洗脳を解く その5
何かに思い悩んで、身動きが取れなくなっている人。
そんな人は、自分を縛り付けてしまう価値観を、すり込まれています。
たとえば、ブラック企業に就職して、毎日の労働がとてもつらい。
仕事だけでなく、職場での人間関係も悪くて、そこを抜け出したいけれど、抜け出す自信がない。
自分なんかが、ここを辞めたところで、就職難の時代に、もっといい仕事が見つかるとは思えない。
自分には大した学歴もなければ、資格もないから、ここ以外の所で雇ってもらうのはむずかしい。
自分が辞めたら、他の人たちに迷惑がかかる。
そんな風に考えてしまうのは、そのように思い込まされているからです。
その考え方が、あたかも世間の常識であり、物事の真理であるかのように、受け止めてしまうと、それに合わない自分の方が悪いのだと、考えてしまうのです。
また、似たような職場を転々とすると、自分で取り込む情報は、どこも似たようなものになってしまいます。
これで、世の中はどこも同じだと決めつけてしまい、新たな仕事を探す努力を、放棄してしまうこともあります。
これも言ってみれば、集団による洗脳と言えるでしょう。
同じような考えを持つ者ばかりが集まっている所にいると、その人たちの考えが全てのように思えてしまうのです。
別に相手を洗脳するつもりなんかないでしょうけど、世の中なんてこんなもんだぜ、と先輩風を吹かせて新人に吹聴すると、その言葉は新人にとって、とても重い足かせになってしまうのです。
自分がゆがんだ価値観で洗脳されていることに、気がついていなくても、つらいものはつらいのです。
ですから、自分がつらいと思った時には、自分は何か洗脳されているのではないかと、疑ってみることです。
特に、自分が常識だと思っていることは、全て疑ってみることでしょう。
この世界に、本当の常識なんて存在しません。
常識というものは、あくまで地域限定、あるいはメンバー限定のものなのです。
今のつらい状況から抜け出すために、こうすればいいじゃない、と誰かが助言したとしましょう。
その時に、そうできればいいけれど、だってこうだからできないよ、と答えたとします。
この、だってこうだから、というここに、洗脳された考えが潜んでいます。
何でそう思ってしまうのか。
そこを突き詰めて考えてみるべきです。
そして、自分が絶対に従わなければならないと信じていた考えが、別に従わなくても大丈夫だとわかれば、その途端にその人は束縛から解放されて、自由になれるのです。
あの人がこう言ったからとか、昔からこうだったとか、どこでもこんな感じだ、なんていうのは、何の根拠にもなりません。
その考え方が採用された時には、それなりの理由があったかもしれませんが、時代や状況が変わってしまうと、その考えを持続する意味がなくなります。
それなのに、ずっとこうして来たからという理由で、同じ考えを未だに続けていることが、かなりあると思います。
たとえば、猛暑の中で水も飲まずに、運動を強要されることがあります。
指導者は、自分が若い頃は、この程度で水を欲しがったりしなかったと言います。
でも、昔と今では暑さが違います。
それに、暑い時に水を飲まないことを美徳とする考えが、我慢が美徳というゆがんだ価値観に基づいているのです。
他にもいろいろありますが、こんな感じで洗脳されたゆがんが価値観が、いろんな悩みや苦しみの原因になり得るのです。
洗脳を解く その4
教育と洗脳は違うという人がいます。
教育は何も知らないところに、教えるものであり、洗脳はすでにある価値観を洗い流して、新たな価値観を植え付けるものだ、と言うわけです。
一般的に言われる洗脳は、確かにそういう状況にあると言えます。
しかし、相手から思考能力を奪い、絶対的に支配者に服従させるものが洗脳だとすれば、教育の名を借りた洗脳があるのは、不思議なことではありません。
元々の価値観がない子供の方が、持っている価値観を捨て去る作業がいりませんから、洗脳は容易でしょう。
ましてや、子供が絶対的に信頼する立場の、親や先生からの教えであれば、何の疑いもなくその考えを受け入れてしまいます。
親にすれば、子供によかれと思って教えることでも、実は洗脳しているということはあります。
つまり、その親自身が洗脳されているわけです。
