駅ピアノ その2
駅ピアノは海外だけかと思ったら、日本の駅も紹介されました。
へぇ、日本人でも、そんな所で演奏する人がいるのかと思って観てみると、やはりピアノに惹かれてやって来る人たちが、何人もいました。
すごいなと思いましたし、日本人も変わったものだなと、嬉しくなりました。
それぞれ演奏する曲や、ピアノに対して、何等かの思い入れや想い出があり、話を聞いていると、こちらまで嬉しくなったり切なくなったりします。
みんな、ただ好きで演奏しているだけでなく、その曲に様々な自分の想いを載せているのですね。
それは自分の気持ちを表現したものであり、それを演奏という形で表現している人たちは、自分の人生を自分の足で歩んでいる人たちです。
一見すれば、恵まれていないように見える人もいますが、それでも逆にその人の力強さを、見せられたように思えます。
その姿は見ている者への、励ましやメッセージとなり、元気ややる気を起こさせてくれます。
私の知人も、この番組を観て、これまで弾いたことがないピアノに、挑戦したくなり、実際にピアノを購入した人がいます。
それまでは、自分なんかには無理だと思っていたのが、自分にだってできるかも、という気持ちになったのですね。
また、演奏をするのは、決まり通りにしないといけないと思っていたところ、みんな自由に好き勝手に演奏して、それで上手になれるし楽しいんだとわかったんですね。
日本人は、こうじゃないといけないと思いがちなんですが、そうではなく、自由に自分が思ったとおりにやっても、それで構わないんだと思えるようになったわけです。
知人の話を聞いて、本当にこの番組はすごいなと思いました。
この番組は全国放送されていますので、そこに出て来る人たちの姿は、日本中に影響を与えています。
でも、テレビに出ないような、身近な所にいる目立たないような人たちの中にも、同じように自分に制限をかけず、自分の望んだとおりに生きる人たちが、必ずいます。
もしかしたら、え、私が? と思うような人もいるかもしれません。
端から見ればすごいことをしているようでも、当の本人はそれをすごいことだとは思っておらず、自分が知らないうちに周囲を元気づけている、ということもあるのです。
目立つ人にばかり目を向けるのではなく、目立たない人にこそ、目を向けてみるといいと思います。
また、自分の中に潜んでいる、何かに憧れている自分というものにも、目を向けてみて下さい。
そんなの無理だよと、自分で制限をかけるのをやめれば、何かに憧れている自分が動き出します。
そして、それは必ずあなたを喜びに導きますし、あなたを見ている他の人たちにも、励ましと喜びを伝えることになるのです。
恥ずかしがることよりも、楽しむことに気持ちを向けましょう。
また、本当の完璧などないということを、知りましょう。
どんなに上手に演奏できる人でも、その日、その時によって、その演奏の状態は変わります。
どれが完璧かなんて言えないのです。
演奏が完璧というのではなく、そこに自分の想い、自分の気持ちを表現できたかということを、満足の基準にしましょう。
演奏を間違えたとしても、そんなのはご愛敬です。
言葉で言えば、少し言い間違えちゃったという程度のものです。
そこに自分の本当の気持ちが表現できていれば、何も問題はありません。
もっと多くの人が、他人の目を気にせずに、自分の世界を楽しめるようになることを、期待しています。
駅ピアノ その1
NHKの番組で、「駅ピアノ」というのがあります。
どこかの駅にピアノが一台ぽつんと置かれていて、駅を訪れた人たちが、自由に演奏するというものです。
世界中の列車の駅を舞台にしていますが、日本の駅もありました。
同じシリーズで「空港ピアノ」「街角ピアノ」というのがあります。
ピアノが置かれている場所が異なるだけで、番組の中身は同じです。
日本人にとって楽器を演奏できるというのは、特別なことのように思えるでしょう。
また、見知らぬ人たちの前で演奏するのは、完璧主義の日本人としては、とても気恥ずかしくて、勘弁してよと言いたくなると思います。
この番組は、海外のピアノ演奏を紹介していたのですが、向こうの人たちはピアノを見ると、おっと言う感じで近づいてきて、演奏を始めてしまうのです。
近くで関係のない人が聞いていようがいまいが、おかまいなしに、自分の得意な曲や大好きな曲を演奏するのです。
もちろん、海外の人みんなが同じだとは思いませんが、さすが外国の人は日本人とは感性が違うのだなと感心していました。
みんな、自分の世界に入り込んでいて、周りがどうなのかなんて何も気にしていません。
