死を意識する その5
今の自分の人生の状況を、自分自身で設定しているのだとすれば、どうして自分はこの状況にいるのかと、考えてみるのです。
その状況の中で、自分が嫌だなと思っていること、これは勉強になったなと思えたことなど、リストにして確かめるのです。
嫌だなと思うことは、これからの人生の中で、避けることです。
これは勉強になったと思えることは、これからの人生で活用できることです。
これは好きだなと思えるものが、ほんの少しでもあったなら、それが自分の進むべき道を、示していると言えます。
それは、遠くに離れた所に咲く花の香りが、そよ風で運ばれて来たようなものです。
香りがしたからと言って、すぐそこに花が見つかるわけではありません。
それでも、どちらの方向に花が咲いているのかは、わかります。
そうして、自分が気に入ったと思えるものを、追いかけて行くと、次第にその喜びは大きくなり、やがてはこれだと言える、自分にとっての素敵な花を、見つけることになるのです。
そして、それができるように、人生は設定されているはずです。
つらいことがあった時、いつまでもそれを嘆くのではなく、その中に自分が仕込んだ道しるべを見つけるのです。
これは、自分自身のゲームなのです。
時間が限られたゲームの中で、自分が隠した道しるべを見つけ出し、自分にとっての宝を手にすることが、このゲームの目的です。
お金を貯めるとか、贅沢をするとか、みんなの注目を浴びるとか、世界を征服するとか、そんなことが目的ではないのです。
ですから、他人と自分を比べる必要もありません。
そうして、自分の宝を見つけ出し、この人生を去る時を迎えれば、次にはさらなる刺激的な人生が、あなたを待っていることでしょう。
死というものは、恐れるものではありません。
人生をとてもエキサイティングにしてくれる、大切な要素なのです。
死を意識する その4
私たちは、生まれる前のことなど、何も覚えていません。
今の人生を、自分で選んで来たなんて、少しも知りません。
でも、それがこの世界の特徴なのです。
ですから、一度人生というゲームから離れた人が、もう一度挑戦しようとする時には、何も覚えていないという、この世界の特性を理解した上で、ゲームの設定を決めているはずです。
誰かとの出逢いで、あることに気づくようになっているとか、ある経験を元にして、こんな風に考えるようになるとか、自分の人生の至るところに、自分の知性を高めて、隠された秘宝を見つけ出せるように、いろいろと工夫しているのです。
どうして自分は、こんなひどい環境に生まれてしまったのかと、嘆きたくなる人は、少なくないと思います。
こんな家になんか、生まれたくなかった。
誰も産んでくれなんて、頼んでない。
どうして自分ばかりが、こんなにつらい目に遭うのか。
こんな風に考えたくなる人は、たくさんいると思いますが、それらの環境や状況を、自分で設定して生まれて来たと、考えてみたらどうでしょうか。
そんなことあるわけない。
そんなことが、できるはずがない。
いい加減なことを言うな。
と、言われてしまいそうですが、考えるだけなのですから、何も損はしません。
そんなことがないと言い切れるだけの、本当の根拠があるのなら別ですが、恐らく誰もそんな根拠を示すことは、できないでしょう。
ただ、自分が馴染んだ考え方と、大きく外れたことを言われるので、受け入れがたく感じるだけのことです。
でも、自分が馴染んだ考え方によって、自分が苦しんでいるのであれば、違った考え方を試してみるのも、一つの手ではないでしょうか。
とにかく一度考えてみて下さい。
考えたところで、痛くも痒くもありませんから。
死を意識する その3
死ぬということは、この世を去るということです。
でも、それで全てが消え去るのではなく、自分という存在は残り、また別の人生を生きるのだとすれば、死というものが、それまでとはまた違ったように見えるでしょう。
人生という旅路の末に、大きなブラックホールが、ぽっかりと口を開けて待っているようなイメージが、死にはあると思います。
しかし、ブラックホールではなく、一つの扉があって、その扉をくぐって向こうの世界へ行くことが、死であると理解すればどうでしょうか。
