自分だけの世界 その2
あなたが現実と思って眺めている世界は、あなた自身の意識の中にある、立体映像の世界です。
ですから、何をどのように感じるのかは、全てあなた次第です。
たとえば、怪我や病気になっても、その感覚を遮断してしまえば、あなたは痛みも苦しみも感じません。
あなたが目を閉じれば、視覚情報は遮られます。
すると、あなたの世界は音と味覚と肌の感覚だけのものになってしまいます。
あなたが耳をふさげば、聴覚情報は遮られます。
すると、あなたの世界は視覚と味覚と肌の感覚だけのものになります。
でも、あなたがどんな世界を体験しているのかは、他の人には理解できません。
パソコンのバーチャル世界であれば、互いのモニターを見せ合うことはできますが、心の中の世界は、それができません。
ですから、誰もあなたがどんな世界にいるのかを知ることはできませんし、あなたも他の人の世界を知ることはできません。
互いに自分たちが同じ世界で、同じ体験をしているのだと、勝手に推測しているだけです。
世界が自分の意識の中にあると知れば、世界が自分の意識によって、創り上げられたものだとわかるでしょう。
元の情報が外から来たのだとしても、その情報を元に創られた映像や音、味や匂い、肌の感覚や温度などは、全て自分の意識が創り出しているものです。
自分のいる世界が、自分の意識で創られているということは、感情もまた、自分の世界を構成している要素の一つだと、理解できると思います。
多くの人は感情と世界は別ものだと受け止めているでしょうが、実際はそうではありません。
感情は世界を構成する、とても大きな要素なのです。
感情によって、あなたがいる世界は、天国にもなれば地獄にもなるからです。
自分だけの世界 その1
私たちは、一人一人が自分だけの世界を体験しています。
みんな、他の人が自分と同じ世界にいると受け止めています。
でも、それは正しくありません。
確かに、みんなは共通の世界を体験しています。
でも、それはそれぞれの感覚を通してであって、あなたが見ている誰かが、本当にそこにいるわけではありません。
あなたが見ているその人は、あなたの視覚や聴覚などの感覚で、あなたが捉えたその人の情報に過ぎません。
その人自身が、本当にそこにいるわけではないのです。
あなた自身を含めて、あなたが目にしている人々は、その人自身のアバターです。
バーチャル世界で自分のアバターを作り、そこで世界中の人たちと交流するのと同じです。
あなたも他の人たちも、本当はこの世界とは別の所にいて、それぞれのアバターに自分自身を投影しているのです。
パソコンやスマホなどを通して体験するバーチャル世界では、自分が体験している世界は、そのモニターの中にあります。
基本的には他の人のモニターにも、同じ世界が映し出されているはずですが、それぞれのモニターの状態によっては、映り具合が異なります。
また、どんな情報をモニターに取り込むかという、プログラムの違いによって、他の人のモニターには、映し出されていない要素が、ある人のモニターには映し出される、ということも可能です。
私たちが現実と受け止めているこの世界も、やはりバーチャル世界です。
眺めているのはパソコンのモニターではなく、あなた自身の意識の中にある、立体的なモニターです。
つまり、私たちはそれぞれの意識の中に創られた、立体映像の世界に、それぞれのアバターを自分自身として投影しているのです。
パソコンなどのバーチャル世界と異なるのは、この世界が立体であり、リアルな感覚で創られているということです。
また、いわゆるバーチャル世界は、人間が創ったものだという認識があります。
それは、この世界は本物ではないのだという理解につながります。
一方、この世界は人間が自分で創ったという意識がありません。
人によっては、神が創ったと考えています。
そのため、この世界を誰もバーチャルだとは思わず、現実だと受け止めているのです。
でも、よく考えれば、自分が見ている世界が、自分の意識の中にあるということが理解できるでしょう。
それが理解できれば、自分も他の人も、全員がアバターであるとわかると思います。
笑いの効能 その3
質の悪い笑いと、本物の笑いの違いを、風でたとえるならば、本物の笑いは自然の中にある風です。
一方、質の悪い笑いとは、フィルターのよくない掃除機の、後部から噴き出している風です。
風は風でも、心の汚れを吹き飛ばしてくれる風ではなく、却(かえ)って心の中に、目に見えないような埃を、撒き散らすような風です。
そんな笑いは、笑えば笑うほどに、心の中は汚れて行きます。
しかし、目に見えにくい汚れなので、本当は心が汚くなっているのに、当の本人はなかなかそのことに気がつきません。
