何かを本当に知るということ その2
田舎で生まれ育った人が、田舎が嫌で嫌で仕方がなくて、憧れていた都会で暮らすようになる話は、いくらでもあります。
そのまま都会に定着する人もいますが、都会というものを知ることで、それまで見えていなかった、田舎のよさというものがわかる人もいます。
そんな人は、再び田舎に戻り、かつては嫌だと思っていた田舎の仕事を、生き生きと楽しめるようになるのです。
仲が悪かった人がいます。
その人が突然亡くなったとします。
でも、仲が悪かったので、そのことを何とも思わないかもしれません。
しかし、目に見えないところで、自分がその人の世話になっていたことを、知る機会があれば、あなたの気持ちは変わるでしょう。
本当はその人なりに、あなたのことを考えていたのかもしれません。
本当はその人なりに、あなたのことを頼っていたのかもしれません。
本当はあなたを傷つけていたことを、その人は悔やんでいたのかもしれません。
そういうことを知ってしまうと、それまで忘れていた細々したことの中に、あなたを想うその人の気持ちを、見つけることになるでしょう。
それまで自分が、その人の表面しか見ていなかったことに、気づかされるのです。
学校に行きたいのに、事情があって行けない人がいます。
みんなと同じように勉強がしたいのに、それができず、自分だけが取り残されたような気分になって、落ち込む人もいます。
だけど、自分が出会った様々な人や、いろんな出来事から、多くの大切なことを学ぶことができれば、その人はきっと、本当の学びとは、学校の勉強とは違うのだと知るでしょう。
物事を違う視点から見つめるというのは、とても大切なことです。
いつも同じ視点から眺めていたのでは、本当のことは何も学べません。
何かができなくなった時、それで絶望する人がいます。
でも、逆にその状況を利用して、それまでできなかったことに挑戦する人もいます。
それが、そのままその人の、新たな仕事になるかもしれません。
元の仕事が再開できたなら、挑戦したことは、再開した仕事にとって、必ずや大きな力となるでしょう。
それまでやって来たことが、ある時に中断されたなら、それはそれまでの自分を見つめ直すチャンスです。
自分が本当にやりたいことは何なのか。
それまでやっていたことが、機械的になっていなかったのか。
流行に流されていなかったか。
これは、新しいことを始めるタイミングなのか。
自分は誰のために動いているのか。
そんなことを考えて、新たな一歩を踏み出せば、きっと何かが見えて来るでしょう。
そこにこそ、自分が本当に求めていたものが、見つかると思います。
何かを本当に知るということ その1
何かを本当に知りたい、極めたいと思っている時に、突然それができなくなることがあります。
そんな時、自分はこれがしたいのに、これを知りたいのに、どうしてできないのかと嘆きたくなります。
でも、何かを本当に知るということは、それが失われた時に、よくわかるものです。
あるのが当たり前、できるのが当たり前、と思っているうちは、それの本当の意味や価値は理解できません。
そこから離れたり、それを手放したりした時に、それまでとは違う場所から、それを眺めることになります。
たとえば、スポーツ選手が引退して、一般の人の立場から、そのスポーツを眺めるようなものです。
ただ、そのスポーツがしたい、みんなの注目を集めたい、と思っていると、それができなくなった自分が、哀れで情けなく思えるかもしれません。
でも、自分が活躍していたスポーツを成立させるために、多くの人が陰で動いてくれていたことを知ったり、スポーツを通して、多くの人が苦難に立ち向かう力を手に入れていたと知れば、自分がやっていたことの本当の意義を、理解できるようになるでしょう。
そうすれば、新たな立場、あるいは新たな環境の中で、同じ意義を持った活動をするようになるのです。
それはスポーツ選手とは、全くかけ離れたものかもしれません。
それでも、その人はその中で光り輝き、それこそが自分が求めていたことだと、知ることになるでしょう。
何かを極めようと思っても、その何かの正体がわからなければ、極めようがありません。
今の場所を離れて、違う視点が眺めることで、それまで見ているつもりで見えていなかった、何かの本当の姿が見えて来るのです。
でも、それまでの視点に固執しているうちは、自分を哀れむばかりで目が曇っています。