その先にも、またいくつも扉があって、次はどの扉をくぐろうかと、自分で選んで扉を開くのです。
それは新たな生へ向かう扉で、その扉をくぐると、私たちは新たな人生を、一から歩み始めることになるのです。
そんな風に考えれば、死というものが虚無に思えたり、恐ろしいものと受け止めることは、なくなると思います。
前世があるのであれば、来世もあるわけであり、それらを考えると、死とは何もかもを呑み込むブラックホールではなく、次の世界へ通じる扉のようなものと、思えるでしょう。
死を考えるということは、人生の時間が限られているということを、知ることです。
しかし、それだけではなく、死は次の世界、すなわち、次のゲームが、その向こうで待っているということを、示してくれているのです。
それがどんなゲームになるのかは、今のゲームがどんなもので、どんな経過をたどって、どんな結末を迎えるかによって、変わって来ると思います。
さらに言えば、今私たちが体験している、人生というゲームも、前世の人生をいかに過ごしたかによって、選ばれたものだということです。
もちろん、選んだのは自分自身です。
そんなことは、覚えていませんが。
自分がゲームに夢中になっている時、そのゲームが途中でゲームオーバーになれば、悔しいのではないでしょうか。
それで同じゲームを、今度こそクリアしてみせるぞと、躍起になって繰り返し挑戦するのではありませんか。
そのゲームが面白く、奥が深ければ、今度こそがんばるぞという気持ちが、湧き上がるはずです。
そうして選んだのが、今の自分の人生なのです。
死を意識する その2
死を意識すると言っても、自分はいずれ死ぬんだと、常に考える必要はありません。
そういうことではないのです。
頭の片隅に、その情報を残して置くということなのです。
ですから、普段の暮らしをする時に、いちいち自分の死を、頭に浮かべるのではありません。
自分の人生の時間は限られているから、その人生を目一杯楽しむのだ、と意識するのです。
これは、自分が死ぬという意識が、別の形に変換されたものです。
つまり、死を意識するということは、生を意識するということなのです。
自分の生を十分に満喫した人は、死を迎えるにあたって、じたばたしないはずです。
自分は人生を十分に楽しんだと、人生の終わりを素直に受け入れることでしょう。
それは自分のゲームを、途中でゲームオーバーになることなく、最後までクリアしてエンディングを眺めるようなものでしょう。
それに対して、自分の死を受け入れられず、じたばたしてしまう人は、ゲームが途中でゲームオーバーになるということに、気がついたというところでしょう。
存分に人生を生きていないのに、まだ終わるわけにはいかない、ということですね。
でも、ゲームオーバーになりそうになるまで、その人は本当に自分の人生を、歩んでいたのかと言うと、疑問に思ってしまいます。
そもそも自分の人生に終わるが来るなんて、端から頭になかったのではないかと、思うのです。
それが、ゲームオーバーになりかけることで、意識をせざるをえなくなるわけです。
そこで死を意識するようになる人もいれば、本当にゲームオーバーになってしまう人もいるわけですが、死を意識するようになったはずが、また忘れてしまうという人もいるでしょう。
いずれにしても、いつかは人生というゲームを、やめる時が来るわけですから、死ぬこと自体はあまり重く見る必要はありません。
それよりも、それまでにどれだけの人生を生きて来たのか、ということの方が、遙かに重要です。
いつかは訪れる死の際に、自分の人生を振り返って、なかなかよかったなと思えるのかどうか。
それこそが何より大切であり、そのためにも死を意識するということは、大事なのです。
死を意識する その1
私たちは日常の中で、どれだけ自分の死を、意識しているでしょうか。
自分がいずれ死ぬということは、問われれば、それはそうだとわかります。
でも、その事実を頭に残して、暮らしている人は、ほとんどいないのではないでしょうか。
人々が死を意識するようになるのは、年老いて体の衰えを感じるようになった時か、大怪我や大病で迫る死に直面させられた時でしょう。
あるいは、生きて行くのが嫌になり、自ら命を絶とうと考える時かもしれません。
