前を向こう その2
誰かに、多くの人前で侮辱されたとしましょう。
あなたはその侮辱に対して、相手をやり込めることができません。
やり返せれば、恥を掻くのは相手の方で、自分ではありません。
でも、やり返すことができず、みんなの視線を一身に浴びることになれば、あなたは深く傷つくでしょう。
自分を傷つけた相手への怒りはもちろん、自分に不信の目を向けた人々に対しても、怒りと悲しみを覚えます。
それでも、それだけのことで、あなたは何もできません。
相手をやっつけることもできなければ、人々に自分の弁解を聞いてもらうこともできないのです。
弁解したところで、火に油を注ぐようなもので、騒ぎが好きな人たちは、余計にあなたを攻撃するでしょう。
また、自分を傷つけた相手を、直接傷つけるようなことをしたならば、却って自分が暴力的な人間だと思われますし、下手をすれば本当に居場所がなくなってしまいます。
こんな状況を、どう解決すればいいのでしょうか。
まず、何かの状況に傷つくとすれば、その状況が傷つくべきものだという、思考があるのです。
つまり、何がよくて何が悪いかという価値観ですね。
人前で侮辱されることは恥であり屈辱だ、というのは、誰しも当たり前に思うでしょう。
でも、この世に生まれて来た時には、そのような考え方はなかったはずです。
あなたは真っ白の状態で生まれて来て、そこにいろんな思考や価値観が、成長に合わせて上書きされて行くのです。
侮辱されることが恥だとか屈辱だという考えも、ここに上書きされた価値観に過ぎません。
そこに絶対的な意味はないのです。
ファッションと同じで、人は多くの人が身に着けているものを、自分も身に着けたがるものです。
また、それに馴染んでしまうと、それを身に着けているという感覚すらなくなるほど、当たり前になるでしょう。
あなたの心に上書きされた価値観の多くが、これと同じように、みんなが持っている価値観だから、それが当たり前のように感じているのです。
でも、人とは違った個性的なファッションを好む人がいるのと同じように、人とは異なる価値観を追い求める人もいるのです。
そんな人は同じような状況にあっても、傷つくことがありません。
相手が何をしても、それを恥や屈辱だとは受け止めないからです。
ですから、そもそも心が傷つくことはありません。
誰かに何かをされて傷ついたなら、どうしてそんなことで傷ついてしまうのか、よく考えてみるといいでしょう。
そして、それが傷つくべきものだという価値観を、自分の中に見つけたなら、直ちにそれを捨て去るのです。
こんな考えは、自分には似合わないやと、ポイッと捨てればいいのです。
そして、自分に本当にふさわしい価値観を、身に着けるのです。
そうすれば、取れないと思っていたはずの、心のくさびは、その瞬間に消え去ります。
ただ、自分を傷つけるような価値観が、なかなか捨てられないかもしれません。
それは、そこにさらなる問題がひそんでいるということです。
前を向こう その1
嫌な思い出があると、昔を思い出したくないものです。
だけど、どうしても思い出してしまい、前へ進めなくなります。
嫌な思い出、特にとても心が傷つくような思い出は、くさびのように胸に深く突き刺さっています。
時の流れに乗って、そこから離れようとしても、嫌な思い出はくさびに付いた鎖をぐいっと引っ張り、すぐに当時に引き戻そうとします。
このくさびを抜こうと思っても抜けません。
逃げようとすればするほど、胸に刺さったくさびは、その人を強く後ろへ引き戻します。
何もかも忘れて自由にしたいのに、そうなれないことで、気持ちは焦り、うろたえ、混乱し、疲れ果ててしまって、人生そのものをなかったことに、したくなってしまいます。
だけど、この嫌な思い出やくさびから解放されるなら、人生を放棄する必要はありません。
実はこの苦しみから抜け出すことはできるのです。
では、どうすればいいのでしょうか。
それは、自分が悩み苦しむ本当の理由を探ることです。
解放されるわけがないと思っているから、悩み苦しむわけですが、まずは、その思い込みを手放しましょう。
そして、本当の問題がどこにあるのかを、よく見極めるのです。
問題の在処がわからない限り、その解決策は見つかりません。
人は、自分を傷つけた事柄を問題だと捉えます。
そのため、その問題の解決は、自分を傷つけた相手や状況が、自分に詫びるとか、何らかの補償をするなどという形で、行われるものと理解しています。
しかし、本当にそのようなことで、心の傷が癒えるのでしょうか。
