ガイドとの交流
先日、面白い夢を見ました。
と言っても、目は覚めていました。
眠っていたわけではなく、目を閉じてぼんやりした状態です。
自分が部屋で寝ていることもわかっていますし、いつでも体を動かせる状態です。
そんな感じで、ただぼんやりしながら、目蓋の裏に見えていた、巨大なスマートフォンの画面を、眺めていました。
別に自分でスマートフォンを、イメージしたわけではありません。
何となく見えていたのです。
その画面には何も映っていませんでした。
文字入力のボタンは見えず、画面の下に送信ボタンがあるばかりです。
人にはそれぞれ、目に見えない存在がついていてくれて、その人が人生から学びを得るために、支えてくれていると言われています。
その目に見えない存在は、ガイドと呼ばれていますが、私は自分のガイドに会いたいと思っていました。
時々、そんなことを思って眠ると、夢の中にガイドと思われる人物や、動物なんかが現れます。
この時は、まだ眠っていたわけではないのですが、すでにスマートフォンの映像が見えていて、これを使って自分の気持ちを伝えれば、ただ念じるよりも、確実に自分の想いがガイドに伝わりそうだと、私は思いました。
それで、自分を支えてくれているガイドたちに、会いたいですと思いながら、そのスマートフォンの送信ボタンを押しました。
文字入力はしていません。
それに送信ボタンを押す指も、イメージの中のものです。
すると、そのスマートフォンの陰から、何かが上下しながら、出たり消えたりするのが見えました。
何だろうと思って見ていると、それは人間のようでした。
大勢の人々に、わっしょいわっしょいと胴上げされています。
一人一人の顔まではわかりませんが、誰かが仲間たちに胴上げされているのです。
私はその胴上げされている人物が、自分なのだとわかりました。
その自分に意識を合わせると、自分自身が上に上がったり下がったりする感じです。
これは、いつでもガイドたちが、自分のことを支えてくれていることを、示してくれているのだろうと思い、とても嬉しく思いました。
意識をそこから離すと、再び大きなスマートフォンの画面の前に戻りました。
私はガイドたちに感謝と愛を込めて、送信ボタンを押しました。
するとボタンを押した途端、自分自身に感謝と愛の想いが、飛び込んで来ました。
相手に送ったはずの気持ちが、自分自身に向かって来るなんて、思いもしなかったので、あれ? という感じです。
でも、すぐにこう考えました。
つまり、ガイドたちという存在は、実は自分自身であるのだと。
今の自分もガイドたちも、同じ大きな存在の分身であるから、ガイドへ送ったはずの念が、自分自身にも届いたのだろうということです。
それにまた、自分とガイドが互いを同じ想いで見ている、ということでもあるのだと思いました。
自分が相手に感謝と愛を伝えたいと思った時、相手もまた同じように思っていたのでしょう。
そして、思いを届けようと心をつなげた時に、互いの同じ想いが交換されたわけです。
自分の念が自分に戻ったのか、自分と相手が同じ想いを抱いていたのか。
一見、異なるように見える理解ですが、実は同じことを、表現しているだけです。
どの視点で表現するかの違いです。
とにかく、普段気がついていなくても、ガイドたちは常に付き添ってくれているということです。
その存在を感じる時は、とても安心感が得られます。
今回の大きなスマートフォンも、恐らくガイドたちが、用意してくれたものでしょう。
自分のガイドとつながってみたいと思う人は、眠る時に、ガイドに会いたいと念じてみて下さい。
ガイドがいるかどうか疑ってはいけません。
また、ガイドを信じる必要もありません。
と言うか、信じるという言葉の裏には、疑いが隠れています。
余計なことは考えず、ただ「ガイドさんに会いたい!」と念じて眠ればいいのです。
きっと意外な形で、ガイドは夢に出て来てくれると思います。
千の海を越えて
テレビのお天気チャンネルを見ていた時に、素敵な歌声が流れていました。
この番組は背景に流れている音楽の情報を、テロップで流してくれているので、その曲名が出て来るのを待っていると、出て来ました。