いずれにしても、それまでどおりの暮らしを続けているうちは、自分の死を意識することはありません。
それはある意味で自然なことだと言えます。
恐らくですが、自然界における生き物たちは、自分がいつか死ぬということを考えながら、行動してはいないと思います。
人間も自然の生き物と同じだと考えると、死を意識しないで、与えられた生をひたすら生きるということも、別におかしなことではないでしょう。
でも、人間は自らの死を意識することができます。
他の生き物がそれをしないのであれば、そこは人間と他の生き物との違いであると、言えるでしょう。
言い換えれば、自らの死を意識しない者は、人間としての特性を発揮できていない、ということになります。
ゲームには必ず終わりがあります。
始めがある以上、必ず終わりもあるのです。
それを知った上で、ゲームを楽しむのか、何も知らないまま楽しむかの違いです。
それは、ゲームの大きなルールを知って、ゲームをしているかどうかということです。
知っている者と、知らない者の間には、ゲームの楽しみ方や、ゲームから得られる喜びに、大きな違いがあります。
本当にゲームを楽しみたいのであれば、ゲームの時間には制限があるということを、知らねばなりません。
人生もそれと同じで、死を意識するかしないかで、その人の人生の豊かさは、大きく違って来るのです。
全ては表現 全ては言葉 その5
人は言動によって、心を表現します。
また人間の姿は、人間の本質を表現するのに、うまくできていると言えます。
人間の知性を存分に表現するために、人間の脳は大きく発達していますし、様々な創造を行うために、四つ足ではなく二本足になって、両手を自由に使えるようになっています。
まさに人間の体は、人間の心を物質世界に、表現したものと言えるでしょう。
同じように考えれば、他の生き物、あるいは他の存在全てが、その本質を物質世界に表現したものと、見ることができます。
動物には動物の心があり、植物には植物の心があります。
大地や水、風や雲にも、それぞれの心があるのです。
そして、それらがこの世界に表現されたのが、私たちが目にしたり、耳に聞いたり、手に触れたりしているものなのです。
もちろん、これは私たちの感覚によって、制限された表現ではあります。
他の感覚があれば、今とは違ったような表現を、見ることができるでしょう。
いずれにしても、世界に存在する全てのものは、その本質が表現されたものなのです。
そよ風に揺れる草花が、歌っているように感じられたなら、それは実際に風と草花が一緒に歌っているのでしょう。
人間には大災害に思えるような自然の変化も、自然にとっては、ただ貯まったエネルギーを放出しただけに過ぎないと思います。
人間がストレスを発散するのと、同じですね。
今言われる異常気象による災害は、人間が加えたストレスが、大きく影響しているというところが、問題なのです。
これが嫌ならば、自然にストレスを加えることを、やめるしかありません。
このストレスは、単なる温暖化ガスによるものだけではないと、私は思っています。
人間も自然の一部であり、地球の一部です。
エネルギー的に見た場合、両者を明確に分離するのは、無理でしょう。
その人間の心が、思いやりのないすさんだ状態にあるならば、それは周囲の自然のエネルギー状態に、大きな影響を与えることと思います。
自然の本来の姿は、調和です。
何故なら、元々みんな同じ所から現れたものだからです。
人間の体は各部によって、そこを構成する細胞は違いますが、元はみんな一つの受精卵から、分裂してできたものです。
それと同じことです。
みんな、元は一つだったのです。
全ての細胞が調和して活動することで、体は維持されています。
それができなくなると、体は病気になりますし、死ぬこともあります。
その代表的なものが、癌です。
地球における今の人間は、まさに癌細胞と同じです。
地球におけるエネルギーの調和を乱し、地球をあるべき姿から変えているのです。
地球や、地球上に存在する全てのものの本質は、調和です。
それが存在するものの、あるべき姿なのです。
調和は外から眺めた時の表現ですが、内から眺めると、違う表現ができます。
それは、愛です。
愛とは調和を内面から眺めた表現なのです。
