夢をどう見るか その2
私が見た中東のイメージの夢は、多くの日本人が抱えている問題を、表していると思いました。
私にとって中東は、勝手が全くわからない所です。
それと同じように、多くの若い人にとって、自分が飛び込んだ社会や会社組織の中は、全く勝手がわからないでしょう。
何をどうすればいいのかがわかりません。
何かをするにも、どうしてそうするのかも理解ができていません。
言われていることも、よくわかりません。
何とか雰囲気で理解するばかりです。
そもそも、どうしてその職場を選んだのかと問われても、そこしか雇ってもらえる所がなかったから、と答える人がほとんどではないでしょうか。
それは、私がどうして中東にいたのか、わからないというのと同じです。
たまたま、そこにいたのです、としか答えようがありません。
そこへ思いがけない問題が起こります。
それは会社命令によるものかもしれませんし、個人的なトラブルかもしれません。
あるいは入ったばかりの会社が、倒産することもあるでしょう。
自分を含めた何人かが、リストラされるということも有り得ます。
とにかく、突然に思いがけないことが起こっても、それに対処することなどできません。
対処しているように見えても、心の中は不安で一杯です。
どうして自分が、こんな目に遭わなければいけないのか。
逃げたいけれど、逃げようがない状況を、どうすればいいのか。
こんな状況は現実にもあるわけで、大変な思いをする人は、数え切れないほどいると思います。
何かいい方法はないのでしょうか。
実はそれがあるのです。
夢はそれを教えてくれていたのです。
夢をどう見るか その1
変な夢を見ました。
何故か私は、中東と思われる地域の、小さなホテルにいるのです。
窓から町の様子が見えますが、突然、そこがイスラム過激派のような集団に襲われ、支配されるのです。
人々は強制的に集められ、どこかへ連れて行かれます。
ホテルも安全とは言えないのですが、いずれホテルにも彼らの支配が及ぶのは必至です。
そうは言っても、身の危険のことを考えるのならば、今はホテルに籠もっているのが安全で、外には出ないようにするべきだという思いがありました。
一方で、外の様子を直接確かめてみようという気持ちもあり、私はホテルの階段を下りて、外へ出たのです。
すると、すぐに過激派の男が現れて、ホテルにはもう戻れないと伝えて来ました。
話す言葉は日本語ではないのですが、何故か言わんとしていることは、こちらに伝わります。
私は素直に従いながら、自分はホテルに宿泊しているのだが、どうすればいいのかと男に問いかけました。
面白いもので、日本語なんか通じないのですが、私の考えは相手に通じます。
男は上の人間に相談して来ると言って、どこかに姿を消しました。
そこで私は目が覚めたのです。
それから私は、今の夢はいったい何だったのかと考えました。
別に中東の事件をニュースで見たわけでもないし、中東に興味があったわけでもありません。
最近の話題に中東が出て来たこともないですし、中東のことを考えたこともありませんでした。
それなのに、こんな夢を見たのはどういうことなのか。
この夢が自分に何を伝えようとしているのかと、私は考えました。
そこで思ったのは、何かを象徴するために、中東というイメージが使われたのだろうということです。
この夢の中東のイメージは、実際の中東を示しているのではなく、私の中にある中東のイメージです。
私にとって中東は、どこにイスラム過激派がいるのかわからない、怖い所というイメージがあります。
それで、こんな夢を見たのでしょう。
また中東は、私には全く馴染みがない所で、言葉も生活習慣も法律もわからない所です。
右も左もわかりませんし、そもそもどうして自分がそこにいるのかも、わからないわけです。
そんなところに、突然思いがけない大問題が発生し、そこに巻き込まれて身動きが取れなくなるという状況です。
幸いにもパニックにならずに、過激派の男と紳士的に会話ができたため、大変なことにはならずに済みそうな感じでしたが、本当のところはどうなるのかわかりません。
ホテルに潜んでいたとしても、いずれは過激派がホテルにやって来て、同じように捕まっていたはずです。
