自分を生きる その5
自信を取り戻すためには、まずは自分と他人との比較はやめましょう。
誰かを低く見て、自分は大丈夫と思う人は、自分より高く見える人を見て、自分に落胆することになります。
誰がどのように見えても、それはその人の勝手であり、自由なのです。
その人がそのような生き方をすることを、敬意を持って眺めるようにしましょう。
そうすれば、自分自身のことも、敬意を持って見ることができるようになります。
それが、自信を持つということにつながるのです。
次に、何かをやってみても、うまく行かなかったからと言って、がっくりしないことです。
好きなことをするのに、失敗も成功もありません。
思ったとおりの結果が出るまでの、全てが楽しいのです。
また、そう思えるものでなければ、それが本当に好きだとは言えません。
成功や失敗という概念は、競争社会を成立させるために、創られたものだと受け止めて下さい。
競争しているわけでなければ、そんな概念は必要ないのです。
うまく行けば成功で、うまく行かなければ失敗ではないのかと、思いたくなるかもしれません。
でも、本当に好きなことを追求する場合、それを極めるということは、有り得ないのです。
これで完成となってしまえば、そこで終わってしまいます。
でも、何かを追求している人にとって、終わりはないのです。
やっていることの途中で、一つの目標を掲げた場合、それについての成功や失敗ということは、言えるでしょう。
でも、それは全体の流れの中の、ある状態を表現しただけに過ぎません。
多くの人が受け止めているような、成功は最高で、失敗は最低というような意味は、伴っていないのです。
なかなか前に進まないように見えても、その先に目的があるとわかっている人は、決してあきらめることはありません。
どうやって目的にたどり着くかということしか考えないのです。
失敗に見えることも、一つの大きな手がかりなので、それであきらめてしまうことはありません。
チャレンジするということ自体が楽しいのです。
人生は常にチャレンジの連続です。
これで完成ということはありません。
そんな人生を心の底から楽しめるのが、自分を生きるということなのです。
衣装と自分 その3
この世に生まれた時、私たちは何の価値観も、持ち合わせていません。
育つ間に、少しずつ価値観を増やして行くのです。
でも、みんながみんな、同じ価値観を持つわけではありません。
同じ環境、同じ状況の中にあっても、そこから見い出す価値観は、人によって違うものです。
ある程度の共通点はあっても、細かい所まで突き詰めて行くと、考え方は一人一人違って来ます。
それが、その人の個性を作って行くのです。
他人をやたらと批判したがる人は、自分を思ったように表現ができていません。
自分が制限された状態にあるので、同じ状態にない者を見ると、腹が立つのです。
では、そんな人たちを目にしなければ、腹が立たないのかと言うと、そういうわけではありません。
やはり、自分が制限されているわけですから、楽しいはずがないのです。
衣装で言えば、サイズが小さ過ぎてぴちぴちで、全身が締め付けられ、縛り上げられた状態です。
それが決められた制服だと言われて、無理やりそんな格好をし続けることが、どれだけ苦しいかは、想像できると思います。
そこに、自由でラフな格好をした者が現れて、楽しく過ごしているのを見せつけられると、腹が立つのもわかるでしょう。
それは、その人たちに腹を立てているように見えますが、実はずっと抑えていた自分の苦しみを、爆発させたに過ぎません。
合わない衣装が苦しくて嫌ならば、別の衣装に替えるように動けばいいのですが、それができなければ、ずっとつらい思いをするばかりです。
それと同じように、自分が押さえつけられていると感じながら、それを受け入れてしまっている人は、自由にしている他人が許せません。
自分が受け入れている、ゆがんだ価値観を手放せばいいのですが、その価値観を手放すことが怖かったり、それが自分の一部だと思い込んでいると、どうにもできなくなるのです。
自分の個性を重視するあまり、手放すべき価値観を手放せないのは、自分に合わない衣装を着替えないのと同じです。
表面的な個性よりも、何の価値観も持たない、無垢な自分こそを重視するのが重要なのです。
自分を生きる その4