しかも驚いたのは、一見ピアノを弾くようには見えない、がたいのいい、いかつい感じの男の人が、ピアノの前に座って、見事に演奏するのです。
演奏が終わったあとにインタビューが入るのですが、さらに驚きなのは、その人はピアノを独学で覚え、今弾いた曲もオリジナルだと言うのです。
演奏する人の中には、同じような人がいくらでもいました。
たった一曲だけ、自分が好きな曲が弾きたくて、ここ2,3年に始めたばかりという人もいます。
それが、またうまいんですね。
日本人の場合、ピアノ演奏は特別なもので、弾けるようになるには、ちゃんとした先生について教えてもらったり、音楽学校で勉強しないとだめ、みたいに考えがちです。
また、それでも演奏できるのは、特別な才能や恵まれた環境にある人だけだと、考えてしまう人が多いと思います。
でも、この番組を見ていると、そうではないのだということが、よくわかります。
どんなことでも、本気でやりたいと思ったなら、実現できるということを、名前もわからない普通の人々が、さらりとお手本を見せてくれるのです。
ほんとにこの番組はいい番組だと思います。
番組ではピアノ演奏を紹介しているのですが、別にピアノ演奏に限らず、同じことはどんなことにでも言えるのですね。
とにかく、本気でやりたいかどうかだけです。
環境が悪いとか、才能がないなどという、言い訳を一切しないことです。
本当にやりたければ、自分がどんな状況にあっても、必ずやり遂げることでしょう。
科学と文学 その5
科学と文学と対比して、それぞれが実は同じものを、異なる視点で見ていただけだと述べて来ました。
でも、これは科学と文学だけに限らず、他の分野についても、同じことが言えるのです。
何故なら、何に注目しようとも、それは世界の一部だからです。
数学はこの時空間の性質を記述しているものです。
つまり、数学とは単なる数字の関係を調べているのではなく、世界というものを、数字という言葉で表現しようとしているのです。
これはとても壮大なロマンであり、ある意味、芸術と言えるでしょう。
数学者はそのロマンに惹かれて、日々研究をしているのです。
しかし、科学にエネルギーを内側から眺める観点が欠けているのと同じで、数学にもその観点が欠如しています。
そこに書かれた数式が、世界を客観的に表現しているだけでなく、実はそこに世界の心が表現されていることに気がつけば、科学の世界全体が大きく変わることでしょう。
空間を外から変化させることができなくても、空間の心に影響を与えることで、空間の状態を変化させることは、可能ではないかと思います。
そのための数式が生み出されれば、反重力やテレポーテーション、あるいはテレパシーなどの技術が、現実に活用できるようになるでしょう。
そのためには、世界にも心があるということを、認めるのが先決です。
さて、私たちは音楽を愛しますし、何かを創り出すことに喜びを感じます。
これは、様々な波長の調和性と、新たな調和した波長の発見を、意味しています。
それは私たちにとって喜びであり、それが私たちにとっての、本来の自然な姿、自然なエネルギー状態なのです。
また、私たちが世界の一部であるということは、世界を構成しているエネルギーも、やはり波長の調和性や、新たな調和した波長の発見を、追い求めているのだと言えるでしょう。
それは安定性と変化を追い求める、今の宇宙の姿であり、様々な法則は、この宇宙の心の動きを捉えようとするものです。
今の宇宙の姿は、宇宙の心が調和を求めた結果であり、今また新たな調和を生み出そうと、この瞬間にも無数の星が誕生していることでしょう。
自然界にあふれる音は、それぞれの歌です。
石や金属がぶつかった時の音も、あれは石や金属が歌ったり叫んだりしているのです。
風にそよぐ木々の枝の音や、砂浜に打ち寄せる波の音、鳥がさえずる中で、ころころとつむぎ続ける川のせせらぎ。
全部、自然が歌っているのです。
だから、人間が聞いていても心地よいのです。
それは調和であり喜びですから、それに身を委ねる人も、その調和の一部となり、喜びの一部となるのです。
それぞれの専門性を追求するのもいいですが、全ては一つであり、違うように見えても、本質は同じなのだと理解できれば、世の中はどれほど楽しいことでしょうか。
科学と文学 その4
文学の世界では、人間の愛憎劇がよく描かれます。
しかし、科学の世界では客観性が重視されますので、愛だの憎しみだのという表現が出て来ることは、まずありません。
学者によっては文学的な表現を好んで、洒落た言い方をする人もいますが、一般的には科学者の表現は硬くて、あまりセンスがあるとは言えません。
