地球人としての自覚 その3
地球市民や、それに類似した表現に基づいて、組織やグループを作っている人たちがいます。
一人ではできないことも、みんなで力を合わせればできるようになりますから、こうした動きは望ましいものだと思います。
また、世界中で人々の不安をかき立てる、様々な問題が今の社会システムへの疑問を持たせ、新しい社会システムを求める声が、これまで以上に増えて行くでしょう。
しかし、地球人としての自覚を持つことには賛同しても、これらのグループに参加することを、ためらう人は少なくないと思います。
何故なら、今の社会に異を唱える形の団体は、世の中から白い目で見られる傾向があるからです。
そんなことなど全く気にしないという、強い意志を持っている人はいいのですが、そうでない人たちは、やはり参加することをためらうでしょう。
また、何かの団体に所属すると、そこの決まりで縛られてしまいます。
常に自由でいたいと思う人は、自分が自由を感じられる所でなければ、そこに入ろうとは思いません。
会員やメンバーになったなら、何等かの行為を義務として求められると思うと、嫌になってしまうのです。
しかし、自分は地球人だという自覚を持つのに、どこかの組織やグループに所属する必要はありません。
地球人とは何なのかということを、組織やグループの中で作られた定義に従うのではなく、自ら考えて理解することが、何より大切です。
たとえば、地球人は地球に優しくなければならないと、どこかの会で教えられたとしましょう。
それで、初めのうちはゴミ拾いや、温暖化対策などに、積極的に参加するかもしれませんが、それを義務のように感じて来ると、だんだん嫌になって来るでしょう。
でも、自分自身で地球が大好きなんだと感じていたならば、自分が取る行動に義務感は生じません。
他人から見て大変に思えるようなことでも、大好きな地球のためなんだからと、地球を支える行動に喜びを感じることでしょう。
組織になると大きな力を得ることができますが、指導者に従うという形で、義務感が生じる可能性があります。
また、組織のメンバーになることで、自分は地球市民だと考えたとしても、実際に誰かを差別したり、生き物の命に思いを馳せられないとすれば、本当の地球市民とは言えないでしょう。
地球市民というものは、肩書きであってはいけないのです。
地球市民とは、個人の自覚であり、人間としてある段階にまで成長した時に、自然に認識できるようになる感覚的なものなのです。
みんなは一つなんだと、理屈だけでなく感覚的にも理解するようになった時、その人は本物の地球市民になったと言えるでしょう。
地球人としての自覚 その2
地球市民という言葉があります。
国籍や民族、宗教などの違いを超えて、自分が所属しているのは地球であると、考えることのようです。
また、宇宙船地球号という言葉もあります。
地球を宇宙船ととらえて、地球に暮らす者はみんな、同じ宇宙船の乗組員だという考え方です。
どちらも発想として、素晴らしいと思います。
今の世界で起こっている様々な問題の原因には、他者への思いやりのなさや、自分さえよければいいという自己中心的な考え方、またそれらを増長させる、お金中心の競争社会が挙げられます。
地球市民や宇宙船地球号という考え方は、今の世の中を支配している価値観に、取って代わるであろう先進的な発想です。
でも、お金を稼ぐことに夢中になっている人や、すでに多くのお金を稼いで、それなりの地位や権力を手にした人たちは、このような新しい考えを否定するでしょう。
新しい考えの下では、せっかく苦労して手に入れたお金や地位や力が、失われるように思うからです。
しかし、お金や地位や力が必要だと考えるのは、それがないと生きて行くのが大変だと、受け止めているからです。
そんなものがなくても、何も心配せずに、みんなと楽しく暮らしていけると確信が持てるならば、多くの人が新しい考え方を受け入れるでしょう。
最後まで抵抗するのは、他人が苦しむ姿を見ることで、自分は安泰だとほくそ笑みたい人だけです。
でも、そんな人はそれほど多くいるとは思えません。
ほとんどの人が不安によって支配されているだけで、他人の苦しみを喜びたいわけではないからです。
不安から逃れたいけれど、新しい考えを持つことに、とても大きな不安を抱いてしまうので、なかなか初めの一歩が踏み出せないだけなのです。
でも、一歩踏み出してみると、意外とうまく行くとわかるので、あとはスムーズに進むことができるでしょう。