曲名は「Shalion」
誰の曲かというのは「大島ミチル」
大島ミチルさんが作曲家なのは知っていましたが、歌も歌っていたのだろうかと思いながら、インターネットで調べて見ると、やはり作曲は大島ミチルさんで、歌は河井 英里さんとありました。
この「Shalion」という曲は、フジテレビ系情報番組「ワーズワースの冒険」(1994-1997)の主題歌だそうで、とても異国情緒あふれる、不思議な気持ちにさせてくれる歌でした。
歌詞は大島ミチルさんが、スタッフと一緒に作った造語だそうで、英語の詩を逆から読んで歌詞にしたようです。
これでは聞いていても、さっぱりわからない言葉になって、不思議な感じが出るというものでしょう。
歌詞も曲もとてもよかったのですが、その雰囲気を最大に引き出していたのが、河井 英里さんの歌声でした。
彼女の澄んだ声は、祈りにも似ている響きがあり、とても心惹かれる声でした。
それで、河井 英里さんの他の曲も聴いてみたくなり調べてみたのですが、その中で、またもや心惹かれる曲が見つかりました。
それが「千の海を越えて」という曲です。
作詞は森由里子さん。
作曲は河井 英里さん。
歌はもちろん、河井 英里さんです。
その歌詞は次のとおりです。
どこで会ったのだろう?
想い出のような君
やすらぎが打ち寄せる
初めて出会うのに
葦舟に揺られて
共に旅したような
神々の住む島で
共に暮らしたような
これは幻?
それでもかまわない
これが恋なら
全てを賭けるから
もしも君が望むなら
ついて行こう
千の海を越えてなお
遠く遠く
私が透き通る
君の腕の中で
優しさの洗礼で
浄められたように
人は過去(きのう)を
忘れて生きるもの
けれど消せない
絆を愛と呼ぶ
もしも君が行くのなら
ついて行こう
千の時代(とき)を超えてなお
遠く遠く
もしも君が望むなら
ついて行こう
千の海を越えてなお
遠く遠く
いいですねぇ。
本当に素敵な歌です。
この歌詞も胸にじんと来ますし、伝えたいことにとても共感できます。
特にこのフレーズがいいですね。
もしも君が望むなら
ついて行こう
千の海を越えてなお
遠く遠く
もしも君が行くのなら
ついて行こう
千の時代(とき)を超えてなお
遠く遠く
数え切れないほどの人生を、大切な人と共に歩んで来たし、これからもそれは続いて行く。
そんな想いが伝わって来ました。
また、この歌のメロディが歌詞を伝える雰囲気たっぷりで、歌う河井 英里さんの声が、胸に浸みて来ます。
素敵な人と出会えた人も、これから出会う予定の人も、この歌を聴いてもらえたらと思います。
ただ残念なことに、歌手の河井 英里さんは、2008年に肝臓癌のため、43歳の若さで亡くなられたそうです。
しかし、彼女の想いは今でも歌となって、人々の心に残っています。
その声を、その想いを、一度聴いてみて下さい。
とっても素敵な声ですよ。
自分は望まれていないのか その2
自分は誰にも望まれていないのかもしれない。
そう思った人は、きっといろいろつらい思いや、大変な思いをして来たのでしょう。
親に虐待を受けたり、信頼していた先生や友だちから、ひどい扱いを受けてしまったり、職場でも孤立していて、誰にも話しかけてもらえない、というようなことがあるのかもしれません。
そんな状況で、自分なんか誰にも望まれていないのではないかと、考えたくなるのは理解できます。
でも、この「誰にも」という言葉の対象になっているのは、人間社会における人間のことです。
そんなの当たり前だろと思うでしょうが、まあ話を聞いて下さい。
「誰にも」という言葉の対象が、人間だと考える場合、自分自身のことも一人の人間と受け止めています。
この場合の人間というのは、生きた肉体を持った、個人としての人間です。
自分を一人の人間と見ているので、同じ体を持つ人間たちの間で、自分がどう見られているのか、あるいはこの社会で自分はどううまく立ち回るべきなのか、などと考えてしまうのです。