たとえば、男とはこうでなければならない、女はこうだ、という決めつけた考え方がそうです。
また、嫁は嫁いだ先の家族の世話をするものだ、というものもそうですし、その嫁をいびるのもそうです。
いびられた嫁は、自分が姑の立場になると、嫁をいびってもいいものだと思ってしまうのです。
でも、お嫁さんは大人ですから、いびられたところで、自分は姑になっても嫁をいびらないと、考える人もいます。
こういう人は自分の考えをしっかり持っているので、簡単には洗脳されないのですね。
でも、学歴がないと苦労するとか、お金がないと生きていけないとか、こんなのは洗脳でしょう。
学歴がなくても、立派に暮らしている人はいます。
お金がなくても、助け合ったり、いろいろ工夫をすることで、生きている人はいます。
人を支配しようとする人は、相手を不安に陥れて、自分の言うことを聞かなければ、大変なことになるぞと脅しをかけます。
それを信じ込んでしまうと、相手の思惑通りの生き方を、強いられることになります。
自由なようで自由はありません。
新型コロナに関しても、ワクチンを打たなければいけないという風潮が、国や専門家を中心に広げられ、多くの人たちがそれを信じました。
これも洗脳でしょう。
何度ワクチンを打っても感染する人がいるのに、それはワクチンのお陰で、その程度で済んでいるのだと詭弁を使います。
言われた方は、そうなのかと、またそれを信じてしまうのです。
でも、ワクチンを打たなければどうなのかがわからないのに、どうしてワクチンのお陰だと言えるのでしょうか。
ワクチンを一度も打たないのに、新型コロナに平気な人がいます。
それはどうしてなんだろうと、何故専門家の人たちが注目しないのかが、とても不思議です。
こういう人たちの情報を細かく調べれば、自己免疫の力を高める日常的な暮らしや方法というものが、見えてくるはずです。
それをしないでワクチン一辺倒なのは、ワクチンしか対策がないのだと、政治家も専門家も思い込まされているのでしょう。
つまり、彼らも洗脳されているわけです。
洗脳は知らないところで、行われています。
洗脳している側が、自分は相手を洗脳しているとは、気がつかないままのことがほとんどでしょう。
明らかなブラック企業や、怪しげな宗教団体などは、明らかに洗脳を行っています。
でも日常の暮らしの中で、誰かが何かをよかれと思って教えるものの中に含まれた洗脳は、なかなか見極めることがむずかしいでしょう。
また、明らかに洗脳をしているような、悪い人にしても、実はそのような考えを持つように、洗脳されていると言えます。
その人たちが、全く異なる環境で生まれ育ったならば、絶対に違う価値観を持って、現在とは別人になっているはずです。
洗脳が洗脳を産み出すシステムが、自動的に働いていて、誰がこのシステムを始めたかも、わからなくなっています。
そんな人物は、遙か昔に死んでしまい、今はこの世にいません。
今の状況について、本当の責任を追求されるべき人間は、どこにもいないのです。
でも、だからと言って、このままでいいはずがありません。
人は自分の思考を取り戻すべきです。
そのためには、何故自分がその価値観を取り入れているのか、きちんと理解して納得する必要があります。
そうしていれば、状況が変わった時に、価値観を変えることが簡単にできるからです。
洗脳を解く その3
国は発展して行くために、必要な教育を子供たちに受けさせます。
それは、現在ある体制を維持するのが目的です。
そのために有力な人材を育てなければなりませんし、国が指示を出した時に、みんながそれに従うようにしたいでしょう。
一人、もしくはグループが実権を握っている独裁国家では、その傾向が顕著です。
子供のうちから、権力に従順になるように仕向けるのです。
指導者に従わなければ、重い罰が科せられます。
それが他の者への見せしめにもされます。
その代わり、指導者に従う優秀な者は、お手本として褒められます。
優秀というのは、国に役立つ能力があるという意味です。
人類のために役立つという発想はありません。
国は国民のためにあるのではなく、独裁者のためにあるのです。
国民は独裁者のためにあるわけで、逆らうことは許されません。
