食べることの意味 その1

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

食事は人間にとって、体を維持するための行為であるとともに、人生の大きな楽しみの一つでもあります。

病気や怪我などで、思ったとおりに食事ができなくなると、人生がとても味気ないものに、なってしまいます。

偏った食事は脳の働きにも害を及ぼし、精神の不安定を招きます。

逆に、美味しい食事は、落ち込んだり腹を立てている人の、心を癒やしてくれます。

普段は当たり前のように思っている食事が、何かの事情で採れなくなると、食事の有り難みが身に染みることでしょう。

食事は生きるための力であり、生きることの喜びです。

しかし、最近は栄養のバランスよりも、見た目や値段の安さ、手軽さなどが重視され、様々な添加物の入った、ファーストフードがもてはやされています。

腹に入る物であれば、何でも同じだろうという感覚なのでしょう。

また、濃い味や調味料の味が癖になり、素材を生かした薄味というものは、物足りなく思われてしまいます。

流行り物であったり、経済的な事情から、ということもあるのでしょうが、やはり体に取り込む栄養分ですから、若いうちから食事には、気を配る習慣をつけた方が、いいと思います。

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食べるということは、基本的には他の生き物の、生命をいただいているということです。

昔の人は、そのことを理解していましたから、食べるということに、感謝を示していました。

日本人が食事の前に手を合わせて、いただきますと言うのは、その名残です。

西洋の人が、食事の前に手を合わせて、神に感謝する場面は、テレビや映画でも観ることがありますね。

でも、日本人はあらゆるものに、魂が宿ると考えますから、神に感謝と言うよりも、食材を提供してくれることになった、魂に感謝しているのではないかと思います。

いずれにしても、食べるということを、当たり前に考えるのではなく、食べる機会を得られることに、感謝するという気持ちは、忘れたくないですね。

その感謝には、食材を提供してくれた魂だけでなく、食事の場を作ってくれた人への感謝も、含まれています。

家で食事を作ってくれる人、お店で食事を用意してくれる人、また、その食材を作ってくれる人や、運んで来てくれる人。
そういった人たちへの、感謝を忘れてはなりません。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

さて、食べるということは、他の生き物の生命をいただいていると、言いました。
このことは、昔から言われていることです。

人間から見ると、植物は心を感じにくいので、食べることに抵抗はないでしょう。

でも、動物となると、違いますよね。

しつければ言うことを聞きますし、遊んで楽しむということも、知っています。

その動物を殺して食べるということには、抵抗を感じる人が少なくないと思います。

私たちが肉を食べられるのは、誰かが動物を殺して解体し、食材の肉という形に処理してくれているからです。

それを自分でやらなければ、肉は食べられないとなると、恐らく大半の人が、肉を食べなくなってしまうでしょう。

生活環境の関係で、その地域にいる動物を狩り、殺して肉を食べなければ、生きて行けない人たちは、自らの手で全てを行います。

彼らは動物に生命があることを知っていますし、心があることも知っています。

それがわかった上で、生きるために食べるので、肉になる動物への感謝の念を持っていますし、無益な殺生はしません。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

