体の傷と心の傷 その8
幼い頃の親や先生というのは、子供にとっては誰より信頼できる人物です。
特に親は、自分に愛情を注いでくれるはずの存在ですから、子供はその言葉を100%受け入れてしまいます。
また、仲よしだった友だちや、自分が大好きな人から言われた言葉も、その子供にとっては、かなりの影響を持つものです。
こんな人たちから、悪意があるないに関係なく、否定的な言葉を投げかけられてしまうと、その言葉が棘となって、その子供の心の奥深くに突き刺さってしまいます。
言われた時に、ぐさっと傷ついたこと自体は、時とともに忘れるかもしれません。
しかし、その言葉の棘は、心の奥に刺さったままなので、その子供が成長してからも、その思考や行動に影響を与え続けます。
本人も、自分がどうしてそう考えてしまうのかが、理解できません。
そう考えてはいけないと思っても、どうしてもそのように考えてしまうのです。
たとえば、お前は無能な役立たずだと言われて育つと、大人になってからも、自分は無能で役立たずな人間だと、信じ込んでしまいます。
どうでもいい人から言われたなら、言い返すこともできるでしょうが、神さまみたいな相手から言われた言葉には、抗うことができません。
表面的には、そんなことを考えない自分を装うことはできますが、ここ一番という所では、その心の棘が邪魔をして、積極的に自分を出すことができないのです。
何か別のことで、心の傷を負った時に、その傷がなかなか癒えない場合、実はその傷の奥に、この棘があるのかもしれません。
この棘さえなければ癒えているはずの傷が、棘があるがために、なかなか癒えないのです。
この棘の存在に気がつけば、それを抜いてやればいいのですが、本人も周囲の人も、そのことに気がつかなければ、いつまで経っても傷は癒えません。
傷はどんどん悪化して、悲惨な結末を迎えることも有り得ます。
そうならないために、自分にはネガティブな思考の棘が、刺さっていないだろうかと、確かめてみる必要があります。
自分に自信がないとか、何をしても不安だ、などと思うのであれば、その考えがどこから来たのかを、調べてみるのです。
生まれたばかりの赤ん坊の時には、そんな思考はないはずです。
と言うことは、生まれてからこれまでの間の、どこかでその考えを擦り込まれているわけです。
その確認を自分でするか、周囲で気がついた人が、いろいろ話を聞きながら、確かめてみるといいでしょう。
そうすれば、必ず棘の存在がわかりますし、それがいつ刺さったかもわかると思います。
体の傷と心の傷 その6
冷静さがあると、自分に取り込む価値観や考え方を、選別することができます。
冷静さがない人は、世の中で流行しているものや、周囲の人が持っている考え方を、何も考えずに受け入れてしまいます。
そんなのは嫌だと、冷静になったつもりで、あれもこれも拒絶してしまうと、これもまた問題です。
善意や思いやりでさえも、かたくなに拒んでしまうのであれば、それは冷静であるとは言えません。
冷静でいるつもりでも、実際は不安だけで動いているに過ぎないのです。
体の傷を癒やす時には、組織の細胞が増殖するための養分が必要です。
それと同じように、心の傷を癒やすためにも、滋養となる心の栄養が必要です。
冷静な心は、そんな心の滋養となるものは、積極的に取り込もうとします。
しかし、どんなものが滋養になるのかを、理解していなければ、滋養だと思って毒を取り込んでしまう可能性があります。
たとえば、人生のどん底にいる時に、誰かに優しい声をかけられると、その人がどんな人なのかも、よく考えずに信じ切ってしまうことがあります。
変な宗教や、悪事への加担、使い捨てにされる仕事などに、誰かを誘い込もうと企む者たちは、こんな時を狙って声をかけて来ます。
それが本当に思いやりから来たものなのか、自分を利用しようとしているものなのかを、区別できるだけの冷静さが求められます。
では、自分が取り込むべき心の滋養とは、どのようなものでしょうか。
傷を癒やすということは、元の自然なエネルギー状態に、戻してやるということです。
ということは、本来の自分である自然なエネルギーと、同質のエネルギーであるものが、心の滋養となるものです。
私たちは人間ですから、本来の自然な状態というのは、人間らしくいられる時の状態と言えます。
この人間らしいということが、どういうことなのか、ということを、専門家と言われる人たちの言葉に求めてはいけません。