しかし、外はすでに占拠されているので、逃げようにも逃げられません。
逃げても逃げなくても、同じ運命が待ち構えているわけです。
あとは、どのように対処するかぐらいでしょう。
パニックになって泣きわめくのか、全てをあきらめて奴隷になることを受け入れるのか、過激派の男に喰ってかかって撃ち殺されるのか、あるいは相手と交渉をして、何とかうまく立ち回るのか。
いずれにしても、そこに安全も喜びもありません。
そんな状況を示すために、夢は中東という地域を利用したのでしょう。
しかし、そこにどんな意味があるのでしょうか。
夢は私に何を伝えようとしていたのでしょう。
そこで私は考え、なるほどと思いました。
私が見た夢の中東の状況は、現在の日本で多くの人が抱えている、問題そのものなのだということを、夢は伝えていたのでした。
トンガの海底火山
南太平洋の島国トンガ王国のすぐ近くで、大規模な海底火山が爆発しました。
この海底火山はトンガから100kmほど離れた所で、それほど遠い位置ではありません。
トンガ海岸には1mを越える津波が押し寄せたそうですが、その後、トンガの多くの地域と連絡が取れない状況が続いており、どうなっているのかはよくわかりません。
衛星から撮影したトンガ周辺の動画では、海面に突然黒い噴煙の輪が広がり、近くの島々を呑み込みました。
全ては一瞬の出来事で、もしその島々に人や生き物がいたとすれば、全滅したのではないかと思われます。
離れた地域では津波を心配しますが、噴煙に包まれた所は、すさまじい衝撃波や熱風、海底から打ち上げられた火山弾や、火山灰などの影響をもろに受けます。
襲って来る津波も、1mどころではないでしょう。
それも熱水の津波です。
トンガの被害は、これから明らかになるでしょうが、トンガの人々の無事を祈るばかりです。
日本は火山王国なので、火山爆発は他人事ではありません。
それに地震王国でもあり、突然の大地震で大きな被害を受ける不安が、常につきまとっています。
それでも、人々は日々の生活に追われ、いつ起こるかわからない自然災害に対して、無頓着になる傾向があります。
政治家が真っ先に口にすることは、いつでも決まって経済の活性化です。
経済さえうまく回せば、他の問題は全て解決するかのように、経済経済です。
確かに、今の人間社会はお金を中心に動いていますから、経済が問題にされるのは理解できます。
だけど、そんな経済も自然の猛威には、為す術がありません。
被害を受けるのが一部の地域に限定されていれば、経済が停まることはないでしょう。
しかし多くの大都市が、同時に被害を受けるような大災害が生じると、経済は停滞します。
場合によっては、崩壊するかもしれません。
そのことは、今回世界中で猛威を奮っている、コロナウィルスが教えてくれています。
今のオミクロン株は重症化が少ないため、以前と比べると、経済は維持されているようです。
でも、これが致死性の強いウィルスであれば、そうはいかないでしょう。
異常気象に伴う被害も、世界中で起こっていますし、南極大陸の氷が溶けると、海岸線にある大都市は、全て水没してしまうことは、よく知られた話です。
それなのに、人々が経済や仕事にばかり、目を向けてしまうのは、ある意味、病んでいると言えるでしょう。
何かが起こってから、慌てて対策を考えたり、そんな中でも経済を回そうと、四苦八苦するよりも、お金中心の考え方を、すぐにでも改めることが重要だと思います。
お金がないと動けない社会ではなく、お金がなくても、助け合って動ける社会を築くべきです。
お金を信奉するのではなく、生きる喜びを重視すべきなのです。
危険なのがわかっているのに、対策が打てないとか、移住ができないというのは、全てお金が原因です。
お金の問題がなければ、必要な対策はいくらでも取れるでしょうし、移住が必要な方は、どこにでも移住ができるはずです。
自然災害そのものを止めることはできなくても、それに応じた動きを取ることは、本当の知恵と思いやりがあれば可能です。
人類に危機を感じさせる災害は、今後も続くことでしょう。
人間よ、どうするんだい?
