健康になるために

健康になるために、あなたは何かをしていますか。

ダイエット?

ジョギングですか?
それともウォーキング?

 ※Manfred RichterさんによるPixabayからの画像です。

その一方で、あなたは不健康になることを、やっていないでしょうか。

たとえば、喫煙や深酒、睡眠不足、スマホやパソコンゲームのやり過ぎ、偏った食事。

あるいは、ストレスのため込み、不安や心配ばかり思い浮かべる、人生をあきらめる。

こういう事をしながら、ダイエットやジョギングを行ったところで、その効果は限定的です。

場合によっては、全然効果が見られないかも知れません。

健康になりたいのであれば、健康にいい事をするのも大事ですが、その前に悪い事をやめないといけません。

しかし、健康に悪い事を続けるのには、その人なりの理由があるはずです。

その理由を無視したまま、これは健康に悪いからやめましょう、と言われたところで、その実行はむずかしいでしょう。

 ※Free-PhotosによるPixabayからの画像です。

いけない事だと知りながら、そこにどんどんはまって行くのは、大抵の場合、何らかのストレスを抱えていたり、解決できない問題に、途方に暮れているのだと思います。

つまり、現実逃避ですね。

嫌なことを考えずに済むように、何かに没頭してしまうのです。

それは、ある意味、自分の状態を維持するための、バランスを取ろうとしているのです。

本当の問題を解決しないまま、悪癖だけを正そうとすると、他の悪癖が出て来るか、大きなトラブルを起こすでしょう。

本人にとっては、身体の健康よりも、心の安定の方が、大切なのです。

誰かの悪癖を正そうと思うのであれば、その人が抱えている問題に、目を向けてあげる必要があります。

自分の悪癖を正そうと決意するのであれば、自分が抱えた問題から目をそらさず、正面から向き合わねばなりません。

 ※Josep Monter MartinezによるPixabayからの画像です。

話が変わって、健康にいいことをやろうと決めても、長続きしないのではありませんか。

いいことがわかっているのに、どうして続かないのでしょうか。

その理由は、つまらないからです。

本当ならやりたくない事を、健康にいいからという理由で、無理矢理続けようとするから、いずれは嫌になって、続かなくなるのです。

では、どうすればいいでしょうか。

それは、つまらないことを、楽しいことに変えればいいのです。

人間は健康になるために、生きているのではありません。

健康は結果であり、活き活きと暮らしていれば、自然と健康になるものなのです。

それを健康を目的にしてしまうから、つまらなくなって、やめてしまうのです。

~してはいけない。
~しなければならない。

こういう考え方はネガティブですから、面白くありません。

たとえば、ダイエットの場合、たくさん食べることよりも、本当に美味しい物を、時間をかけて食べるという、習慣を楽しむのがいいのです。

 ※RENE RAUSCHENBERGERさんによるPixabayからの画像です。

食事の時間を、食べるだけの時間だとは考えず、会話や景色、風情などを楽しむ時間だと考えましょう。

また、食事以外の楽しみを、見つけることも大切です。

食べることしか楽しみがなければ、食べることでストレスを、解消しようとするでしょう。

それに、楽しみを追求しようとすると、どうしても食事の回数や、食事量が増えて来ます。

食べる事以外に価値を見つけると、楽しみは分散されます。

その分、食事の楽しみも、量より質を求めるようになるでしょう。

ソースや調味料の味ではなく、素材の味を楽しめるようになります。

そうすると結果として、食べないようにするダイエットではなく、食べたい物は食べながらのダイエットになるのです。

ダイエットは目的ではなく、結果なのです。

 ※pasja1000さんによるPixabayからの画像です。

ジョギングやウォーキングについても、同じです。

健康のために、走ったり歩いたりするのは、とても疲れます。

でも、走ることや歩くことそのものに、楽しみを見つけたならば、疲れを忘れてしまうでしょう。

同時に、健康のために始めたことも、忘れてしまいます。

身体を動かすことが気持ちいいとか、外の空気を吸う事や、景色を眺めることが楽しいなどと、感じられるようになれば、運動自体が楽しくなります。

健康になるのは、やはり結果です。

人生は楽しさを、求めるものなのです。

そこを理解していないと、本当に健康な人生は、送れなくなるでしょう。

縁というつながり

世の中には縁というものがあります。

科学を信奉する人の中には、そんなものは偶然だと言う者も、いるかも知れません。

でも、普通の人であれば、縁を否定する人はいないと思います。

何をやってもうまく行かないし、面白いと思えない。

そんな時に、ある人に誘われて始めた仕事は、天職のように思われた。

他の人が誘われてもよかったのに、自分を選んで誘ってくれた。

これは縁です。


ずっといい人に巡り会えず、もう結婚はあきらめていた。

一人旅に出た先で、たまたま話をする機会を持った人と、一緒になることになった。

これも縁です。

 ※オハヨーさんによる写真ACからの画像です。


全然違う所で生まれ育ち、全く違う経験を積んだ者同士が、ある時にある場所で出会い、互いの存在を認め合うことになる。

その瞬間だけを見ていると、偶然のように思えるかも知れません。

でも、一人一人の生まれてからの動きを追ってみると、その時にその場所で、相手に出会うために、全てが準備されているように思えます。


ただ、せっかく訪れたその瞬間、出会った相手に何かを感じながらも、他のことを考えたり、自分にいい事など起こるはずがないと、決めつけたりすることで、その出会いをふいにしてしまうことも、あると思います。

あるいは、目先の楽しみに心を奪われ、手に入れたはずの大切な出会いを、失ってしまうこともあるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

