人生のコツは先取り その2
人生の自動販売機にお金を入れて、希望する未来のボタンを押したのに、何も変わらないじゃないかと、言いたい人がいると思います。
でも、その人は実際にはお金は入れてませんし、ボタンも押していません。
自分の想いがこもったお金を使ったならば、それは必ず行動に表れます。
じっとしたまま頭で考えているだけでは、想いのお金を使ったことにはなりません。
それは、何が何でもやりたいんだという願いですから、体はそれに応じた動きをします。
お腹が空いて何か食べたいと、本気で思っているならば、必ず食べ物を探すでしょう。
それと同じことです。
たとえば、あなたが歌手になりたいと思いながら、ずっと工場で働いて、家に帰っても疲れて寝るだけであれば、歌手になれるわけがありません。
と言うか、口で言うほどには、歌手になりたいとは思っていないということです。
本気で歌手になろうとするのであれば、自分が使える時間を、歌手になるための練習や勉強に回すでしょう。
歌手というのは、ただ声がきれいであればいいわけではありません。
歌によって何を伝えるのか、ということを考えたなら、いろんなことを経験し、同じことでも別の視点や、高い所や深い所から眺めるということが、大切だとわかるでしょう。
それがわかれば、歌以外のいろんなことを、歌手になるための材料として吸収するはずです。
それまでと同じ仕事、同じ作業をしているようでも、あなたは以前とは違います。
何を見ても、何をしても、全部が歌を歌うための勉強であり、自分を奥深い人間にしてくれるための、修行に見えることでしょう。
そして、今よりもっと歌に費やす時間が欲しくなったなら、仕事を変えたり、生活パターンを変えるなどの行動に出るはずです。
こんなことしたって何になるのかとか、歌を歌ったってお金持ちにはなれないんだよな、なんて考えるのは、初めから本気で考えていません。
つまり、人生の自動販売機にお金なんか入れていないということです。
人生の自動販売機にお金を入れるということは、本気モードで動き始める、ということなのです。
人生のコツは先取り その1
人生を満足するには、どうすればいいのでしょうか。
まず、満足するということは、何かしらの欲求がなければなりません。
欲求が満たされるから、満足できるわけであって、何の欲求もなければ、満足という状況には出会えません。
人生を謳歌している人を見て、自分もあんな風になれたらいいなと思っても、自分が何をしたいのかがわからなければ、人生を謳歌することはできません。
これという目的もなく、何となく毎日を流されて生きていると、時には楽しい話が来ることもありますが、ほとんどは何の刺激もない、機械のような日々を過ごすのです。
ちょっと楽しいことがあったとしても、そんなのは一時的なものであり、とても人生に満足するレベルではありません。
そんなこと言ったって、自分に何ができるのか、と文句を言いたくなるかもしれません。
でも、文句を言ったところで、何も始まりません。
乾いた喉を潤したくて、飲み物の自動販売機の前で、いろいろ愚痴を並べたところで、自動販売機は反応しません。
必要なお金を投入する以外に、自動販売機の飲み物を手に入れることはできないのです。
そのお金がないから、愚痴をこぼしているんじゃないかと、言われそうですね。
そんな人に私が言いたいのは、あなたはそのお金を、ちゃんと持っているじゃないですか、ということです。
眼鏡を頭の上に掛けたのを忘れて、眼鏡がないないと探し回る人と同じです。
誰もがお金はちゃんと持っているのですが、そのお金をポケットの奥深くに入れてしまって、気がつかないのです。
何故、気がつかないのかと言うと、そのポケットには自信をなくすような情報が、一杯詰め込まれているからです。
まさか、そんな所にお金があるとは思わないので、自分にはお金がないと、途方に暮れてしまうのです。
あなたの目の前にあるのは、人生の自動販売機です。
そこには、あなたが思い描ける、様々な未来があります。
どれを選ぶのかは、あなた次第です。
もし何も選ばなければ、あなたは自分の人生を歩むことはできません。
代わりに、他人が用意した、他人に都合のいい道を、他の人たちと一緒に、流されて進むことになります。
そんなのは嫌だと思うのであれば、自分の人生の自動販売機に、お金を投入して、希望する未来の自分を選ぶのです。
このお金は、あなたの想いが変化したものです。
自分が望んだものになりたいという、あなたの強い願いが、人生の自動販売機に入れるお金なのです。