でも、人が誰かに心が惹かれたり、逆に反発してしまうのは、物理の法則と同じことだとわかれば、とても面白いですね。
それに、そこで生じる問題にも、対処しやすくなるでしょう。
電気のプラスとマイナスが引き合うように、心のエネルギーにそのような要素が含まれていたならば、本人の意識とは関係なく、ある人物がある人物に心惹かれるということがあるのです。
そこに社会的な常識や立場など、関係ありません。
心がそうなっているのだから、惹かれ合っても仕方がないのです。
それを本人の責任という形で処理しようとすると、いろいろ無理が出てしまって、大きな問題を引き起こすかもしれません。
一方で、心と心の間に生じる引力や反発力が、物理の法則と同じであるならば、物理の世界でいう引力や反発力を、内側から眺めて、そこに相手に対する好き嫌いの感情が、あると見ることができるでしょう。
原子における原子核と電子は、互いに愛し合って引き合っていると、見るわけです。
塩である塩化ナトリウムは、水の中ではプラスのNaイオンとマイナスのClイオンに分離します。
塩として存在している時、二つのイオンはやはり電気的に引き合っているわけで、互いに愛し合っていると言えるのです。
金属は原子と原子の間で、同じ電子を共有することで、原子同士が引っ付いています。
言ってみれば、同じ電子が複数の原子核を相手に、二股や三股をかけているようなものでしょうか。
人間社会からすれば、何ということかとなりますが、原子の世界では別に問題とはなりません。
きっと電子は、みんな大好きだよと言って回っているのでしょう。
こうして見ると、世界の様々な物は、愛で構成されていると言えます。
どうですか、面白いでしょう?
また、こう考えれば、科学と文学は決して別物だとは、言えないと思います。
世界は愛でできているなんて言葉は、とても文学的ですし、普段口にするには気恥ずかしいですよね。
でも、実はそれが事実だとすれば、こんなに素敵なことはありません。
そして、恐らくこれは事実なのです。
科学と文学 その3
右を向いている人と、左を向いている人を、イメージして下さい。
それぞれ違う方を向いているように思いますよね。
でも、右を向いている人を左側に、左を向いている人を右側に配置して、二人の間に風船が浮かんでいるとイメージして下さい。
二人は違う方向を向いているようで、実は同じ風船を、互いに反対側から眺めているわけです。
科学と文学とは、このような関係にあるのです。
一見、違う方向を向いているように見えますが、実は見ているものは同じなのです。
違うのは、それぞれの立ち位置です。
人間も含めて、世界に存在するものは、エネルギーで構成されていることは、科学の世界では常識です。
私たちはみんなエネルギーなのです。
また、地球で暮らす私たちは、他の生き物たち同様に、地球のエネルギーを利用させてもらって、存在しています。
私たちの体を構成している細胞は、全て地球上にあった原子で作られています。
目で見ていると、自分と地球を区別したくなりますが、エネルギー的に眺めてみると、私たちは地球の一部です。
地球全体のエネルギーの中の、部分的なエネルギーの集まりであり、流れに過ぎません。
その私たちには、心があります。
心というものは、自分という存在を、内側から認識するものです。
感情や感覚、思考や記憶というものは、心の領域にあります。
これはエネルギーとしての自分を、内側から感じているのです。
そのエネルギーとは、科学で捉えているエネルギーと同じです。
科学は同じエネルギーを、外から眺めているだけなのです。
純粋なる科学的観点から人間の行動を捉えたならば、そこに人間の意識や思考は考慮されません。
社会を構成して、様々な動きを見せる人間を、科学者は何等かのプログラムに応じた、動きをしているに過ぎないと見なすでしょう。
時折予測できない行動を見せるのは、まだそのプログラムが解明できていないだけで、それさえわかれば、人間の行動は全てが予測できると思うはずです。
ところが、実際は一人一人には心があり、それぞれの思考に従って動いています。
その結果、周囲との統一性が取れることもあれば、てんでばらばらということもあるわけです。
同じように、人間以外のエネルギーについても、その内側から感じる心という側面があるはずで、それは地球全体のエネルギーについても、言えることなのです。
人間の心の状態を基準にして、そこに心があるかどうかを判断するのは、正しくありません。