もしかしたらそんな事は、よく起こっているのかも知れませんね。

理屈ではなく、感覚を大切にしている人であれば、大切な出会いに気づくでしょう。

でも、自分の感覚が信じられない人は、見過ごしてしまう可能性が高いと思います。

それは、ある意味、自分を大切にしていないのと同じです。

自分にはそんな価値なんかないと、自分で自分を低く見たり否定したり、しているからです。


縁というものは、常にいいものとは限りません。

悪縁というものも、あります。

 ※どすこいほたてさんによるイラストACからの画像です。

たとえば、悪い友人に引き込まれて、悪事に走るとか、似たような考えの者同士で、互いの足を引っ張り合いながら、暗い人生を送り続ける、などというものです。

これらの人々も、それぞれの人生を追ってみると、まるで磁石に吸い寄せられるように、互いを引き寄せ合うようになるのが、わかると思います。

こういう人たちには、先ほどのようないい人との縁は、なかったのでしょうか。


悪い道へ走ってしまう人たちの多くは、人生を投げやりに考えたり、自分自身を見捨てている傾向が、強いと思われます。

そういう精神状態の時には、力になってくれる人がいても、疑ってかかるでしょうから、わかりにくいのでしょう。

相手を信じる気持ちを、どれほど持ち合わせているかで、いい縁を引き寄せられるかどうかが、その後の人生を左右させるのだと思います。

しかし、人を信じて騙された結果、誰のことも信じられなくなるということは、あるでしょう。

人を信じられなくなったからと言って、その人を責めるわけには行きません。

ただ、誰のことも信じられなくなれば、待っているのは悪い縁だけです。

人を信じられなくなった理由は、いろいろあるでしょう。

でも、理由の如何に関わらず、人を信じられなくなった者を、待ち受けるものは、全てから逃げ出したくなるような状況です。

 ※L. GesellさんによるPixabayからの画像です。


いい縁を呼び込みたければ、まずは自分を認めて信じることです。

自分になど、いい状況が巡って来るはずがないと、決めつけているうちは、そのとおりの状況が続くでしょう。

今、自分がどんな状況にあろうとも、自分を見捨てたり見下したりしないで、自分の好奇心が求めることに、忠実に生きてみて下さい。

自分の好奇心に従っている時が、一番自然な状態です。

そういう時にこそ、いい縁とのつながりが、できやすいのです。

いい縁に恵まれたければ、自分の本当の姿を押さえ込まず、自分の光を放ち続けることです。

縁は必ずあります。

それに自分が気づくかどうか、だけなのです。

アンドロイドの活用

 ※fotografiekbさんによるPixabayからの画像です。

予想どおり、世界中で新型コロナの、新たな猛威が広がっています。

イギリスで見つかったとされる、新型コロナウィルスの変異株は、従来のウィルス株よりも、感染力が最大で1.7倍とされています。

それを実証するかのように、若い人の間でも、感染が広まっているようです。

このウィルスの毒性が、どれほどのものなのかはわかりません。

しかし、体力の弱い人が感染すると、リスクがあることは同じですから、これまで以上に感染には、注意を払う必要が出て来るでしょう。

だからと言って、都市をロックダウンしたり、外出を自粛したりすると、人々のストレスになるばかりでなく、飲食業を中心とした、経済的ダメージは避けられません。

飲食業以外の仕事も、外出自粛とは直接関係がないように見えても、人々の不安や収入減による買い控えが増えると、やはりダメージを受けるでしょう。

混乱が長引くと、コロナ騒ぎとは関係がないように見えていた企業が、倒産する可能性も否定はできません。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

経済危機に関しては、お金がないと身動きが取れなくなるような、世の中のシステムそのものを、変えることが根本的な対処になるでしょう。

現在のコロナ騒ぎが落ち着いたとしても、新たなウィルス騒ぎが起こる可能性は、いつだってあります。

それに、経済システムを不安定にさせるのは、ウィルス騒ぎに限ったことではありません。

リーマンショックのような金融危機や、戦争あるいは大災害などでも、同じような状況は起こり得ます。

そもそも普段の状態においても、貧困に喘ぐ人が多いですし、貧しい国がなければ、成り立たない経済システムですから、元々見直す必要はあったのです。

ただ、新しい経済システムを構築したとしても、人命に関わるウィルスについては、対策を講じる必要があるでしょう。

ウィルスの研究や、薬剤やワクチンの開発が、収益ではなく人々の幸福のために、行われるのであれば、今以上に効率的かつ効果的な対策を、取ることができると思います。

しかし、それ以外にも、予期せぬ感染のリスクを、下げる方法があります。

それはアンドロイドです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

たとえば、飲食店での注文や配膳の仕事は、アンドロイドがやればいいのです。

飲食店以外でも、営業や接客の仕事を、アンドロイドに任せれば、いいと思います。

お客との応対を、全てアンドロイドのAI知能に任せても、構わないでしょう。

でも、別室にいる人がアンドロイドを通して、お客とコミュニケーションを取ることもできます。

病院の仕事も、アンドロイドを取り入れれば、人間の感染リスクを下げられますし、人手不足も解消できます。

また、様々な現場にアンドロイドを投入することで、アンドロイドのAI知能から、新たな対策や改善方法などを、指摘してもらえるかも知れません。

アンドロイドの投入は、感染を防ぐだけでなく、新しい知恵を手に入れられる、可能性があるのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

