不完全な完全 その1
人は自分にはないものに憧れます。
それは、そこに自分の知らない喜びや楽しみが、隠されているように思うからです。
運動が苦手な人は、スポーツが得意な人に憧れます。
勉強が苦手な人は、勉強を苦にしない人に憧れます。
仕事が苦手な人は、ベテランの人に憧れます。
歌が下手な人は、歌が上手な人に憧れます。
お金がない人は、お金持ちに憧れます。
権力がない人は、権力者に憧れます。
こういうみんなが憧れているものを、全て兼ね備えている人がいれば、その人は完全無欠の存在に見えるでしょう。
しかし、何が完全で、何が不完全なのでしょうか。
それは、それを決めるための基準があって、初めて言えることなのです。
基準がなければ、完全も不完全もありません。
その基準は宇宙の法則などではなく、誰かが勝手に作ったものです。
それも、その人に都合のいいように作っています。
そもそも、完全か不完全かと考えたくなる根底には、地球上に存在するものの中で、人間が最も素晴らしく偉大であるという、極めて傲慢な考えが隠れています。
自然が破壊されようがお構いなしに、好き勝手なことばかりするのが人間です。
自分も他の存在も、同じ地球の分身であり、兄弟であると理解していれば、とてもできないようなことです。
生きていくのに、他の生き物の命をもらうことに対しても、一欠片の感謝もありません。
その傲慢さは、人間同士の中でも発揮されます。
今の社会は、この傲慢さを基盤にして成り立っています。
みんな、自分が生き残ることばかり考えて、他の人のことを考える余裕がありません。
資本主義経済というものは、そういうものなのです。
全ての人が豊かな金持ちになるということは、資本主義経済では有り得ないことです。
誰かが貧乏でいてくれるから、金持ちが存在できるのです。
この資本主義社会の中では、多くの人が貧困に喘いでいます。
裕福な暮らしができるのは、ごく限られた人たちだけです。
競争社会なので、裕福な暮らしを手に入れるためには、いろんな手を使って、上へ登らなければなりません。
登ったつもりでも、いつ転落するかもしれません。
上に登れなかったり、登ったつもりが転落したりすると、自分は不完全な人間だと、思い込んでしまいがちになります。
それは、上に上がれないとだめだ、という価値観があるからです。
今の世の中で自信をなくし、自分に価値を認めることができず、身動きが取れなくなっている人が、少なくありません。
でも、それはゆがんだ価値観に洗脳されているのです。
自分を見る基準を変えてやれば、不完全だと思っていた自分が、完全に見えて来るはずです。
本当の試験 その4
試験の点数が悪い子がいたならば、本当は先生も、一人一人に丁寧に教えてあげたいと、思っているでしょう。
でも、それができないのが、今の教育現場の現状です。
決められた時間内に、決められただけの授業をこなさなくてはなりません。
それでついて来られない子供がいたとしても、それは仕方がないと見なされるのです。
結局、教育システムを作っている人たちの中には、本物の教育者がいないのでしょう。
また、子供は国の宝だと言いながら、本気ではそう思っていないのです。
あるいは、宝という言葉の意味を知らないのかもしれません。
未来を担うのは、今の子供たちです。
今の世の中がおかしいのを、変えて行けるのは、今の子供たちです。
それなのに、その子供たちを、今のゆがんだ教育体制の中で育てるというのは、矛盾ではないでしょうか。
学校は社会の縮図です。
試験というものも同じです。
決められた科目の点数で、その子の評価をするということを繰り返しながら、いい社会を目指すなんてことは、できるわけがありません。
国を変えるのは政治家ではありません。
子供たちです。
いろんなしがらみに縛られたり、私利私欲の塊になった政治家には、国を変えることはできません。
変えようとすると、かえっておかしくなって行くばかりです。
それでも彼らにできることはあります。
本気でやろうと思えばですが。
それはまず、子供たちに未来を託すという想いです。
この気持ちがなくては、何も始まりません。
そして、新しい世の中を作れるような子供が、育つ環境を整えてやるのです。
それでも、少数の政治家ががんばっても、なかなか物事は変わりません。
多くの政治家たちは変化を好みません。
これまでどおりのことを続け、自分たちが政治家である間に、大きな問題が起こらないようにしようとするからです。
今の社会の問題を認識していながら、そんなのは大したことではないと考えています。
大きな問題だと思っていれば、とっくに法改正するなどして、解決を図ろうとするでしょう。