山には山の、海には海の、虫には虫の、魚には魚の、動物には動物の、植物には植物の、それぞれの心が存在します。
それがどのようなものかは、人間には想像ができませんが、エネルギーとして見れば、必ず心の側面があります。
ですから、万物に魂が宿っていると言っても、間違いではありません。
間違いどころか、それこそが真実でしょう。
文学は人間を描いているのですが、それは心を描いているということです。
言い換えれば、文学とは人間を構成しているエネルギーを、内側から眺めて探求しているのです。
一方で、科学が人間を見る場合、その構成エネルギーを外側から眺めて探求します。
ですから、周囲からの影響によるエネルギー変化を、捉えることは得意としますが、内側からの変化を捉えることは苦手です。
逆に、心の側ばかりを見ている人は、体のエネルギー状態の変化が、心に変化を及ぼしているということには、気がつきにくいと言えるでしょう。
両者は違う立場で同じものを見ているのだということを、それぞれの分野の人たちは知るべきでしょう。
それができれば、新たな分野の革命的な学問が、誕生すると思います。
科学と文学 その2
人間は何でも分類したがります。
あれとこれは違う物だと、区別するのです。
白黒をはっきりさせたいのですね。
なので、生物と非生物を区別します。
動物と植物も別物とみなします。
でも、プランクトンなどの微生物になると、それが動物側なのか植物側なのかは、曖昧なものが出て来ます。
ウィルスが生物なのか非生物なのかは、未だに決着がついていません。
と言うより、世界は人間が出現するより前から存在しているのですから、人間が勝手に決めつけた分類基準に、当てはまらないものが出て来るのは、当然でしょう。
人間の方が勝手に、世界をわかりきったつもりに、なっているだけに過ぎません。
そもそも、何かを区別したがるというのは、人間が自分という存在を、周囲と切り離して考えるからでしょう。
自分と自分でないものを区別するため、何でも区別ができると思い込んでいるのです。
それらの区別の方法は、目で見てわかる境界というのが、基本になっています。
自分の体の表面を境にして、自分と自分でないものが区別できます。
でも、それは固体という形状だからできることで、液体や気体の場合、異なるもの同士の境目は、大雑把にはわかっても、正確な所はわかりません。
たとえば、川と海を区別しようとした場合、地形的には河口を境にして区別します。
しかし、淡水か塩水かということで、川と海を区別しようとすると、どこが境目かはわからなくなります。
これと同じように、人間も含めて世界に存在しているものを、物体として見た場合には、区別ができたとしても、形のはっきりしないエネルギーの塊だとみなしたならば、その境目はよくわからなくなるでしょう。
人間にはオーラという、周囲に発散しているエネルギーがあると言われています。
ところが、このエネルギーがある部分は、本来の体の外の部分ですから、周囲の空気や物と重なるわけですね。
こうなると、自分と他のものの境界線が、曖昧になってしまいます。
要は、自分や他の物を、どんな視点で捉えるかということですね。
物体だと捉えると区別ができても、エネルギーだと捉えると、区別が曖昧になるわけです。
ここで本題に戻りますが、世の中にある多くの学問は、基本的にはそれぞれが独立した別の学問のように捉えられています。
しかし、本当に互いに関係がないのかというと、そうではありません。
物理学や数学、天文学のような関連性を持てるものなら、互いに関係があるとわかります。
一方で、いわゆる科学と文学の間に関係性を見つけることは、恐らくは困難かと思われます。
ところが実際はそうではありません。
両者は関係しています。
人間が関係ないように思い込んでいるだけです。
では、どうして関係があると言えるのでしょうか。
文学は人間性を追求あるいは表現しようとするものです。
科学は宇宙や自然の法則を理解しようとするものです。
それぞれ見ている方向が違うのに、互いに関係があるというのは、どういうことなのでしょう。
実は、宇宙を研究するということと、人間を研究するということは、同じなのです。
科学と文学 その1
人間はいろいろな学問を作りました。
その研究対象によって、語学や文学、経済学、物理学、数学、政治学、生物学など、いろいろあります。
昔はなかった学問が新たに構築されて、こんな学問もあるのかと、驚かされたりもします。
大学受験の際には、どの方向の分野に進もうとするのかということで、大きく文系と理系に分けられます。