ただし、様々な現場で、人間のように動けるアンドロイドを、開発することは容易ではないでしょう。

とても、現在のコロナ騒ぎには間に合いません。

そうではなく、今後の問題に向けての、早めの対応という形で、優秀なアンドロイドの開発を進めるべきなのです。

開発に関わる人は、新たな産業の成長に、興奮を覚えることでしょう。

また、様々なアンドロイドが増えることで、一般の人々の好奇心も刺激され、暗い雰囲気が明るくなると思います。

アンドロイドが増えると、失業者が増えると懸念する人が必ずいます。

でも、全ての仕事をアンドロイドが、するわけではありません。

アンドロイドを活用した、社会貢献のアイデアを出したり、人間の経験が必要な、子供の教育に関わる仕事など、世の中が求める仕事は、いくらでもあります。

儲かるか否かという、金銭感覚を基準にしていると、人々が必要としている仕事があっても、無視されてしまいます。

しかし、誰かのためにという思いで探せば、やるべき仕事はいくらでも見つかるでしょう。

それにお金を中心とした世の中でなくなれば、失業するという心配そのものが、いらなくなるのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

いずれアンドロイドは、いろんな所で普通に目にされるような、時代になると思います。

人の代わりに仕事をしてくれるアンドロイドを、奴隷のように考える人も、いるかも知れませんが、アンドロイドは人間の友人です。

アンドロイドを友人として扱えないようであれば、そこには感謝も思いやりもないということです。

そんな世界になったとすれば、いずれ人類は滅亡してしまうでしょう。

アンドロイドを友人として見られるならば、それは人間が新たな世界観を、手に入れるということです。

そんな人類の前には、信じられないような素晴らしい世界が、姿を見せてくれるに違いありません。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

どう受け止めるのか

人生には、いろいろな出来事があります。

大きなものから、小さなものまで様々です。

それはある人にとっては、とてもで大切である一方で、他の人には、どうでもいい事というのは、よくある事です。

 ※Amanda BennettさんによるPixabayからの画像です。

その見解の相違が、トラブルの元になる事も、よく見受けられます。

ここでポイントなのは、何が大切で何が大切でないのかは、人によって異なるという事です。

ところが、自分の見解が絶対正しい、あるいは、相手の見解は絶対間違ってる、と考えてしまう事があるわけです。

たとえば、常識という考え方が、そのような判断の元になる事は多いですね。

科学あるいは宗教の信奉者も、同じような傾向があると思います。

また、大変な思いをして、他の人たちを信じられなくなった人が、周りはみんな敵ばかりと、決めつけてしまうこともあるでしょう。

しかし本来、物事や出来事には、意味がありません。

 ※Alexander BelyaevによるPixabayからの画像です。

たとえば、何かに蹴つまづいて転んだとしましょう。

それは歩行時に、足先が何かにぶつかり、体がバランスを崩して倒れた、というだけの事です。

しかし、転んだ人が、転ぶ前に嫌なことがあると、自分は何て運が悪いのだろうと、考えるでしょう。

場合によって、自分は誰かに呪われていると、受け止めるかも知れません。

ところが、転んだ時に、どこかから飛んで来た石が、頭上を通り過ぎたとしましょう。

転ばなければ、その石が直撃していた可能性があります。

そうすると、その人は自分は運がいいと、考えるでしょう。

その前に嫌なことがあったとしても、これで運が好転すると思うかも知れません。

でも、本当は蹴つまづいて転んだだけで、その事自体には、何の意味もありません。

それを体験した人が、自分が置かれた状況によって、そこにそれぞれの意味を見出しているだけなのです。

もう一つ、例を挙げましょう。

美味しい食事を食べた後、あと片づけをする時に、それを面倒臭いと思う人が、多いのではないでしょうか。

食事は楽しいイベントだけど、イベントが終わると、あとは楽しくないという事ですね。

 ※LaterJay PhotographyさんによるPixabayからの画像です。

でも、あと片づけまでが、イベントだと考える人は、楽しさの余韻に浸りながら、あと片づけをするでしょう。

あるいは、あと片づけが次の楽しみの準備だ、と受け止める人も、次の楽しさを思い描きながら、片づけます。

行う作業は同じですが、その作業をどう考えるかで、その人の世界観が、大きく変わって来るのです。

人生が楽しいかどうかは、その人の世界観と、その人が置かれている状況で決まります。

状況を変えることは、簡単なことではありません。

でも、世界観を変えることは、本人の気持ち次第で、どうにでもなります。

ただし、物事への理解度が深くないと、世界観を変えることも、やはり容易ではないでしょう。

突発的な事故や、あと片づけなどについて、それをどのように受け止めるかは、その人の価値観です。

その価値観は、事故や片づけ以外の場面でも、当たり前のように現れます。

つまり、単に事故や片づけに対する考え方、という問題ではないのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

何気ない、ちょっとした仕草や行動には、その人の人柄や価値観が、出ているものです。

一つの行いを見て、その人の全てを、決めつけるわけには行きません。

しかし、一つの行いから、その人の雰囲気や、思考パターンを読み取ることはできます。

事故や片づけに対して、どういう意味づけをするかという事は、他の場面においての、意味づけとも関連しているのです。

 ※Manfred Antranias ZimmerさんによるPixabayからの画像です。

他人の行動はよく見えても、自分の行動はよく見えないものです。

しかし、自分の行動を客観的に見ることができれば、自分ではうっかり見逃してしまうような、自分の思考パターンを、認識することができます。

そうすれば、ある物事をどう受け止めるかという事が、自分の行動パターンを決めていることに、気づくでしょう。

自分が楽しく過ごせているのなら、それで構いません。

しかし、何かに悩んでいたり、問題にぶつかっているようであれば、自分の思考や行動パターンを知る事は、大いに役立つと思います。

何にしても、楽しい人生を送りたいのであれば、様々な物事を、自分がどのように受け止めるのかを、確かめるのがいいでしょう。

そこに自分の人生を、色あせさせるような受け止め方があったなら、それを変えてみて下さい。

きっと同じような場面が訪れた時に、これまでとは全然違う気持ちに、なっていると思います。

世界の構造

 ※Paco SilvaさんによるPixabayからの画像です。

空中に光源が一つあると、イメージしてみて下さい。

光源は太陽のように、周囲の空間の全てに、光を放ちます。

ここで別の場所に、もう一つの光源を、イメージして下さい。

初めの光源と、同じ空間です。

空間には二つの光源があり、それぞれが周囲に光を放っています。

この時、空間のある一点を見ると、そこには二つの光源からの、光が重なっています。

それは空間上の、全ての点で言えることです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

今度は三つ目の光源を、イメージして下さい。

空間には三つの光源があって、同じように周囲に光を放っています。

空間のどの点にも、三つの光源からの光が、重なり合っています。

同様に、無数の光源を考えると、空間のどの点も、無数の光が重なり合っています。

空間の位置によって、届く光の角度が異なりますが、全ての光が重なっている事では、全ての点は同等です。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