他の人たちが持っている考え方や価値観が、誰にも優しいものであればいいのですが、自分さえよければいいと考える人たちの、身勝手な価値観が蔓延している世の中です。
自分は人間だからと考えると、理不尽を感じながらも、そんな歪んだ価値観にでさえ、自分を当てはめてしまおうとするものです。
しかし、自分という存在の本質を考えると、肉体=自分 ではないと気がつくはずです。
人間の本質は心にあり、肉体にあるわけではありません。
心と肉体は密接な関係がありますから、肉体の状態や感覚が、心に影響を及ぼしますし、心の状態や動きが、肉体に影響を及ぼしもします。
互いに相互関係にあるわけですね。
でも、どちらが上位にあるのかと言えば、心です。
心がなければ肉体は活動ができません。
しかし、心の方は肉体から離れても、活動ができるのです。
体外離脱や幽霊なんかが、そのいい例です。
この世界、この体を離れた状態においては、人間社会における常識や価値観は通じません。
そこには、こことはまったく異なる価値観があります。
それは、人々が愛と呼ぶものを基盤にした価値観です。
愛とは、全ての存在が、元は一つであったことを、思い出させてくれる感覚です。
ここの世界では、個としての在り方を追求し過ぎているため、他の存在とのつながりが、感覚的にわからなくなっているのです。
そのため愛が欠如した価値観が蔓延し、何でもかんでも個人の責任という、冷たい考え方が広まるのです。
それでも、本当は誰もが周囲とのつながりを感じています。
そこに意識を向けないので、気がつかないだけです。
動物でも植物でも大自然でも、そこにつながりを感じられるようになれば、もっと他の存在のことも、感じられるようになるでしょう。
それは亡くなった家族かもしれませんし、まだ生まれて来ていない存在かもしれません。
どんなに寂しくても、どんなに独りぼっちに見えたとしても、いつだってすぐそばに、自分を支えてくれる存在や、見守り続けてくれている存在がいるのです。
それは好きとか、愛という言葉を越えた、深いつながりによるものです。
自分は望まれているのかという考え自体が、全く無意味になるものなのです。
全ては元々一つであり、全てはつながりがあります。
存在しているものは、存在するべくして存在しているのです。
いらない存在であれば、初めから存在していることはありません。
自分に価値があるのか、自分は望まれているのか。
その答えは、自分が存在しているということにあります。
狭く閉鎖的かつ限定的な、人間社会の優劣を基準とした考え方で、自分を見てはいけません。
自分が存在しているということは、それだけで胸を張っていればいいのです。
でも、どうして存在しているのか。
そう考えたくなるでしょうね。
それは、存在しているから存在しているのですが、あえて理由をつけるなら、自分という個性的な好奇心が、自分にしかわからない喜びを、見つけるためでしょう。
同じことを同じように喜んでいるように見えても、本当は一人一人の感じ方は異なります。
それが個性であり、それがこの世界に生まれて来た理由です。
あえて言うならば、望まれていない者など、一人も存在していません。
誰が望んでくれているのか。
それはこの世界です。
宇宙全体が、あなたの存在を望んでいるのです。
それを神という言葉で表現しても構いません。
私たちは宇宙の一部であり、神の一部です。
存在しているのは当たり前であり、望まれているのも当然なのです。
あなたが感じている世界は、あなただけのものです。
無限の宇宙のどこを探しても、あなたという存在の、代わりになるものはありません。
どんなに小さい存在に見えたとしても、あなたという存在は、宇宙にとってかけがえのないものなのです。
自分を人間社会の一人の人間に過ぎない、とは考えないで下さい。
今の姿は仮の姿であり、私たちはもっと大きな存在です。
この世界には、自分だけの世界、自分だけの喜びを見つけるために、やって来たのです。
ですから、自分が自分であることに喜びを感じ、自分だけの喜びを求めて下さい。
自分は望まれていないのか その1
自分って何なんだろう?
どうして自分なんかが、生まれて来たんだろう?