そのお金を投入して、自分の希望する将来のボタンを押せば、あなたはその将来に向かって進むことになります。
どんなに今が大変な状態にあったとしても、あなたが本当にお金を投入して、選んだ未来のボタンを押したのであれば、必ずあなたが希望した未来へ進むでしょう。
自律思考と自立思考 その2
自律思考が悪くて、自立思考が正しいということではありません。
自律思考とは、頭を疲れさせないために、わざわざ考えなくても済むことは、考えないようにするためのものです。
ですから、自立思考で得た自分なりの価値観も、自律思考に組み込んで、日常的には頭を休めながら暮らせばいいのです。
大切なのは、状況が変われば価値観を変えられるという、柔軟性を持つことです。
自立思考による価値観であっても、柔軟性がなければ、他人の価値観同様に、自分を束縛して苦しめることになるでしょう。
そのためにも、真理を求める欲求を、封じ込めてしまわないことです。
真理を追究する姿勢があれば、今の価値観に囚われることなく、新たな状況に対応できる、新しい価値観を得ることができます。
そうして価値観が新しくなるほどに、その価値観は洗練されたものになって行きます。
つまり、いろんなことで悩んだり苦しんだりしなくなるのです。
生きる意味を見い出して、喜びに満ちた人生を、送ることができるでしょう。
一度、自分の思考というものについて、考えてみて下さい。
その場合の思考は、自立思考になります。
普段はそんなことは考えないところを、わざわざ考えるわけですから、これは自立思考です。
自立思考によって、自律思考の内容を吟味するわけです。
そうすれば、自分が誰の価値観で生きていたかが、明らかになるでしょう。
しかし、その考え方の基盤に、専門家と呼ばれる人たちの信念を、組み込んではいけません。
彼らの考えを尊重するのは構いませんが、そのまま自分のものにしてはいけません。
いろんな情報や体験を元に、自分が導き出した考えが、彼らと同じものであるのなら、それは問題ありません。
見た目は同じ考えであっても、それは自分自身の考えだからです。
その場合、その考えを変更する必要性を感じた時には、簡単に変更することができます。
しかし、他人の考えを信じ込まされて洗脳されてしまうと、それを変更するのは容易ではありません。
何事も自分で考えて、自分なりの答えを導き出すこと。
また、状況や得られる情報が変われば、その答えはいつでも変更可能だと、自分で認識しておくこと。
これができれば、自分の人生に自信と責任を持つことができます。
他人の考えや価値観に、振り回されることはありません。
それまでの自律思考が、他人の価値観に基づいたものであったとしても、自立思考によって、それを変更できます。
私たちは子供の頃から、自分で考えるという機会を、奪われています。
知らない間に、みんなと同じ考えを持つように、擦り込まれているのです。
つらい暮らしをしても、それが当たり前なのだと、思い込まされています。
でも、それは正しいことではありません。
どうか、自立思考によって、本当の自分を取り戻して下さい。
それが個人の幸せと、社会の幸せにつながるのです。
自律思考と自立思考 その1
自律思考という言葉はありません。
私が考えました。
自立思考という言葉もありません。
これも私が考えました。
自立志向という言葉はあります。
これは自立をしたいと思う気持ちのことですね。
でも、自立思考という言葉は使いません。
自律思考とは、自分で考えているつもりで、実はそうではない思考のことです。
日常生活の中で、こんなものだと理解している価値観に従って、勝手に作られる思考のことです。
言ってみれば、オートプログラムですね。
日々繰り返される当たり前のことに、いちいち頭を使っていては疲れてしまうので、この場面ではこの考え、という感じで、その場に応じた思考が頭に浮かぶのです。
そして、本人はそれを自分で考えていると受け止めています。
でも実際は考えているのではなく、頭に浮かんだ考えを眺めているだけです。
これに対して、自立思考というのは、本当に自分で考えている思考のことです。
価値観を自分で作り出し、その価値観がその場にふさわしいかを、常に吟味しています。
ですから、新たな状況に置かれて、新たな価値観が求められると、自立思考はいろいろ考えて、新しい価値観を生み出すのです。
何故自立かと言うと、他人の価値観に従った考えではないからです。
多くの人が持つ価値観は、自分で考えたものではなく、生まれた時からすでに存在している、誰かが作った価値観です。
