子供の心 その3
あなたは子供の頃に、何に興味を持っていましたか。
どんなことを、やってみたいと思ったでしょうか。
興味が変わってしまうということはありますから、無理に子供の頃に興味を持っていたことを、追求する必要はありません。
でも、大人になった今でも、子供の頃に抱いていた想いが、まだ残っているのなら、それに挑戦してみるのは、楽しいことだと思います。
自然の中で、川遊びや海遊び、山遊びをしたかった。
そう憧れていたのであれば、今からでもそれを実行すればいいのです。
子供みたいと言われることを、恐れるのであれば、そんなことを言う人とは、付き合わなければいいのです。
自分がずっと抑え込んで来た、子供の心を解放してあげましょう。
絵を描くことが、大好きだったけれど、今は何もしていない。
そんな人は、もう一度筆やペンを取ってみて下さい。
今更とか、上手にできるはずがない、などと言わずに、やってみましょう。
ポイントは、自分が楽しい、ということだけです。
楽しいと思えば、自然と腕は上達するものです。
楽器を弾いてみたかった、歌手になりたかった、役者になってみたかった。
いろいろあると思います。
あるいは、一度挑戦したものの、だめだと思って、あきらめた人もいるでしょう。
でも、あきらめてしまった人は、自分が何を目標にしていたのかを、考え直してみたらいいと思います。
やりたいことを楽しむはずが、誰かに注目してもらうとか、お金を稼がないとけいけないとか、指導者の言葉どおりにできないとか、初めとは別の方向に、気持ちが向いていたのではないでしょうか。
単純に、自分がやりたいことをやって楽しむ、と思えば、初めてやろうが、前にやったことがあろうが、そんなことには関係なく、楽しむことができるでしょう。
そこにこそ、自分が今の人生を生きる喜びがあるのです。
体の年齢など忘れ、自分が子供に戻った気持ちで、やりたいことに取り組んでみて下さい。
絶対に、これだよ、これ、と思えることでしょう。
子供の心 その2
大人と子供の違いとは、何でしょうか。
大人は知識と経験があって、子供にはない。
そうでしょうか。
大人でも、いろんなことがわからない人は、たくさんいます。
経験があると言っても、それは長年勤めて来た会社の仕事のことだけ、という人もいるでしょう。
子供は大人が知らないような知識や経験があります。
それに大人が驚かされることは、少なくありません。
ただ、それを素直に認めて受け入れる大人は、少ないでしょう。
話を戻して、大人と子供の違いは何でしょうか。
体の発育状態。
そうですね。
それは正しいです。
でも、それは体のことであって、心のことではありません。
人間を心の存在として見た時、体の発育だけで、大人か子供かと区別することはできません。
では、心の存在として考えた時、大人と子供の違いはどこにあるでしょうか。
それは、子供は基本的に、自分を中心にしか、物事を見ることができないということです。
それに対して、大人は他人の目線で、物事を見ることができます。
ただ、それができない大人もいますから、子供と大人の違いというよりは、人間として成熟しているのか、未熟なのかの違い、と見た方がいいかもしれませんね。
多くの場合、子供は未熟な心の存在、大人は成熟した心の存在と、見ることができます。
中には、子供なのに心が成熟している子もいれば、大人でも未熟な心の人もいます。
もし、視覚的な体ではなく、心の成熟度で相手を認識するとすれば、生まれてから何年経っているのかに関係なく、成熟した心の持ち主を、大人と判断するかもしれません。
一般的に、子供は未熟な存在として見られますから、大人に対して、子供みたいという表現は、相手を低く見ている時に使います。
でも、子供は未熟だからこそ、自らの好奇心を、存分に働かせることができるのです。
大人の場合、成熟しているからというより、子供は未熟で優れていない者というイメージを持つことで、自分の好奇心を抑えてしまいます。
好奇心=子供 といような図式が、頭の中にあるからです。
子供を低く見ることで、好奇心の価値も低く見てしまうわけですね。