自分なんかいなくたって、誰も気に留めないに違いない。
そんな自分は生きている意味がない。
こんな風に考えてしまう時、その人は自分に自信を失っています。
こういう考えは、自信のなさが表現されたものです。
誰も見向いてくれないことが、問題のように思えてしまいますが、自分に自信がないことこそが、本当の問題です。
誰も見向いてくれないと言いながら、本当に自分のことを見ていないのは、自分自身なのです。
自分で自分に見向きもしないから、自信を失っているわけですね。
また、自分で自分を見向こうとしていないことは、頭では無視していても、感覚的にはわかっています。
ただ、自分を見向いていないという事実に、気がついていないため、見向かれていないという感覚の原因を、他人に求めてしまうのです。
本当は、ちゃんと見てくれている人だって、いるはずです。
しかし、見てくれない人の方にばかり気が行ってしまい、見てくれている人のことは、頭に上りません。
それは、見てもらえていないという感覚の原因を、追求することに意識を集中させているからです。
見てくれている人は、その対象外になってしまうので、自分を無視するような人を見つけては、世の中全ての人が、そんな風な人ばかりのように思えてしまうのです。
また、世の中は多数の意見を重視して、少数の意見を聞き流す傾向があります。
そのため、たとえ自分を見てくれる人がいたとしても、その人たちの数が少なければ、自分は見てもらえていないと解釈してしまうのですね。
四捨五入と同じです。
少ない数字は切り捨ててしまうのです。
それでも本当に見てくれる人がいなければ、これはとても苦しいことですので、一人でも見てくれそうな人がいれば、その人にべったりになることもあります。
溺れる者は藁をもつかむの心境ですね。
その人が本当は理解者でなくても、その人に依存することで、相手の言いなりになって、いいように利用されることも、少なくないでしょう。
あるいは理解者であったとしても、べったり依存してしまっては、本当の人生の喜びは味わえません。
この人がいなくなったら、自分はどうなってしまうのかと、ずっと不安がつきまとうでしょう。
それに依存されている方も大変ですから、理解はしているものの、関係を打ち切ろうとするかもしれません。
そうなると、もう絶望です。
だだっ広い海原で、たった一人、波に揉まれて浮かんでいるようなものです。
周囲には島影一つありませんし、遠くを進む船もありません。
そんな状態では、途方に暮れるしかないでしょう。
でも、そうなる原因は自分にあるのです。
自分で自分をきちんと見ないから、そうなるのです。
自分の目ではなく、他人の目を通して、自分を見てしまうから、そうなるのです。
自分のことは他人にはわかりません。
自分が本当はどうしたいのか、そんなことは他人にはわかりません。
自分がやろうとしていることに、価値があるのかも、他人にはわかりません。
それは自分で決めることです。
自分だって他人のことなんか、何一つわからないわけですから、他人が自分のことを、わかるはずがありません。
と言うことは、他人の目なんか気にせずに、自分で思ったとおりに生きるだけです。
そのためには、自分は何をしたいのか、どんなことに興味があるのか、どんな生き方をしたいのか、ということを、きちんと理解するのです。
自分が喜びを感じることにこそ、自分にとっての価値があります。
そして、喜びを感じてもいいのだと、自分に許可を与えて下さい。
自分をちゃんと見て、本当の自分であることを、自分自身に認めたならば、自分に価値があるかどうかなんて、考えることすらなくなるでしょう。
見直すべき教育現場
全国の公立学校で、2558人の教員が不足している、という記事が出ていました。
学校によっては、授業ができない所も出て来ているそうで、事態は深刻です。
教員採用試験の受験者も激減しているらしく、解決の目途はつきません。
昔は先生という仕事は、子供たちの憧れでした。
しかし、今は憧れる者はあまりいないのでしょう。
もし憧れていたとしても、教育現場に入ってから、思っていたのと違うとなると、すぐにやめてしまうに違いありません。
今の若い人たちは、昔の人間のように、嫌なことを我慢して、ずるずるそのまま続ける者は、多くないと思います。