文系は人間を対象にし、理系は自然を対象にしたものを言いますが、どの学問がどちらに分類されるのかは、学問によっては曖昧なことがあるようです。
とは言っても、たとえば文学は明らかに人間を対象としたものであり、物理学などのいわゆる科学は、宇宙や自然界を対象にしています。
今の世の中では、企業が理系出身の者を優遇する傾向があるので、理系の学問の方が文系の学問よりも、高く評価されがちです。
でも、学問というものに本来上下関係はありません。
対象が全く違うわけであり、比べようがないからです。
ある学問を低く見るというのは、その学問に価値がないのではなく、その人がその学問に対する興味がないというだけのことです。
お金儲けにつながらなければ価値がないと見る人たちにとっては、文系よりも理系の学問の方が優れているように思えるのでしょう。
でも、そうは言っても自分の性格や好みが、その学問に合っていなければ、無理にそちらを選ぶと大変です。
お金よりも興味に従って選ぶ人は、どちらがいいとかとは考えず、これが面白そうかなという感じで選ぶのだと思います。
また、それが本来の正しい選び方でしょう。
ところで、いろんな学問は、それぞれ研究対象が異なります。
そのため互いの学問は、全くの畑違いで、他の学問とは無関係であるように見えます。
もちろん、物理学では数学を用いますし、天文学では星の動きを調べるのに物理学の知識が必要です。
このように接点を持つ学問同士は、互いの関連性を認め合っていますし、それぞれが合体したような、新たな名前の学問が生まれたりもします。
ところが、文学と物理学が接点を持つことはありません。
これは全く異なる学問同士とみなされているわけです。
しかし、果たして本当にそうなのでしょうか。
地球人としての自覚 その6
地球や、地球に存在する全てのものに、心があると認めたならば、あなたの世界観は大きく変わります。
心とは何かと考えたことは、誰にも一度はあると思います。
でも、その時にイメージした心と、全てのものに心があると理解したあとの、心のイメージは大きく異なるでしょう。
自分は地球の分身で、他のものたちも、みんな地球の分身であり、自分とは兄弟関係にある。
その自分に心があるのだから、他の存在全てにも心がある。
また、自分は独立した存在のようでも、自分の体は地球の一部であるのだから、自分の心も地球の心と、完全に独立しているとは言えない。
こう考えると、心というものは、地球全体に存在していて、地上に見られるものたちの心は、その全体の心の一部であると、見ることができます。
さらに言えば、地球は宇宙の一部です。
その地球に心があるのであれば、宇宙にも心があると考えるのが道理でしょう。
そして、私たちは宇宙の心の一部だと、見ることができるのです。
UFOに乗って地球を訪れる、異世界の知性体たちも宇宙の一部であり、私たちの兄弟です。
全てに心が存在すると認めるだけでも、世界観の革命になると思いますが、異世界の知性体たちが、地球人の知らない科学技術や世界観を教えてくれたなら、地球人の世界観はさらに大きく変わるでしょう。
それは恐らく、地球人に大進化をもたらすと思います。
異世界の知性体と対等に付き合えるようになった時、地球人は今とは全く異なる存在になっていることでしょう。
地球人としての自覚 その5
口先だけで、自分は地球人だとか、地球市民だと言ったところで、何の意味もありません。
地球人だと言う以上は、思考や振る舞いも、それに見合ったものでないといけません。
家族を大切にする人は、義務で大切にしているのではありません。
本当に親や兄弟姉妹を大切に思うから、大切にするだけのことです。
それはその人にとって、ごく自然な思考であり行為です。
それと同じように、地球や地球に暮らす者たち全てが、自分の家族のように感じるならば、自然とそれに応じた思考や、行動を取るでしょう。
誰かに言われてするのではありません。
義務感や責任感でするのでもありません。
相手のことが好きだから、そうするだけのことなのです。
同じ人間同士で、諍いを起こしているのは論外です。
勝手に縄張りを作って、ここから先は俺の物だとか、ここは自分たちの領土だなんて、地球をどれだけ馬鹿にしているのでしょうか。
私たちは地上にある様々なものを利用していますが、どれ一つとして、これは自分のものだと言えるものなどありません。
自分の体でさえ、そうなのです。
全ては借り物です。
本当に所有できるものなど、ありません。
自分が持っている物を、誰かが欲しがったなら、何故欲しいのか、理由をよく聞くべきでしょう。
