迫る食糧危機 その2
世界的に不足しているのは、人間の食料としての穀物だけではありません。
家畜用の飼料としての穀物も不足していますし、農業で使われている化学肥料も不足しています。
それらを手に入れるためには、高額な費用がかかるようになりました。
手に入れるのもむずかしいし、手に入っても、その値段がこれまでよりも、大きく跳ね上がっています。
そのため、畜産業や酪農業が大打撃を受けていますし、日本中の多くの農家が、化学肥料が手に入らなくて、作物を育てられなくなるかもしれないようです。
異常気象に加えての、ダブルパンチですね。
しかし、このピンチのお陰で、日本国内で家畜用の飼料としての、トウモロコシを作ろうとする動きが出て来ました。
トウモロコシを植えると、土壌の状態がよくなるそうですし、実を収穫したあとの茎や葉などは、細かく粉砕して、そのまま畑の肥料になると言います。
農家の収入源にもなりますし、畜産業や酪農業の人たちへの、大きな助けになるでしょう。
また恐らくですが、肥料を与えない自然農法も、これから注目されることと思います。
日本の田舎では、耕作放棄地がたくさんあります。
かつて田畑だった所が、何年も耕作されずに、草ぼうぼうの状態の所が、いくらでもあるのです。
そんな土地は自然栽培にうってつけなのです。
以前と比べると、農薬や化学肥料を拒む消費者が、かなり増えて来ましたので、有機栽培の作物が大人気です。
自然栽培は有機栽培よりも、さらに上を行くものですが、人間がいろいろ手をかけて育てた作物と比べると、見栄えも味も違います。
それをよしと見ることができるようになれば、自然栽培は一気に広がるでしょう。
肥料を何とか調達しなくては、と考える必要がありませんし、何より安全です。
また、自然の中で育つ作物ですから、そうでない作物と比べると、生命力が強くて、環境の変化にも耐えやすいようです。
こういう作物を食べる消費者は、ただ米や野菜を食べるというのではなく、自然からの恵みを受け取っているという感覚を、持つようになります。
それは人間が生きて行くためにも、とても重要な感覚です。
自分は自然の一部なのだと理解できれば、いろんなことが変わって行くでしょう。
そのために、自然栽培は大きなきっかけと、なってくれると思います。
また、世界が日本の自然栽培に、注目するようになるでしょう。
飽食の時代は終わりを告げ、新たに生きるための食の時代が訪れます。
その過渡期は嵐のように見えるでしょうが、嵐のあとには、必ずきれいな青空になります。
そのような青空の時代を迎えるためにも、私たち一人一人が賢くなり、人々のために知恵を出し、力を出している人たちを、手助けするように心がけたいものです。
迫る食糧危機 その1
異常気象に加え、ロシアとウクライナの戦争の影響で、世界的に小麦などの穀物が不足しています。
世界中で食料の争奪戦が始まっており、日本は大きく出遅れているそうです。
自給自足ができる国は、まだいいのですが、日本の場合、食糧自給率が極端に少なく、多くの食料を外国からの輸入に頼っているのが現状です。
今のところ、企業努力によって、それほどは消費者に影響が出ていないようですが、お金を積んでも必要な物が手に入らない状況になれば、どうにもなりません。
また、何とか手に入ったとしても、その原材料費が高騰すると、企業や店によっては、それを仕入れることができなくなるでしょう。
そうなると、多くの店や企業が潰れるかもしれません。
お金を積んでも手に入らなければ、言わずもがなです。
今は多少の値上げがあったとしても、それはまだ多くの人が生活できる範囲のものです。
しかし、その範囲を超えるほどのことが、来年には起こるような気がします。
それでも、国民がそれで賢くなれば、輸入に頼らない食料確保というものに、真剣に目を向けるようになるでしょう。
また、余った食料がゴミにならないような工夫も、真剣に考えるようになるでしょうし、普段の食事を、単に楽しむものとしてとらえず、生きるために必要なものと、見直すようになるでしょう。
見栄えがいいとか、珍しいとか、高級だとか、そんな価値観では食べ物を見なくなるでしょう。
食料の値段は高くなるでしょうが、値段に見合うだけの栄養価と安全性、味などに注目するようになると思います。
今、それなりに生活ができていると、なかなか思いもつきませんが、日本でも食料危機が起こるということは、現実の問題として差し迫っています。