表向きには、相手から謝罪をされ、何らかの補償をされたとしても、その時についた心の傷は、一生残るでしょう。
謝罪も補償もない状況と比べれば、それらがあるだけましに思うかもしれません。
でも、それはましと言うだけのことであって、本当の解決にはならないのです。
では、本当に解決するには、どうすればいいのか。
全ての答えは、自分自身の中にあります。
本当の問題も、本当の解決も、自分の心の中にあるのです。
世の中に流されるな
世の中が不景気だと言われると、自分もお金を使わないでおこうと思うでしょうか。
よその国が攻めて来るぞと言われると、これは大変だと思いますか。
コロナウィルスにはワクチンしかないと言われると、ワクチンをしなくてはと思ってしまいますか。
これが今年の流行だと言われると、それに飛びついてしまうのですか。
厳しい社会を生き抜くためには、絶対に学歴が必要だと言われると、そのとおりだとうなずきますか。
今の世の中では幸せになりにくいと言われると、確かにそうだと思うのですか。
世間にはいろんな考え、いろんな価値観があります。
どれを選ぶかは、その人の自由なのですが、本当に自由に選んでいるのかと言うと、そうでもありません。
それを選ばざるを得ないような雰囲気に呑み込まれ、できればそうでない方がいいのだけどと思いながら、みんなと同じ価値観を選んでいるのではないでしょうか。
もちろん、自分で選んでいることには違いがありません。
ですから、責任は自分にあるのです。
それが嫌なら、たった今、そんな価値観など捨て去って、自由の身になればいいのです。
でも、その価値観を選ぶように強いられた人は、それを捨てないようにも強いられています。
みんなが選んでいる価値観ですし、大変でも誰もその価値観を捨てようとしなければ、なかなか自分が先頭に立って、その価値観を捨てるなんてできません。
でも、本気の本気で捨てようと思えば、いつでも捨てられます。
ただ、本気の本気になる時には、多くの人が大病を患うとか、家族や人間関係で大きくつまずくなど、とてもつらい経験をするものです。
別にそんな経験をしなくても、本気になることはできるのですが、それまでの考えを捨てるということは、なかなかむずかしいようです。
でも、それさえも思考をコントロールされているからです。
みんなと同じでなければならない、みんなに合わす必要がある、自分だけ目立つことはしてはいけない、みんなと違うことをするのは恥ずかしい。
このような考えを、いつの間にか刷り込まれてしまい、それを自分自身の考えだと誤解させられているのです。
冷静に考えれば、みんなに合わせる理由など、どこにもありません。
私は私、あなたはあなた、あの人はあの人、なのです。
それが個性であり、それが本当の自由であり、それが本当の自分なのです。
個性を殺してみんなに合わせるという考えは、支配者がみんなを管理するためにあります。
その方が管理しやすいのです。
それでみんなが幸せになれるのなら、まだいいのですが、そんなことはできません。
自分を見失い、自由を奪われ、一生自分に価値を見い出せずに生きることで、幸せが見つかるわけがありません。
人間が幸せになるためには、人間として活き活きとしている必要があります。
個人が幸せになるためには、大いに個性を発揮して、自分が自分であることに喜びを感じられなければなりません。
それを一々周囲の流れに合わせて、目立たないようにしたり、自分を低く見たりすると、決して幸せにはなれません。
どんなことも自分で考え、自分で決断するのです。
その考えが、本当に自分自身のものなのか、よく確かめてみた方がいいでしょう。
自分で選んで行動した結果の責任は、常に自分について来ます。
その責任を恐れる者たちが、自ら支配者の指示を仰ごうとするのです。
でも、それでは自由も幸せもありません。
人生の喜びを得たいと思うのなら、自分の人生に責任を持ち、自分自身で人生を歩むのです。
決して、世の中の流れに押し流されないよう、自分の気持ちをしっかりと保つようにして下さい。
そうすれば、必ず素晴らしい人生を歩めますし、世の中もそうしたものになるのです。
激動の時代
明けましておめでとうございます。
新しい年を迎えましたが、新しい時代の幕開けでもあります。
去年は異常気象やコロナ騒ぎに加えて、ロシアとウクライナの戦争が、世界を大きく揺るがせました。
その影響はまだ収まっておらず、今年もしばらくは続くでしょう。
人々は安定を望むため、明日も今日と同じ日が来るとか、来年もいつもと同じ年になると、勝手に期待して、そうなると信じています。
少しずつの変化であれば受け入れますが、急激な変化は好みません。