そんな風にして、この新しい考え方は、徐々にではありますが、世界中に広まることと思います。
そして、その時には今の経済社会に代わる、新たな社会システムが構築されることでしょう。
地球人としての自覚 その1
UFOは本当に存在するのか、という話が、以前はバラエティ番組で、よく取り上げられたものです。
しかし、アメリカ政府が未確認飛行物体の存在を、正式に認めてからは、以前のようなおちゃらけた雰囲気で、UFOを取り上げることはなくなったように思います。
もう、UFOは存在するかどうかではなく、何がUFOを操作しているのか、という次のステージに入ったと言えます。
軍事的観点で見れば、UFOは恐るべき脅威でしょう。
科学を探究する者は、UFOに見られる技術には、人類の科学に革命を起こすほどのものがあると、考えるはずです。
またそれは一般の人にとっても、これまで自分たちが認識していた世界観や宇宙観を、大きく変えるものだと言えるでしょう。
経済社会の中に埋もれて、お金を稼ぐことや、明日の暮らしの心配で、一杯になっている人々が、自分や世界について、真剣に考えるきっかけを得ることになると思います。
UFOを動かしているのが人類でない以上、そこに他の星から来た宇宙人や、異次元から訪れた知性体、という存在を想定することになるでしょう。
地球の科学にしがみついて、世界の全てを理解したつもりになっている人たちは、どんな証拠を見せられても、UFOや人類以外の知性体の存在を、受け入れようとはしません。
しかし、庶民のほとんどはそこまで科学にしがみついていません。
UFOがはっきりと姿を見せるようになれば、素直に他の知性体の存在を認めるでしょう。
ところで、他の星や異次元からの訪問者が、私たちの前に姿を見せたなら、私たちは自分たちをどのように自己紹介するのでしょうか。
私たちは地球人です、と言えるでしょうか。
同じ地球に暮らす人間同士で、いがみ合ったり殺し合ったりしているのを、訪問者たちは知っていると思います。
そんな訪問者たちに、私たちは胸を張って、自分たちは地球人ですと、言えるでしょうか。
そもそも、普段から私たちは、自分たちを地球人であるとは認識していません。
自分は日本人だとか、アメリカ人だとか、フランス人だとか、中国人だとか、インド人だとか、自分が所属する国の名称を、自分を説明するために用います。
誰も、私は地球人ですとは言いません。
本当はみんな地球人なのに、自分たちを日本人だのアメリカ人だの中国人だのと考えるので、それぞれの間に壁が作られ、どこの国は味方で、どこの国は敵だ、という考え方を持つようになるのです。
また、地球人のくせに、地球がどのようなものなのか、自分と地球にどんな関係があるのかなんて、これっぽっちも考えません。
自分が生まれ育った地球を、平気で痛めつけるようなことばかりします。
これでは地球人だとは言えませんし、そんな自覚なんて、持てるわけがありません。
それでも、地球外から知性体が訪れているのです。
宇宙飛行士が宇宙から地球を眺めたように、もうそろそろ私たちも、自分たちが宇宙に浮かぶ地球という星に、一緒に暮らしている仲間だと、認める時期ではないでしょうか。
家族中が争い合っているような家は、他の家の人たちから、どのような目で見られるかを、想像してみて下さい。
今の地球はまさにそれと同じ状態にあるのです。
これはとても恥ずかしいことです。
それに、外の存在たちから軽く見られないように、しなくてはなりません。
そのためにも、一人一人が自分は地球人なのだという自覚を、持つ必要があるのです。
遠慮と思いやり その3
思いやる相手というのは、必ずしも他人とは限りません。
自分自身に対しても、思いやりの気持ちが必要です。
本当は楽しいことがしたいのに、今は悲しんでいないといけないからと、自分を押さえつけてしまうのは、自分に対する思いやりが欠けています。
周りの目が気になるから、好きなことができないというのも、自分への思いやりが足りません。
しかし、実際には常に周囲を確かめながら、それに合わせて生きる人が多いと思います。
本当に自分がやりたいことを我慢して、楽しいことを自分から遠ざけてしまい、それでつらく大変な自分の姿を、世間に認めてもらおうとするのです。
でも、そんなことをしたところで、何の得にもなりません。
誰かに慰めてもらっても、自分が置かれた状況がよくなることはありません。