食べる物が全くなくなるということではないでしょうが、日本の食料事情が、来年と今年では大きく違って来るように思います。
それは大きな危機のように見えますし、実際、大変な事態ではありますが、その結果として、必ず新たな考え方や生き方というものが、出現します。
そして、それは悲惨なものではなく、今よりもかえって味わい深い、本当に満足できるようなものとなるでしょう。
しかし、変化をそのように受け止められるかは、自分がどのような価値観を抱くかによります。
古い価値観ではなく、新しい価値観を持つように心がけることが、大きな変化にうろたえないための秘訣です。
荒れ狂う世界 その5
地球温暖化対策に加え、ロシアとウクライナの戦争の影響で、世界的にエネルギー不足が生まれています。
そのため、廃止方向に舵を取られていたはずの、原子力発電を増やすべきだという声が、増えています。
しかし、これは既存の考えしか思い浮かばない人たちです。
放射能の処理もできないのに、その発電所を増やすというのは、とても無責任なことです。
それで自分が困るわけではないから、気軽に原発を増やそうと言えるのです。
ここで求められているのは、電気ありきの暮らしからの脱却でしょう。
それは不便に見えるかもしれませんが、自然な暮らしを求める人たちは、それほど電気を使いません。
また、何でも機械を使うのではなく、自分たちが使うものは、自分たちの手で作ることにすれば、そこでも電力量は減るでしょう。
いろんなものをどんどん作るのは、お金が欲しいからです。
と言うことは、お金中心の暮らしでなくなれば、そこまでする必要もありません。
経済は成長しなければならないと言いますが、それは間違いです。
お金が循環していればいいだけのことであり、成長しなくてもいいのです。
お金をたくさん手に入れようという発想が、経済成長が必要だという考えにつながるのです。
世界中の人が同時に、いろんなことで困窮しています。
この世界中というところがポイントです。
世界中の賢い人たちが、同じ問題を共有して、新たな発想で解決策を見い出すでしょう。
古い考えしかできない人たちは、次第に発言力が失われていきます。
今の世界の状況は、人々が新たな世界を求めている証拠です。
本来の自分、本来の人間として暮らせる世界を、多くの人々が心の奥底で求めているのです。
それは、単なる想いに留まらず、実際の行動として表れます。
その結果、新しい世界が産声を上げることになるでしょう。
それは遠い未来ではありません。
もうすぐそこまで来ているのです。
荒れ狂う世界 その4
人は困らなければ、新しい変化を受け入れようとしないものです。
コロナ騒ぎで多くの人が、かなりの制限を強いられました。
中には絶望して、自ら命を絶った人もいます。
それほどの困窮の中で、新しい生き方や、新たな楽しみを発見した人もいます。
彼らはコロナ騒ぎが落ち着いても、もう以前の暮らしには戻らないと言います。
しかし、コロナ騒ぎがなければ、そんな暮らしも知らないまま、それまでどおりの暮らしを、何の疑いも抱かずに続けていたでしょう。
初めから、そのような暮らしを受け入れて、実践して来た人にとっては、コロナ騒ぎというものは、多くの人ほど大変なことでは、なかったかもしれません。
自分を知り、状況の変化に柔軟に対処できる人にとっては、どんなことが起こったとしても、身動きが取れなくなることはないのでしょう。
中国に広がる政府批判も、人々が困り切ったからこそ、生じたものです。
ロシア国民に戦争反対の声が広がり出したのも、困り切った人が増えたからでしょう。
地球温暖化もかなり前から警鐘が鳴らされていたのに、それに早くに対処した来なかったのは、実際に気候変動による被害を、直接には体験していなかったからです。
繰り返しになりますが、人は困らなければ、新しい変化を受け入れようとしないものなのです。
どうしようもないと思われる困難に出会っても、必ず思いがけない発想や、解決方法が生み出されます。
それを邪魔するのは、既存の考え方から脱却できない人たちです。
彼らは新しい発想を否定します。
そんな当てにならないものより、実際に活用して来たものの中から、解決方法を見付けるべきだと考えるのでしょう。
新しい発想を持つ人の数が少数だと、その考えは潰されてしまいます。
しかし、新しい発想に同調する人の数が増えると、とにかくやってみようという動きになります。