私たちの本質は心であり、精神エネルギーです。

意識というものは、この世界においては、内面的なものであり、自分以外の存在については、外面的な情報しかわかりません。

しかし、それは自分がわからないだけの事で、全ての存在には、内面的なものがあります。

その内面的なもの、つまり意識というものには、私たちが考えているような、形というものがありません。

この表現が正しいかどうかは別にして、もし意識というものを、外面的なものとして、確かめられたとすれば、光のようなものだと思います。

光には形がありません。

存在はしているけれど、とらえどころのないようなものです。

意識とは、そのようなものでしょう。

ですから、意識というものを、光あるいは光源とみなすことにします。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

ここで初めの話に戻りますが、空間にある無数の光源が、一つ一つの意識だと考えて下さい。

その光源が全て人間の意識であれば、それは人類の集団意識です。

同様に、その光源が全て犬の意識であれば、それは犬の集団意識になります。

同じように考えて、あらゆる存在の集団意識があって、それぞれが同じ空間に、それぞれの光を放ったとすると、空間上の全ての点に、あらゆる意識の光が重なります。

その光の重なりが、私たちが経験している、世界を構成しているのです。

 ※955169さんによるPixabayからの画像です。

ところで、光を放つ光源も、空間上の一点です。

そこにも周囲の光源からの光は、全て届けられます。

この光源が、私やあなたの意識だと考えて下さい。

私たちの意識は、そこへ届けられた、他の光源からの光を基にして、自分が体験する世界を、構築しているのです。

あなたの意識が、元の存在位置から、少しずれた所に移動したとしましょう。

そこでも前の位置と同じような世界を、体験するのですが、位置がずれた分、わずかに情報が変わります。

 ※955169さんによるPixabayからの画像です。

大きく位置を変えると、体験している世界の様子も、大きく変化します。

でも、それは世界が変わったというよりも、自分の位置が変わったというのが、正しい見方でしょう。

今の世界の状況を見て、不安に感じたり、途方に暮れる人は多いと思います。

でもそれは、自分が位置を変えられることに、気がつかないまま、ずっと同じ位置に留まり続けているのです。

同じ世界にいて、同じ体験をしているつもりでも、それぞれの世界を体験する位置が違うと、そこに構成される世界は、人によって違う世界になります。

場合によっては、同じ世界を全く反対の方向から、眺めたような受け止め方を、しているでしょう。

そこには楽しい世界も、悲しい世界も、苦しい世界も、存在しています。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

その楽しい世界が、状況が変わって、苦しい世界になるかも知れません。

悲しいと思っていた世界が、喜びの世界になる場合もあります。

楽しいのはいいのですが、苦しくなったり、つらい状況がいつまでも続く場合は、自分自身の価値観を変えてみると、いいと思います。

価値観を変えるというのは、空間における自分の位置を、変えるという事です。

違う位置に移動すれば、周囲の光源から届く、光の角度が変わります。

それは物事の見方が、変わるという事です。

物事の見方が変われば、当然世界の感じ方、受け止め方が変わります。

苦しくて限界だと思っていた世界が、大変ではあるけれど、何とかやって行けそうだと、感じられるようになるでしょう。

さらには、もっと思ったとおりになって、それをあの大変さがあったお陰だと、受け止められるようになるのです。

物質世界では、場所を移動するためには、物理的な力が必要です。

しかし、形のない意識の世界では、自分の位置を変えるためには、価値観を変えるという事が、必要になるのです。

価値観を変えられずに、同じ位置に留まり続けるのは、物質世界で移動手段がわからず、身動きが取れないのと似ています。

物質世界で下手に動いて、かえって状況が悪くなることがあるでしょう。

それと同じように、価値観を変えるにしても、物事の理解度が少ない価値観になってしまうと、今よりもつらい位置に移動してしまいます。

喜びを感じられる位置へ移動するためには、理解度の高い価値観を持つことが重要です。

それは知性の高さを意味します。
でも、学校の勉強ができる、ということではありません。

学校の成績がよくても、知性の低い人は、いくらでもいます。

逆に、学校の成績が芳しくなくても、高い知性を持ち合わせている方も、たくさんいます。

 ※Plz do not use photos showing people for commercial uses.さんによるPixabayからの画像です。

本当の知性は、あなたの光を、美しく輝かせるものなのです。

自分は光なのだというイメージを持ち、美しい光を周囲に放っているところを、想像して下さい。

その光は他の光源たちの元へ届き、彼らが持つ世界観に影響を与えます。

それがどのようなものかは、直接確かめることはできません。

でも気にしないで、いい影響を与えられることを願いながら、光を放ち続けて下さい。

それが、本来のあなたの姿です。

また、その姿でいることが、あなたにとって幸せなことなのです。

何故ならば、その状態を維持している時に、あなたが体験する世界こそが、あなたが求めている世界だからです。

その世界は、喜びも悲しみも全て含めて、生きていることの奥深さと、幸せを感じさせてくれるものでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