それは決して悪いことではなく、自分の意思表示であり、自分の人生を大切にするということです。
悪いのは、夢を抱いて入った若い教師を、幻滅させてしまう教育現場でしょう。
これまで教育現場での様々な問題が、報道されて来ました。
時には、問題などなかったように、無視をしたり、隠そうとしたりして、却って大きな騒ぎになりました。
教育と言うと、受験や外国と比べての学力アップばかりが、目を向けられます。
それでも学校の授業だけでは足らないと、多くの子供たちは塾通いを強いられています。
そもそも教育とは何ぞやというところの議論が、何一つ為されないまま、何となく昔からの流れに乗って、やって来たという感じです。
子供たちにとって、本当に大切なものは何なのか。
子供のうちに、本当に教えなければならないことは何なのか。
何でもかんでも集団として一括りにし、みんなが同じであることを強要するのではなく、一人一人の子供に応じた、教育現場であるべきではないのか。
そんなことを今一度見直して、子供たちにとっても、先生方にとっても、楽しくやり甲斐のある教育現場を、再構築する必要があるでしょう。
そうでなければ、今の教員不足はますます悪い状況になるでしょう。
教員の数ばかりでなく、質もどんどん落ちて行きます。
可哀想なのは子供たちです。
また、子供たちがきちんと教育を受けられなければ、日本の将来も危ぶまれるでしょう。
あらゆる事件や問題の根底には、必ず教育が関わっています。
全ての基本が教育にあります。
そんな大切な教育なのに、政治家の方々は、子供は黙っていても、ちゃんと育つと信じているようで、本気で教育改革をする気はないように見えます。
と言うより、教育の大切さ自体を理解していないため、何をどうすればいいのか、さっぱり頭に浮かばないのかもしれません。
とにかく、これは大問題です。
経済よりも、もっと大切なことです。
子供が国の宝であるのなら、そのような変革をしてもらいたいものです。
路傍の花のように
道端を見ると、誰にも気づかれずに、ひっそりと咲いている小さな花を、見かけることがありますよね。
私はそんな花が大好きです。
名前なんてわかりません。
でも、名前なんていらないのです。
名前なんかなくたって、そこに花が咲いていることは、誰にだってわかります。
その花が他の花と違うことだって、名前がなくてもわかります。
同じ種類の花があっても、一つ一つが違うってことも、名前がなくてもわかります。
広々とした日当たりのいい所で、育つ花もいますが、道端に咲く花は、そんな花たちのことを、羨ましがっているようには思えません。
自分が選んだ場所、自分に与えられた場所で、必死に成長し、自身の表現である花を咲かせるのです。
誰かが気づいてくれなくても、これが私なんだよ、と胸を張って立っています。
そんなこと言ったって、誰にも気づいてもらえなければ、しょうがないじゃないかと、思うかもしれません。
でもご心配なく。
ほとんどの人が気づかなくても、必ず気づいてくれる人はいます。
人間が気づかなくたって、花から花へと飛び廻る、蝶々やミツバチたちは、ちゃんとこの花のことをわかっています。
わかる者にはわかるのです。
わからない者たちの基準で、判断してはいけません。
道端に咲く花たちは、近くにある大きな木を見て、自分もあんな木だったらよかったのに、なんて思ったりはしないでしょう。
動き回っている人間や犬・猫たちを見て、自分も自由に動けたらいいのに、なんて考えたりはしないと思います。
ただ、自分であること。
そのことだけに専念し、今の自分を精一杯表現することに、夢中なのです。
そうすることで、何かいいことがあるだろうかなんて、期待もしません。
他の花より、すごい花を咲かせてやるぞ、なんてことも考えません。
自分がいる環境の中で、自分がそこに存在している証として、自分にできる限りの表現をしているだけです。
そして、それがその花にとっては、幸せなことなのです。
そんな花のようにありたいなと、私は常々思うのです。
大好きな人と
大好きな人と一緒にいられるなんて、幸せなことですね。
その人が男であれ、女であれ、あるいはそのどちらでもない場合でも、大好きな人と一緒にいられるのは幸せなことです。
一緒にいるといっても、それが結婚という形には限りません。
恋人同士、友人同士、家族、あるいは互いをよく知らない人。