その結果、それがいいぞとなると、あっと言う間にそれが広がるでしょう。
まるでオセロゲームの逆転劇のように、世の中のあり方が、それまでとは全然違うものに、がらっと変わってしまうのです。
ピンチはチャンスと言いますが、まったくそのとおりです。
ある状況が終わろうとする状態がピンチであり、新たな状況が生まれようとする状態をチャンスと言います。
つまり、両者は同じ状態を、違った視点で見ているだけなのです。
あなたはどちらの視点に立つのでしょうか。
どちらの視点に立とうとも、起きるべき変化は必ず起こります。
であれば、来るべき状態に応じた視点に立つ方がいいでしょう。
その方が、新たな状況に混乱しませんし、新しい喜びを享受することができるからです。
荒れ狂う世界 その3
これまでも戦争や騒乱は何度もありました。
小さい規模での衝突や殺し合い、個人的な犯罪や事件など、怒りや悲しみを引き起こすようなことは、世界中のどこでも繰り返されて来ました。
それらはエネルギー的に言えば、人間のエネルギーが自然な状態ではないことを、示しています。
本来の状態になれない人々が、狂気に己を見失ってしまって、暴走している状態です。
でも、暴走していない人たちが、自然な状態にあったのかと言うと、そうではありません。
一見、平和で穏やかに見える暮らしの中にいる人たちも、自分たちのことしか考えていない、という人はいくらでもいます。
他の人たちが苦しんだとしても、自分たちの暮らしが安定するのであれば、別に構わないという気持ちですね。
かつての日本もそうでしたが、戦争で有利にある状況の時、人々は戦争を肯定します。
相手がそれで悲惨な目に遭うことなど考えず、勝ったあとに自分たちが、どれだけいい想いができるか、ということしか考えません。
戦争をしていなくても、お金や力で他国を従えている国の人たちの多くは、やはり同じだと言えるでしょう。
直接苦しい想いをしない限り、他の人々の惨状は他人事です。
しかし、これは人間として、とても不自然な状態です。
人間を、生長して花を咲かせる植物に例えたならば、これらの人たちは、決して花を咲かせることがない状態にあるのです。
人間として花開くとは、どういうことなのか。
それを考える必要があるでしょう。
人間は、あまりにも増えすぎました。
地球上には、他の生き物たちもたくさんいるのに、他の全ての生き物たちを追いやって、自分たちだけが生き延びようとしています。
みんな同じ地球の兄弟なのに、自分だけが生き延びようとしているのです。
母なる地球を足蹴にしながら、生きようとしているのです。
これはまさに狂っていると言えるでしょう。
その結果、地球環境に大きな異変を引き起こし、世界的な気候変動を生み出してしまったのです。
多くの人には、地球が荒れ狂っているように見えるでしょう。
でも、狂っているのは人間の方です。
目の前に起こっていることは、今の人間の姿を、自然という鏡に、映し出しただけのことです。
狂っているのは、私たちの方なのです。
でも、それを自然な状態に戻そうと、がんばっている人たちもいます。
本来の人間の姿とは、こういうものなのだと、自分がお手本になって、人々に示してくれています。
それは必ずしも有名な人とは限りません。
子供かもしれませんし、近所にいるような、普通に見える人たちかもしれません。
それぞれが自分に正直に生きながら、みんなと楽しく過ごしています。
その姿を見た多くの人たちは、これこそが求めていたものだと、自分たちも同じような生き方を選ぼうとします。
それはどんどん広がって、もはや誰も止めることができない、すさまじい勢いとなるでしょう。
荒れ狂う世界 その2
ロシアがウクライナに侵攻して、もう何ヶ月にもなりますが、初めはロシア政府の行動を容認していたロシア国民の中にも、戦争をやめるべきという想いが、広がり出しています。
今の時代に、他の人々が平和に暮らしている土地を征服し、自国の領土を広げようという発想があることは、とても驚きでした。
しかも、ロシアとウクライナは戦い合うべき相手ではなかったはずです。
もちろん、互いの政策を気に入らない人たちはいたでしょう。
しかし、家族や親戚、友人知人の中に、双方の国の人が交ざっているという人たちも、多くいたのです。
そんな国同士が実際に殺し合いをするというのは、どうにも理解に苦しむところです。