それは自分のためにある価値観ではなく、誰かのためにある価値観なのです。
しかし、それが世の中の常識であると信じ込まされ、そこに懸命に自分を押し込めようとするのです。
自律思考の元となる価値観の多くは、そんな無理やり信じ込まされた、他人の価値観です。
自律思考に任せているということは、この他人の価値観を疑いもせずに、受け入れているということです。
また、自律思考ばかりに任せて、自立思考をしないのは、その他人の価値観から、抜け出すことができないとうことです。
どうしてそうなるのか。
それは、自律思考に組み込まれた他人の価値観の中に、他の価値観を探さないようにという指示が、含まれているからです。
これは宗教の違いや、人種の違いなどによる、争いを生み出す元になっています。
実際に争う人たちは、自分たちが利用されていることに、気がつきません。
しかし、争いの中に平和はなく、心の安寧もありません。
人間として自然でない生き方を強いられることで、頭でどう考えているかに関係なく、心や体に不調を来すことになるのです。
一時的、あるいは表面的な快楽で、ごまかすことはできたとしても、彼らの心や体は確実に蝕まれて行きます。
視点を変えてみる その3
今の生き方に、悩んだり苦しんだりしている人は、そもそも人間って何なんだ、という考えに立ち返ってみて下さい。
子供の頃から大人になるまでの間に、誰もが一度は考えたことがあると思います。
これはとても大切なテーマなのですが、社会に出て仕事をするようになると、そんなことを考える暇がなくなります。
それが、世の中を動かしている人たちの思惑なのですが、ほとんどの人はそのことを気に留めることもなく、当たり前のように社会を動かす駒としての道を、進むことになるのです。
しかし、私たちの本質は人間ですから、当然そんな道を進んで行くと、どこかで必ず不調を来します。
それは病気であるかもしれませんし、精神的な問題かもしれません。
いつもイライラするようになるかもしれませんし、何もかもが嫌になる場合もあるでしょう。
仕事を順調にこなしているようでも、ある日突然、職場に出られなくなることもあります。
定年までがんばっても、退職したあとに何をすればいいのかわからず、呆然とする日々を送る人も少なくありません。
人間とは何なのか。
自分とは何なのか。
これについて、じっくり考えて、自分なりの答えを持っていれば、他人の考えや価値観ではなく、その自分の答えに従った生き方ができます。
その答えは確定的なものではなく、様々な経験を積むに従って、より深い答えを持つようになります。
そうすると、歳を取るほどに、深みのある充実した暮らしが、できるようになるのです。
また、そんな人は歳を取ったからと言って、身動きが取れないような、弱った姿ではありません。
若者に引けを取らないほどの元気があり、頭もすっきり冴えています。
逆に、自分というものがわからないまま、世の中に流されて生きている人は、実際の年齢よりも老けて見えますし、何もできない年寄りになって行くように思えます。
どうせ、考えたってわかりっこないし、専門家だってわからないことが、自分なんかにわかるわけがない。
そんな風に思ってしまうかもしれませんが、もっと気楽に構えて下さい。
そもそも専門家なんていないと思えばいいのです。
それに、自分の人生をどう生きるのか、決定権があるのは自分だけです。
他の人が何を言おうと、そんなことは関係ありません。
自分を大切にするのであれば、わからないなりに、いろいろ考えてみて下さい。
少なくとも、世の中を支配している一部の者たちのために、自分は生きているのではない、ということだけは理解できると思います。
また、本当に自由に生きるということが、どういうことなのかも、解釈できるでしょう。
それがわかれば、とりあえずは、その理解に従って、自分なりの好きな生き方を選ぶのです。
あとは、それからゆっくり考えればいいのです。
自由になった人の元には、同じような人たちが、集まって来ます。
そんな人たちとのつながりを確かめ合いながら、人間というものを考えると、そこに新たな視野が見えて来るでしょう。
まずは、今の自分を縛り付けている、固定的な視点から逃れることです。
それは、とても怖いことのように思えるでしょうが、それもまた洗脳された結果です。
実際に、自由を得た人たちは、たくさんいます。
そんな人たちの姿を励みにすれば、必ずあなたを束縛している、他人に都合のいい価値観から、自由になることができるでしょう。