でも、実際はそうはなっていません。
全ての問題が後手後手です。
子供の教育も、これまでどおりの社会を維持するのに、利用できる大人にするためのものだと、考えているのでしょう。
だから、いつまで経っても、同じことの繰り返しなのです。
でも政治家を選ぶのは、私たち国民です。
いい社会を作るためには、どうすればいいのか。
自分たちはどうあるべきなのか。
それを一人一人が自問しながら、子供たちが育つ環境を、整えて行くことが求められていると思います。
それがうまく進んで行った時、試験というもののあり方や価値が、今の試験とは全く違うものになっていることでしょう。
本当の試験 その3
子供の試験の点数が悪いと、大抵の場合、その子供は叱られたり、もっと頑張るようにと指導されます。
でも、子供は興味があることには、こちらが何もしなくても、自分でどんどん知識を吸収しようとします。
本当に好きなことであれば、寝るのも食べるのも忘れて、そのことに夢中になります。
そうして、親でも知らないようなことや、できないようなことを、さらっと言ったりやったりするのです。
それを見ると、親の方は、もしかしたらこの子は天才なのかもしれないと、思ってしまうのですね。
でも、子供とはそんなものです。
子供によって興味の対象は違うでしょうが、自分が興味を惹かれることについては、大人顔負けの力を発揮します。
大人が思いつきもしないような発想も飛び出て来ますので、いかに大人は考え方が硬くなっているのかを、思い知らされてしまいます。
こんな感じで、子供は興味さえ持てれば、放っておいても自分でいろいろ学びます。
試験で点数が低いのは、その子が、その科目に対して、興味を持てていないということです。
それは子供の責任ではなく、大人の責任、つまり先生の責任ということです。
自分が担当する科目の、本当の面白さを、その子供に伝えることができていないということですね。
また、子供がその科目に興味があったとしても、それでも点数が低い場合には、その子供は勉強の仕方がよくわからないということです。
どんな風にすれば覚えられるのか、それは一人一人違います。
それを全員まとめて同じやり方でしようとするから、そのやり方について行けない子供が、取り残されてしまうのです。
子供の試験の点数が低い時、反省すべきなのは、その子供ではなく、教える側の人間です。
だからと言って、悔やんだり自分を責めるのは間違いです。
じゃあ、どうやって教えるかなと、新たな面白いアイデアを、出せばいいのです。
教える側が楽しくなければ、教わる方も楽しくありません。
楽しくなければ、興味も持てませんし、何も頭に入りません。
それで試験の点数が悪くなり、それを責められれば、余計に嫌になるのは当たり前です。
点数が低いことで、誰かが責められるようなことは、あってはなりません。
子供にしても先生にしても、点数が低いからこそ、それを引き上げるための工夫や頑張りを、楽しめばいいのです。
試験は優劣をつけたり、評価をしたりするためのものであっては、ならないのです。
本当の試験 その2
大人が試験に見い出している意味とは、将来その子供が、給料をたくさんもらえる立派な企業で、雇ってもらうためというものでしょう。
そのためには、少しでも名の通った上の学校へ、入学させなければいけないと考えます。
それができれば、先生たちのお株も上がります。
子供が立派な仕事に就いて、安定した収入、それもできれば高額な収入が得られるようになれば、親は安心しますし、子供を誇りに思います。
逆に考えると、試験の点数が低いままだと、親は子供の将来を心配し、大した人間にはなれないかもと不安になります。
実際、子供がしっかりした仕事に就けないと、がっかりしますし、子供をなじったりもします。
自分の子供なのに、誇りに思うどころか、親であることを恥じ入るでしょう。
子供は子供で、親や先生の期待に応えようと、自分が嫌いな科目であっても、今度はもっといい点を取ろうとします。
でも、それでも点が悪くて期待に応えられないと、自分はだめなんだと思い込んでしまいます。
高校や大学への進学にも失敗し、就職もうまくいかないと、自分なんか何をやってもだめな、無価値な人間だと考えたくなるでしょう。
そこへ追い打ちをかけるように、親から冷たい目を向けられたり、あきらめを感じさせられたりすると、絶望しかありません。
試験とは、大人が子供を勝ち組と負け組に分けるための、ふるいになっています。
でも、本来の試験とは、そういうものではありません。
単に今の知識や技量が、どの程度なのかを確かめるだけのものです。