でも、本当の笑いで、本当に心がきれいになれば、それまでの自分が汚れていたということに、ようやく気がつくことができるのです。
本物の笑いでは、誰も傷つくことがありません。
低級な笑いでは、必ず傷つく人がいます。
本物の笑いでは、誰かが笑われたとしても、笑われた本人も一緒になって笑うでしょう。
低級な笑いでは、笑われた人は深く傷ついてしまいます。
ところで、どうして笑うと楽しくなるのでしょうか。
それは、全く汚れていない心というものが、そういうものだからです。
私たちは、ただ存在しているだけで、幸せを感じられるようになっています。
子供を見て下さい。
いつも楽しいこと、嬉しいことを探していますし、大人から見てそんなことが楽しいの? と言いたくなるようなことでも、ずっと笑い続けています。
でも、成長して人間社会の中に組み込まれるにつれて、次第に本来の自分とは異なる価値観や考え方が、心に付着して行きます。
これが本来の自分を覆い隠して、喜びを感じにくくしているのです。
笑いは、そんな余計な考え方を吹き飛ばして、心を本来の状態に戻してくれます。
だから、本当に笑っている時は、何もかも忘れて楽しい気持ちで一杯です。
でも、笑いが止まると、すぐに元の汚れが戻って来ます。
なので、できるだけ笑える時間を作ることが大切です。
また、心の汚れとなるような考え方を、一つ一つ見つけて捨てて行くことです。
そうすれば、笑いが収まったあとも、心がすっきりした状態が続きます。
また、子供のように、ちょっとしたことで笑いが出て来て、いつでも楽しい気分になるでしょう。
楽しいことがないとか、嫌なことばっかりと思っている人は、自分の中のネガティブな考えを、捨てるように心がけましょう。
そして、自分の中にある子供心を表に出して、どんなことでも興味があれば、自分を抑えることなく、そこへ向かうのです。
ちょっとでも楽しいと思えば、遠慮なく笑いましょう。
人前であろうと関係ありません。
楽しいことを楽しいと感じることを制限しなければ、笑いは出やすくなります。
また、いろんな人たちが、懸命に生きている姿を見るようにすれば、励みの力をもらえますし、どんどん人間が好きになって行くでしょう。
それは他の人との心のつながりを強くして、多くの人と気持ちを共有することです。
気持ちの共有は笑いを生みます。
それも、大きな笑いを引き起こしてくれます。
笑いとは、本来の人間の姿、本来の自分の姿を、引き出してくれるものなのです。
笑いの効能 その2
笑いは心の中をきれいにしてくれますが、中には却(かえ)って心を汚す笑いもあります。
それは本来の笑いとは異なる、とても質の悪い低級な笑いです。
どんな笑いかと言うと、それは誰かを貶めたり、見下したりする笑いです。
誰かの顔や姿を笑いの種にしたり、誰かがひどい目に遭って、怒ったり泣いたり苦しんだりするのを見て、笑うものです。
それは、他人を思いやる気持ちの欠如を意味していますし、他人を下に見ることで、相対的に自分自身を上に見ようとする、自信の欠如でもあります。
人間が人として成長すると、自分以外の人の気持ちを、思いやれるようになります。
また、自分に自信を持って、誰の目を気にすることなく、自分を表現できるようになります。
それは人としての喜びですし、他人を思いやる気持ちを持っていますので、自分が好きなようにすると言っても、決して他人を傷つけるようなことはしません。
誰かの不幸を笑ったり、誰かを見下す笑いは、人間の成長という視点で見ると、かなり成長の度合いが低い状態と言えます。
もちろん、誰しもそんな笑いを経験したことはあるでしょう。
私だってあります。
だから、そんな笑いをしている人たちを、だめな奴だと決めつけて、見下したり罰を与えようとしてはいけません。
それは、その人たちがしているのと、同じことになるからです。
つまり、あなた自身がその人たちと、同じレベルになってしまうということです。
では、どうすればいいのかと言うと、その人たちに、本当の笑いを教えてあげることです。
また、人が苦しむのを笑いたくなってしまう、その人たちが置かれた状況を、変えられるように手を貸してあげることです。
そうすれば、その人たちは早くその状態から抜け出して、本当の笑いを追求するようになります。
そんな人が一人でも増えれば、それだけ世の中は明るく楽しいものになるでしょう。
笑いの効能 その1
笑うと楽しいですよね。
それに、嫌なことや悲しいことがあっても、思いきり笑うことができれば、気持ちがすっきりします。
いわゆる爆笑というものですが、文字通り爆発のような勢いで、笑いが飛び出すというものです。