と、トンガの海底火山を始め、多くの自然災害は問いかけているように思います。
あなたはパペット? その3
知らない間に見えない糸となって、行動を制御する価値観の多くは、身近な人からもらい受けたものです。
それは親や兄弟姉妹、親戚や近所の人、学校の先生や友だち、職場の上司や先輩、それに同僚たち。
そんな身近な人たちが、何の悪気もなく、ごく当たり前という感じで話すことは、あまり警戒することもなく、そんなものなのかと素直に受け止めてしまいます。
その価値観の糸により、あなたを支配しようとする場合もあるでしょうが、大抵の場合は、そのような意図はないまま、自分が信じる価値観を、よかれと思って伝えるのです。
そして、結果的にはみんなが同じ糸で操られる、パペットになってしまうのです。
でも、みんなが同じ状態なので、誰も自分がおかしいとは思いません。
逆にパペットになろうとしない者を、異質な人間として見てしまいます。
また、同じことをあなた自身が、他の人や自分の子供にするのです。
もちろん、よかれと思ってやるのです。
このように、人々を支配する価値観は、みんなの善意の気持ちを、うまく利用して拡散されて行くわけですね。
利用されないためには、どうするのか。
それは、当たり前だと思っているようなことでも、どうしてそうなのかということを、改めて考えてみることでしょう。
そうすれば、昔であれば当たり前だったかもしれないけれど、今の時代にはそぐわないな、と思えるような価値観が、すぐに見つかることでしょう。
また、誰かが悲しんだり苦しんだりするような価値観や、誰かをのけ者にするような考え方は、絶対におかしいと思えばいいのです。
もし、一部の人間だけが優位になるような価値観、あるいは一部の人を貶めるような価値観であれば、関係ない者までもが共有する必要はありません。
~でないとだめだ。
~でなければいけない。
~した方がいい。
このような語尾がつく価値観は、人をコントロールしようというものです。
何をどうするのか。
そんなことは、誰かに言われて決めるのではなく、自分で考えるものです。
考えることをしない人は、すぐにこのような支配的な価値観を受け入れます。
その方が考えなくて済む分、楽だからです。
逆に言えば、支配的な価値観は、人から思考能力を奪います。
それは宗教でよく見受けられますが、政治や学問の世界でも、よくあることです。
価値観は自分で考えて決めることですし、一度手にした価値観も、状況に応じて見直すだけの、心のゆとりが必要です。
人間として成長したい、人間として喜びを感じたい、そう思うのであれば、その気持ちに従った価値観だけを、身に着けるようにすればいいでしょう。
自分に不要な価値観は、さっさと捨て去るのが一番です。
そうすれば、とても気持ちが楽になって、自由を得た気分になるでしょう。
それはパペットであることから、解放されるということです。
あなたを束縛するものは、もうありません。
あなたは自由を謳歌して、本当の自分の人生を、送ることができるでしょう。
あなたはパペット? その2
男はこうでなくっちゃ。
女のくせに、そんなことするの?