しかし物事は変わるものであり、その変化の度合いも一定ではないのです。
また、変化には必ず変化するための条件があるわけで、何の条件もないまま変化が起きることはありません。
変化をうながす何かがあるからこそ、変化は起きるのです。
そして、人間の日々の暮らしが、思いがけない変化を起こす要因となっていることは、地球温暖化問題によって、理解されるようになりました。
戦争だって突然始まるわけではありません。
戦争が起きるような動きが、日々の暮らしの中に紛れ込んでいたはずです。
それに誰もが気がつかず、無関心でいたからこそ、それが戦争という目に見える形になったのです。
人は痛い目やつらい目に遭うことで、賢くなるものです。
と言っても、歴史は繰り返すという言葉があるように、賢くなったはずなのに、また同じことをしてしまうのです。
それは何故かというと、大変な経験をして賢くなったとは言っても、新しい思考や価値観を生み出すほどには、賢くなっていなかったからです。
また、庶民の人たちの知性が、高くならないように抑えられていたからです。
本物の知性は、いわゆる学力の高さではありません。
自分や人間、世界について理解する力です。
理屈や論理だけでは、理解することはできません。
感覚が必要なのです。
そうして自分は何者なのかと理解できる力を持つようになって、初めて知性が高くなったと言えるのです。
以前は庶民は、支配者の言いなりになっていました。
何がいいことで、何が悪いことかも、自分ではなく支配者が作った価値観で決めていました。
しかし、今は違います。
人々はかつてないほど知性を高め、支配者の価値観ではなく、自分自身の価値観で判断し、行動できるようになって来ました。
また、国境や民族を越えて、瞬時に情報を交換することも可能になっています。
人々を支配して、己の地位を安泰させることしか考えない者たちには、もはや人々を抑えることはできません。
力や嘘の情報で抑え込もうとしても、人々が団結すれば、それは不可能になります。
一部の地域では、まだ支配者が無理やり人々を封じ込めようとしていますが、これもみんなが解放されるのは時間の問題でしょう。
それほど人々の知性は高まっていますし、自分たちが自由を奪われていることに、気がつき始めています。
本当は自分たちが、どのような暮らしをしたいのかを理解する人が増えており、他国の人間を脅威に感じる人は減っています。
自由を愛する人たちは、国や民族、見た目や性別などに関係なく、みんなが同じ地球に暮らす仲間だと、受け止めています。
そして、この考え方は水面に波紋が広がるように、地球上に広がるでしょう。
しかし、それは古い価値観の崩壊を意味しています。
当然、古い価値観に基づいた社会は崩壊します。
見た目には、世の中が大混乱に陥るように見えると思います。
でも、それは自分のことは自分でする、誰も助けてくれる者などいない、という誤った考え方を刷り込まれている人たちです。
この考えは、支配者が人々を支配するために利用していた考えです。
宇宙の絶対真理ではありませんし、自分が生まれながらに持ち込んだ考えでもありません。
この考えを捨て、自ら誰かを助けるように動けば、必ず自分のことを、他の人が助けてくれます。
助け合いこそが、本来の人間社会の基盤であり、それは感謝と思いやりの気持ちによって成り立ちます。
自分だけで生きるしかないと思うから、自分勝手な考えや行動につながるのです。
助け合って生きる社会に、自分だけがいい想いをする発想はありません。
蝶は芋虫の状態から脱皮してサナギになり、サナギから脱皮して蝶になるのです。
世の中を蝶にたとえると、今は芋虫状態から、サナギになろうとしている所です。
見た目は混沌としていますが、美しい蝶に生まれ変わるためには、避けることができない過程です。
これから世の中が大混乱に陥ったとしても、それは新しい社会が生まれるためのものです。
古い価値観にしがみつくというのは、脱皮した時の抜け殻にしがみつくのと同じです。
それは脱ぎ捨てられるものですから、そこにしがみついていると、どうなるのかはわかると思います。
そんなものにしがみつくのではなく、新しい形態を生み出す力になりませんか。
美しい蝶のような社会を作るのです。
一人でも多くの人が、新しい社会作りに参加すれば、それだけ早くいい世の中が訪れるでしょう。
また、そうすることだけが、嵐のような大混乱を生き抜くための道なのです。
違うことをしてみよう
新型コロナ騒ぎで、それまでとは違った環境に置かれる人が、大人から子供まで大勢います。