私たちから見れば、ひどい話だと思うのですが、その独裁者を本気で信奉している人も、少なくないようです。
これはまさに洗脳教育によるものと言えるでしょう。
では、民主主義を掲げる国の教育は、どうでしょうか。
民主主義を掲げる国のほとんどは、資本主義の国であるとも言えるでしょう。
いわゆる独裁者がいない代わりに、お金を握っている者が、国を動かすと言っても、過言ではありません。
国は大企業を育てることが、国を豊かにすることだと考えていますから、大企業は税金などの面で優遇される立場にあります。
また、政治家が動くための政治資金というのも、結局はお金であり、多くの資金を出す者の都合が、政策に反映されやすいと言えるでしょう。
この体制を維持することが、国の使命であり、そのために子供が教育されるわけです。
新たな発想を持った子供が育って、今の民主主義や資本主義に変わる、新しい価値観の国を創るということは、今の政治家が望むものではないでしょう。
政治家が望んでいるのは、基本的に現状維持であり、その中でも少しでも他国より優位な立場に立つ、ということです。
はっきり言ってしまえば、子供たちはそのための駒として、育てられているのです。
でも、それは人間として自然な成長を促すものではありません。
子供が一人の人間として成長するための教育ではないのです。
もしそうであるならば、今の教育の中で、とりこぼされる子供がいるはずがありません。
自分に価値がないと考える子供がいるなんて、有り得ないことでしょう。
それでも、ほとんどの人が今の教育システムに疑問を抱くことはありません。
これが当たり前のものだと信じ、その中で、少しでも自分や自分の子供が優位に立てるようにと、がんばるばかりです。
これは、洗脳と言えるのではないでしょうか。
洗脳を解く その2
まだ世の中をよく知らない子供たちに、いろんなことを教えるのを、教育と呼んでいます。
字の如く、教え育てるわけですね。
幼い子供の教育は、まずは家庭で行われます。
それから、保育園や幼稚園などでも行います。
そのあとは、小学校、中学校と続き、大半の子供たちは高校へと進んで、そこでも教育を受けます。
年齢が増えるに従って、教える内容が変わって行きます。
初めは物事を理解したり、生活に困らないようにするための教育ですが、子供の思考能力の発達に伴って、学問を教えるようになります。
生まれたばかりの子供は、何も知りませんから、頭の中は真っ白な状態です。
そこへ、まずは家族から教えられるわけですが、基本は愛情です。
愛情があるから、親子や家族の間に信頼感が生まれ、子供は家族の真似をしながら、いろんなことを自ら吸収して行くのです。
保育園や幼稚園でも、子供が大好きな先生たちが、子供のことを想い、子供を楽しませながら、いろんなことを教えます。
子供も先生方を信頼して、ここでもいろんなことを吸収します。
ところが、小学校へ上がると様子が違って来ます。
ここでは学習が強制に変わります。
先生が子供好きであっても、上からの指示に従わなければなりません。
子供たちは言われたとおりの勉強をさせられ、点数が悪いと叱られます。
学年が上がるに従い、教える内容が高度になりますので、ついて行けない子供は、どんどん取り残されてしまいます。
この教育ですが、いったい誰のためにしているのでしょうか。
本当に、その子供たちのためだと言えるのでしょうか。
洗脳は、誰かを支配するために行います。
植え込まれた価値観を疑う力は、削がれています。
そのため、洗脳された者は、自分でその価値観を選んでいると信じてはいますが、どうしてそれがいいのかは、よく理解できていません。
自分で選んだのであれば、状況に応じて、自分で変更することができます。
しかし洗脳されていると、その価値観から抜け出すことができないのです。
今の学校教育は、いい大学に進んで、いい就職先を見つけるためにあると言えます。
学問の面白さを、子供たちに教えるためのものとは言えません。
子供たちは、何の疑いもなく受験競争に参加させられ、競争に負ける子供は、自分の人生をあきらめてしまいます。
すり込まれた価値観で、自分を判断し、自分には価値がないと思い込むのです。
本当は、すごい価値があるのに、そう思ってしまうのです。
これは、ゆがんだ価値観です。