自分を生きている場合、そこには本当の満足感と充実感があります。
周りに流されて生きていても、それなりの喜びや楽しさはあります。
でも、それらは刹那的で長続きはしません。
また、喜びの深さも表面的で、深い感動は得られないでしょう。
それに対して、自分を生きている時に得られる満足感は、ずっと持続して途切れることがありません。
また、そこから得られる喜びはとても深く、他のことを忘れてしまうほど、そのことに没頭したくなるものです。
そんなの、あったらいいけど、滅多にあるものじゃないよ、と言う人はいるでしょう。
また、そんな経験ができるのは特別な人であって、自分にそんな機会も才能もないと、受け止める人もいると思います。
でも、そう思ってしまうことこそが、思考的な束縛なのです。
人間はみんな同じです。
誰にも、ここで述べたような喜びを、体験することはできます。
でも、そのためには自分自身を知らなければなりません。
自分が本当に何を望んでいるのかを知らなければ、どの方向へ進めばいいのかがわかりません。
自分は平均的な人間、あるいは平均以下の人間なので、特別な人のような人生は送れないと、みんな子供の頃から、思い込まされているのです。
大きな力、大きな権威に、従順に従って、それらの力や権威のために働くよう、自分には特別なものはないと、信じ込まされているのです。
何でも他人と比較させ、点数を競わせ、結果が伴わなければ、嫌な想いをさせられる。
こんな状況に文句を言うこともできず、それが当たり前であって、それに馴染めなければ自分が悪いと思わされることで、多くの人が自分への自信を失うのです。
自分を生きることではなく、少しでも力がある企業で仕事を分けてもらい、細々と生きて行く道を選ぶのです。
と言うか、それしか道がないと考えてしまうのですね。
でも、自信を取り戻すことができたなら、これまで自分が信じていた生き方や考え方が、全てまやかしだったと知ることができるでしょう。
では、どうすれば自信を取り戻すことができるのでしょうか。
自分を生きる その3
自分を生きているつもりでも、本当にそうなのか。
それは、どうすればわかるのでしょうか。
それは、自分が人生の主導権を握っているという、自覚が伴っているかどうかでわかります。
どんなに些細なことであっても、自分で選んだことであれば、誰かのせいにすることはできません。
たとえ、何かの事故に巻き込まれたとしても、その状況へ足を踏み入れた責任は、自分にあるわけです。
それを、あいつが悪いとか、あれのせいでこうなった、などと言っているうちは、自分が人生の主導権を握っているとは言えません。
自分の責任を認めない限り、自分で人生を歩むことはできないのです。
それは、自由がないということです。
ほとんどの人は、自分が自由に生きていると、考えているかもしれません。
でも実際には、様々なことで制御されて、自分が思ったとおりには生きていません。
たとえば、お金がなければ生きていけないから、まずはお金を稼ぐことが重要だと、信じ込まされたとしましょう。
すると、この人はお金を稼ぐことに懸命になります。
自分がやりたいことがあっても、まずはお金を稼ごうとするわけです。
しかし、お金がなかなか貯まらなければ、いつまで経ってもやりたいことはできません。
結局、死ぬまでの間、ずっとお金稼ぎのことにばかり、時間と労力を費やしてしまい、やりたいことは一つもできなかった、ということも十分あり得るのです。
物理的には、この人は自由な状態にありますが、思考的にがっちりと束縛されて、自由に動けなくなっていたわけです。
そんなこと言ったって、お金がなければ何もできないというのは、事実ではないかと、反論したくなる人もいるでしょう。
でも、本当にそうだと、何を根拠に言えるのでしょうか。
世の中に暮らす人の全てを、知っていると言うのでしょうか。
世の中には、いろんな暮らしをしている人がいます。
また、何を望み、何に満足するのかは、人それぞれです。
それなのに、楽しいというのはこういうことだと、決めつけられて、そうだと信じ込んでしまうと、確かにそれはお金がなければ、できなくなるでしょう。
でも、それが全てではないということを、理解しなくてはいけません。
自分が本当に望んでいることが、何であるのかを知らない限り、自分の好みでさえも、情報によって操作されてしまう可能性はあるのです。