それは自分自身で感じることです。
これこれこういうことが、人間というものである、と誰かが言ったとしても、それはその人の考え方に過ぎません。
絶対的な真理ではないのです。
ただ、肩書きに弱い人は、専門家がこう言ったとなると、そういうものなのかと信じてしまいます。
でも、それではいけません。
自分の人間としての部分で、自分で感じて、自分なりに理解するのです。
そして、それは必ずその人を、ほっこりとした居心地のいい気分に、させてくれます。
そんな時には、誰かのことを批判もしないし、競争心もありません。
誰かと自分を比べることもありませんし、他の人のことを、温かく見守る気持ちになれます。
可愛い子供を眺めている時や、動物と触れあっている時、植物を愛でている時などに、そんな気持ちになれるでしょう。
思いがけない、誰かからの感謝の言葉や笑顔も、心が温かく震えます。
また、大自然と触れ合い、満天の星空を見上げる時などにも、そのままの自分を受け入れられるような、とてもリラックスした気分になれます。
自分といろんなものとの、つながりを感じ、自分は独りぼっちではないと、感覚的に理解できると、心の底からの安心感が得られます。
そんなことを、自分で直接感じていれば、同じような波長の事柄だけに、目や耳を向けるようになります。
そして、それは心の滋養となり、病院でも治してもらえなかった心の傷は、みるみると癒やされて行くことでしょう。
体の傷と心の傷 その5
今の世の中、多くの人が自分に自信がありません。
それは、目立つ人や特別な力を持つ人、立派な資格を持っている人や、地位やお金のある人が、恵まれた人であり、将来性がある人だという価値観があるからです。
そのため、何とか自分を認めてもらおうと、嫌なことでも従って、しんどい体に鞭打ちながら、少ない給金のために、身を粉にして働こうとするのです。
他人よりも多くの給金をもらえたなら、それを喜びはするけれど、世の中のあり方に疑問を挟むことはありません。
多少給料が増えたところで、それで自分の本当の価値が上がったとは思わないので、将来への不安は、常につきまといます。
しかし、本来は人間の価値に、どんな人が将来性がある、というような基準はありません。
そのような基準があるのは、その方が都合のいい人たちがいるからです。
また、今の社会のあり方は、そんな人たちが中心になって築いていますので、事情がわからず社会に放り出された多くの人は、自分が置かれた状況に不安を覚えます。
誰かに雇われるのが当たり前。
お金を稼がないと生きられない。
どんなにがんばっても、上に上がれるのは一部の人だけ。
好きなことをするのは遊びだから、仕事の方が優先だ。
周囲の人がこんな考えを持つことで、それが当然なのだと信じ込み、自分もその考えを受け入れてしまいます。
また、多くの人とこの考えを共有していることで、この考えに対する信念は、かなり強固なものとなるのです。
つまり、他の人と違うことをすることに、不安や恐怖を覚えてしまうのです。
あるいは、自分が他の人と一緒にはできないと思った時に、自分が異常だと思い込んでしまうのです。
でも、異常なのは他の人たちの方です。
みんな、自分が誰かの価値観に、洗脳されているのに気がつかないで、本当の自分の気持ちを捨てさせられて、与えられた環境の中で、他の人と同じような暮らしを繰り返すことが、自然なことだと信じ込まされているのです。
洗脳されている人たちは、病識がありません。
異を唱える人の方が、病人扱いをされてしまいます。
多数決の論理に従い、多くの意見に従うことが正しいという考え方も、ここに絡んでいて、世の中について行けない少数派人は、自分がおかしいのだと思ってしまうのです。
世の中のあり方に不信感を抱く点では、この人はみんなのようには、洗脳されていません。
ところが、不信感を抱いてしまう自分が悪いのだと、考えてしまう点では、見事に洗脳されているのです。
自分に自信を取り戻すためには、世の中に蔓延している価値観が、誰かを利するための洗脳だと、気がつくことが重要です。
それさえわかってしまえば、そんな価値観に自分を当てはめて、考える必要がないことに気がつくでしょう。
それは自信と同時に、自由や開放感をもたらしてくれます。
自分は自由なんだという喜びが、次の喜びを引き寄せ、心の中のマイナス思考は、どんどん消えて行きます。