でも、子供は必要があって未熟な状態にあるのです。
それは悪いことではありません。
大人は子供と比べて、他人を思い遣ったり、周囲の状況や環境のことを、考えて行動することができます。
何も知らずに、思ったまま動き回る子供の場合、やはり誰かと衝突したり、怪我をすることがあります。
大人はそこを気をつけることができますので、子供よりも、ずっと安全で効率的なやり方で、楽しみを追求することができるのです。
子供の頃にはできなかったことが、大人であればできることは、少なくありません。
でも、子供心を失ってしまっては、せっかくのチャンスも失われてしまいます。
確かに、大人と子供の違いはありますが、子供を低く見てはいけません。
子供は純粋なエネルギーの塊です。
パワーです。
それを上手くコントロールしながら、的確に動けるのが、大人の特権です。
大人だからこそ、自分の中にある子供の心を、大切にしないといけません。
子供の心 その1
子供はやりたいことがあれば、ためらわずにやろうとします。
ためらうとすれば、親からだめだと言われている時や、一度経験して痛い目に遭ったなどの、後付けの理由があるからです。
誰にも注意されておらず、特に怖いことだと思っていなければ、子供はやりたいことを、思ったようにやります。
それが楽しくなかったり、期待していたほどのものでなければ、すぐに他に興味がある方へ行ってしまいます。
でも、楽しいなと思えば、何度でも繰り返してやるのです。
よくもまぁ、飽きもせずに同じことばかりするものだと、大人が呆れるほど繰り返します。
繰り返せば繰り返すほど、上達して行きますし、もっと面白くしようと、いろいろ工夫をして、初めとは違う形にしたりもします。
一緒に楽しんでくれる子供が現れたら、楽しさは倍増して、みんなでキャーキャーワーワーと、大騒ぎです。
でも、成長するにつれて、いつしかそんな楽しみ方を、多くの人は忘れてしまいます。
また、そんな楽しみ方を続ける人を見ると、大人のくせに子供みたい、と冷ややかな視線を送るのです。
では、自分は何をしているのかと言うと、周囲の大人たちと同じように、遊びと仕事の間に、きっちり線引きをして、遊びよりも仕事の方を優先します。
楽しくもないのに、生活のために仕方がないと、お金のために懸命に働き、いつになったらやりたいことができるのだろうと、愚痴をこぼしながら、これが大人というものなのだと、納得しているのです。
とは言え、仕事が大変なのは事実ですし、本当は仕事よりもやりたいことがあるわけです。
それを自分は辛抱しているのに、子供みたいに楽しんでいる人がいるなんて、何てことだと思ってしまうわけですね。
本当は、自分もその人のように、童心に返ってやりたいことを楽しめばいいのですが、そんなことはできないと、自分で自分にブレーキをかけてしまいます。
そして、やりたいことができないいら立ちと、やりたいことを楽しんでいる人への羨望を、冷たい視線に置き換えて、何とか自分の立場を守ろうとしているのです。
でも、そんな人には一度考えてみて欲しいと思います。
大人って何なのかと。
自分がイメージしている大人とは、自分が子供の時に、周囲にいた大人たちの姿ではないでしょうか。
その姿が正しいか正しくないかなど、よくわからないまま、大人とはこんなものだと受け止めてしまい、自分をそんな大人の姿に、はめこもうとしているのです。
でも、その大人のイメージが歪んでいたとしたら、どうでしょうか。
そのことに気づかずに、一生懸命自分の姿を歪ませて、本来あるべき姿とは異なる姿に、なろうと努力するのです。
それが楽しいものならともかくも、つらいことが多いのに、その大人の姿を目標に頑張ってしまうのですね。
自分の中の、子供の心を忘れていない人は、そんなことには関心が向きません。
ですから、素直な自分の姿のまま、自由に生きることができるのです。
自分はちゃんとした大人だと信じている人は、自分が子供の心を忘れていないか、自分に問いかけてみるといいと思います。
オリンピック競技に思うこと
スノーボード男子ハーフパイプで、平野歩夢選手が見事な逆転優勝を収めましたが、審判員のジャッジが問題となり、未だに大きな波紋を広げています。