何かができなくなった時、それが自分にとって何であったのか、本当にそれは失われてしまったのかを、よく吟味してみることです。
幽霊と人間 その5
普段は流されて生きていても、何かつらい状況に出くわしたり、重い病気になったりすると、途端に意識はそこに集中して固定されます。
自分はどうしてこんな目に遭うのかとか、こんな病気になったらおしまいだ、などと考えて、その考えから抜け出すことができません。
それどころか、事態が今以上に悪くなるイメージを創り出し、自分はそうなってしまうのだと、思い込んでしまいます。
それは悲惨な死に方をした幽霊が、そのままの姿で出て来るのと同じです。
しかも幽霊と違って、24時間ずっとそのような意識を保ってしまうのです。
そうなると、その意識によって創られた歪んだ体が、本来の体に作用します。
意識が創った歪んだ体に、本来の体を合わせようとするわけです。
つまり、悪化すると思った病気は、予想どおりに悪化するということです。
では、頭の中で病気はよくなると考えれば、その病気はよくなるのでしょうか。
そうではありません。
病気がよくなると考えても、心の奥に病気が悪くなる不安を抱いていると、そちらのイメージどおりになるでしょう。
病気をよくすると考えることは、病気が悪くなるかもという不安と、表裏一体だからです。
本来の自分の体を取り戻すためには、病気のことを考えてはいけません。
病気は、あくまでも今の自分が、本来の自分ではないということを示す、サインに過ぎません。
大切なのは、そのサインの意味を理解して、本来の自分を取り戻すことなのです。
まだ、病気になっていなくても、日々の暮らしの中で、様々な不満やストレスを抱え続けていると、当然ながら心のエネルギーは、歪みを生じます。
また、嫌だなと思う気持ちは、嫌だと思っている世界に、自分の波長を合わせます。
つまり、歪んだ心のエネルギーが創った体が、物質的体と重なるわけです。
それによって、様々な体の不調が生まれて来ます。
いくら食事に気をつけても、いくら睡眠をとっても、いくら温泉につかっても、心が歪んだままであれば、体の不調は治まりません。
でも、嫌だと思っている心の波長を、うまく変えることができたなら、体の不調はけろっと治るでしょう。
もちろん、体に悪いことをしていなければの話ですけどね。
心の有り様が、体に影響を及ぼすことは、昔からよく言われていることです。
でも、どうしてそうなのかということが、うまく説明できなければ、みんなその話を軽く聞き流してしまいます。
幽霊の存在というものは、そこをうまく説明してくれていると、私は思います。
幽霊を恐ろしい存在だと思わず、そこから得られる知識を活用するべきでしょう。
何故なら、幽霊も元は肉体を伴った人間だったわけですから。
幽霊と人間 その4
幽霊と人間が、本質的に同じだと考えると、幽霊がしていることを、私たちも知らず知らずのうちに、やっていると考えられます。
幽霊は24時間いつでも姿を見せるわけではありません。
この世界に波長が合った時だけ、その姿を見せるのです。
でも、この世界の波長にどの程度合うかで、その姿の曖昧さが変わって来ます。
大体合っている程度だと、向こうが透けて見えるような、はかない感じの姿でしょう。
でも、本当にぴったり合っていれば、生きた人間と同じような体で現れます。
この状態を、生きている人間に当てはめてみるとどうでしょうか。
その人の心が、ぴったりとこの世界に波長が合っていたなら、その人の心が創った体は、元々ある体と重なり合い、体はその人の思いに応じたものとなるでしょう。
すなわち、充実した生き方をしている人の体は、健全な状態が維持されるということです。
菌やウィルスを寄せつけませんし、悪い環境にあっても、回復する力が強いのです。
ところが、心ここにあらずという感じでいると、姿が見えない幽霊と同じで、その人の心は体を創ることができません。
その人の体は、物質的な体だけになり、その人の心は体をコントロールできなくなります。
それでも、環境のいい所にいれば、問題はないかもしれません。
でも、知らないうちに体によくない物を飲み食いしていたり、汚れた空気を吸っていたりすると、体は徐々に汚染されて弱っていきます。
寝不足したり、過度の労働で、体を酷使すると、それも体を傷める原因になります。