実際、戦場で相手と向き合っている兵士たちの中にも、自分たちが戦う理由が、よくわからないという人が、少なくないようです。
でも、何事にも理由はあるものです。
どんなに理不尽で理解に苦しむことであっても、それが起こったということは、それなりの理由や原因があるのです。
戦争になると、互いに相手が悪いと、言い争うだけになりますし、勝敗がつくと、勝った方が正しくて、負けた方が悪かった、という構図になってしまいます。
しかし、それは正しいことではありません。
本当の理由や原因を調べて、そこを正さない限り、同じような争いは、今後も繰り返されます。
そう考えた場合、今回のロシアとウクライナの争いは、多くの人々の目を、本当の争いの原因へ、誘導することになるかもしれません。
二度とこんなことを繰り返さない、と人々が強く願ったならば、必ずやそうなるでしょう。
それは、他人への思いやり、みんな同じ人間だという真実、互いを認め合うことによる大きな喜び、とういうものを、改めて見つめ直すことです。
それは人間の自然な姿が、どのようなものであるのかと、確認することでもあります。
過去にも大きな戦争は起こりました。
その時の戦後処理は勝った側の権力者の意向だけで、行われて来ました。
しかし、今は違います。
世界中の庶民と呼ばれる人々が、全てを見ています。
みんな、昔の庶民と比べると、遙かに多くの情報を手に入れて、遙かに物事の善し悪しを見通す力を、身に着けています。
何でもかんでも政府のいいなりになったりはしません。
みんな、自分の意思を持ち、自由の喜びを護ろうとします。
そんな人々が政府を動かし、国を動かし、新たな世界を創って行くのです。
ロシアとウクライナの争いを、どのような視点で見るのかが大切ですが、人々はこれまでとは異なる、もっと高い視点に立って、この争いを収めることと思います。
荒れ狂う世界 その1
中国全土で習近平や共産党に対する、民衆の抗議デモが広がっています。
こんなことは、これまでなかったことです。
ゼロコロナ対策によって、自由を奪われ続けた人々の怒りが、爆発した形での抗議ですが、誰かが煽動しているのではなく、自然発生的に生じたというところが、共産党政府にとっては厄介なことでしょう。
煽動者がいるのであれば、その人物を捕まえればいいわけですが、特に煽動者がいないのであれば、対処の仕方がむずかしいと思われます。
人々の話によく耳を傾けて、みんなの不満を解決しない限り、この抗議デモは収まらないでしょう。
天安門事件や香港民主化運動の弾圧のように、力尽くで押さえ込むようなことをすれば、火に油を注ぐことになります。
しかし、民衆の要望に素直に応じて、これまでの政策を変えるということは、政府のメンツを潰すことにつながるかもしれません。
民衆はデモをすれば要望が受け入れられると知れば、今後も不満が出るたびに、大々的なデモを繰り返すはずです。
始めから人々の声に耳を傾ける政治であれば、デモなど起こるはずがないのですが、上で決めたことを無理やり人々に押しつける形の政治では、デモは避けられないでしょう。
これまで中国では様々な形で、デモが起こらないように押さえ込み、起こったとしても、それが大きな問題につながらないように、対処して来たようです。
それで表面的には、中国は広い国をうまく統制しているように、見せて来ましたが、事実はそうではなかったということが、今回のことで露呈したということでしょう。
日本と違って、中国でデモに参加するのは、命懸けだと聞いています。
それなのに、これほどのデモが広がるのは、人々がそれだけ必死ということです。
人間は自然と区別されがちですが、人間は自然の一部であり、地球の一部です。
そして、自然や地球というものは、エネルギーの塊なのです。
つまり、人間も見方を変えればエネルギーであり、人々の心が抱えている様々な思いは、エネルギーの活動そのものなのです。
そして、今の中国で起こっているのは、中国に暮らす人々のエネルギーが、大きくうねり出したということです。
それは小手先で抑えきれるものではありません。
長い間爆発をしていない火山の下に、知らない間に大量のマグマが、溜まりに溜まっている状況と同じです。
今は大噴火の前触れの状態でしょう。
中国という山が噴火することはないと、見栄を張っていると、どうなるか。
その結果は、いずれわかることでしょう。
ただ、中国だけの問題ではありません。
地球全体の問題であり、人類全体の問題なのです。