この価値観で得をする者が、社会の上に立てるようになっています。
言い換えれば、社会を牛耳ろうとする者にとって、都合のいい価値観なのです。
子供のための価値観ではありません。
こうして自分に自信をなくした子供は、社会に出ると、大人の言いなりになってしまいます。
そこが環境のよい所であればいいのですが、ブラック企業などであれば、死ぬまでこき使われることになるでしょう。
学校の成績がよかった者たちも、結局は自分で道を切り開く教育は受けていませんから、社会に出ると、やはりいいように使われてしまうことが多いと思います。
勉強ができる者も、そうでない者も、結局はうまく利用されるようになっているのです。
今の学校教育は、そういう社会システムを維持するために、あると言っても過言ではないでしょう。
これは、はっきり言って洗脳です。
学問を教えるという形を取りながら、競争社会に取り込むための準備をしているのです。
競争社会が当たり前のことであり、そこを勝ち抜くことが人生だと、教え込んでいるのです。
これでは本当の教育とは言えないでしょう。
洗脳を解く その1
洗脳という言葉は、元々は中国から来た言葉で、朝鮮戦争で捕虜になったアメリカ兵士が、中国の収容所で共産主義を信奉するようになったという報告から、広まったようです。
wikipediaによりますと、勉強会での学習、集団学習会での自己批判、罪の意識の植え付け、罪を告白した者としない者への賞罰、によって強制的に思想を共産主義に改造したそうです。
一方で、マインドコントロールという言葉もあります。
こちらも心をコントロールされるという意味で、洗脳と似ているのですが、言葉の厳密な意味としては、両者は異なるものとされています。
洗脳の方が、強制的に違う思想や考えを持たせるのに対し、マインドコントロールの方は相手に強制とは思わせず、自然な形で相手にこちらの言うことが正しいと、信じ込ませるものです。
宗教で信者にされてしまう場合が、よく言われるマインドコントロールですね。
不安を抱えた人に、あれこれ不安を煽ったり、自分は味方だからと思わせたりして、信者に引き込んでしまうのです。
洗脳とマインドコントロールは、専門的には異なる状況に対して用いる、別の言葉ですが、本人の意図に反して、外部から影響を与えることで、その思考を変えてしまうという点では同じです。
手法が異なるだけの話で、やっていることは同じなのです。
強制的にやった場合、第三者の目で見ると、それはおかしいと言えます。
でも、自然に勧誘する形ですると、本人の自由意志に基づいてのことと、見られなくもありません。
それが詐欺事件などにつながらない限り、問題として取り上げられることはないでしょう。
そういう意味では、マインドコントロールと呼ばれる手法の方が、洗脳と呼ばれる手法よりも、巧妙かつ悪質と言えます。
辞書によれば、洗脳という言葉には、「その人の主義や思想を根本的に改めさせること」という説明もあります。
広義の意味で、強制的な洗脳とマインドコントロールを含めたものですね。
ですので、ここでは手法により区別をすることなく、誰かの思考を操作して、それが真実だと思い込ませる主義を、洗脳と呼ぶことにします。
すり込まれている思想こそが真実だと思い込んでいるので、他の考えを受け入れようとしません。
聞く耳を持たない状態にされてしまうのです。
ところで、洗脳と言うと、共産主義の強制的学習や、宗教の信者のイメージが強いですよね。
他にも、投資詐欺やブラック企業での過重労働なんかも、洗脳と言えるでしょう。
端から見て、どうしてそんなのに引っかかるのかとか、嫌ならやめればいいのに、と思うようなケースですね。
いずれも社会問題となるもので、本人をうまく誘導することで、その思考能力を奪いつつ、ゆがんだ考え方をすり込むものです。
いわば、その人自身の心を乗っ取って、自分の好きなように利用しようというものですね。
こんな事件がニュースになるたびに、多くの人が被害者は洗脳されたと考え、気の毒がるでしょう。
でも、洗脳されている人は、自分が洗脳されているとは、なかなか気がつかないものです。
事件を他人事のように思って見ている、その人自身も、実は何かの洗脳を受けているかもしれません。