そんな時にも、心は体をコントロールできませんから、体はなかなか回復しないでしょう。
多くの人は、自分はちゃんと生きていると、考えていると思います。
でも、本当に自分の人生を、自分の足で踏みしめながら歩んでいるのかと問われると、そうだと答えられる人は少ないのではないでしょうか。
ほとんどの人が、世の中の考え方に流されて、本来の自分を生きていないように見えます。
本来の自分を生きることこそが、この世界へ波長をぴったり合わせることになり、体も健康を保てるのです。
それでも、いつかは死が訪れますが、それはその人の人生のゴールです。
幽霊と人間 その3
世界には、私たちが暮らすこの物質世界だけでなく、他にもいろんな世界があります。
そこも、ここと同じような物質的な三次元世界かもしれませんが、物質という形態を伴わない、全く別次元の世界もあるでしょう。
形や姿というものを知らない世界から、この世界に生まれて来るとすれば、それはとても新鮮な体験であり、強い印象を持つことになるはずです。
この世界での体験に執着し、人によっては、その執着から逃れることができず、幽霊になってまでして留まろうとするのです。
その執着というものは、全てこの世界での体験に基づいています。
幽霊が姿を現すというのも、この世界で生きていたという経験があるからこそです。
一度もこの世界を体験したことがない存在は、幽霊のように姿を伴って、この世界に現れることはできないでしょう。
姿がある幽霊は、恐らく生きている時と同じ感覚があると思います。
その感覚が、幽霊の姿を生み出しているのです。
と言うことは、生きている幽霊である私たちも、物体としての肉体を伴っていますが、その感覚を元にした、幽霊のような肉体も、そこに重ね合わせて持っていると、言えるでしょう。
これは考えてみると、とても興味深いことですし、面白いことです。
私たちが肉体だと認識しているものの、半分の要素は、私たちの意識が生み出しているのかもしれません。
いや、多分そうなのだと私は思います。
それはどういうことなのかと言いますと、人間の意識が、そのまま肉体の状態に、影響を及ぼすということです。
病院では心と体は別物だと考えがちですが、実際はどちらも同じエネルギーですし、体を構成しているエネルギーは、意識のエネルギーによって、大きな影響を受けているわけです。
病は気からと言いますが、あれは真実を表している言葉でしょう。
本当に、病は気からなのです。
幽霊と人間 その2
生きた人間と幽霊は、本質的に同じです。
生きた人間は物体としての肉体を持っていますが、その肉体によって、いわゆるこの世に自分の波長を固定することができるのです。
だからこそ、私たちにとってこの世界は、とてもリアルでしっかりしたものに感じられるのです。
一方、肉体を失った幽霊の方は、この世への未練や執着などにより、この世の波長に近い所に留まっています。
でも、肉体がないので波長の維持は不安定です。
そのため、そこに幽霊がいたとしても、生きている人からは何も見えないし、何も感じることがありません。
ところが、波長が合う時には、そこに幽霊の存在を認めることになるのです。
たとえば、それはその幽霊がこの世を去ることになった時刻かも知れません。
あるいは、その時と同じ状況が生じている時かもしれません。
感受性が強くて、幽霊を見やすい人っていますよね。
こんな人は他の人と比べると、波長の範囲が少し広いのでしょう。
それで、幽霊の波長と合うために、幽霊を見つけやすいし、幽霊の方も引き寄せられてしまうのだと思います。
話を戻しますが、生きた人間と本質的に同じである幽霊は、その想念によって、ないはずの肉体を創り出すことができるわけです。
では、生きた人間はどうなのでしょうか。
人間には元々肉体があるわけですから、別に想念で肉体を創る必要はありません。
でも、実際のところはどうなのでしょうか。
幽霊と人間 その1
夏になると、お化けや幽霊の話がよく出たものです。
大概が怖いものとして話されますが、中には不思議なだけで、怖くない話もあります。
幽霊と言うと、この世への未練や怨念を持っているように思われますが、誰かに会うために現れる幽霊もいます。
そんな幽霊は全然怖くありません。
生きている人と全く同じ様子で、相手の人は、その人が死んでいると知っていない限り、幽霊だとは気がつきません。