競技は三回行われましたが、問題になったのは平野選手の二回目の滑りでした。
NHKの実況でも、人類史上最高だと叫ぶほど、難易度の高い技を連続で成功させ、1位は間違いなしと誰もが思っていたのに、評価点が低くて、その時点では2位でした。
それでも平野選手は不満を力に変えて、三回目の滑りで見事に逆転を収めました。
しかし、だからと言って、この問題が見過ごされていいわけではありません。
今後も他の選手が、同じような目に遭うかもしれないからです。
ところで、この競技はどのような基準で、点数を決めているのかと言うと、審査員の単なる印象だけで点が決まるというから驚きです。
最初から、この選手は気に入らないと思われたら、それだけで高得点は出ないでしょう。
他の競技でも判定が曖昧なことは、よくありますが、こんな所にこそAIを活用すべきではないでしょうか。
何がよくて何が悪いのか、誰が見てもはっきりわかるように、するべきだと思います。
見た目の美しさというものも、人が何をもって美しいと感じるのか、そのデータをAIに蓄積すれば、ちゃんと人間が納得するような、美しさを評価することができるでしょう。
誰に対しても差別することなく、またお金で動かされることもなく、純粋にその競技を愛し、熟知している人が、判定を下すのならいいのですが、実際はそうではないことが、あちこちで見受けられるように思います。
人間が管理するのは、直接的な判定ではなく、何をAIに判定させるのか、その基準作りのところだけでしょう。
あとはAIに任せて、選手たちがつらい思いをせずに済むようにするべきです。
少なくとも、まともに判定できない人は、審判員の資格を剥奪した方がいいと思います。
自分が大好き その3
自分のことが嫌だなと思う時、それは本当の自分からのサインです。
つまり、自分に着せられている価値観の衣服を、もっといいものに替えて欲しいという要求なのです。
本当の自分が問題にしているのは、あくまで価値観であって、自分自身のことではありません。
ところが、多くの人は自分と言うと、本当の自分と価値観の衣服を区別せず、全部をひとまとめにして、自分だと受け止めています。
今の自分が嫌だなと感じた時、自分が身に着けている価値観ではなく、自分自身を否定的に考えてしまい、身動きが取れなくなってしまうのです。
ですから、嫌なことがあったり、つらいことがあっても、自分を否定してはいけません。
問題にするのは、自分が身に着けている価値観です。
嫌なのであれば、その価値観に執着しないで、さっさと手放してしまうことです。
穴が空いたぼろぼろの服を着ていると考えてみて下さい。
みっともないですし、体は穴が空いているのは寒いと訴えます。
それでも、あなたは自分には、こんなぼろ服がお似合いだと決めつけて、服を着替えようとしません。
体が我慢できずにぶるぶる震えて、寒いんだけどと訴えると、服を替えたくても金がないし、服を買う所もないと、あなたは弁解します。
そして、人目を気にしながら、寒さと戦い、結局は体調を崩して倒れてしまいます。
それで考え直すかと思えば、これが自分の人生なのさと、自嘲するばかりです。
こんなのって、おかしいと思いませんか。
ぶつぶつ言ってないで、服を替えるように動けばいいのです。
お金がないとか、買う店がないなど言い訳をする暇があれば、誰かに相談するとか、自分で作るとか、工夫をすればいいことなのです。
そうしないのは、自分なんかボロ服がお似合いだという、固執した考えがあるからです。
何かの考え方を変えればいいのはわかっているけれど、それがなかなかできないという場合、その陰に固執した考え方が潜んでいます。
いったい自分は何に固執しているのか。
どうしてそんなことに、こだわってしまうのか。
その理由を知るために、子供の頃に戻りながら、原点を探ってみるといいでしょう。
こだわりの理由がわかれば、今はこだわる必要がないと理解ができます。
そうすれば考え方を変えることができるので、心の本音で嫌っているような、歪んだ価値観を手放すことができるのです。