また、本当に自分が好きで選んだことに対しては、自然と責任感が生まれます。
それは、自分が選ぶ生き方に対する、こだわりだからです。
心の傷を癒やすためには、冷静さが必要ですが、その冷静さを持つためには、知らず知らずに心に擦り込まれていた、多くの価値観の洗脳から、解放されなければなりません。
世の中の当たり前と言われることを、一つ一つ疑ってかかり、どうしてそれが当たり前なのか、という理由を探るのです。
そうすれば、本当に当たり前なことなど、一つもないとわかって来るでしょう。
また、みんなが持つ考えが、全ての人の喜びにつながるものなのか、一部の人だけを喜ばせるものなのかが、わかると思います。
一部の人だけが喜ぶ価値観は、間違いなく、その人たちが世の中を支配するために、ばらまかれたものです。
洗脳と言うと、宗教のようなイメージがありますが、そうではありません。
支配する者が、支配される者を管理するために、使用するのが洗脳です。
また、支配しているつもりの者が、実は誰かに洗脳されて、支配されていた、ということもあります。
とにかく、そのような洗脳から逃れることが、心の傷を癒やすには、第一にしなくてはならないことなのです。
体の傷と心の傷 その4
体の傷と心の傷を、比べてみましょう。
体に傷ができると、かさぶたが傷口を塞ぎます。
外敵が侵入しないためです。
心に傷を負った時も、かさぶたのように、傷口を塞いでくれるものがあります。
それは冷静さです。
冷静な思考が、心の傷と他の問題を、絡めないようにしてくれます。
つまり、傷の中に他の余計なものが、入り込まないようにするのですね。
しかし、冷静さを持ち合わせない人は、心の傷に他のマイナス思考が入り込むのを、止めることができません。
場合によっては、自ら傷口に塩を擦り込むように、わざわざ自分でマイナス思考を取り寄せて、それを心の傷の中に押し込んでしまいます。
一つのマイナス思考を取り込むと、それは芋づる式に、次々に他のマイナス思考を、傷口に引っ張り込む傾向があります。
初めは小さな傷だったはずなのに、気がつけば、あふれんばかりのマイナス思考で、傷口は大きく広がっているのです。
また、傷の深さも初めの時よりも、逆に深くなってしまいます。
そうならないようにしてくれるのが、冷静さなのです。
しかし、冷静さというものは、一朝一夕に身に着くものではありません。
普段から、何事にも冷静でいるように心がけていなければ、心に傷に負った時に、それを冷静に見ることなどできません。
それでも、冷静になろうと心に決めたなら、心に傷を負ったあとであっても、傷に入り込もうとするマイナス思考を、制御することが可能です。
冷静さには、体の傷における白血球の役目もありますから、傷の中に入ってしまったマイナス思考を、お前は関係ないと、排除することもできます。
それでも、冷静にさせてくれないような、強力なマイナス思考もあります。
冷静になろうとしても、すぐに不安に引きずり込もうとする思考です。
それは何かというと、自分への自信のなさと、自分が決断したことに対する、責任感の欠如です。
体の傷と心の傷 その3
どうすれば、自分で心の傷を治せるのでしょうか。
まずは、目に見えるものは信じるけれど、見えないものは信じない、という信念を捨てることです。
自分というものを考えた時、体があるから自分なのではありません。
心があるからこそ、自分を自分だと認識できるのです。
目に見えないものを信じない、という考え方は、自分で自分を否定しているのと同じです。
自分で自分を否定しているからこそ、自分自身である心の傷を、癒やすことができないのです。
誰かの心は、その人自身であり、他の誰でもありません。
心の状態を変えることができるのは、その人だけです。
他人がその人の心を変えることは、できないのです。
カウンセリングや、誰かの話で、その人の考え方が変わることはあります。
でも、それはカウンセラーや他の誰かが、その人の心を変えたわけではありません。
その人の心が変わるのは、その人がカウンセラーや他の人の言葉に耳を傾け、自分でなるほどそうだなと、その考えを受け入れるから変わるのです。
他人がどれほど強く言ったところで、本人が聞く耳を持たなければ、その言葉がその人の心を変えることはできません。
たとえ殺されたって、そんな話は聞かないぞと言われたならば、相手の命を奪うことはできても、相手の心を変えることはできないのです。