一方で、消費者と呼ばれる多くの人々は、食べる物を単なる食材としか、見ていません。

その食材が、かつては生命活動を営んでいたものの、一部であるとは考えないのです。

そんなことを考えていたら、何も食べられなくなると、思う人はいるでしょう。

しかし、ちゃんと事実を知った上で、食べるべきだと思います。

子供たちにも、そのことをきちんと教えるべきでしょう。

そうすることで、食べることの意味や、生きることの有り難さを、知ることができるからです。

この世界は、何かを食べることによって、生命をつなぐようになっています。

ですから、それによって他の生き物の命が奪われても、仕方がないことではあるのです。

それでも、人はそういう場面を目にするたびに、可哀想だとか、何とかならないものだろうかと、考えます。

そうは言っても、結局、考えるだけで終わってしまうことが、ほとんどではあるのですが、 そこで終わらせないで、ずっと考え続け て欲しいと思います。

他の生命を奪わずに生きることを、真剣に模索するということは、人間と他の生き物の生命を、同等にとらえるということです。

それは世界を知る、大きな一歩となるでしょう。

そして、それは人が知性体として進化することに、つながるに違いありません。

分離思考 その2

自分を全体から分離すると、どうなるのか。

それは、私たちの日常でも、よく見られることです。

たとえば、嫌なことをされたとか、馴染めないということで、学校や職場から孤立する人がいます。

何故そうなったのかという、具体的な原因や理由、あるいは善悪の判断は、脇に置きます。

ここで問題にするのは、孤立してしまった人の状態と、どんどん人が孤立して行く、組織の状態です。

孤立してしまった人は、糸が切れた凧のような感じでしょう。

自分ではどうすることもできない状況で、孤独と不安を味わうのです。

糸が切れているので、ずっと同じ状態が続くのだと、考えてしまいます。

一方、組織の方はと言いますと、人がどんどん孤立して行くと、辞めてしまう人が増えるでしょう。

そうなると、組織が成り立たなくなってしまいます。

無理やり、人をつなぎとめたところで、その人の心が離れていたのでは、ただ、そこにいるというだけのことになります。

組織としての活動は、停滞してしまうでしょう。

ところで、このような組織の上に立つ者も、実は、糸が切れた凧 なのです。

自分自身が糸が切れているため、周囲とのつながりを、どうすればいいのか理解ができません。

また、本当は孤独で不安なのに、地位や権力を持つことで、その気持ちをごまかしてしまうのです。

彼らは何から分離しているのでしょうか。

それは、人間という存在からです。

人は一人では生きられないと、理解している人たちは、他の人たちとの間に、つながりを感じています。

離れていたとしても、そのつながりが切れることはありません。

組織の中で孤立した人も、人間としてのつながりを、誰かとの間に持っていれば、切れたはずの凧の糸が、実は切れていなかったことに、気がつきます。

そうなれば、孤独から抜け出して、安心することができるのです。

しかし、そのつながりを持てない人は、不安に押し潰されそうになります。

そこで誰かを、自分の思い通りに動かすことで、あるいは相手の無理難題に、自分を合わせることで、自分にはつながりがあるのだと、自分を安心させようとするのです。

それは子供の虐待や、ろくでもない相手からの洗脳などの形で、知られています。

お金や地位や権力を持てる位置にいる者は、そういうものを使って、他人を思い通りに動かそうとするでしょう。

傲慢な経営者や議員などが、その典型です。

彼らは、世の中で困っている人がいても、何も感じません。

そんなことより、自らの保身に力を注ぎます。

また、そんな人物に従うことで、安心感を得ようとする者も、少なくありません。

そういう状況が、社会の様々な問題を引き起こし、大きな混乱をもたらします。

その実例は、世界中の至る所で見られます。

人間という存在から、自分を分離するということは、簡単に言えば、無知なのです。

人間が何かということを、理解していませんから、自分がどうあるべきかがわかりません。

人間として、自分はどうしたいのか、という気持ちさえも、押し潰されて見えなくなっています。

ところが、自分が人間であるのは事実ですから、人とのつながりがなければ、安らぎは得られません。

それをごまかすために、人はお金や力を求め続け、それらを十分に得たあとでも、さらに強欲に求め続けようとするのです。

自分が人であることを忘れた、哀れな人ほど、お金や力に執着します。

そういう者たちが、自分たちの地位の安定を図り、資本主義信仰を世の中に広げたのです。

でも所詮は、世界を牛耳っている多くの権力者たちも、糸の切れた孤独な凧なのです。

彼らの愚かな指示に、従う理由はありません。

今どうすればいいのか。

その答えは、人間である自分の心の中にあるのです。

