言葉の撤回
「~という言葉は、撤回させていただきます」
こんな言い回しは、よく耳にしますね。
でも、日常生活で聞くことは、まずありません。
こんな言い方をするのは、政治関係の人たちだけです。
こういう言い方が、日本で始まったのか、外国から持ち込まれたのかは、よくわかりません。
いずれにしても、一度口から放たれた言葉を、撤回することは無理でしょう。
撤回というのは、取り下げるという意味です。
たとえば、指示や命令を取り止めるという場合は、先ほどの指示は撤回する、などと言えるでしょう。
しかし、普通の会話の中で、一度口に出した言葉を、撤回するということはできません。
日常会話では撤回という言葉は、少し固い表現になりますが、あえて使うとすれば、言い換えさせて下さい、という意味になると思います。
たとえば、誰かのことをべた褒めしていたのに、その当人がとんでもない事を、しでかした時などに、さっきの言葉は撤回すると言って、その人の事を悪く言うというような場合です。
つまり、指示や命令でない時に、撤回という言葉を使うならば、別の表現をしないといけないのです。
そうでなければ、撤回したことになりません。
主義や主張を撤回する、ということはあるでしょう。
でも、これも日常会話での表現というより、議論の場でのことです。
そして、その意味はと言うと、相手との妥協を図ったり、相手を理解した結果、自分の考え方を、より良いものに改める、ということです。
そうでなければ、撤回することになりません。
ところが、日本の政治家を見ていると、自分の発言が問題視された時、撤回しますとさえ言えば、何もなかったことにしてもらえると、誤解をしているようです。
また、与党の政治家が問題発言をした時に、野党の政治家が意気込んで、今の言葉を撤回しろと、騒ぎます。
これも馬鹿な話で、撤回しますとさえ言えば、勘弁してやろうという姿勢です。
だから相手は、撤回しますと言えば大丈夫なのだと、日常的に自分の言葉に、責任を持たなくなるのです。
誰かを傷つけるような発言をした時に、その言葉を撤回しますと言って、問題が解決するのでしょうか。
たとえば、学校の先生が一人の児童に対して、とても偏見に満ちた言葉を投げかけて、その子供が学校へ行けなくなったとしましょう。
それで親が怒り、新聞沙汰にもなった時に、その先生が自分の発言は撤回しますと言って、それで済むのでしょうか。
済むわけありませんよね。
私の言葉で子供を傷つけてしまったことを、心よりお詫びします、などと言われたところで、やはり解決になりません。
口先で何を言われようと、どうにもならないのです。
本気で解決しようと思うのであれば、実際に自分の考えを改め、傷ついた子供の気持ちを、理解しようという姿勢を、行動で示さなくてはなりません。
それも一時的なものであれば、許して欲しいがための、パフォーマンスと言われます。
本当にその気があるのならば、改めた姿勢は、死ぬまで変わらないでしょう。
ただ、そこまでしても、傷ついた子供の心が、癒やされるという保証はありません。
それでも本当に反省しているのであれば、改めた姿勢を貫き通すでしょう。
今のは、子供に対して悪意のある先生を、例にした話ですが、日常会話の中で、さり気なく出た言葉で、誰かが傷つくことはあると思います。
その時に、相手が過敏なのであって、自分は間違っていない、と思いがちになるかもしれませんが、それでも相手への配慮が足らなかったことは、素直に認めるべきでしょう。
騒がれて仕方がなくなり、言葉を撤回するなどと、かっこをつけた言い方をすれば、火に油を注ぐようなものです。
それは考えを改めるということではなく、その言葉で騒ぐというのなら、面倒臭いからその言葉を引っ込めよう、という意味だからです。
心の中身は何も変わっていません。
しかし、みんなが問題にするのは、そういう言葉を放った、その人の心の有り様なのです。
日本人は、臭い物に蓋をするというところがあります。
特に古い人ほど、そういう傾向があると思います。
そんな考え方があるから、表面だけ体裁を整えていればいいのだ、という発想になり、問題発言だけでなく、いろんな社会問題が、真剣に取り組まれないのです。
政治家や古い人間は、何をそんな細かいことに、目くじらを立てて、と思うでしょう。
ところが、そういう所が好い加減な人間は、何をやっても好い加減なものです。
上手く行っているように見えたとしたら、誰かが忖度をして、陰で手助けをしてくれているからでしょう。
職人にしても研究者にしても、あるいは趣味を持っている人にしても、みんな細かい所にこだわりを持っています。
ちょっとの事でも、軽視したりはしません。
また、優れた指導者は、現場で働く人々の苦労を知っています。
みんなが動いてくれるからこそ、計画が実行されるということを、理解していますし、感謝の念を持っています。
その人たちを軽視したり、傷つけるようなことを、やったりはしません。
現場の人間が不満を抱いていると、期待していたような結果につながらないことを、賢い指導者はわかっているのです。
不適任な指導者でも、これまで続いて来たのは、誰も彼らの責任を、本気で問うことがなかったからです。
しかし、これからは違います。
日本だけでなく、世界中の若い人々を中心とした、変革を求める声が、互いに共鳴し合って、広がっています。
この声を止めることは、不可能です。
政治家の中でも心ある人は、大物と呼ばれて来た人たちに遠慮するのではなく、世界に広がる声に、耳を傾けて欲しいと思います。
さもなくば、ぼろ船と一緒に、深い海の底へ沈んでしまうでしょう。