今の人間のエネルギーは、自分さえよければいいという、愛とは真逆のものが大半です。
そんなエネルギーが地球上を覆っているのですから、地球のエネルギーがおかしくなるのは、当然でしょう。
人が今するべきなのは、温暖化ガスを出さないようにするとか、自然破壊をしないということだけでなく、本来の自分の姿を取り戻すということです。
つまり、人間の本質である愛に目覚め、愛に生きるということです。
それによって、人間自体が素晴らしい暮らしができるようになるでしょうし、地球に対するストレスを、大きく軽減することができるでしょう。
行動的にも、自然を大切にするような行動を、しなくてはならないからするのではなく、そうしたいからするようになるのです。
自分たちの本当の姿を知り、それを素直に表現する。
それこそが、今の私たちに求められていることなのです。
全ては表現 全ては言葉 その2
自分を表現するものとして、よく芸術が取り上げられます。
特に絵画や音楽は、その人の想いを形にする代表的なものです。
絵や音楽が好きなのに、自分が絵を描いたり、歌ったり、楽器を演奏するのは、苦手だという人が少なくありません。
本当はやってみたいのに、自分には無理だと思い込み、せっかくの楽しみを放棄するのは、もったいないことです。
どうしてそう思ってしまうのか。
それは、特定の人たちの技術ばかりが賞賛され、誰が一番かを競うようなことが、多いからでしょう。
芸術とは、そういう人たちがする特別なものであって、素人の自分が手を出せるものではないと、考えてしまうのですね。
それでも、どうしてもやりたいと思った人は、絵であれ音楽であれ、やり始めます。
ところが、他の人と自分を比べて、自分の技術が稚拙に思えたり、とても他の人のようにはできないと、考えてしまうかもしれません。
その結果、せっかく始めたことを、あきらめてしまう人がいます。
これも、他人から賞賛されるような人が素晴らしいのであって、そうでない自分には、芸術は場違いだと思ってしまうからです。
しかし、こういうことは全て誤解に基づいています。
芸術は自分を表現する手段に過ぎず、特定の専門家にだけ、与えられたものではありません。
何が上手で何が下手なのかは、どこを基準にするかで、評価が大きく変わって来ます。
たとえば、親にとって幼い子供が書いた絵は、オークションで何十億円もするような絵よりも、価値があるものです。
どんなに素晴らしい画家であっても、幼い子供の心の中までは、描くことができません。
幼い子供の絵は、幼い子供でないと描けないものです。
本人が大人になってしまうと、昔描けたはずの絵が、もう描けなくなるのです。
音楽だってそうです。
どんなに指運びが素晴らしく、派手で流れるような音を奏でたとしても、そこに訴えかけるものがなければ、感動は起こりません。
ただ、技術が素晴らしいというだけのことです。
一方、年を取ってからピアノを始めた人が、それまでの気持ちを音にして演奏すると、演奏技術はつたなくても、心にぐっと伝わるものがあります。
絵にしても、音楽にしても、それはその人の心を表現する手段であり、表現すべきものがなければ、意味がありません。
どんなに上手な絵でも、そこに心がなければ、それはコピーや写真と変わりません。
どんなに上手な演奏でも、そこに心がなければ、機械の演奏を聴いているのと変わりません。
絵も音も、言葉なのです。
口で喋る言葉は、単語が限られているために、心の全てを表現することは困難です。
しかし、絵や音であれば、言葉では表現しきれない所まで、伝えることが可能です。
子供は子供なりに、自分の言葉で自分の気持ちを伝えようとします。
それと同じように、芸術を始める人は、今の自分にできる範囲で、精一杯自分を表現すればいいのです。
その絵の評価は、他人がするものではありません。
自分の気持ちが表現できたかどうかは、自分にしかわからないからです。
他人が評価できるのは、技法についてだけです。
本当の価値は、自分にしかわかりません。
ですから、他と比べるのではなく、自分が満足できるまで、何度も練習に励めばいいのです。
真剣にやるならば、この練習も大変ですけど、楽しいものです。
何故なら、その先に自分を表現する作品が、待ってくれているのですから。
全ては表現 全ては言葉 その3