分離思考 その1

私たちは、自分と他のものを区別する、習慣があります。

その基本となっているのは、自分という概念です。

私たちは、自分の体とそうでないものは、明らかに別のものだと、認識しやすい状況にあります。

それに拍車をかけるのが、何でも細かく分けて分類したがる、学者たちの権威です。

私たちは、ちょっと難しいと思われることに対しては、すぐに専門家と呼ばれる人たちに、全てを任せてしまいます。

自分で感じ、自分で考え、自分で理解するということを、やらないのです。

だけど、よく考えてみて下さい。

私たちは、地球や地球で見られる、様々な存在とは、別個に生まれたわけではありません。

人類の誕生には、地球の誕生や歴史、他の存在たちの誕生や歴史が、大きく関わっています。

決して、切り離して考えることはできません。

地球が誕生し、今の状態に成長する過程で、私たちも他の存在たちも、地球から生まれ出たのです。

それなのに、自分たちは人間で、他の存在とは違うと考えたり、自分たちと地球を別個に見てしまうのです。

自らを、全体から分離してしまうのですね。

それは、体の一部である、目玉や口、手足や内臓たちが、自分勝手に活動しようとするのと、同じことです。

実際、そのような振る舞いを見せる細胞がありますよね。
癌細胞です。

様々な細胞たちは、見かけや働きが違っていても、体という全体を維持するために、存在しています。

しかし、それとは違い、癌細胞は全体から分離し、浮いた状態になっています。

自らの役割を見出せないまま、他の細胞たちの所へ行って、そこの状態を無茶苦茶にします。

中にはホルモン物質を出して、遠く離れている細胞にも、悪影響を及ぼすものもいます。

これはまさに、今の地球における、人間の姿ではないでしょうか。

本来、人間には地球上における、何等かの役割があったはずです。

それが今では、地球は人間のためにあると考え、好き勝手にやりたい放題です。

その結果、地球温暖化の問題が出て来たり、多くの生物の絶滅という状況が、生まれているのです。

どんな生き物にも、あるいはどんな存在にも、それなりの役割があるはずです。

それは体の様々な細胞が、役割を持っているのと同じことです。

癌細胞が増殖を続けると、最後にどうなるのかは、誰でもわかると思います。

その人は死んでしまいます。

でも、癌細胞を駆除、あるいは正常化できる方法があれば、その人は助かります。

地球は人間よりも、遥かに大きく力のある存在です。

人間が口先だけの、地球に優しい環境作りをしなくても、地球は自らを浄化する力があります。

ただ、その浄化というものが、癌細胞である人間に取っては、一大事なので、今頃慌てているわけです。

そんな状況においても、本気で地球のことを考える人は、それほど多くないでしょう。

ほとんどの企業は、利益を上げることにばかり、着目しています。

地球に優しいと言えば、お客が増えると考えている企業も、多いでしょう。

でも、そろそろ本気で考え、経済中心の思考から外れて、生命としての立場から、物事を理解するべきだと思います。

本当は国の教育で、地球と人間は一つなのだと、教えてくれればいいのですが、それは現状ではむずかしいことです。

では、どうすればいいのかと言いますと、個人レベルで考えるしかありません。

それは、コロナ騒ぎを見ていても、明らかでしょう。

結局は、政府や企業などを当てにしていても、本当の解決には至らないのです。

自分たちで考えて、行動するしかありません。

人間として生きるということ、つまり人生全体を、これまでとは違った視点で考えるのです。

癌になった人が助かるためには、全ての癌細胞を駆除するか、あるいは正常化するしかありません。

地球が自らを浄化するのも、それと同じことだと思います。

人間であることの意味を理解する者は、地球の浄化を生き延びることができるでしょう。

しかし、理解できない者は、死に絶えるような気がします。

不確かな記憶

 ※Engin AkyurtさんによるPixabayからの画像です。

朝目覚めた時、私たちは自分が、昨日と同じ世界にいると受け止めています。

それは目覚めた部屋の様子や、昨日までの記憶、それを裏づけるような新聞やニュースなどの情報と、記憶を共有できる人々。

そういうものが、自分が昨日と同じ世界にいるのだと、確信させてくれるからです。

でも、本当にそうなのでしょうか。

夢の中には、夢の世界だけの記憶というものがあります。

その世界の自分は、この現実世界とは別人になっていて、こことは違う記憶を持っているのです。

その夢に現れた場面の記憶ではなく、夢には出ていないことが、夢の中の記憶として、認識されるのです。

 ※Laddawan SomkaewさんによるPixabayからの画像です。

テーブルの上に、料理が載せられている場面を、夢で見たとしましょう。