誰かに騙されて、間違った考えを持つようになった人は、それは自分の考えじゃないと、主張するかもしれません。
しかし、その悪い人の考えを受け入れたのは、その人自身です。
他人のせいにすることはできません。
どんな事情があったにせよ、自分がその考えを受け入れると決めなければ、絶対にその考え方が、その人の心の中に入り込むことはないのです。
心の傷を癒やすには、まずは目には見えない心こそが、自分自身だと認めることです。
そして、目に見えない心とは、エネルギーであると考えます。
そのエネルギー状態は、自分の心の状態を、反映したものです。
楽しい時には、そのような状態になりますし、悲しい時にも、それに応じた状態になります。
そうして、その時々の状態に応じた変化をしながらも、心は本来の自然な状態を維持します。
心に傷を負っている時は、その状態が固定されたまま、元の自然な状態に戻れないでいると考えて下さい。
でも、心とは自分自身であり、自分が思うままにできるのです。
たとえば、誰かの相当腹を立てていたとしても、自分でもう腹を立てるのはやめた、と本気で心に決めたなら、もう二度と腹を立てることはありません。
さっきまで頭から湯気が出るほど怒っていても、その瞬間に心から怒りは消えます。
心のエネルギー状態が、怒りの状態から、自然な状態に戻るのですね。
これが難しいのは、本気でそうしようとは思わないからです。
本気で相手を許すつもりになれば、そうなります。
傷が癒えないというのは、自分で傷の修復を邪魔するようなものを、心の中に取り込んでいるからです。
そこに気がつけば、心の傷を治すことができるでしょう。
体の傷と心の傷 その2
体の傷は目に見えますから、傷ついた時には、それを治そうと、いろいろ努力をします。
しかし、心の傷は目に見えません。
そのため、深く傷ついていても、それを放置してしまったり、何とかしたいと思っても、どうすればいいのかわからない、というのが現状でしょう。
でも、心の傷を癒やすのも、体の傷を癒やすのと、理屈は同じです。
体の傷がどのようにして癒えるのか、どうすれば癒やせるのか、それが理解できていれば、心の傷も癒やすことができます。
それができないのは、心と体は別物だという、信念のような考え方を、多くの人が共有しているところにあります。
体は目に見えて、心は目に見えない。
だから、両者は異質な別物だ、と考えてしまうのです
でも、どちらもエネルギーです。
ゆがんでしまったエネルギーの状態を、元の自然な状態に戻してやるだけのことです。
体には、傷を癒やして、元の状態に戻ろうとする働きがあります。
それは、心も同じです。
どちらのエネルギーも、自然な状態を維持しようとしますし、状態がゆがめられると、元に戻そうとします。
それがうまく行かないのは、エネルギーのその働きを、わざわざ邪魔することをしているからです。
体について言えば、不健康な習慣や行動、偏った食事や、有害物質を含んだものの飲食、汚れた空気、ストレスの多い環境、間違った治療、などが自然な治癒を邪魔しています。
しかし、人間は自分の生活環境を変えることを好みません。
また、多くの人が専門家と言われる人に、全てを丸投げして、自分自身で傷を癒やすための行動を取ろうとしません。
それでも体は強いですから、少々の傷であれば、悪環境の中にいても、塞がってくれます。
また、大きな傷の場合は、さすがに怖いですから、自分でも傷の治療に意識を向けます。
でも、見た目は元気に見えても、体の内部が弱っている人が、大怪我をしてしまうと、命取りになるかもしれません。
それでも、目に見える体の傷は、自分も周囲の者たちも、何とか治そうとするので、まだ治りやすいと言えます。
ところが、目に見えない心の傷は、専門家であるはずの医師やカウンセラーでさえもが、お手上げ状態のことが、ほとんどです。
せいぜいが、精神安定剤などの薬を与えて、お茶を濁すぐらいでしょう。
根本的に傷を癒やしてくれるようなことはありません。
これは体の傷で言えば、傷口が大きく開いているのに、その傷を塞いでやることができず、痛み止めや、炎症や腫れを抑える薬を出して、これで様子を見てみましょう、と言うようなものです。
要するに、本当の心の傷の専門家など、どこにもいないということです。
では、どうすればいいのでしょうか。
それは、自分自身が専門家になればいいのです。
体の傷と心の傷 その1
体に傷ができると、体はその傷を塞ごうとします。
