あなたは誰? その3
この世界でのことは、一つの体験に過ぎず、その体験を評価する価値観も、この世界限定のものです。
でも、別の世界からこの世界へ、いろんな体験をしに来たのであれば、その体験の評価は、別の世界の基準で考えるべきでしょう。
わかりやすく言えば、目の前の一本の木だけで、全てを評価するのではなく、森全体を見て評価するということです。
森全体を眺める視点から、同じ木を見た場合、その木しか見ていない時と比べると、違った評価ができるはずです。
とは言っても、今いる世界のことしかわからないと、言われるかもしれませんね。
でも、今の自分の考え方は、この世界に限定した考えであって、もっと広く大きな考え方が、あるはずだということは、受け入れられるでしょう。
目の前にある木を、高い所から眺めて、森の一部として見た場合、どう見えるのかと考えるのと同じです。
今いる所が木の前でも、高い所へ行けば、別の見え方ができるということは、理解できるはずですよね。
それがわかっているのと、わかっていないのとでは、困った時の対応が、全然違うものになるでしょう。
それにしても、どうして自分は、今ここにいるのでしょうか。
生まれる前の世界から、わざわざこの世界に生まれて来たのには、わけがあると思います。
そのわけを探ることが、本当の自分に気づくきっかけになるのです。
自分がこの世に生まれて来たわけを探らずに、世の中の流れに乗って生きていると、必ず何かの障壁にぶつかって、いろいろ悩んだり苦しんだりすることになるでしょう。
それは、何で自分はこんなことをしているのか、という理由がわからないからです。
自分がこの世界限定の存在だと考えている限り、自分が今ここにいる理由はわかりません。
自分はもっと大きな存在なのだと認めれば、今まで見えて来なかった答えが、見えて来ることでしょう。
あなたは誰? その1
あなたは誰ですかと尋ねられると、自分の名前を言うと思います。
それでも相手がよくわからなければ、自分の家や仕事、学校のことを説明するでしょう。
相手が外国の人であれば、自分がどこの国の人間かまで話すと思います。
日常的なやり取りであれば、それで説明ができたことになり、相手もそれ以上は突っ込んで聞いたりはしません。
ですから、こんな質問があっても、それでうまく答えたと思ってしまうのですが、でも、本当にそれが正しい答えなのでしょうか。
自分の名前や家族、仕事、学校などを説明することで、答えが完了してしまうのは、私たちが認識している世界が、絶対的なものであり、この世界以外の世界は存在していない、という考えが前提にあるからです。
この世界以外がないのですから、この世界に生まれて来る者は、無から誕生することになります。
また、死んでしまうと、この世界から消えるわけですから、その者は無に帰するというわけです。
子供の頃から、死んだらどうなるんだろう、生まれる前はあったのかな、世界って何だろうか、などと考えたことが、一度はあると思います。
その答えが見つからないまま、何となく世界は一つだけで、生まれる前も死んだあとも、何も残らず消えてしまうと、多くの人が思い込みます。
でも、その根拠を聞かれても答えられません。
何となく、そうなのだろうと思っているに過ぎないからです。
しかし、何となく思ったことが、とても強力にその人を縛りつけ、死んだらおしまいだとか、一つしかない人生なのに、どうして自分はこうなのかと、不安やあきらめなどの気持ちになってしまいます。
しかし、そんな気持ちは嫌なので、なるべくそんなことは忘れようと、日常生活に没頭します。
つまり、何も考えず機械のように同じ日々を繰り返すのです。
楽しむと言うと、他の人がやっていることを、真似するばかり。
お金がなければ、その楽しさは持続できませんから、お金稼ぎに懸命になります。
それでも、いつかは必ず自分の死に直面する時が来ます。
あるいは、大変な病気や怪我で、身動きが取れなくなったりするかもしれません。
そうなると、それまで無視していた不安が、無視できなくなってしまい、人生に絶望せざるを得なくなってしまいます。
しかし、これらの不安の根源はというと、世界はここだけで、生まれる前も死んだあとも、何もないという考え方です。
人生は刹那的であり、どんなに華やいだ人生を送ろうとも、結局は花火のように消え去ってしまう、というのが、一般に広まっている考え方なのです。
でも、どうしようもない不安に陥った時には、もう一度このことについて考えてみて欲しいのです。
そして、生まれる前や死んだあとに、何も残らないってことは、ないのでないかと思えるようになったなら、そこでまた考えてみて下さい。
自分はいったい誰なのかと。
今の名前が答えになるのは、この人生においてのみです。
人生の前後があって、自分という存在が、今の人生を超越したものであるならば、今の名前だけで、自分を説明することはできません。
では、自分はいったい何者なのか。
それを、じっくりと考えてみて欲しいと思います。
あなたは誰? その2
