべきなのかを、根気強く教えようとしています。
ただ、受講生のあなたがその声に気づかなければ、いつまでも苦しみ続けることになりますし、新たな苦しみが訪れることになるのです。
子供も大人も関係ありません。
あなたは生まれた時から受講生で、あなたのそばには、いつも教師のあなたがついています。
何を学ぶのかは、人それぞれです。
早くから教師の自分の声が聞ける人は、子供のうちから深く物事を考えます。
教師の声を聞こうとしない人は、どんなに歳を取っても、物事を低い視点から、見続けています。
教師のあなたは、物事を高い視点から見ることを、教えてくれます。
そうすれば、抱えている悩みが解決しますし、人生が喜びに満ちたものになるのです。
つまり、人生とは楽しむためにあるわけで、この不思議な世界を、あなたは冒険をしに来ているのです。
人生に絶望したり、人生を地獄のようにとらえてしまう人は、教師の自分の声が聞こえていません。
低い視点にいる自分の経験のみで、人生とはこんなものだと、決めつけているのです。
それは、傲慢な態度です。
もっと謙虚にならなければなりません。
謙虚になって、違う視点からのとらえ方を、学ぶのです。
答えは、自分の心の中にあります。
いろんな生き方
最近、テレビやネットの記事で、いろんな生き方をする人がいることを、教えられます。
昔であれば、人と同じことをするのが当たり前であり、人と違ったことをすると、変人扱いされました。
ですから、自分が興味がないことでも、みんなが興味があれば、自分も興味があるふりをしないといけませんでした。
今でこそ、LGBTQと呼ばれる人たちが、世間に堂々と自分の姿や考えを、見せられるようになりましたが、私が子供の頃であれば、全員が病気と思われたはずです。
今、世界中でLGBTQという表現を超えるような、様々な人々が、それぞれの個性を活かした暮らし方を始めています。
特に若い人が多いのですが、それでもかなり年配であったり、私よりも歳を取られている人もいらっしゃいます。
そういう方たちは、何より自分の気持ちを大切にし、自分の想いに従った、個性的な暮らし方をしています。
そして、それが受け入れられないのかと言うと、周囲の人々も、そういう方たちの生き方を、驚くほど素直に受け入れているのです。
多少の抵抗があったとしても、その人自身の本当の姿を見つめることで、人々の持つ偏見はなくなり、単なる個性に過ぎないと受け止められるのです。
これはすごいことだと思います。
世の中には、戦争だとかコロナだとか人権問題など、多くの問題が山積みになっています。
また、それらを知りながら、見て見ぬふりをする人も、少なくありません。
一方で、一人一人の生き方を尊重し、認め合う生き方を選ぶ人も、加速度的に増えているように思います。
この流れは止まることはないでしょう。
そして、この流れが世界を包む時、世界は大きく変わると思います。
私が注目している人たちのほとんどは、その人なりの苦しみを持ちながら、自分らしく生きようとしているだけでしょう。
自分が特別なことをしているとは、微塵も感じていないと思います。
しかし、それらの人は間違いなく、人類進化の仕掛け人でしょう。
自ら苦しみを体験しながら、その苦しみを克服し、その先に自由と喜びがあるということを、身を以て多くの人々に示してくれているのだと思います。
自分とは全然違う遠くの所で、自分とは全然違う生き方をしている人たちですが、とても胸に熱いものを感じさせられてしまいます。
みんな、仲間なのだと、心のつながりを感じます。
世の中はいろいろ大変には見えますが、間違いなく新しい世界に向かって、突き進んでいます。
とても頼もしく、素晴らしく、感動させられる人たちに、エールを送りたいと思います。
湧き出る清水 その3
人は自分と他人を比べて、それでいいかどうかを決める癖があります。
周りの人が同じことをしていれば、別に構わないかと思ってしまうのです。
自分と周りが違うと思うと、自分はおかしいのではないかと、不安になったりもします。
でも、周りの人みんなが狂っていたとしたら、どうでしょうか。
本来正常であるはずの自分の方が、狂っているのだと思うのですか。
そんなのは理不尽であり、おかしなことであり、ある意味、滑稽な話です。
多くの川が濁っているから、川とはそんなものだと考える人は、源泉のきれいな水を知らない人です。
湧き出る清水を知る人は、どんなに多くの川が濁っていても、それが自然の川だとは思わないでしょう。
それと同じで、自分の心の状態がどうであるのかは、他人と比べてはわかりません。
心の中に湧き出る清水を、自分自身で確かめるのです。