自分を生きる その2
今、自分がいる世界が、立体映像のバーチャル世界だと考えてみて下さい。
あなたが自分だと思っているのは、バーチャル世界に属している、あなたのアバターです。
映画はスクリーンの中で、物語が進行します。
観客は座席に座って、その映像を眺めながら、そこに登場する人物と自分を重ね合わせ、笑ったり泣いたり怒ったりします。
でも、いくら登場人物と自分を同一視したところで、スクリーンの中に展開される物語を、どうこうすることはできません。
そこに悲劇が描かれていたならば、登場人物と一緒に、その悲劇を体験することになります。
自分を生きていない人たちは、この映画の観客と同じ状態にあると言えます。
あなたのアバターは、あなたが何も指示を出さなくても、規定の思考に従って、決まったような行動をします。
平日と休日では、思考や行動に変化が見えますが、それは規定の範囲内です。
自分で考えて動いているようでも、普段の考え方や価値観を基盤とした、自動的な動きに過ぎません。
それをあなたは、自分が考えて動いているような気持ちで、アバターと共に体験するのです。
世の中に大きな問題が起きたなら、あなたのアバターは右往左往します。
ルーティンとは異なる状況に、どう対処すればいいのかわからないからです。
それは、アバターと自分を同一視している、あなたの体験となります。
そして、目の前に起きている状況に、何も対処できないことに、絶望と無力感を感じるのです。
でも、ゲームの主人公を自分で操作するように、アバターを自分の意思で、好きなように動かすことができたなら、状況は一変します。
大変なことが起こっていれば、そこから逃れることもできますし、それに何らかの対処をすることもできます。
また、自分が好きなようにアバターを動かすわけですから、自分が望むようなことを、アバターを通して体験することができるのです。
映画の中の悲劇に対し、ただ涙を流して眺めているのではなく、本当に映像の中の登場人物になって、物語の展開に変化を加えることができたなら、悲劇は悲劇でなくなるでしょう。
自分を生きるということは、そういうことなのです。
自分を生きる その1
自分を生きるというと、どういうことでしょうか。
みんな、自分は生きているぞと思うでしょう。
でも、それは本当に自分を生きていると言えるのか、という話です。
自分を生きるということは、自分の人生を自分の足で歩むということです。
そんなの当たり前じゃないかと、言われるかもしれません。
でも、本当にそうなのかは、一度確かめて見た方がいいでしょう。
人生を自分の足で歩んでいるつもりでも、実際は決められたレールの上を、決められた乗り物に乗せられて、移動しているだけかもしれません。
動いていれば、周りの風景が変わって行くのは、自分の足で歩もうと、決められた乗り物に乗っていようと、同じ事です。
違うのは、見えている世界に何かが起こった時に、それに対して柔軟に対処できるかどうか、ということです。
自分の足で歩んでいるのであれば、何があっても、それに応じて好きなように動くことができます。
しかし、レールの上の乗り物に乗っていれば、そこから逃れることができません。
レールの先に大きな壁や大きな穴があったなら、迫る危機に叫びながら、他の乗客たちと一緒に、そこへ真っ直ぐ向かうばかりです。
これは大きな違いです。
自分は本当に、自分を生きているのか。
一度は確かめて欲しいと思います。
花の不思議 その3
人間は心と体を別物だと考えています。
心の存在を認めるにしても、体は物質で、心は物質ではない、全く別のものと受け止めています。
でも、物質という見方をするのではなく、どちらもエネルギーだと考えてみて下さい。
エネルギーの質が異なるだけで、どちらもエネルギーなのです。
また、双方のエネルギーは密接に関わり合っているのです。
ですから、心の不調が体調不良を引き起こしたり、体の具合が悪いことで、精神が不安定になるわけです。
両者は質の異なるエネルギーですが、互いに影響を及ぼし合っているのです。
同じように、植物や昆虫を見た場合、植物や昆虫にも、目には見えない形のエネルギー、すなわち心というものがあるわけですね。
物質的な形態を取ったエネルギーの方では、互いに意思疎通ができなくても、心のエネルギーの方では、意思疎通ができると考えてみて下さい。