血液やリンパの液が固まって、傷の表面に蓋をして、外から邪魔なものが侵入しないようにします。
周辺の菌や異物が、傷の中へ入り込むと、白血球がこれを排除しようとします。
そして、周辺の組織の細胞が増殖をして、傷で生じた隙間を埋め、元の状態を再建します。
この過程が順調に進めば、傷は癒やされ、体は元気を取り戻します。
ところが、何等かの事情で、これらの過程がうまく進まないと、傷はいつまで経っても治りません。
かえって悪化して行き、もっとひどい状態になってしまいます。
たとえば、血液が固まらなければ、傷口を塞ぐことができませんから、外敵がどんどん侵入してしまいます。
いくら白血球が外敵を排除すると言っても、きりがありませんし、侵入する外敵が多ければ、白血球が抑えきれません。
それに、傷が大きくて出血が続けば、出血多量により、その人は死に至るでしょう。
血液が固まって、傷口が塞がれていても、白血球は働かなければ、中へ侵入した菌や異物を、排除できません。
菌はどんどん増殖しますから、侵入した数が少なくても、傷の中でみるみる増えて行きます。
これを抑えられなければ、やがては菌は血管から全身に広がり、敗血症の状態で、その人は死に至ります。
異物が体に毒にならなければ、それで死ぬことはありません。
しかし、異物がある部分は、周囲の組織がひっつくことはできませんから、そこに異物を抱えたまま、傷が治る形になります。
目に見えないような、小さな異物であれば、特に問題は起きないかもしれません。
でも、大きな異物であれば、それが周囲を圧迫することで、起こらなくてもいい痛みが生じたり、体の動きが制限されたりするでしょう。
逆に、白血球が異物を排除しようとして、周辺に多量の活性酸素を撒き散らすと、周辺組織の細胞までも、その被害を受けてしまいます。
たとえば、ゴキブリを退治するのに、閉めきった家の中で、バルサンをたくはずが、町全体にバルサンをたいてしまったのと同じです。
全然関係ない家までもが、バルサンの煙にやられてしまい、そこで暮らしている人々は、健康被害を受けることになります。
場合によれば、菌や異物ではなく、この白血球の過剰な攻撃によって、その人が死んでしまうこともあります。
周辺組織の細胞は、とにかく傷を埋めようとします。
細胞同士が隣接できるように、互いに離れてしまった部分の細胞が、増えて行くのです。
しかし、全ての細胞が分裂して増殖できるわけではありません。
それができるのは、体の表面ではなく、奥の方にある細胞です。
傷は中の方から、順番に盛り上がる形で、修復されます。
ですから、傷が順調に回復していたとしても、表面の傷口が塞がるのは、一番最後です。
血液が固まったかさぶたは、その時まで傷口を護る、大切な役割を持っています。
細胞が増殖するためには、その分の養分が必要となります。
栄養状態が悪ければ、細胞が増殖したくても、増殖できるだけの成分が足らず、増殖することができません。
そうなると、傷はいつまで経っても治らないのです。
また、外敵と戦う白血球も、細胞の一種ですから、栄養状態が悪ければ、この白血球も増殖するのに、影響が出て来ます。
栄養状態が悪ければ、免疫機能も落ちてしまうわけです。
今の日本では、そこまで栄養状態が悪い環境はありませんが、それでも個人的には、無理なダイエットをしていたり、偏った食事をする人がいます。
ちゃんと食べているつもりでも、細胞が要求している成分が、取り込まれていなければ、栄養状態は悪くなってしまいます。
あまりに傷が大きくなると、そこを埋めるだけの、組織細胞の増殖が追いつかず、細胞は自身が埋めることができない隙間を、にかわのような物質で埋めようとします。
そうやって、何とか傷を直すのですが、傷口はきれいに元の状態には戻っておらず、見た目にはっきりした、大きな傷跡として残ります。
傷が塞がっているので、一応は傷は癒えた形ではあります。
本人が気にしなければ構わないのですが、その傷跡を見るたびに、嫌な思いがしたり、その傷跡がその人の自信を失くすこともあります。
病院で傷を修復する時、傷口がぴったりと塞がるように、傷の端同士を寄せ合って、テープで留めたり、糸で縫い合わせたりします。
傷が深ければ、中に空洞ができないように、中の方も糸で縫合して、組織細胞同士がひっつき合うようにしてやります。
そうして適切に処置をしてやると、傷はきれいに修復します。
