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他力本願

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辞書によると、他力本願とは、自分の力でなく他人の力によって、望みを叶えようとすることとあります。

しかし、この言葉は元は仏教用語で、他力とは他人の力ではなく、阿弥陀仏の慈悲の働きをいうのだそうです。

生きとし生けるものを、救わずにはおれないという、仏の強い願いの働きが、他力本願なのです。

 ※mikegiさんによるPixabayからの画像です。

一般的には、この言葉を宗教とは関係のない場面で、他力本願ではだめだぞ、というように使います。

でも、これは本来の意味をご存知の方からすると、正しい教えの真逆を、言っていることになるわけです。

ただ、言いたいことはわかりますよね。

自分で何の努力もせずに、他人の力や偶然を、当てにしていてはいけない、ということが言いたいわけです。

言葉の使い方はともかく、言わんとしていることは、間違いではありません。

何かを願うのであれば、自ら行動を起こすこと。

これが一番大切です。

この世界では、願いと行動は表裏一体です。

頭の中で願うばかりで、実際には何もしないのであれば、それは願っていないことと同じです。

願っているのであれば、行動を起こせというのも、本当はおかしなことで、願っていれば、それに応じた行動は、自然に起こるものなのです。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

たとえば、お腹が空いて何かを食べたいと思えば、何か食べ物を探しますよね。

頭の中で、何か食べたいと考えながら、じっとしているなんて、怪我や病気で動けない人でなければ、有り得ないことです。

それと同じで、本当に願っているかどうかは、その人の行動を見ていれば、わかります。

国民、市民のみなさんのために頑張りますと、選挙のたびに叫んでいる議員の先生方が、当選後にどんな行動を見せるのかは、みなさんもよくご存知でしょう。

さて、他力本願に話を戻しますが、願という漢字が入っているので、これを一般的な個人の願いと、混同してしまうのです。

仏の願いと個人の願いは、全然異なります。

願っている内容の、次元が違いますね。

また、仏が願う方向は、必ずしも現世を生きる人には、受け入れらるとは限りません。

それは一人一人が、生きるということを、どのようにとらえているかで、異なって来るからです。

多くの人が生きて行くために、いろいろと頭を使います。

でも、どうして生きているのだろうか、生きるとはどういうことなのだろうか、ということには、全くと言っていいほど、頭を使いません。

このことに関しては、眠った状態と同じと言えます。

 ※profivideosさんによるPixabayからの画像です。

たとえば、夢の世界にいる時に、大抵の場合は、それが夢だと自覚していませんから、夢の世界の出来事についてだけ、思考を巡らせます。

何でこうなっているのか、なんて考えずに、ただ夢の中の流れに乗って、夢を体験しているだけです。

多くの夢には意味があるのですが、目が覚めても、その意味が理解できません。

ましてや夢の中にいる間は、そんなことがわかるはずもありません。

それと同じ状況が、この世界で生きている人たちに、言えるのです。

みんな、この世界の流れに流されているだけです。

この世界が何なのか、どうしてこんなことをしているのか、さっぱりわからないし、疑問にすら思わないのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

この世界を外から眺めることができたなら、何とかみんなの目を覚まし、本当の理解ができるように、導いてあげたいと思うのではないでしょうか。

おそらくそれが、仏の視点であり、他力本願ということなのだと思います。

しかし、これを宗教的な考えだととらえてしまうと、自分は仏教徒ではないから、関係ないやと考えてしまうかも知れません。

でも、そうではなく、仏教では仏という言葉を用いているけれども、その言葉が示そうとしているものは、何だろうと考えて下さい。

 ※Okan CaliskanさんによるPixabayからの画像です。

仏は心の中にいると、言われています。

その仏という言葉を、自分なりの言葉に、変えてみるといいでしょう。

仏という言葉が、何を伝えようとしているのか。

宗教という枠を越えて、考えてみて下さい。

すると、他力本願という言葉が、仏教徒ではなくても、とても奥深いものだとわかると思います。