二つの心が交わって、そこに双方が喜ぶような生き方というものが、生まれても不思議ではないと思いませんか。
人間で言えば、生まれ育ちや考え方の異なる人々が集まって、共同のサークルを創るようなものです。
一人一人は違っても、それぞれに喜びが生まれるような、楽しい暮らし方というものを、みんなの想いを寄せ合って、生み出すのです。
それと同じ事が、植物と昆虫の心の間で為されていると考えれば、どうして植物が蜜を伴う花を作り、それに呼び寄せられた昆虫が、その花を受粉させるのか、という理屈が見えて来ると思います。
花の蜜を求める小鳥もいますが、こちらも同様のことが、起こっているのかもしれません。
花と同じように、昆虫の擬態も不思議ですよね。
でも、これにしても今のと同じように考えたなら、説明がつくと思います。
植物と心を共有した昆虫が、その植物の心が物質的な姿を生み出すパターンを、自らの中にも取り込んで、その植物によく似た模様や姿を創るわけです。
花や昆虫をただ眺めるのではなく、そこに心の存在を認め、花と昆虫が心を通わせていると思いながら眺めると、見えているものが、それまでとは違ったように見えるでしょう。
それは、世界に奥行きを感じさせるものです。
花の不思議 その2
人間の普段の見方を離れて、生き物をとらえてみましょう。
まずは、植物にも昆虫にも心があると、理解するのです。
昔の人は、一寸の虫にも五分の魂、と言いました。
これは、とても大切な受け止め方だと思います。
昔の人は、山や森、大木や巨石などにも、魂が宿っていると考えていました。
今では、そんなのは根拠がない迷信だと思われていますが、私は昔の人の考え方の方が正しいと思っています。
根拠がないという時、現代科学で説明できないとか、科学の理屈に合わないということが、暗に主張されています。
しかし、人間の科学が宇宙や世界を創ったわけではありませんし、宇宙の神秘のほとんどを、今の科学は解き明かせていません。
ということは、宇宙のほとんどすべてを、私たちは否定しなくてはいけなくなります。
私たち自身の存在だって、今の体の仕組みや、構成元素がどんなものかぐらいしか、わかっておらず、どのようにして人間が現れたのかは、未だに謎でしょう。
また、私たちの本質と言える心でさえ、科学では明らかにされていません。
物質ではないものは、科学の対象外にされてしまうのです。
つまり、科学の立場から言えば、私たちの存在自体がまやかしであり、有り得ないわけです。
自分は存在していると思っているだけで、本当は存在していないのだ、ということになるのですね。
でも、そんなことを言えば、科学自体が存在し得ません。
科学が存在するということは、科学を生み出し理解する、心が存在していることは明らかです。
こんな面倒くさいことを言わなくても、誰もが自分の存在を理解していますし、自分の本質が心だということもわかっています。
それなのに、その心がどのようなものかがわからず、物質と呼ばれるものにばかり、意識を向けているので、植物にしても昆虫にしても、五感で認識できる以外の部分は、存在しないと決めつけてしまうわけです。
それでも、ペットや植物を愛している人にとっては、可愛がっている動物や植物にも、心があることは当たり前です。
でも、ペットや植物の世話をしていない人でも、植物や昆虫にも心があるのだと、考えてみて欲しいのです。
花の不思議 その1
花は受粉をして、種子を作るためにあります。
風によって受粉する花もありますが、昆虫や小鳥などを通じて、受粉する花も多いですね。
花の蜜を求める昆虫や小鳥が、花の中に触れることで、雄しべの花粉が雌しべに引っ付くという仕組みです。
でも、植物はどうやって受粉に、他の生物に協力してもらうようになったのでしょうか。
植物が勝手に育つばかりで、周囲のことがわからないのであれば、このようなことは起こらないでしょう。
つまり、昆虫と土くれや、飛んで来た枯れ葉などと、区別がつかないのであれば、昆虫を誘き寄せるような仕組みも、生まれなかったはずです。
昆虫を昆虫と認識しているからこそ、その昆虫を呼び寄せるようになったのです。
また、蜜で昆虫を呼び寄せるということは、植物は昆虫が蜜を好むことを、知っているということです。
でも、どうやってそんなことを知るのでしょうか?