そのことで、新たな生き方を発見した人がいますが、与えられた環境に馴染めずに、心身に不調を来す人もいました。
また、これまでのやり方の何がよかったのか、という点に、改めて気づかされた人もいますし、新しいやり方の利点に、なるほどと思う人もいました。
みんな、似たような状況に置かれているはずですが、それをどう受け止めるのかは、人それぞれということでしょう。
ただその受け止め方は、世の中の変化について行っているのか、ただ流されて翻弄しているのかと、大きく二つに分けられます。
それは大波が襲って来た時に、その波を利用してサーフィンを楽しむか、なす術もなく波に巻き込まれてしまうか、の違いと同じです。
環境の変化を楽しみ、そこに新たな生き方を発見する人は、世の中の変化の波に、うまく乗っていると言えます。
一方で、環境の変化に苦しむ人は、変化の波に乗ることができずにいるので、アップアップと苦しむことになるのです。
でも、変化の波に乗ることは、それほどむずかしいことではありません。
人間は変化を楽しむことができます。
ただ、それができないように思い込まされいると、変化の波を楽しむのはむずかしいかもしれません。
それでも、あきらめずに変化を楽しんでみて下さい。
あれ? と思えたらしめたものです。
こんなのもありか、こうするのも悪くないなと思えたなら、それをきっかけに、どんどんこれまでとは違うことに、挑戦してみて下さい。
どんなに小さなことでも構いません。
変化を嫌う人たちは、物事が同じように流れるのを、当たり前のように思いますし、そんな暮らしにどっぷりはまっています。
でも、それは自分で頭を使わずに、ルーティンどおりに、自動的に生きているのを、ただ眺めているだけです。
自分が人生を生きていると実感するためには、自分で人生を歩んでいるという感覚が必要です。
いつもと同じ暮らしをするのではなく、ちょっとしたことでも自分で違うことをすれば、それで自分の人生を、自分の意思で歩むことにつながるのです。
自分で選んだ、自分で決めた、自分で行動した、という経験が積み重なることで、人生全体を、同じように歩もうとするわけです。
それまでどおりの、自動運転的な人生には、きっと満足しなくなるでしょう。
そうして変化を楽しむことができるようになれば、世の中の変化に翻弄されることはありません。
その場から投げ出されたように見える状況でも、パニックになることなく、そこから新しい生き方に乗り換えることができるのです。
ワルイコあつまれ
NHKで「ワルイコあつまれ」というタイトルの番組が、放送されています。
香取慎吾さん、草薙剛さん、稲垣吾郎さんの三人が中心となった番組ですが、いろんなコーナーがあって、とてもためになる話を、面白おかしく聞かせてくれます。
番組自体がとても奇抜な感じで、これまでになかったようなスタイルの番組です。
この番組のコーナーに、子ども記者会見というのがあります。
子どもたちが記者に扮して、その日のゲストに、子供の視点に立った疑問をぶつけるというものです。
子供ですから、大人のように相手に遠慮することはありません。
知りたいから聞くという感じで、率直な質問をするので、観ていて面白いです。
また、ゲストの人たちも、子供に本当に伝えたいことを喋っていらっしゃるようなので、子供たちの質問に尻込みもせず、笑顔で楽しみながら答えています。
ゲストになるのは、もちろん誰もが知っているような、有名な人たちですが、単に有名というだけの人はいません。
何かが他の人たちとは、ずば抜けて違っている、ある意味、時代の先端を行くような人たちなのです。
それぞれ異なる世界で活躍している人たちですが、誰もが共通して子供たちに、伝えていることがあります。
それは、やりたいという気持ち、こうなりたいという気持ちを、抑えるなということです。
自分が楽しいと思うことを、とことんやるということですね。
こんなことをしたら何て言われるのか、こんなことできるわけないよな、こんなことに何の意味があるのだろうか、こんなことでお金が稼げるとは思えない。
こんな余計なことは一切考えず、とにかく自分が夢中になってやる。
そうすれば、その先にいろんなことが、後からついて来る。
これが全てのゲストに共通した、子供たちへのメッセージです。
さすが時代の先端を行く人たちだと思いましたし、本当に子供たちのいいお手本となる人たちだと思いました。
多くの人が世の中の常識に縛られ、お金を稼ぐことを第一に考え、他人と自分を比較して、周囲の目を気にしています。
そんな生き方をして、どれほど成功しているのかと言うと、ほとんど成功はしていません。