人は死んでも、また生まれ変わって、この世に現れます。
あの世と呼ばれるものは、死んでこの世界を離れたあとに、再びこの世界に生まれて来るまでの間に、留まっている世界です。
疲れた心を癒やしたり、これまでのことを振り返ったり、今後のことを考えるための、サロンのようなものでしょう。
そうやって、いくつもの人生を繰り返している人間とは、どのような存在なのでしょうか。
それは、あなた自身がどのような存在かと、いうことと全く同じ意味になります。
そんな存在としてのあなたを、一つの名前で規定することは、できないでしょう。
かと言って、いくつもの名前をつけたところで、かえってわけがわからなくなってしまいます。
つまり、あなたは誰なのか、という問いに対しての答えとしては、私は私です、というしかありません。
それでは、わからないじゃないか、と言われそうですが、体を持たない心だけの世界では、恐らくそれで通用するのだと思います。
それはともかくとして、ここで言いたいことは、自分というものを、この世界の中だけで考えないで欲しいということです。
人は自分をこの世界の中だけで考えてしまいますし、さらには、今いる国や地域、職場や学校、家族や知人たちの中での、自分という見方をしてしまいます。
それも一つの自分の捉え方ではありますが、それが全てではありませんし、絶対的なものでもありません。
本来の自分というものは、この世界を越えた、もっと大きな存在であり、この世界で常識と言われるような価値観など、全く通用しないものでもあります。
それなのに、とても狭い範囲でしか通用しない価値観で、自分をがんじがらめにしたり、自分に価値がないと思い込んだりするのは、全くもって馬鹿馬鹿しいことです。
何かに悩んでどうしようもないと思った時には、本当の自分は世界を超越した、とても大きな存在なんだということを、思い出して下さい。
本気ですか その2
生活のために仕方なくしている仕事でも、本気で取り組むと、それまで見えて来なかった何かに、気づかされるはずです。
それは見過ごしていた、素敵なことかもしれません。
あるいは、やっぱりこれは絶対に自分には向かないという、はっきりとした拒絶かもしれません。
素敵なことを見つければ、その仕事に対する見方が変わり、自分の性に合わないと思っていたことが、誤解だとわかるでしょう。
どんなに頑張っても、これは自分に合わないと感じたならば、違う仕事を探すだけのことです。
中途半端に嫌々ながら作業をやっている時には、自分にはこんな仕事しか見つからないからと、あきらめていることが多いと思います。
でも、この仕事は絶対に無理だと、完全に悟ることができたなら、他の仕事が見つかるかどうかなど考えず、きっぱりと他の道を探すことになるでしょう。
いずれにしても、本気で取り組むことで、その仕事が本当に自分に向いているのかどうかを、見定めることができるのです。
でも、その仕事で素敵なことを見つけたとしても、それ以外のことは、自分には合わないということもあるでしょう。
その場合は、やはりそこを出るべきですが、そこで見つけた素敵なことが、次の仕事を見つける指標となってくれます。
それまで自分が何をしたかったのかが、よくわからなかったけれど、この素敵なことを見つけたことで、自分が何を求めているのかが、わかって来たという感じです。
やらなければならないから、仕方なしにやる。
お金のためだから、我慢してやる。
自分にはこれぐらいのことしかできないから、これをやっている。
こんな気持ちでやっている仕事でも、とにかく一度本気でやってみて下さい。
そうすれば、絶対にそこに何かが見つかります。
その何かは、必ずあなたのこれから進むべき道を、示してくれます。
何がやりたいのかわからなければ、尚更本気を出して取り組んで見て下さい。
そして、そこで指標を見つけたらならば、いつまでもそれまでのままでいるのではなく、素直に指標に従って、さっさと動きましょう。
その先には、それまで思いもしなかった、喜びの暮らしが待っていることでしょう。
本気ですか その1
あなたは何かに、本気で取り組んだことがありますか。
何かをする時に、面倒臭がったり、適当にやっていたのでは、自分がやっていることに対して、正当な評価ができません。
自分の性に合わないとわかっていることは、初めからやらないでしょう。
では、今やっていることが、性に合っているのかと言うと、そうではないと思います。
多くの人が、生活のためにとか、お金を稼がなくてはいけないから、という理由で活動しています。
今やっていることは、やらなければならないから、やっているという感じです。
でもそれでは、同じ作業の繰り返しになってしまい、仕事に気持ちが入りません。
これと言った喜びもなく、代わり映えのない日々を過ごしていると、自分が作業ロボットになったみたいに感じるでしょう。
ロボットは命令に従うものですから、いつの間にか自分の性に合わない仕事を、押しつけられるかもしれません。