その結果がどうあれ、そこにいいも悪いもありません。
鏡をのぞいた時に、その時の自分の姿が、そこに映るのと同じです。
その姿が気に入らなければ、気に入るようにすればいいだけのことですし、それでいいと思うのならば、それでいいのです。
それを他人がとやかく言うのが、間違っているのです。
しかし、今の世の中の試験というものは、そんな感じです。
どんな姿であるべきなのかと、勝手に基準を決められて、その姿でなければ受け入れないぞ、という姿勢です。
それはおかしなことでしょう。
いろんなファッションが認められているように、いろんな点数の子供がいても、いいわけです。
その試験の点数が低くても、他の試験では、その子の点数はもっと高いはずです。
ただ、決められた科目の中に、その子が高得点を取れる科目が、入っていないだけのことです。
学校の試験が当たり前のように行われていますが、それは今の社会の縮図であることを、知る必要があるでしょう。
つまり、社会にとって都合のいい基準で、人間に優劣をつけて、それに従える者には褒美を与え、従えない者には苦しみを与える、というものです。
今の試験は、子供のうちから、大人の社会のあり方を、子供たちに身をもって教え込んでいるわけです。
本当の試験 その1
学校では試験があります。
試験では100点を求められます。
誰もが100点を取れませんから、100点を取った人は、みんなの注目を集めます。
100点を取ることは、すごいことだと言われますし、自分でもそう思うわけです。
逆に言えば、100点を取れなければ、自分はその程度なんだと、思うようになるかもしれません。
試験には合否判定というものがあります。
80点以上が合格ならば、80点以上あったら、100点でなくてもまぁいいかとは思えます。
でも、80点が取れなければ、自分はだめだなと思ってしまいます。
0点なんか取ってしまうと、恥ずかしくて誰にも言えないと思うでしょう。
親も先生も、子供に100点を取ることを求めます。
100点を取れば大喜びしますし、子供の方も鼻高々ですが、点数が低ければ、真逆の反応が示されます。
それで子供の方も、自分はだめなんだと自信を失ってしまいます。
でも、子供に100点を求めている親や先生が、子供と同じ試験を受けた時、果たして100点を取れるかどうかは疑問です。
英語の先生が英語の試験で100点を取ることはできるでしょうが、数学や国語、化学の試験などで100点を取れるかと言うと、まず無理でしょう。
親になると、全ての科目で子供よりも低い点になるに違いありません。
そんな試験に何の意味があるのでしょうか。
人生の目的 その5
この世界に生まれて来ることに、目的があると考えるなら、生まれて来る前にいた世界は、この世界とは様子が全然違うはずだと、わかると思います。
もし、生まれる前の世界が、この世界と同じであるのなら、わざわざこの世界に生まれて来る必要はありません。
この世界が存在しているということは、こことは全く違う世界が、あるということなのです。
では、そこはどのような世界でしょうか。
死んでみればわかるでしょうが、死んでしまうと人生も終わってしまうので、そこで理解ができても仕方がありません。
まだ人生を歩んでいる今、それを理解することが大切です。
もちろん、この世界にいるのですから、向こうの世界のことなど、直接的にはわかりません。
でも、推測したり想像したりすることはできます。
向こうの世界は、どのような所なのか。
それを知るためには、まずはこの世界の特徴を知ることが必要です。
何故なら、向こうの世界は、こちらの世界とは全く異なっているからです。
この世界の特徴として、まず挙げられるのは、自分と他のものが、明確に区別されているということです。
私たちは自分の体を持つことで、自分と他の存在を区別できます。
自分の感覚で、他の存在がどのようなものであるのかを、理解することができます。
でも、それは自分の体があるから、できることです。
体がなければ、自分と他の存在の区別は、曖昧になるでしょう。
そもそも姿がなく、心だけの存在となったなら、相手がどこにいるのか、わかりません。
そもそも相手というものが、理解できないかもしれません。
心と心の会話であれば、それは同じ心の中の、独り言かもしれないわけです。
また、この世界では、自分の思いもつかないようなものと出会ったり、全く考え方の違う人の存在を知ることができます。
時には、それが元で大きな争いになることもありますが、とにかく自分の心と波長の合わない存在を、この世界では知ることができるのです。