ところで、この笑いというものは何だと思いますか。
今、ここで説明した内容から考えると、笑いとは、まるで心の中の大掃除をする風のようなものだと思いませんか。
笑いにもいろいろあって、微笑む程度のものから、くすくす笑い、噴き出すような笑いに、大爆笑。
涙が出るほど笑っていると、笑っている自分が、新たな笑いを呼び起こします。
誰もが笑いますので、笑いというものは、人間にとって、ごく当たり前のものになっていますよね。
だから、笑いについて真面目に考える人は、あまりいません。
でも、この笑いというものは、とても大切なものなのです。
大人であれ子供であれ、生きていると嫌なことや、悩むことがあります。
それを軽く流してやれればいいのですが、心にべったり貼りついて取れなければ、ずっとその想いが続きます。
嫌な気持ちや心配な気持ちなんかに、つきまとわれていたのでは、やりたいこともできませんし、楽しいはずのことも楽しめません。
そんな時、誰かのちょっとした仕草とか、思いがけない面白さに遭遇すると、自分の想いに関係なく、心の奥から笑いの風が飛び出して来ます。
その風が、心にへばりついていた嫌な想いを、吹き飛ばしてくれると、今まで嫌な気持ちだったのは、何だったんだろうと思うくらい、気持ちがすっきりします。
笑いがそれほど強くなく、嫌な想いを吹き飛ばすほどではなかったとしても、へばりついていたのを、剥がしやすくする力はあります。
剥がしやすくなったのであれば、あとは自分の力で何とかできるわけです。
このように、笑いとは心をクリーンにしてくれる、心の掃除屋さんなのです。
原爆の話 その4
アメリカでは広島や長崎への原爆投下は、戦争を早く終結させるためには、必要な措置だったと信じている人が、少なくないと聞きます。
でも、何故そんなことを言うのか考えると、恐らく原爆の恐ろしさや悲劇を理解しているからこそ、罪悪感から逃れたいのだと思います。
日本だって第二次世界大戦について、アジアを西洋列強国から解放するためだと、正当化する人がいますが、それが事実であるならば、どこの国の人たちも、日本が来たことを大喜びしたでしょう。
でも、実際には主が西洋人から日本人に変わっただけのことで、現地の人たちが真に解放されて、自由と誇りを取り戻したわけではありません。
それと同じように、アメリカの人たちも、自分たちの国が恐ろしいことをしたとは思いたくありませんし、自分たちに正義があると信じたいはずです。
それを、お前の国が悪いと決めつけて責めると、余計に頑なな態度を取り続けて、互いを憎む気持ちは膨れるばかりです。
でも広島も長崎も、原爆を落とされたことで、アメリカを責めません。
ただ、原爆の恐ろしさ、戦争の恐ろしさを伝えて、どこの国であれ、同じことが二度と起きないようにと願っているだけです。
だからこそ、アメリカの人の中でも、広島や長崎を訪れて、一緒になって原爆反対の声を上げる人がいるのです。
相手を責めるのではなく、何が問題なのかを示して、共にその問題を解決しようとする、広島や長崎の人たちの姿勢は、本当に素晴らしいと思います。
みんな、憎しみはさらなる憎しみを生むことを、深く理解しているのです。
でも、彼らの訴えや活動を逆手に取り、原爆さえ使わなければ、戦争をしても構わないという考える者が出ると、これは困りものです。
でも、実際に戦争あるいは内戦などを起こしている所は、自分たちがしていることこそが正義だと信じているでしょう。
そんな争いの中で、多くの人間が死ぬような武器を使うと、大量破壊兵器だと言って文句を言います。
確かに、一発で多くの人が死ぬような兵器は、とても恐ろしく思えます。
しかし、原爆を含めた大量破壊兵器で殺されようが、ナイフで刺されて死のうが、人が殺されて死ぬことは同じです。
片方は使えば非難されて、もう片方は容認されるというのは、どう考えても矛盾です。
通常の社会においては、どんな形であっても、他人の命を奪ったり傷つけたりすれば、犯罪として扱われます。
ところが、戦争においては、数多くの敵を殺せば、英雄扱いです。
国を護るためとは言え、やはりおかしな論理だと思います。
要は戦争が起きないようにすることこそが、何より重要であり、そのためには相手の言い分をとことん聞くことしかありません。
お互いに困っている点をさらけ出し、また、どうすれば相手の問題を解決できるのかを、お互いが考えるのです。
どの国も、自国民を助けるという立場で、物事を進めようとします。
だから、そこで利害関係が生まれ、話がこじれてしまうのです。
しかし、思いやりの精神で考えるならば、相手の国民の状況こそを、理解して考えてやるべきでしょう。