いや、実際かなりの人が、自分では気がつかないまま、いろんな価値観を洗脳されているのです。
あなたの花 その3
自分の花を咲かせると言っても、それを具体的に見た場合、目立つ必要はありません。
花と言うと、艶やかな花や、印象に残るような花が、素敵に思えるかもしれません。
でも、それは見る人の価値観で違って来ます。
どんな花がいいのか、それは他人が決めることではありません。
自分が大きな花、派手な花が好きであるならば、そんな花を咲かせればいいのです。
目立たないような小さな花、地味な感じの花がいいと思うのであれば、そんな花を咲かせて下さい。
目立たない花が、目立つ花より劣っているということはありません。
目立とうが目立つまいが、必ず注目してくれる人はいます。
それが誰なのかは気になるかもしれません。
でも、そんなことを気にすると、花をうまく咲かせることが、できなくなってしまいます。
花とは自分らしさのことです。
誰かに注目されているかどうかを考えると、気が散ってしまって、純粋な自分を表現できなくなります。
誰も見てくれていないように思えても、咲かせた花の香りは、必ず誰かの元に届きます。
余計な心配はせずに、自分が自分であることに、夢中になって下さい。
他の誰でもない、自分であることに、喜びを感じて下さい。
あなたの花の香りは、遠い所にまで届き、顔も知らない人たちの心の中で、あなたの花の種が芽吹くでしょう。
また、あなたが知らない間に、あなたの心の中に、素敵な花の種子をわけてくれた、顔も名前も覚えていない人たちに、感謝の気持ちを送って下さい。
自分の花ではあるけれど、多くの人の共同作業でもあるわけですね。
あなたが、あなたの花を咲かせることは、多くの人の喜びでもあるのです。
あなたの花 その2
世の中は、人々に同じ花を咲かせることを、望みがちです。
日本人であれば日本人としての花を、アメリカ人であればアメリカ人としての花を、中国人であれば中国人としての花を、咲かせることを国民に求めます。
また、国民同士でもそれを互いに求め合う傾向があります。
それが、その国らしさを示すことになりますから、仕方がないことかもしれません。
しかし、人がどんな花を咲かせるのかは、その人自身に選択権や決定権があるのです。
他人が決めたり強制するものではありません。
日本人が日本人としての花を咲かせるならば、本人が日本人であることをよしとして、初めて咲かせることができるのです。
強制ではなく、本人の自由意志に基づいて、自然な形で咲くのです。
これを、お前は日本人だろうがと、日本人の花を咲かせることを強いられると、その人は花を咲かせることが、できなくなってしまいます。
これは国のことだけでなく、暮らしている地域でも言えることですし、性別や年齢、職場やサークル、家族など、あらゆることで言えます。
日本人として生まれ育ったはずなのに、中国に惹かれて仕方がないという人だっているのです。
逆に、イギリス人なのに、何だか知らないけれど、日本が大好きで、日本で暮らしているという人もいます。
体の性と心の性が異なる人もいます。
自分が男性なのか女性なのかも、よくわからないという人もいます。
みんなに合わせることができず、変わり者と言われる人もいます。
でも、それが自分であるのならば、その自分に忠実に生き、自分らしい花を咲かせるのが、人間として最も自然な状態です。
自然の花がそうであるように、人間も他人の目など気にすることなく、自分を存分に表現する花を咲かせればいいのです。
全ての人に認めてもらう必要はありません。
自然の花だって、人間に気づいてもらえない花がほとんどです。
人の目なんか関係ないのです。
そうは言っても、自分らしさの花を咲かせている人は、必ず誰かが見ているものです。
自分が見られていることに気がついていなくても、見る人は見るのです。
そして、その人の心にあなたの花は影響を与えます。
それが、あなたの花の種子です。
あなたの花の種子は、あなたが知らない所で、誰かの心の中で成長し、その人の花となって咲くのです。
もちろん、あなたの花と全く同じではなく、その人の心の中にある、他の花と混ざった形の花になります。
ある意味で、それは進化ですね。
あなた自身、多くの人の花の種子が、あなたの心で芽吹いて育ち、それらが混ざって、あなたの花を創っているのです。