そこそこの暮らしに満足するしかできないのです。
このコーナーのゲストになる人たちは、そんな人たちとは、全く違っています。
根本的な発想が違うのです。
そして、それこそが本来の人間としての、生き方を示しているものなのです。
この番組、特にこのコーナーは素晴らしいと思います。
まだ観たことがない方は、一度観てみることをお勧めします。
応援してくれている人たち その2
亡くなった人は、消え去ったわけではありません。
その姿を肉眼で確認できなくなっただけです。
彼らは目に見えなくても、ちゃんと存在しています。
この世界を経験したことがない存在が、やはり目には見えない世界にいます。
また、この世界で暮らしている私たち自身も、元はその世界の住人なのです。
この世界は、いわばバーチャルゲームであり、私たちはこの世界の中に、どっぷりと浸かった状態です。
ゲームセンターなどにあるゲームで言えば、ゴーグルとヘッドホンで完全に視覚と聴覚をコントロールされ、手足にもセンサーが付けられている状態です。
今はどんな匂いでも合成できるそうですから、匂いの装置も鼻に付けられていると思って下さい。
体に装着したスーツには、温覚や痛覚などの感覚が、再現されるようになっています。
そんなゲームを体験しているあなたの周りには、応援する仲間の人たちが集まっています。
でも、あなたには彼らの姿は見えませんし、声を直接聞くこともできません。
一方で、彼らはあなたと心を重ね合わせることで、あなたが体験していることを、あなたを通して知ることができます。
でも、行動の選択権は、常にあなたにあります。
応援団の人たちは、あなたと一緒に一喜一憂しています。
あなたが喜べば応援団も喜び、あなたが悲しめば応援団も悲しみます。
違うのは、その喜びや悲しみの先に何があるのか、目の前で起こっているものに、どのような意味があるのかを、応援団は知っているということです。
ですから、悲しいことがあったなら、応援団はあなたと共に悲しみながらも、あなたに必死に声援を送ります。
その声は直接聞こえなくても、勇気やガッツとして、胸の奥底から湧いて来ます。
あなたが何かに悩んでいると、応援団の囁きが、ふとした思いつきとして、あなたの心に広がります。
あなたが正しい方向へ向かっている時、あなたのワクワクは、肉体的なあなたを越えて、あなたの外へと広がります。
そのワクワクの広がりは、あなたを囲む応援団のワクワクなのです。
自分は独りぼっちだと思った時は、自分の周りに応援団がいることを、思い出して下さい。
独りぼっちでない時にも、自分の周りには仲間がいると思って下さい。
彼らの存在に気づき、彼らに挨拶をしたり感謝ができるようになれば、応援団はますます大きな声援を、あなたに送ることができます。
そうして、あなたは大変なことがあっても、それを乗り越える助けが得られるのです。
たまたまうまく行ったとか、自分は運がいいと思わずに、そんな時には応援団の人々が助けてくれたと思って、感謝の念を送って下さい。
きっとあなたの周りに、彼らの喜びが広がるのがわかると思います。
応援してくれている人たち その1
アーケードのゲームを楽しんでいる人たちのそばで、プレイを一緒に見ながら楽しみ、プレイヤーに声援を送る人を、見たことがあると思います。
彼らはプレイヤーの仲間です。
自身もそのゲームの経験者であったり、そのゲームを全くやったことがない人も、いるでしょう。
そんな人たちが、今プレイしている人を、懸命に応援するのです。
難関をうまく突破できたなら、プレイヤーは歓喜しますが、この応援団の人たちも、声に出して喜びます。
難関が突破できない時は、プレイヤーは落胆しますが、この応援団の人たちも、がっかりします。
でも、それはプレイヤーを責める意味ではありません。
プレイヤーの気持ちを酌んでくれているのです。
このように、プレイヤーと応援団は心を一つにしています。
たった一人でゲームを楽しむこともあるでしょうが、みんなでわいわい盛り上がるのも、楽しいと思います。
また、みんなの声援があったなら、ゲームに力が入るというものです。
これと同じことが、私たちの暮らしにもあるのです。
何故なら、私たちの人生というのは、一種のゲームだからです。
水を得た魚 その3
魚にとっての水のように、人にはそれぞれに合った環境や、価値観というものがあるのです。
でも、今の世の中はそれが画一化されて、誰もが同じ環境の中で、同じように暮らすことがよしとされ、またそれを強要されます。
それは何故でしょうか。