でも、心だけの存在になったなら、自分の波長に合うものとしか、意思疎通ができないでしょうし、それが本当に自分とは別の存在なのかは、知る由もありません。
自分と他の存在を区別できるのが、この世界の特徴ですが、同じように、自分ではない二つの存在を区別できるのも、この世界の特徴です。
だからこそ、私たちはこの世界に様々な存在を認めることができます。
もし、山と海の区別がつかなければ、私たちが知る世界は、今とは全然違うものになっているでしょう。
また、様々なものを区別できるということは、そこに大きさや距離などの、空間という概念が生まれます。
全てが区別できなければ、そこには空間としての概念は生まれません。
誰かのことを考えた時、その誰かの意識と自分の意識が即座につながったなら、相手が遠くにいるとは思わないでしょう。
と言うか、遠いという概念がありません。
いつでも必要な時に、必要なものとつながれるわけです。
つながるというのも、電話での会話とは違います。
空気を介して喋るのではないので、言語が存在しません。
互いの想いが、直接相手に伝わるのです。
ですから、言い間違いもなければ、誤解も生じません。
もちろん、嘘なんてつけません。
そんな世界の存在が、この世界に生まれて来たのだと、考えてみて下さい。
ありとあらゆるもの全てが、それまでの世界とは違います。
自分と他の区別に戸惑うでしょうし、空間の存在にも戸惑います。
何かを伝えたくても、言葉か動作にしなければ伝わりません。
それも瞬時に伝わるのではなく、順番に伝わるのです。
それに、言葉や動作では、本当の思いは正確には伝わりません。
それでも、それはとても刺激的で、何に対しても好奇心が惹かれます。
喜怒哀楽の全ての感情が、やはり新鮮であり、どれも貴重な体験です。
自分とは全く違う波長の存在を知るということも、驚きでしょう。
自分の体を使い、世界を体験するということは、それまでにない素晴らしいゲームであり、また自身の成長に、大きく貢献できる学校でもあるのです。
この世界でどんなにつらく大変な想いをしたとしても、向こうの世界からすれば、それも体験の一つであり、自分を成長させるための糧なのです。
そんな世界は、向こうの世界の存在からすれば、憧れるかもしれませんが、想像もできないような体験をすることに、躊躇することもあるでしょう。
今、この世界に生きている人は、どんな暮らしをしていたとしても、みんな勇者です。
この世界にチャレンジしようと飛び込んで来た、勇者なのです。
そのことを理解できれば、今の暮らしをどうするのか、これからどのようにするのかを、考える大きな力となるでしょう。
全てが曖昧な世界から、全てが分離された世界へ飛び込み、そこで改めて全ては一つなのだと知る。
このことこそが、人生というゲームの、最大の目的なのです。
この目的を達成できたなら、その人の意識は、このゲームに参加する前よりも、遙かに大きく拡張した意識となるでしょう。
それは、まさに意識の進化なのです。
人生の目的 その4
自分が自然の一部であり、世界の一部であると知ったなら、次の目的へ進みましょう。
それは全てが一つであることを、知るということです。
地球上に存在しているものは、全てが地球にある物質で構成されています。
つまり、どんなに違って見えたとしても、全ては地球の一部であり、分身だということです。
では、地球はどのように誕生したのでしょうか。
地球の誕生を考える時、太陽系の誕生を考えねばなりません。
太陽系が生まれたから、地球も生まれたのです。
太陽系が生まれるまでは、全ては星屑でした。
つまり、宇宙を漂う塵やガスなどだったわけです。
また、これらの塵やガスを産んでいるのは、宇宙全体の活動であり、全ては宇宙の誕生によって生じたものです。
それは、私たち全ての存在が、宇宙の一部であり、分身であるということを意味しています。
そこで考えねばならないのが、私たちには心があるということです。
言い換えれば、心こそが私たちです。
地球や宇宙の一部であり分身である、私たちにだけ特別に、心は存在しているのでしょうか。
そんなことは有り得ないでしょう。
それは人間は特別な存在だと信じたがる人が持つ、偏った考え方です。
もちろん、人間の心というものは、人間に特有の状態にあると思います。
でも、それは他の存在に心がないとう意味ではありません。
人間と違う存在には、それぞれに応じた状態の心があるのです。
動物であれば、まだ人間に近いと言えるので、心があると言われても、なるほどと思うでしょう。
でも植物や鉱物、水や空気、炎や光などに心があると言われると、信じられないと思います。
しかし、全てが宇宙の分身である以上、それぞれに応じた心があります。