いろんな人からもらった花の種子を育て、それらの花をあなたらしくまとめ上げて、あなた自身の花を咲かせるわけです。
まだ、自分の花を咲かせていないと思う人も、自分の中にある、いろんな人からもらった花の種子を、見つけることはできるでしょう。
これから、まだ新しい種子をもらうかもしれません。
そんな種子の様子を確かめたなら、自分の花がどんな花になるのかを、イメージすることができます。
まだ、今の状態では自分の好みの花にはならないと思うなら、好みの花を咲かせるように、新たな種子を自分からもらいに行きましょう。
今の自分が持っていない新しい種子を、すでに素敵な花を咲かせている人から、わけてもらうのです。
そうすれば、あなたの理想の花を咲かせることができるでしょう。
あなたの花 その1
植物は花を咲かせます。
花を咲かせる理由は、そこで受粉をして、新たな種子を産み出すためです。
その花には、いろんな種類があります。
大きな花もあれば、小さな花もあります。
赤い花もあれば、黄色い花、紫の花、白い花、青い花、ピンクの花。
模様がついた花もあります。
上を向いて咲くものもあれば、下を向いて咲く花もあります。
短い花もあれば、細長い花もあります。
香りも様々で、人間が好きな匂いもあれば、臭いと感じる匂いもあります。
長い間咲いているものもあれば、一日限りのものもあります。
毎年咲く花もあれば、何年かに一度だけ咲く花もあります。
本当にいろいろあって、全ての花を知り尽くすなどということは、普通の人間にはできないでしょう。
それほど花には、いろいろあるのです。
人間の目を引こうが引くまいが、植物はそれぞれの花を咲かせます。
つまり、人の目など花には関係がないということですね。
そうして多くの花が咲き誇ることで、私たちはいろんな美しい眺めを、楽しむことができます。
普段は目を向けないような場所に咲く花や、目に見えないような小さな花、滅多に訪れることのない所にある花などを、目にする機会があったなら、私たちの好奇心は驚きと感動で一杯になります。
種から発芽して根を張り、葉をつけて茎を伸ばし、花を咲かせて種を撒く。
この植物の一連の生長を、私たちの人生と比べてみて下さい。
おぎゃーとこの世に生まれて、いろんな経験を積みながら成長し、自分の存在を人々の心に残します。
これは植物が成長して、花を咲かせて種を撒くのと、同じに思えませんか。
そうです。
私たちの人生も、植物の生長も同じなのです。
私たちは一人一人が、自分の花を咲かせます。
それが人生の最終的な目的です。
それが派手な花であろうと、素朴な花であろうと、どれが一番ということはありません。
自分らしさこそが、花の美しさであり魅力なのです。
あなたは、どんな花を咲かせるのでしょうか。
あなたは、どんな花を咲かせたいですか。
不完全な完全 その3
空を飛ぶ鳥を見て下さい。
人間にはできないことを、すいすいとやってのけています。
人間は知性を基準にして、生き物の優劣を考えようとしますが、自由に飛べるかどうかを基準にすれば、鳥こそが最高の生き物で、人間なんて全然大したことがありません。
植物を見て下さい。
土と水と光があれば、自分で養分を創り出します。
動物はその養分をわけてもらうことで、命をつなぎとめることができるのです。
もし植物が存在しなければ、動物も人間もこの世界で生きて行けません。
どんなに人間が威張ったところで、食べるものがなければ、生きられないのです。
養分を自分でまかなえるということを基準にすれば、植物こそが最高の生き物で、人間なんて全然大したことがありません。
猛獣を見て下さい。
鋭い牙や爪、固いものでも噛み砕く顎の力、素早い動き。
どれをとっても、素手の人間では敵いません。
持って生まれた戦う力で判断するなら、猛獣こそが最高の生き物でしょう。
人間なんて、下の下です。
魚を見て下さい。
水の中でも素早く動き回ります。
鰓で水中から酸素を取り込めるので、水面に顔を出して息をする必要がありません。
水中での暮らしぶりで言うならば、魚こそが最高の生き物でしょう。
人間なんて、まるで話になりません。