視点を変えてみる その2
自分では当たり前だと思っていることって、いろいろありますよね。
男とは、こうあるべきだ。
女は、こうでなくてはならない。
子供は、こう扱うものだ。
年寄りは、弱い存在だ。
他にもあります。
生徒は先生に従うべきだ。
上司の指示には、従わなくてはならない。
嫌なことでも我慢して、続ける努力が必要だ。
がんばった者だけが報われる。
こんなのもありますよね。
お金がなくっちゃ、どうにもならない。
学歴や資格がない者は、社会的に価値がない。
競争社会を勝ち残れないと、生きて行けない。
友だちがたくさんいない者は、存在価値がない。
選挙をしたって、世の中は変わらない。
自分なんか、一生底辺暮らしだ。
好きなことなんかやってたら、生きて行けない。
楽しく暮らせる人というのは、特別な人だけだ。
全部書いていたら、きりがありません。
しかし、こういう考え方は、全てが後付けで作られたものです。
生まれる前から、人間の自然な性質として、組み込まれているものではなく、世の中を動かしている者たちが、自分たちに都合のいいように、人々に思い込ませたものばかりです。
たとえば、男尊女卑の世の中が都合がいいと考える者は、男は素晴らしくて、女は男の力なければ生きていけないと、人々を洗脳しようとします。
これから社会を担う子供たちが、これまでとは違う社会を創ったならば、困ってしまう大人たちは、子供たちを自分の指示に従うように、育てようとするでしょう。
お金で人々を支配しようとする者たちは、お金がなければ何もできないように、みんなに信じ込ませます。
そうして、実際にそのような社会が作られているのです。
そんな支配者たちは、人々がお金を求めて競争するように仕向け、多大なる利益が、自分たちの懐に流れ込むようにしています。
自分一人では何もできない人たちばかりですから、みんなにそっぽを向かれることを、とても恐れています。
だから、そうならないように人々の競争心を煽り、不安にさせ、お金を稼ぐこと以外は、考えさせないように仕向けるのです。
そんな社会において、みんなが幸せになれるわけがありません。
多くの人が、誰にも相談できずに苦しみ、悪いのは自分が無能だからと信じ、病気になったり、自暴自棄になって事件を起こしたり、自ら命を絶ったりするのです。
しかし、そういう人たちを本気で助けようとすると、権力者は権力を手放さなくてはなりません。
ですから、決して彼らに手を差し伸べるようなことはしません。
差し伸べるふりをすることはあっても、根本的な解決を求めることはしないのです。
だけど、解決を権力者に求めること自体が、間違っています。
解決方法は自分で見つけるしかありません。
それが、視点を変えるということです。
視点を変えてみる その1

上の絵のように、上下を逆さまにすると、怒った顔が笑った顔になったり、笑った顔が怒った顔になる絵を、上下絵とか逆さ絵と言います。
そこに描かれているものは同じなのに、見る位置によって、異なる顔に見えるのが面白いですよね。
これと同じように、怖い顔をしている人が、本当は心優しい人であったり、優しそうな顔をしている人が、悪いことを企んでいたり、ということがあります。
その人の一面だけを見たのでは、その人の本当の姿はわからないということです。
富士山は日本一大きな山ですが、その富士山がどのような山なのかを説明するとなると、人によって様々だと思います。
静岡県側から眺めるのか、山梨県側から眺めるのかで、見た目の姿や背景が変わって来ます。
また、富士山を火山と見るか、単なる美しい山と見るかで、印象が違って来ます。
富士山をパワースポットととらえるかどうかでも、やはりイメージが違うでしょう。
太古からの富士山の生い立ちを知っている人と、今の富士山しか知らない人でも、富士山という存在の受け止め方は、全然違うものになります。
地上から見た富士山しか知らない人と、宇宙から眺めた富士山の姿を知っている人との間にも、富士山の印象には大きな違いがあります。
このように、何かに対する理解というものは、その人の視点や知識によって、大きく異なって来るものです。
ロシアとウクライナの戦争についてもそうですし、世界を襲う異常気象や、新型コロナウィルスの騒ぎについても、人によって様々な見方があります。
でも大抵の場合が、固定された自分の視点から見た、印象だけで判断をしているように思えます。
今の自分と異なる視点など、頭から否定して受け付けない人も、少なくありません。