その場面を見ているだけで、 その料理を誰がどのようにして、作ったのかということがわかるのです。

その料理が作られるところの、記憶があるわけですね。

でも、料理が作られる場面は、夢には出て来ません。

ですから、夢の中だけの記憶なのです。

そんな記憶は妄想みたいなもので、頭が勝手に作り上げたものだ、と言いたい人もいると思います。

でも、夢の記憶が正しいかどうか、ということは問題ではありません。

その時の自分は、それを自分の記憶として、認識しているということが、重要なのです。

その記憶を認識している時には、こちらの世界の記憶はありません。

この現実世界の存在すら、頭にはないのです。

私たちは今認識している時空間を、現実の世界だと理解しています。

その根拠として、記憶は重要な地位を占めています。

しかし、一晩寝て目が覚めた時に、実は昨日までとは違う世界を、体験しているのかもしれないのです。

新たな世界には、新たな記憶が用意されていたとするならば、昨日いた世界の存在すら、わからなくなっているでしょう。

本当は今日から新しい世界を体験しているのに、昨日も一昨日も一昨昨日も、ずっと新しい世界にいたと、信じてしまうからです。

絶対にそうだと、言い切ることはできません。

でも、絶対に違うと、言い切ることもできないはずです。

結局、確かなのは、今この瞬間だけと言えるでしょう。

 ※RRiceさんによる写真ACからの画像です。

記憶が実は不確かなものだとしても、それを活用することはできます。

自分が保持している記憶を利用することで、今この瞬間をどのように生きるかを、判断できるでしょう。

ただ、同じ記憶から、どのような意味を見出せるかで、判断の結果が違って来ます。

人は記憶を頼りに、過去はどうだったかとか、事実はどうなのか、ということを重視しがちです。

しかし、そんなことよりも、今をどう生きるのか、ということの方が、遥かに大切だと思います。

そのためには、記憶されている過去の経験から、何を学ぶのか、過去の経験を、どのような視点で見るのか、ということが重要になって来ます。

何も学ぶことなく、過去に振り回されて、苦しい思いばかりをするのは、馬鹿馬鹿しいことです。

過去を単なる事実として見るのではなく、今を豊かに生きるための、材料だと見れば、苦しい気持ちは楽になって来るでしょう。

そして、今という瞬間を、活き活きと生きられるようになった時、記憶を振り返ってみて下さい。

以前には、恵まれていないと思っていた過去が、実は恵まれていたのだと、思えるようになっているはずです。

それは、今を変えることで、過去もまた変わったということなのです。

 ※mohamed HassanさんによるPixabayからの画像です。

不確かな記憶に囚われないで、いろんなことを深く見るように努めましょう。

大切なのは今なのです。

今が変わるということは、それまでとは別の世界の、体験が始まったということです。

そこには新たな記憶が備わっています。

前の世界と同じような経験の記憶に思えても、その経験を恵まれていなかったと見るのか、恵まれていたととらえるのかで、全く別の記憶になっています。

覚醒している間に、新たな世界を体験し始めた場合、新しい記憶と共に、古い記憶も保持しています。

しかし、新しい記憶の方がメインになると、古い記憶はいつの間にか、どこかに隠れてしまうでしょう。

過去に苦しんでいる人は、ぜひ今を変えてみて下さい。

それは言い換えれば、価値観を変えるということです。

人生というものを、表面的にとらえるのではなく、深く見て下さい。

きっと、苦しみから抜け出せると思います。

不屈の池江選手

女子水泳の池江璃花子選手のことは、みなさんご存知でしょう。

これまで個人競技で11種の日本記録を持ち、国際大会でも多くのメダルを獲得している、日本女子水泳界最強の選手です。

東京オリンピックでの活躍が期待され、また本人もそれが夢だったでしょう。

しかし、2019年に白血病を発症し、治療に専念するため、全ての競技を中止。
夢の東京オリンピックも、断念せざるを得ませんでした。

どれほどの無念だったか、推察することはできても、実際のところは、本人でなければわかりません。

とにかく表現できないほど、つらく悲しいことだったに違いありません。

また、白血病の治療自体も簡単なものではなく、つらい日々が続いたはずです。

そんな中、池江選手は不死鳥のように蘇り、再び水泳界に戻って来るや否や、日本選手権で4冠を達成しました。

万全の体調ではなかったでしょうが、今の自分にできる精一杯の力を振り絞り、獲得した4冠です。

1年延期になった東京オリンピックですが、新型コロナの影響で、今年も開催が危ぶまれています。

国民の半数は、今の状態でオリンピックを開催することを懸念しています。

しかし、池江選手の姿を見ていると、彼女のためにオリンピックを開催してあげたい、と考える人は少なくないでしょう。

それだけ、彼女のどん底からの復活は、人々に大きな感銘を与えたのです。