立体映画としての世界

 ※mohamed HassanさんによるPixabayからの画像です。

みなさんは、お気に入りの映画はありますか。

何度も観たくなるような映画では、主人公や登場人物と気持ちを一つにして、自分がその人物になったような気分になるでしょう。

創られた物語であることがわかっているのに、主人公たちを襲う危難にハラハラし、涙するのは、心情的に主人公たちと、一体化している証だと思います。

最近の映画館で観る映画は、3D映像で上映することがあります。

映像を立体化するだけでなく、音響に合わせてイスが振動したりと、臨場感たっぷりです。

街中を歩いているシーンなどでは、自分も映像の中の街に、いるような気分にさせられます。

それでも映像を観ている自分と、映像の中の人たちとは、別々の存在であることを、私たちは自覚しています。

 ※Amit KumarさんによるPixabayからの画像です。

いくら映画に夢中になっていても、映画を観て楽しんでいるという、感覚が残っています。

コンピューターゲームのような、バーチャル世界だと、自分自身が映像の中に、入り込んだ感覚があるでしょう。

でもゲームの中では、自分が何もしなければ、自分が置かれた環境は、いつまでも同じままです。

しかし映画の場合は、ストーリーがあり、黙っていても話が進んで行きます。

それに合わせて、画面はどんどん変わり、観客はその変化に対して、為す術がないまま、登場人物が状況に翻弄される様子を、共に体験するだけです。

もし立体映画の中に、バーチャルゲームのように入り込めたら、どうでしょうか。

あなたは映画の中の登場人物と、まさに一体化するのです。

ただし、いろんな場面で何を感じ、どう考え、どんな行動を取るのかは、登場人物に任されています。

あなたは登場人物の心になりきって、登場人物の心の動きを、自分の心の動きだととらえて体験します。

それは夢の世界にいるのと同じで、実は自分が映画を鑑賞しているのだということなど、すっかり忘れているでしょう。

 ※RAEng_PublicationsさんによるPixabayからの画像です。

何かを考えているつもりでも、実はそれは登場人物の考えであって、あなた自身のオリジナルの考えではありません。

でも、その事にあなた自身は、まったく気がつかないのです。

そんな状態を、想像できるでしょうか。

何かを考え、行動しているつもりなのに、実は自分は何も考えていないし、行動もしていないのです。

あなたはただ黙って、その人物と経験を、共有しているだけなのです。

そして、私たちが経験しているこの世界が、まさにそのような立体映画なのだとしたら、どうでしょうか。

そんなことないよ、私は自分で考えてる。

そう反論したくはなるでしょう。
でも、果たしてそれは真実でしょうか。

そう考えることも、実は想定されているだけなのかも知れません。

 ※press 👍 and ⭐さんによるPixabayからの画像です。

どうして、こんなことを言うのかといいますと、自分という概念について、考えて欲しいからなのです。

この世界を疑い、この世界とは別に存在している、自分というものを、想定できたとすれば、それはあなたのオリジナルの思考でしょう。

映画の中の人物が、他の世界について、思いを馳せるように、想定されていたとしても、実際に他の世界について、理解することはありません。

他の世界を理解できるのは、その世界とのつながりを、感じられる者だけです。

本当の自分はこの世界の外にいて、今はこの世界を体験しているだけだと、イメージできたとすれば、それはあなたのオリジナルの思考だと言えます。

その状態で、この世界を体験するのは、夢を夢だと自覚して、見ているようなものです。

ほとんどの人は、そんなことなど考えもしないでしょう。

それは元の意識はぐっすり眠ったまま、夢の世界でもがいているのと同じです。

夢を夢だと自覚できれば、夢の内容をコントロールすることが、できるようになります。

でも、自覚できなければ、夢の中の動きに、翻弄されるだけです。

もし、あなたが今の世界で、周囲の状況に翻弄されているように、感じていたならば、それはこの世界に、どっぷり浸かり過ぎているということです。

 ※Aku DigressさんによるPixabayからの画像です。

この世界にいる自分を、離れた所から客観的に眺めるようにすれば、状況をコントロールできると思います。

それは自分が体験している立体映画を、別のストーリーのものに変えられるということです。

辛いことばかりだった映画が、楽しい映画に変わるのです。

生きているのが嫌になる映画が、ずっと生きていたいと思う映画になるのです。

今の自分の考えや価値観が、本当に自分のものなのか、今一度考えて見て下さい。

たとえ、そうやって考えることが、想定された思考だったとしても、それをジャンプ台にして、本来の思考を、取り戻すことができるでしょう。

人生は電動アシスト付自転車

 ※ei-miさんによる写真ACからの画像です。

電動アシスト付自転車は、自力でペダルを漕ぐと、電動モーターが動き出して、ペダルを漕ぐ力を軽減してくれます。

つまり電動モーターは、あくまでも補助であって、主力ではないのです。

ポイントは、まずは自分でペダルを踏むことです。

ペダルを踏まなければ、モーターが勝手に動いて、どこかへ運んでくれるわけではありません。

その代わり、その電動モーターの補助力は、かなりのものです。

普段体を鍛えていない人が見れば、これは大変だと思うような坂道でも、モーターが補助してくれるお陰で、すいすいと登って行けます。

普通の自転車であれば、こうは行きません。

すぐにへとへとになって、坂道を登ることを、諦めてしまうでしょう。

これは、人生とよく似ていると思います。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

多くの人が、みんな同じ世界に住み、同じように生きていると、信じているでしょう。

それなのに、自分と他の人たちが違うのは何故だろうと、思うことがあるのではないでしょうか。

あの人ばかり上手く行って、自分はちっとも上手く行かない。
どうしてみんなは、そんなに平気な顔で生きているのだろう。
どうすれば、自分がやりたい事をやって、暮らして行けるのだろうか。