子供は黙って大人の言うことを聞くものだ。
老いては子に従え。
こんな言葉は、私たちの意識の中に、さり気なく埋め込まれています。
お金がないと生きて行けない。
やっぱり就職するなら、大手の企業だ。
今どき、英語が話せないとだめだ。
中卒じゃあ、誰にも相手にされない。
こんな考え方はどうでしょうか。
そんなことあるものかと言える人はいいですが、これのどこが間違っているのかと、思ってしまう人は要注意です。
あなたは見えない糸で、操られているかもしれません。
同じ考えでも、自分の経験から考えたものであれば、違う経験をすることで、その考えを変えることができます。
しかし、他人にすり込まれた考えは、自分でこれはおかしいと感じながらも、その考えから抜け出すことができません。
その結果、その考えにそぐわない自分が、間違っているとか、無能であるとか、病気であると考えてしまうのです。
友だちは多い方がいい。
たくさんの人に指示されなくては。
結婚できないのは負け組。
こんな風に考えている人も、少なくないのではないでしょうか。
だけど、大抵の場合、こんな考えは誰かが勝手に決めたことです。
恐らく、初めにこんな考えを思いついた人は、自分に自信がなくて不安だったのだと思います。
それで、自分と同じ考えを持つ人を増やすことで、安心感を得たいと思ったのでしょう。
すると、似たような人が同じ理由で、どんどんこの考えを広めて行き、あたかもこれが正しいことであるかのような状況を、作りだしたのです。
そう思いたい人は、勝手に思っていればいいのですが、関係のない人までもが、そんな価値観に振り回されるのは、迷惑な話です。
とは言っても、しっかりした自分というものがなければ、いとも簡単にこのような考えに、洗脳されてしまいます。
パペットのように糸で操られるのではなく、自らの力で動けるようにしなくてはなりません。
そのためには、自分の思考や行動の元になっている、価値観や考え方が、どこから来ているのかを、じっくり確かめる必要があるでしょう。
あなたはパペット? その1
パペットとは、あやつり人形のことです。
人形だけを見ていると、自分で動いているように見えますが、全身につながれた糸で、誰かが操作しているのです。
人間にも、こんな感じの人がいるのではないでしょうか。
たとえば、大物政治家の言いなりになる、小物政治家です。
あるいは、会社の重役の言いなりになる、中間管理職もいるでしょう。
宗教に洗脳された信者たちも、教祖と呼ばれる人のあやつり人形です。
誰かを操っているはずの者が、さらに上の者に操られていた、という構図もあると思います。
また、操られている者には、自分が操られているという自覚はありません。
あくまでも、自分の自由意志で動いていると、信じ込んでいます。
でも、端から見ていると、操られているのは明らかです。
そうそう、いるいる、とうなずいている、あなただって、操られているかもしれません。
そんなことはないと思うでしょうが、よく考えてみて下さい。
あなたが自分の価値観だと信じているものは、どこから来たのでしょうか。
あなた自身が、自らの知恵と経験で創り出したものなのか、あるいは、他の人から教わったものなのか。
その価値観が正しいか否かは別にして、自分で考えたものでなければ、その価値観は他人から植え付けられたものです。
そこがきちんと理解できていれば、その価値観を利用しても、振り回されることはありません。
何が何でもこの価値観が絶対なのだと、考えることはないでしょう。
しかし、他人から植え付けられたと理解していない人は、それが自分の価値観だと信じていますし、それが正しいと思いがちです。
周囲の多くの人が、似たような価値観を持っていれば、なおさら自分は間違っていないと考えます。
自分で考え、決定していると思っていても、実際は見えない糸となった他人の価値観が、あなたを動かしているのです。
恥ずかしいという気持ち
他人の目を気にする時、私たちは気恥ずかしさを感じています。
恥ずかしいという想いがあると、私たちは目立たないようにしようとします。
何か言うべき時でも喋りません。
何かをするべき時にも、じっとしています。
時には、それによって大切な人が、傷つくようなことがあっても、何も言えず、何もできないということがあります。
あとでそれを反省したり、後悔しても、どうしようもありません。