また、今それを手放せないのであれば、その理由を相手がわかるように伝えるべきでしょう。
お互いが相手を思いやる気持ちがあれば、そこでいざこざは起こりません。
相手が問題を抱えているのであれば、一緒にその問題を解決しようとするだけのことです。
地球人としての自覚とは、自分は地球人だという認識だけでなく、他の人たちもみんな同じ地球人なんだと、認識することでもあるのです。
たとえ相手がまだ地球人としての自覚がなくても、自分はその自覚を持っていればいいのです。
いちいち口に出して、説教めいたことなど言わなくても、地球人として行動していれば、その姿、その姿勢が他の人にも伝わり、自然と同じ価値観が広がって行くものです。
また、地球人としての自覚を持てば、その人の心はいつも平和で静かな喜びに満ちています。
その心に従った暮らしをして、その生活を楽しんでいるだけで、他の人にも地球人として生きるということが、自然と伝わるのです。
特別なことをする必要はありません。
地球人としての自覚を持つことは、人間として自然な成長過程です。
つまり、本来の自然な自分の姿を出して、自分の思ったとおりに生きることが、地球人としての自覚を持つことにつながり、個人も社会も幸せになれるのです。
地球人としての自覚 その4
自分は日本人だと言う場合、私たちは日本のことを知っています。
法律的には国籍を取得していれば、日本人ということでしょうが、もし日本を全然知らなければ、君は日本人だと言われても、一つもぴんと来ないでしょう。
また、同じ日本人だと言っても、北海道から沖縄まで、様々な地域に暮らす人たちがいます。
それぞれの地域には、独自の文化や方言があり、顔つきが異なっていたりもします。
今は国際結婚も増えており、見た目は外国の人間のように見えても、生まれ育ちが日本という人は、珍しくありません。
もう外見だけで、日本人かどうかを判断する時代では、なくなったのです。
それでも自分が日本人だというためには、日本がどんな所なのかを、知っておく必要があります。
それは知識だけでなく、自身の体験が重要です。
同じように、私たちは地球人だと言うのであれば、地球についていろいろ知っておかねばなりません。
そして、地球上の全ての存在が、元は地球という星を構成している物質エネルギーで、できているという事実を、よく噛みしめるのです。
私たちの体は地球の一部なのです。
いわば、地球から分離して生まれたわけですね。
だから、私たち人間は、地球と切っても切れない間柄であり、地球も、他の生き物たちも、みんな家族関係にあるのです。
どんなに、あいつは気に入らないと言ったところで、その相手も地球の分身であり、私たちの身内です。
誰かを差別したり、いじめたりするというのは、自分自身を傷つけているのと、同じ事なのです。
人間は何でも自分を中心に考えてしまいます。
また、自分と自分以外のものを、完全に分けて考えようとします。
これは西洋科学の客観的に見るという姿勢が原因と思われますが、観察者と観察されるものの間には、何のつながりもないと受け止めているのです。
しかし、これは間違いです。
物質的にもエネルギー的にも、私たちは地球の一部です。
人間の姿、人間の思考、人間の能力を基準にして考えるので、他の生き物や存在たちが、奇妙に見えたり、生き物ではないように思えたり、人間より下等だと考えたりするのです。
地球の一部である人間に、心があるのであれば、他の地球の分身たちにも、心はあるとみるべきでしょう。
もちろん、地球にも心はあるのです。
ただ、見た目の姿に違いがあるように、それぞれの心の様子も、その存在によって異なります。
人の心を基準に考えると、そこに心なんか存在しないように思えるかもしれません。
しかし、心はどこにもあります。
相手に心の存在を認めたならば、その相手に対する人間の態度は、大きく変わって来るでしょう。
自然や地球環境に身勝手なことばかりするのは、そこに心が存在しているとは見ていないからです。
人間だけが特別な存在で、人間だけが知性を持ち、人間だけが何をしても許される、という考え方は、その考えを持つ人物の知性が、いかに低いかを示しています。
人間は知性を成長させる存在です。
それが人間の自然な姿なのです。
今の見かけ倒しの知性ではなく、本当の知性を人類が身に着けたなら、国というものは、単なる地方の名前に過ぎないものとなるでしょう。
地球上の全ての人が、同じように喜びに生きることができますし、誰かが苦しんでいることを、誰もが放っておけなくなるのです。
その時、私たちは自分たちのことを、地球人だと認識しているのです。