こんな風に考えてしまいますよね。

でも、そんな時、あなたの目には、みんなが同じ自転車に乗っているように、見えているのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

自転車と言っても、いろんな種類があります。

競走用の自転車もあれば、買い物などに使う、いわゆるママチャリと呼ばれる自転車もあります。

電動アシスト付自転車は説明しましたが、ペダルを漕がなくてもいい、電動モーターだけで動く自転車もあるようです。

これではバイクと同じですよね。

そう言えば、50ccバイクを原動機付自転車と呼びますが、これも昔は、本当に原動機が付いた自転車だったのです。

ペダルを漕いでも進めますが、原動機の力だけで動くこともできるのです。

当然、漕がなくても進む方が楽ですから、そのうちペダルがいらなくなり、今のようなバイクの形になったのでしょう。

 ※Hans BennさんによるPixabayからの画像です。

このように自転車と言っても、いろいろあるわけです。

人生を苦もなく進んでいるように見える人は、そうでない人とは、事情が違うのです。

たとえば、親の力を利用して生きている人。

こんな人たちは苦労知らずで、何でも欲しい物を、気ままに手に入れます。

苦労をしないから、他人を気遣うことが、あまり上手ではありません。

彼らの乗る自転車は、アシストではない電動自転車、あるいは原動機付自転車です。

楽に速く移動できる事だけが、自転車の喜びだと信じる傾向が、彼らにはあります。

しかし、親の力がなくなり、自転車のモーターが動かせなくなると、大変です。

自分でペダルを漕ぐことがなかったので、どうやって進めばいいのかもわかりません。

順調だったはずの人生は止まってしまい、途方に暮れるしかありません。

 ※Ben KerckxさんによるPixabayからの画像です。

苦労を重ね、体を鍛えた人は、乗る自転車を選びません。

その時に手に入れた自転車を、自在に乗りこなします。

競争やスピードを楽しむこともありますが、ゆっくりと走って、景色を楽しむこともします。

それでも、思いがけない事故や災害、あるいは病気のために、自慢の自転車に乗れなくなるかも知れません。


周りを見ると、体も鍛えていないし、上等の自転車もないので、ヒィヒィ言いながら、普通の自転車を漕いでいる人が、大半のように見えます。

中には、疲れ切ってしまって、ペダルを漕ぐことを、やめてしまった人もいます。

しかしそんな中に、自分や他の普通の人たちと、見た目は何も変わらないのに、何だか上手く人生を、やり過ごしている人がいます。

そんな人が乗っている自転車こそが、電動アシスト付自転車なのです。

 ※Bicicletas ElectricasによるPixabayからの画像です。

大抵の人は何かやりたい事があっても、でもお金がないからできないとか、そんな事できるわけないよね、なんて考えて、自分で自分にブレーキをかけています。

やってみないとわからない事を、失敗する事を恐れて、初めから結果がわかっているような顔で、自分を制御してしまうのです。

これでは人生を進んでいるようで、立ち止まっているのと同じです。

しかし、自分がやりたい事があれば、ためらいもせずに、そこへ飛び込んで行く人たちは、自分を制御する事はありません。

特に、何かに夢中になっている子供は、みんなそうですね。

上手く行かないようであれば、上手く行く道を探すだけです。

もしかしたら、だめかも知れないなんて、考えないのです。

他の人から見れば失敗のように思えても、その人たち自身は、失敗とは受け止めません。

 ※ChadoNihiさんによるPixabayからの画像です。

たとえば、目の前を絶ち塞ぐ壁があったとします。

多くの人は、もう前には行けないのだと考えます。

でも、この人たちは、そうか、別の道を探れという事か、と受け止めるのです。

他の人たちにとっては、悪い状況に見えても、この人たちには、全てが道しるべに見えるのです。

すると、障害と呼べるものはなくなり、スイスイと進んで行けるのです。

不思議なことに、こんな感じで動いていると、思いがけない所から、いい情報が舞い込んで来たり、力を貸してくれる人が現れます。

なかなか信じられないかも知れませんが、本当にそうなんです。


まずは何があっても、悪く受け止めないようにして下さい。

悪く受け止めなければ、不安が消えます。

不安が消えれば、自分を制御することも、なくなります。

そうして自分がやりたい事に向かって、まっしぐらに進めば、どんどん楽しい方向へ、状況は変わって行くでしょう。

途中で大きな障害が起こったように見えた時は、自分の気持ちがぶれていないかを、見直しましょう。

もし、ぶれていないのであれば、それは新たなステージで、新たな楽しみが待っているという事です。

決して諦めず、人生のペダルを漕ぎ続けて下さい。

きっと、普通だった自転車が、電動アシスト付自転車に、変わっていることでしょう。

 ※Mabel AmberさんによるPixabayからの画像です。

他力本願

辞書によると、他力本願とは、自分の力でなく他人の力によって、望みを叶えようとすることとあります。

しかし、この言葉は元は仏教用語で、他力とは他人の力ではなく、阿弥陀仏の慈悲の働きをいうのだそうです。

生きとし生けるものを、救わずにはおれないという、仏の強い願いの働きが、他力本願なのです。

 ※mikegiさんによるPixabayからの画像です。

一般的には、この言葉を宗教とは関係のない場面で、他力本願ではだめだぞ、というように使います。

でも、これは本来の意味をご存知の方からすると、正しい教えの真逆を、言っていることになるわけです。

ただ、言いたいことはわかりますよね。

自分で何の努力もせずに、他人の力や偶然を、当てにしていてはいけない、ということが言いたいわけです。

言葉の使い方はともかく、言わんとしていることは、間違いではありません。

何かを願うのであれば、自ら行動を起こすこと。

これが一番大切です。

この世界では、願いと行動は表裏一体です。

頭の中で願うばかりで、実際には何もしないのであれば、それは願っていないことと同じです。

願っているのであれば、行動を起こせというのも、本当はおかしなことで、願っていれば、それに応じた行動は、自然に起こるものなのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