恥ずかしいと思う時、自分で自分を低い存在と見なしています。
他の人とは違う存在、人から馬鹿にされる存在、人に嘲笑される存在、と見ているのです。
そんなのは嫌だから、そんな自分を恥と思い、目立たないようにするのです。
だけど、実際に他人が自分をどのように見ているのかは、わからないものです。
明らかに馬鹿にされたり、白い目で見られるのでなければ、案外何とも思っていないかもしれません。
その場合、恥ずかしいという気持ちは、一人相撲であり、勝手な独りよがりということになるでしょう。
だけど、本当は馬鹿にされるかもしれないし、それがわからない以上、じっとしている方が得策だ、と考えたくなるかもしれませんね。
仮に、馬鹿にされるのだとしても、言うべき時に言うことを言うのは、大切なことですし、やるべきことをやるのは、とても重要です。
それらは自分の人生のものであって、他人のものではありません。
自分の人生をどうするのかは、自分の勝手であって、他人にとやかく言われる筋合いはないのです。
とやかく言う人がいたら、放って置きましょう。
笑いたければ、笑わせておけばいいし、馬鹿にしたければ、馬鹿にさせていればいいのです。
その結果、あなたが好きなことを言い、好きなことをやって、楽しい人生を過ごしたならば、馬鹿にしていた人たちは、考え方が変わるでしょう。
あなたを笑ったことで、恥じ入るに違いありません。
でも、彼らがどのように変化するかも、あなたには関係のないことです。
たとえば、好きな人に対して、好意を示すことが恥ずかしいと思って、知らんぷりをすれば、きっと深く後悔するでしょう。
誰かに、あいつのことが好きなのかと言われて、何であんなやつなんか、なんて真逆のことを言ってしまうと大変です。
その言葉が、好きな人の耳に届き、その人を傷つけてしまうに違いありません。
大切な人を傷つけるぐらいなら、自分が恥をかいた方がいいと思いませんか。
わざわざ他人がやらないような、無謀なことをしてかく恥とは違います。
そういう恥は、自信のなさの結果ではなく、単なる思考能力の欠如の結果です。
ここで言う恥というのは、自分を低く見ることによる、自信のなさに起因したものです。
自分に自信がなくても、好きな人を傷つけないために、恥をかく覚悟をすれば、どうってことありません。
それに、自分の気持ちに正直に生きていれば、恥をかいたと思うことはありません。
正直に生きることに、堂々としていればいいのです。
自分の想いに正直に生きること。
これは立派なことであり、また自然なことであり、これからの社会で求められることです。
こんなことをすると恥をかくかもと思っても、自分の好奇心や興味が、そちらを向いているのであれば、思い切ってそちらへ一歩踏み出して下さい。
恥ずかしいという想いよりも、喜びの気持ちの方が、勝るに違いありません。
自分らしくいることの喜びを、知ってしまえば、恥ずかしいという想いは、消えてなくなるでしょう。
責任と思いやり
人間社会には責任という言葉があります。
責任を辞書で調べると、「立場上当然負わなければならない任務や義務」とありました。
親としての責任とか、教育者としての責任とか、医師としての責任などが、そうです。
自分の責任を果たすというのも、この意味です。
また、「自分のした事の結果について責めを負うこと。特に、失敗や損失による責めを負うこと」ともありました。
事故の責任を取るとか、責任を転嫁するとか、戦争責任とかですね。
責任という言葉には重みがありますし、俺が全ての責任を取ると言うと、格好いい響きもあります。
責任感がある人物は信頼されますし、無責任な人は軽蔑されます。
責任があるかどうかで、その人の社会的評価は大きく分かれますし、社会構造としても、無責任な人や会社ばかりだと、とんでもない社会になるでしょう。
しかし、責任の背後にあるのは、義務です。
親の責任、教育者の責任、医師の責任は、親の義務、教育者の義務、医師の義務と、言い換えることができます。
また、事故の責任、戦争責任などで使う責任は、責められるべきものですね。
義務にせよ、責められるべきものにせよ、求められている者に、ずっしりとのし掛かるものが責任です。
子供に関して取る行動が、好い加減な親は、無責任な親と言われます。
逆に、子供に関して、しっかりと適切な行動が取れる親は、責任感のある親と見られるでしょう.