しかし、縫合がへたな医師に傷をゆだねると、明らかに目立つ傷跡が残ります。
傷を縫合してもらうのに、どの医師にしてもらうかは、とても大切なことです。
このように、傷が順調に塞がれば、その後の生活に、その傷が支障を来すことはありません。
しかし、ずっと傷が癒やされず、治ったと見えても、本当には治っていなければ、その傷はその後も、その人の暮らしに悪い影響を与え続けます。
私たちは怪我をすることはあっても、その傷がどのように治って行くのかということには、あまり意識を向けません。
でも、それを知っておくということは重要です。
実際に傷を負った時に、その知識は大いに役に立つでしょう。
そして、それは体の傷だけでなく、心の傷についても言えることなのです。
人生のコツは先取り その5
ドラえもんの道具の中に、先取り約束機というものがあります。
今、空腹で死にそうだけど、何も食べる物がない。
そんな時には、この先取り約束機を使って、明日必ず今日の分も食べるから、今のお腹を満腹にして欲しいと願うと、死ぬほどの空腹感を満腹感に変えることができるのです。
つまり、本来は将来にあるはずの状態を、今に持って来る代わりに、必ずその状態を創るための行動を約束するということですね。
これと同じように、人生の自動販売機のボタンを押すということは、自分が選んだ未来の自分を、先取りするということでもあるのです。
先取りしたからには、未来の自分が成立するための道を、これから歩んで行かなければなりません。
でも、それは嫌々進む道ではありませんし、誰かに強要された道でもありません。
自分が望んだ道ですし、自分が望んだ将来が、約束されている道なのです。
見た目が困難であったり、大変であったとしても、それは約束された道なので、途中で投げ出すということはありません。
未来の自分のボタンを押したふりをして、本当は押していないのであれば、途中で嫌になるでしょう。
でも、本当にボタンを押した人であれば、その先へ進むことしか考えませんから、途中であきらめるということは有り得ません。
具体的な状況は未来であっても、気分はもう未来の自分です。
先取りした未来の自分は、必ず困難の壁を乗り越えるポイントを、今の自分に教えてくれます。
そうやって困難を乗り越えるたびに、今の自分は先取りした未来の自分に近づいて行き、最終的には両者はピタリと一つになるのです。
そして、その時に過去の自分を振り返り、ここまで頑張って来るようにと、励ましのエールを送るのです。
人生のコツは先取り その4
人生の自動販売機にお金を入れ、望む未来のボタンを押したなら、あなたの未来は確定したと言えます。
どうなるかわからないけど、とりあえずやってみよう、ではないのです。
そうなることは決まっているから、ただひたすらにその道を進むだけ、なのです。
たとえ目の前に困難があるように見えたとしても、その先に自分の未来があることも、その困難の向こうへ行く道があることも、全て決まっているから心配することはありません。
困難に見えることも、実は未来の自分を現実のものにするための、大切な準備です。
その困難の中には、必ず重要な何かが隠されているので、それを見つけ出すのです。
未来の自分は、その困難を乗り越えた所にいるわけですから、その困難にどう対処すればいいのかを知っています。
今の自分と未来の自分は違うと思ってしまうと、その困難は大きな壁となって立ちふさがります。
それは、未来の自分が確定しているという、確信がないということです。
そんな人は、どうやっても問題の解決が見つからず、あきらめたくなるかもしれません。
こんな人は、知るということと、信じるということを、ごちゃまぜにしています。
将来の自分はこうだとわかっているのと、将来の自分はこうだと信じている、というのでは、全然意味が違って来ます。
未来が確定しているとわかっている人は、まだその時が訪れていなくても、気分はもう未来の自分です。
たとえば、3億円の宝くじに当選し、まだ換金をする前のくじを手にしているようなものです。
まだ実際にはお金を受け取っていないのに、気分はもう大金持ちで、つまらないことに腹を立てたりしないでしょう。
それと同じことです。
未来の自分が確定しているとわかっているならば、他人が困難と思うようなものでも、ちっとも困難として受け止めません。
困難を困難として受け止めてしまうのは、まだ自分の中にある、物事の受け止め方に問題があるということです。