それに、どんなにつらい自分を見せても、世間のほとんどの人は知らんぷりです。
自分には学歴がないから、自分には資格がないから、自分にはお金がないから。
そんな理由を並べ立てて、自分を押さえ込むのは、世間の価値観に、自分を無理やり押し込んでいるだけです。
それは世間に対して、遠慮しているのと同じです。
勝手な憶測で判断し、お決まりごとのように、自分を抑えているのです。
学歴が何だ、資格が何だ、お金が何だ。
そんなの関係ないよ。
自分は、今自分にできることをして楽しむんだ。
こう考えて、押さえつけていた自分を、解放してあげましょう。
こうでなければいけないという思考の鎖から、自分自身を解き放つのです。
確かに、風習や世間の価値観と違うことをすれば、白い目を向ける人がいます。
しかし、全然気にしなかったり、同じ考えを持って同調してくれる人もいるのです。
白い目を向ける人たちに合わせて、生きて行きたいのであれば、自分を抑えていればいいでしょう。
でも、自分を受け入れてくれる人たちと、一緒に生きていたいのであれば、自分を抑える必要はありません。
世間に遠慮して、自分を思いやれない人は、他の人が悲しんでいる時にも、その人を本当に思いやることは、むずかしいと思います。
我慢をしている人は、他人にも同じ我慢を求めるものです。
無意味な遠慮ばかりする人は、他人にも同じ遠慮を求めます。
自分を思いやれるからこそ、他人を思いやることができるのです。
まずは、自分を思いやる気持ちを、持つことが大切です。
それが、思いやりの社会を創るための、第一歩なのです。
遠慮と思いやり その2
不幸があったり、災害などで家を失うなどの状況に置かれた時、自分は笑ってはいけない、楽しんではいけないと、思い込んでしまう人もいます。
悲しむべき時に、笑顔を見せるのは、不謹慎だと考えるため、楽しいことから自分を遠ざけてしまうのです。
うっかり笑ったりすれば、そんな自分を情けなく思うでしょう。
でも、感情は自然に湧いて来るものであり、考えて制御できるものではありません。
また、悲しんでいる人を励ますのは、早く笑顔を取り戻すようにという気持ちがあるからです。
それなのに、早く笑顔を取り戻すと不謹慎だというのは、矛盾しています。
これも気持ちの問題であり、本当に悲しい時には、笑えと言われても笑えません。
それが笑えるのであれば、笑えばいいのです。
それは、その瞬間だけでも、悲しい気持ちが癒えているという証です。
笑うことで、自分が失ったものを、軽く見ていることにはなりません。
悲しみから抜け出したいのに、どうすればいいのかわからず、一人で悲しみに暮れている人がいたら、遠慮しないで、その人を楽しい所へ、引っ張り出してあげればいいのです。
それは相手に対する思いやりです。
本当に悲しんでいるのであれば、誘ったところで出て来ることはありません。
でも、出て来るわけがないよなと、初めから決めつけて誘わないのは間違っています。
それは思いやりではなく、勝手な憶測による遠慮です。
相手を思いやっているつもりが、実は単に遠慮しているだけということは、よくあると思います。
思いやるというのは、相手の状態を確かめながら、相手の心を推し量り、今はどうしてあげるのがいいのかと考えることです。
それで、相手をそっとしておくこともあれば、相手を賑やかな所へ、引っ張り出すということもあります。
つらいことから遠ざけることもあれば、つらいことに一緒に向き合うこともあります。
その時によって、どう動くのかはケースバイケースです。
思いやった結果、今は遠慮しておこうとなるのは、正しい考えです。
これに対して、思いやりではない遠慮というのは、こちらの勝手な憶測や、一般的な風習などで、お決まりのような態度を示すものです。
あるいは、不幸な人に関わりたくないという、気持ちの表れのこともあるでしょう。
思いやりと遠慮は、一見似ています。
でも、それぞれ意味が違います。
思いやりの遠慮もあれば、思いやりのない遠慮もあります。
また、思いやった結果、遠慮する場合もあれば、遠慮しない場合もあります。
理解するべきなのは、遠慮することが、必ずしも思いやりとは限らないということです。
遠慮と思いやり その1
親しい人に不幸があった時、日本人は喪に服します。
たとえば、身内の誰かが亡くなると、次の正月には年賀状を出しません。
不幸があったと知らされた方も、その人に年賀状を出さないのです。
これは悲しみに暮れている人に対して、おめでとうというような言葉を、使わないという配慮でしょう。
