立体映画としての世界
みなさんは、お気に入りの映画はありますか。
何度も観たくなるような映画では、主人公や登場人物と気持ちを一つにして、自分がその人物になったような気分になるでしょう。
創られた物語であることがわかっているのに、主人公たちを襲う危難にハラハラし、涙するのは、心情的に主人公たちと、一体化している証だと思います。
最近の映画館で観る映画は、3D映像で上映することがあります。
映像を立体化するだけでなく、音響に合わせてイスが振動したりと、臨場感たっぷりです。
街中を歩いているシーンなどでは、自分も映像の中の街に、いるような気分にさせられます。
それでも映像を観ている自分と、映像の中の人たちとは、別々の存在であることを、私たちは自覚しています。
いくら映画に夢中になっていても、映画を観て楽しんでいるという、感覚が残っています。
コンピューターゲームのような、バーチャル世界だと、自分自身が映像の中に、入り込んだ感覚があるでしょう。
でもゲームの中では、自分が何もしなければ、自分が置かれた環境は、いつまでも同じままです。
しかし映画の場合は、ストーリーがあり、黙っていても話が進んで行きます。
それに合わせて、画面はどんどん変わり、観客はその変化に対して、為す術がないまま、登場人物が状況に翻弄される様子を、共に体験するだけです。
もし立体映画の中に、バーチャルゲームのように入り込めたら、どうでしょうか。
あなたは映画の中の登場人物と、まさに一体化するのです。
ただし、いろんな場面で何を感じ、どう考え、どんな行動を取るのかは、登場人物に任されています。
あなたは登場人物の心になりきって、登場人物の心の動きを、自分の心の動きだととらえて体験します。
それは夢の世界にいるのと同じで、実は自分が映画を鑑賞しているのだということなど、すっかり忘れているでしょう。
何かを考えているつもりでも、実はそれは登場人物の考えであって、あなた自身のオリジナルの考えではありません。
でも、その事にあなた自身は、まったく気がつかないのです。
そんな状態を、想像できるでしょうか。
何かを考え、行動しているつもりなのに、実は自分は何も考えていないし、行動もしていないのです。
あなたはただ黙って、その人物と経験を、共有しているだけなのです。
そして、私たちが経験しているこの世界が、まさにそのような立体映画なのだとしたら、どうでしょうか。
そんなことないよ、私は自分で考えてる。
そう反論したくはなるでしょう。
でも、果たしてそれは真実でしょうか。
そう考えることも、実は想定されているだけなのかも知れません。
どうして、こんなことを言うのかといいますと、自分という概念について、考えて欲しいからなのです。
この世界を疑い、この世界とは別に存在している、自分というものを、想定できたとすれば、それはあなたのオリジナルの思考でしょう。
映画の中の人物が、他の世界について、思いを馳せるように、想定されていたとしても、実際に他の世界について、理解することはありません。
他の世界を理解できるのは、その世界とのつながりを、感じられる者だけです。
本当の自分はこの世界の外にいて、今はこの世界を体験しているだけだと、イメージできたとすれば、それはあなたのオリジナルの思考だと言えます。
その状態で、この世界を体験するのは、夢を夢だと自覚して、見ているようなものです。
ほとんどの人は、そんなことなど考えもしないでしょう。
それは元の意識はぐっすり眠ったまま、夢の世界でもがいているのと同じです。
夢を夢だと自覚できれば、夢の内容をコントロールすることが、できるようになります。
でも、自覚できなければ、夢の中の動きに、翻弄されるだけです。
もし、あなたが今の世界で、周囲の状況に翻弄されているように、感じていたならば、それはこの世界に、どっぷり浸かり過ぎているということです。
この世界にいる自分を、離れた所から客観的に眺めるようにすれば、状況をコントロールできると思います。
それは自分が体験している立体映画を、別のストーリーのものに変えられるということです。
辛いことばかりだった映画が、楽しい映画に変わるのです。
生きているのが嫌になる映画が、ずっと生きていたいと思う映画になるのです。
今の自分の考えや価値観が、本当に自分のものなのか、今一度考えて見て下さい。
たとえ、そうやって考えることが、想定された思考だったとしても、それをジャンプ台にして、本来の思考を、取り戻すことができるでしょう。