困難はそれをあなたに教えてくれているのです。
未来の自分は、こう思います。
あの時の困難があったからこそ、今の自分があるのだと。
と言うことは、目の前にある困難の中にこそ、大切な何かが隠されているということなのです。
将来への不安を持つ人は、その困難を乗り越えることはできません。
しかし、将来の自分の姿が決まっている人、将来の自分を今の自分と重ね合わせることができる人は、困難があっても乗り越えようとしますし、必ず乗り越えます。
全ては将来の自分が歩んだ道を、今の自分が再体験しているだけのことなのです。
人生のコツは先取り その3
人間はエネルギーです。
心も体もエネルギーです。
また、人間を取り巻く周囲の全ては、やはりエネルギーです。
私たちが認識している世界とは、そのエネルギーの状態を、五感という感覚の情報に変換することで、成り立っています。
一人一人、何を感じているかは違いますから、人によって認識している世界は、みんな別々だということです。
眠っている人は、現実と言われる世界の情報は、何も入って来ません。
夢を見ていれば、その人は夢の世界にいるわけで、現実の世界にいるわけではないのです。
それは目を覚ましても同じことであり、その人が認識しているのは、その人だけがわかる世界なのです。
他の人と世界についての情報を共有はしていても、その人の世界は、その人の意識の中にあるわけです。
もし幽霊が見える人であれば、その人の世界の中には、死んだ人がうじゃうじゃと出て来るのです。
でも、他の人の世界には、そんなものなど存在しません。
何に対しても受け身の状態であれば、あなたが認識する世界は、あなた以外の所から流れ込んだ情報だけで、構成されることになります。
つまり、本当はあなたの意識の中にあるはずの世界なのに、外から押し込まれた情報が、勝手にあなたの世界を創ってしまうわけです。
そして、本来の世界の主であるあなたは、誰かが創っているその世界を、ぼんやりと眺めたり体験するばかりです。
そこには主体というものがありません。
自分が自分の世界を創っているという、実感がないのです。
しかし、あなたが認識している世界は、あなたの意識の中にあります。
世界を構成する情報は、あなたの外から取り込んでいても、それをどのように解釈し、どのような行動を取るかは、あなたが決めることができるのです。
そして、あなたが行動を起こすことで、その情報をあなたの外へ発信するのです。
そうなると、その情報を他の人たちが、それぞれの世界の中に取り込んで、その人たちも自分たちの世界を取り戻すのです。
そうやって、次々と新たな情報を世界へ発信する人が増えると、世界から取り込む情報が、それまでとは大きく違って来ます。
それを、あなたは世界が変わったと受け止めるでしょう。
確かにそうなのですが、正確に言えば、人類の意識が変わったということです。
人間が認識している世界は、人類の意識の中に創り出された、一種の夢であり、幻想です。
人類の意識が変われば、当然その一部である世界が変わります。
逆に言えば、世界が変わったように見えたなら、それは人類の意識が変わったということなのです。
あなたが変わるということは、あなたが人類意識の変化の波に乗ったということでもありますが、あなたがその変化の波を起こしていると、見ることもできるのです。
その変化が、あなたにとってどのようなものであるのか。
それがあなたの望むものであるならば、そこにあなたが望む自分の未来像があります。
また、あなたが自分の望む未来像へ進むことで、世界もまたそのように変化するということです。
自分なんかが何を考えたところで、世界が変わるはずがないと、思いたくなるでしょう。
でも、世界は人類意識の中にあり、あなたの意識はその一端を担っています。
あなたが変われば、その分だけ世界は変化します。
あなたの想いが誰かに伝われば、その誰かが、また新たな誰かに、その想いを伝えてくれます。
そうやって、初めは小さな変化が、やがては大きな波紋となって、人類意識全体へと広がって行くのです。
しかし、そんなことを考えなくてもいいのです。
自分が世界を変えてやるという使命感など、持つ必要はありません。
ただ、自分が望む姿にまっしぐらに進んで行き、自分の人生を謳歌すれば、それでいいのです。
そのことが自然に人類意識の変化を促し、世の中全体が自分にとって、とても居心地のいいものに変わって行くでしょう。