つまり、人間が本来の姿に、戻ろうとしているのです。
本来とは異なる状態に、押し込められていた人々が、ついに殻を突き破って、自然な人間の姿に戻ろうとしているのです。
1+1=? その5
自分と何かを区別する時、私たちは 1+1=2の世界にいます。
自分の中に、多くの世界を空想し、多くのキャラクターを考える時、自分の中に、1+1=2 の世界が創られます。
空想をやめて、ぼんやりしている時は、1+1=1 の状態です。
しかし、そのぼんやりしている自分が、今の世界にいるのだと考えた時、途端に、1+1=2 の世界に自分がいることに、気がつきます。
それでも、自分が人類の一人であることを考えれば、自分の意識を超越した所に、人類全体の意識が、1+1=1 の状態で存在していることが、理解できるでしょう。
しかし、その人類の意識も、人類以外の意識の存在を認めた時、やはり 1+1=2 の世界を体験することになるでしょう。
そこで人類意識が経験する、1+1=2 の世界は、今の私たちが経験している世界とは、何もかもが違っているかもしれません。
それでも、そこには自分と他の存在を区別する世界が、広がっているのだと思います。
そして、その遙か上には、自分とは別だと思っていた存在と一つになった、人類意識を超越したさらなる大きな意識が、1+1=1 の状態であるのでしょう。
でも、その意識もまた、自分とは異なる意識の存在を認識し、そこに新たな、1+1=2 の世界が広がるのでしょう。
きりがありませんね。
私たちが認識し体験している、1+1=2 の世界は、人類意識が体験する、1+1=2 の世界とは、かなり違った感覚のものだと思います。
何故ならば、人類全体を一つの個の意識として捉えた時、今の私たち一人一人の意識とは、意識の状態や、物事の理解度が違っているからです。
家庭用のパソコンと、スーパーコンピューターを凌駕するような、凄まじい能力のコンピューターが、違っているのと同じです。
それがどんな世界であるのかは、今の私たちからは、想像すらできません。
私たちの頭脳の能力では、処理しきれないような、膨大な情報にあふれた世界だからです。
しかし逆に言えば、そこまで優れたコンピューターが、描ける世界を当たり前に思う存在には、家庭用のパソコンで描く世界というものは、とても新鮮で刺激的に思えることでしょう。
それは、私たちが認識している世界を、顕微鏡で探査するようなものです。
上の世界を理解するためにも、下の世界である、私たちの世界を知る必要があるわけです。
1+1が、2なのか1なのか。
それは自分と他のものを、区別するのかしないのか、という意味になります。
1+1の答えを、どうとらえるかで、自分が認識する世界観が変わります。
自分を世界の一部、自然の一部ととらえるのか、別物ととらえるのかで、その人の生き様も変わって来るでしょうし、何を喜ぶかも違って来るでしょう。
わかりにくいかもしれませんが、一度ゆっくり考えてみて下さい。
1+1=? その4
人類全体を一つの存在として見た時、私たち一人一人は、その一つの存在の中に含まれています。
人類全体を見る時には、1+1=1 になりますが、個別の人間に目を向けると、1+1=2 になるのです。
これは、とても面白いことだと思います。
言ってみれば、私たちや私たちの世界とは、人類全体の意識が、自らの中のどこかに、意識の焦点を合わせた時に、創られると見ることができるわけです。
個人的にも、頭の中に空想の世界を思い描き、その中に様々なキャラクターを想定することができますが、それに似たものでしょう。
空想の世界の中の、一人一人のキャラクターに想いを寄せる時、私たちの意識は、そのキャラクターになりきります。
でも、他のキャラクターも同等であり、自分自身の分身です。
そして、空想の世界から意識を離すと、それぞれのキャラクターが統合された、本来の自分に戻るわけです。
空想の世界を思い描くのは、全くの自由ですから、思い描ける数に制限はありません。
それらの世界は、お互いがパラレルワールドの関係にありますが、全体意識から見れば、全ては自分の中にあるものです。
目を閉じて、自分の存在だけをぼんやり感じている時、そこには何の形もないし、何の世界もありません。
でも、何かに意識の焦点を合わせると、そこに形が生まれ、想像の世界が開かれるのです。
ぼんやりしている時の自分の中には、焦点を合わせていない、いろんな要素が合わさって存在しています。