つまり、思いやりの気持ちから、祝いの言葉を遠慮するのです。
しかし、本当にその人が悲しんでいるかに関係なく、ただの風習として年賀状を出さないということの方が、多いような気がします。
年末近くに家族が亡くなれば、正月を祝う気分になれないのは、当然のことでしょう。
また、周囲の人も悲しむ人の気持ちを酌んで、騒いだりしないと思います。
しかし、前の正月明け頃に、100歳まで生きた祖父母が、天寿を全うする形で亡くなったとしたら、どうでしょうか。
天寿を全うしたのですから、ある意味、よかったねと言えるようなことでしょう。
それに、その人が亡くなるという覚悟は、身内の人たちにもできていれば、突然に思いがけない死を迎えた時とは、心境が違います。
そんな人たちが、ほぼ一年後の正月を、喪に服するということで、年賀状を控えるというのは、少しピントがずれているように思います。
それは悲しいからそうするのではなく、単なる風習でしているだけでしょう。
風習に逆らって、年賀状を出したりすれば、あそこの家はどうなっているのかと、変な目で見られるかもしれないと、恐れてしまうわけです。
また、周囲の人も本当は気にすることでなくても、やはり風習として、その人たちに対して、祝いの言葉をかけることを遠慮します。
それは思いやりによる遠慮ではありません。
別に好きですることでしたら、どちらでも構わないのですが、本当はこうしたいのに、喪に服しているからできないというのは、正しいことではないと思います。
喪に服するのは、あくまでも本人の気持ちであって、喪が明けていると自分で感じるならば、無理に喪に服する必要はないのです。
クマゼミの羽化
先日の夕方、庭に生える草に、抜け殻から出たばかりのクマゼミを見つけました。
よく見る成体のクマゼミと違って、まだ弱々しく幼い感じです。
社会人になったばかりの18歳という感じでしょうか。
色も薄く、薄緑色の羽が美しいですね。
この時にしか見られない、初々しい美しさです。

スマホで写真を撮ったのですが、普通のカメラと違って、ピントが合わせにくいですね。
スマホが悪いのではなく、慣れない私が悪いのだと思いますが、ピントをセミに合わせているつもりなのに、撮れた写真は他の所にピントが合ってばかりです。

抜け殻がしがみついているのは、背の高い雑草です。
柔らかいので、重みでしなってしまいます。
それで抜け殻も、真っ逆さまにぶら下がった格好になっていました。
こんな殻から抜け出すのは、セミも大変だったと思いますが、出て来たあとも落ちないように、必死にぶら下がっています。
初めに見た時には、前の四本の足でしがみついていたのですが、少ししてから見ると、前の二本だけでぶら下がっていました。
もし落ちてしまえば、死んでしまうかもしれません。
それでセミには直接触れないようにしながら、そっと雑草の向きを変え、抜け殻をしがみつきやすいようにしてやりました。
そうしたら、また前の四本足でつかまり直すことができたので、セミもでしょうが、私もほっとしました。
翌朝、見に行くと、もうセミは旅立ったあとで、逆さまになった抜け殻が残されているだけでした。
うちの庭には、毎年多くのクマゼミの抜け殻が見つかるのですが、羽化を直接目にしたのは、これが初めてでした。
とても得をした気分になれて、ハッピーでした。
体の傷と心の傷 その10
結局のところ、何かにどれだけ傷つくのかということは、その人が世の中に対して、どれだけの理解を持っているのか、ということを示しています。
世の中の価値観に洗脳されているうちは、その価値観に自分を当てはめて考えますから、他人がどれほど慰めたところで、心の傷を癒やすことはできません。
傷が癒えたように見えたなら、それは傷を癒やすことを、あきらめているのです。
この世界に、絶対にこうだという決まりなど、ありません。
今の社会や法律があるのは、それなりの利点があるからなのですが、人類がこの世界に登場した時から、存在していたものではないのです。
長い歴史の中で、誰かが勝手に創ったものであり、それは必ずしも人間にとって、いいものとは言えません。
もちろん、法律や決まりには、それができた背景があり、それなりの意味があるわけですから、決まり事を守るなと、言っているわけではありません。
しかし、守らなくてもいいはずの、常識と見なされているような事柄に対しては、もっと反旗を翻しても構わないでしょう。