たとえば、お腹が空いて何かを食べたいと思えば、何か食べ物を探しますよね。

頭の中で、何か食べたいと考えながら、じっとしているなんて、怪我や病気で動けない人でなければ、有り得ないことです。

それと同じで、本当に願っているかどうかは、その人の行動を見ていれば、わかります。

国民、市民のみなさんのために頑張りますと、選挙のたびに叫んでいる議員の先生方が、当選後にどんな行動を見せるのかは、みなさんもよくご存知でしょう。

さて、他力本願に話を戻しますが、願という漢字が入っているので、これを一般的な個人の願いと、混同してしまうのです。

仏の願いと個人の願いは、全然異なります。

願っている内容の、次元が違いますね。

また、仏が願う方向は、必ずしも現世を生きる人には、受け入れらるとは限りません。

それは一人一人が、生きるということを、どのようにとらえているかで、異なって来るからです。

多くの人が生きて行くために、いろいろと頭を使います。

でも、どうして生きているのだろうか、生きるとはどういうことなのだろうか、ということには、全くと言っていいほど、頭を使いません。

このことに関しては、眠った状態と同じと言えます。

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たとえば、夢の世界にいる時に、大抵の場合は、それが夢だと自覚していませんから、夢の世界の出来事についてだけ、思考を巡らせます。

何でこうなっているのか、なんて考えずに、ただ夢の中の流れに乗って、夢を体験しているだけです。

多くの夢には意味があるのですが、目が覚めても、その意味が理解できません。

ましてや夢の中にいる間は、そんなことがわかるはずもありません。

それと同じ状況が、この世界で生きている人たちに、言えるのです。

みんな、この世界の流れに流されているだけです。

この世界が何なのか、どうしてこんなことをしているのか、さっぱりわからないし、疑問にすら思わないのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

この世界を外から眺めることができたなら、何とかみんなの目を覚まし、本当の理解ができるように、導いてあげたいと思うのではないでしょうか。

おそらくそれが、仏の視点であり、他力本願ということなのだと思います。

しかし、これを宗教的な考えだととらえてしまうと、自分は仏教徒ではないから、関係ないやと考えてしまうかも知れません。

でも、そうではなく、仏教では仏という言葉を用いているけれども、その言葉が示そうとしているものは、何だろうと考えて下さい。

 ※Okan CaliskanさんによるPixabayからの画像です。

仏は心の中にいると、言われています。

その仏という言葉を、自分なりの言葉に、変えてみるといいでしょう。

仏という言葉が、何を伝えようとしているのか。

宗教という枠を越えて、考えてみて下さい。

すると、他力本願という言葉が、仏教徒ではなくても、とても奥深いものだとわかると思います。

パラレルワールドの自分

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

パラレルワールドが無数に存在し、それぞれに別の自分が、存在していると考えて下さい。

全部自分ですから、それぞれのパラレルワールドを離れた所で、一つにつながっています。

本来の自分とは、パラレルワールドの外にあり、それぞれの世界を体験するのは、本来の自分の分身です。

いずれの分身の価値も対等であり、本来の自分にとって、不要な経験はありません。

どんな経験であっても、そこには経験するだけの、価値があるわけです。

さて、ここで今の自分を、振り返ってみて下さい。

自分なんか、少しも大したことはない。
自分の経験なんて、全然価値があるとは思えない。
自分の人生なんて、つまらない。

そう思う人は、結構いるのではないでしょうか。

そう思ってしまう大きな理由は、人生は一回こっきりだと、信じていることです。

一回しかない人生なのに、自分には優れた能力がないし、環境的に恵まれていない。

それを挽回するだけの力もなければ、チャンスもない。

せいぜい他の似たような人たちと、同じ程度の暮らしを、維持できるように頑張るしかない。

きっと、こんな風に考えているのだと思います。

しかし、自分には無数の分身がいるのだとすれば、違う考え方ができるでしょう。

 ※beauty-boxさんによる写真ACからの画像です。

たとえば、自分の家は貧乏で、自分自身も収入に恵まれていないとします。

この場合、お金持ちの自分は、別の世界にいるのであり、自分の人生の目的は、お金持ちであることではない、と考えることができます。

お金持ちはいいように思えるかも知れませんが、お金持ちだからこそ、体験できないことや、見過ごしてしまうことがあるのです。

そういったことを経験するために、あえてお金に縁がない人生を、送っているのかも知れません。

あるいは、お金に困っている状態から、奇跡的に大金持ちになるという、そんな成功物語が待っていることも、考えられます。


一見すると、平凡な人生には、さほどの喜びがないように、思えるかも知れません。

しかし、平凡な人生にも、多くの喜びが隠されているのです。

また、平凡という言葉でひとくくりにしたくなる人生には、人の数だけドラマがあります。

一つ一つのドラマに、同じものはありません。

という事は、実は平凡な人生というものは、存在しないのですね。

平凡という言葉が示すのは、特別目立つことがない、という意味に過ぎません。

でも、人生を満喫するために、目立つ必要はないのです。

 ※Shibaoさんによる写真ACからの画像です。

世の中には、いろんな人生があります。

どの人生にも意味があり、価値があります。

ただ人生を歩む者が、その意味や価値に、気がつくかどうかはわかりません。

もしそうだとしても、それはそれで、大元の自分には、意味があり価値があるのです。

大元の自分は、無数の分身の人生を、全て把握しています。
今の私たちとは、理解度の次元が違います。

私たちには、よくわからない事でも、そこに意味や価値を、大元の自分は見い出せるでしょう。

私たちは、大元の自分の分身として、自分が選んだ人生を、とことん探求して満喫すればいいのです。

自分では何も考えず、周囲の価値観に振り回されっ放しでは、せっかくの人生を味わえません。

それでも大元の自分は、何らかの意味を見出すのでしょうが、せっかくの人生です。
自分の好奇心に従って、自分ならではの人生の楽しみ方を、見つけましょう。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