本当の自分が満足するような、価値観の衣服をまとうようになれば、それは喜びや嬉しさとなります。
そして、そんな自分を、あなたは大好きになるのです。
自分が大好き その2
人間は多くの価値観を持っています。
産まれて来た時には、何もなかったはずなのに、成長するにつれて、手に入れた価値観で、どんどん覆われてしまいます。
それは、まるで着ぶくれした衣服のようなものです。
本当の姿は衣服に隠れてしまって、見ることができません。
見えるのは、価値観という衣服で飾られた、外見だけです。
誰かを見た時に、その人がどんな人かを判断するのは、この価値観の衣服がどんなものか、というものになります。
素敵な価値観を揃えている人は、素敵な人に見えますし、変な価値観を持つ人は、変わった人に見えます。
ネガティブな価値観ばかりの衣服を着ている人は、見るからに暗くて危ない人のように見えるでしょう。
その人の本当の姿というものは見えませんし、本当の姿があることさえ忘れられています。
これは他人を判断する時ばかりでなく、自分を判断する時にも、同じことが言えます。
多くの人は、自分のことでさえも、価値観という衣服でくるまれた姿のことを、本当の自分だと考えてしまうのです。
ですから、嫌な価値観で覆われていると、そんな自分が嫌になってしまいます。
そんな人に思い出して欲しいのは、赤ん坊だった頃の自分には、そんな嫌な価値観の衣服は、一つもなかったということです。
では、その時には自分は存在していなかったのでしょうか。
違いますよね。
何の価値観もまとわない、真っ白な状態の純粋な自分が存在していました。
そして、その自分は今この瞬間にも、存在しているのです。
多くの価値観に埋もれてですけど。
この純粋な自分は、自分に着せられている、価値観の衣服に対して、着心地がいいのかどうかを、きちんと判断しています。
それが自分に合わないと思えば、とても居心地が悪いと感じます。
これが、自分を嫌になってしまうということなのです。
自分が大好き その1
あなたは自分が好きですか。
それとも自分なんか嫌いですか。
思ったとおりに生きられて、人生を楽しんでいる人は、自分が大好きと思うでしょう。
でも、不自由な暮らしを強いられて、自信を失っている人は、自分が好きとは思わないかもしれません。
いつもいらいらして誰かと争ったり、誰かのことを傷つけてしまった人は、自分なんか嫌だと考えるのではないでしょうか。
他の人と自分を比べて、自分は全然だめだと思うと、自分が情けなくなってしまうでしょう。
でも、だからと言って、自分を嫌ったりしてはいけません。
何かがうまく行かなかった時、それについて反省をしたり、次に活かせるような学びを得るのはいいのですが、後悔をしたり、自分を否定してはいけないのです。
どんな人生であれ、人生は前へ進むものです。
立ち止まったり、後ろへ戻ろうとしてはいけません。
後悔したり、自分を否定するということは、立ち往生して人生を進めない状態です。
うまく行かない時に、嫌になる気持ちはわかりますが、自分を否定してはいけないのです。
物事がうまく行かないのは、その状態から離れなさい、という意味です。
それは工夫をして状況を変えることかもしれませんし、本当にそこから離れてみるということかもしれません。
いずれにしても、同じ状況の中にとどまるな、というだけのことです。
また、うまく行くか行かないかという判断は、人間社会における、誰かが作った価値観に基づくことがほとんどです。
それが本当に自分の価値観に基づいての判断なのか、吟味をしてみるといいでしょう。
本来の自分とは違った、他人の価値観で判断をして、その結果に苦しむのは馬鹿馬鹿しいことです。
たとえば、お金がないとだめだと決めつけるのは、どっぷりと資本主義的考えに、毒されている状態です。
お金がなくても、幸せを感じる人はいるのに、そんなのは有り得ないと考えるのは、洗脳されているのです。
こんな歪んだ価値観を、捨て去ることができたなら、それまで苦痛だった状況が、全く違うものになるでしょう。
嫌なことや、うまく行かないことがあっても、それに対処できるようになると、自分を嫌になることはありません。