英語を勉強しようとして、途中で嫌になる人がいると思います。
学校の勉強で、試験に出るから覚えなければいけないと、英語がとても難しく感じられて、嫌になるでしょう。
それでも、英語は言語であり、自分の気持ちを相手に伝える手段だと、理解できる人は、英語の勉強を楽しめます。
勉強というよりも、自分がそれを使って、外国の人と会話してみたい、という気持ちで覚えるからです。
ただ暗記するとか、試験で100点を採ろうしていると、完璧な英語でないとだめだと、思い込んでしまいます。
英語を言語として楽しむどころではありません。
なので、日本人は書かれた英文を読むことはできますが、自分が喋ることが苦手なのです。
日本語と同じように、同じことを伝えるのに、英語にもいろんな表現があるのだと、理解ができていれば、もっと気持ちが楽になるでしょう。
また、日本人が日本語を言い間違えることも、よくあるように、外国の人だって、英語を言い間違えることは、珍しくありません。
それが理解できれば、間違うことを恥じなくなり、とにかく自分の使える言葉で、言いたいことを伝えようと思えるようになるでしょう。
学校の試験では、ほとんどの場合、正解は一つです。
そうなると、他の言い方を覚えませんし、その場に応じた喋り方が、できなくなってしまいます。
英語の挨拶は、いつでも How are you ? ではないのです。
返す言葉だって、いつでも Fine, thank you. And you ? ではありません。
いろんな言い方がありますし、言葉だけでなく、表情や態度も用います。
それだって、自分の気持ちを伝えるための手段ですよね。
私も昔、英会話教室で英語を習ったことがありました。
その時に思ったのは、どんなに英語を覚えたところで、伝えるものがなければ、会話が成立しない、ということです。
テキストを覚えるだけでは、だめということです。
それを応用して、日常的な会話を相手と楽しむのです。
言語とは、そのためにあるのですから。
それで、こういうことを伝えるには、どんな表現があるのか、とか、これは英語では何と言うのだろう、と考えると、テキストとは関係なしに、自分で調べて覚えるようになります。
それで、実際にそれで喋ってみて、相手に意味が伝わると、とても嬉しいものです。
言語は自分の心の中にあるものを、相手に伝える手段ですが、心の中に何もなければ、どうしようもありません。
言語を習得するのに、一番大切なことは、表現すべき自分の想いを探ることでしょう。
伝えたい想いがあるからこそ、伝える手段である、言語を覚えるのです。
日本人の子供が、日本語を覚えるのと同じことです。
これは英語など外国語の勉強に限りません。
日常生活、あるいは学校や職場においても、多くの人が周囲に流されて生きているだけのように思えます。
みんなに合わせて、みんなと同じことをしていれば、それでいいんだと思い込んでいる人が、少なくないのではないでしょうか。
だから、自分の気持ちはどうなのか、何を伝えたいのかと、考えさせられた時に、答えがすぐに出て来ないのです。
言葉にしても態度にしても、気持ちを伝える手段です。
その手段をうまく活用するためにも、表現したい自分というものを、しっかり把握しておくことがいいと思います。
全ては表現 全ては言葉 その4
人は嘘をつくことができます。
言葉巧みに相手を騙して、お金を奪われたり、金儲けに利用されたりする人がいます。
あるいは、その人を馬鹿にして、みんなから笑われるように仕向けるために、騙す場合もあるでしょう。
言語は情報伝達の手段ですが、言語だけがそうなのだと考えると、簡単に騙されてしまいます。
しかし、言語以外のところで、本人が気づかないまま表現しているものに、目を向けたなら、相手の嘘を見破ることができるかもしれません。
たとえば、普段自分のことなど、見向きもしない者が、ある時に突然やって来て、儲け話をするのは、どう考えてもおかしなことです。
また、みんながお金を欲しがる世の中で、本当に儲かる話を、他人に喋る者などいません。
こういうところに目を向けると、相手が自分を騙して利用しようとしているのは、一目瞭然です。
学校の成績が悪い生徒を責める先生は、自分の責任を棚に上げています。