人間がその心を把握できないだけのことです。
それでも、把握できていないはずの心とも、心が通じ合うことはあると思います。
人間同士、心が通じ合うというのはわかりますよね。
大切にしているペットや植物などとも、世話をしている人は、心が通じ合っているのがわかるでしょう。
では、命がないと思われている、水や空気、土や光などはどうでしょうか。
大自然を愛し、大自然の中にいることを好む人たちは、このような存在にも、心があると感覚的に理解していると思います。
自然の中に自分が溶け込むような感じというのが、まさに自然の心と通じ合っているのです。
自然の心には、人間が勝手に決めた利己的な価値観はありません。
ただ、あるがままを感じ、あるがままにいることに、喜びを感じているのです。
その心に触れ合うからこそ、悩みを抱えていたはずの人も、心がきれいに浄化されて、自分が自分でいることを認められるようになるのです。
全てが一つであることを知るというのは、本当の喜びを知るということなのです。
そして、それが人生の目的です。
人生の目的 その3
世界を探求して行くと、自分自身も世界の一部であることに、気がつくでしょう。
世の中には、自分が生まれる前からある、常識や価値観が蔓延しています。
なので、知らないうちに、それが当たり前のことだと認識し、世界とはそのようなものなのかと、自分で探求しないまま納得してしまうのです。
でも、自分が世界の一部だと気づくと、自分が従うべきなのは、世の中に蔓延している価値観ではないとわかるでしょう。
自分は世界の一部、自然の一部だと思えば、自然な存在としての自分について、考えるようになります。
それは自然な存在としての人間とは、どのようなものなのかということを、考えることです。
人間というものを考える時、性善説と性悪説という言葉に、出会うかもしれません。
人間という生き物は、生まれつき善なのか悪なのか、という話です。
誰にでも優しく思いやりのある人を見ていると、人間とは善の存在だと思ってしまいます。
一方で、人を傷つけても平気であったり、戦争で同じ人間である相手を、たくさん殺して喜んでいる姿を見ると、人間とは悪の存在ではないかと思いたくなります。
でも、自然界の中にも、殺したり殺されたりという状況はあるわけで、それを一つ一つとらえて、この生き物は善で、この生き物は悪だという表現はしません。
人間にとって都合がいいか悪いかで、その生き物のことを、いいとか悪いとかいうことはあります。
でも、それは人間の勝手な基準であり、自然には関係のないものです。
そう考えると、善か悪かという考え方も、人間が自分の立場で勝手に決めているだけだと、わかると思います。
自然の中に善も悪もありません。
善か悪かというのは、目の前に起こっていることを、どのような立場で判断するかで違って来ます。
善に見えることも、悪に見えることも、どちらも事実です。
その両方を考慮した上で、全体的な理解をしなければなりません。
ですから、自分はだめだ、価値がないと思いがちな人は、違う視点で自分を見つめてみたらいいでしょう。
そうすれば、自分ではだめだと思っていた点が、逆にいいものに見えて来ると思います。
また、自分が他人に都合のいい価値観をすりこまれ、それで自分を判断するように、思い込まされていたと気がつくでしょう。
世界がどんなものであるかを知る。
それに続く、第二の目的は、自分とは何なのかを探る、ということです。
人生の目的 その2
人生の目的とは、何でしょうか。
まずは、自分が置かれたこの世界が、どのようなものであるのかを、探ることです。
こういうことは専門家と呼ばれる人たちに、つい任せてしまいがちになりますが、大切なのは自分で理解するということです。
また、いくら専門家であっても、この世界を全て把握しているわけではありません。
あくまでも、その人の今の視点から見た世界を、理解しているに過ぎないのです。
ですから、専門家の世界観が正しくて、あなたの世界観が間違っている、ということは有り得ません。
科学的な説明ができるから正しくて、そうではないから正しくないというのは、とても偏ったものの見方です。
そもそもこの世界が理解できていないのに、どうして今の科学こそが、絶対的に正しいと言えるのでしょうか。
現代科学が説明している世界の特徴は、全体の特徴のごく一部です。
今の科学で説明できていないことは、いくらでもあります。
それらを非科学的だという言葉で、退けていたのでは、いつまで経っても、科学は進歩しないでしょう。
どんなに科学が進んだように見えても、実際は同じ所をぐるぐる回っているだけです。