しかし、それを拒めませんから、本当であればやらないはずの作業を、そのまま続けて行く、ということになります。
こんなことを続けていると、そのうち心や体に不調を来たし、取り返しの付かないことになるかもしれません。
でも、そんな日常的な作業でも、本気で取り組んでみれば、新たな道が見えて来るのです。
衣装と自分 その6
どんなに素敵な格好をしたつもりでも、鏡で自分の姿を見せられたなら、肩にホコリがついているかもしれません。
腰の所に、クリーニングのタグが付いたままかもしれません。
ズボンやスカートのチャックが、開いたままかもしれませんし、裏表に着ているかもしれません。
でも、鏡で自分の姿を見せられなければ、そんなことには気がつかないまま、人前を意気揚々と歩くことでしょう。
それと同じように、どんなに自分が進歩的で素晴らしい考え方を、持っていると信じていても、ある瞬間にそうではなかったと、気づかされることがあります。
たとえば、人に生きる道を教え説き、死を恐れるなと説教する、神父や僧侶の人たちが、自分が癌に冒されて、余命いくばくもないと宣告された時に、慌てふためくことがあります。
他人の死を前にしても、平然としていられたはずの人の心にも、死に対する不安が潜んでいると、自身の死を目の前に突きつけられると、思わずうろたえてしまうのです。
これは別に恥ずかしいことではありません。
ただ立場上、押し殺していた想いが、ある時に、隠しきれなくなってしまうことが、誰にでもあるということです。
この場合、自分の死という状況が鏡となって、本人の心の中に潜んでいた、死への不安や恐怖を映し出していると言えます。
誰かに腹を立てる時には、腹を立てる原因が、相手にあると考えるでしょう。
でも、同じ人を見ても、腹を立てない人もいるわけです。
と言うことは、腹が立つ本当の理由は、相手ではなく、自分の中にあるということですね。
その相手は、その人の中から、腹を立ててしまう原因を、引き出しているのです。
普段は腹を立てない人が、腹を立てた場合なんかは、この人でも怒ることがあるのだと、みんなが驚くことでしょう。
もしかしたら、腹を立てたその人自身も、驚くかもしれません。
それは、気がつかなかった衣装の汚れなどを、鏡に映してもらって気がつくようなものです。
まだ自分の中に、こんなことで腹を立てる自分が、潜んでいたのかと、その相手は鏡のように教えてくれているわけです。
何かが起こった時に、思いがけない反応を示してしまう時、それは自分でも気がつかなかった、ネガティブな考えが潜んでいたということです。
でも、それは気がつけば、その考えを捨ててしまえばおしまいです。
別に、その後も思い悩む必要はありません。
そんなことを繰り返すうちに、何があっても動じない自分でいられるようになるのです。
それは、非の打ち所がない衣装を、着こなすのと同じなのです。
衣装と自分 その5
自分の性格が気に入らなくても、これが自分なんだと、あきらめて悲しむ人もいるでしょう。
でも、生まれた時には無垢な心でいたことを、忘れないで下さい。
また、見た目の性格が、本当はとても素敵な性格なのかもしれません。
世の中に蔓延している、ゆがんだ価値観を受け入れてしまったために、本来の素敵な性格を、ゆがんだレンズで眺めているだけかもしれないのです。
とにかく、これが今の自分であって、変えることはできないし、どうすることもできないと、嘆く必要はありません。
性格や個性を作り上げているものは、生まれてから心が身に着けた、様々な価値観や考え方でできているからです。
それらの価値観や考え方は、衣装を着替えるように、いつでも別なものに交換することができます。
それができないのは、それをしてはいけないとか、そんなことができるわけがないという、誤った思い込みです。
この思い込みもまた、知らない間に、どこかですり込まれてしまった考え方なのです。
何かに失敗したら、もうやり直しがきかないとか、自分が置かれた状況が変わらない以上、何をどうやっても代わるはずがないとか、そんな根拠のない考え方が、まことしやかにすり込まれていると、自信がなくなって、自分を変えることができなくなるのです。
いろいろ邪魔をするネガティブな考えはあるでしょうが、そういうものは全て脇に置いて、今日から自分はこの考え方で行ぃこうっと、と決めてしまえばいいのです。
そうすることを自分に許してやると、考え方がいとも簡単に変わります。
ついさっきとは別人になれるのです。
何もお芝居の舞台に立って、別の人物を演じる必要はありません。
自分が採用する価値観や考え方を変えれば、その瞬間から自分は別人になれるのです。
私たちは世界の一部ですから、私たちが変われば、属している世界も変わります。
状況が変わらないから、自分が変われないのではなく、自分が変わらないから、状況が変わらないのです。
自分が楽しく過ごすために、お気に入りの衣装を身に着けるように、古い価値観や考え方を捨てて、自分がいいなと感じる価値観や考え方を、取り込んでしまえばいいのです。
何もむずかしいことはありません。