そうすれば、今の自分の心が、湧き出る清水のままなのか、余計な物で汚されているのかがわかるでしょう。
川の流れが汚されても、汚染する原因を取り除けば、やがて川は自浄作用を取り戻し、元のきれいな川に戻ります。
それは源泉から懇々と、きれいな清水が湧き続けているからです。
人の心も、世の中の価値観でゆがんでいても、それらの価値観を捨て去り、そんな価値観と接触しないようにしていれば、自然と元のきれいな心に戻って行くでしょう。
人の心にも自浄作用があり、懇々と湧き続ける心の清水が、心の汚れをきれいに流してくれるからです。
瞑想はそのための有力な手段ですし、大自然の中に身を置くというのも有効です。
あるいは自分だけの空間を作って、そこで余計なことは考えず、のんびり過ごすのもいいでしょう。
自分の心は湧き出る清水によって、創られた川なのだとイメージして下さい。
何かで苦しんでいる時には、心の川がゆがんだ価値観で、汚されているはずです。
心の自浄作用を取り戻すべく、心の中の清水に意識を集中させましょう。
それが本来の自分であると、再認識するのです。
いろんな思考を取り除くと、自分というものが、なくなってしまうように感じるかもしれません。
でも、それでも自分という存在は残っています。
その何の飾りもない自分というものを、探って感じて下さい。
そこにこそ、あなたの心の中に湧き出る清水があるのです。
湧き出る清水 その2
川の流れは、水の流れです。
川と言うと、昔からずっとそこにある、水の流れのことです。
同じ形で流れていても、その形を作る水自体は、瞬間瞬間で変わっています。
それが川の流れです。
水の流れが川という形を作るので、見かけの川の形は同じでも、そこを流れる水は、常に変化しているのです。
この水の流れが変わると、どうなるでしょうか。
当然、川の形は変わってしまいます。
水量が減ると、川は痩せ細ります。
水量が増えると、川は氾濫してしまい、どこが川なのかがわからなくなります。
あるいは、岸壁を押し流してしまい、川の形が変わってしまいます。
水量が同じでも、水の質が悪くなると、腐敗臭が漂う、ドブ川になるでしょう。
生き物が棲むことのできない、死の川になるのです。
私たちの心も、川と同じです。
自分という意識は、川の形です。
意識が活動できるのは、川が流れているのと同じです。
どんな思考をするのかは、川を流れる水量や水質によって異なって来ます。
ところで、川の水はどこから来るのでしょうか。
それは山に湧き出る清水、あるいは地面から清水が湧き出た泉の水が、流れて来るのです。
つまり、元はとても純粋な水なのです。
それと同じで、私たちの心も、元々は純粋なエネルギーで、創られているのです。
湧き出た水が川となって流れていると、その途中に、いろんな物が水に混ざり込みます。
それは微生物であったり、生き物の排泄物だったり、山の土や砂だったり、落ちて来た葉っぱや埃だったりです。
でも、大抵のものは、川の質を汚すことにはなりません。
川には自浄作用があるからです。
しかし、川の近くに人が住み、生活排水や工業廃水を流し込むと、川はダメージを受けてしまいます。
その汚れが川の自浄作用を超えると、川は誰も寄りつかない、汚い川になるでしょう。
工場や自動車が出す排気ガスなどの大気汚染により、降り注ぐ雨までもが汚染されてしまうと、これも川を汚す大きな原因になります。
川にたとえた人の心も、これと同じことが起こっています。
本来のきれいな心を汚すような、様々なゆがんだ価値観や情報が、世の中に蔓延しています。
それが知らず知らずに、心の川の中に混じり込み、人々の心は本来とは異なる、自分勝手な醜いものに、変わってしまうのです。
その結果、喧嘩から戦争までの多くの争いや、思いがけない病や事故、異常気象に伴う自然災害などを、引き起こすのです。
みんな、自分の心の川が、ドブ川になっていることに気づきません。
多くの人が同じ考えを持っていると、そのことに気づきにくいのです。
でも、それでいいとは言えませんよね。
人は元の美しい心の川を、取り戻さなければなりません。
湧き出る清水 その1
山の岩の中から、あるいは何もないと思われるような地面から、懇々ときれいな水が湧き出ていると、何だか嬉しくなりませんか。
何にも汚染されていない、きれいな水が、自然に流れ出て来るのです。
有り難いし、素晴らしいことですよね。
そんな水が湧き出ることを、当たり前に思うのではなく、感謝の気持ちが持てると、他のことにも同じような、感謝の目を向けられるようになると思います。
体は毎日同じように見えますが、実際は体に取り込んだ水や食べ物の養分で、その構成要素が日々入れ替わっています。