それが誰であれ、その人のことが大好きであるならば、その人のそばにいられるのは幸せです。
大人であっても子供であっても、大好きな人といられるのは幸せです。
ただ、そばにいられることを、幸せに感じる。
これこそが幸せの原点です。
相手と特別な関係にありたいなんて考えるのは、人間社会の中に生まれた独占欲や優越感、あるいは自分への自信のなさから生まれる不安感が原因でしょう。
そういった余計な考えを捨て、ただその人のそばにいられることで、幸せを感じるということが大切です。
これは相手が人間でなくても構いません。
ペットや植物でもいいですし、自然や地域の環境でもいいのです。
見た目は違っても、元はみんな一つでした。
一つの存在として、わかりやすい形をしていようと、していまいと、みんな元は一つだったのです。
元々同じものだからこそ、そこにつながりを感じることができるのです。
別に何かをしてもらおうと思うわけではありません。
ただ、つながりを感じているだけで、居心地がいいのです。
ただ、そこにいるだけで、ただ、そばにいるだけで、幸せな気持ちになれるのです。
遠くにいる人、すでに亡くなってしまった人、物理的に近くにいられない人たちでも、心のつながりに距離は関係ありません。
その人を想い、その人の存在を感じる。
その時、その人はあなたのそばにいます。
それはあなたにとって、とても居心地のいいものであり、とても幸せなことでしょう。
たとえ独りぼっちに見えたとしても、本当は独りぼっちではないのです。
他の人からどう見えようと、自分が誰かを想い、誰かとのつながりを感じているなら、独りぼっちではありません。
他の生き物たちや、地球や宇宙に心を馳せて、そこにつながりを感じているならば、あなたは独りぼっちではないのです。
いつだって大好きな人、大好きな生き物たち、大好きな地球や宇宙と一緒なのですから。
家族サービス
家族サービス。
よく耳にするこの言葉が、私は嫌いです。
それは、この言葉が偽善に満ちているからです。
本当はこんなことはしたくないんだ。
本当は他のことがしたいんだ。
本当は家族とは別の所にいたいんだ。
本当は仕事で疲れているから、家でゆっくりしたいんだ。
だけど、家族を大切にしていないと、非難されるのは困る。
家族から白い目で見られたり、ぎくしゃくした関係になるのは避けたい。
家族に対する義務を果たしているというところを、家族にも周囲の人たちにも、見せておかなくてはならない。
こんな気持ちで使うのが、家族サービスという言葉です。
言葉自体は、家族ではなく、職場の人間や知人たちに使います。
仕事で疲れていても、自分は家族のために、これだけ努力をしているというところを、アピールするためです。
家族にはこの言葉は使わなくても、まさに行動が家族サービスという形になっています。
一緒に出かけても、気持ちは上の空。
みんなが楽しんでいるのに、自分は椅子に座ったまま、早く終わらないかと考えます。
家族が楽しむための運転手や、荷物運びに徹することで、自分もそこに参加しているつもりになっています。
でも、相手側からすれば、本気で付き合っていないのは、一目瞭然です。
嫌々付き合われても、面白くありません。
しかし、そのことを口にして喧嘩はしたくないので、しょうがないかと妥協しているだけです。
みんなが家族ごっこを演じている状況で、そこに本当の家族の姿はありません。
ところが、家族の誰かが重い病気になったり、大怪我で重症を負い、死ぬかもしれないとなった時、慌てて相手のことを心配したりするのです。
つまり、死ぬ目に遭うか、本当に死んで初めて、大切な家族として扱ってもらえるわけです。
こんなの、実に馬鹿馬鹿しいですよね。
本当に大切ならば、普段からその気持ちを示せばいいのです。
大切なことは、失って初めてわかるもの。
こんな言葉を耳にしますが、そのとおりだと思うのは間違いです。
この言葉は、今の世の中の現状を表現しているだけで、真実だと告げているわけではありません。
大切なことは、失わずともわかるもの。
こうでなくてはなりません。
そのためには、自分の本当の気持ちを隠してしまい、好い加減なことをする自分を正当化しようとする、家族サービスという言葉は使わないことです。
お互いに家族サービスと言いながら、うなずき合っている人たちとは、距離を置いた方がいいでしょう。