自分に自信が持てるようになりますから、自分が思ったとおりに動けるようになります。
その結果、人生に喜びが増し、自分のことが好きだと言えるようになるのです。
頭の中の歌声
朝、目が覚めた時、頭の中で女の人が歌を歌っていました。
顔や姿は見えないのですが、祈るような幻想的な歌だけが聴こえていました。
とてもきれいな声ですが、何を歌っているのかは、よくわかりません。
日本語じゃないんですね。
正しいかどうかは定かではありませんが、「ソッチュ サワラ クィン」て感じで歌っているのです。
素敵な歌だったので、これは絶対に記録しようと思ったのですが、残念ながら、私は歌を聴いただけで、それを音符にすることはできません。
以前はピアノがあったのですが、今はピアノはないので、鍵盤で音を確かめることもできません。
しかし、何かに記録しておかないと、頭の中のことは、ちょっとした拍子に忘れてしまいます。
私は急いで起きると、まず、メロディーの音の高低を、波形の形にして書き留めました。
その波の形に合わせて声を出せば、自然にメロディーが蘇るわけです。
それから私はパソコンへ向かいました。
作曲のソフトがあると思ったのです。
パソコンを立ち上げて、早速調べてみると、無料で使える作曲ソフトが、いろいろありました。
どれも面白そうなのですが、全くの素人には使い方が複雑過ぎます。
ソフトの勉強をしている間に、肝心の曲を忘れてしまいそうです。
それでも、いろいろソフトをお勧めする人のホームページなどを調べて、やっと簡単に楽譜を作るソフトを手に入れました。
もちろん、ただです。
それで何とかメロディーを、それっぽい楽譜にすることができたのですが、やはりそれは本物ではありません。
ただ、聴いた音をなぞっただけのことです。
歌というのは、ただ高い音や低い音を、並べただけのものではありません。
そこに歌う者の想いが込められているのです。
その想いがあるからこそ、歌は幻想的な祈りに聞こえたわけですが、メロディーだけを再現したところで、その雰囲気までは再現できません。
それでも、メロディーすら忘れてしまうよりはましでしょう。
今回調べたことで、本格的な曲作りのソフトで、無料で使えるものがあるとわかったので、いずれそういうものを使って、自分なりに雰囲気のある曲に、仕上げてみたいと思っています。
頭の中で、勝手に曲が始まるということは、前にもあったのですが、こういうソフトを使い慣れていれば、すぐにでもそれを再現できるようになるでしょう。
やるべきことが増えましたが、気持ちはわくわくしています。
うまくできれば、みなさんにもお披露目できると思います。
親と子供 その2
人は何度も人生を繰り返すと考えると、一つの人生における両親とは、その人生における体を、提供してくれた人たちと言えます。
また、産まれたばかりの自分を、保護し育ててくれる人たちでもあります。
ただ、この保護して育ててくれる、というところは、それができない人たちも存在しているのが現状です。
話を戻して、自分という存在が、一つの人生に限定されない、心としての存在であると考えれば、一つの人生における両親は、両親の役目を果たしてくれている、別の心の存在ということです。
今の人生における両親も、別の人生では、自分の子供として、生まれているかもしれないわけですね。
その人生においては、自分の方が親の役割を、果たすことになるのです。
こんな感じで、人生における親子関係を、特別な関係ではあるけれど、絶対的な関係だと考えなければ、今の親子関係がうまく行っていなくても、そのことで自信を失ったり傷ついたりする必要はないわけです。
自分という存在を、心の存在として考えた時、では本当の自分の親は、どこにいるのだろうと思うかもしれません。
しかし、親という言葉、親という概念は、肉体を持って暮らす、この世界で作られたものです。
肉体を離れた心だけの世界では、親という概念は、通用しないかもしれません。
ただ、私たちの心が、もっと大きな心の分身だと見ることはできます。
そうなると、その大きな心を親と見なせるかもしれませんが、自分の意識を拡大させることで、小さな心から大きな心へ、意識を移せるとなると、親と思っていた相手は、自分自身だったとなります。