言ってみれば、ブロックで作った大きな人形の、ブロックを毎日新しい物に、交換しているようなものです。
そこにある人形の形は変わりません。
ですから、人形という形にだけ注目していると、毎日同じ人形が、そこに置かれているように思います。
しかし、ブロックが変わっていることに注目すると、同じではないということがわかります。
人間の体もそれと同じで、毎日体を構成する要素は、入れ替わっています。
細胞も古い物は壊れて、新しい物が生まれます。
同じに見えても、昨日の自分と、今日の自分は、別人であるのです。
もし、この入れ替わりができなくなると、どうなるのでしょうか。
ブロックでできた人形の、ブロックはすぐに傷んでしまいます。
それを交換しないで放って置くと、あちこちで劣化したブロックが、どんどん壊れて行くことでしょう。
それを補うことはできません。
初めのうちはブロックが壊れ始めても、人形の形は維持されています。
しかし、壊れるブロックの数が増えるにつれて、人形の形も崩れて来ます。
これが病気の状態ですね。
そこでブロックを補う必要があるのですが、本来のブロックとは違う種類のブロックを使うと、やはり問題が生じます。
取り敢えずは人形の形を維持できるのですが、ブロック同士がうまくかみ合わなかったり、他のブロックを傷めてしまったりすると、結局は人形の形は崩れてしまいます。
私たちが日常体に取り込んでいる食べ物の中に、人工的な化学物質が多く含まれていると、このようなことになるでしょう。
本来、体が必要としていないものを取り込んで、必要としているものが使えなくなると、一見何でもないように見えても、体の内部は徐々に崩れて行くのです。
その結果、様々な病気が出て来ても、ブロックに目を向けない限り、本当の解決には至りません。
自然の中には、きれいな清水が湧き出ています。
私たちの体は、元々そんな清水のような、ピュアな要素で構成されているのです。
でも、世の中に蔓延している食べ物や飲み物は、きれいな体を構成するものというよりは、ファッションみたいになっています。
あるいは、見た目にきれいだとか、腐らないなど、不自然な状態を創り出すことが、素晴らしいと思われています。
でも、それは人形のブロックを、壊して行くようなものです。
自分で自分の体を、傷めつけているのです。
自分も自然の一部であるということを思い出し、清水のような自然の恵みを、感謝しながら取り込むようにして下さい。
何に意識を向けるのか その5
多くの人は、世の中のこと、身の回りのことに、目を向けています。
明日はどうなんだろう、将来はどうなってしまうのだろうと、これから先のことを考えてしまいます。
あるいは、前はよかったな、あの時に戻れればいいのにな、と過去を懐かしんだり、後悔したりすることもあるでしょう。
でも、その目を今の自分に向けてみて下さい。
これが自分だと思っている、その自分の奥に隠された、本当の自分というものに、目を向けるのです。
そもそも自分とは何なのか、自分という意識とは何なのか、心とは何なのかと、考えてみて下さい。
そんなことを考えたところで、何にもならないと思わないで下さい。
自分を考える、心を考える、ということは、世界について考えることと、同じだからです。
自分がどうして、この時代でこのような状況の中で生きているのか、答えられる人はいないでしょう。
その自分や自分の暮らしは、世界の一部となっています。
ですから、世界を知るということは、とても大切なことなのです。
世の中はこうなんだぞ、と誰か偉い人が言ったとしても、本当にそうなのかは、自分で判断しなければなりません。
そうでなければ騙されて、いいように使われてしまうかもしれません。
自分と世界は繋がっていますから、自分を知ると、世界を知ることができるのです。
そうすることで、本当の自分の生き方というものが、わかって来るでしょう。
普段していないことでしょうから、すぐに答えは出ないと思います。
それでも考え続けて下さい。
また、感じ続けて下さい。
世の中のゆがんだ価値観をシャットアウトして、一度思考を止めて、ぼんやりと自分の存在だけを感じるのです。
それこそが本当の自分であり、本当の自分がどうありたいのかということも、言葉とは違った感覚として、そこに秘められています。
また、他の人や他の生き物、他の存在たちにも、同じように本当の姿があるわけです。
そういう存在たちの、本当の姿を理解して、感じられるようになれば、自分が他の人たちや、世界とつながっているということがわかります。
そういう意識を持てるようになった時、目の前に並べられたいろんな物から、どれを選ぶのか、何に意識を向けるのかが、それまでとは全く違っていることでしょう。