相手に触れることもできるし、一緒に飲食をすることもあるようです。
でも、これって不思議だと思いませんか。
幽霊というものは、亡くなった人の意識です。
本来の体はないのに、本人の想いが具現化される形で、実体を伴うことができるのです。
悲惨な形で亡くなった人が、恐ろしい姿で現れるのは、亡くなる時の状態が記憶されていて、その時に意識が固定されたままなのだと思います。
生きている人でも、とてもつらい想いや苦しい経験をしている人は、どうしてもそこに気持ちが囚われてしまって、他のことが考えられなくなります。
怖い姿の幽霊というものは、そういう状態にあるのでしょう。
自分がすでに死んでいて、次のステージへ向かわねばならないと気がつくまでは、そのままの状態に留まるのだと思います。
ところで、ここで考えて欲しいのが、生きている人間と幽霊は、全く別物なのかということです。
生きている人には肉体があって、幽霊には肉体がない。
その違いはあります。
幽霊が自分の想念によって創る体はあっても、物体としての肉体はありません。
でも、人が死ぬということは、肉体から離脱する、あるいは肉体を失ってしまった状態にあるわけです。
それが幽霊の状態であるわけですが、幽霊に肉体を与えることができたとすると、その幽霊は生きた人間に戻るのですね。
何が言いたいのかと言いますと、私たち生きている人間も、その実体は幽霊と同じだということなのです。
幽霊と言うと、未練や怨念のイメージがつきますので、ここでは幽霊と言わず、単に霊と呼ぶことにしましょう。
幽霊も霊ですが、私たちも霊なのです。
物体としての肉体をまとっているか否かの違いがあるだけで、幽霊も私たちも本質的には変わりません。
わかりやすく言えば、私たちは肉体をまとった霊なのです。
自分だけの世界 その5
立体スクリーンの下の方に下がって行くと、世界を重苦しく感じるようになります。
あまりにも下がり過ぎると、その重さに耐えきれずに、何もすることができなくなります。
何かを考えることも嫌で、息をすることにもつらさを感じるでしょう。
色がついているはずの世界も、白黒世界のようです。
楽しいはずの音楽を聴いても、耳障りになるだけです。
立体スクリーンの上の方へ上がって行くと、世界がとても軽やかに感じられます。
それまでも、別に世界が重苦しいと感じていなかったとしても、上方の軽やかさを知ってしまうと、今まで自分がどれほど窮屈な世界にいたのかと、実感することでしょう。
また、それまでと同じ風景を眺めても、その風景の色がとても鮮やかに見えるでしょう。
別に眩しいわけではありませんが、全てが輝いているように感じるはずです。
それは、とても居心地がよく、何もしていなくても喜びを感じます。
自分が自分でいることの喜びと感謝の気持ちが湧き出て、誰に対しても祝福したくなるでしょう。
さらには、全てのものと自分がつながっているのだと、感覚的に理解することになります。
この世界は、自分と他のものを区別するように、構成されています。
自分が自分でいられるのも、自分が他とは違うという、この世界ならではの体験があるからこそです。
この世界に生まれて来る前は、自分と他のものとの境界が、とても曖昧だったと思います。
こちらの世界での二人の対話が、向こうの世界では、ただの独り言かもしれません。
そんな状態の意識にとって、個としての存在を体験できるこの世界は、とても興味深く魅力的でしょう。
でも、本来は全てとつながりを持つ存在が、全てと切り離された感覚を味わうと、それはとても苦しいものになります。
逆に、他の存在とつながりを感じることができると、そこに安心を感じます。
だから、人は家族や友だち、仲間を大切にしますし、求めます。
一人でも多くの人とつながりができれば、とても嬉しく思うでしょう。
つながりを感じる相手は、人間である必要はありません。
動物や植物、大自然なども、とても安心感を持たせてくれます。
全ての人、全ての存在、世界全体とつながりを感じることができれば、これはとても凄いことでしょう。
個としての自分を残しながら、自分と他の境界が曖昧な意識をも感じるのです。
そして、それこそが人間の成長であり、進化なのだと思います。
そのためにも、まずは自分の世界が、自分の意識の中にあると知ることが大切です。