生徒に勉強の面白さを教えることこそが、先生に課せられた役割です。
それができなかったことを、生徒の責任にしようとするので、どうしてお前はできないのかと、先生は生徒を責めるのです。
こんな先生は、言葉や態度で、いかに生徒のできが悪いのかを、伝えようとしています。
でも、本当に表現しているのは、自分の権威の維持と責任逃れの気持ちだけです。
生徒を想う気持ちなど、少しもありません。
それを見抜くことができれば、先生にひどいことを言われたと、落ち込む必要がなくなります。
本当にいい先生であれば、その生徒に見合った教え方を、懸命に探ろうとしますし、成績が悪くて落ち込みがちの生徒を、励まそうとしてくれるものです。
同じことが、病院の医師にも言えます。
患者や家族に病気の説明をする時に、やたらと専門用語を口にする医師は、やはり自分の権威を示しながら、一応は説明をしたという証拠作りを、しているだけです。
病気で不安になっている患者や家族の気持ちがわかるなら、相手に理解できる言葉で、情報を伝えながら、ともに解決方法を探るという姿勢を見せます。
パソコンのモニターばかりを見て、患者の顔を見ないとか、ろくに患者の話も聞かないで、検査データだけを見ている医師など、本気で患者と向き合う気持ちはありません。
患者は病院の経営を維持するためのものとしか、見ていないでしょう。
そんな医師に自分の命を預けるかどうかは、真剣に考えた方がいいと思います。
人を疑わない人は善人のように思われがちですが、善人というより、お人好しという方が適切でしょう。
自分以外の人間を、疑ったり悪く見る必要はありませんが、いろんな人をよく観察して、その人の特性を見極める必要はあります。
そこに善悪の観念はありません。
騙されやすい人は、この観察力に欠けていると言えます。
あるいは、相手が好ましくない人間なのがわかっていても、その相手に逆らったりしたら、自分はそこにはいられなくなると、信じ込んでいるのかもしれません。
もちろん、その思い込みは間違いであり、そんな人間とはさっさと縁を切る方がいいでしょう。
それができないのは、判断力と決断力に欠けているということで、その根底には、自分へ自信のなさがあります。
自分が活き活きしていたいのなら、それに見合った環境を、見つけなければなりません。
そのためにも、観察力と判断力、決断力を持つ必要があるのです。
個人だけでなく、集団としての人々の気持ちが、実際はどうなのかということを、よく観察して見抜くことができれば、付き合う人や、働く先や暮らす場所を、どうするのかということが、見えて来るでしょう。
また、相手に任せていいのか、自分で動いた方がいいのかも、判断できるはずです。
あとは、自分が決めたとおりに行動するだけです。
そう、行動力も必要ですし、行動こそが本当の気持ちの表れなのです。
全ては表現 全ては言葉 その1
人は心こそが本質です。
心があるから、その人が存在していると言えるのです。
あなたの言動は、全てあなたの心が表に出たものです。
じっとして何もしない時も、そうするよう心が求めているからです。
何もしないことも、心の表れなのです。
同じことを伝えるにしても、その伝え方は人様々です。
それは、その人の性格や心の状態に応じて、変わるものです。
他人を見下しているような人は、いつも偉そうな物言いをしますし、態度も威張っています。
人が好きな人は、いつも明るく笑顔で喋ります。
相手を傷つけるような言葉は、決して用いません。
嬉しい時には嬉しい顔、悲しい時には悲しい顔、怒った時には怒った顔、寂しい時には寂しい顔を見せます。
中には感情の乏しい人がいます。
でも、これも自分の感情を抑え込んでしまうという、心の状態が表れたものです。
孤独に見える人も、寂しいのか、一人が好きなのかは、よく見ていればわかります。
本当は楽しくないのに、みんなに合わせて笑顔を繕ってしまうのも、人に合わせなければいけないという想いが、行動に表れているからです。
こんな人たちも、よく観察していれば、本当に楽しんでいるのかどうかは、わかるものです。
自分で意識をしていようといまいと、自分の心の状態は表に表れます。
それは心の表現であり、行動の全てが、その人の心の本当の言葉だからなのです。