人間の本質を理解すれば、そのような社会のあり方は、正しいとは言えません。
それでも、実際に同じような人間が求められているのは、どうしてでしょうか。
それは、その方が都合のいい人たちがいるからです。
多くの人が自分たちの思惑通りに動くように、人間とはこういうものだと、枠にはめて育てるのです。
曲がったきゅうりは、市場価値が下がるということで、スーパーでは真っ直ぐなきゅうりが好まれます。
買う方も、それが当たり前だと思ってしまい、曲がったきゅうりを、出来損ないのように見てしまいます。
でも、実際は育てたきゅうりのほとんどは、いろいろと曲がっているのです。
人間もそれと同じように、こういう人間がいい、という見本があって、子供たちはその見本のように、育てられます。
ところが、そうは育たない子供もいます。
そんな子供たちは低く評価され、役に立たない人間であるかのように、見られます。
でも、それは明らかに間違いであり、人間の成長にとって、とても不自然なことをしているわけです。
権力者たちは、自分たちの富や地位が維持できるように、人々をロボットのように動かそうとしています。
また、みんながそのことに気がつかないように、全てが当たり前であるかのように、仕向けているのです。
しかし、その呪縛を逃れて、自分に合った水の中で、伸び伸びと暮らす人たちが、増えています。
そんな生き方が注目されるようになり、憧れる人も増えているようです。
これまで、自分に合った水なんて、考えたこともなかったような人たちが、考えるようになっています。
時代の流れでしょう。
こうした人たちがどんどん増えれば、社会は大きく変わって行きます。
そんな所で、昔ながらの考え方や価値観に、しがみついている人たちは、時代遅れの変わり者、という目で見られることでしょう。
時代の流れに乗って、新しい社会を楽しみたい人は、自分の水を確かめて下さい。
そして、水を得た魚になるのです。
水を得た魚 その2
あなたが水から引き上げられた魚なのだとしたら、あるいは、水はあるけれど、とても狭い所に押し込まれていたのだとしたら、それを無理に続けることはありません。
人間に捕らえられた魚は、自分の力でそこから逃げ出すことはできません。
まな板や水槽から、広い海や川や湖へ、自分の力で逃げることはできないのです。
でも、人間は違います。
人間は自分の力で移動ができますし、環境を変えることもできます。
もちろん、それが困難な場合もあるでしょう。
でも、いきなり困難になるのではなく、気がつかないうちに、困難が手に着けられなくなってしまうのです。
そうなる前に、そこが自分の水なのかどうかを、判別する賢さが必要です。
幼いうちは、自分の水がどのようなものかは、頭ではなく感覚で理解しています。
しかし、周りからいろいろ教え込まれ、頭で考えるようになると、次第に水を知る感覚が、麻痺して行きます。
大人がいろいろやっても、愚図る子供は、まだその感覚が残っているのでしょう。
それが自分の肌に合わないと、感覚でわかっているのです。
みんなと同じようにしろと、長い間教え込まれると、一応はそれらしくできるようにはなりますが、それでもそれは、その子にはとても苦痛です。
それは大人になっても続き、人並みの仕事、人並みの暮らしを手に入れると、それで自分は幸せなのだと、自分に言い聞かせるのですが、心の奥ではそうではないとわかっています。
これは自分の水ではない、ここは自分の居場所ではないと、ちゃんとわかっているのです。
そのことに、はっきりと気がつく人は、こんなのは自分じゃないよと、さっさと行動を始めます。
でも、なかなか気がつかない人は、いつまでも同じ場所に留まり、それまでと同じことを繰り返します。
そうするうちに心身に不調を来すようになります。
その時点で自分の本当の想いに気がつけばいいのですが、気がつかないと、何も悪いことはしていないはずなのに、どうして具合が悪くなるのだろうと、不安を抱えながら状況はさらに悪化して行きます。
それでも、その人をそこから救い出してあげることは、他の人にはできません。
どんな水がその人に合っているのかが、わからないからです。
こんなのはどう? と提示してあげることはできます。
でも、それを選んで行動するのは、その人自身です。
そもそも自分には、自分に合った水が必要なのだとわからなければ、動きようがありません。
ですから、一度じっくり考えてみて下さい。
自分に合った水とは、どのような水なのか。
自分がいる場所は、自分に合った水なのか。
ここは自分の水じゃないと感じたならば、自分の水を求めて行動して下さい。