それは孫悟空が宇宙の果てまで飛んで行ったつもりが、実際はお釈迦様の手のひらの上にいた、という話と同じです。
この世界を探るのに、必要なものとは何でしょうか。
それは好奇心です。
子供たちは好奇心に従って、どんなものにも興味を向けて、それが何なのかを確かめようとします。
子供たちが理解してる世界とは、学者が考える世界とは違います。
なので、つい子供の考える世界を、大人は軽視しがちになりますが、学者の方が見方が偏っているだけで、子供の方がより正確に世界を見ているのかもしれません。
世界がどのようなものなのか。
それは見る人の視点によって、様々です。
でも、その全てが世界全体の一つの側面を、表しているものです。
ですから、誰かの世界観が正しくて、誰かの世界観がおかしい、ということはありません。
世界の全貌を知るためには、一見矛盾するようなものも含めて、全ての世界観を統合して考える必要があるのです。
目の奥にある網膜には、光を感じる細胞が無数に並んでいます。
その一つ一つは、自分が感じた光の情報を、脳に伝えているだけですが、全体の情報を脳でまとめると、そこに映像が生まれるのです。
それと同じで、私たち一人一人の世界観は、それだけでは世界が何なのかを、知ることはできません。
でも、みんなの世界観を一つにまとめた時、そこに世界がどのようなものであるのかが、見えて来るでしょう。
その世界観に新たな好奇心を引き出された私たちは、もっと大きな世界観を求めて、世界を探求し続けることでしょう。
人生の目的 その1
人生とは何なのだろう。
どうして自分はここにいるのだろうか。
生きることに目的はあるのか。
こんなことを考えたことはありませんか。
ありますよね。
だけど、考えてもわからないし、周りの人たちは、そんなことなど気にしていない様子で、日常の暮らしに没頭している。
どうせわからないことだし、ま、いいか。
そんなことより、お金を稼がないとな。
こんな感じではないでしょうか。
でも、あなたが今ここにいるのは、理由があります。
ここにいる必要がなければ、あなたはここにいません。
では、その理由とは何でしょうか。
それは人生というゲームを体験し、楽しみ、そこに隠された秘密を探るためです。
お店でゲームを購入すると、大抵はマニュアルがついています。
今だと、紙のマニュアルではなく、オンラインのマニュアルでしょうか。
とにかく、ゲームの説明書というものがあって、多くの人はその説明書に従ってゲームを楽しみます。
中には、説明書なんか初めから無視して、訳がわからないままゲームを始める人もいます。
でも、ほとんどの人はゲームの説明を読んでから、ゲームの目的や、目的達成のための手段を理解し、それからゲームを始めるのです。
ゲームが終わってしまうケースは、2通りあります。
一つは、目的を達成できずに、途中でゲームオーバーになる場合です。
もう一つは、目的を達成して、ゲームをクリアした場合です。
どちらもゲームから離れることは同じですが、ゲームオーバーの場合は、悔しさが残りますから、もう一度やってやるぞ、となります。
ゲームをクリアした場合、面白かったから、もう一回やってみようかな、と思うこともありますが、もう十分に堪能したから、今度は別のゲームをしようと思うかもしれません。
いずれにしても、ゲームの目的も、目的達成のための手段も、理解されています。
それは説明書があるからです。
さて、では人生というゲームの説明書は、どこにあるのでしょうか。
実は、いつでもどこでも、それはあなたの目の前にあるのです。
また、あなた自身の中にも、きちんと書き込まれています。
ただ、そのことにあなたが気がつかないだけなのです。
子供のうちは、それがちゃんとわかっていて、みんな、自分の中にある説明書どおりに動いています。
でも、大人になるにつれて、説明書のことを忘れてしまい、違う方へ意識を向けてしまうのです。
何故、人生に疑問を感じるのでしょうか。
それは、自分の人生の目的から外れる道を進んでいるからです。
人生に疑問を感じる時、あなたは意識をしていないでしょうが、自分の中にある説明書と、自分がやっていることの違いを、理解しているのです。
だから、自分が置かれた状況に違和感を感じ、こんなはずではと思うわけです。
周りの人がどうしていようと、その人たちに合わせる必要はありません。
多くの人が、人生の説明書のことを忘れて、糸の切れた凧のように、風に飛ばされて宙を舞っています。
そんな人たちと同じことをするのではなく、自分の人生の目的を理解している人を、お手本としましょう。
数は少ないかもしれませんが、そんな方は必ずあなたの近くにいます。