実際にオリンピックがどうなるのかは、現時点では誰にもわかりません。

でも、オリンピックに出られるかどうかではなく、池江選手の生き様そのものが、何より意味のある、素晴らしい贈り物だと思います。

彼女は自らの苦しみを通じて、世界中の人々にエールを送ってくれたのです。

自分は特別ではない、みんな同じなのだと、人生を通して伝えてくれているのです。

病気に限らず、人生のどん底にいると感じている人は、数多くいることでしょう。

しかし、決してあきらめることなく、強い意志を抱いていれば、必ず上に昇って行くことが、できるのです。

努力は必ず報われるという言葉を、競技での勝利や、記録と結びつけて考える人は、少なくありません。

でも、どん底からはい上がるというのは、そういう意味ではないのです。

競技での勝利や、記録を出すことは、一つの結果に過ぎません。

どんなに世界一の記録を出したところで、本人が生きる喜びを実感できていなければ、仕方がないのです。

競技に出るたびに優勝し、毎回記録を更新できたとしたら、本人はそれが当たり前だと思い、そこに喜びを感じられなくなるでしょう。

当然のことができなければ、どうしようと、強いストレスを抱えるに違いありません。

そうなると、何のためにやっているのか、わからなくなります。

見ている方も、優勝や記録の更新を、当然のごとく期待しますので、それができなければ落胆し、中には選手を非難する者も、出て来ると思います。

それによって、本来は称賛されるはずの選手が、深く傷つけられるのです。

そんなのは全く馬鹿げたことです。

努力すれば必ず報われるというのは、どんなにネガティブな人生でも、必ずポジティブな人生に、変えることができるという意味です。

苦しみや悲しみの人生も、喜びの人生に変えられるのです。

言葉で言うのは簡単ですが、実際にするのは、なかなか大変なことです。

ですから、がんばってはみたものの、途中であきらめてしまう人も、少なくないでしょう。

しかし、そうではないのだと、池江選手は自らの体験を通して、語ってくれています。

せっかくのやる気を、失いそうになっていた人たちも、彼女の姿を見て、再びやる気を出せるようになるでしょう。

今の池江選手は、どんな金メダルよりも、美しく輝いていると思います。

焦点を合わせる

人にはそれぞれ波長というものがあります。

波長の合わない人といると、居心地が悪くなることがあると思います。

波長が合う人といると、テンションが上がることでしょう。

楽しい時には楽しい波長、悲しい時には悲しい波長になっています。

不安な時には不安の波長、怒っている時には怒りの波長です。

人は波長を上げたり下げたりしながら、いろんな波長の自分を体験しています。

ラジオで受信する電波を、いろいろと変えるようなものですね。

 ※Manfred RichterさんによるPixabayからの画像です。

テレビやラジオにお気に入りの番組があるように、人は自分が固執したくなる波長があるようです。

固執するからと言って、その波長に合わせていることが、その人にとって快適だとは限りません。

つらく苦しい場合もあるのです。

だったら、そんな波長に合わせなければいいのにと思うのですが、どうしてもその波長に合わせてしまうのですね。

ですから、いつも明るく楽しそうな人、何でも前向きにとらえる人もいれば、 不満ばっかり口にしている人や、不安になることばかり探している人もいるわけです。

 ※アート宇都宮さんによるイラストACからの画像です。

この世界には、いろんな波長の人が共存していますので、嫌でも自分とは異なる波長の人の存在を、知ることがあります。

それでも波長が違うと居心地が悪いので、大抵はどちらも互いに一緒にいようとはしません。

でも、あまりに強烈な印象を受けたり、普段とは異なる特別な経験をした時には、他の人の波長をまともにくらい、思いがけなくその波長に囚われてしまうこともあります。

たとえば、誰にでも突っかかって行くような人に、いきなり殴られたり、家族を傷つけられたら、どうでしょうか。

普段は温和で優しい人が、憤って暴力的になるかもしれません。

これは相手の波長そのものであり、思いがけなく相手の波長に、合わせているのです。

戦争や内戦、抗争などの残虐な争いを見せられると、とても不安な気持ちになるでしょう。
また、悲しい気持ちにもさせられてしまいます。

その気持ちから立ち直れたらいいのですが、ずっとその気持ちを引きずってしまうと、本来の波長とは違う波長に、囚われている状態になっています。

ずっと面白くない日々を送っている人が、ある時、優しさに遭遇したとしましょう。

その優しさに心が惹かれ、自分も誰かに優しくできるようになったなら、それも優しさの波長にはまってしまったという事です。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