お互いにその姿勢でいれば、問題が大きくこじれることはありません。
頑固に見えるリーダーがいても、どんなリーダーが、本当に称賛を浴びるのかということを、何度も話して理解してもらうのです。
この時に、自分の方が正しくて、話し合いが自分の方に有利になるという立場で、話を進めようとしてはいけません。
一人の人間として話すのです。
でも、そのためには人間というものが、どういうものであるのかを、理解しておく必要があります。
こう考えると、人間とは何か、世界とは何か、という問題を、国全体あるいは世界全体で考えて、これまでとは違う、新たな人間像や世界観というものを、確立することが重要だと言えるでしょう。
原爆の話 その5
原爆はウラン原子を崩壊させることで、途轍もないエネルギーを解放させ、それを破壊力として利用したものです。
言い換えれば、私たちは世界を構成している原子の中には、それほどのエネルギーが閉じ込められているということです。
ところで、世界は私たちが知る今の世界だけでなく、多くのパラレルワールドが存在していることが、科学的にも示唆されています。
私たちが物質を観察できるのは、この世界の中に限られていますので、私たちが捉えている原子や素粒子の姿は、この世界限定のものです。
もし、この原子や素粒子が、実は他の世界とも共有されていたとしたらどうでしょうか。
原子や素粒子はそれぞれ振動していて、ある振動状態において、この世界を構築していると考えて下さい。
また、そこには別の振動も含まれていて、それが別の世界を構築しているとします。
そうすれば、その原子を破壊したり、そこにある素粒子を他へ解放したりすれば、それはこの世界だけでなく、その原子や素粒子を共有している、他の世界にも影響を及ぼしてしまうでしょう。
こちらの世界からは、他の世界のことなどわかりませんから、そんなこと考えても仕方がないと思うかもしれません。
でも、自分がマンションの窓から投げ捨てたコップが、下を歩いている人の頭に当たって、その人を大怪我させたり、命を奪うとなれば問題ですよね。
それと同じように、自分たちの世界からは見えないからという理由で、他の世界のことを考えなくてもいいのかと言うと、そうではないと思います。
ただ、こんな議論は、パラレルワールドの存在が絶対的だとわかることと、その世界とこの世界で原子や素粒子が、共有されているということが確認される必要があります。
ですから、今こんな話をするのは、あまり意味がないかもしれません。
しかし、世界がどのように構築されているのかと考えた時、そのような可能性もあるわけです。
可能性ということは、誰も否定はできないでしょう。
可能性がある以上は、原子や素粒子の扱いには、慎重であった方がいいと思います。
原爆の話 その3
一人一人が正しく考えられるようになれば、原爆は自然になくなります。
では、正しく考えるということは、どういうことでしょうか。
それは不安や恐れの原因を探り、自分たちが不安も恐れも、抱く必要がないと知ることです。
何故、不安や恐れを抱くのでしょう。
それは、相手が攻めてくるかもしれないとか、相手から何かひどい目に遭わされるかもしれないと、考えるからです。
しかし、肌の色が違っても、喋る言葉が違っても、崇拝する神が違っても、みんな同じ人間です。
今の見た目が違っても、元はみんな兄弟姉妹であったということは、考古学的にも明らかです。
それなのに、どうして争ってしまうのか。
それは見た目の違いが問題なのではありません。
自分だけが助かろう、自分だけがいい思いをしようという、他者を切り捨てるような発想が悪いのです。
かつては、誰かを踏みつけてでも、自分が生きるしかなかったという時代が、あったのかもしれません。
でも、今はそんな時代ではありません。
互いに手を取り合って、困った者を放って置かない。
これが今の知性あふれる人々の考え方です。
国同士は争っていても、個人レベルでは相手を敵とは見なさずに、互いに手を取り合って生きている人は、いくらでもいます。
しかし、地位や権力、お金や名声を手にした人たちは、それらを維持したくなりますし、より多くの同じものを、手に入れたくなるものです。
こうした人たちが世の中を動かす位置にいて、一般の人たちを翻弄させるのです。
でも、普通の人々が互いに助け合って生きるようになれば、こういう人たちの支配に入ることはありません。
世の中は本当の平和と安らぎに満ちたものになるでしょうし、どこかの国を敵と見なすような者がいれば、頭がおかしいと思われるでしょう。
原爆をなくすためには、どうすればいいのか。
それは一人一人が他者への思いやりを持ち、自分自身の誇りを取り戻すことです。