パラレルワールドに多くの分身がいたとしても、自分が選んだこの世界は、やはり一回こっきりです。

どんな形でこの世界を終えるにしても、決して無駄なことにはなりませんし、人生の価値は残ります。

そういう意味で、人生一回こっきりという事を、悲観的に見る必要はありません。

しかし、直接人生を体験している、自分が不安な状態でいるのは、好ましくないでしょう。

ですから、一回こっきりの人生を大切に、過ごすことが大切です。

そのためには、他人の価値観よりも、自分の価値観を大事にしましょう。

他人の目を気にするのではなく、自分の好奇心に従うのです。

他人が興味を示さなくても、自分が関心を持つのであれば、そこにとことん力を注ぎましょう。

その結果が、仕事やお金に結びつくかなんて、考えてはいけません。

そこに意識を向けてしまうと、好奇心が示す方向から、ずれてしまいます。

そういう事は、あとから勝手に、ついて来るものです。

自分がやりたい事をする。
自分が生きたいように暮らす。
ありたい自分の姿になる。

考えるのは、これだけです。

人生一回こっきりという事実を、ポジティブにとらえ、自分が選んだ今の人生を、大切に育てて下さい。

 ※Nico WallさんによるPixabayからの画像です。

当たり前のこと

日本に暮らすナイジェリアの男性が、拾った財布を交番に届けて、財布が無事に持ち主に戻ったという話が、ニュースの記事に出ていました。

どうしてそんな事が、ニュースの記事になったのでしょうか。

それは、彼がナイジェリアの人間だからです。

でも、ナイジェリアの人が、財布を拾って届け出たことが、日本で話題になったのではありません。

彼の行いが母国のナイジェリアに伝わり、大統領から感謝の言葉が、彼に贈られる事態になったからです。


このナイジェリアの男性は、イケンナ・ウェケさん(38)です。

イケンナさんが育った家庭はとても貧しく、12才の時に、イケンナさんは父親を失くしたそうです。

亡くなったお父さんは、とても誠実な人柄で、「朝、家を出るときに持っていなかったものは、持ち帰らないこと」と、イケンナさんたち子供に、厳しく教えたそうです。

他人をねたまず、自分の置かれた状況に満足することも、イケンナさんは父から学んだと言います。

イケンナさんは、ゴミ拾いなどをして貯めたお金で、高校に進学したものの、大学のお金までは工面できませんでした。

それでも、教員や地元の新聞社のスタッフとして働きながら、将来は大学の教師になるという夢を、持ち続けていたそうです。

そして2013年。
留学生増加のため、日本の文部科学省が実施した、奨学金に申し込んで合格し、イケンナさんは筑波大学へ入ることができました。

今は博士課程まで進み、母国の北東部で襲撃事件を繰り返す、イスラム過激派ボコ・ハラムを研究しています。
どうすればテロを根絶できるのか、その方策を探っているのです。

そんな中、今年の六月に、バスターミナルの近くで拾ったのが、数枚の一万円札とクレジットカードなどが、入った財布でした。

それを警察に届けると、拾ったお金の一割を、もらう権利があると説明されたそうですが、イケンナさんはそれを断ったと言います。

しばらくしてから警察から、落とし主に財布が戻ったという、連絡が入りました。

落とし主からも電話があり、感謝を告げられたそうです。

この出来事をイケンナさんは、フェイスブックに載せました。

と言うのも、その頃、26人のナイジェリア人が、他国でネット詐欺などの容疑で逮捕され、ナイジェリアのイメージが、とても悪くなっていたからです。

それで、イケンナさんはフェイスブックで、全てのナイジェリア人が、悪い人間なのではないと、訴えたのです。

すると、その話が母国に広がり、ナイジェリア大使館から感謝の書簡が、イケンナさんに届けられました。

さらにナイジェリア大統領が、イケンナさんを誇りに思う声明を、発表したのです。

イケンナさんは栄誉なことと受け止めながらも、困惑しました。

自分は財布を拾っただけで、特別なことはしていないのに、こんなに有名になってしまうのは、おかしいと思ったのです。

そこでイケンナさんは、母国の社会を変えたいと考えました。

イケンナさんは財団を立ち上げ、正直であること、清廉であることを、母国の人たちに教えることに決めたのです。

そういった事が母国でも、当たり前になるようにしたかったのです。

そのために日本が子供たちに教えていることや、自分自身が日本で経験したことを、財団で伝えたいと、イケンナさんは考えました。

その話を聞いた財布の落とし主も、イケンナさんの財団への、協力を申し出てくれたそうです。

私はイケンナさんの望みは、きっと叶うものと思います。

きっとナイジェリアも、今よりずっといい国になるでしょう。

でも一方で、私は日本での当たり前を、改めて考えさせられました。

私たちが当たり前と考えていることは、世界全体から見た場合には、当たり前ではないという事です。

それこそ当たり前の話ですし、そんな事は以前から、何度も言われていました。

それでも大統領が声明を出すのは、余程のことでしょう。

でも、日本でも当たり前のことが、当たり前でなくなりつつあるように、感じることがしばしばあります。

イケンナさんの話は、そういった事を改めて考えさせてくれる、いい機会になりました。

イケンナさんに感謝をしつつ、イケンナさんに恥じないような、日本であり続けて欲しいと思います。