しかし、本当の実態を知るためには、現在の自分の視点とは異なる視点についても、いろいろと吟味する必要があります。
その上で、改めて自分の視点を、どこに置くのかを決めるのです。
多くの人がそうすることができれば、互いに争うことをせず、その場にふさわしい考え方を、持つことができるでしょう。
今の自分の視点を、自分自身だと受け止めている人は、自分の視点を認めてもらえないと、自分が否定されたように受け止めてしまいます。
また、視点を変えたらどうかと言われても、自分を変えることなどできないと考えて、視点を変えようとしません。
そうなると、異なる視点を持つ者は、自分の敵のように思えます。
その結果、無用の争いが起こり、事件となったり、引きこもったりするようになるのです。
しかし、視点を変えても何も問題はありません。
自分が否定されるわけではありませんし、視野が広がることで、自身が大きく成長できるのです。
新たな視点を持つことができた人は、そのことを実感できます。
異なる視点を知ることで、全体的な視点を持てるようになることは、その人個人だけでなく、人類全体にとっても、とても重要なことなのです。
早い梅雨明け
異例の早さの梅雨明け宣言が、日本各地で出されています。
6月27日には、九州南部・東海・関東甲信で宣言が出されましたが、翌28日には、九州北部・四国・中国・近畿・北陸も梅雨が明けた模様と発表されました。
私が住む四国では、梅雨の期間は15日間で、1964年の20日間を越える最短となったそうです。
他の地域でも、2週間ほどの期間で、やはりこれまでの最短期間の更新となりました。
とにかく6月中に梅雨明けになるのは、これまでで初めてのことだそうです。
四国では今回の梅雨は15日間ということでしたが、その15日の間、ずっと雨が降っていたわけではありません。
雨の日というのは、何度かありましたが、梅雨でなくても雨は降るわけで、今回の雨も梅雨を感じさせるようなものではありませんでした。
梅雨入り宣言がされたのに、雨が降らない日ばかりが続くし、週間天気予報を見ると、晴れマークが続くので、先日梅雨入りしたのに、もう梅雨明けかと、家族で冗談を言っていました。
ところが、冗談が現実になってしまい、とても驚いています。
一方で、東北や北海道の北日本には雨が続き、梅雨がないと言われていた北海道が、梅雨前線の雨で被害を受けています。
地球温暖化の影響は、毎年のように感じておりますし、世界中で温暖化による被害が、当たり前のように起こっています。
今回の梅雨の状況も、温暖化の影響のような気がします。
温暖化によって太平洋高気圧の勢いが強くなることで、これまで梅雨前線が停滞していた位置が、北へ移動したのかもしれません。
だとすると、北日本だけはしばらく梅雨が続き、雨の被害が増える可能性があると思います。
そうだとすれば、秋雨前線や台風のコースも変わって来るでしょう。
これからは全国的な水不足や、農作物不足が続くことになるかもしれません。
しかし、それはこれまでの暮らし方や、エネルギーの使い方など、生活の在り方全体を見直す、いい機会になると思います。
「禍転じて福と為す」ですね。
同じ危機的状況でも、古い考え方しかできない人ばかりが、集まっていたならば、危機的状況はさらに悪いものとなります。
しかし、若い人を中心とした、新しい考え方ができる人たちが、世の中を動かせたなら、きっと、これまでよりものびのびとした、快適な暮らしができるようになるでしょう。
そして、今の若い人たちには、その準備ができていると思います。
異常気象のことだけでなく、世界中の様々な問題に、どんどん若い力を取り込めば、世界は大きく変わるでしょう。
それは思いがけないような、素晴らしい世界に違いありません。
こだわりを持つ その2
こだわりと言うのは、自分の好みを主張しているわけですね。
言い換えれば、どんな些細なこだわりであっても、それは自己表現なのです。
人は自分の思考に従って、行動しています。
他のことはみんなと同じでも、ここだけは自分を表現させて欲しい、というのがこだわりです。
逆に言えば、こだわっていない部分については、自分を表現していないということですね。
別にどうでもいいよ、という態度なわけです。
機械的に日常の流れに沿って生きるだけで、特に自分を主張したり表現することもなく、何に対しても受け身です。
仕事でこれをやれと言われれば、それをするだけです。
仕事について、自分なりのこだわりがある人は、そのこだわりに従って仕事をしようとするでしょう。
自分のこだわりが、その仕事に合わなければ、その仕事を辞めるだけです。