でも、本当のところは、そうでしょうか。
子供に対して親が動く場合、その根底にあるのは基本的に愛情でしょう。
子供に、やっていいことと悪いことの、区別をつけさせる時、愛情で動くのと、責任で動くのとでは、教え方や口調などが異なると思います。
前者は子供に理解をさせることが中心ですが、後者は子供に親の言うことを聞かせることが中心です。
前者は子供に話しかけますが、後者は子供に命令します。
同じことは、学校での生徒と先生の関係や、病院での患者と医師との関係でも言えます。
わからない相手に何かを教える時、相手がわかるやり方を模索しようとするか、わからない相手が頭が悪いのだと、決めつけるのかで、全然応対は違って来るでしょう。
学校でも病院でも、決められた時間内で作業を済ませようとすると、相手が本当に理解できているかどうかよりも、理解はさせたぞという形を作ろうとします。
それが、時間内にやるべきことを済ませる責任、になるわけです。
この責任を、相手にきちんと理解させることだと考えた時、必ずそこに相手への敬意や思いやりを、見出すことになります。
責任は大切なことだと思いますが、自分がするべきことの、本当の意味を理解していなければ、責任は冷たく機械的なものになってしまいます。
責任感はあるけれど、冷たい人だな、と思われることでしょう。
事故の責任、戦争の責任などで用いる責任は、結局は他人への配慮や気遣いが足らない、ということが責められます。
つまり、本来の責任には思いやりがついているわけです。
辞書では義務として説明されていても、それは親にしても、教師にしても、医師にしても、こういう姿であるべきではないですか、という意味です。
そして、その裏には必ず、その立場における相手への思いやりが、隠れているのです。
責任という言葉の、本当の意味を考える時、そこに思いやりというものを、欠かすことはできません。
言い換えれば、思いやりが根底になければ、責任というものは、本来の機能を発揮できないのです。
政治家が責任を果たしたというのは、本当は果たしていないことが、多いと思います。
それは国民に対する思いやりに欠けていることが、あまりにも多いからです。
お金儲けばかり考えている、企業の人たちも同じです。
従業員や、一般の消費者の人々への思いやりがなければ、責任ある企業とは言えません。
責任とは何かということを、人の上に立つ者たちには、よく理解してもらいたいものです。
引き寄せの法則
自分が望んだものが、引き寄せられるという、引き寄せの法則というものが、あると言います。
お金持ちになりたいと望めば、宝くじに当たるとか、遺産が手に入るとか、高収入の仕事に就けるとか、思わぬ金運がやって来るわけです。
また、有名になりたいと望めば、ブログが大受けするとか、コンサートが大成功するとか、俳優になる道が開くとか、みんなが羨むようなことが起こるわけです。
しかし、引き寄せられるのは、いいことばかりではありません。
不満や愚痴ばかりの暮らしを送っていると、腹の立つことや、嫌な想いをさせられることが、次々に起こります。
それも、嫌なことに気持ちを集中させることで、自分で引き寄せていると言います。
どうせ引き寄せるのであれば、明るく楽しいものがいいですから、そのためにも明るく楽しい自分で、いられるようにしたいものです。
ただ、望んでいることがあるのに、その結果が引き寄せられないということって、よくありますよね。
それについて、なるほどと思える話がありました。
それは、自分が本当に望んでいるものは、実際に引き寄せられているのに、余計な価値観や思い込みが、それを逆に遠ざけてしまうというものです。
望みを引き寄せようと努力するのではなく、望みを遠ざけてしまう価値観や思い込みを、さっさと手放すのが、望みを引き寄せるコツだそうです。
と言うか、望みはすでに引き寄せられているので、それを邪魔するなということです。
たとえば、お金持ちになりたいと望んでも、自分には学歴もなければ、何の資格もないし、特技もない。
だから、お金持ちになれるわけないよね、という考えが、お金持ちになる未来を遠ざけているのです。
自分がお金持ちになることに抵抗しない。
自分がお金持ちになることを素直に受け止める。
自分にはお金持ちになるだけの価値があると認める。
こんな感じで、お金持ちになる未来を遠ざけないでいると、お金持ちになれるのです。
ただ、お金持ちになるのが、本当の願いであればの話です。