本当に具合が悪いのであれば、家で休んでおくべきですが、それを日常の仕事のせいにしてはいけません。
家族を大事にしようと考えるのであれば、普段の仕事のやり方や、自身の生活の仕方を、改めるでしょう。
そこをやらずに、疲れているとか、具合が悪いということばかりを主張するのは、家族よりも自分が大事だと考えているのと同じです。
何が本当に大切なのか。
それを失う前に、気づいて下さい。
光の柱
昨日の夕方、車を運転していた時に、西の空に立つ光の柱を見ました。
運転中だったので、助手席にいた妻に写真を撮ってもらったのですが、それが上の写真です。
肉眼ではもっときれいな光の柱が、もっと上の方まで伸びていました。
まるで黒い雲の向こうに、巨大なライトがあって、それが上空を照らしているのではないかと思えるほどの、明るく鮮やかな光の柱でした。
残念ながら移動する車の中からの写真で、撮影のチャンスはあまりなく、この写真が一番いいものでしたが、本当に驚くようなものでした。
恐らくは、黒雲の向こうで、雲のわずかな隙間から、沈む夕日の光が、この方向にだけ放射されたのだとは思います。
とは言っても、そこにできた光の柱は、とても神々しく不思議な感じがするものでした。
何より、滅多に見ることがない光景なので、いいものを見られたと、とても満足しました。
また、この光の柱は世の中の混乱が、いい方向へ向かって行く前兆のようにも思われました。
いや、本当にいいものを拝ませてもらいました。
非色
「非色(ひしょく)」は有吉佐和子の小説です。
絶版になっていたのが、最近になって復刻版が出版されて、話題になっています。
これは差別を描いた小説で、主人公はアメリカの黒人男性と一緒になった日本人女性です。
生まれた娘が肌の色のことで差別を受け、彼女は夫の国アメリカへ渡りますが、そこで黒人差別というものを、肌身で知ることになります。
しかし、その黒人もプエルトリコ人を差別したり、裕福なアフリカ黒人が、アメリカ黒人を見下すという、複雑な差別関係を経験します。
そして、彼女が出した結論が、肌の色ではないんだ、ということです。
これがこの本のタイトル「非色」です。
人が誰かを差別する時、相手に差別をされる理由があるかのように考えますし、それが真実であると信じてしまいます。
しかし、相手を差別する理由なんて、何でもいいわけです。
要は、自分には差別できる相手がいるということが大事であり、差別の理由なんて、いくらでも後付けできるわけです。
誰かを見下している時、その人は少なくとも、自分はその相手よりは上にいると、認めることができます。
そうすることによって、自分は最低の人間ではないと、考えることができるのですね。
そのために、つねに誰かの粗探しをして、質の悪い人間だと決めつける機会を窺っているのです。
肌の色は誰にもわかりやすいものですから、肌の色を理由に差別するのは、誰かを踏み台にしたい人にとって、最も簡単な難癖でしょう。
相手を見下す者が他にも現れると、差別をする自分への自信が強まるわけですが、それは他の差別者にしても同じなので、差別する者は互いを励みにしながら、どんどん増えて行くのです。
結局は自分に自信がない人が、それほど多いということですね。
差別の問題がある時、誰かが誰かを理不尽に傷つけるということが、問題とされますが、本当の問題は、差別する人たちが自信を見下している所にあるでしょう。
自分を見下しているから、誰かを見下して、その気持ちをごまかそうとするのです。
だからこそ、差別されていたはずの人が、他の人を差別してしまうということも、起こってしまうわけです。
自分を見下したりしないで、胸を張っていれば、他人に何を言われようと平気です。
何故、自分は自分を見下してしまうのか。
何故、自分はあるがままの自分を認められないのか。
そこにこそ、本当の問題が潜んでいます。
それは、知らない間にすり込まれた、誰かにとって都合のいい価値観です。
そんな価値観をさっさと手放し、自由になることが、差別をなくす一番の方法でしょう。
「非色」の復刻が話題になるということは、日本人の心が変わろうとしているのだと思います。
差別を単なる善悪で考えず、心の奥底に潜んだ、歪んだ価値観の問題であると、一人一人が認識できれば、差別のない社会が生まれるでしょう。