しかし、何のこだわりもない人は、ただ言われたことをロボットのように行うだけです。
それで自分が楽しいか苦しいのかに関わらず、言われたことに従うのです。
何を食べるかについても、こだわっている人は、どこで何を食べようと、自分のこだわりに応じた物しか口にしません。
でも、何のこだわりもない人は、出された物を食べるだけです。
生き方にこだわりがなければ、みんなと同じような生き方をするだけです。
これが面白いよと言われれば、それをします。
お金がなければ大変だよと言われれば、お金を稼ぐことに必死になります。
あの店はポイントが貯まるよと言われれば、欲しい物がなくても、その店で買い物をします。
人生は競争だと言われれば、どうやって勝ち残ろうかとしますし、うまく行かなければ、自分は負け組だと思ってしまいます。
みんなと同じ流行を追いかけ、投稿されたスマホの記事を読み、インスタグラムに乗せる写真を撮るのに夢中になります。
本人たちは、それも自分のこだわりだと思っているかもしれません。
でも、それが本当にこだわりなのかどうかは、それが本当の自分の心から出て来たものかを、見定める必要があります。
得をしたとか、注目してもらえたとか、他の人より上だと認めてもらえたとか、他人の目や考えを気にしているのであれば、それは本当のこだわりではありません。
競争心や不安を煽られて、うまく世の中を支配している人々の、思惑に乗せられているだけです。
そんな薄っぺらいこだわりの喜びは、一時的であり、心からの満足感や幸福感はありません。
本当の自分の表現であるこだわりは、他人がどう見るかは関係ありません。
他人からどう見られようとも、自分が思ったとおりに生きるということであり、それができれば心の底から幸せだと思います。
カレーにジャガイモを入れることに、こだわってもいいのです。
他人のこだわりを尊重できる人は、他人の目を気にしません。
そんな人が、ジャガイモが入ったカレーを食べたなら、幸せを感じるでしょう。
そして、何故自分がここまでジャガイモが好きなのかと、いろいろ思いを馳せるのです。
それは子供の頃に、ジャガイモの入ったカレーを作ってくれた、優しいお母さんとの想い出かもしれません。
あるいは、ジャガイモという食べ物への、驚きと感謝かもしれません。
また、ジャガイモを発見したり、育ててくれた人たちの苦労を、思いやることもあるでしょう。
他の人のように、ただジャガイモを食べるのではなく、心が満たされることで、その心を満たしてくれているものについて、意識を広げるのです。
それが幸せを感じる理由であり、そういうことが本当のこだわりなのです。
こだわりを持つ その1
あなたは何かへのこだわりというものが、あるでしょうか。
こだわりと言ってもいろいろです。
職人や技術者、芸術家などは、自分の思い描く物を、現実世界の中に表現しようと、細かい所へのこだわりを持ちます。
素人にはわからないような、そんな所にまで? というぐらいの、こだわりがあるのです。
日常生活の中のこだわりでは、どんなことがあるでしょうか。
たとえば、掃除の仕方や、洗濯物の干し方、玄関の靴の並べ方など、その人なりのこだわりがあると思います。
他の人からは、何でそんなことにこだわると言われるでしょうが、本人にはそこにこだわる理由があるのです。
見た目がきれいだとか、この方が効率的だとか、親がそうしていたからとか、その理由も人によって違います。
縁起を担いで、勝負事の時には、自分のお気に入りの髪型にしたり、お気に入りの衣服を着たりする人もいるでしょう。
カレーライスにジャガイモを入れるのか入れないのか、それもこだわりです。
いろんなこだわりがありますが、何にどうこだわるのかは、本人の勝手です。
他人のこだわりを否定せず、自分なりのこだわりを楽しむのであれば、結構なことだと思います。
しかし、自分だけが正しいと考えてしまうと、他人のこだわりにケチをつけたくなってしまいます。
場合によっては、大喧嘩に発展することもあります。
でも、それは正しいこだわりではありません。
こだわりとは自分だけのものであり、他人にとやかく言われるものではありません。
逆に言えば、自分が他人にとやかく言ってはいけないのです。
自分だけが満足するためのものが、こだわりなのです。
それを理解してくれる人がいれば嬉しいですが、理解してもらえなくたっていいのです。
誰もいない、誰も見ていないところで、自分なりのこだわりを楽しめるようになれば、その人は幸せだと思います。