ちょっとわかりにくいですが、頭の中で複数の人物がいる状況、あるいは世界を想像してみて下さい。
その中の一人のキャラクターに意識を集中します。
あなたは、そのキャラクターとして、物事を考えます。
しかし我に返ると、元の自分に戻っています。
キャラクターは自分の心の中です。
この場合、キャラクターにとって、親はあなたになるわけですが、キャラクターもあなた自身です。
こんな感じで、心の世界では、こちらの世界でいう親子関係というものは、よくわからないかもしれません。
いずれにせよ、この世界での親子関係というものは、今の人生に限定されたものですが、あなたという存在にとって、絶対的なものではないのです。
多くの人生の中で、選ばれた親子関係であるならば、それがいい関係であれ、悪い関係であれ、その関係の中でなければ、学べないことがあるのでしょう。
とにかく、親と言っても他人です。
親子関係を過度に特別視せず、客観的に眺める視点を持つことが、大切だと思います。
親と子供 その1
誰にも親がいます。
父親と母親がいます。
私たちの体は、父親と母親の双方から遺伝子情報をもらい、父親とも母親とも似てはいるけれど、別の新たな存在として生まれます。
そのため、親と似ているか似ていないかで、喜んだり落胆したりします。
また、遺伝子情報を分けてもらって生まれたということで、他の人間との関係と比べると、親子関係というものは、特別なものになります。
それに、生まれたばかりの赤ん坊や、まだ独り立ちできない幼子にとって、自分の保護者である親は、やはり特別な存在です。
子供は純粋に親を慕い愛してくれます。
親の方も、自分の分身とも言える我が子を、とても愛して大切にします。
でも中には、我が子を嫌い、虐待する親もいます。
そんな親の下に産まれた子供は、心が深く傷つきます。
下手をすれば、命さえ失うこともあるのです。
特別な関係でなければ、他の人に育ててもらえばいいわけですが、やはり親子関係は特別です。
たとえ親切な人に、親代わりに育ててもらったとしても、実の親は自分を愛してくれなかったという想いが、ずっと心の奥に突き刺さったままです。
そこを何とか割り切って生きて行ける人と、いつまでも割り切れずに、いつも心のどこかにその悲しみが、くすぶった状態の人がいると思います。
割り切った人にしても、割り切っただけのことであって、悲しみがなくなったわけではありません。
この悲しみの原因は、親子関係を特別なものと、考え過ぎるところにあります。
親子関係が特別なのは当たり前なのですが、その特別さをどの視点から見るかによって、自分にとっての重要性が変わって来ます。
何が言いたいかと言いますと、自分という存在を、自分の体に固定された、切ない存在だと受け止めていることが、問題だということです。
自分というものを考える時、どうしても体は切り離せません。
自分と体は一体のものであり、体が失われた時、自分も消えてしまうという人生観を、多くの人が抱えているのではないでしょうか。
人生は一回こっきりで、自分が生まれて来た時には、すでに今の状況が決められていて、自分ではどうしようもない。
恵まれた環境に生まれる者もいれば、恵まれていない環境に生まれる者もいる。
心の中は、たった一度の人生なのに、こんな差があるのは不公平だという不満と、どうすることもできないという無力感ばかり。
こんな感じで、人生をあきらめてしまい、投げやりな生き方をする人は、少なくないように思います。
確かに、人生一回こっきりであるならば、この考え方も理解できますが、人生が一回こっきりでなければどうでしょうか。
また、自分という存在が、今の体に固定されたものではなく、この世界を越えた、もっと大きなものだとすればどうでしょうか。
これは自分が望んで始めた、多くの人生ゲームのうちの、一つに過ぎないとすればどうでしょうか。
そんな視点で親子関係を見つめ直すと、親子関係が特別であることには違いがありませんが、その重要性については、これまでと違った受け止め方ができると思います。