人間を基準にして考えると、この謎は理解ができません。
植物には脳がありませんから、植物は思考などするわけがないと、受け止める人が大半です。
また、植物と昆虫は全く異なる生き物ですから、互いに意思疎通を行うなんて、誰も思わないでしょう。
そもそも植物に意思があるのかさえ、疑わしく思われているはずです。
こうなると、できる説明は、偶然という言葉だけです。
何らかの理由で、花の中に蜜ができた植物があり、それによって昆虫が誘き寄せられて、その植物の花は、他の花と比べて、効率的に受粉することができた、というような説明でしょう。
でも、稲の花は風で受粉しますが、たわわに実った稲の穂を見ると、決して受粉の効率が悪いとは思えません。
また、蜜によって昆虫を呼ぶ花は、数え切れないほどありますが、ある植物の花だけが、偶然に蜜を作るようになったのであれば、今のように多くの花が蜜を持つことはなかったでしょう。
それでは、偶然とは呼べません。
昆虫を呼ぶ花には、蜜だけでなく、色や香りもあります。
人間が見てもきれいな色であったり、かぐわしい匂いの花も多いですが、そうではない花もあります。
でも、人間の好みの色や香りでなくても、昆虫にとっては魅力的に感じるのでしょうね。
さて、そんな不思議な花ですが、どうやってこのような仕組みになったのでしょうか。
それを理解するためには、今の常識と思われているような、思考の枠を乗り越えて考える必要があります。
洗脳を解く その6
自分の価値観というものは、自分でよしと判断した結果、採用するべきです。
たとえ相手が親や先生であったとしても、根拠もなしにその考えを採用するのは、やめた方がいいでしょう。
親や先生にとっては、当たり前に思えることであっても、それが自分に当たり前かどうかは、わかりません。
どうしてそういう考え方や価値観を持つのかという、はっきりした理由や根拠を、自分の中で確かめておきましょう。
そうすれば、その価値観を信念として貫くこともできますし、状況の変化に応じて、柔軟に考え方を変えることもできます。
自分と違う考えを持つ人とでも、相手の考えに耳を傾けながら、話をすることができるでしょう。
そうすれば、自分では思いもつかなかった、発想に出会えるかもしれません。
頑固に考え方を変えないという人は、その考えを持つ根拠が、よくわかっていません。
だって、男ってそんなもんじゃないか。
女なんて、こんなもんだろ。
こんな風に言い切ってしまうと、その人はそこで終わってしまいます。
進歩なんて訪れません。
そして、いずれその考え方が原因で、いろんなトラブルに遭い、苦しんだりもするのです。
自分の持つ価値観を、自分できちんと管理できていれば、誰かに洗脳されるということは、避けられるでしょう。
たとえ巧妙に何かを思い込まされたとしても、そこに根拠がないとわかれば、すぐにその考えを捨てて、自力でその考え方から抜け出すことができます。
また、自分は世の中の全てを知っているわけではない、という謙虚さが必要です。
洗脳は不安や恐怖を利用して行われることが多いのです。
自分が知っていることが全てだと信じていると、それがつらいことばかりだった場合、洗脳のいいカモにされてしまいます。
今の自分がどんなにつらい状況にあっても、楽しく過ごせる環境が、必ず自分を待ってくれていると考えるのです。
実際、世の中というものは、それほど広く、いろんな所があるのです。
それなのに、自分が似たようなつらい環境ばかり、選んでしまうのだとすれば、それは何故だろうと考えてみましょう。
そこにも必ず、自分にはそんな所しかないのだという、自信の欠如につながる価値観が、すり込まれているはずです。
そんな価値観はさっさと捨てて、自分の本当の興味と可能性につながる道を進むのです。
大地を踏みしめる感覚を楽しみながら道を進むように、自分で選んだ価値観を楽しみながら、人生を歩んで行くのです。
そうすれば洗脳に騙されることはありませんし、何が洗脳で何がそうでないのかも、わかることでしょう。