別に、そうしたところで法律違反になったり、誰かを傷つけるのでなければ、人は自由に生きればいいのです。
権力者は厳しい法律や罰則だけで、人々を支配するのではありません。
力で押さえ込もうとすると、人々の反発心を煽ることになります。
そんなことをする権力者は、権力者としてはレベルの低い者たちです。
レベルの高い権力者は、人々に反発心を起こすようなことはしません。
思想や価値観を巧みに植え付けて、勝手にそれが真実なのだと、信じ込ませるのです。
自分たちで勝手に信じて、従ってくれるわけですから、権力者にとって、これほど楽なことはありません。
これが洗脳というものです。
権力者が無茶苦茶なことをしても、みんなは黙って従います。
従えない場合は、自分が悪いと思ってくれるのです。
あるいは、周囲にいる者たちが、支配者に代わって、その人を排除しようとしてくれます。
権力者が自分の手を汚すことはありません。
でも、こんなのは実に理不尽です。
せっかく人間として生まれて来たのに、その喜びを享受することもできず、ロボットのように使われるだけなんて、生まれて来た意味がなくなってしまいます。
それは自分の人生の主権を、相手に手渡しているのと同じです。
世の中にある決まり事や、慣習などが、本当に人々の喜びにつながるものであるならば、人知れず泣いたり苦しんだりする人は、いなくなるでしょう。
ところが、実際は多くの人が、自分の言いたいことも言えずに、我慢を強いられています。
そして、これが当たり前なのだと、あきらめ気分を基盤にして、自分が置かれた状況を、受け入れているのが現状です。
自分が悩んだり傷つくのは、自分が悪いのではないと、理解する必要があります。
自分の責任を問うならば、何も考えずに、世の中にある価値観を、自分の一部として取り込んで来たことでしょう。
そういう意味では、自分が悪いのです。
でも、それはいつでも改善することができます。
必要のない価値観は捨てて、自分が生き生き暮らすための価値観だけを、取り込めばいいのです。
そうすれば、その人にとっての世界は一変し、それまでの悩みや心の傷など、すぐにでも消えてしまうことでしょう。
そのためにも、自分とは何なのか、人間とは何なのか、世界とは何なのか、命とは何なのか、そして、愛とは何なのか、ということについて、真剣に考えてみることです。
体の傷と心の傷 その9
心の傷の奥深くに、心の棘が刺さっているのがわかったとしても、他人にそれを抜くことはできません。
抜くのは、抜くことに同意した、本人にだけできることです。
そこに棘が刺さっているのがわかっていて、それを不快に感じていても、それを抜けないのは、どうしてでしょうか。
それはその棘を放った人物を、今でも信頼しているからです。
その人の言葉は正しいのだと、信じているからです。
どうしてそう思うのか。
それは、その人に対する、自分なりのイメージを持っていて、そのイメージに相手を当てはめて見ているからです。
つまり、親であれば、自分の親なんだからと見てしまうのです。
子供にとっての親は、絶大なる存在です。
先生も親に準じた存在です。
本来、親も先生も子供を導くべき存在であり、愛情をもって子供たちに接するはずなのですが、実際はそうでない人もいます。
でも、子供にとっては、相手は親であり先生なのです。
また、普段は愛情を注いでいるはずの、親や先生であっても、人間ですから、ふとした拍子に、言ってはならないことを、口にすることはあるでしょう。
すぐにその言葉を撤回したとしても、子供の心にはその言葉が突き刺さっています。
子供がその棘を抜くためには、相手は神さまみたいな存在ではなく、自分と同じように過ちを犯すことが、あるのだと理解することが必要です。
相手を上だと見ているので、棘は抜けないのです。
相手は許しを請う立場であり、相手を許すかどうかの権限が、自分にあると思っていれば、棘はすぐにでも抜けます。
大人になっても、心の棘が抜けないのは、相手を自分よりも上に見ているからです。
自分と同じ人間だと、見ることができればいいのですが、自分が崇拝すべき相手を、自分と同じレベルに見ることは、なかなかできないのでしょう。
また、そう思えない背景には、どんなにひどい言葉を投げかけられても、その相手のことを大切に思う気持ちがあるのです。
相手を自分のレベルに引き下げることは、相手を大切に思わなくなるのと、同じ意味にとらえてしまうのでしょう。