自分たちには知性があると主張したところで、他の生き物たちから見れば、人間なんて、自分では何もできない不完全そのものの生き物でしょう。
でも、人間以外の存在は、完全とか不完全という概念を持ちません。
それぞれが、あるがままの姿で、自分たちの生きるように生きているだけです。
人は自然をよく観察し、自然から学ぶべきです。
何故なら、人間もまた、自然の一部だからです。
自分だけが特別だなんて考えは、捨てないといけません。
自分とは異なる存在を認めれば、世界は違ったように見えるでしょう。
また、自分とは異なる人々のことを認めれば、人間社会も違ったものになります。
不完全なように見えるから、いいのです。
それが個性であり、それが味というものです。
今の自分を受け入れ、今の自分にできることを考え、今の自分の中に幸せを見つけること。
それが自分が自分であるということであり、人間としての自然な生き方となるのです。
不完全な完全 その2
世の中には、自分さえよければ他の者がどうなっても構わないという、生き方をする人が少なくありません。
その元となっているのが、人間は地球上で最も優れた存在だという、とても思い上がった考え方です。
最も優れているものは、他の存在に対して、何をしても許される。
他の存在は、最も優れているものに利用されるためにある。
この思い上がりが、自然破壊や環境破壊を引き起こすのです。
このような考え方が、人間同士にも適用されると、自分勝手な行為となるわけです。
自分さえよければ、他の人たちがどうなったって気にしません。
お金を儲けることばかり考える企業は、どんなきれいごとを口にしても、この考えを元に動いています。
従業員や消費者のことなど、本気で考えてはいません。
個人的には、多くの人が自分は他の人の迷惑を考えている、と思っているでしょう。
でも実際は、世の中で苦しんでいる人たちに、ほとんど目を向けていないことも、少なくないと思います。
誰もが大なり小なりの傲慢さを持ち合わせています。
その傲慢さは、他人と自分を比較する競争社会を肯定し、何の疑いもなく受け入れてしまいます。
その結果、みんなが平和で楽しく暮らせればいいのですが、そういうことにはなりません。
勝ち組負け組という言葉に表されるように、笑う者がいれば泣く者もいるのです。
それが競争社会です。
今、笑っている者も、一生笑い続けていられるかというと、そうではありません。
ちょっと油断すると、あっと言う間に負け組に蹴落とされてしまいます。
笑ってはいても、心の底から笑う余裕などないのです。
ですから、恵まれた状況にいても、もっともっとと新たなものを求めようとするのです。
また、知らぬ間に競争社会に組み込まれて、自分が思うように動けなくなった人は、自分が不完全な人間だと受け止めてしまいがちになります。
お金がないとか、学歴がないとか、資格がないとか、才能がないとか、競争に勝てる人が持っているようなものが、自分には何一つないと嘆き、人生を悲観したくなります。
何をやってもうまく行きそうにない自分には、何の価値もないと考えてしまいます。
でも、それは正しい判断ではありません。
自分は完全ではないと、思い込まされているだけです。
そうすることで得をする人が、この社会には大勢います。
その人たちが、自分に都合のいい価値観を広めて、みんなの心にすり込んでいるのです。
逆の価値観で考えてみましょう。
お金がなくても、一人で生きて行けることこそが、人間として最高だとします。
そうなると、これまで社会を牛耳っていた人たちのほとんどが、最低の人間になるでしょう。
世の中に広まっている価値観なんて、そんなものなのです。
本気で信じ込んで、それで自分を追い詰めるなんて、馬鹿げたことです。
世界に完全というものは、存在しません。
完全でないからこそ、一人一人が違っていられるのですし、完全でないからこそ、進歩ができるのです。
その不完全さこそが、本当の意味での完全なのです。
つまり、あなたはあなたのままでいいのです。
誰に合わせる必要もありません。
自分の好きなように暮らしていけばいいのです。
あれがないと生きて行けない、これがないとだめだ、というのは妄想です。
そう思い込むのではなく、自分は何でもできると考え、とにかく行動を取ることです。
そうすれば、必ず道は開けるでしょう。