誰かの下につかなければ生きていけないという考えを、捨て去ることです。
今の若い人たちは、組織に入って上を目指すことよりも、気の合う者同士が集まった仲間といることを、好んでいます。
これからの企業は、そのようなスタイルの所でなければ、やる気のある人材が集まらなくなり、維持することが困難になるでしょう。
原爆をなくすための動きは、全然関係ないと思われるところで、実は違う形で密かに広がりつつあります。
若い人を中心に、もっと多くの人々が自分たちの生き方をするようになった時、意外に簡単に原爆はなくなることでしょう。
原爆の話 その2
原爆を持つようになった背景には、戦争になっても負けない国であろうとする、国の指導者や国民たちの意思が働いています。
その根底には、いつ戦争になるかわからないという、不安や恐れがあるのです。
どうしてそんなことを不安に思ったり、恐れたりするのでしょうか。
それは過去に領土を奪ったり奪われたりという、血で血を洗うような争いが、世界中の至る所で、繰り広げられて来たからです。
国土が狭い日本においても、かつては多くの城主がいて、互いの領土を奪い合っていました。
また小さな村同士でも、水や土地を巡って、人が死ぬような争いをしていました。
結局、戦争というものは、このような小さな集団同士の争いの、延長線上にあるわけです。
国同士の争いというのは、争う集団の大きさが、途轍もなく大きくなっただけです。
中身は小さな集団同士の争いと同じです。
集団というのは、大抵リーダーとなる者がいて、他の者たちは、基本的にリーダーの意見に従います。
みんなの話に耳を傾けるリーダーもいますが、自分の考えだけが正しいと信じるリーダーもいます。
みんなの話に耳を傾けるリーダーは、みんなが争いを望めば、戦いを始めます。
でも、みんなが争いは嫌だと言えば、戦うことをやめるでしょう。
一方、自分だけが正しいと信じるリーダーは、みんなを自分の考えに合わさせようとします。
どうしても合わない者たちは、粛正されるでしょう。
こうして、一応はみんなの意見だという体裁を整えて、自分の好きなようにするのです。
そうは言っても、自分に逆らう者たちが、あまりにも多くなり過ぎると、どんなに権力を振りかざしても、何もできなくなります。
戦争だって、兵士になるのをみんなが拒めば、やりようがありません。
つまり、一人一人の国民が物事を正しく考えることができれば、リーダーが誰であれ、戦争が起こることはないのです。
それこそが、世界から原爆をなくすための、唯一の方法です。
原爆の話 その1
毎年この時期になると、日本では広島や長崎に落とされた、原爆の話題になります。
悲劇を繰り返さないよう、この恐ろしい核兵器を、この世から消し去ろうという動きが活発になります。
確かに、原爆なんてない方がいいですよね。
戦争の抑止力があるという理由で、原爆を支持する人もいますが、単純な質問として、原爆があった方がいいかと訊ねられたら、全員がない方がいいと答えるでしょう。
つまり、原爆が残されているのは、戦争の危機から逃れたいという気持ちがあるからです。
核戦争になれば、地球がどういうことになるのかは、どこの国の指導者もわかっています。
ですから、どんなに多くの核兵器を持っていても、実際にそれを使うことはできません。
ただ、いざとなったらこれを使うからなと、今のロシアのように、相手を脅す道具として用いるだけです。
どちらに正義があるかに関係なく、一つ使えば、それでその国は滅亡するのは必至なのです。
そんな使えない、絵に描いた餅のような武器ならば、持っていても仕方ないと思うのですが、やはり最後の手段としてちらつかせることで、相手の攻撃をかわすことができるので、どうしても手放せないわけです。
原爆は恐ろしく危険なものだと、誰もが理解しています。
それで、原爆反対と声高に叫ぶ人が出て来るのですが、原爆を維持しようとする人たちには、彼らなりの理屈があるわけです。
そこから崩していかない限り、どんなに原爆反対を叫んでみたところで、原爆が放棄されることはないでしょう。
では、どうすればいいのでしょうか。
それは、互いに相手を敵国だと思わないようにすることです。
全ての国が友好国となったなら、原爆は自然と消えて行くでしょう。
原爆どころか、全ての軍隊が必要なくなり、あらゆる殺人兵器が放棄されるのです。
原爆に対して、反対を叫ぶことは大切です。
自分たちの意思を表明することだからです。
でも、そこばかりに集中していると、本当の問題が見えなくなってしまいます。
どうして原爆が生み出されることになったのか。
そこから考えていかなければ、本当の解決には結びつかないでしょう。