お前、変わったなと言われるでしょうが、それは褒め言葉です。
ありがとうと言って、新しい自分を楽しみましょう。
衣装と自分 その4
何の価値観も持たない、無垢な自分とは、どのようなものでしょうか。
それは、好奇心と喜びに満ちた子供の心と、同じだと考えて下さい。
正確には、子供には子供なりの価値観がありますが、大人ほど複雑でゆがんだ価値観はありません。
ですから、無垢な心がわかりやすいのです。
大人の場合、あまりにもいろんな価値観が、鎧のように重なり合って、無垢な心が表に顔を出しにくくなっています。
自分が持つべき価値観を選別する場合、自分の無垢な心が顔を出すことに、邪魔にならないようなものを選ぶのがいいのです。
あるいは、無垢な心が自由に自分を表現するのを助けるような、そんな価値観を選ぶといいでしょう。
他人の自由を羨んだり、批判したくなったなら、自分は自由が制限されているのだと知りましょう。
そして、どうすれば自由になれるのかを考え、そちらへ動くようにするのです。
自分が自由にできたなら、他の人が自由にしていることを、素直に喜べるでしょう。
また、自分とは違う個性を表現する人たちを、楽しく見ることができると思います。
自分が他の人を受け入れる時、自分もまた他の人たちに、受け入れられるのです。
それは、とても心地のいいものであり、無垢な心が大喜びするものです。
でも、まずは無垢な自分というものを思い出し、表に引き出すようにしなければいけません。
それができなければ、初めの一歩を踏み出すこともできません。
衣装と自分 その2
心は直接鏡に映すことができません。
目に見えないわけですから、視覚的に捉えることはできないのです。
しかし、自分の心がどのような状態なのかを、言葉で表現することはできますよね。
たとえば、浮き浮きしているとか、いらいらしているとか、ぼーっとしているとか、泣きそうとか。
これらの心の状態を、視覚的に表現するならば、鏡に映った顔の表情と言えるでしょう。
実際、表情というものは、文字通りに感情を表現したものだからです。
楽しいことがあれば笑顔になるし、嫌なことがあれば暗い顔になります。
悲しければ泣き顔になりますし、腹が立てば怒った顔になります。
では、何が楽しくて、何が不愉快なのかは、どうやって決まるのでしょうか。
そこには、その人なりの基準があるはずです。
その基準は、その人が人から聞いたり、自分で経験したことから得た、いろんな価値観の組み合わせで、構成されています。
多くの人と同じような価値観で、基準を作っている人は、自分が置かれた状況に対して、他の人たちと同じような反応を示します。
でも、個性的な価値観を持っている人の基準は、他の人とは異なっています。
そのため、他の人が笑っていても笑えなかったり、他の人が怒っていても腹が立たなかったりします。
心にとって、この価値観というものは、体にとっての衣装と似ています。
衣装が快適をもたらすものであれば、その人はご機嫌です。
でも、衣装が不快をもたらすものならば、その人は面白くありません。
また、自分の衣装を褒めてもらうと、嬉しくなりますが、けなされると腹が立ちます。
価値観も同じで、明るい価値観は気分を明るくしてくれますし、暗い価値観は気分を暗くします。
また、自分の価値観を認めてもらえれば嬉しいですし、けなされると腹が立ちます。
衣装は体の一部でありませんが、それを身に着けているうちは、その衣装も含めての姿が、自分だと受け止めます。
価値観も自分そのものではないのですが、その価値観を持っていると、その価値観が自分の一部であるように思うものです。
ですから、衣装にしても価値観にしても、褒められると自分が褒められたように思うし、けなされると自分がけなされたように感じるのです。
でも、どちらも自分ではないのです。
衣装と自分 その1
みなさんは自分をどのような姿だと思うでしょうか。
自分で自分を直接見ることはできませんが、鏡に映せば、その時の自分の姿が映し出されます。
男性の服を着ているのか、女性の服を着ているのか。
夏服を着ているのか、冬服を着ているのか。
新しい衣装を着ているのか、汚れたり破れたりした衣装を着ているのか。
サイズに合った衣服を着ているのか、サイズが合わずにぴちぴちだったり、だぼだぼだったりしているのか。
きちんと着ているのか、裏表や前後ろが逆になっているのか。
流行に合った着こなしか、個性的な着こなしか。
上下が雰囲気があっているのか、ちぐはぐなのか。
明るい色なのか、暗い色なのか。
いろんな絵柄があるのか、無地なのか。
鏡をぱっと見るだけですが、いろんな点がチェックできますよね。
そして、そこに映っている自分を見て、嬉しくなったり、がっかりしたりするのです。
でも、鏡に映った姿が気に入らなければ、気に入るように着替えます。
衣服が体の一部で、他の衣服に替えたくても替えられない、という人はいません。
鏡に映る姿は、自由に変えられるのです。
では、鏡に映らない姿だと、どうでしょうか。
それは、あなたの心のことです。