権利と義務
権利とは何か。
辞書によると、「ある物事を自分の意志によって自由に行ったり、他人に要求したりすることのできる資格・能力」とありました。
また、「一定の利益を自分のために主張し、また、これを享受することができる法律上の能力」とも書かれていました。
これに対して、義務の意味は次のとおりです。
「人がそれぞれの立場に応じて当然しなければならない務め」
「倫理学で、人が道徳上、普遍的・必然的になすべきこと」
「法律によって人に課せられる拘束」
要するに、権利とは、やりたいことを自由気ままに行うことを、当然のものとして認めてもらうことですね。
一方で、義務とは、やらなければならないことです。
権利にしても義務にしても、自分以外の存在が必要です。
権利を行使するにも、義務を果たすにも、相手がいなくては、どうにもしようがありません。
山に向かって、土地の所有権を叫んだところで、土砂崩れで埋もれてしまえば、おしまいの話です。
絶滅に瀕している生物がいた時に、その生物を救うか、その生物の遺伝子情報を残すのは、人間の義務であると、考える人がいるかもしれません。
でも、それは義務ではなく、その人が勝手に信じている、使命感でしょう。
権利にしても義務にしても、人間が安心して暮らして行くために、人間によって作られた決まり事です。
それが通用するのは、人間社会の中だけです。
それも、共通の理念を持った者で、構成された社会の中だけです。
国や民族、宗教によって、理念が異なる場合、互いが主張する権利や義務は、噛み合わないことがあります。
その場合、大抵相手が間違っているという結論になり、相手を非難するか、時には暴力的な争いが生じます。
つまり、権利にしても義務にしても、その効能があるのは、地域限定の社会の中においてだけなのです。
それを他の地域に行って、そこで自分の権利を主張すると、トラブルになるのは当然です。
また、その地域における義務を、不本意だと憤慨するのも、間違っています。
こういう問題には、時々いろんな所で遭遇します。
トラブルを避けたいのであれば、あらかじめその地域の風習や、慣習などを調べておき、自分に合う場所か、確かめておけばいいのです。
しかし、元々いる地域でも、差別や無関心が絡んで来ると、権利が平等でなく、一部の者に偏っていたり、その人の事情に関係なく、これは義務だからと言って、無理難題を押しつけるということが、あるでしょう。
結局、社会を安定させるための権利や義務は、力の強い者にとって、有利な内容になってしまうのです。
そもそも、権利や義務という言葉が存在するのは、そういうものがなければ、社会がまとまらないという事情があるからでしょう。
権利や義務が、しっかりしている所は、進んだ社会であるように思われがちです。
しかし、裏を返せば、そんなことを明記しなければ、成り立たない貧弱な社会だとも、言えるでしょう。
無益な争いや、虐げられた者が存在するから、権利や義務という言葉が、生まれるのです。
たとえば、育児放棄をする親がいます。
こんな親には、子供を育てるのは、親の義務だと説教が必要になります。
でも、本当は子供は義務で育てるのではなく、愛情で育てるものでしょう。
子供に対する愛情を、感じられないというところが問題なのです。
義務だからと言って、無理に育児をさせようとしても、こういう親は、他の人が見ていない所で、何をするかはわかりません。
そして、それは子供の心に、深い傷を負わせることになるのです。
子供の立場から言えば、ちゃんと育ててもらう権利が、自分にはあるということでしょう。
でも、そんな事を訴えられる、子供なんていません。
訴える力があったとしても、子供が求めるのは権利ではなく、愛情のはずです。
相手への思いやりや配慮が、十分になされる社会であれば、権利や義務について、一々明記しなくても、何も問題は起こらないでしょう。
逆に明記するから、これは書かれていないぞ、という論法で、好き勝手をする者が出てくるのです。
これだけ人間の数が増え、様々な主義主張が、飛び交う世の中ですから、権利や義務を規定しないといけない事情は、理解できます。
しかし、権利や義務という言葉があるうちは、人間はまだまだなのです。
現に、起こらなくてもいいはずの争いが、様々な場面で起こっています。
自分の権利を主張するがあまり、憎まなくてもいい人のことまでも、憎むようになっています。
自分が何かを主張したい時は、必ず相手の事情を、考慮するという、思いやりを持つべきでしょう。
主張するにも言葉を選び、相手の気持ちも考えて、どうすればいいのかを、共に考えて行くという社会を、作らなくてはなりません。
義務と言われることも、自ら進んで行えば、義務とはなりません。
互いを思いやり、みんなでやろうという思いがあれば、義務など必要ないでしょう。
そんな中でも、参加できない人には、それなりの事情があるはずです。
それを強制的に参加させるのは、思いやりがあるとは言えません。
今の世の中は、自分の権利を守ろうと固執する人が、とても目立ちます。
自分勝手と思えるほどの、権利への固執は、人々を不快な思いにさせるかもしれません。
でも、権利への固執にも理由があるのです。
恐らく、権利を失えば、大きな損失により、不便かつ不愉快な人生を、強いられるという不安があるのでしょう。
でも、損失と思えるものよりも、よくなったと思えるものの方が、大きいと理解できれば、権利に固執する必要はなくなります。
互いを思いやれる世の中になり、何かを失うことを、恐れる必要がなくなれば、権利に固執することはなくなるでしょう。
人は誰もが自由です。
自分が自由でいるためには、他の人の自由も、尊重しなければなりません。
自由の多様性と協調を、楽しめるようになれるのが、一番いいのです。
権利も義務も、あとから作られたものであって、最初からあったわけではありません。
権利や義務は、社会を安定させるための、一つの方策ではあります。
しかし、もっと優れた安定方法を、人類は求めて行かなくてはならないと思います。