波長が異なると、体験している世界は、人それぞれです。

同じ空間にいても、そこがいいと感じる人と、嫌だと感じる人では、体験している世界が違うのですね。

つまり、自分の波長が変わるということは、体験する世界が変わるということです。

同じ世界を体験しているように見えても、実際は別の世界を体験しているのです。

そして、知らず知らずのうちに、次から次に様々な波長の世界を、私たちは体験しているのですね。

どの体験も学びになるので、どんな波長の体験も否定することはできません。

しかし、自分にとって居心地のいい波長があるのなら、その波長を維持できた方が、快適な人生を送れると思います。

そのためには、自分の波長を知ることが重要です。

よくわからなければ、自分には合わないと思われる波長の世界を、ピックアップしていけばいいのです。

それらの世界を省いていけば、残った世界に自分の波長が合う世界が、あるはずです。

そうして自分の波長がわかったなら、その波長を維持するように心掛けることです。

嫌な波長に注目し、思わず見入ってしまったり、不愉快な気持ちを持ち続けると、その波長に囚われてしまいます。

逆に相手を、自分の波長の虜にするぐらいの気持ちで、自分というものを維持するようにすればいいのです。

そんな人は一般的に、物事に動じないとか、飄々としている、マイペースだ、などと言われます。

 ※Norman BosworthさんによるPixabayからの画像です。

世の中がどんな風になっても、自分というものは変わらない。

この姿勢が、豊かな人生には必要でしょう。

創造するということ その3

引き寄せの法則という言葉を、聞いたことがあるでしょうか。

自分が意識を合わせていることが、現実に引き寄せられるというものです。

きっと悪いことが起こると考えていると、実際に悪いことが起こり、楽しいことだけ考えていると、楽しいことが起こるというようなものです。

お金の心配ばかりしていると、いつまで経っても、お金のやりくりに苦労します。

お金がないなら、ないなりに、今できることに夢中になる。
そんな人は、お金のやりくりに振り回されません。

自分なんか、誰にも相手にしてもらえないと考えていると、ずっと独りぼっちの状態が続きます。

自分に自信を持って、暮らしていれば、自然と人は集まって来ます。

他にもいろいろあるでしょうが、こんな風に、自分の意識状態が、体験する世界を引き寄せるというわけです。

そうは言っても、引き寄せの法則が、本当にあるのかどうか、半信半疑になるでしょう。

でも、私たちも含めて、全てがエネルギーだという視点で見て下さい。

私たちは意思のあるエネルギーで、自らのエネルギー状態を選択し、その状態を強めたり弱めたりできます。

エネルギーの状態を強めるためには、同じ状態のエネルギーを、周囲から集める必要があります。

体を維持したり、強くするためには、それなりの食事を、しっかりと摂らねばならないのと同じ理屈です。

エネルギーとしての自分を維持し、強めるために、同じエネルギーを補充しないといけません。

その結果、ポジティブの意識には、ポジティブなエネルギーが集まり、ネガティブな意識には、ネガティブなエネルギーが集まるのです。

全てをエネルギーとして考えると、引き寄せの法則は、理に適っていると言えるでしょう。

また、中途半端なエネルギー状態だと、ポジティブになったりネガティブになったりと、どっちつかずの状況になると思われます。

大概の人が、この中途半端状態ではないでしょうか。

こんな状況は嫌だ、こんな状況から逃げ出したい、と思っているうちは、嫌なことに気持ちが向いているので、結局は嫌なエネルギーが集まり続ける、ということになるでしょう。