しかし、人間は何度も死んでは生まれ変わり、互いに関わり合いながら、いくつもの人生を送って成長していく存在だと、理解をするならば、この見方を変えることは可能です。
現在の人間社会にある価値観と、相手を本当に大切に思う気持ちを絡めなければ、相手を自分と同じレベルで見ることを、相手に失礼だとは考えなくなると思います。
逆に言えば、自分が相手の本当の姿を見てあげるのではなく、自分勝手な色眼鏡で見て来たということに、気がつくわけです。
そして、そのことが大切な相手を、苦しめることもあるのだとわかれば、親や先生であっても、自分と同じ人間なのだと、見ることができるのです。
また、相手を自分と同じレベルに見られないのは、自分のレベルが低いと信じているからでもあります。
つまり、自分に自信がないわけです。
そんな自分と、親や先生を同じに見られるものか、ということですね。
でも、そうではなく、今の人生を離れた目で、自分や相手を眺めてみれば、どちらが上とか下ということが、ないのがわかるはずです。
今回の人生を、互いの役割を務めながら、一緒に経験していると考えれば、見かけの立場の違いや上下関係も、気にならなくなるでしょう。
本来の自分たちは、この人生とは別の所に存在していると見るのです。
それができれば、今の人生において、誰かにひどい言葉を投げかけられたとしても、それでいつまでも傷つくことはありません。
相手の役柄を理解して、相手を許してあげることができるのです。
それは自分が自信を持つことを、自分自身に許してあげるということでもあるのです。
体の傷と心の傷 その7
体の傷に、白血球では処理しきれないような、異物や多くの菌が入り込んだ時は、病院での治療が必要となります。
もちろん、適切な病院です。
病院を間違えると、かえって傷が悪化してしまい、あとで大変なことになりかねません。
あくまで適切な医師による治療を受けるというのが前提です。
これと同じように、大きく深い心の傷を負ってしまい、そこに自分一人の力では、どうしても取り除けないマイナス思考が、突き刺さっていたとします。
その場合は、専門家というよりも、物の道理をよくわかり、人の気持ちを理解できる人の助言を、仰ぐといいでしょう。
資格があるかどうかは関係ありません。
知性と思いやりを兼ね備えた人であれば、心の傷に食い込んだマイナス思考を、一緒になって取り除いてくれるでしょう。
しかし、これも相手を間違えると、かえって心の傷を押し広げ、ぐちゃぐちゃにされてしまうかもしれません。
ここでもやはり冷静さが求められます。
本当に自分の力になろうとしてくれている人なのか、興味本位や自分の名を売るために近づいている人なのかを、冷静さによって見極める必要があるのです。
また、表面的には傷が癒えたように見えても、中に空洞ができていたり、異物が入り込んだままであれば、あとで不都合が生じるのは、体の傷と同じです。
傷は奥から癒えるものなのです。
それを早く治さなければならないと、中の状況も確かめずに、表面の傷口だけを手早く縫い合わせてしまうと、必ずあとで大問題を引き起こします。
体の傷であれば、中で菌がどんどん増殖し、炎症が悪化します。
受傷時よりも状態は悪くなり、命を落とすこともあるのです。
心に傷を受けた時、社会的に生活が送れるようになると、傷が癒えたと判断されがちですが、本当は癒えていないことも、少なくありません。
社会的生活が送れることと、その人の心のエネルギー状態が、自然な状態に戻ることとは、同じではないのです。
こんな人は、一見よくなって、何事もなく生活しているように見えても、何かのきっかけで、心の奥に押し込まれた心の膿が、爆発的に出て来てしまうことがあります。
もしかしたら、突然自らの命を絶ったり、思いがけない事件を、起こしてしまうかもしれません。
こうならないためには、単純に社会活動ができるようになったかどうかではなく、その人が心の底からの喜びを、得られるようになったどうかを、見極める必要があります。
また、その人の行動基準が、世の中を支配している価値観に、基づいていないかを確かめねばなりません。
自分を合わせる必要がない価値観に、自分を合わせねばならないと信じているうちは、本当に心の傷が癒えることはないでしょう。
そんな価値観から解放されることが、何より大切なのですが、なかなかそこから抜け出せないこともあると思います。
その場合は、恐らく子供の頃に、親や先生、あるいは仲良しだった友だちや、近所の人から言われた言葉が、原因かもしれません。