お金持ちになりたいというのは、お金持ちになれば、大きな家に住めるから、というのであれば、本当の願いは、お金持ちになることではなく、大きな家に住むということです。
この場合、自分の中のネガティブな考えを手放せば、お金は手に入らなくても、大きな家を手に入れるということに、なるかもしれません。
ただ、家を手に入れるためには、お金が必要だ、という考えに固執してしまうと、お金がかからないで、家が手に入るという未来が、訪れられなくなるわけです。
自分をネガティブに見る考えや、こうでなければだめだ、という固定観念を捨て去ることが大切なのですが、そもそも自分が何を本当に望んでいるのかを、きちんと確かめることが、何より重要でしょう。
本当の望みを確かめて、その望みがどのように叶うのかは、蓋を開けてからのお楽しみ、という感じで、いろいろ注文をつけず、だめかもしれないなんて考えず、素直に実現を待つのが肝要です。
何だ、そんなことかと思うかもしれませんが、案外、思い込みを捨てるのはむずかしいものです。
お金がなくても望みが叶うなんて、心の底から信じることは、結構むずかしいと思います。
それでも、それができるようになれば、その望みは必ず叶うでしょう。
商いと暮らし博物館
内子の「商いと暮らし博物館」を訪ねて来ました。
ここは明治創業の薬商「佐野薬局」の建物と敷地を、内子町が購入して昔の暮らしを展示したものです。
建物の所々には喋る人形が設置され、大正10年(1921年)頃の薬屋さんの暮らしが、再現されています。
佐野薬局創業の前は、ここで何をしていたのかは、説明がありません。
上の写真の左側の障子が閉まっている部分と、その上の二階は江戸時代の物だそうで、何かの商いをしていたと思われます。
佐野薬局が創業してからは、左側の障子の部分は、薬の調合室として使われていたようです。
一階の中央から右側は、商品の売り場です。
家人と使用人の区別は、きっちりとなされていて、見ていてちょっと痛々しく思います。
当時、白米を食べるというのは、かなりの贅沢だったそうです。
とは言っても、今と比べると、お金持ちの割には、かなり質素な食事ですね。
朝と昼は、このようにご飯と味噌汁と漬け物ぐらいだったようですが、夕食にはここに煮物などが加わったそうです。
この家では、家人と使用人が食事をしている、茶の間の奥に台所があります。
江戸時代にはこの台所はなく、手前の茶の間の脇にある土間に、台所があったそうです。
写真の女中が働いている台所は、明治時代に建て増されたものです。
上の写真は明治に建て増された部分です。
主人夫婦の寝室の向こうには、商品の売り場があります。
この家には、当時まだ珍しかった電話があり、裕福さを物語っています。
客間の隣にある階段は、建て増された部分の階段です。
上に上がると、大広間になっています。
大広間の奥には、古い方の建物の二階への出入り口があります。
古い方の二階は板の間になっています。
ここには薬の保管場所と、使用人の寝場所を兼ねた所です。
使用人には畳二枚だけが敷かれています。
しかし、全ての商家が使用人のために、畳を用意したとは限らないと思います。
ここは裕福な店なので、それぐらいの余裕があったのだと思われます。
上の写真の右側に、ちらりと襖と畳が見えますが、これはここのご隠居の部屋です。
※使用人と同じ空間に、隠居の部屋があるというのは、何だか妙な感じですね。
スペースが限られているので、仕方がないことなのでしょうが、ご隠居が足腰が弱ったり、病気になったりすると、一人で階段を上り下りできなくなると思います。
そんな時にはどうしたのだろうかと、つい考えてしまいます。
便所にも行けないでしょうから、本人も大変でしょうが、世話をする人も大変だったでしょうね。
建て増した方の二階は、元の二階よりも少し高く作られています。
恐らくですが、客をもてなしたり宴会を開く広間と、使用人が使う仕事場を、同じ高さにはできないということでしょう。
板の間から降りて来ると、茶の間の隣にある、使用人の部屋に出ます。
写真の階段の向こうは、薬の調合室ですが、江戸時代にはこの調合室が店の売り場に、なっていたのでしょう。
商いと暮らし博物館を、ざっと紹介しました。
明治や大正の商家の暮らしを、のぞき見した気分になれたでしょうか。
ちょっとタイムスリップしたような気になれますから、内子を訪れる機会がある方は、ぜひここをのぞいてみて下さい。