嫌な状況から抜け出すのは、ネガティブなエネルギーをポジティブに変える必要があります。

つまり、そこから抜け出したいと思うのではなく、楽しいことをやりたいと考えるのです。

学校や職場が、自分には合わないと思って、やめる場合があると思います。

そんな時も、こんな所にいられるもんか、と飛び出すのではなく、自分はここじゃなくて、あっちで違うことをやりたい、という感じで出るのがいいでしょう。

それまでいた所から出て行くという点は、同じに見えるかもしれません。
しかし、両者はエネルギー的に、真逆の状態になっているのです。

スタート時点は同じでも、進む方向が真逆になるわけですね。

こんな感じで、次の世界がその人のエネルギーで引き寄せられるのです。

それは、世界を創造するのと、同じ意味です。

引き寄せの法則も、結局は自分で世界を創造している、ということを説明しているのですね。

創造するということ その2

可能性と言えば、私たちの暮らしの中でも、いろんな場面で使われる言葉です。

昇進の可能性、勝負に勝つ可能性、結婚できる可能性、結果を出せる可能性。

何にしても、やってみないとわからない事ばかりです。

でも、可能性が完全に0でない限り、求める場面は無限の世界の、どこかに存在しています。

その場面に、上手く出会えるかどうかだけのことです。

ところで、私たちは何気なく生きていて、何気なく時の流れに身を任せています。

次の瞬間に何が起こるのかなど、わかりませんし、考えようともしていません。

それでも次の瞬間は来ますし、その連続で人生は成り立っているわけです。

でも、次の瞬間というものも、数ある可能性の中から、自動的に選ばれているのだとすれば、どうでしょうか。

私たちは呼吸をしていますが、意識的に大きく呼吸をしたり、数多く呼吸をしたりすることができます。

でも、何も考えていなくても、呼吸は自律神経によって調節されていますので、勝手に息が止まることはありません。

眠っている時でも、呼吸は勝手に起こっています。

それと同じように、次の瞬間というものは、自律的に選択されているけれど、意識的に選ぶこともできるのかもしれません。

あるいは、意識しているつもりはないのに、気がつかないうちに、自分の意識が反映された瞬間が、選択されていることも、考えられると思います。

たとえば、楽しいことをしようと考えている人は、常に楽しい瞬間を狙っているわけです。

何も考えていなかった場合と比べると、明らかに楽しくなるような、瞬間瞬間を選んでいるでしょう。

また、毎日がつまらないと考えている人は、何に対しても興味を持とうとしません。

もし選んでいれば、そこに楽しさがあるかもしれない瞬間を見逃して、何もないであろう瞬間を、選択してしまいます。

似たような者同士が集まってしまうのも、それぞれが似たような瞬間を選び続けるために、引き寄せ合う形になるのかもしれません。

私たちは、創造するという言葉に対して、何か大事(おおごと)のようなイメージを、持ってしまいます。

でも、創造するというのは、いろんな可能性の中から、何かを選び出し、選び出したもので、自分や世界を生み出すことなのです。

見た目に大事かどうかは、関係ありません。

世界に存在する全てのものが、自分も含めて、創造されているのです。

私たちは、自分自身をも創造していると言えるでしょう。

自分や自分の世界は、他の誰が創ったのでもなく、自分自身で創っているのです。

誰かに文句を言ったところで、どうしようもありません。

この瞬間をどう生きるのか、次にどんな瞬間を導くのか、選択権も決定権も、握っているのは自分自身です。

他の人と同じことをするのか、自分独自の道を進むのか、どんな世界を創造するのか、全ては自分の裁量なのです。

創造するということ その1

私たちは人間で、他の動物とは別の存在です。

また植物は動物とは、異なる存在です。

この世界には、顕微鏡がなければ見えないような、微生物のような存在もいます。

そんな様々な存在は全て、地球を構成している、物質でできています。

では、地球はどうかと言いますと、地球は元は星屑でした。

他の星々も、みんな星屑でした。

ですから、私たちもみんな、元は星屑だったと言えるのです。

実際にビッグバンと呼ばれる現象が、あったのかは知りません。

でも、宇宙の全ては、元々一つのエネルギーだったと思います。

一つのエネルギーが、様々な形を生み出し、いろんな存在が、生み出されたのでしょう。

その可能性は無限大です。

たとえば、地球に月は一つだけありますが、月が二つという可能性も、あったかもしれません。

その確率が1兆分の1だとすれば、私たちには0に等しいものに思えるでしょう。

つまり、可能性は0ということです。

しかし、この宇宙と同じような世界が、1兆個存在すれば、そのうちの一つの世界では、地球に月が二つあるわけです。

人間にとっては、0に見えるものであっても、その可能性が完全に0でない限り、無限の世界の中のどこかで、それは生じているのだと、考えることができます。

人間が想像し得るものはもちろん、まだ思いつきもしていないことでも、可能性のあるものは、全て無限の世界のどこかに、存在しているのです。

そう考えると、私たちが何かを発見したり、発明したりするというのは、既に存在しているものに、遭遇したと言えます。