そして、その世界をコントロールできるのは自分だけだし、自分にはその力があるのだと、信じるのではなく、知ることです。
自分だけの世界 その4
自分が立体スクリーンの、どの辺りにいるのかは、その時の感情が教えてくれます。
上の方に上がりたければ、まずは感情をコントロールする必要があります。
しかし、嫌なものは嫌だと思っていると、嫌なものに遭遇した時に、嫌だという感情に縛られてしまいます。
では、どうすればいいのでしょうか。
それは、自分が嫌だと思っているものに対して、何が嫌なのか、どうして嫌なのか、本当にそこには嫌と思う要素しかないのか、などという点について、深く吟味することです。
面倒臭がったり、向こうがよくないのに、どうして自分がそんなことをしないといけないのかと、反発心を持ったりすると、いつまで経っても嫌な感情から抜け出すことはできません。
何とかその場を切り抜けたとしても、似たような場面に遭遇してしまうと、またもや同じ嫌な想いに縛られてしまいます。
そして、嫌な想いを繰り返すうちに、あきらめ気分になってしまい、世界とは嫌なことばかりだと決めつけて、何もかもが嫌になってしまうでしょう。
だけど、どんなに絶望しても、誰も助けることはできません。
何故なら、自分の世界は自分自身で創り出しているからです。
世界を変えたければ、自分を変えろと言われますが、まさにそのとおりなのです。
自分の考え方、物事の受け止め方、その基準になる価値観を変えることができれば、世界は変わります。
それが困難な理由は、自分は間違っていない、自分は正しい、悪いのは自分じゃない、という思い込みです。
何が正しくて何が間違っているのか。
その判断は、物事をどの視点で眺めるかで違って来ます。
憎むべき敵だと思っていた相手にも、優しさがあり、大切にしている家族がいると知れば、その人への見方が変わって来るでしょう。
どうして、その人が嫌な態度を見せてしまうのか、本当はそんな態度を見せたくないのに、どうしてそうしてしまうのか。
その理由を知った時、あなたはその人を憎まなくなるかもしれません。
いずれにせよ、絶対的に正しいとか間違っているというものは、どこにも存在しません。
それなのに、自分は正しいと信じ込むのは、ある意味、とても傲慢なことです。
そこにこそ自分の苦しみの原因があるのだと、知らねばなりません。
それは自分で自分を否定するように思えてしまうので、とてもつらいことでしょう。
でも、本当の自分がどこにいるのかを理解すれば、自分が正当化しようとしている自分とは、単なる自分のアバターが持つ性格や考え方に過ぎないと、わかるはずです。
今の自分が本物の自分のアバターなのだとわかれば、そのアバターをどう変えるかは、自由自在です。
それによって、あなたにとっての現実世界は、居心地のいいものにも悪いものにもなるのです。
自分だけの世界 その3
感情が世界を構成する要素だとわかれば、落ち込んだ時に、世界がとても重苦しく感じる理由がわかると思います。
実際、落ち込んでいる時には、あなたは重苦しい世界にいるのです。
こう考えてみて下さい。
あなたが立体映像を映し出している立体スクリーンは、果てしない広さの空間です。
でも、海のように、下の方に下がると、周囲からの圧力を強く感じます。
もちろん、これは物理的な圧力ではありません。
心に作用する圧力です。
逆に上の方に上がると、圧力はどんどん少なくなり、ついには空を飛んでいるような開放感を得られるようになります。
でも、自分が立体スクリーンの上方にいようと、下方にいようと、目に映る世界は何も変わりません。
ですから、自分が立体スクリーンの中を、上下していることには気がつかないのです。
でも、これはパソコンのマウスをスクロールさせて、モニターに映る映像の色や質感を変えるのと同じです。
同じ映像を見ているはずなのに、マウスをスクロールさせると、映像の状態が変わります。
自分でマウスをスクロールさせていると気づいていない人は、どんどん変わって行く映像にうろたえ、元に戻す方法がわからず途方に暮れるでしょう。
でも、自分でスクロールさせているとわかっている人は、何かの弾みで映像の状態を変えてしまっても、すぐに元に戻すことができます。
それと同じように、自分がいる世界の状況が悪化したように思えても、自分が立体スクリーンの下の方に、下がってしまっただけだと理解ができる人は、すぐに上に戻ることができるのです。