1+1=1の状態です。
しかし、意識の焦点を何かに合わせると、1+1=2 の状態が創られるのです。
1+1=1 の自分が本来の自分であるならば、1+1=2 の世界の自分は、仮の自分と言えるでしょう。
しかし、そこには 1+1=1 の自分では得られない、特別な情報や感覚があるわけで、1+1=1 の自分から見れば、学びの宝庫です。
つまり、私たちが暮らすこの世界は、一見不自由に見えますが、本来の自分から見れば、とても刺激的でエキサイティングな世界なのです。
楽しいことも、悲しいことも、腹が立つことも、空しいことも、それらは全て、この世界を体験しているからこそ、発見できる感覚であり感情なのです。
そこに善悪を意味づけるのは、人間の勝手ではありますが、それらの体験を、一部の善悪の判断だけで理解するのは、得られるものがとても薄っぺらいものになるでしょう。
この世界は、お金を稼いで生き延びるために、あるのではありません。
この世界を、どのようなものにするのか、という点にこそ、私たちがこの世界を体験している意味があるのです。
この世界は、それほど意義深く価値ある所ですし、この世界を体験している私たちは、もっとわくわくどきどきしていいのです。
何かに縛られて、自分自身を押さえ込むような生き方は、一つの経験ではありますが、それが全てではありません。
もっと自由に、この世界の面白さを、味わいつくすつもりで、生きることが、本来の目的なのだと思います。
1+1=? その3
数えられる物については、1+1=2 の式が成立します。
青いボールと黄色いボールを一緒にしても、それが一つのボールになることはありません。
青+黄色=青+黄色 のまんまです。
でも、青いボールと黄色いボールを数えきれないほど集めて、一所に混ぜて置いたとして下さい。
これらのボールを、ずっと離れた所から眺めると、全体が緑色に見えるのです。
ボールに近づいて行くと、緑のボールは、ある時点から青いボールと黄色のボールが、混ざっているのだと、わかるようになります。
でも、その点よりも遠く離れると、二つのボールの色は区別ができなくなって、全部が緑色のボールに見えてしまうのです。
これは、1+1=2 ではなくなったということです。
青+黄色=緑 という数式に基づけば、この場合、1+1=1 という関係が成立した、と見なすことができるのです。
本来、一つに重なるはずのない物が、遠く離れて全体を眺めて見た時に、一つになっているように見えるのは、とても興味深いことでしょう。
人間の目と脳の関係が、そうなっていると言えば、そうなのですが、私が言いたいのは、そういうことではありません。
ばらばらになっていると思えるものも、全体で捉えたならば、そこには一つ一つを見ていたのとは、異なる色が見える、という事実が面白いのです。
青と黄色だけでなく、他のいろんな色のボールで、試して見ても面白いでしょう。
やはり、遠く離れて眺めれば、一つ一つの色とは、全然異なる色が、見えるはずです。
ボールの場合、その色は塗料の色ですから、いろんな色が混ざってしまうと、最終的には黒くなってしまいます。
ですから、多くの色のボールが混ざったならば、全体的には黒く見えるでしょう。
でも、ボールを光のスポットに置き換えたなら、いろんな色のスポットが並ぶと、全体的には白く見えます。
世の中にはいろんな人がいて、いろんな考え方がひしめきあっています。
みんな、てんでばらばらに見えますが、それぞれの人の意識が、この光のスポットだと思ってみて下さい。
そして、世界中の人々全体を眺めたつもりになってみましょう。
そうすれば、人類全体の意識の色が、見えて来るはずです。
それがどんな色になるのかは、一人一人の色がどんな色なのかに、影響されています。
逆に言えば、全体的な色が決まっていれば、一人一人の色は、その全体的な色に含まれたものに、なるでしょう。
全体の色が黒っぽいとすれば、その中に白く光り輝く意識は、少ないということになります。
世の中に、白く光り輝く人が増えたなら、全体の意識の光も、白に近いものになるでしょう。
でも、こういう考え方は、1+1=2 という見方しか知らない人では、理解がむずかしいと思います。
それでも実際に 1+1=1 となる実例があるわけですから、人間という存在を考える時に、そのような見方をしてみるのは、大切なことだと思います。