つまり、何かを創る、あるいは生み出すということは、無から有にすることではなく、すでに存在しているものを、自分たちの世界へ導くということなのです。

自分とは

自分とは何かと考える時、自分と認識しているものと、そうでないものを区別するでしょう。

言い換えれば、その区別があるからこそ、自分というものが認識できるわけです。

具体的に言えば、人は体を自分と見なし、体の外を自分以外と考えています。

体の皮膚の表面を境にして、自分と自分以外を、区別しているのですね。

wksさんによるイラストACからの画像です。

では、どうして体を自分と考えるのかと言いますと、体は思いどおりに動きます。

また、体の感覚によって、私たちは世界を感知しています。

私たちは自分を、体と一体化させて理解していますので、自分と言うと、体を基準にして考えるのです。

しかし、正確に言えば、自分=体 ではありません。

自分とは、心のことです。

その心においても、体を基準にして作られた概念が、多く存在しています。

自分は、日本の愛媛県に暮らす風野陽二だ、という自分の規定は、自分の体がどこに所属しているのかを、述べているに過ぎません。

俺は男だ、男とはこうあるべきだ、という考え方も、自分の体が男だから、そう考えるようになっただけのことです。

人間とは何ぞやという考え自体も、自分が人間だから、そう考えるのであって、別の存在であれば、そんな考えは無意味でしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

本当の自分というものは、産まれる前から存在しており、この世界で死んだあとにも、存在し続けるものです。

人間としての自分という概念は、人間に生まれたからあるだけで、別の世界の別の存在に生まれれば、別の自我を持つでしょう。

でも、産まれるまでは、自分はどこにも存在していなかったとか、死んだら自分という存在は、消えてなくなるのだと信じていると、どうしても体を基準にした自分こそが、本当の自分だと受け止めてしまいます。

それで何も問題が起こらないのであれば、別にそれでも構わないのですが、実際には自分に自信がないとか、自分には価値がないとか、死ぬのが怖いとか、様々な問題が起こっています。

それらは全て、自分というものが、よくわからないまま、他の人と同じような、曖昧な概念で生きているからです。

本当の自分とは、人間を超越した存在です。

人間というのは、一つの存在形式であり、人間体験から何かを学ぶための、一手段です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

私たちが日常使っている、人間としての思考も、人間経験の一つです。

意識とは思考するものだと理解していると、思考している自分が、本当の自分だと考えてしまうでしょう。

でも、人間の思考は紐のようなもので、細長く順序立てられた形を、取っています。

厚みはなく、紐全部を確かめないと、何を考えているのかがわかりません。

本当の自分が扱っている思考は、そのような薄っぺらいものではなく、細胞の遺伝子的なものでしょう。

つまり、一つの塊の中に、様々な種類の情報が練り込まれているようなものです。

テレパシーと呼ばれているような、意思疎通の仕方が、本来の私たちの思考形式だと思います。

言葉のように、長々と時間をかける思考ではなく、一瞬にして全てを理解できるような、そんな思考です。

私たちはそれを、閃きとして体験します。

情報源は無意識です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

閃きは、長々と順序立てて説明されたことを、なるほどそうかと、理解するものではありません。

一瞬にして、全てがわかるような感じです。

この閃きのような思考形態こそが、本来の思考であり、そういう思考をする自分こそが、本当の自分と言えるのです。

今の自分に自信がない人、悩んでいる人は、あまり深刻に考えないことです。

どの人も、本当の自分というものは、共通して光輝いています。

そこに優劣は存在しません。

何故なら、元はみんな一つの存在だからです。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

でもこの世界では、その考え方が受け入れられていません。

全ては細かく分類され、分離され、比較され、優劣をつけられます。

人間は最高の存在だと信じたいがために、他の存在を見下します。

同じように、自分は最高の存在だと信じたいがために、他の人たちを見下したくなるのです。

自分に自信がないとか、悩んだりする人というのは、本当の自分を感じ取っている人たちなのでしょう。

だから、今の世の中の仕組みに、上手く適応できないのです。

でも、適応する必要なんかありません。

世の中の方が狂っているのです。

誰かと自分を区別する必要はありませんし、自分のことも他の人のことも、批判する必要はないのです。

みんな自由に、ありのままの姿で生きればいいのです。

世の中がおかしいのに、自分の方がおかしいだなんて、思ってはいけません。

それよりも、今の自分にできること、今の自分がしたいこと、また本当の自分が、今の自分をとおして、何を学ぼうとしているのか、それを理解することが大切だと思います。